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2015年7月

2015年7月30日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-17)

現行版第5編第28章該当箇所の草稿の解読

(2) 各パラグラフごとの解読(続き)

【30】 (これは331頁の上段途中から書かれており、よって本文である。つまりこのパラグラフは【27】の本文に直接続いているものである)

 〈/331上/《イングランド》銀行はすべての貸付と割引とを自行の銀行券で行なうので,これらの銀行券がどうなるのか,ということが問題となる。私営銀行業者の場合には事情が異なる。なぜなら,彼らはそのような場合に,イングランド銀行券を自分自身の銀行券の代わりとすることができるからである。〉

 マルクスはここから【27】で指摘した銀行学派に〈決定的な役割を果たしている〉事実、すなわちイングランド銀行においては有価証券の保有高と銀行券の流通高とが反対の方向に動くという現象--フラートンがその引用文(原注の【29】で最初に問題している現象--の本格的な検討に入っていく。すなわちそうした現象をもたらしている理由は何なのかを明らかにしようとするのである。このパラグラフではまずその問題提起をしている。とりあえず平易な書き下し文を示しておく。

 〈《イングランド》銀行の場合は、すべての[担保]貸付と[手形]割引とを自行の銀行券、すなわちイングランド銀行券で行うので、これらの発行された銀行券がどうなるのか、ということが問題となる。なぜなら、このように貸し付けられて銀行券が発行されるのに、その流通高がむしろ減っているという現象を銀行学派が問題にしているからである。なぜそうした現象が起きるのか、それは銀行学派が主張するような理由からそうなっているのか、を解明するためには、貸付や割引で発行された銀行券が実際はどうなるのかをわれわれは追究しなければならないからである。
 私営銀行業者の場合には事情が異なる。逼迫期にはそもそも彼らは自行の銀行券ではもはや貸付も割引もできないのであって、だからイングランド銀行券を自分自身の銀行券の代わりとするのだからである。だから私営銀行業者の場合には、彼らの銀行券がどうなるか、といったことは問題ではないのだ。
 だからわれわれがこれから問題にしなければならないのは、イングランド銀行の場合にはその発行する銀行券がどうなるのかということなのだ。〉

 マルクスは最初に《イングランド》銀行はすべての貸付と割引とを〉云々と述べている。すなわちわれわれはここでも、先に紹介した論争に関連して指摘すれば、マルクスはやはり「担保貸付」も「手形割引」も両方を問題にしていると言えるだろう。とりあえず、それを再度確認しておこう。
 またマルクスは〈私営銀行業者の場合には事情が異なる〉と述べて、以下分析する対象がイングランド銀行における問題であることをここで断っている。このこともわれわれはしっかり確認しておかなければならない。

【31】 【30】に続く本文である)

 〈まず第lに,「貨幣融通にたいする需要」が国際収支の逆調から,したがってまた地金の流出から生じたものである場合には,事柄は非常に簡単である。手形が銀行券で割引される。この銀行券が地金と交換され,その地金が輸出される。それはちょうど,同行が手形割引で直接に,銀行券の媒介なしに,地金を支払ったのと同じことである。このような増大する需要--場合によっては700万ポンド・スターリングから1000万ポンド・スターリングにも達する--は,もちろん,国内Circulationには1枚の5ポンド券をも追加しない。イングランド銀行はこの場合には資本を前貸しするのであって流通手段means of circulation〕を前貸しするのではない,ということには,二重の意味がある。第1には,同行は,信用ではなく現実の価値を,自分自身の,または自分に預金された資本の一部を前貸しするのだ,ということである。他方では,同行は,国内circulationのための貨幣ではなく国際Circulationのための貨幣を,世界貨幣を,前貸しするのだ,ということである。そしてこの形態では,貨幣はいつでも蓄蔵貨幣としての形態で,その金属製の肉体で存在しなければならない。この形態では貨幣は,ただ価値の[513]形態であるだけではなく,この貨幣を自分の貨幣形態とする価値に等しいのである。ところで,この金は,銀行にとってであろうと輸出商人または地金取扱業者にとってであろうと資本,すなわち銀行業者資本または商人資本を表わしているとはいえ,需要は資本としての金にたいしてではなく貨幣資本の絶対的形態としての金にたいして生じる。この需要は,まさに,外国市場がイギリスの実現不可能な商品資本で行き詰まっているような瞬間にこそ,生じるのである。だから,求められるものは,資本としての資本ではなく,貨幣としての資本である。すなわち,貨幣が一般的な世界市場商品として取る形態にある資本である。そしてこれは,貴金属という,貨幣の本源的な形態である。だから,流出は,フラ一トン, トゥック等々が言うのとは違って,「たんなる資本問題」ではない。そうではなくて,それは貨幣の問題である。1つの独自な機能における貨幣の問題だとはいえ,とにかく貨幣の問題である。通貨説の奴ら〔d.currency Kerls〕が考えているようにそれが「国内 circulation」の問題ではないということは,けっして,フラ一トン等々が考えるようにそれがたんなる「資本の問題」だということを証明するものではない。それは,貨幣が国際的支払手段として取る形態における貨幣の問題である。資本が商品で移転されるか正貨で移転されるかということは,取引の本性には少しも触れない点である」(c) が,しかしそれは,流出が生じるか生じないかという事情には非常に大きく影響する。資本が「正金の形態で移転される」のは,「商品の形態で移転される」ことがまったくできないか,またはきわめて大きな損失なしにはできないからである。現代の銀行制度が「地金の流出」にたいして感じる不安は,かつて重金主義が,唯一の真の富《としての》地金について夢想していたいっさいのことをはるかに凌駕する。たとえば,イングランド銀行総裁モリスが次のように質される。--||332上|第3846号。④ 「《私は在庫品や固定資本の減価のことを言っているのですが,》この場合,あなたは,あらゆる種類の在庫品や生産物に投下されているすべての資産が同じように減価していたということ,原綿も生糸も原毛も同じような捨て値で大陸に送られたということ,また,砂糖やコーヒーや茶が強制売却のときのように犠牲にされたということをご存じないのですか?--食糧の大量輸入の結果として生じた地金の流出に対処するためにこの国が多大の犠牲を払わなければならなかったのは,避けられないことでした。」第3848号。「あなたは,このような犠牲を払って金を回収しようとするよりも,イングランド銀行の金庫にあった800万ポンド・スターリンクに手をつけるほうがましだった,とはお考えになりませんか? --いいえ,私はそうは考えませ。」 (a)金こそは,ここで唯一の本質的な富とみなされているものである。/

 ① 〔注解〕ジョン・フラ一トン『通貨調節論……』,ロンドン, 1845年。130ページには次のように書かれている。--「実際,これは通貨の問題ではなくて,資本の問題である。」
 ② 〔注解〕この引用での強調はマルクスによるもの。
 ③ 〔注解〕重金主義者たちは,封建的な現物原理と小商品生産者の消費志向に対立して,金銀--すなわち貨幣--を,富の唯一の形態だと,だからまた,あらゆる経済的活動とあらゆる社会的努力の最も重要な目標でもあるのだと,判定した。売るために生産することが,貨幣を流通から引き揚げるために売ることが,重金主義の基本志向であった。だから重金主義者は外国への金流出にも反対した。彼らによって基礎づけられた経済政策的諸活動の一つは金銀輸出の厳格な禁止だったのである。--カール・マルクス「経済学批判』〈1861-1863年草稿〉を見よ (MEGA,II/3.2,8 .619-620)。
 ④ 〔注解)「ロンドン・ノート, 1850-1853年」,第7冊 (MEGA,IV/ 8,S.263,Z.23-33),から取られている。--(MEGA,II/4.2,) 481ページ23-32行を見よ。「商業的窮境……にかんする秘密委員会第1次報告書』,1848年6月8日。〔ここで指示されている箇所は,現行版では,第26章のはじめのほうに収められている (MEW,Bd.25,S.431)。(拙稿 「「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25 章)の草稿について(下)」,『経済志林』,第51巻第4号,1984年,45ページ,所収。)〕

 ここから貸付や割引で発行されたイングランド銀行券はどうなるのかを具体的に分析していくのであるが、マルクスはまず最初にその「貨幣融通にたいする需要」が国際収支の逆調から生じる場合について取り上げている。なおこの金の流出に伴う場合の分析は【35】の終わり近くまで続いている。それではまず平易な書き下し文を示しておこう。

 〈さてわれわれは貸付や割引で発行されたイングランド銀行券がどうなるのかを具体的に見ていくのだが、そうした貸付や割引の要求、つまり「貨幣融通にたいする需要」が国際収支の逆調から、だから地金の流出から生じたものである場合について検討しよう。この場合は事柄は非常に簡単である。
 この場合は、まず手形が銀行券で割引される、つまり業者が持ち込んだ手形に対して、イングランド銀行(銀行部)は満期までの利子分を差し引いた額の銀行券を譲渡する。業者はその銀行券をイングランド銀行(発券部)に持ち込んで地金に交換し、その地金を輸出する。確かにこの場合は発行された銀行券はすぐに銀行に帰ってくる。それはちょうど、イングランド銀行が手形割引で銀行券の媒介なしに、直接地金で支払ったのと同じことである。もし直接地金で支払ったなら、その場合は当然、銀行券は一枚も発行されないわけだ。だからこの場合はいくら貸付や割引が増えても(すわなちイングランド銀行の有価証券の保有高が増加しても)銀行券の流通高は増えないのは当然であろう。
 だからこのような国際収支の逆調から生じる増大する需要--それは場合によっては700万ポンド・スターリングから1000万ポンド・スターリングにも達する--は、もちろん、国内の銀行券の流通高には1枚の5ポンド券も追加しないのである。
 このような事態を銀行学派は、イングランド銀行はこの場合には資本を前貸しするのであって流通手段を前貸しするのではないのだ、と説明する。つまり資本を前貸しするから、銀行券の流通高には何の影響も及ぼさないのだと説明するのである。
 しかしこの場合、資本の前貸しであって流通手段の前貸しでないという銀行学派の言い分を検討すると、そこには二重の意味があることになる。
 一つは、すでに原注でも検討したように、彼らが「資本」という言葉で何を考えていたかを考えてみれば、イングランド銀行は、信用ではなく現実の価値を、自分自身の、または自分に預金された資本の一部を前貸しするのだ、という意味である。そしてこの場合は金地金を貸し出すことになるのだから、確かに彼らの理屈からいえば「資本」の前貸である。
 もう一つは、この場合は、イングランド銀行は、国内流通のための貨幣ではなく国際流通のための貨幣を、つまり世界貨幣を、前貸しするのだ、という意味である。そしてこの形態では貨幣はいつでも蓄蔵貨幣としての形態であり、地金というその金属製の肉体で存在しなければならない。そしてこの地金形態では貨幣は、ただ価値の形態、つまり価値が目に見える形として現れているというだけでなく、この貨幣を自分の貨幣形態とする価値に等しいのである。つまりそれ自身が価値そのものであり、その国民的制服の如何を問わず如何なる国の貨幣形態ともなりうるものでなければならない。
 ところで銀行学派は、この金の前貸しは資本の前貸しだという。確かにこの金は、銀行にとってであろうと輸出商人または地金取扱業者にとってであろうと、彼らの資本、すなわち銀行業者資本または商人資本を表している。なぜなら銀行業者にとっては金の前貸しは彼自身の資本の前貸しであるし、輸出商人や地金取引業者にとっては、彼ら商人資本の循環の一形態だからである。しかしこの場合の需要、つまり前貸しの要求は単に資本としての金に対してではなく、貨幣資本の絶対的形態としての金に対して生じるのである。なぜなら、この需要は、まさに、外国市場がイギリスの実現不可能な商品資本で行き詰まっているような瞬間にこそ生じるものだからである。つまり輸出された商品が実際には売れなくて、その代金が回収できないのに、にも関わらずそれを作るために輸入した原材料の代金の支払が迫っているために、その支払に必要な貨幣の融通を受けようという需要なのである。だから求められているものは、これから事業を展開しようというような資本としての資本ではなく、すでに展開した後の決済に必要な貨幣としての資本である。すなわち、この場合、貨幣は一般的な世界市場商品として取引されるような形態にある資本なのである。だからそれは、貴金属という貨幣の本源的な形態でなければならないのだ。
 だから、この金の流出は、フラートンやトゥック等が通貨学派を批判していうのとは違って、「たんなる資本問題」ではないのだ。そうではなくて、それは通貨学派のいうような意味ではないが、やはり貨幣の問題である。一つの独自な機能における貨幣の問題だとはいえ、とにかく貨幣の問題なのだ。だから銀行学派の、それが「資本の前貸」だから通貨の増発にならないという通貨学派に対する批判は、理論的にはやはりこの場合でも、つまり地金流出の場合でも間違いなのである。
 通貨説の奴ら(通貨学派)が考えているようにそれが「国内」問題(つまり国内の通貨の増発につながる云々)ではないということは、決して、フラートン等々が考えているようにそれがたんなる「資本の問題」だ(「資本の前貸」だからだ)ということを証明するものではない。それは貨幣が国際的支払手段としてとる形態という意味で貨幣の問題なのである。
 もちろんフラートンがいうように、海外から穀物を輸入する場合、その代金として支払う「資本が商品で移転されるか正貨で移転されるかということは、取引の本性には少しも触れない点である」が、しかしそれは地金の流出が生じるか生じないかという事情には大きく影響する。資本が「正金の形態で移転される」のは、「商品の形態で移転される」ことがまったくできないか、またはきわめて大きな損失なしにはできないからである。なぜなら地金での支払を必要とする時は、先にも言ったように、外国市場がイギリスの輸出商品で溢れ返り、商品が売れず代金が回収できないのに、原材料の料金の支払に迫られている時だからである。だからそれ以上の商品の輸出は、ただ損を覚悟の投げ売りしかないであろう。
 現代の銀行制度では準備金はイングランド銀行に集中され、それが現代の信用制度の軸点をなしている(なおこの部分の詳しい説明は、すぐあとの
【35】でされる)。だからその「地金の流出」にたいして感じる不安は、かつて重金主義が、唯一の真の冨としての地金について夢想していたいっさいのことをはるかに凌駕する。
 例えば、イングランド銀行総裁モリスが次のように質される。
 第3846号。「《私は在庫品や固定資本の減価のことを言っているのですが、》この場合、あなたは、あらゆる種類の在庫品や生産物に投下されているすべての資産が同じように減価していたということ、また、原綿も生糸も原毛も同じような捨て値で大陸に送られていたということ、また、砂糖やコーヒーや茶が強制売却のときのように犠牲にされたということをご存じないのですか?--食料の大量輸入の結果として生じた地金の流出に対処するためにこの国が多大の犠牲を払わなければならなかったのは、避けられないことでした。」
 第3848号。「あなたは、このような犠牲を払って金を回収しようとするよりも、イングランド銀行の金庫にあった800万ポンド・スターリングに手をつけるほうがましだった、とはお考えになりませんか?--いいえ、私はそうは考えません。」(a)
 金こそは、ここで唯一の本質的な冨とみなされているものである。〉

 このパラグラフは長いので、もう一度、要点をまとめておこう。
 まずマルクスの問題意識は、フラートンらが問題にしているイングランド銀行の有価証券の保有高と同行の銀行券の流通高とが反対の方向に動くという現象の背後には何があるのか、ということである。それは果たしてフラートンらがいうように、同行の貸出が「資本の貸出」だからなのかどうか、もしその主張が誤っているとするなら、どういう点で誤りなのか、を検討するのが、以後、一連の本文におけるマルクスの分析の課題なのである。マルクスはそれを国際的な流通と国内的な流通にわけ、1)イングランド銀行の貸出が地金の輸出のためになされる場合と2)それ以外の手形割引や担保貸付によって貸し出される場合という二つのケースに分けて検討し、なぜ貸し出された銀行券がすぐに銀行に還流してきて、流通高に影響しないのかを解明しようとするのである。その1)がまずこのパラグラフから検討されている。
 だからこのパラグラフでは、同行の貸出が地金の輸出のためのものである場合だけを取り上げている。この場合は、結局、貸し出された銀行券は貸付を受けた業者によってすぐに地金に交換するために銀行に持ち込まれるので、それがどれだけ増えようが、銀行券の流通高にはまったく影響しないのは明らかだと指摘している。
 しかしそのことはフラートンらの言っている理由が正しいことを少しも意味しない。というのは、地金を輸出するというのは、まさに輸出入業者や資本家が輸出した商品の代金の回収ができないのに、原材料等の輸入代金の支払に迫られていることを示しており、彼らが必要としているのは単なる資本ではなく、国際的な支払手段である世界貨幣としての金であること、その意味ではそれは単なる「資本の問題」ではなく、あくまでもその限りでは貨幣の問題なのだというのがマルクスの批判点である。だからこの点でもフラートンらの主張は正しくないことが示されたのである。
 さらにマルクスは地金流出が現代の信用制度にとってどれだけ重大な意味をもっているかも指摘している。しかしこの問題については、次の【35】でさらに詳しい指摘があるので、そこで検討することにしよう。またこれに関連して重金主義についても述べているが、それは注解③を見れば明らかなので、これ以上の説明は不要であろう。ただ注解の最後に1861-3年草稿の参照箇所が示されているので、その部分を参考のために紹介しておこう。草稿の当該箇所には次のようなマルクスの説明がある(下線はマルクスの強調箇所)。

 〈重金主義が金銀に熱中するのは、金銀が貨幣であり、交換価値の独立の定在、手でつかみうる存在であり、また、それが流通手段となって商品の交換価値の単なる消滅的形態となることを許されないかぎり、交換価値の不滅な永続的存在だからである。それゆえ、金銀の蓄積、堆積、貨幣蓄蔵が、重金主義者の致富方法なのである。〉(『資本論草稿集』(5)465-6頁)

(以下、続く)

2015年7月28日 (火)

林理論批判(11)

 〈『プロメテウス』第55・56合併号の批判的検討ノートNo.2〉

「科学的社会主義の真髄し今明らかに--労働者に身近な「社会主義における『分配』と『消費』の問題」(林紘義)の批判(続き)

●〈例えば、資本の流通過程にとらわれた観念でもって、第一部門(生産手段を生産する部門)の「vとm」(可変資本部分と剰余価値部分)が第二部門(消費手段を生産する部門)の「c」(不変資本部分)と交換されれば、社会主義の分配は解決されるといった、本人さえも論証もできなければ、また信じることもできないような"迷論"に固執した人たちが何人かいたが、しかしこの両部門の「交換」といったものは、価値形態をはぎとってみれば、単なる生産手段と消費手段の「物々交換] であって、そんなものによって、社会主義の「分配」ができるはずもないことは、それを現実に適用しようとしてみればたちどころに明らかになるだろう。〉(6頁)

 これは問題をわざと混乱させて論じているのである。そもそも再生産表式は「再生産」の表式と言われているように、社会的な総再生産過程を考察しているものである。だから、個々人が支出した労働に応じてどのようにして「分配」を受けるかといったことが直接問題になっていないことは明らかである。そもそもこうした〈"迷論"〉なるものが、果たしてそれを主張したとされている人たちの主張を正しく正確に言い表したものかも疑わしいのであって、林氏は意図的に、論争相手の主張を正確に紹介せずに、それを戯画化した上で、批判するという手法を駆使して論を展開するので、眉に唾をつけて読まなければならない。
 〈この両部門の「交換」といったものは、価値形態をはぎとってみれば、単なる生産手段と消費手段の「物々交換] であって、そんなものによって、社会主義の「分配」ができるはずもない〉と林氏は言うのであるが、〈価値形態をはぎとってみ〉るということは、社会主義的な生産における部門Ⅰと部門IIの関係ということを問うことであるが、しかし、そのことは決して、〈単なる生産手段と消費手段の「物々交換] 〉になる筈もないのである。この問題について、少し考えてみよう。
 すなわち、再生産表式で表されるⅠ(v+m)=IIcの関係は、社会主義の再生産では何を表しているのかということである。
 まずⅠ(v+m)のうち、まずⅠ(v)は、前年度に生産された生産手段のなかで、第II部門つまり消費手段の生産部門で生産手段として役立つ生産物の一部分を表している。だからそれらは第II部門のさまざまな生産部門にそれぞれの使用価値にもとづいて(というのは使用価値というのはそれによって社会的な分業の網の目を表しているのだから)、それぞれ必要な部門に必要な量が配分されなければならないことを表している。Ⅰ(m)は、部門IIでストックとして一定の保険のためや将来の人口増加に備えて消費財を過剰に生産しなければならない部門で使用される予定の生産手段を表している。だからそれらもそれらの使用価値にもとづいて第II部門のそれぞれの必要な部門に必要な量だけ配分されなければならない。(なお、この考察は厳密に言うと若干問題があるのであるが、しかし、とりあえず、われわれは『資本論』の再生産表式を前提して論じているので、このように論じておく)。
 これに対して、IIcは前年度に生産された消費手段の全体のなかで、部門Ⅰで働く人たちの消費財全体を表している。しかし、もちろん、この消費財は社会全体の欲望にもとづいて生産された一部分であり、その諸使用価値とそれぞれの量は、経験的に社会が知りうる欲望の全体の内容とそれぞれの量にもとづいて生産されているのであって、あくまでもその量的比率として、それが第I部門の労働者全体に割り当てられるに相当するものだということが分かっているだけであろう。なぜなら、第I部門の労働者と第II部門の労働者で消費する使用価値の種類や量が異なる筈もないからである。それらはあくまでも社会全体の諸欲望の問題でしかないのである。
 しかし、将来の社会では、合理的に社会の総労働を配分しければならず、それはやはり生産分野の区別として、第I部門にどれだけ、第II部門にはどれだけという形での区別があるのは当然のことであろう。そしてそれによって社会は第I部門で必要な全体としての労働量を知るのであり、だからそれに応じた必要な消費財の全体量も分かるのである。IIcはただそうした割合を表しているだけで、それ自体には実際的な内容はないであろう。第I部門で働く労働者であろうが、第II部門で働く労働者であろうが、彼らは何の区別もなく、それぞれに必要な(それぞれの欲望にもとづいて)、自らが与えた労働量に対応した消費財を社会の保管庫から、自らへの「分配」として引き出すだけである。
 このように社会主義の〈現実に適用〉するために、再生産表式のⅠ(v+m)=IIcの関係から〈価値形態をはぎっとってみ〉ても、決して林氏がいうような〈単なる生産手段と消費手段の「物々交換] 〉などにはならないことが〈明らかにな〉ったのである。

●〈マルクスの再生産表式の関係は、基本的に、ブルジョア相互の関係を、彼らの商品(商品資本) の流通における関係を表示しているだけであり、労働者(生産者)の社会主義における消費の関係、もしくは社会主義における「分配」の関係とは全く別個のことであって、我々が課題としてきた、「価値規定(労働時間)による分配」はいかにして可能かという問いに、直接には何も答えられないのは一見して明らかである。一体、第一部門の機械などを生産する労働者が、第二部門のブルジョアから消費手段を買うといったことが、いかにして、またなぜ、社会主義の「分配」なのか。社会主義だから「買う」のではなく、「交換」するのだ、と言って見ても、こんな形での「解決」が一つの空文句でしかないのは余りにはっきりしている。〉(7頁)

 これもある意味では無茶苦茶な議論なのである。まず〈マルクスの再生産表式の関係は、基本的に、ブルジョア相互の関係を、彼らの商品(商品資本) の流通における関係を表示しているだけ〉というのは、これは林氏の従来からの説であって、かつては林氏は、次のように言っていたのである。

 〈林はいわゆる「再生産表式」というものはない、そう言われているものは日和見主義者やスターリン主義者たちが言いはやしてきたものに過ぎない、そもそも第二巻は「資本の流通過程を分析しているのであって、「生産過程」なるものは第一巻の課題である、いわゆる「再生産表式」といわれているものは、むしろ「生産過程」のいわば前提として、その準備の過程としての商品(商品資本)の流通の問題である(流通過程の枠内の問題だ)、それを「再生産表式」だと理解して、不合理で、無理な理屈を持ち出すなら、それは途方もない愚劣さとナンセンスに行き着くしかない、と田口〔騏一郎〕に繰り返し言うのですが、田口は決していうことに耳を傾けず、それは「再生産表式」だと言い張ってやみません。問題の出発点からずれていて、まともなことを言えるはずもありません。〉(通信No.14〔第9期〕)

 これについては、すでに私は以前、「資本の流通過程」がどうして「資本の再生産過程」として考察されなければならないかについて論じておいたが、もう一度、それをここに採録しておこう。

 【林氏は、第2巻では「資本の流通過程」が問題になっており、第1巻では「資本の生産過程」が問題になっていることを知っている。しかし、「資本の流通過程」で問題になっているのは、単に「生産過程」ではなく、「再生産過程」であることを知らない。そして「資本の流通過程」がどうして「資本の再生産過程」として現れるのか、ということを知らない林氏は、そのことによって、実は、そもそも「資本の流通過程」なるものがどういうものかも知らないことを暴露しているのである。
 というのは「資本の流通過程」が「単純な商品流通」と違うのは、それが循環として(それが何度も繰り返されるのが回転なのだが)現れるところにあるからである。マルクスは次のように「単純な商品流通」と「資本の流通」との相違について述べている。

 〈ある商品の売りが貨幣を持ってきて、それを他の商品の買いが再び持ち去れば、それで循環W―G―Wは完全に終わっている。……これに反して、G―W―Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって制約されている。この還流がなければ、操作が失敗したか、または過程が中断されてまだ完了していないかである。……
 循環W―G―Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一商品の極で終結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。それゆえ、消費、欲望充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。これに反して、循環G―W―Gは、貨幣の極から出発して、最後に同じ極に帰ってくる。それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。〉(『資本論』ME全集第23巻a195頁)

 つまり「単純な商品流通」は一回限りの循環であり、その目的は使用価値であるのに対して、「資本の流通」というのは、その循環が繰り返されるところに特徴あり、しかもその目的は交換価値、しかも増殖した価値でなければならないということである。G-W-G’こそ「資本の流通」を特徴づけるものである。だからこそ、ここには不可避に「資本の生産過程」がその契機として含まれている。なぜなら、第2巻では、第1巻の分析を前提しており、価値の増殖は生産過程においてのみなされることを知っているからである。だからこそ「資本の流通」であるG-W-G’は、価値の増殖を可能にする生産過程を不可避に含んでいるのである。そしてそれが繰り返されるなら、総過程は「資本の再生産過程」として現れ、資本は循環ごとに剰余価値を産み落とし、その飽くなき貨幣渇望を満たそうとするのである。
 だから「資本の流通過程」が、「資本の再生産過程」として現れざるを得ないのは、「資本の流通過程」そのものの特徴から説明されるのである。だからこそわれわれは「資本の流通過程」では、その流通過程にある「貨幣資本」や「商品資本」だけではなく、生産過程にある資本である「生産資本」も考察の対象にしなければならないし、してきたのである。
 マルクスは古典派経済学、特に重農主義が〈流通過程を資本主義的再生産過程と同一のものとして把握したことはその偉大な功績である〉(第2部初稿、大谷他訳『資本の流通過程』大月書店、39頁)と述べている。とするなら、「資本の流通過程」に、ただ流通過程のみを見て、「資本の生産過程」と切り離す林氏は重農主義にも及ばない、ただの反動か、あるいはただの俗物でしかないということである。
 われわれは、マルクス自身の説明を見てみることにしよう。マルクスは第2部初稿において、「資本の流通過程」がどうして「資本の再生産過程」として現れるのかを次のように説明している。少し長いが引用する。

 〈いま、全体を、資本の流通過程の総体を、すなわち変態列を考察すれば、次のことが明らかになる。
第一に、流通部面生産部面とは切り離されており、それに対応して、同じ資本でも、資本が流動資本であって、商品資本および貨幣資本という両形態で流通する前者の部面にある資本にたいして、後者の段階にある資本は生産資本として規定されている。しかし、第二に、総過程を考察すれば、両段階は、資本が通過する同一の過程の諸段階として、ただ、相異なる、相互に移行しあい、相互に条件づけあっている諸段階としてのみ現われる。形態(1)では、本来的な流通過程が進行する両段階、G-WとW-Gとが、一方は、その中間にあってそれらを中断しかつ媒介する生産過程の先行者として、他方はその後続者として現われる。形態(2)および(4)では、逆のことが生じているのであって、生産過程を媒介し中断すると同時に、生産過程を準備しかつ継続させるものとして現われるのが、本来的な流通部面でなし遂げられる総変態、W-G-Wなのである。最後に、形態(3)では、たがいに補いあう両段階からなる本来的な流通過程が、生産過程の連続性のたんなる中断および媒介として現われる。形態(1)では、ただ価値のみが、しかもその貨幣形態が--もっとも、貨幣自体は、それがある特定の商品として存在し、それ自体が商品=Wであるかぎりでは、他の三つの形態の契機でなければならないのであるが--再生産されて現われる(ただたんに自己増殖する価値として、しかも貨幣形態というこの価値の自立的な形態で、再生産されて〔現われる〕)。他のすべての形態では、流通過程の全体は、商品が生産過程において通過する変態をも含む諸変態の列として現われるのであり、そして、その〔変態〕列は、資本をそのいろいろな形態規定性--商品、貨幣、生産過程--において再生産する過程として、剰余価値と資本をそのいろいろな契機において生み出す過程、資本の物質的実体および資本のいろいろな形態を再生産する過程として〔現われる〕。しかし、同時に、この再生産過程は、たんに諸変態の、連続する諸段階の--資本は一方の段階を捨てると同時に他方の段階に進み、またその逆を行なうという--円環運動としての流通過程であるだけではなく、資本のいろいろな諸契機がそれの持ち手を変える一列にならんだ交換行為としての流通過程でもある。それ自体を考察すれば、資本は、これらの交換行為にともなわれて、諸段階を次々と通過してゆきふたたびその出発点にもどってくるという運動を行なう。そのかぎりでは、総再生産過程流通過程であり、資本自体は、本来的な流通部面と生産部面との両方の部面を通って流通する流動資本である。他方では、流通過程は再生産過程である。なぜなら、本来的な流通部面にかかえこまれている運動をも含むこの総運動のなかでのみ、資本は資本として自らを再生産しうるのだからであり、その本来的な流通行為自体が資本の再生産の諸契機ですら、またいろいろな形態での資本の再生産行為ですらあるのだからである。しかし、第三には、資本がこのように本質的に流通しつつあるものであるとすれば、資本の流通過程の全体・イコール・いろいろな段階を通っての資本の再生産の運動であるかぎり、資本は、それぞれの契機のうちに固定されているのである。資本は、それが商品資本として固定されているかぎりでは、貨幣資本ではない。資本は、それが生産資本として生産部面に固定されているかぎりでは、商品資本でもなければ、貨幣資本でもない。資本の再生産過程を条件づけているのは、この区別とこうした区別の解消、その流動なのであり、そして、資本がこれらの諸部面の一つにあまりにも長く姿を見せているか、あるいは見せないでいるか、あるいはそこから出てくるにしても無理を重ねて出てくるということになれば、資本の再生産過程は、多かれ少なかれ撹乱されるかあるいはまったく阻止されるかするのである。〉(上掲初稿53-4頁、下線はマルクスによる強調)

 だから「資本の流通過程」が、「資本の再生産過程」として現れるのは、何も第3編の「社会的総資本の流通」が問題になっているところ、あるいはそれが「再生産の表式」として考察されているところだけの話ではなくて、第1編の「資本の循環」や第2編の「資本の回転」が問題になっているところでも、常に「資本の流通過程」は、「資本の再生産過程」として問題になっているのである。ある意味では、こんな初歩的なことさえ、林氏にとってはどうも分からないことであるらしいのである。マルクスに依拠せず、自分の頭で考え始めた林氏は、およそチンプンカンプンなことしか考えられない存在にどうやらなってしまったようである。こんな“指導者”に引き回される組織こそほんに哀れではないか。】

次に問題になるのは、次のような主張である。

 〈マルクスの再生産表式の関係は、……労働者(生産者)の社会主義における消費の関係、もしくは社会主義における「分配」の関係とは全く別個のことであって、……〉

 もちろん、マルクスの再生産の表式が、直接、社会主義について論じているものではないことは改めて確認するまでもないことであろう。しかし、再生産表式から、そのブルジョア的な諸形態を〈剥ぎ取れ〉ば、将来の社会の再生産の基本的な内容を表すものであり、その限りでは、〈社会主義における「分配」の関係とは全く別個のこと〉とは言い切れないのである。再生産表式というものは、そうしたあらゆる社会の再生産過程の基礎にあるものを表しているものであるのだからである。
 マルクスが第2部第3章(現行版では「篇」)の表題を〈流通過程および再生産過程の現実的諸条件〉(第2草稿)としているように、社会の再生産過程の考察のためには、その基礎となっている物質的な諸条件の考察が不可欠なのであり(第I部門、第II部門の区別もその一つである)、だから再生産表式においても、そうした社会的な再生産のベースとなっている物質的関係が表されているのである。だからこそ、それは資本主義的な諸関係を捨象すれば、将来の社会の総再生産過程の物質的関係を表すものとして、意義を持つことが出来るのである。これについても、以前、『マルクス研究会通信』のなかで言及したことがあるが、マルクスは第2稿における貨幣流通による媒介を捨象した単純再生産の考察において、次のように述べているのである。

 〈仮に生産が資本主義的でなく社会的であるとすれば、明らかに、部門 I のこれらの生産物はこの部門の色々な生産部門の間に、再生産のために、同様に絶えず再び生産手段として分配され、一部分は、直接に、自分が生産物として出てきた生産部面にとどまり、反対に他の一部分は他の生産場所に遠ざけられ、こうしてこの部門の色々な生産場所の間に絶えず行ったり来たりが行なわれることになるであろう。〉(ME全集第24巻522-523頁)

 上記の一文は現行版の第6節の最後の部分であるが、現行版に取り入れられなかったが、「貨幣流通を考慮しない単純再生産の補足的な論述のように思われる」部分が草稿の154-158頁にあり、その部分が水谷・名和両氏によって要約・紹介されているが、そこには次のようなものがある。まずマルクスは次のような表式を書き、そしてそのあとで、次のようにその表式を説明をしているのだという(以下は、水谷・名和共著《『資本論』第2部第2草稿(「第3章」)の未公開部分について》から引用)。

 〈 I 消費手段 400C+100V+100m C400+V100+M100
  II 生産手段 800C+200V+200m C800+V200+M200〉(前掲論文164頁)

 〈前掲の表式は、単純再生産を前提していると同時に、計画的な均衡した社会的生産をあらわすべき表式でもある。〉(同165頁)

 このようにマルクスは再生産表式について、それが〈生産が資本主義的でなく社会的である〉場合ならどうであるとか、〈前掲の表式は、単純再生産を前提していると同時に、計画的な均衡した社会的生産をあらわすべき表式でもある〉というように対象の一般性を、つまり表式から資本主義に固有の諸形態を捨象して、その基礎にある物質的な関係としてみるなら、それは社会主義の再生産を表すものでもあると述べているのである。

 もちろん〈マルクスの再生産表式の関係〉が社会主義の再生産を表すものでもあるということは、〈我々が課題としてきた、「価値規定(労働時間)による分配」はいかにして可能かという問いに、直接には何も答えられないのは一見して明らかである〉などともまた言えないのである。もちろん、再生産表式が〈直接に〉分配を説明するものではないことは誰がみても当たり前のことであろう。しかし、社会主義における分配が直接労働時間を基準に行われるためには、労働者が社会に与えた労働に応じて、社会の保管庫から必要な消費財の分配を受けようとすると、保管されているそれぞれの消費財にどれだけの労働が費やされているかが分からないければならないが、そのためには、それらの消費財がどのような社会的な総再生産の過程のもとで生産されたものかを社会は知っている必要があるからである。そうしてそのためにはすでに見たように、社会主義でも再生産表式は意義を持ち、分配の基礎を与えるのである。分配を生産から切り離して、独自に考察することが可能であるかに空想している観念論者の林氏だけが、そうした社会的な生産がどのように行われるかについて何の考慮もなしに、分配だけを論じることかできると夢想しているだけである。

 それにしても、次のような一文にはただ呆れるしかなく、林氏の悪意と陰険な性格を見ることができる。

 〈一体、第一部門の機械などを生産する労働者が、第二部門のブルジョアから消費手段を買うといったことが、いかにして、またなぜ、社会主義の「分配」なのか。社会主義だから「買う」のではなく、「交換」するのだ、と言って見ても、こんな形での「解決」が一つの空文句でしかないのは余りにはっきりしている。

 社会主義について論じながら、どうして〈第二部門のブルジョア〉などという言葉が平気で使われているのか、「買う」と言ってみたり、「交換」と言ってみたり、いずれにしても、そんなことを一体、会員の誰が主張しているというのであろうか。社会主義では労働者が直接、生産物を「交換」するなどいう主張は、恐らく林氏が勝手にでっち上げたものでしかないのである。こんな馬鹿げた主張を論争相手の主張としてでっち上げるなら、その“批判”などというものは、およそまともな検討に値するものになり得ないのは当然である。つまりこの一文はほとんど何も言っていないに等しい無意味な言葉の羅列なのである。こんな粗雑で悪意に満ちた文章を書く人物を、われわれはこれまで指導者として仰いできたのである(いまだにそう思っている人もあるが)。だからそれはわれわれの責任でもある。同志会の頽廃は林氏のこうした馬鹿げた主張に象徴されているが(上記の醜悪な文章を見よ!)、しかし、それは同志会の全体を象徴しているのであって、われわれとは無関係では決してない。全国社研から始まったわれわれの運動は、こうした醜悪なものに帰着しつつあるのであるが、それはわれわれの運動が歴史的な正当性と現実性を獲得できなかった必然的な一結果でもある。同志会はすでに組織的に衰退しつつあるのであるが、林氏の隠されたマルクス批判は、その思想的頽廃と衰退を暴露しているのである。組織としての健全性を失えば、思想的な健全性もまたなくなるわけである。

●〈また第二部門のブルジョアが自分が生産物としてもっている消費手段を、第一部門のブルジョアの生産手段と「交換」することが、一体第二部門の労働者の消費と、どんな関係があるというのか。いや、社会主義だからブルジョアは介入しない、彼らは無関係だ、ただ生産手段を生産する労働者と消費手段を生産する労働者が、それぞれ生産物を交換すればすむことだ、何の問題もない、というかもしれないが、こんなものは単なる物々交換の関係であって、人類の未来を物々交換の関係に、そんな原始的な社会に後戻りさせることによって、いかにして「社会主義」なるものが可能になるというのだろうか。まさか、スターリン主義の時代のソ連のような社会、我々が「国家資本主義」の概念で総括した社会を「社会主義」の名で呼ぼうというのでもあるまいに。〉

 まず〈第二部門のブルジョアが自分が生産物としてもっている消費手段を、第一部門のブルジョアの生産手段と「交換」する〉という認識は間違っている。資本主義の再生産表式でも、そうした認識はおかしい。第II部門の資本家は第I部門の労働者に彼らの生産物の不変資本部分を売り、その貨幣で第I部門の生産手段の可変資本部分を買うのである。だから第I部門の資本家は、ただ第II部門の資本家にはただ販売者として対峙し、第II部門の資本家は、第I部門の資本家に購買者として対峙するだけであり、両者が互いの商品を売り買いするわけではない。こんなことは当たり前のことであろう。そしてこうした関係として理解すれば、この関係は第I部門の労働者の消費と関連しているのであって、第II部門の労働者の消費とは何の関係もないことは明らかである。だから林氏が〈一体第二部門の労働者の消費と、どんな関係があるというのか〉などと言っているのは、およそ自分が再生産表式を何も理解していないことを語っているに等しいのである。
 また社会主義では〈生産手段を生産する労働者と消費手段を生産する労働者が、それぞれ生産物を交換すればすむことだ、何の問題もない〉などという主張も、一体、それが誰によって主張されているのか皆目分からないが、恐らくそんな主張をやっている会員はいないであろう。それは恐らく会員の主張を極度に戯画化して林氏が勝手に造り上げたものに過ぎないであろう。確かに社会主義で労働者同士が互いの生産物を交換し合うなどということはありえないが、しかし、彼らがさまざまな労働を担うとすれば、ある一人がある形で社会に供給した労働に応じて、別の人が別の形で供給したであろう同じだけの労働の成果を、社会の保管庫から引き出すなら、この分配には、〈明らかに、商品交換が等価物の交換であるかぎりでこの交換を規制するのと同じ原則が支配している〉(『ゴータ綱領批判』)のである。だから、こうした意味では、彼らは互いにそれぞれ違った労働を社会の再生産を維持するために合理的に担い合い、交換し合って彼らの生活と社会を支え維持し合っているとする理解自体は決して間違ってはいない。そして同じ原則は、物々交換の中にも貫いていることはいうまでもないが、しかしそのことは将来の社会が物々交換の社会であることを意味しない。〈同じ原則が支配している〉が〈内容も形式も変化している〉(同上)からである。
 林氏はこうした社会主義における分配の原則的な契機の指摘に対して、それを上記のように戯画化することによって、批判しているに過ぎないのである。しかし、こうした批判は卑しいものであり、批判するものの人格の貧しさを反対に暴露しているのである。

●〈そして仮に物々交換でやるとしても、個々の消費手段と生産手段をいかなる基準で、いかにして交換するというのであろうか、また第二部門の労働者が第一部門の労働者から生産手段を受け取ることが、どんな「消費」と関係するというのか。〉

 相手の主張を戯画化すれば、その“批判”は容易である。こんな“批判”は批判とはいえない。むしろこんなことを平気で書く人の頭の構造を、われわれは疑うのである。なぜなら、林氏は一体何を考えて、こんなことを言っているのか、どう考えても分からないからである。
 〈第二部門の労働者が第一部門の労働者から生産手段を受け取ることが、どんな「消費」と関係するというのか〉と林氏は問う。答えよう。第II部門の特定の生産部門は、その生産を開始するためには、当然、それに必要な、第I部門の生産物である生産手段の「分配」を受けなければならない。そしてそこで働く労働者は、それらを使って、消費手段の生産を開始するが、それはまさに生産手段の生産的な「消費」の過程である。そして彼らはその生産において社会に供給した労働に応じて、社会の保管庫から必要な消費財の「分配」を受け、それらを個人的に「消費」するであろう。〈どんな「消費」と関係するというのか〉というなら、こんな「消費」と関係しているのである。

●〈実際、高度な分業の社会において、労働者(生産者)が、それぞれの「労働時間を交換する」ということなど全く不可能であって、こんな主張を持ち出した人は、ブルジョア社会を克服したのちの社会について語っていたのではないことは明らかであった。そして現代社会が、物々交換の時代に、人類の原始時代に戻ることができないことは自明なのだから--現代の高度な文明社会を否定することなしには--、こんな遁辞は、口にされた途端からその破綻が暴露されるような、その場かぎりの、出まかせのごまかしにすぎなかったと言うべきであろう。〉

 ここでは林氏の本音が思わず出ている。〈実際、高度な分業の社会において、労働者(生産者)が、それぞれの「労働時間を交換する」ということなど全く不可能であって、こんな主張を持ち出した人は、ブルジョア社会を克服したのちの社会について語っていたのではないことは明らかであった〉というのは、実際上、林氏は、将来の社会では、高度に分業が発達しているから、労働者は彼らの労働を意識的に直接社会的に関連させることは出来ない、と言っているのと同じである。つまり高度な分業の社会だから、社会的な物質代謝を意識的に統制し、管理することなどできる筈もない、と林氏は言っているのである。とするなら、確かに林氏が「価値規定」に拘り、直接、労働時間によって社会的な生産や分配を規制するとは言わない理由も分かるのである。それは実際上は無理だと林氏は考えるから、将来の社会の生産については口をつぐみ、消費手段の分配だけを(「価値規定による」)問題にしているのであろう。だからいっその事「価値による分配」、すなわち市場経済に委ねるというべきである。
 もし高度に分業が発達しているから、などと言う理由を持ち出して、労働を交換できないなどというなら、高度な分業を意識的に管理し統制して、労働者は自分たちの労働を直接、意識的に関連づけて社会的な生産を組織できない、だから互いの労働を意識的に交換し合うという原則をそのなかで意識的に貫くこともできないということである。つまりこれは社会主義を否定するに等しいのである。
 結局、林氏も、彼が批判するスターリニストと同じように、高度な分業のもとでは、市場経済に頼るしかないという結論に行き着くのである。これは「価値規定」に拘る林氏の隠された本音であろう。

●〈そもそも高度な分業によって、広汎な社会的規模で--国民的な、あるいは世界的な規模で--、生産が高度で複雑な社会的関係のもとで行われている社会において、物々交換によって、社会全体の生産や分配の問題が解決できるなどど考えることは、社会主義に対する、余りに軽率かつ矮小な、プチブル的な観念ではないだろうか。こうした諸君は、物々交換の関係は、商品生産が最高度に発展したブルジョア社会を克服した社会、つまり社会主義社会の関係でなく、商品生産への第一歩であって、まさに今後商品生産に移行していく、それ以前の狭隘な生産関係を反映し、表現するものであることも知らない、もしくは忘れたのである。〉

 林氏は社会主義においても労働者は彼らの労働を交換し合うという原則を否定するために、それをわざわざ物々交換というものに戯画化して、それを否定するわけである。その本音は、〈そもそも高度な分業によって、広汎な社会的規模で--国民的な、あるいは世界的な規模で--、生産が高度で複雑な社会的関係のもとで行われている社会において〉、直接労働を社会的に関連づけ、〈社会全体の生産や分配の問題が解決できるなどど考えることは、社会主義に対する、余りに軽率かつ矮小な、プチブル的な観念ではないだろうか〉ということである。これが林氏の本音なのである。つまり実際上は社会主義の否定に行き着くのである。
 しかしマルクスは次のように言っていたのではないか。われわれはすでに紹介したものをもう一度、ここに紹介してみよう。

 〈仮に生産が資本主義的でなく社会的であるとすれば、明らかに、部門 I のこれらの生産物はこの部門の色々な生産部門の間に、再生産のために、同様に絶えず再び生産手段として分配され、一部分は、直接に、自分が生産物として出てきた生産部面にとどまり、反対に他の一部分は他の生産場所に遠ざけられ、こうしてこの部門の色々な生産場所の間に絶えず行ったり来たりが行なわれることになるであろう。〉(現行全集版522-523頁)

 これはマルクスが社会主義について述べていることは林氏も否定しないであろう。ここでマルクスは第I部門の生産物の一部は、再生産のために、同じ部門に分配されること、だから〈一部分は、直接に、自分が生産物として出てきた生産部面にとどまり、反対に他の一部分は他の生産場所に遠ざけられ、こうしてこの部門の色々な生産場所の間に絶えず行ったり来たりが行なわれることになるであろう〉と述べている。つまり物質的な関係を見るなら、それは物々交換とは言えなくても、しかし、生産物がアチコチの生産部門間を行き来するのであって、その限りではある生産部門の生産物は別の生産部門に移動し、その代わりに、その別の生産部門の生産物が、別の部門に移動するということもあり得るのであって、その限りでは、それらは価値という媒介を経ずに、直接、それらの使用価値にもとづいて、そしてそれらに対象化された労働時間を基準として、必要な諸部門に配分され、分配されるのである。それを物々交換だと言ったからと言って、それをあながち否定する理由はないのではないか。なぜなら、物々交換の特徴は、交換される諸生産物に等しい労働時間が対象化されているということだけではなく、それらが、直接、使用価値にもとづいて交換されるということだからである。社会主義ではまさに諸生産物は、直接、それらに支出された労働時間と、それらの使用価値にもとづいて、必要な諸部門に分配されるという意味では、物々交換に類似した関係になると言えるからである。

●〈実際には、消費手段の「価値規定による分配」には、個々の消費手段の「価値規定」が必要であって、まさにそれゆえにこそ「価値規定による分配」であるが、こうした問題自体を理解しない人々が、社会主義の分配法則の解明に執拗に異議を唱え、様々な理屈をこねて事実上反対したのは、むしろ必然でさえあった。しかし我々はセミナーの議論と検討を経て、こうした見解を断固として乗り越え、最終的には、参加者の大多数が、社会主義の分配の法則が、したがってまた社会主義の生産と分配がいかにして行われるか、という根本的な問題で、共通の認識に到達することができたのであった。〉

 〈消費手段の「価値規定による分配」には、個々の消費手段の「価値規定」が必要であって、まさにそれゆえにこそ「価値規定による分配」である〉。ここには同義反復しかない。故に何も言っていないに等しい。
 林氏は〈消費手段の「価値規定による分配」には、個々の消費手段の「価値規定」が必要であ〉るという。個々の消費手段の価値規定というのは、何であろうか。個々の消費手段に対象化され、積み重なり、凝結した抽象的人間労働である。しかし、林氏は、商品交換の現実こそ、まさにこうした諸商品に対象化され、凝結した抽象的人間労働にもとづいて交換が行われていることを知っているのであろうか。それらは商品交換の現実の結果として、さまざまな偶然や攪乱を通じて、貫徹するのであるが、価値規定というのは、まさにそうした商品交換を通じて貫いていく社会的関係であり、その実体なのである。つまり、社会的な物質代謝を維持していくために、社会の欲望に応じた諸使用価値の生産に必要な労働を社会的に配分したものこそ、まさにこうした抽象的人間労働とその量なのである。商品生産の社会では、生産物の商品としての交換によって、そうした社会的な法則が自己を貫徹するのである。だから林氏が社会主義でも〈個々の消費手段の「価値規定」が必要〉だということは、個々の消費手段の生産に社会的に必要な労働時間を配分することが必要だということである。しかし、そのためには社会は社会が自由に出来る総労働を合理的に社会的に配分する必要があり、そのためにはすべての労働が直接社会的に結びつけられている必要があるのである。そしてこれは何も消費手段の生産に従事する労働だけではなく、そのための生産手段の生産や、あるいは生産手段を生産するための生産手段の生産においても同じである。つまり社会のすべての労働は直接社会的な関連のなかに意識的に結びつけられる必要があるのである。ということは人々は、単に消費手段の生産にどれだけの必要な労働が支出されたか、よってまた個々の消費手段の生産に必要な労働時間はどれだけかというだけではなく、その生産のために必要な生産手段や、さらにはそうした生産手段の生産のために必要な生産手段についても、人々はそれぞれ社会的に必要な労働時間をあらかじめ合理的に計画的に知っている必要があるということである。それを林氏はどのように知りうるのかを明らかにする必要があるのである。それを知るためには、結局は、マルクスの再生産表式を使って、われわれは社会的総再生産の物質的関係とそれぞれの生産部門で支出されるべき労働時間の関係を考える必要があるのである。マルクスの表式はそれをわれわれに教えているのである。

●〈問題は--困難な問題、そして根本の問題は--個々の消費手段の--例えば、乗用車なら乗用車の一台の--「価値規定」が、つまりそれがどれだけの社会的労働(の量)によって生産されているかを、いかにして規定し、確定するか、できるか、ということであり、そこに帰着し、還元されたのであった。
 具体的には乗用車の生産のためには、何百、何千もの労働者が関係し、共同(協労)していて、それを確定することなど不可能に思われる、だからこそブルジョアたちは社会主義など不可能だとわめくのであり、そしてブルジョアに追随するしか能のない共産党の愚者たちも唱和して、「市場経済」によって、社会主義の問題も解決するしかないと説くのだが、自分たちがつまりは資本主義の美化と絶対化と永遠の存在を説いているという自覚がないのである。まさにブルジョア"共産党"のご登場である。〉

 こうした主張をみると、人は、林氏は〈具体的には乗用車の生産のためには、何百、何千もの労働者が関係し、共同(協労)していて、それを確定することなど不可能に思われる〉のだが、しかし、社会主義ではそれが出来るのだと主張していると思い込む。しかし、果たして林氏はそのように主張しているのかというとそうではないのである。なぜなら、林氏は、決して、例え〈乗用車の生産のためには、何百、何千もの労働者が関係し、共同(協労)していて〉も、将来の社会では、それらを労働者は意識的に管理し、統制して、互いの労働を直接関連づけることか出来るとは言わないからである。
 だから一見すると共産党の主張を批判し、否定しているように見えながら、実は、林氏も〈そもそも高度な分業によって、広汎な社会的規模で--国民的な、あるいは世界的な規模で--、生産が高度で複雑な社会的関係のもとで行われている社会において〉、直接労働を社会的に関連づけ、〈社会全体の生産や分配の問題が解決できるなどど考え〉られないと思っているのであり、その点では共産党と同じ意識を共有しているのである。
 だからこそ、そこから奇妙な林氏の「価値規定」論が始まるし、始まらざるを得ないわけである。つまり社会的生産の意識的な統制・管理、すなわち労働を直接社会化することは問題にせずに(なぜならそんなことは高度な分業のもとでは不可能だと林氏は考えているから)、消費手段が〈どれだけの社会的労働(の量)よって生産されているかを、いかにして規定し、確定するか、できるか〉という難問を解決するために、新しい奇妙な価値規定論を生み出さねばならないというわけである。ここから林氏の“苦闘”が始まるわけである。そこで次のようにいうことになる。

●〈さらにまた、「価値規定」ということを、一部の人々が理解したように、一定の消費手段を得ようとして、いくつかの、あるいは無数の生産過程を経ていくたびに、「対象化された労働」、「過去の労働」を次々とつけ加え、足し算していくとか、あるいはそんな労働を順繰りに「移行」もしくは「移転」させていくといった形で理解してはならない、というのは、それは価値法則や資本の法則では仮にあり得ても(あくまでも「仮に」であるが)、「価値規定」とは全く違ったことだからである。
 自動車を作るには機械(労働手段)や鉄鋼(労働対象)が必要だ、そしてその機械を作るにも機械や鉄鋼が必要だ、さらに同様な過程が延々と続く、といった理屈は、そんな理論をただ想定するだけで、不毛な悪無限論、悪循環論の不合理に陥るだけであるのは明らかであろう。我々が例証で示したように、例えば、自動車を作る労働を、鉄鋼を作る労働と機械を作る労働と、自動車を直接につくる労働の総和として示したからと言って、それは「対象化」され、「移転」されてきた「過去の労働」と「生きた労働」の足し算の結果だなどと理解するなら、「価値規定」の意味を誤解している、あるはブルジョア的な物神崇拝意識の色眼鏡で見ているということにすぎない。我々が論じるのは、「価値規定」の問題であって、すでにいかなる意味でも「価値法則」の問題ではないのである。ここには社会主義の概念の本当の理解がかかわっている。〉

 林氏は「価値規定」と「価値法則」という言葉を使い分けて、何か自説のあつまいさを煙に巻くことができると考えているのであるが、馬鹿げた話である。
 すでに先にも紹介したように、マルクスは商品の価値を〈その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられ〉た、諸商品〈に共通な社会的実体の結晶〉だと説明している(第1章第1節)。そこでも指摘したが、ここでマルクスが〈人間労働が積み上げられ〉ていると考えているのは、まさに林氏が否定している、それらがさまざまな生産過程を経てきたことを踏まえて、それぞれの段階で支出された労働を〈積み上げられた〉労働として捉えているからである。さらに、第5章第2節では、綿花と紡錘とを使って生産された綿糸の価値を例に上げて、次のように述べている。

 〈綿花の生産に必要な労働時間は、綿花を原料とする糸の生産に必要な労働時間の一部分であり、したがってそれは糸のうちに含まれている。それだけの摩滅または消費なしには綿花を紡ぐことができないという紡錘量の生産に必要な労働時間についても同じことである。(原注11省略)
 こういうわけで、糸の価値、糸の生産に必要な労働時問が考察されるかぎりでは、綿花そのものや消費される紡錘量を生産するために、最後には綿花や紡錘で糸をつくるために、通らなければならないいろいろな特殊な、時間的にも空間的にも分離されている、いくつもの労働過程が、同じ一つの労働過程の次々に現われる別々の段階とみなされることができるのである。糸に含まれている労働はすべて過去の労働である。糸を形成する諸要素の生産に必要な労働時間は、すでに過ぎ去っており、過去完了形にあるが、これにたいして、最終過程の紡績に直接に用いられた労働はもっと現在に近く、現在完了形にあるということは、まったくどうでもよい事情である。一定量の労働、たとえば三〇労働日の労働が、一軒の家の建築に必要だとすれば、三〇日めの労働日が最初の労働日よりも二九日おそく生産にはいったということは、その家に合体された労働時間の総計を少しも変えるものではない。このように、労働材料や労働手段に含まれている労働時間は、まったく、紡績過程のうちの最後に紡績の形でつけ加えられた労働よりも前の一段階で支出されたにすぎないものであるかのように、みなされうるのである。
 要するに、12シリングという価格で表わされる綿花と紡錘という生産手段の価値は、糸の価値の、すなわち生産物の価値の成分をなしているのである。〉(『資本論』ME全集第23巻a246-7頁)

 これは綿糸の価値を規定するのに、それを生産するための諸手段に費やされた労働も、直接綿糸を生産するために支出される労働と合算されることを述べている。ただ以前の労働は、いずれも価値形成労働としては、同じ抽象的人間労働であり、よってその抽象性においては、それらがどの段階でどのような空間において支出されたかというようなことは、まったく問われないのは当然であろう。それらの労働の社会的な関連は、それらが対象化されていた諸商品の交換を通じてそれぞれの段階の生産過程と結びつけられたことによって、すでに一つの結果として実現している。だからそれは、同じ質の労働としてただ量的に加算されるだけで良いのである。だからまたそれらは抽象的には、同じ労働過程の一続きの労働としても評価することも可能なのである。これは先に見たように、第1章で、マルクスが商品の価値を説明して、〈その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられ〉て、〈共通な社会的実体〉として〈結晶〉したものだと説明しているのと同じである。
 但し、これは綿糸の価値というものだけを見ているから、これで良いのである。綿糸の価値の場合は、綿糸を生産するために、最終生産物として綿糸に結果する、すべての生産過程を見るだけで良かった。しかし、社会的総再生産の過程を考察する場合には、綿糸だけでなく、さまざまな生産物が、互いにそれぞれの使用価値によって社会的分業の網を編み上げており、だからそれらの生産過程がどのように社会的に関連し合っているのかが問われるからである。それ故に、社会的総再生産の過程では、諸商品は価値とともに素材的にもそれらの社会的な関連が問われるのである。むしろ社会的総再生産の過程というものは、諸商品の使用価値に表現されている社会的分業の網の目という現実的な諸条件に規定されて、諸商品の価値補填が如何になされるのかを問うものなのである。物質的な条件は、その生産の社会的形態がどのようなものかに関わりのない客観的な条件である。マルクスの例で言えば、綿糸の生産には綿花と紡錘が必要という条件は、社会の生産諸形態がどうであれ、客観的・物質的条件なのである。〔もちろん、こうした客観的な物質的な条件を何か不変で、ただ人間がそれによって受動的に規定されるだけのもののように考える必要はない。人間の客観世界に対する発見と認識が深まり、物質の諸属性の新たな有用性を見いだして、それらの物質的な新たな関係を発明し、そのための技術を開発していくなら、そうした客観的な物質的な条件もまた変化するのであって、しかも、そうした客観世界を変革する人間の社会的実践は、彼らが如何なる社会関係の中にあるかということによって規定されてもいるのである。〕そうした条件にもとづいて、それぞれの生産部門の生産力に規定されて、社会は必要な諸使用価値を生産するために、社会的総労働を合理的に配分しなければならないが(これは如何なる社会においても貫いている社会的物資代謝の法則である)、ブルジョア社会では、それが諸商品の交換とその価値の実現という形で、さまざまな攪乱を伴って、事後的、結果的に行われて、貫徹しているものなのである。
 例えば社会がその年度で必要とする諸使用価値の総量を考えてみよう。われわれは簡単化のために、ある年度に生産的に、且つ個人的に消費されるすべての生産物は、前年度の総生産物だとしよう。これはすべての生産が年一回転すると仮定するのと同じである。
 そうすると、まず今年度の生産を考える場合、社会は次年度の社会的欲望を考えて、どういう個人的消費手段をどれだけ生産するべきかを計量し計画しなければならない。そしてその上で、それぞれの個人的消費手段を年度を通じて生産し、年度の末に次年度に必要な個人的消費手段の総量を得るために、今年度の生産過程で使用される生産諸手段とそれぞれの生産部門で必要な労働(労働力)--それは社会が自由に出来る総労働の一部分であるが--を配分するであろう。これらの生産手段の種類とその量は、個人的消費手段の生産過程の物質的な条件によって決まってくる。そしてそれらは、われわれの仮定では、前年度にすべて生産されて、今年度に引き継がれているものだから、それらを生産的に今年度で消費してしまうわけだから、次年度にも同じような生産を前提するなら、やはり今年度で生産的に消費されてしまう生産諸手段も、やはり今年度において、個人的消費手段の生産と平行して生産されなければならないであろう(今年度に生産的に消費される生産諸手段のなかには年度を越えて消費される諸手段--機械や道具等--も存在するが、だからここには、そうした諸手段が今年度の使用によって磨滅したり死滅する部分も含まれると考えるべきであろう)。よって、それらに必要な生産手段(これは生産手段の生産のために必要な生産手段であり、やはり前年度の総生産物の一部分として今年度に引き継がれている)を配分し、それに必要な労働を配置する必要があるであろう(この労働も総労働のもう一つの部分である)。社会的総再生産過程としては、これでおしまいかというとそうではない。というのは、次年度から引き継いでいる生産物には、今年度に生産手段の生産のために生産的に消費される生産手段(生産手段の生産のための生産手段)があり、それらも今年度に使用されつくされるなら(年度を越えて使用されるものは、その磨滅や死滅分)、そうした生産物も今年度に次年度用の生産手段として生産しなければならず、やはり同じようにそれに必要な労働も配置する必要があるからである。
 〔しかし、それなら、次のことも考える必要があるのではないか、という疑問が生じるかもしれない。つまり生産手段の生産のための生産手段の生産にも、やはり生産手段が必要であり、それが今年度で消費されてしまうなら、やはりその消費された生産手段の生産のための生産手段の生産のための生産手段も、やはり今年度に生産される必要があり、さらには、またそれの生産のためにもやはり生産手段が必要となり、それこそいつまでたっても生産手段のための生産手段という関係が続き、悪無限に陥るのではないか、と。
 しかし、こうしたことは無用であろう。というのは、そうしたものもすべて生産手段のための生産手段として、つまりⅠc部分を相互に補填し合うものとして、その使用価値総量をトータルで考えれば良いことだからである。さらにこれについては後述。〕
 こうして社会は今年度の生産を開始することが出来る。そして年度の末に社会が獲得する総生産物は、次年度に予想される社会的欲望に対応した個人的消費手段、そして次年度も個人的消費手段を生産するに必要な生産手段、さらにそうした生産手段を生産するために必要な生産手段によって構成されていることを見るであろう。後ろの二つは、次年度においては、そのまま社会的・計画的に社会のさまざまな生産分野にそれぞれに必要な労働力とともに配分され、個人的消費手段は、社会の保管庫に陳列され、その年度の生産活動に伴い労働者が日々の生活の必要のために、彼らが社会に与えた労働に応じて引き出すのを待っているであろう。社会はこうして社会的な再生産を繰り返すことであろう。
 そしてさまざまな労働の生産諸力が発展すればするほど、それぞれの生産分野に配分しなければならない労働の量は少なくなり、一人一人が担う労働の量も減り、よって彼らの自由時間が増えることになる(必然の領域は自覚的に、人間にもっとも相応しい形で合理的に管理され統制されるだけではなく、ますますそれ自体が小さくなり、自由の領域が増えることになる)。人々は彼らの労働によってもその個性を豊かにするのであるが、さらに彼らの自由時間は、全面的な個性のさらなる発展をもたらすであろう。そしてそうした豊かに発展した個性が、生産過程に入っていけば、それはそれで生産力を飛躍的に高めるように作用し、いよいよ一人当たりの労働時間の減少に寄与することになる。自由時間は増大し、自由の領域はますます拡大して行くであろう。
 林氏のように社会主義における「分配」を問題にするということは、社会的な総再生産の過程を問うことであり、それが解明されないと、消費手段の社会的な分配も明らかにならないのであるから、そこでは単に労働は抽象的契機だけで捉えられれば十分とは言えないのであり、その具体的な支出の諸形態も問題にされ、よってまたそれがどういう時期に(つまりどの生産の回転年度に)支出されたものかどうかということはどうでもよいことにはならないのである。
 〔林氏はその図式で、消費手段を自動車で象徴させ、生産手段を鉄鋼で象徴させている。そして年間の自動車の生産は100万台、鉄鋼は2000万トンとしている。但し林氏の図式では、これらは前年度の総生産の一部分としているわけであるが、しかし、これでは年度の総生産物を象徴化しているとは言い難いし、社会の総再生産過程として問題を考察したことにはならないであろう。これだと第1部第5章で、マルクスが綿糸の価値を綿花と紡錘を生産手段として考察しているのと基本的には何ら変わらないのである。つまり単一の商品の価値の構成を見ているだけなのである。それをあたかも図式化して、如何にも社会的な総再生産過程を前提しているかに見せかけているだけに過ぎないであろう。
 だから社会的な総再生産を考察するということは、そうした単一の生産物を考えるだけでは駄目なのである。なぜなら、社会の多くの生産部門は互いに社会的分業の網の目で相互に関連し合っているのだからである。だから社会の総再生産過程を考察するためには、そうした再生産の現実的諸条件を考慮する必要があるのである。
 われわれは、林氏の図式から一旦離れて、社会主義における総再生産過程を考えてみよう。社会主義において、今年度の生産を組織しようとするなら、人々は来年度の社会の欲望を予測して、その欲望を満たすために必要な消費手段のすべての項目にわたって、それらの必要量を決める必要があるであろう。これらの必要量は、これまでの何年かの経験にもとづいて、ある程度の余裕を持って決めることは可能である。そしてその余裕は保険として剰余労働(の一部分)によって生産されるであろう。もちろん、社会の欲望というものは、その年度によってさまざまに変化する。例えばその年の季節の変動によっても(例えばその夏は極度に暑かったとか、冬が特に寒かった等々)、欲求される消費手段の種類や量に変化が生じる可能性はあるであろう。しかしそうした変動も考慮に入れた形で、人々は来年度の消費手段のすべての品目とそれぞれの生産量を決める必要があるわけである。そしてそれにもとづいて、彼らはそれらの生産に必要な生産諸手段の種類と量を考え、それらが今年度の生産過程において消費されてしまう代わりに、平行して生産手段生産部門でそれらが再生産されるように計画するであろう。そしてその計画のために、生産手段の生産のための生産諸手段の種類と量もまた考える必要があり、それらが今年度の生産過程で消費されてしまうことを考慮すれば、やはりそれらの生産も考える必要がある等々。これでは同じような悪無限に陥るのではないかと思うかもしれない。
 しかし、そうした心配は無用である。なぜなら、社会は例えばある年度に必要な鉄鋼の生産量といったものはそれまでの実績から、その総量というものは予測できるからである。同じように、生産手段の生産手段(例えば鉄鉱石等々)についても、一年間に消費されるおおよその量というものは予測でき、だから一年間に再生産されるべき量というものもやはり予測可能だからである。それらもさまざまな変動要因を考慮して一定の余裕をもって生産計画を立てれば良い話である。だから生産手段の生産手段、さらにはそのまた生産手段、さらにはそのまた生産手段等々という形で、次々と遡って考えて、悪無限に陥ることなどまったく心配無用なのである。社会的に必要な生産手段の使用価値の種類とそれぞれの分量というものは、すべてそれまでの経験から全体としての必要量は予測できるからである。そして物質的な関係としては、川下になければなるほど種類は増えるが、川上になればなるほど種類は減る傾向にあるのである。例えば綿花から綿糸が作られ、綿糸が織られて、綿布になり、それが染色されて、さまざまな布地になるという過程を考えれば、その源流は綿花という一種類だが、しかし綿糸の種類は一種類に限定されないであろうし、さらにそこから織られる綿布においては、その織り方によってさらに多くの種類がありうるし、捺染やその模様によってはそれこそ無限に多様な布地が生産されることが考えられるが、しかし、その無限に多様な布地も、しかし遡れば、同じ綿花という一つの種類の原料から生まれているわけである。だから生産を物質的に遡れば、われわれはより少ない種類の生産物を見いだすだけであろう。そしてそれらの年間に必要な生産物量とその生産に必要な労働力量も、社会は容易に計算し、計画することが出来るのではないだろうか。だから生産の分業の多様性やそれらの絡み合いの複雑性に絶望して、それに悪無限しか見ることができず、林氏のように、社会は生産を意識的・計画的に組織できないなどと考える必要はまったくないのである。〕 

2015年7月23日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-16)

現行版第5編第28章該当箇所の草稿の解読

(2) 各パラグラフごとの解読(続き)

 前回では〈フラートンの対置〉が〈正しくない〉として、〈貸付に対する需要の量〉と〈通貨に対する需要の量〉という二つの面から繁栄期と反転期とを区別するものは何かが明らかにされた。今回からは、さらにフラートンの誤りが深く掘り下げられて明らかにされていく。

【27】 (ここからも〈フラートンの対置〉が〈正しくない〉理由の説明とも言えるが、しかしここからはフラートンらに影響を与えている現象は本当は何を意味するのか、という形でその批判が展開されていく。)

 〈ところで、このフラートン等々にたいして決定的な役割を果たしているのは、イングランド銀行の有価証券が増加するような時期には同行の銀行券Circulation 〔Notencirculation〕は減少し、反対の時期には反対だという現象である。b)有価証券の数が表現しているのは、貨幣融通〔pecuniaryaccommodation〕の[512]大きさ、つまり手形の割引〔の大きさ〕である。{(および容易に換金できる有価証券を担保とする貸付〔の大きさ〕である。)ときにはイングランド銀行は、長期手形を担保にして貸付を行う。つまりそれを担保に前貸しを行う。1847年には、東インド貿易関連手形を担保にそうしたのであった。}〉

 まず最初に「有価証券」という用語の説明を簡単にしておこう。
 マルクスは第29章該当個所で銀行資本の成分の一つとして説明しているが、それによると、大きくわけて二つに分けられる。一つは商業的有価証券、つまり手形や小切手である。もう一つはその他の有価証券で手形等とは本質的に区別されるものである。ようするに利子生み証券であって、これには公的有価証券(国債、大蔵省証券等)やあらゆる種類の株式等(場合によっては不動産抵当証券も入る)と説明されている。
 また平凡社の百科事典には〈手形・小切手のように一定額の金銭の支払を受ける権利を表章する金銭証券(貨幣証券),株券・社債券・国債券のように資金調達の手段として発行され,継続的に利息の支払,利益の配当を受ける権利や社員権を表章する資本証券(投資証券),貨物引換証・倉庫証券・商品券のように物品引渡請求権を表章する物品証券(物財証券),さらに乗車券・観覧券・テレホンカードのように労務の給付を受ける権利を表章する証券がある〉と説明されているが、こうした詳しいものはとりあえずわれわれにとっては必要ないだろう。まあここでは手形割引によって銀行が保有することになる「手形」と、担保貸付の担保になる「国債」や「長期手形」などのことだと理解しておけばよいだろう。

 ではマルクスの文章そのものはどうか? 今回は解読文は省略したが、ここで言っていること自体はそれほど難しいことではないからである。ただ事実としてイングランド銀行の保有する有価証券の量が増加する時は、同行の発行する銀行券の量が減少するということであり、フラートンらの先の主張は、こうした現象に決定的に影響されているのだ、ということだけである。
 どうしてイングランド銀行の有価証券の保有量と銀行券の量とが反対に運動するのかについては、まだここでは何もマルクスは問題にしていない。それはこれから本格的に検討しようとする課題なのである。だからわれわれも、それを待って問題にしよう。

 ところでここでこの間、この草稿をめぐって行われた一連の論争についで少し言及するのを許して頂きたい。その論争の詳しい紹介は不要と考えるが、この草稿を理解する上で参考になるところがあると思えるからである。その論争とは、マルクスがイングランド銀行の貸し出した銀行券がどのように還流してくるかを考察しているところで(それはこの後の【37以降で論じている)、マルクスがイングランド銀行が銀行券を貸し出す形態として考えているのは「手形割引」なのか、それとも「担保貸付」なのかといったものであった。この論争そのものは、今後マルクスがその問題を実際に考察している【37】パラグラフの直前とそれ以降でも再度取り上げて問題にする予定であるが、とりあえず、上記の文章で明らかになることをまずここでも確認しておくことにしよう。
 つまりここでは明らかにマルクスはまずイングランド銀行の〈有価証券の数が表現しているのは、……(同行が行う)手形の割引の大きさである〉と述べたあと、カッコで括って〈および容易に換金できる有価証券を担保とする貸付の大きさである〉とも付け加えている。
 これを見る限り、マルクスが主要に問題にしているのは「手形割引」であり、「担保貸付」については補足的に述べていることが分かる。少なくとも言えることは、マルクスは「手形割引」と「担保貸付」のいずれか一方ではなく、両方を想定して述べていると言えるだろう。
 つまりこの間の論者のようにどちらか一方だとは決めつけていないのである。論者の一人である林紘義氏は最初はマルクスが問題にしているのは「手形割引」であって、「担保貸付」と捉えるのは間違いであり、それはエンゲルスの修正に影響された誤った見解だと、田口騏一郎氏を批判したのであった。ところがその後、一転して見解を180度転換し、今度は、「手形割引」ではなく、「当時の事情」を持ち出して「公債を担保にした貨幣融通」だと主張するようになった(しかしそうだとすると、その場合の林氏の新しい立場は、氏が批判した田口氏と同様に、果たしてエンゲルスの修正に影響されていないのかどうかが問題になるが、どうしたことか林氏は自分自身のことになるとこの点は不問に伏したのである。しかし実際はどうなのかは後にわれわれは知ることになるだろう)。
 ただいうまでもなく、ここではこの間の論争そのものを詳しく取り上げる必要がないので、とりあえずこれぐらいの指摘にとどめておく。いずれにせよわれわれは、「手形割引」か「担保貸付」かのどちらか一方にマルクスは限っていないことをまずここでは確認しておこう。(因みに【20】【21】で見たマルクスが抜粋しているイングランド銀行総裁のウェゲリンの証言では「手形割引」についてのみ述べており、「担保貸付」については述べていないことも指摘しておく)。

【28】 (これはノートの331頁下段に書かれており【27】の途中につけられた原注b)であり、それがここから始まる。原注は【29】の最後まで続く)

 まずこの部分は原注の最初に書かれたマルクスの文章である。

 〈【原注】/331下/b)フラートンのこの箇所の全体を抜き出しておくことが重要である。なぜならこのなかには、彼がここで「資本」という言葉で何を考えているのかも示されているからである。〉

 今回も書き下し文は省略する。何も難しいことはない。この原注b)では、次に【29】で)、フラートンの著書からの抜粋が続くが、マルクスはそこでフラートンが「資本」という言葉で何を考えているかが分かると指摘している。つまり以下のフラートンからの引用の途中でマルクス自身の考察が挿入されているが、そこでのマルクスの主要な関心はフラートンが「資本」という言葉で何を考えているのかを明らかにすることなのである。とりあえず、われわれはそれを頭に入れておこう。

【29】 (これも原注b)の続きであるが、大変長いパラグラフとなっている。前半と最後はフラートンからの抜粋からなり、途中にマルクスの文章が丸カッコによって挿入されている。)

 最初のフラートンからの抜粋は【18】の訳注4)で紹介されているエンゲルスのフラートンからの引用文に続くものである(前半部分は重複している)。われわれはこのながい原注b)を、まず(1)フラートンからの抜粋部分、次に(2)マルクス自身の挿入文、そして最後に(3)再びフラートンからの抜粋部分、の三つに分けて検討しよう。まず最初はフラートンからの抜粋部分である。

 (1)フラートンからの抜粋部分の検討

 まずは抜粋部分だけを紹介する。

 「議会報告書のほんのうわっつらを検討しただけでも納得できるように,イングランド銀行の保有有価証券は,同行のCirculationと同じ方向に動くよりも反対の方向に動くことのほうが多いのであり,したがって,この大銀行の実例はけっして,地方銀行業者たちが強硬に主張している次のような趣旨の説の例外ではないのである。すなわち,どの銀行も,自行のCirculationがすでに,銀行券通貨a banknote currencyを用いるさいの普通の目的に適合している場合には,このCirculationを増加させることはできないのであり,この限界が越えられたのちに行なわれるその前貸の追加は,すべて自行の資本からなされなければならないのであって,その保有する有価証券の一部分売却するか,またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめるかすることによって,供給されなければならならない,ということである。」
 
① 〔注解〕この引用での強調はマルクスによるもの。

 次に抜粋部分の平易な書き下しというのも変だが、大谷氏が翻訳せずにただ「Circulation」と原文をそのまま使っている部分をどのように理解すべきかを示すためにも、一応、やっておくことにする。

 〈「議会報告のほんの上っ面を検討しただけでも納得できるように、イングランド銀行の保有有価証券は、同行の流通高と同じ方向に動くよりも反対の方向に動くことの方が多いのであり、したがって、この大銀行の実例はけっして、地方銀行業者たちが強硬に主張している次のような趣旨の説の例外ではないのである。すなわち、どの銀行も、自行の流通高がすでに、銀行券通貨を用いるさいの普通の目的に適合している場合には、この流通高を増加させることはできないのであり、その限界が越えられたのちに行われるその前貸しの追加は、すべて自己の資本からなされなければならないのであって、その保有する有価証券の一部を売却するか、またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめるかすることによって、供給されなければならない、ということである。」〉

 フラートンの主張をほぼそのまま紹介しただけである。だから若干解説しておく。
 彼が前半部分で言っていることは、まさにマルクスが【27】で言っていたイングランド銀行における保有有価証券と銀行券の流通高との動向そのものである。つまりフラートン自身が、この問題をこのように取り上げ、注目しているわけである。フラートンがここで言っているイングランド銀行の問題で考えていることは、実は、それまでに彼が言っていたことと基本的には同じことなのである。彼は次のように言っていた。

 「貨幣融通にたいする(すなわち資本の貸付に対する)需要は追加流通手段にたいする需要と同じだ,と考えること,あるいは両者はしばしば結びついていると考えることさえも,実際大きな間違いである。」〉(18】参照)と。

 つまりフラートンは、ここで〈イングランド銀行の保有有価証券〉の大きさは、イングランド銀行の〈貨幣融通〉の大きさを表していると考えているのである。なぜならそれは同行の「貨幣融通」の際に割引した手形や担保の大きさを示しているからである。また〈同行の流通高〉とは、同行が発行した銀行券のうち公衆の手中にある銀行券の高を、つまり先のフラートンの主張では〈追加流通手段に対する需要〉の大きさを表していると考えているわけである(もちろん厳密に言えば、後者は「追加的」な流通手段への需要であるが、それは結局、全体の銀行券の流通高の増加をもたらすという意味で同じと考えて良いだろう)。だからここでフラートンが言わんとすることは、〈イングランド銀行の貨幣融通の大きさは、同行の銀行券の流通高とは同じ方向に動くよりも反対の方向に動くほうが多い〉ということである。
 そしてだからそれは地方銀行業者たちが〈強硬に主張している次のような主旨の説の例外ではない〉とも彼は主張している。

 われわれはまずフラートンが地方銀行業者の主張として説明している文章を検討し、そのあとなぜフラートンはそれをイングランド銀行で生じている事態と同じと考えたのかについて検討することにしよう。
 フラートンが〈地方銀行業者たちが強硬に主張している〉〈〉というのは、平易に書き直すと、次のようなことである。

 〈どの地方の発券銀行も、自行が発行した銀行券の流通高が、すでに社会が需要する通貨としての銀行券(これはすでに【5】で見たように、彼らはそれを「収入」の流通を担うものと考えている)の流通量に達しているなら、それ以上に流通高を増加させることはできないのであり、それ以上の前貸しの追加は、すべて自分の資本からなされなければならない。つまり自分が保有する有価証券の一部を売却するか、またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめるかすることによって、供給されなければならないのだ。〉

 さて問題は、なぜフラートンは、この地方銀行業者たちの主張と、イングランド銀行の有価証券の保有高と銀行券の流通高が反対に動くという現象とが同じことを表しているのだと考えたのかということである。それを理解するためには、通貨学派に対する銀行学派の批判を少し理解しておく必要がある。
 われわれは通貨学派の主張についてはすでに説明しておいた(8】と【20】を参照)。通貨学派は、地方の発券銀行が競って銀行券を発行するとそれが過剰になり、通貨価値を下落させ、地金の流出をもたらし、恐慌を引き起こしたり激化させると主張し、地方銀行の発券を抑制するとともに、イングランド銀行の発券もその準備金の増減(金の流出入)に合わせて調節せよと主張したのであった(それを政策的に具体化したのがピール銀行条例であった)。
 だから当然、地方の発券銀行業者はこれに反発したが、銀行学派の批判は彼らの立場を代弁することになった。銀行学派の主張については、トゥックが『通貨原理の研究』のなかで「結論の要約」として自分たちの主張を17項目の箇条書きにしてまとめているのが参考になる(渡辺義彦訳・勁草出版サービスセンター刊141-145頁参照)。ただ、今それをすべて紹介しても煩雑になるだけなので、ここでは当面の問題と関連するものだけを紹介しておこう(箇条書き番号はトゥックによる、文章はさらに要約してある)。

 7)〈公衆の手もとにある銀行券の数量は、銀行券を必要とする目的の如何によって決まる。つまり資本を融通するためか、社会の諸階級の金で評価された所得を分配するためか、などの目的できまる。〉(ここでトゥックは流通銀行券の数量に、「資本の融通」に必要な銀行券の量も含めている。しかし、彼らはそれらが流通するのはほんの一瞬であり、それらはすぐに銀行に預金等として帰って来て「資本の貸付」になると考えている。だから実際は、通貨としての銀行券の流通は「収入の実現」を担うものに集約されると考えているのである--引用者)
 8)発券銀行は、イングランド銀行も含めて、銀行券の数量を直接増加することは出来ない。
 9)また同じように流通銀行券の総量を直接減ずることも出来ない。
 11)〈地方銀行もイングランド銀行も、彼らの紙幣つまり銀行券を追加して発行し、自らの銀行の努力をつよくするようなことはできない。つまり、銀行券が充分流通している場合には、発券銀行でも非発券銀行でも同様に、貸付や割引による前貸は、すべて自行の資本か預金者の資本のなかからできるだけである。〉

 これが銀行学派の主張なのである。つまり彼らは通貨として流通する銀行券(兌換券)については、銀行はその増減をコンロールできないのだと主張するのである。だからフラートンが地方銀行業者の主張とイングランド銀行で生じている事態とが同じことを意味していると考えたのは次のようなことである。
 すなわち地方銀行業者は、銀行券通貨がすでにその必要量に達していたら、それ以上の発行はできない、前貸しは自分の資本でしかできない、と主張し、イングランド銀行においても同行の貸付はイングランド銀行券でなされるのに、その貸付高を表す有価証券の保有高が増えても、銀行券の流通高は増えるどころかむしろ反対に減っているではないか、つまりイングランド銀行も銀行券の流通高については、何も操作できないのだ、貸付を増やしても、銀行券の流通高が増えずに減っているということは、その貸付が「資本の貸付」であることを示しているのだ、とフラートンは主張したかったのである。

 (2)マルクスの挿入文の検討

 ではそれに対するマルクスの挿入文を今度は検討してみよう。マルクスはこの挿入文では実に多くのことを語っているのに、それを明示的に述べずに、暗に示唆するだけにとどめている。だからそれを理解するには困難が付きまとうのである。だからわれわれは単にマルクスの挿入文を、これまでのように平易に書き下すだけでは、その内容を充分解説しつくせないと思う。だからとりあえず、マルクスの挿入文をこれまでどおり、できるだけ平易に書きなすと同時に、さらにそれに解説を加えるという形で説明することにしよう。
 まずはマルクスの挿入文の紹介である。

 〈では,ここではなにを資本と言っているのか? 銀行はもはや,自行にはもちろん少しも費用のかからない支払約束promiss to pay〕のかたちでは,前貸をすることができないということである。だが,銀行はいったいどのようにして前貸をするのか? 1)準備有価証券の売却(この準備有価証券というのは,国債,株券およびその他の利子付証券のことである)によって。だが,なにと引き換えに銀行はこれらの証券を売るのか? 貨幣,すなわち金または銀行券と引き換えにである。(この銀行券は,イングランド銀行の場合のように法貨であるかぎりでのものである)。つまり銀行が前貸しするものはどんな事情のもとでも貨幣である。ところがこの貨幣が,いまは銀行の資本の一部分を構成しているのである。銀行が金を前貸しする場合には,このことは自明である。銀行券の場合にも,今ではこの銀行券は資本を表わしている。なぜならば,銀行はこれと引き換えに現実の価値,利子付証券を譲渡したのだからである。私営銀行業者の場合には,有価証券の売却によって彼らのもとに流れ込む銀行券は,イングランド銀行券でしかありえない。というのは,それ以外の銀行券は有価証券代金の支払では受け取られないからである。だが,それがイングランド銀行自身である場合には,同行は,自分自身の銀行券を回収するために,資本,すなわち利子付証券を要するのである。そのうえに,イングランド銀行はそれによって自分自身の銀行券をCirculationから号|き上げることになる。(同行がこの同じ銀行券,あるいはそれに代わる銀行券をふたたび発行できるのは,同行のCirculationが最大限に達していない場合だけである。しかし,イングランド銀行が同じ銀行券をふたたび発行すれば,それは今度は資本を表わすのである。) しかし同行がその有価証券を売却するにいたるのはどのようにしてか,ということはのちに研究する必要がある。またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめることによって」という付け加えは,私営銀行業者の場合には,ただ,彼らがいつもならそのような有価証券に投資したであろうイングランド銀行〔券〕または金を,いまは投資できない,ということを意味するだけである。私営銀行業者は,自分自身の銀行券では有価証券を買うことができない。イングランド銀行は,もし金または《自分自身の》銀行券を手に入れるために有価証券を売却する必要がある場合には,もちろん,自行の銀行券で有価証券を買うことができないのである。どんな事情のもとでも資本という言葉は,銀行業者は自分の信用を貸す〔verpumpen〕だけではなくて,云々という銀行業者的な意味〔Banquirsinn〕で用いられているだけなのである。
 
② 〔注解〕この引用での強調はマルクスによるもの。

 次は、その平易な書き下し文である。

 〈フラートンや地方銀行業者たちは、ここで何を資本と言っているのであろうか? それを検討してみよう。
 地方銀行業者たちが言っていることは、銀行はもはや自行には少しも費用のかからない支払約束、つまり紙と印刷費以外に費用のかからない銀行券のかたちでは、前貸しをすることができないということである。それなら銀行はどのようにして前貸しをするのか?
 1)準備有価証券の売却によってということだ。もちろんこの場合、売却する準備有価証券というのは国債などの公的有価証券か株券などの利子付証券である。それでは地方銀行業者はこれらの有価証券を売って、何を入手しようとするのか、貨幣、すなわち金または銀行券である。ただしこの銀行券は法貨であるイングランド銀行券に限られる。つまり銀行が前貸しするのはとにかく貨幣(=貨幣としての貨幣)でなければならないのだ。そしてこの貨幣が、彼らの言い分では銀行の資本の一部を構成しているということだ。貨幣が金である場合、つまり銀行が金で前貸しをする場合には、このことは自明である。なぜなら、それは単なる銀行券のような紙切れとは違って、正真正銘の絶対的な価値だからである。また例え銀行券(しかし法貨としてのイングランド銀行券だが)の場合でも、それはいまや彼らにとって資本を表している。なぜなら、銀行はそれと引き換えに現実の価値、利子付証券を譲渡したからである。つまり彼らにとっては何の費用もかからないどころか自分の資本の一部の持ち出しであり、大いに費用がかかっているものなのだから(つまりここでは【5】で見たように、発券銀行業者は自己資本や借り入れ資本からの貸し出しを「資本の貸し出し」と意識するのであり、彼らにとっては有価証券を売却して入手したイングランド銀行券の貸し出しもそうした「自分の資本」の貸し出しとして意識されるということである)。
 私営銀行業者の場合は、彼らが準備有価証券を売って手にするのはイングランド銀行券以外のなにものでもない。というのはこの場合、それ以外の銀行券を有価証券の代金の支払で受け取るわけには行かないからである(彼らはそもそも「現金」を入手するために自らの準備有価証券を売却せざるを得なかったのだから)。
 ところでフラートンは、地方銀行もイングランド銀行も基本的には同じだと主張する。それなら、もし地方銀行業者たちが主張していることをイングランド銀行に当てはめてみたらどうなるか? それを今検討してみよう。
 地方銀行業者たちの主張をイングランド銀行に当てはめた場合、同行は結局、自分自身の銀行券を回収するために、資本、つまり利子付証券を必要とすることになる。そのうえに、イングランド銀行はそれによって自分自身の銀行券を流通から引き上げることになる。なぜなら、イングランド銀行の外にある同行の銀行券は、この場合すべて流通銀行券と想定されているからである。
 ということは銀行学派の主張からすればおかしなことになる。なぜなら、彼らの理屈からすればイングランド銀行はもはや銀行券での貸付ができないから、利子付証券を売却するのであり、それは彼の銀行券がすでに普通の目的では十分適合しているというのがその理由だったはずだからである。ところがイングランド銀行の場合は、利子付証券を売却すると、自行の銀行券を流通から引き上げることになる。つまり彼らの理屈からすれば、普通の目的においてもまだ同行は銀行券で貸し付ける“余裕”が出てくるということになるのである。これは明らかに矛盾であり、フラートン等の主張の根拠の無さを示すものであろう。
 (このようにイングランド銀行の場合は、回収した自行の銀行券をあるいはそれに代わる銀行券を再び貸し付けて発行できるのは、同行の銀行券の流通高が最大限に達していない場合だけである。ところが、地方銀行業者や銀行学派のいうところによれば、この同じ銀行券をイングランド銀行が発行すると、今度は資本を表すというのである。
 しかしそもそも彼らの理屈からすれば、通貨としての銀行券がすでに需要を満たしているから、つまり銀行券の流通高が最大限に達しているから、利子付証券を売却して、銀行券を購入しなければならなかったのであり、だからまたその銀行券の貸付は資本の貸付になるというのではなかったのか。ところが実際に彼らの理屈をイングランド銀行にあてはめてみると、反対に最大限に達していないからこそ、同行は同じ銀行券を再び発行しうることになる。つまり同行がそれで貸し付けをすることが出来ることになる。しかも今度は、それは資本の貸し付けになることになる。なぜなら、それは利子付証券を売却して流通から引き上げたものだからである。
 このようにフラートンの主張をイングランド銀行に当てはめると、まったく彼らの主張とは矛盾した結果になってしまうのである)。
 もっとも実際に、イングランド銀行が、その有価証券を売却するに至るのはどのようにしてか、というのはのちに研究する必要があるであろう。
 2)さて次は、フラートンがもう一つの前貸のやり方として言っていること、すなわち「またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめることによって」と付け加えている部分についても検討して見よう。
 これを私営銀行業者の場合にあてはめると、それはただ彼らがいつもならそのような有価証券に投資したであろうイングランド銀行券または金を、いまは投資できない、ということを意味するだけである。私営銀行業者は、もちろんこの場合、自分自身の銀行券では有価証券を買うことはできない。なぜなら、もはや彼らの銀行券は、それによる貸し付けさえ拒否されているぐらいであり、そういう状況で銀行に有価証券を売却する人々も、まさに銀行に貸付を要求する人々と同様、それによって現金(金またはイングランド銀行券)を入手しようとしているのであって、地方銀行の銀行券などには見向きもしないからである。だからこの場合、彼らが本来有価証券に投資したであろうと考えられるのは、金またはイングランド銀行券であり、それがいまでは投資できないということを意味するだけである。
 ではイングランド銀行の場合はどうか? 同行の場合は法貨である自行の銀行券で有価証券をいくらでも買うことは可能のように見える。しかしイングランド銀行の場合も、先に見たように、同行が金または自分自身の銀行券を手に入れるために有価証券を売却する必要があるような場合には、もちろん、自行の銀行券で有価証券を買うことはできないのである。
 なぜなら、イングランド銀行が有価証券を売って金を入手するということは、同行の準備金が底を尽き積み増す必要がある時であり、それは同行の銀行券の流通高に比して準備金が少なくなりすぎている、つまり銀行券の流通高が限度を超えているということと同義だからである。また自分自身の銀行券を回収する必要がある時というのは、やはり同じように同行の銀行券の流通高が限度以上に高くなりすぎていると考えられるだろう。だからそういう時に、銀行券のさらなる流通につながる有価証券の購入に同行の銀行券を支払うことができないのは当然であろう。
 だから「有価証券への投資をやめる」といっても、やはりフラートンの主張とは異なり、地方銀行業者の場合とイングランド銀行の場合とでは決して同じ事情ではないのである。
 結局、地方銀行業者やフラートンら銀行学派が言っている「資本」という言葉は、どんな事情のもとでも、ただ銀行業者は自分にとって何の費用もかからない自身の信用を貸すだけではないということ、つまり自分の資本の一部の持ち出しになるという、銀行業者的な意味で用いられているだけなのである。〉

 かなり内容を補足して説明したので、ある程度は分かって頂いたと思うが、まだマルクスが明示的に述べずに、ただ暗示するだけに終わっている問題を解説しておかなければならない。
 まずマルクスは最初に、〈では、ここではなにを資本と言っているのか〉とこの挿入文で彼が何を問題にするかを明確にしている。このようにマルクスが最初に課題を設定したことが、それ以外の問題については明示的に述べずに、ただ暗示するだけにさせた最大の理由であろうと思われる(マルクスにとってはそれはここで明らかにせずとも、引き続いて展開するなかで明らかになるだろうとの考えもあったのであろう)。
 そしてマルクスはいきなりフラートンが〈地方銀行業者たちが強硬に主張している〉〈〉として説明しているものの検討から始めている。しかし本来フラートンの引用文を検討するのであれば、まずフラートンが最初に問題にしているイングランド銀行の問題を検討するのが先のように思えるのだが、しかしそれはマルクスにすれば、その後すぐに本文のなかで詳しく検討する予定なのである。だからここではとにかく最初に課題を設定した問題に絞って検討しようとしているのである。
 すでに説明したように、フラートンらは、この地方銀行業者たちが強硬に主張している説を、彼らの主張、すなわち通貨としての銀行券が社会が必要とするに充分なだけ流通しているなら、それ以上の銀行券を流通させようとしても出来ないのだ、銀行は通貨としての銀行券の流通の量を左右できないのだという主張を根拠づけるものとして取り上げているわけである。
 しかしマルクスはフラートンのそうした主張の誤りを指摘する。しかしマルクスはそれをここでは明示的には述べていない。マルクスは地方銀行業者たちがもはや銀行券による貸付が出来ないと言っているのは、決してフラートンらが言うように、彼らの銀行券がすでに通貨として必要なだけ流通しているのが原因なのではなく、銀行に貸付を要求してくる資本家たちが彼らの単なる支払約束(つまり彼らの発行する地方銀行券)での貸付を求めないからだと指摘しているのである。これはどういうことかというと、この場合、銀行に貸付を要求してきているのは、まさに逼迫期に自分の手形の支払を迫られている資本家たちなのである。だから彼らは支払手段としての現金(つまり金または法貨としてイングランド銀行券)以外の貸付は受け付けないのである。つまりこうした逼迫期においては地方銀行の単なる支払約束(地方銀行券)では信用がなく(なぜなら逼迫期というのはまさに信用が動揺して収縮している時なのだから)、誰もが現金(金またはイングランド銀行券)以外の地方の発券銀行の発行した地方銀行券による支払を受け付けないからである。
 当時は地方の発券銀行もよく倒産したのであり、トゥックはイギリス連合王国では当初は1ポンド銀行券が全国に流通していたが、しかし少額の銀行券は労働者階級の比較的恵まれた部分に多く持たれていたために、恐慌時に地方の発券銀行が次々と倒産すると、その犠牲のしわ寄せはそうした労働者階級に集中したこと、だからイングランドとウェールズでは5ポンド未満の銀行券の発行は禁止され、それ未満は金貨等による支払を義務づけたという事情を紹介している(スコットランドなどでは早くから株式銀行の設立が許可されていてその分倒産が少なかったので、それ以後も1ポンド銀行券は流通していた)。地方銀行の発行する銀行券だと、もしその銀行が倒産すればただの紙屑になってしまうのである。だから逼迫期には支払手段としてはそれらはまったく通用しなかったのである。だから彼らは貸付を要求してくる資本家たちに答えるためには、金あるいは法貨としてのイングランド銀行券を手に入れるために有価証券を売却する必要があったのだとマルクスは指摘しているのである。
 つまり地方銀行業者たちが強硬に主張していることは、銀行学派の主張を裏付けるものではまったくないのである。しかしマルクスはそれをただ暗示するだけにとどめて、明確には指摘していない。
 マルクスは、フラートンのイングランド銀行と地方銀行とは基本的に同じだという主張(こうした主張は当時の銀行学派に共通のもので、例えば先に紹介したトゥックの「結論の要約」の項目8)や11)を見てもそれを知ることができる。それに対して通貨学派はイングランド銀行の他の地方銀行に比しての特殊性を強調する傾向があった)に対して、それを逆手にとって、では地方銀行で生じている事態をイングランド銀行にあてはめてみればどうなるのか、という形でフラートンの主張の矛盾点を突いているのである。つまりイングランド銀行に当てはめると、むしろフラートンらの主張とは違って、イングランド銀行が自行の銀行券を回収するために有価証券を売却したなら、それは銀行券を流通から引き上げることになる。つまりそれは彼らのいう普通の目的に適合した数量より少なくなるはずなのに、それを再び貸し付けると「資本の貸付」になるというのは、明らかに彼らの主張とは矛盾した事態である、とマルクスは言いたいのである。
 銀行学派にしろ通貨学派にしろ、この当時はまだイングランド銀行の中央銀行としての性格や意義が十分理解されていなかった。通貨学派は確かにイングランド銀行の特殊性を理解していたが、しかしそれはただ発券業務に関してであり、ただ「通貨政策」においてだけであった。だから彼らはイングランド銀行の銀行業務については、他の一般銀行とまったく同じだと考えて、その信用制度の中軸としての位置づけを理解しなかったのである。他方、銀行学派はイングランド銀行の信用制度の中軸としての意義を少しは理解していたが、しかし彼らは通貨学派批判のなかで、むしろ地方銀行とイングランド銀行との同等性を主張する方向に傾きがちであった。ここではマルクスはまだイングランド銀行の中央銀行としての性格を明確に問題にはしていないが、しかしフラートンの批判を通じて、イングランド銀行が地方銀行とは違うことを暗に示していると考えることができる。
 このようにイングランド銀行に当てはめれば、フラートンの主張とは相反することになることを暴露しながら、マルクスはフラートンの主張の根拠の無さを指摘しているのである。こうしたマルクスのフラートン批判の仕方は彼が最初に問題をせまく限定したということと、今後の展開のなかで論じるべき問題をこの原注のなかで先走って展開するのはどうかという配慮があったためと考えられる。
 マルクスはイングランド銀行が地方銀行業者たちがいうような、保有する有価証券で自行の銀行券を流通から回収しなければならない状況とは、本来どういう状況なのかを暗に示唆するだけで、それを正面から論じようとはしていない。それは〈のちに研究する必要がある〉としているだけである。しかしそれが地方の発券銀行が有価証券を売却して銀行券を入手しなければならない事情と(しかし彼らの場合は入手するのはイングランド銀行券なのだが)、イングランド銀行がそうしなければならない事情とは決して同じではないこと、その意味でもフラートンの主張が誤りであることは明確に指摘しているのである。

 (3)再びフラートンからの引用部分の検討

 さて、われわれにはまだフラートンの引用文の最後の残りの部分の検討が残っている。この場合も、フラートンの引用文を紹介するだけにして平易な解読文は省略する。

 「1837年1月3日、信用を維持し貨幣市場の困難に対処するためにイングランド銀行の資力が極度まで利用しつくされたとき、同行の貸付および割引への前貸しが17,022,000ポンド・スターリングという巨額に達したのをわれわれは見いだすのであるが、この金額はあの戦争〔ナポレオン戦争〕以来ほとんど聞いたことのないもので、それは、この期間中17,076,000ポンド・スターリングという低い水準にそのままとどまっていた総発券高にほぼ等しかったのである! 他方、1833年6月4日には、18,892,000ポンド・スターリングというCirculationが、972,000ポンド・スターリングを超えないイングランド銀行の私的有価証券保有高にかんする銀行報告と結びついているのであって、この後者の額は、過去半世紀間の記録中の最低ではないにしても、ほとんどそれに近いものだったのである」(フラートン。97,98ページ。)【原注終わり】/
 
③ 〔注解〕この引用での強調はマルクスによるもの。

 これは一見して明らかに、最初の引用文の冒頭でフラートンが述べている現象、すなわち〈イングランド銀行の保有有価証券は、同行の流通高と同じ方向に動くよりも反対の方向に動くことのほうが多い〉、というその具体例であることが分かる。
 すなわち最初の1836年末から1837年初頭というのはイギリスが激しい恐慌に見舞われた時である。この恐慌は39年まで続いている。37年1月にはイングランド銀行の手形割引の残高が最高額を示している。また36年末には同行の金準備は400万ポンドを割り、39年には250万ポンドを割ってフランスに援助を求めるという「国民的屈辱」ともいえる事態が生じている、そういう時代のことである。それに対して1833年以後の3年間というのはイギリス経済にとっては非常な繁栄期であった。
 だからフラートンが最初に問題にしていたイングランド銀行に対する「貨幣融通の需要」が高まる時というのは、まさに恐慌時であることが分かるであろう。そして以下本文でマルクスが分析しているのもまさにそうした恐慌時の話なのである。とりあえず、われわれはこのことを確認して次に進むことにしよう。フラートンのこの引用文については、そうした事実確認をするだけで特にそれ以上の解説は必要ないであろう。(続く)

2015年7月21日 (火)

林理論批判(10)

〈『プロメテウス』第55・56合併号の批判的検討ノートNo.1〉

 【はじめに】

 これまでは、『海つばめ』1236・1237合併号(2014.10.19)に掲載された《社会主義における「分配」はいかになされるか――消費手段の「価値規定」問題――「価値移転」ドグマとの訣別が“解決”の鍵》を批判的に検討したノートを9回にわたって紹介してきたが、この際、この問題に関連するものを引き続き紹介していくことにしたい。上記の林氏の『海つばめ』の論文の最後には次のような補足的な説明があった。

 〈〔なお、この小論は、一昨年の労働者セミナーにおけるチュウターの報告と議論の全てを特集した、『プロメテウス』55・56合併号を合わせて読まれ、検討されれば、我々の「社会主義社会における価値規定」に関する概念についての議論や結論の持つ決定的な重要性と意義をいっそう深く理解し、確認していただけると思う〕〉

 この『プロメ』の合併号の検討も、当然、私の所属する支部でも支部の学習会として取り組んだ。まず巻頭文書〈「科学的社会主義の真髄」今明らかに--労働者に身近な「社会主義における『分配』と『消費』の問題」〉(林紘義著)、と「報告文書」〈社会主義の根底的意義を問う--「価値規定による分配」とは何か〉(林紘義著)である。しかし殘念ながら、この支部の学習会は途中で頓挫してしまい。上記の二つの論文の最後まで行かないうちに中途半端な形で終わってしまった。よって私自身が支部に提出した批判的検討のレジュメも、二つ目の論文の最後まで行かず、途中で終わってしまっている。

 もちろん、このブログに掲載するにあたって、最後まで批判的検討を進めることは可能ではあるが、しかし私自身は取り立てて、今、林批判をやることに意義を見出しているわけではない。そんなことに時間を使うなら、他にやるべき重要なことが幾らでもあると思っている。このブログで「林理論批判」を連載しているのは、最初にもお断りしたように、これまで私が林氏のさまざまな文書類を批判的に取り上げてレジュメとして支部に提出してきたものを、そのまま埋もれさせるのではなく、このブログを利用して、公開しておこうというだけであって、改めて林理論批判を展開することが本来の主旨では無いのである。だからこれから紹介するものは、中途半端な形で終わってしまっているものをそのまま紹介するのであるが、しかし、それは支部の学習会そのものが途中半端なかたちで断ち切れてしまった結果の反映であることをご了解願いたい。
 では、最初は巻頭論文の批判的検討ノートから紹介していくことにしよう。

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〈「科学的社会主義の真髄」今明らかに--労働者に身近な「社会主義における『分配』と『消費』の問題」〉(林紘義)の批判

 ここでは、これまで私が林氏が書いたものを批判する時にやってきたように、『プロメ』を読みながら、引っかかった部分を書き出して、その批判的コメントを書いていくという形でやることにする。だから読む人にとってはまとまった論文の形式をとっていないことから、読みにくいであろうが、しかし、実際に『プロメ』を読んでいる人にとっては、ある意味ではむしろ分かりやすいとも思うのである。

●社会主義における「分配」の問題は議論されたことも、その正しい理論的解決が示されたことも無かったって?

 林氏は、次のように述べている。

 〈社会主義について、その本質や内容や闘いについては、これまでもずっと(百年、二百年にもわたって)、資本主義の発展と労働者階級の闘いの中で多くが語られてきたが、しかし我々が今回悶題にしたテーマー社会主義における「分配」の問題--については、ついぞ深く検討され、議論されたことも、またその正しい理論的解決が示されたこともなかったが--共産党の諸君には、その問題意識さえなかったし、今もないのだが--、しかし我々は、労働の解放を目指すグループとして、この問題に明白な圃答を出す必要を自覚し、今回の労働者セミナーなどで徹底的な検討や議論を行うことによって、その答を見い出してきたのであった。〉(3頁)

 しかし、社会主義における分配問題については、われわれはマルクスの『ゴータ綱領批判』という明確な答えを持っているのであって、〈ついぞ深く検討され、議論されたことも、またその正しい理論的解決が示されたこともなかった〉などというのはとんでもない主張である。しかも林氏はマルクスが『ゴータ綱領批判』で分配問題を取り扱ったことについて、断りを入れる必要を考えていたことについて、何も知らないのである。マルクスは次のように述べている。

 〈いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであった。
 いつの時代にも消費手段の分配は、生産諸条件そのものの分配の結果にすぎない。しかし、生産諸条件の分配は、生産様式そのものの一特徴である。たとえば資本主義的生産様式は、物的生産諸条件が資本所有と土地所有というかたちで働かない者のあいだに分配されていて、これにたいして大衆はたんに人的生産条件すなわち労働力の所有者にすぎない、ということを土台にしている。生産の諸要素がこのように分配されておれば、今日のような消費手段の分配がおのずから生じる。物的生産諸条件が労働者自身の協同的所有であるなら、同じように、今日とは違った消費手段の分配が生じる。俗流社会主義はブルジョア経済学者から(そして民主主義者の一部がついで俗流社会主義から)、分配を生産様式から独立したものとして考察し、また扱い、したがって社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方を、受けついでいる。〉(全集19巻21-22頁)

 つまりマルクスが、『ゴータ綱領批判』で、将来の社会主義社会での分配問題を取り扱ったのは、ドイツ社会民主労働党の合同を目指して発表されたアイゼナッハ派の綱領草案が「分配のことで大騒ぎしてそれに主要な力点をおい」ていたからであり、その誤りを明らかにするためだったのである。マルクスの言いたいことは、それとは反対に、〈社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明する〉のは間違っている。それは〈俗流社会主義〉に自らを貶めることだ、ということである。

 だからもし林氏がいうように、〈共産党の諸君〉に、分配問題の〈問題意識さえなかったし、今もない〉とするなら、それはむしろ共産党の名誉であって、何ら非難される筋合いのものではないのである。
 しかし、林氏はセミナーのレジュメのなかで、〈共産党系の雑誌、『文化評論』の89年11月号は《『資本論』と社会主義》に関する座談会を掲載した〉ことを紹介し、その内容について論じているが、そこでは「価値規定による分配」が問題になっているではないか。とするなら、彼らの主張の是非はともかく彼らもまた将来の社会主義における「価値規定による分配」について論じ、それがあたかも社会主義の中心問題であるかに論じていたのではないのか。だからこそ林氏も「社会主義の概念の根底」に個人的消費手段の分配問題を置いたのではないのか。つまり林氏自身も、彼が批判するスターリニスト達と同じ土俵の上に立ってしまっているのではないのか。これは恥ずかしいことである。
 マルクスの場合、社会主義社会における分配問題を取り扱ったのは、それが社会主義の中心問題と考えたからではなく(ましてや「社会主義の概念の根底」などと考えたわけではさらさらなく)、ゴータ綱領草案のなかで、あたかもそれが中心問題として扱われ、大騒ぎしているから、それを諫め、正しい理解を与えるためであった。だからこそ、マルクスは、自分が分配問題を扱ったことから誤解が生じないようにわざわざ断りを入れているのである。ところが、林氏は、まさにマルクスが心配したような誤解に陥り、将来の社会では個人的消費手段の分配はどうなるのかという何とも俗物的な関心から、社会主義を論ずるという最悪の俗悪ぶりを示しながら、それに無自覚なのである。これは自分が俗流社会主義者であることを言い回っているようなものではないか。何度も言うが、これは本当に恥ずかしいことである。

●概念が権威を失うだって?

 〈「社会主義」や「共産主義」の概念は、ソ連や中国の「失敗」や、それらのブルジョア社会への転化もしくは移行(堕落)によって、すっかり権威を失い、その妥当性や正当性や"有効性"が疑われ、もはや「死んだ犬」、過去のものとして取り扱われるようになっている。〉(3頁)

 確かにここでは社会主義や共産主義がカギ括弧に入っている。しかし、もし林氏が「社会主義や共産主義の概念」について語っているのなら、それらが権威を失うなどということが果たしてあるだろうか。個人的消費手段の分配問題を「社会主義の概念の根底」だなどと説明することは、果たして「社会主義の概念の権威」を失わせることではないのか。もし文字通りの意味で「社会主義や共産主義の概念」が語られているのなら、それが権威を失うというようなことはないであろう。その概念が正しく説明されず、個人的消費手段の分配の問題に矮小化されるなら、それ自体は決して「概念」などと言えるものではないのである。ここで林氏が「概念」などという用語を使うのは、「概念」なるものを正しく理解していないからである。ここは《「社会主義」や「共産主義」の観念は、……》とか《「社会主義」や「共産主義」のイメージは、……》という程度の表現にとどめるべきであったであろう。

●〈我々が今回、社会主義における「分配」問題について、徹底した議論を交わしたのは、社会主義の概念を、それが実際的にどんな社会関係を意味するかを、全面的に、そしてとりわけマルクスも示唆してきた、「分配」の問題にまで深く立ち入って解明し、明らかにするためであった。実際これまで、社会主義の展望や具体的な内容としては、「労働者の権力奪取」とか、「私的所有と資本の支配の一掃」とか、「生産手段の国有化」もしくは「生産手段の共有」とか、[搾取の廃絶」とかいった、あれこれの概念が提出されてきたが、しかし社会主義の決定的に重要な一側面は、つまり労働者は一体社会主義のもとで、どんな「分配関係」に置かれるのか、という点は必ずしも明らかにされて来なかったのである。〉(4頁)

 社会主義の概念を分配問題を中心に説明することは馬鹿げた話である。それにこれまで社会主義の概念を明らかにされてこなかったというのは、ただ林氏にとって、という限定が必要であろう。林氏だけが今もって社会主義の概念を知らないだけではないのか。

●〈こうした観念が人類の歴史上、これまで明確な形では述べられたことはなかったとい う意味でも、その意義はいくら強調してもし過ぎることはない。〉(4頁)

 馬鹿馬鹿しくてコメントもする気も失せる。

●〈消費手段の「価値規定による分配」という社会主義の"法則"は、当然、社会主義にお ける生産手段の「分配」という問題を多くのセミナー参加者に「思い出させ」、その問題も議論され、解決されなくてはならなかった〉(4頁)

 これは逆ではないか。消費手段の分配が生産手段の分配を「思い出させ」るだって?
 マルクスも強調するように、生産手段の分配、つまり生産の諸条件があって、自ずから分配がその結果として明らかになるのである。

●〈つまり労働(労働時間)が「対象化」され、あるいは「蓄積」されるとか、またそれが資本価値として「移転」されるとかいったことが、ただブルジョア社会、ブルジョア的生産関係においてのみ"法則"として貫徽するにすぎないということ、そしてそんな観念を社会主義にまで持ち込むことは、ブルジョア社会に特有な"物神崇拝" の幻想に敗り付かれているにすぎないことも確認することができたのであった。〉(4頁)

 ここでは問題がごっちゃに混乱させられている。まず労働が対象化される、あるいはそれが積み重なるということは、資本価値として移転するといったこととは別個の話である。前者は将来の社会でも〈"法則"として貫徽する〉が、後者は〈ただブルジョア社会、ブルジョア的生産関係においてのみ"法則"として貫徽するにすぎない〉。林氏はこれをごっちゃに論じることによって、事実上、前者も〈ただブルジョア社会、ブルジョア的生産関係においてのみ"法則"として貫徽する〉ものと理解している、そうした誤った認識に陥っていることを暴露している。しかし、生産物に対象化された労働が分からずして、どうして、その生産物を社会に効果的に配分することが可能なのであろう。そもそも労働者が、彼が与えた労働に応じて、社会から同じだけの労働が対象化された消費手段を得るということは、消費手段に対象化されている労働をわれわれが知っていることが前提されていることではないのか。労働が生産物に「対象化」されるという認識は、〈ブルジョア社会に特有な"物神崇拝" の幻想に敗り付かれているすぎない〉などというのは馬鹿げた主張である。マルクスはどのように述べているのか、われわれは確認しておこう。

 〈ブルジョア社会では,生きた労働は,蓄積された労働を増大させるための一つの手段にすぎない。共産主義社会では,蓄積された労働は,労働者の生活過程を拡大し,豊かにし,増進する一つの手段にすぎない。/だから,ブルジョア社会では過去が現在を支配し,共産主義社会では現在が過去を支配する。〉(『共産党宣言』ME全集4、S.476)

 〈使用価値は直接には生活手段である。だが逆に、これらの生活手段そのものは、社会的生活の生産物であり、支出された人間生命力の結果であり、対象化された労働である。〉(『経済学批判』ME全集13巻15頁)

 〈使用価値は、富の社会的形態がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。〉(『資本論』ME全集23a49頁)

 〈労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。〉(同58頁)

 〈要するに、労働過程では人間の活動が労働手段を使って一つの前もって企図された労働対象の変化をひき起こすのである。この過程は生産物では消えている。その生産物はある使用価値であり、形態変化によって人間の欲望に適合するようにされた自然素材である。労働はその対象と結びつけられた。労働は対象化されており、対象は労働を加えられている。労働者の側に不静止の形態で現われたものが、今では静止した性質として、存在の形態で、生産物の側に現われる。労働者は紡いだのであり、生産物は紡がれたものである。〉(『資本論』23a237-8頁)

 だから使用価値の生産のために支出された労働が、その生産物に対象化れ、蓄積されるということは、どんな社会形態にも関わりのない物質的な関係であり、過程なのである。マルクスは〈共産主義社会では,蓄積された労働は,労働者の生活過程を拡大し,豊かにし,増進する一つの手段にすぎない〉と述べ、共産主義社会でも蓄積された労働が問題になることを示唆している。

 林氏はここでは〈労働(労働時間)が「対象化」され、あるいは「蓄積」される〉ということと、〈それが資本価値として「移転」される〉ということをわざと混同して論じている。これは林氏に特徴的な論じ方なのである。後者が〈ただブルジョア社会、ブルジョア的生産関係においてのみ"法則"として貫徽する〉ことは〈資本価値〉という用語を使っていることを見ても、誰の目にも明らかである。しかし、林氏には〈労働(労働時間)が「対象化」され、あるいは「蓄積」される〉ということが果たして〈ただブルジョア社会、ブルジョア的生産関係においてのみ"法則"として貫徽する〉ものとして理解してよいのかどうかはやや自信がないのである。だからこうした場合に、常に林氏のやり方は、こうした〈ただブルジョア社会、ブルジョア的生産関係においてのみ"法則"として貫徽する〉ものとして全く明瞭なものと、それがいま一つ自分自身にとって明瞭でなく自信のないもの--しかし自分はそれは〈ただブルジョア社会、ブルジョア的生産関係においてのみ"法則"として貫徽する〉のだと思っているのだが--とを、一緒に論じることによって、例え間違いを指摘されても、〈それが資本価値として「移転」される〉ということに主張の重点があるのであって、〈労働(労働時間)が「対象化」され、あるいは「蓄積」される〉というのは、ただ〈それが資本価値として「移転」される〉ということを説明する前提として述べているだけだ、などと言い抜けることができると考えているのである。これが狡賢い、そしてそれだけに情けない林氏の議論のやり方なのである。

●〈すなわち、社会主義においては、分配において「価値規定」の"法則"が適用されるとしても、しかし生産においては、いわゆる「生きた労働」と生産手段との関係だけが問題となること、ここにおいては「価値規定」の"法則"さえ存在意義を失うし、失わざるを得ないこと、生産手段の「価値規定」など必要がないことも明らかにされたのであった。というのは、生産手段はすでに社会の共有に移されており、私的な所有でないのはもちろん、私的な利用とか運用といった、"私人"に関係する契機をすでに完全に無くしているから、人類は「価値法則」はもちろん、「価値規定」といったもののお世話にさえなる必要はなく、立派に「生産」を組織し、合理的に、賢く運営していくことができるだろうからである。〉(5-6頁)

 ここには、林氏が何故、「価値規定」という言葉に拘るのか、その理由が明らかにされている。林氏は、ある時は「価値規定」を、例えば「価値規定による分配」という場合のように、ほぼ「労働時間」と同じようなニュアンスで使い、今回の場合のように、商品生産に固有の規定として使うというように、上手く使い分け、曖昧な形で問題を論じることが出来るからであり、だからそうした曖昧さは、批判されたりした時に、上手く言い抜けることが出来ると考えるからである。どうして社会主義における分配を「価値規定による分配」というのか、なぜ、スッキリと「労働時間による分配」と言わないのか、と何人かの会員は林氏を追求したのだが、林氏はあいまいに、どっちでも同じかのように、誤魔化して、言い逃れてきたのであるが、それが今回の文章では、その曖昧に論じる魂胆が、まったく透けて見えているわけである。
 例えば、林氏は冒頭、次のように述べていた。

 〈我々が今回の『プロメテウス』特集号で紹介し、明らかにするのは、今年の3月から4月にかけて関西と首都圏で行われた、マルクス主義同志会の労働者セミナーの内容であり、議論であるが、それは社会主義における「分配」の問題、すなわち「価値規定(労働時間) による分配」というテーマをめぐって行われたものであった。〉(3頁)

 このようにここでは「価値規定」を言い替えて「労働時間」とも述べている。つまり価値規定は労働時間と同じ意味で使われているのである。ところで、今回のパラグラフでは、林氏は価値規定について、それは〈私的な所有〉や〈私的な利用とか運用といった、"私人"に関係する契機〉だと説明されるわけである。
 しかし、では、林氏にお聞きするが、社会主義における個人的消費手段の分配においては、林氏は、〈「価値規定」の"法則"が適用される〉とお考えである。ということは、社会主義でも個人的消費手段については〈私的な所有〉や〈私的な利用とか運用といった、"私人"に関係する契機〉として現れると考えているのであろうか。確かにそれは個人的な消費手段である。だからそれは分配の後には個人的所有になる。しかし、この「個人的所有」は「私的所有」と決して同じではない。そもそも林氏は、社会主義における個人を「私人」と考えているのである。だからこそ、林氏は個人的消費手段の分配には〈私的な所有〉や〈私的な利用とか運用といった、"私人"に関係する契機〉に関係する〈「価値規定」の"法則"が適用される〉と考えているのであろう。

 こうした曖昧さは、例えば、林氏が最初に述べているように〈価値規定(労働時間)〉という理解を前提に論じてみれば、明らかになる。今回のパラグラフを「価値規定」を「労働時間」に置き換えみよう。

 〈すなわち、社会主義においては、分配において「労働時間」の"法則"が適用されるとしても、しかし生産においては、いわゆる「生きた労働」と生産手段との関係だけが問題となること、ここにおいては「労働時間」の"法則"さえ存在意義を失うし、失わざるを得ないこと、生産手段の「労働時間」など必要がないことも明らかにされたのであった。というのは、生産手段はすでに社会の共有に移されており、私的な所有でないのはもちろん、私的な利用とか運用といった、"私人"に関係する契機をすでに完全に無くしているから、人類は「労働時間の法則」はもちろん、「労働時間」といったもののお世話にさえなる必要はなく、立派に「生産」を組織し、合理的に、賢く運営していくことができるだろうからである。〉(5-6頁)

 このように書き換えれば、林氏の主張の誤りは一目瞭然である。それがハッキリしないのは、林氏は「価値規定」という言葉を曖昧さを加味して(林氏特有の曖昧さを持たせて)論じているからなのである。

 生産手段にどれだけの労働時間が対象化されているかということは、それを使って生産した消費手段が、どれだけの労働時間が対象化されたものかを知るためには、不可欠のことであろう。そして消費手段のどれそれがどれだけの労働時間の対象化されたものかを知らなければ、労働者が社会に与えた労働時間に対応した消費手段を手にすることも出来ないのである。だからもし、林氏が〈分配において「価値規定(労働時間)」の"法則"が適用される〉ことを認めるなら、彼らに分配される消費手段がどれだけの労働の生産物か、それにどれだけの労働時間が対象化されているかを知らなければ、そもそも分配そのものが不可能ではないか。マルクスは次のように述べている。

 〈この共産主義社会は、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも精神的にも、その共産主義社会が生まれでてきた母胎たる旧社会の母斑をまだおびている。したがって、個個の生産者は、彼が社会にあたえたのと正確に同じだけのものを--控除をしたうえで--返してもらう。個々の生産者が社会にあたえたものは、彼の個人的労働量である。たとえば、社会的労働日は個人的労働時間の総和からなり、個々の生産者の個人的労働時間は、社会的労働日のうちの彼の給付部分、すなわち社会的労働日のうちの彼の持分である。個々の生産者はこれこれの労働(共同の元本のための彼の労働分を控除したうえで)を給付したという証明書を社会から受け取り、この証明書をもって消費手段の社会的貯蔵のうちから等しい量の労働が費やされた消費手段を引きだす。個々の生産者は自分が一つのかたちで社会にあたえたのと同じ労働量を別のかたちで返してもらうのである。〉(ゴータ綱領批判』ME全集19巻20頁)

 このようにマルクスは〈個々の生産者はこれこれの労働(共同の元本のための彼の労働分を控除したうえで)を給付したという証明書を社会から受け取り、この証明書をもって消費手段の社会的貯蔵のうちから等しい量の労働が費やされた消費手段を引きだす〉と述べている。つまり労働者は、彼が社会に給付した労働と〈等しい量の労働が費やされた消費手段を引き出す〉のである。だから当然、労働者か引き出す消費手段には、どれだけの労働が費やされたものか、つまりどれだけの労働時間が対象化されているのかを知らなければ、そもそもこうした分配はやりようがないことは明らかである。そして消費手段に費やされた労働時間というのは、単に、その消費手段を直接生産するために、支出された労働だけではなく、その生産の過程で使用された生産手段の生産のために費やされた労働時間もまた入ることは明らかであろう。そしてこのことを認めるなら、それは林氏流に言えば、つまり生産手段の「価値規定(労働時間)」も必要だということではないか。いくら林氏が〈人類は「労働時間の法則」はもちろん、「労働時間」といったもののお世話にさえなる必要はなく、立派に「生産」を組織し、合理的に、賢く運営していくことができる〉と請け負ったとしても、しかし、その生産の結果としての消費手段には、どれだけの労働が費やされたかを知らねばどうしようもないのであり、そのためにはやはり生産においても〈「労働時間」といったもののお世話〉が必要なのである。

●〈他方、「分配」にのみ「価値規定」が必要となるのは、そこにまだ"個人的な"契機が残るから、残らざるを得ないからであって、その限りで「価値規定による分紀」ということが意味を持つにすぎない、ということも明瞭に確認されたのであった。〉(6頁)

 どうして個人的な契機が残ったら、「価値規定」が必要なのであろうか。その個人は〈私人〉であり、彼らは「私的所有」者なのか、林氏は答えるべきである。なぜなら、林氏は生産手段に「価値規定」は不要な理由として、〈生産手段はすでに社会の共有に移されており、私的な所有でないのはもちろん、私的な利用とか運用といった、"私人"に関係する契機をすでに完全に無くしているから〉とその理由を述べていたわけである。とするなら、問題は単に「個人的な契機」といったものではなく、「私的な契機」あるいは「私人に関係する契機」が分配では生じると言わなければ論理的に一貫しないのではないか。
 そしてすでに述べたように、資本主義から生まれたばかりの社会では、各人は自分が社会に与えた労働に応じて、消費手段の分配を受けとるという原則が依然としあるというのなら、消費手段にどれだけの労働時間が費やされたかを社会は知らなければならず、そのためには生産手段にどれだけの労働が対象化されているかも知らねばならないのであり、だからそれらが例え社会の共有にあったとしても、やはり個々の生産手段にはどれだけの労働が費やされたのか、という契機、つまり林氏のいう〈「価値規定」が必要となる〉のではないのか。林氏の理屈を一貫させるならそうならざるを得ないであろう。

●〈我々が言うところの「価値規定による分配」とは、人々が、自分の「労働時間に応じて」、その労働時聞に対応する消費手段を確保できるという、単純なことにすぎない。〉(6頁)

 しかし、人々は、〈自分の「労働時間に応じて」、その労働時聞に対応する消費手段〉はどれだけかを知るためには、個々の消費手段にどれだけの労働が費やされているのかを知らなければ、そもそもそうした分配は不可能ではないか。それを林氏は一体、どうするのであろうか。

●〈しかしここで注意しなくてはならないのは、労働時間に対応する生産物を手にすることができるのであって、このことは生産物を相互に交換するとか、労働時問と労働時間を交換するとか言うこととは全く別のことであることが明確に反省され、自覚されなくてはならない、ということである。セミナーにおいても、我々の「価値規定による分配」の概念をそんな風に間違って、あるいは物神崇拝幻想にとらわれた浅薄な意味で理解する人たちとの"激論"もあったが、そうした一種の"ブルジョア意識"は断固として粉砕され、退けられたのであった。〉(6頁)

 確かに〈生産物を相互に交換する〉という観念がおかしいことは明らかである。しかし〈労働時問と労働時間を交換する〉というのはどうであろうか。林氏はわざと〈労働時問と労働時間〉というような言い方をしている。確かに〈労働時問〉なら、それは単なる時間に過ぎないのであり、質的に同じで量的に異なるに過ぎないから、それを交換しても無意味である。しかしある形で支出された労働時間と別の形で支出された労働時間とを交換するというなら、どうであろうか。「ある形で支出された労働時間」というのは、抽象的人間労働の継続時間ではない。具体的な有用労働の継続時間である。確かにそれらは継続時間という共通の契機に還元しているから、量的に比較しうるのであり、交換されうるためには、それらが等量でなければならない。しかしコメを生産する労働と、靴を生産する労働は、別個の労働である。そうした個々別々に支出された等量の労働同士が交換されあうということである。マルクスは次のように述べている。

 〈ここでは明らかに、商品交換が等価物の交換であるかぎりでこの交換を規制するのと同じ原則が支配している。内容も形式も変化している。なぜなら、変化した事情のもとではだれも自分の労働のほかにはなにもあたえることができないし、また他方、個人的消費手段のほかにはなにも個人の所有に移りえないからである。しかし、個人的消費手段が個々の生産者のあいだに分配されるさいには、商品等価物の交換の場合と同じ原則が支配し、一つのかたちの労働が別のかたちの等しい量の労働と交換されるのである。〉(『ゴータ綱領批判』ME全集19巻20頁)

 このように、マルクス自身は〈一つのかたちの労働が別のかたちの等しい量の労働と交換される〉と明確に述べている。それを林氏は承知の上で、「労働時間」と言い替えて、交換はないというのである。質的に同じ労働時間だけに還元すれば、それらを交換する意味がそもそもないことは明らかである。そんな当たり前のことを、あたかも重要な問題であるかに林氏は述べているわけである。しかし、質的に同じ労働時間に還元したものを交換するという馬鹿げた主張が、どうして〈物神崇拝幻想にとらわれた〉主張であり、〈一種の"ブルジョア意識"〉と言えるのであろうか。同じものを交換する無意味さは、何もブルジョア意識とは何の関係もない論理的な無意味さである。

2015年7月15日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-15)

現行版第5編第28章該当箇所の草稿の解読


(2) 各パラグラフごとの解読
(続き)


【24】 
(このパラグラフはたった一行しかないが、本文である)

 〈/331上/しかし,フラ一トンの対置は正しくない。〉

 これは書き下しは必要ないと思うが、とりあえず形式上、やっておく。

 〈しかし、フラートンの対置は正しくない。〉

 ここでマルクスが〈フラートンの対置〉と言っているものは何であろうか?
 これまでマルクスが本文や原注で引用してきたフラートンの一文を素直に読む限りは、それは〈貨幣融通に対する需要(すなわち貸付資本に対する需要)〉を〈追加流通手段に対する需要〉に〈対置〉していることであると考えられる。
 ただマルクスが引用を省いてエンゲルスが加えている部分(【18】の訳注4))を見ると分かるが、フラートンは〈追加流通手段に対する需要〉が高まるのは〈すべてが活況を呈し、賃金は高く、物価は上がり、工場は忙しいとき〉、すなわち繁栄期だと捉えていることである。それに対して〈貸付資本に対する需要〉が高まるのは〈商業循環上のいっそう進んだ段階でのことであり、困難が現れはじめるとき、市場が供給過剰で還流が遅れる時〉、つまり逼迫期であると考えていることに注意が必要である。つまりフラートンは繁栄期には「通貨」に対する需要が高まり、逼迫期には「資本」の貸付に対する需要が高まる、だから両者が一緒に現れることはあまりないし、両者の需要が関連していると考えるのは間違いだと主張するのである。しかしマルクスはこうした〈対置〉は〈正しくない〉と言っている。それはどうしてなのか、それは以下の批判の中で展開されていく。

【25】 (このパラグラフから、先のパラグラフで指摘した〈フラートンの対置〉の〈正しくない〉理由が明らかにされる)

 〈貸付にたいする需要--貸付にたいする需要の量--が,繁栄期を反転期〔period of adversity〕から区別するのではなく,貸付にたいするこの需要の充足が容易だということである。それどころか,繁栄期のあいだの信用制度〔Creditsystem〕の,だからまた貸付の需要供給のすさまじい発展,これこそが反転期のあいだの逼迫を招くものなのである。だから,この2つの時期を特徴づけるものは,貸付にたいする需要の量的な規模の相違ではないのである!〉

 まず平易な書き下し文を書いておく。

 〈貸付に対する需要、すなわち貸付に対する需要の量が、繁栄期を反転期から区別するのではなく、貸付に対するこの需要の充足が容易だということが、繁栄期を反転期から区別するのである。それどころか、繁栄期のあいだの信用制度のすさまじい発展、だからまた貸付に対する需要と供給とがすさまじく発展することが、つまり繁栄期の信用の非常な膨張こそが、反転期のあいだにおける貨幣の逼迫を招くものなのである。だからこの二つの時期を特徴付けるものは、貸付にたいする需要の量的な規模の相違ではないのである。〉

 つまり繁栄期には資本家はどんどん新たな投資をするために、銀行に資本の貸付を要求する。銀行はそれにまた次々と応じる。繁栄期には信用が弾力的でしっかりしており、銀行は資本家の高い貸付にたいする需要にも信用を膨張させて容易に応じることが出来る。しかしまさにこうした繁栄期の信用の膨張とそれに依拠した資本家の過剰投資こそが、反転期に彼らが商品が売れないのに次から次へと迫ってくる自分の手形の満期支払のために、フラートンらがいうところの「貸付資本にたいする需要」が異常に高まる状況を生み出すのである。だから「貸付にたいする需要の量」という面から見れば、両者を区別することは出来ない。なぜなら繁栄期にも「貸付にたいする需要」が高く、また反転期にもやはり「貸付にたいする需要」が異常に高いからである。だから両者を区別するのはその量ではなく、ただその需要に銀行が応じる容易さである、とマルクスは述べている。
 だから、ここではまだ繁栄期の「貸付にたいする需要」と逼迫期の「貸付にたいする需要」が、質的に異なること、逼迫期の「貸付にたいする需要」は単なる資本一般に対する需要ではなく、資本の支出の特殊な形態に対する需要であるということは必ずしも明確には対置されていない。ただその需要の量によっては両時期の区別はできないこと、その充足が容易か否かが両者を区別するのだと指摘して批判しているだけである。

【26】 (これも【25】と同様〈フラートンの対置〉の〈正しくない〉理由の続きである)

 〈すでに前にも述べたように,この2つの時期を区別するものは. 《まず第1に.》一方の時期には商人と消費者とのあいだの Circulation(通貨〔currency〕)にたいする需要が優勢であり,他方の時期には資本家のあいだの取引のためののCirculationにたいする需要が優勢だということである。反動期〔periodof reaction〕には前者が減少して後者が増加するのである。〉

 これもまずは平易な書き下し文からである。

 〈もしただ通貨に対する需要の量ということであれば、すでに前にも述べたように、繁栄期と反転期を区別するものは、まず第一に、繁栄期には商人と消費者とのあいだの通貨にたいする需要が優勢であり、反転期には資本家のあいだの取引に必要な通貨にたいする需要が優勢だということである。反転期には商人と消費者とのあいだの取引に必要な通貨は減少し、資本家のあいだの取引に必要な通貨は増加するのである。〉

 【25】では「貸付に対する需要の量」という面から考察したのに対して、このパラグラフでは「通貨に対する需要の量」という面から、二つの時期を区別するものは何かについて、すでに前に検討したことを繰り返すことによって、確認している。
 つまり「通貨」に対する需要という面からみれば、繁栄期は全体に潤沢で、逼迫期はそれほどでもないが、しかしそれが両者を区別するのではなく、むしろ「通貨」の需要という面で両者を区別するとすれば、二つ流通部面における必要な「通貨」の量が繁栄期と反転期とではまったく逆になっているということなのである。

 このようにマルクスの説明を見てくると、最初にマルクスが〈しかし、フラートンの対置は正しくない〉といった内容は、最初に確認したように、単に〈貨幣融通に対する需要(すなわち貸付資本に対する需要)を〈追加流通手段に対する需要〉に〈対置〉しているというだけではなく、繁栄期には〈追加流通手段に対する需要〉が高まるのに対して、反転期には〈貸付資本に対する需要〉が高まるというように、それぞれを繁栄期と反転期に対応させて〈対置〉しているのは正しくないと言っていたのだということが分かる。
 なぜならフラートンは「資本貸付に対する需要」と「追加流通手段に対する需要」を対置しており、前者は逼迫期に強まるもの、後者は繁栄期に強まるものと考えているからである。だから両者はまったく異なるものだというのがフラートンの主張なのである。しかしマルクスはフラートンの対置は正しくないという、ではどういう点で正しくないのか?
 マルクスはフラートンの繁栄期と反転期の二つの時期を区別する区別の仕方が間違っているとまず言っているように思える。マルクスはフラートンがそれぞれの時期に強まるものとして「資本貸付」と「追加流通手段」とに区別しているのを、まず「貸付」と「流通手段」とに分け、それぞれについて二つの時期の区別を見ているのである。つまりこのマルクスが対置している区別には、フラートンの区別(対置)そのものが間違っていることが含意されている。なぜなら、「貨幣融通への需要」は「資本貸付」に対する需要だなどとフラートンのように独断的には言えないからである。「追加流通手段への需要」もやはり「貨幣融通への需要」として現われるという点では同じだからである。だからマルクスはそれを全体として「貸付に対する需要」と言い直して、それがフラートンの場合、逼迫期に強まると述べているが、そうではなく、それは繁栄期にも同じように強まるのだと反論しているのである(そればかりか繁栄期の貸付に対する需要の増大こそが逼迫期の貸付に対する需要を高める原因でもあるとマルクスは指摘している)。だから問題は貸付に対する需要の量が問題なのではなく、その需要の充足が容易かどうかが二つの時期を分けるのだというのがマルクスの批判なのである(これが【25】で言われた)。
 もう一つのマルクスの批判はこのパラグラフ26】で行われており、ここではフラートンの、繁栄期には「追加流通手段への需要」が強まる、という主張が批判されている。マルクスは二つの時期を区別するのは流通手段への需要が繁栄期に強まるということではなく、繁栄期には商人と消費者とのあいだの流通手段への需要が優勢であり、反転期には資本家のあいだの取引のための流通手段に対する需要が優勢なのだと反論している(だからここでもマルクスは逼迫期に貸付への需要が強まるのは「資本」貸付に対するものではなく、それも「通貨」に対するものであるとの暗黙の批判が込められているが、しかし、それはまだこの段階では明示的に主張されているわけではなく、ましてやそれが支払手段なのだといったことはここではまったく問題にされていないのである)。つまり一般的に流通手段への需要の強さが問題なのではなく、流通の二つの部面での需要が繁栄期と反転期ではその強さが逆になっているのだというのがマルクスの批判なのである。このようにこの二つのパラグラフで行われているものは、いわばフラートンらの〈対置〉に対する直接的な批判とも言うことができるであろう。(続く)

2015年7月14日 (火)

林理論批判(9)

〈社会主義における「分配」はいかになされるか〉批判ノートNo.9

《『海つばめ』1236・1237合併号(2014.10.19)【4~6面】社会主義における「分配」はいかになされるか――消費手段の「価値規定」問題――「価値移転」ドグマとの訣別が“解決”の鍵》の批判的検討(の続き)

【付録】

§§「生きた労働と過去の労働」マルクスの用例集

 林氏は、〈「生きた労働」とか「過去の労働」といった観念(は)……労働者の観点からするなら虚偽の観念でさえある〉という。しかしこれはマルクスの理論への公然たる挑戦であり、批判である。なぜなら、マルクスにとってこの両者の概念は資本主義的生産様式の諸法則を解明する上で不可欠のものであるからである。だからこうした林氏の言いぐさは聞き捨てならないのである。林氏に言わせれば「マルクスも言っているといった議論は不毛」だというのだろうが、しかしマルクスの理論から謙虚に学ばずしてどうしてマルクス主義者といえるだろうか。われわれは、以下、マルクスがどのようにこの二つの用語を使っているか、抜粋集を提供する。これは決して関連するものをすべて網羅したものではないが、しかしこの抜粋集を読むだけでも、マルクスにとってこの二つの概念が如何に重要なものだったかが分かるであろう。(以下、抜粋文中の太字は引用者による、下線はマルクスによる強調)

●「共産党宣言」

 〈ブルジョア社会では、生きた労働蓄積された労働をふやすための手段にすぎない。共産主義社会では、蓄積された労働は、労働者の生活の営みをひろくし、ゆたかにし、向上させる手段にほかならない。
 したがって、ブルジョア社会では過去が現在を支配し、共産主義社会では現在が過去を支配する。ブルジョア社会では、資本が独立性と個性とをもっていて、生きている個人は独立性も個性ももたない。〉(全集第4巻489頁)

●『資本論』第1巻から

 〈それだから、生産物は、生産手段として新たな労働過程にはいることによって、生産物という性格を失うのである。それは、ただ生きている労働の対象的要因として機能するだけである。紡績工は、紡錘を、ただ自分が紡ぐための手段としてのみ取り扱い、亜麻をただ自分が紡ぐ対象としてのみ取り扱う。もちろん、紡績材料や紡錘なしでは紡ぐことはできない。だから、これらの生産物が現にあるということは、紡績が始まるときには前提されている。しかし、この過程そのものでは、亜麻や紡錘が過去の労働の生産物だということはどうでもよいのであって、それは、ちょうど、栄養という行為ではパンが農民や製粉業者や製パン業者などの過去の労働の生産物だということはどうでもよいようなものである。むしろ反対に、もし労働過程にある生産手段が過去の労働の生産物としての性格を感じさせるとすれば、それはその欠陥のためである。切れないナイフや切れがちな糸などは、刃物屋のAとか蝋引工のEをまざまざと思い起こさせる。できのよい生産物では、その使用属性が過去の労働に媒介されているということは消え去っているのである。〉(23a240頁)

 〈もっと詳しく見よう。労働力の日価値は三シリングだったが、それは、労働力そのものに半労働日が対象化されているからである。すなわち、労働力の生産のために毎日必要な生活手段に半労働日がかかるからである。しかし、労働力に含まれている過去の労働と労働力がすることのできる生きている労働とは、つまり労働力の毎日の維持費と労働力の毎日の支出とは、二つのまったく違う量である。前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値をなしている。〉(同253-254頁)

 〈労働力の買い入れに前貸しされる資本部分は、一定量の対象化された労働であり、したがって、買われる労働力の価値と同じに不変な価値量である。ところが、生産過程そのものでは、前貸しされた九〇ポンドに代わって、みずから活動する労働力が現われ、死んでいる労働に代わって生きている労働が現われ、静止量に代わって流動量が、不変量に代わって可変量が現われるのである。その結果は、vの再生産・プラス・vの増加分である。資本主義的生産の立場から見れば、この全過程は、労働力に転換される元来は不変な価値の自己運動である。過程もその結果も、この価値のおかげである。それゆえ、もし九〇ポンドの可変資本とかみずから増殖する価値とかいう定式が矛盾したものに見える率としても、それはただ資本主義的生産に内在する一つの矛盾を表わしているだけなのである。〉(同279頁)

 〈出来高賃金では、一見したところ、労働者が売る使用価値は彼の労働力の機能である生きている労働ではなくてすでに生産物に対象化されている労働であるかのように見え、また、この労働の価格は、時間賃金の場合のように (労働力の日価値)/(与えられた時間数の労働日) という分数よってではなくて、生産者の作業能力によって規定されるかのよう見える。〉(23b715頁)

●『資本論』第2巻から

この第2巻のマルクスの説明をじっくり読めば、林氏の間違いがよく分かってくると思う。

 〈まず第一に言っておかなければならないのは、 I の揚合であろうとII の場合であろうと、社会的労働日のどの部分も、この二大生産部面で充用されてそこで機能している不変資本の価値を生産するのに役だつのではない、ということである。そこで生産されるのは、ただ、不変資本価値=4000Ic +2000IIc に追加される追加価値 2000 I (v+m)+1000II(v+m)だけである。生産手段の形で生産された新価値はまだ不変資本ではないのである。それは、ただ将来不変資本として機能するべき使命をもっているだけである。
IIの総生産物--消費手段--は、その使用価値から、具体的に、その現物形態によって見れば、社会的労働日のうちIIによってなされる三分の一の生産物である。それは、この部門で充用された織物労働とかパン焼き労働などとしての具体的形態における労働の、すなわち労働過程の主体的要素として機能するかぎりでのこの労働の、生産物である。ところが、この生産物IIの不変価値部分について言えば、それは、ただ、前には生産手段の形態にあったものが、新たな使用価値として、消費手段という新たな現物形態で、再現するだけである。その価値は、労働過程を通ってその古い現物形態からその新たな現物形態に移されている。しかし、生産物価値のこの三分の二の価値=2000は、IIのこの年の価値増殖過程で生産されたのではないのである。
 労働過程の立場から見れば、生産物IIは、新たに機能している生きている労働と、この労働が実現されるための対象的諸条件としてこの労働に与えられ前提された生産手段との結果であるが、それとまったく同様に、価値増殖過程の立場から見れば、生産物価値II=3000は、社会的労働日のうち新たにつけ加えられた三分の一によって生産され薪価値(500v+500m=1000)と、ここで考察されている生産過程IIの前にすんでしまった過去の社会的労働日の三分の二が対象化されている不変価値とから成っている。生産物IIのこの価値部分は、この生産物そのものの一部分で表わされる。それは、社会的労働日の三分の二に相当する2000という価値をもつ消費手段量のうちに存在する。この消費手段こそは、この価値部分が再現する新たな使用形態なのである。だから、消費手段の一部分=2000IIc と生産手段 I (1000v+1000m)との交換は、事実上、この年の労働の一部分ではなくこの年以前にすんでいる総労働日の三分の二と、この年に新たにつけ加えられたこの年の労働日の三分の二との交換である。この年の社会的労働日の三分の二は、もし、それが一年間に消費される消費手段の価値のうちこの年にではなくこの年以前に支出されて実現された労働日の三分の二を含んでいる部分と交換されることができないとすれば、不変資本の生産に使用されながら同時にそれ自身の生産者にとって可変資本価値・プラス・剰余価値を形成することはできないであろう。それは、この年の三分の二労働日この年以前に支出された三分の二労働日との交換であり、この年の労働時間前の年の労働時間との交換である。だから、このことは次のような謎をわれわれに解いてくれるのである。すなわち、社会的労働日全体の三分の二は、可変資本または剰余価値がそれに実現されることのできる諸対象の生産には支出されないで、その一年間に消費された資本を補填するための生産手段の生産に支出されているにもかかわらず、なぜ、社会的労働日全体の価値生産物は可変資本価値・プラス・剰余価値に分解することができるのか、という謎がそれである。この謎は、 I の資本家と労働者が自分たちの生産した可変資本価値・プラス・剰余価値をそれに実現する生産物価値IIの三分の二(そしてそれは年間総生産物価値の九分の二をなしている)が、価値から見れば、この年以前にすんだ社会的労働日の三分の二の生産物だということから、簡単に解けるのである。
 社会的生産物 I とIIとの合計、つまり生産手段と消費手段との合計は、その使用価値から、具体的に、その現物形態によって見れば、この年の労働の生産物ではあるが、しかし、そうであるのは、ただこの労働そのものが有用的具体的労働と見られるかぎりでのことであって、この労働が労働力の支出、価値形成労働と見られるかぎりではそうではないのである。また、そうであるというのも、ただ、生産手段はそれにつけ加えられそれを取り扱う生きている労働によってのみ新たな生産物すなわちこの年の生産物に転化したのだという意味でのことにすぎない。しかしまた、逆に、この年の労働も、それには依存しない生産手段なしには、労働手段や生産材料なしには、生産物に転化することはできなかったであろう。〉(24巻525-527頁)

●『資本論』第3巻から

 〈しかし、第二に、労働の直接的搾取そのものにとって重要なのは、けっして固定資本とか原料や補助材料とかいう充用される搾取手段の価値ではない。それらが労働を吸収するものとして役だち、労働が、したがってまた剰余労働がそれに対象化されるかまたはそれによって対象化される媒体として役だつかぎりでは、機械や建物や原料などの交換価値はまったくどうでもよいのである。ここでただ一つ肝要なのは、一方ではこれらのものの量、すなわち一定量の生きている労働と結合されるために技術的に必要な量であり、他方ではこれらのものの合目的性、すなわち機械の良さだけではなくまた原料や補助材料の良さである。〉(25a104-105頁)

 〈資本は、生きている労働の直接的充用にさいしてはそれを必要な労働に還元しようとし、また、一つの生産物の生産に必要な労働を労働の社会的生産諸力の搾取によって絶えず短縮しようとし、こうして直接に充用される生きている労働をできるだけ節約しようとする傾向をもつのであるが、同時にまた、このような、その必要な限度まで切りつめられた労働を、できるだけ経済的な諸条件のもとで充用しようとする傾向、つまり充用される不変資本の価値をできるかぎりの最小限度に切りつめようとする傾向をもっている。商品の価値は、その商品に含まれている必要な労働時間によって規定されているのであって、およそその商品に含まれているかぎりの労働時間によって規定されているのではないとすれば、資本こそは、この規定をはじめて実現すると同時に一つの商品の生産に社会的に必要な労働時間をますます短縮してゆくのである。これによって商品の価格はその最低限度まで引き下げられる。なぜならば、商品の生産に必要な労働のすべての部分が最小限度まで切りつめられるからである。〉(同109-110頁)

 〈資本主義的生産は、それを個別的に考察すれば、また流通の過程や競争のひどさを考兄なければ、実現されて商品に対象化された労働のほうは極度に倹約する。反対に、それは、ほかのどんな生産様式に比べてもはるかにそれ以上に、人間の浪費者、生きている労働の浪費者であり、肉や血の浪費者であるだけではなく神経や脳の浪費者でもある。人間社会の意識的再建に直接に先行する歴史時代に人類一般の発展が確保され達成されるということは、じっさい、ただ個人的発達の極度の浪費によるよりほかはないのである。ここで述べている節約はすべて労働の社会的性格から生ずるのだから、労働者の生命や健康のこのような浪費を生みだすものは、じっさい、労働のこのような直接に社会的な性格にほかならないのである。〉(同111-112頁)

 〈そこで、われわれは、可変資本については、それが一定量の労働力の、すなわち一定数の労働者の、言い換えれば一定量の動かされる生きている労働の指標だということを前提する。〉(同186頁)

 〈資本の各部分が一様に利潤を生むという理論的見解--剰余価値の利潤への最初の転化にさいしての--は、一つの実際上の事実を表わしている。産業資本の構成がどうであろうと、たとえば、それが四分の一の死んだ労働と四分の三の生きている労働とを動かすのであろうと、四分の三の死んだ労働と四分の一の生きている労働とを動かすのであろうと、すなわち一方の場合には他方の場合の三倍の剰余労働を吸収しようとも、言い換えれば三倍の剰余価値を生産しようとも、--労働の搾取度が同じならば、また、どちらの場合にもその生産部面全体の平均構成だけが問題なのだからどのみち消えてしまう個々の相違を無視すれば--どちらの場合にも産業資本は同じ大きさの利潤をあげるのである。視野の限られている個々の資本家(またはそれぞれの特殊な生産部面の資本家の総体)が、自分の利潤は自分または自分の部門が使用する労働だけから生まれるのではないと思うのは当然である。これは彼の平均利潤についてはまったく正しい。この利潤がどこまで総資本すなわち彼の資本家仲間全体による労働の総搾取によって媒介されているのか、この関連は彼にとってはまったく不可解なのであるが、そのうえに、ブルジョア理論家である経済学者たちでさえ今日までそれを明らかにしなかったのだから、それはなおさら不可解なのである。労働を--といっても一定の生産物を生産するために必要な労働だけではなく使用する労働者の数をも--節約して、死んだ労働(不変資本)をいっそう多く充用するということは、経済的にまったく正しい操作として現われ、もともとけっして一般的利潤率や平均利潤を侵すものではないように見える。そうだとすれば、どうして生きている労働だけが利潤のただ一つの源泉だと言えようか? なぜならば、生産のために必要な労働の量を減らすということは、ただ単に利潤を侵すものではないように見えるだけではなく、むしろ、ある事情のもとでは、少なくとも個々資本家にとっては、利潤をふやすためのいちばん手近な源泉として現われるからである。〉(同214-215頁)

 〈生産力の発展とそれに対応する資本構成の高度化とは、ますます大きくなる生産手段量をますます小さくなる労働量によって動かすのだから、総生産物の各可除部分、各個の商品、または生産される総量中の各個の一定の商品量は、より少ない生きている労働を吸収し、さらにまた、充用される固定資本の損耗分としても消費される原料や補助材料としてもより少ない対象化された労働を含んでいる。つまり、各個の商品は、生産手段に対象化された労働と生産中に新たにつけ加えられた労働とのより少ない合計を含んでいる。〉(同283頁)

 〈(2) 資本構成の高度化は、個々の商品では、その商品の価値のうちすべての新たにつけ加えられた労働を表わす部分が原料や補助材料や固定資本損耗分で表わされる価値部分に比べて小さくなるということに表わされるからである。このように個々の商品の価格のいろいろな成分の割舎が変わってくるということ、すなわち、新たにつけ加えられた生きている労働を表わす価格部分が小さくなり、前から対象化されていた労働を表わす価格部分が大きくなるということは、不変資本に比べて可変資本が減少するということが個々の商品の価格に表わされる形態なのである。〉(同284頁)

 以上で《『海つばめ』1236・1237合併号(2014.10.19)【4~6面】社会主義における「分配」はいかになされるか――消費手段の「価値規定」問題――「価値移転」ドグマとの訣別が“解決”の鍵》の批判的検討を終えることにする。次回からも引き続き、「社会主義における分配問題」に関連した林氏の論考を取り上げて、以前、支部の仲間に検討をお願いした文書を公開して行きたいと考えている。

林理論批判(8)

〈社会主義における「分配」はいかになされるか〉批判ノートNo.8

《『海つばめ』1236・1237合併号(2014.10.19)【4~6面】社会主義における「分配」はいかになされるか――消費手段の「価値規定」問題――「価値移転」ドグマとの訣別が“解決”の鍵》の批判的検討(の続き)

§§社会主義社会における分配問題は如何に解決されるか

 最初にも述べたように、林氏はその混乱した論文のなかで二つの正しい命題を述べている。それがどうして正しいと言えるのかについて、私なりの考えを以下論じてみたい。

 しかしその前に、あらかじめ断っておく必要がある。というのは、これも最初のあたりで指摘したが、社会主義における個人的消費手段の分配を論じ、それを何か社会主義の中心問題であるかにいうことは、俗流社会主義者に自らを貶めることであり、この点、林氏はスターリン主義者と同じ土俵に立っており、だから“ミイラ取りがミイラになっている”と私は指摘したからである。だからその私が同じように社会主義における分配問題を論じることは、それこそ、私も同じ“ミイラ”になりかねないからである。

 だから以下、私も林氏が提起している「社会主義における価値規定による分配問題」を論じるが、しかしそれが「社会主義の真髄」であるとか「社会主義の具体的な概念を与える」ためであるとかと考えるからではないことをあらかじめ断っておく必要がある。
 私がこの問題を論じるのは、この間の議論のなかで明らかになってきたが、この問題を考えるときに、どうしても生産手段の価値規定(対象化された労働)が将来の社会ではどうなるのかということが深刻な問題として生じてきたからである。それがその生産手段によって生産される生産物(個人的消費手段)に「移転」されるといえるのかどうか、もし言えるとすれば、その生産手段を生産するための生産手段の価値(対象化された労働)はどうなるのか、さらにはその生産手段のための生産手段のための生産手段はどうなるのか、さらには……等々と、どんどん遡って“悪無限”に陥ってしまうのではないかというような疑問も出されたからである。
 つまりここには確かに一つの解決すべき問題があるように私にも思えたのである。だからこうした問題に限って、それを一つの理論的課題として考察することには一定の意義があると判断したからに他ならない。
 とりあえず以上の断りをした上で、では、本論に入ることにしよう。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

 まず林氏が正しい二つの命題を述べていたとしたが、それをもう一度確認のために紹介しておこう。

社会主義ではただ3000の消費手段が3000の労働(者)に分配される、つまり「労働に応じて分配」されるだけである。
 〈しかし社会主義で生産手段の価値規定といったものは仮に可能だとしても、何の意味も持たないのである。というのは、生産手段は直接に使用価値として、その量として労働(労働者)と関係するからであり、また生産手段の個々人への分配といったことは全く問題にならないからである。

 なぜこの二つの命題は正しいのか(林氏の場合は、その前提や全体との関連がわからないのではあるが)。そしてそれらがどうして社会主義社会における分配問題と関連するのか、それを私なりに考えたものを紹介しておきたい。

◎社会主義的生産は使用価値を直接目的にした生産であり、そこでは生きた労働だけが問題になる

 資本主義的生産は利潤を唯一の目的とも推進動機ともする。利潤、すなわち剰余価値の獲得を目的とするということは、価値という抽象的で一般的な富を目的とすることであり、よってそこには量的限度というものはない。だから資本家たちは、果てしのない蓄積衝動にとりつかれることになる。資本主義的生産様式の標語は、“生産のための生産”、“蓄積のための蓄積”となるのである。
 それに対して、社会主義では共同体構成員の福祉が目的になる。だから生産は抽象的な富ではなく、具体的な使用価値を直接目的とするものになる。生産される使用価値には社会の需要によって限度がある。だから生産力の高度化は、直接、必要労働時間の減少として現われる。生産力の発達につれて、必然の領域は縮小され、真の自由の領域が拡大される。
 このように社会主義では使用価値の生産が直接の目的になることがまず第一に確認されなければならない。社会主義社会の構成員たちは、それまでの経験にもとづいて、自分たちの一年間の需要を満たすために、どれだけの消費手段が必要かをそれぞれの具体的な使用価値ごとにその量を算出する。そしてそれらの消費手段を生産するために必要な生産手段の必要量も年々生産的に消費される分を具体的にそれぞれの使用価値ごとに計られ、その再生産を考える。生産手段の生産のためにも生産手段が必要であり、それらも年々消費されて消滅する度合いに応じて、常に再生産される必要があることを考慮し、それらもすべてそれぞれの使用価値ごとにその必要量を考えて、その生産を考える。これらはすべてその具体的な使用価値量についての話であることに注意が必要であり、すべてそれまでの実績にもとづいてそれらは計測可能である。そしてそれぞれの生産部門におけるその時点における生産力にもとづいてそれぞれの生産に必要な労働時間を割り出して(これらもやはりすべてこれまでの経験によって可能となる)、彼らがその時点で支出可能な総労働時間、例えばそれを3000とするなら、そこからそれらを必要とする諸分野に配分する。こうして社会主義の再生産は年々行われることになる(もちろん、ここでは単純化のために、すべての生産部門の生産期間は同じ一年間としている)。
 常にそれぞれの生産分野では生産力の向上がはかられ、生産力が高まることが考えられる。しかし必要な使用価値量は常に分かっており、限度があるので、生産力の向上は直ちに必要な労働時間の減少となり、総労働からその分野に割り当てられる労働時間が少なくなり、だからまた当然全体として一人が担当する労働時間量は減少する。その結果、一人あたりの自由時間が拡大する、等々。
 こうした社会では、すべての労働は前もって社会的に結びつき、関連づけられており、また一人が一つの仕事に常に従事しなければならないというような分業も徐々に解消され、一人の人間がさまざまな仕事に従事するようになるであろう。自由時間の拡大は彼らの個性を豊かにし、彼らがそうしたさまざまな労働に従事することを可能にするような高度な能力の発展にも寄与することになるであろう。
 すべての労働が直接社会的に結びついており(こうした視点が林氏には欠けているが、しかしこれこそ社会主義の概念として最も重要なことなのである)、その生産は使用価値を直接目的にしたものだから、われわれが考察の前提としている再生産表式における部門Ⅰにおける「生産手段のための生産手段」を生産する労働も、「消費手段のための生産手段」を生産する労働も、また当然、部門IIにおける「消費手段」を生産する労働も、すべてが社会が享受するために必要とする消費諸手段の生産を目的に直接組織されていることになる。だからこそ、そこで一年間に支出された総労働3000は、その社会が一年間に生産した消費手段総量の生産に支出された労働時間となり(これはすでに指摘したように、一つの自動車工場で、自動車の各部品を生産するのに要した労働時間が、すべて最終生産物である自動車を生産するのに必要な労働時間として加算されるのと同じ原理である)、だから各人はそれぞれが支出した時間に応じて、社会の保管庫から必要な消費手段の分配を受ける事ができるのである。だからこそ林氏がいうように〈社会主義ではただ3000の消費手段が3000の労働(者)に分配される〉といえるのである。

 しか全体としてはそういうことが例え言えたとしても、個々の消費手段にどれだけの労働時間が費やされているのかが分からないと、各人が支出した労働に応じてさまざまな消費手段の分配を受けることはできないのではないか、と疑問に思われるかもしれない。しかしその心配には及ばない。というのはすべての労働が社会的に目的意識的に前もって結びつけられているということは何を意味するかを考えれば分かることなのである。それを具体的に考えるために、われわれは次のような例を考えてみよう。ここに一つの自動車工場があるとしよう。自動車の生産のためには、さまざまなパーツが必要であり、それらが最終的に組み合わされて、一台の自動車が生産される。しかし今、われわれが前提する自動車工場というのは、一台の自動車が必要とするすべてのパーツを、一つの工場内で生産するような工場としよう。つまりさまざまなパーツを生産するに必要なさまざまな機械や道具類もすべて一つの自動車工場内で生産されていると仮定するのである。ここには自動車を生産するための一つの完結した生産体系あるとするのである。鉄鉱石を堀り、それから銑鉄をつくり、それをさらに鋼板に圧延する等々のすべての行程も一つの工場内にあり、それらはすべて自動車を作るためにだけに組織されていると考えてみよう。そうすると全体としてこの工場内におけるすべての労働は自動車を生産するために組織されているといえるだろう。つまり鉄鉱石を掘る労働も、銑鉄を製造する労働も、そこから機械や道具類(その中には当然鉄鉱石を掘るための機械や道具類も入る)を作る労働も、圧延して鋼板をつくる労働も、その鋼板をプレスして型を打ち出す労働も、さまざまなパーツを製造する労働も、そして最終的に自動車を組み立てる労働も、すべてがただ自動車という個別の消費手段を生産するためにだけにそれぞれが配置され、量的関係のなかに置かれて、その生産のための物質的基礎を形成するわけである。とするなら、一台の自動車の生産に要する労働時間は、簡単に割り出すことができる。一つの工場内で一日に支出された総労働時間は、その工場で働く労働者数と彼らの一日の労働時間から簡単に計算できる。そしてその工場で一日に生産される自動車の台数は、もちろん具体的に知ることは可能である。例えば労働者数が500人で、彼らの一日の労働が6時間だったとすると、一日に支出された総労働時間は3000時間である。そして毎日生産される自動車が30台とするなら、自動車1台を生産するに必要な労働時間は300時間であることが簡単に割り出せるわけである。
 もちろん、現実には銑鉄は鋼板以外の鉄としても利用され、鋼板も自動車製造以外の機械や道具、あるいは橋梁など鉄鋼構築物等々にも利用されるのだが、しかし社会の総再生産の過程を、個別の最終生産物から振り返った場合、最終生産物を川下とすれば、その源流まで遡っていくならば、その最終生産物を生産するのに必要なすべての工程は、あたかもここで想定した自動車生産工場のように、それだけを生産するためにすべての工程が組織されているのと同じことになるであろう。それらはすべて最終生産物を生産するに必要な諸過程であり、諸機械や諸道具がそれに必要な量的割合で配置されていると考えることができるわけである。そして労働力は、それぞれの生産部門の生産力とそれぞれの生産物の使用価値量の一日当たりの必要量を考えて、配置されるであろう。だから個々の消費手段の生産に必要な労働量はその消費手段の生産に必要なすべての生産工程で支出された労働の按分比をただ単純に合算して求めることができるであろう。このようにして、われわれは将来の社会主義社会では、すべての消費手段にどれだけの労働量が支出されているかを簡単に知ることができ、だから各人が社会に与えた労働に応じてとることも可能になるのである。

◎社会主義ではどうして生きた労働だけが問題になり、生産手段に対象化された過去の労働は問題にならないのか

 どうして社会主義社会では、生きた労働だけが問題になり、生産手段に対象化された過去の労働が問題にされず、生産手段はただ使用価値だけが問題になるのであろうか。この問題を考える上で一つのヒントになるのは、『資本論』第3部の次のマルクスの一文である。

 〈しかし、第二に、労働の直接的搾取そのものにとって重要なのは、けっして固定資本とか原料や補助材料とかいう充用される搾取手段の価値ではない。それらが労働を吸収するものとして役だち、労働が、したがってまた剰余労働がそれに対象化されるかまたはそれによって対象化される媒体として役だつかぎりでは、機械や建物や原料などの交換価値はまったくどうでもよいのである。ここでただ一つ肝要なのは、一方ではこれらのものの量、すなわち一定量の生きている労働と結合されるために技術的に必要な量であり、他方ではこれらのものの合目的性、すなわち機械の良さだけではなくまた原料や補助材料の良さである。〉(25a104-105頁)

 この一文そのものは資本の搾取によって生きている労働と結合される生産手段の価値そのものは問題ではない、重要なのは生きている労働と結合される生産手段の技術的に必要な量であり、その使用価値が問題なのだと述べているのであるが、これは極めて重要なことのように思える。つまり生きている労働と結合する生産手段で重要なのは、その価値ではなく、その使用価値であり、その技術的な条件だということだからである。これはマルクスが次のように技術的構成として述べているものと関連するように思える。

 〈資本の構成は、二重の意味に解されなければならない。価値の面から見れば、それは、資本が不変資本または生産手段の価値と、可変資本または労働力の価値すなわち労賃の総額とに分かれる割合によって、規定される。生産過程で機能する素材の面から見れば、それぞれの資本は生産手段と生きている労働力とに分かれる。この構成は、一方における充用される生産手段の量と、他方におけるその充用のために必要な労働量との割合によって、規定される。私は第一の構成を資本の価値構成と呼び、第二の構成を資本の技術的構成と呼ぶことにする。〉(全集版23b799頁)

 つまりマルクスが技術的構成として述べているものは、生産手段としてはその使用価値の量が問題になっており、他方は、生きた労働の量が問題になっているわけである。そしてその割合がすなわち技術的構成だとのべている。だからこれは生産力の高さの指標である。技術的構成が高いということは生産力が高いということである。それはより少ない生きた労働で、より多くの使用価値量の生産手段を加工し、よってより多くの新たな生産物(使用価値量)を生み出すわけである。社会主義で問題になるのはこうした技術的構成だけなのである。
 社会主義だけではなく、すべの社会の再生産でもっとも重要なものは、主体的契機である労働力を別とすれば、客観的な対象である物質的な基礎そのものである。資本主義以前の社会では、その主要なものは「土地」であり、自然そのものであった。しかし労働手段の体系が高度に発展し巨大化した今日の資本主義や、将来の社会主義では、それらの膨大で複雑に関連し合った生産手段の社会的なシステムこそが、この社会の再生産を物質的に支えているものなのである。社会全体の再生産を支えるさまざまな生産部門や生産分野等々は、その物的諸形態においても、あるいは技術的・法則的にも、さらには数量的にも互いに関連しあい組織されている。例えば自動車一台を考えても、それは何千・何万ものパーツからなっているが、それぞれの一つ一つのパーツは互いに形態的に関連してあっているだけでなく、量的にも一定の比率で関連し合っている。一台の自動車に必要なタイヤは4本(プラス補助タイヤ)である。このような使用価値量の量的割合は、1台の自動車を構成するすべてのパーツにおいて決まってくる。同じことは社会的総再生産においても言いうるのである。問題はそれぞれの部門や分野での生産物が生きた労働と結びついてどれだけの使用価値量として生み出されるのかだけが問題なのであって、この関係において生産手段に支出された過去の労働そのものは何の意味もないのである。それは資本の搾取にとって、生きた労働を吸収するのに役立つ、原料や補助材料や機械などの固定資本等々の価値はまったくどうでもよいのと関連しているように思える。
 資本主義において、生産手段の価値が問題なのは社会的な再生産の物質的関係が直接的ではなく、それぞれの私的な独立した部門として存在していて、その社会的な関連が、またそれぞれにおいて支出される私的な労働の社会的な関係が、それらの生産物を商品として交換することによって実現されねばならないという事情が、生産手段の価値(過去労働)の移転や保存として問題になるのである。しかし、生産そのものが直接社会的に組織されている社会主義的な生産様式では、社会の再生産を構成する物質的な関係そのものが問題なのであり、それらはすでに直接社会的に関連づけられて組織されているのである。だから問われるのは、それらのさまざまな生産部門に配分される生きた労働の比率だけなのである。そしてそこで問われるのは、それぞれの部門の技術的構成(生産力)だけである(何度もいうが、生産手段に対象化されている過去の労働は一切無関係である)。すなわち、それぞれの物的要素が生きた労働のどれだけによってその必要な使用価値量を生産するのかということである。そしてそれぞれの使用価値の社会的な必要量によって、その必要な生きた労働の配分割合は決まってくるわけである。だからまずあるのは物質的な関係や条件なのである。そしてそれぞれの生産部門における労働の生産力にもとづいて、今度は総労働の必要な配分がなされるわけである。そして生産力で重要なのは、生きた労働の一定量がどれだけの使用価値量を生み出すかであって、そのための生産手段にどれだけの過去の労働が支出されていたかといったことは、この場合は、まったくなんの関係もないのである。生産手段で問われるのは、その使用価値と生きた労働と結合する技術的条件のみなのである。だからこそ社会主義社会では、生きた労働のみが問題なのであって、生産手段に支出された過去の労働はまったく問題にならないといえるのである。

 マルクスは『土地の国有化について』という手稿の中で次のように述べている。

 〈土地の国有化は、労資の関係に完全な変化をひきおこすであろうし、結局は、工業であろうと農業であろうと、資本主義的生産を完全に廃止するであろう。そうなったときにはじめて、階級差異と特権とは、それを生みだした経済的土台といっしょに消滅し、社会は一つの自由な「生産者」の協同組合(アソシエーション)に変わるであろう。他人の労働で暮らしていくようなことは、過去の事柄となるであろう! そこには、社会そのものと区別された政府も国家も、もはや存在しないであろう!
 農業、鉱業、製造業、一言でいえばすべての生産部門は、しだいに最も効果的な形態に組織されていくであろう。生産手段の国民的集中は、合理的な共同計画に従って意識的に行動する、自由で平等な生産者たちの諸協同組合(諸アソシエーション)からなる一社会の自然的基礎となるであろう。これこそ、一九世紀の偉大な経済的運動がめざしている目標である。〉(全集18巻55頁、下線はマルクスによる強調、丸括弧内は引用者が追加)

 マルクスは〈資本主義的生産を完全に廃止する〉なら〈階級差異と特権とは、それを生みだした経済的土台といっしょに消滅〉すると述べている。つまり〈階級差異と特権〉だけではなく、〈それを生みだした経済的土台〉も一緒に消滅すると述べているのである。つまり経済的土台そのものも消滅する。経済的土台とは、生産における人間相互の物象的関係、つまり生産諸関係のことである。つまり生産諸関係そのものも消滅するとマルクスは述べているのである。だから当然、経済的土台と上部構造との区別も消滅する。だからその社会システムには〈社会そのものと区別された政府も国家も、もはや存在しない〉のである。つまりその社会システムには〈社会そのもの〉だけが残るのだとマルクスは述べている。〈社会そのもの〉、すなわち諸個人の自覚的な結びつきそのもの、社会化された個人そのものだけが残る。それは〈自由な「生産者」のアソシエーション〉だとも述べられている。だから彼らの社会的関係が、彼ら自身から疎外され、一つは生産における物象的な関係(生産諸関係=経済的土台)として彼らを外的に縛り統制し、時には攪乱することはもはやないし、他方では、政治的・法的関係として自立化し、彼らを支配し屈従させるものとして立ち現れることもないのである。〈社会そのもの〉とは、社会の成員の互いの自主的で自覚的な結び合いそのものである。彼らは彼ら自身の社会的生産において、自分たちの社会的な物質代謝を自分たちにもっとも相応しい形で、合理的に統制・管理し、その過程で互いに自覚的に結び合うのである。将来の社会に残るのはそれだけだとマルクスは述べているのである。ここが肝心である。
 しかし今論じている問題と関連してさらに重要なのは、その後でマルクスが述べていることである。〈農業、鉱業、製造業、一言でいえばすべての生産部門は、しだいに最も効果的な形態に組織されていくであろう〉。〈すべての生産部門は、しだいにもっとも効果的な形態において組織される〉ということの内容を、マルクスは、それをうけた形で〈生産手段の国民的集中〉とも述べている。マルクスはわざわざその部分を強調していることにも注意が必要である。つまりここで言われている〈すべての生産部門は、しだいに最も効果的な形態に組織されていく〉と述べているのは、生産手段について言われていることなのである。社会のすべての生産部門のさまざまな生産手段は最も効果的な形態で国民的に集中され、組織されていくわけである。そしてそれはいうまでもなく、社会が必要とするさまざまな消費手段の生産、その使用価値とその必要量を直接目的にして集中されて、組織されていくわけである。そしてそれが〈合理的な共同計画に従って意識的に行動する、自由で平等な生産者たちの諸協同組合(諸アソシエーション)からなる一社会の自然的基礎となるであろう〉と言われている。つまり生産手段の国民的集中が、諸アソシエーションの自然的基礎となるわけである。
 だから将来の社会のシステムにおいては、社会そのもの、つまり合理的な共同計画に従って意識的に行動する自由で平等な生産者のアソシエーション、つまり自覚的な生産者の結合そのものと、その自然的基礎である生産手段の国民的に集中され組織された物的体系だけがあるのみなのである。社会のシステムは極めて単純で透明な関係となる。自然的基礎として、生産手段をもっとも効果的な形で組織された物的体系が一方にあり、他方にはそれを合理的な共同計画に従って意識的に行動する自由で平等な生産者たちのさまざまなアソシエーションがあるだけなのである。
 この単純で透明な関係は、ロビンソンの生活の中にあるものの、高度な社会的なシステムにおける復活であり、実現でもある。ロビンソンの場合、彼を取り巻く自然、すなわち彼が必要な生活諸手段をそこから取り出さねばならない彼を取り巻く自然がまずある。そしてその自然に彼が働きかけて彼の生活に必要なさまざまな使用価値を生み出すために、彼が使う道具一式がある。それは自然から毎日必要な生活手段を得るためにもっとも効果的な形に作られ、組み合わされて彼の前に存在している。これが彼の生活のための〈自然的基礎〉である。それに対して、その諸道具を使って自然に働きかけて有用な諸物を取り出すための彼の計画的な行動がある。彼のこれまでの経験が教えるものにもとづいて、また自然の諸法則に対する彼のより深まった認識にもとづいて、合理的な計画に従った彼の意識的な実践である。それは確かに彼を取り巻く客観的な自然の法則に合致した上で彼にとってもっとも合理的な形で、彼の人間性にもっとも適合した形で意識的に行われなければならないが(その意味ではいまだ必然の領域である)、しかしそれは彼の自由意思の発露であり、彼以外の何人にも強制されるものではない自由な活動である。将来の社会システムで復活するのはこうした単純で透明な関係なのである。
 将来の社会主義で、生産手段を国民的に集中し、もっとも効果的な形態で組織していく上で重要なのは、それらの生産手段の使用価値のみであって、それらの生産手段の生産のために支出された労働(過去の労働)がどれだけかということは一切無関係である。というのは生産手段の物的な形態そのものが、それらの物質的な結合関係を表しているのであって、それらに対象化された労働の量は、この際、まったく何の関係もないからである。これは例えば一つの自動車工場内で、機械や道具や原材料をどのように配置し、供給すべきかをプラニングする時を思い浮かべてみればよく分かる。その場合、自動車という個別の最終生産物を生産するために必要なそれぞれの機械や道具の具体的な機能やその物的形態だけが問われ、それらの使用価値の量的割合だけが問題であり、それぞれの機械や道具や原材料を作るために必要だった労働量などはまったく問われないことは明らかである。もちろん、それらが生きた労働と結合する技術的条件や、そして目的とした生産物量を効果的にそれぞれの部門で生み出すかどうかを考えて、全体としてそれらは合目的的に組み合わされるわけである。そして、それぞれの作業部門で必要な原材料や補助材料も、一日にどれだけが必要かということも、ただそれらの使用価値と生きた労働と結合される技術的条件によって規定されているのであって、それらの原材料にどれだけの過去の労働が対象化されているかなどというはまったく問われないのである。だから生産手段の生産にどれだけの過去の労働が費やされたかということは、この場合も一切無関係なのである。
 社会主義では最終生産物であるさまざまな消費手段を社会が必要とするそれぞれの使用価値に固有の諸量を生産するために、あらゆる生産部門は目的意識的に合理的に計画的に組織されなければならない。ただその場合、生産諸手段は、ただその使用価値の物的形態に規定された量的比率関係だけが問題なのである。これがマルクスのいう〈自然的基礎〉である。そして生きた労働がそれぞれの生産部門や作業分野における技術的構成(生産力)に応じて計画的に配分される必要があるわけであるが、これがマルクスが言うところの〈合理的な共同計画に従って意識的に行動する、自由で平等な生産者たちの諸協同組合(諸アソシエーション)〉なのである。だから社会主義では生産手段はその使用価値と生きた労働と結合される技術的条件(技術的構成)だけが問われ、生産手段に支出されている過去の労働そのものはまったく問題にならないわけである。そして支出された生きた労働時間を基準にして、消費手段の一定量がどれだけの生きた労働によって生産されているかが計られることになる。そして実際に生きた労働を社会に与えた個々の生産者がそれぞれの支出した生きた労働に応じて、生きた労働のどれだけによって生み出されたかが分かっている消費諸手段の分配を受けることになるわけである。

 ところで私は、林論文の本文を批判的に検討するなかで、次のように述べた。

 「再生産の基本的な構造や補填関係というものは資本主義と社会主義とに本質的な違いは無い。社会主義でも生産手段の生産部門と消費手段の生産部門との区別が必要である。だからその年度に生産された生産物のうち、生産手段の生きた労働が対象化された部分と消費手段の過去の労働が移転した部分とが一致しなければ均衡ある再生産は不可能ということは基本的には同じである。こうした生産手段と消費手段という物質的な区別や関係と支出された人間労働の量的均衡関係は、如何なる社会であろうと基本的には同じでなければならないものである。」

 しかしそうであるなら、今回の社会主義における分配問題の上記のような解決のなかで、それがどのように貫かれているのであろうか。すでに見たように、社会主義では生産手段はその使用価値だけが問われ、それに対象化されている労働(過去の労働)は問われない、という結論になった。とすれば、上記の再生産の原理的な関係とそれは如何に整合するのであろうか。それを考えてみよう。
 しかしこの問題については、実はすでに回答を与えているのである。この問題を論じたところで、私は次のようにも述べた。

 「例えばロビンソン・クルーソーの生活を考えても同じことが言えるのである。ロビンソンにおいても、やはり彼は毎日の生活のために消費手段を入手する手だてを考えなければならないが、同時に平行して、生産手段の生産にどれだけの労働を費やすことが可能かを常に計算しなければならない。一日の労働うち、あるいは一年間の労働のうち、そのほとんどを生産手段に費やしたら、一体、どうなるであろうか。忽ち彼は蓄えを費やし、食べ物に困ることになるだろう。ではそうではなく、ただ消費手段を生産するだけに彼の労働を費やしたらどうであろうか。消費手段の生産過程で消耗した生産手段(道具類)が再生産されず、彼は消費手段さえも生産することができなくなるであろう。だから彼は、限られた彼の総労働のうち消費手段の生産のために支出する労働と同時に平行して、常に生産手段をも再生産する必要があることを知るのである。しかしどれだけの労働を生産手段に支出し、どれだけの労働でもって消費手段を生産すればよいのか、それは経験が彼に教えるであろう。彼はそのために几帳面に常に支出した労働時間を記帳し、生産手段の生産にはどれだけの労働を費やすべきか、そして消費手段の生産にはどれだけが相応しいのか、その均衡条件を彼は経験のなかで見いだすのである。だからロビンソンの生活にもその原則は貫かれているのである。」

 このロビンソンで問題になっていることが、そのまま社会主義では問題になるのである。ただそれが自覚的に組織された社会全体のなかで問題になるに過ぎないわけである。ロビンソンは「生産手段の生産にはどれだけの労働を費やすべきか、そして消費手段の生産にはどれだけが相応しいのか、その均衡条件を彼は経験のなかで見いだす」と述べたが、これはすべて彼の「生きた労働」の問題である。生きた労働のどれだけを消費手段の生産に投じなければならないのか、また生産手段の生産にはどれだけの生きた労働を投じることが可能となるのか、将来の社会主義でも、この両者の均衡関係は、常に経験によって認識される必要があるであろう。(次回は、「付録」として抜粋集を紹介する。)

2015年7月12日 (日)

林理論批判(7)

〈社会主義における「分配」はいかになされるか〉批判ノートNo.7

《『海つばめ』1236・1237合併号(2014.10.19)【4~6面】社会主義における「分配」はいかになされるか――消費手段の「価値規定」問題――「価値移転」ドグマとの訣別が“解決”の鍵》の批判的検討(の続き)

§§論文本分の検討(続き)

◆6、「価値移転論」の矛盾と自家撞着――生産的労働は3000でなく9000

●〈価値移転論者によると、年々の総労働(者)は9000でなくて3000だそうである、というのは「生きた労働」はただ3000だけであって、残りの労働の6000は「生きた労働」ではなく、「過去の労働」、死んだ労働だからである。〉

 少なくともその〈価値移転論者〉にはマルクスも入っているし、多くの『資本論』を少なくとも偏見なしに研究した人はほとんどがそうであろう。
 これを見ると、林氏は少なくとも再生産表式でマルクスが説明していることをある程度は理解していることが分かる。だからこれまでの妄言は、『資本論』で書かれていることはある程度分かった上でのものであることが分かるのである。その意味では、林氏は確信的なマルクス批判者なのである。

●〈3000の労働が、抽象的人間労働によって3000の価値を創造し、他方、具体的有用労働は9000の使用価値を生産すると共に、6000の「過去の労働」を、生産手段の価値を、資本価値を「移転する」のである。9000のうち、3000だけが「生きた労働」の成果である。つまり6000の価値を持つ生産手段は、使用価値としては再生産されたが、価値として再生産されなかったのである。〉

 ここで言われていることは、部分的に手直しすれば、その限りではまったく正しい。手直しが必要なのは、〈9000のうち、3000だけが「生きた労働」の成果である〉という部分は、「9000の価値のうち、3000だけが「生きた労働」によって新しく追加された価値である」が正しい。また〈つまり6000の価値を持つ生産手段は、使用価値としては再生産されたが、価値として再生産されなかったのである〉という部分は、わざと問題を混同して論じている。問題を整理してみよう。〈6000の価値を持つ生産手段〉というのは今年度の部門 I と部門IIで生産的に消費された生産手段のことである。それは今年度の部門 I の生産物として、すなわち使用価値として再生産されている。しかしその価値は4000の旧価値の移転分と2000の追加価値とでなっている。だからそれは6000の価値を持つが、4000は「再現」されているものであり、2000が「再生産」されたものである。これが正しい説明である。

●〈しかし9000の使用価値が3000の労働によって生産されたものであるというのは、言語矛盾であって、そんな理屈が「原則」であるかに祭り上げられるなら無意味なドグマになるしかないのは余りに明らかなように思われる。〉

 林氏は価値と使用価値をわざと混同している。3000の労働によって生産されたのは使用価値であって、9000の価値ではない。だからここにはどんな〈言語矛盾〉も存在しない。なぜなら、9000は再生産された使用価値の持っている価値であるが、しかしそれは3000の労働だけで生産されたものではないからである。3000の労働が生み出したのは3000の価値であって、残りの6000は、生産手段の価値が移転されたものである。3000の労働は、その抽象的契機によって、新たな価値3000を追加し、その具体的有用労働の契機によって6000の生産手段の価値を移転・保存したのである。だからここには何の矛盾も存在しない。

●〈3000の労働が生産したものは結局消費手段であり、ただそれだけだということになるが、しかし他方では9000の使用価値を生産したと言われるのである。しかし商品生産においては、使用価値の生産とは同時に価値の生産であるし、そうでなくては労働価値説はわけの分からないたわ言になるしかない。価値の生産ではない、使用価値の生産があり得るなどという観念は途方もないものであって、「価値法則」を根底から否定し、止揚することなくしてはとうてい理屈として提出することはできないように思われる、だがスターリン主義者たち(共産党の連中)は平気でそんなドグマを振りまくのであり、今も振りまいている。〉

 どういう理屈から〈3000の労働が生産したものは結局消費手段〉になるのか皆目わからない。3000の労働が生産したのは生産手段と消費手段の年間生産物合計9000の価値を持つ使用価値全体である。消費手段の生産にその年度に支出された労働は1000でしかない。商品生産では確かに〈使用価値の生産とは同時に価値の生産である〉。例えば3000の価値ある消費手段の使用価値を生産したのは1000の生きている労働(今年度の労働)である。その労働は消費手段のすべての使用価値を生産したのであり、そのために支出された労働は1000である。ここには何の矛盾もないし、労働価値説を覆すようなものはない。使用価値の生産と同時に価値の生産も行われている。1000の労働の具体的有用労働の契機は、消費手段の使用価値を生産する過程で、2000の生産手段を生産的に消費、新たな生産物へと加工したが、しかしその過程で、生産手段の2000の価値を新たな生産物(消費手段)に移転・保存し(なぜなら、具体的有用労働は生産手段を生産的に消費し、その使用価値とともに価値を消失させた代わりに、新しい使用価値を生み出したからである)、同時にその抽象的契機によって1000の価値を追加したのである。だから新しい消費手段の価値は移転・保存された旧価値2000と追加された新価値1000の合計3000なのである。ここには労働価値説を覆すようなものは何もないし、「価値法則」を根底から否定しなければならないものもない。林氏こそ奇妙なドグマを振りまいているのではないのか。林氏の頭は混乱してしまった、とわれわれは、殘念ながら確認せざるを得ない。

●〈そしてもし「過去の労働の移転」(価値移転)を言うなら、生産手段の価値だけでなく、消費手段の価値の移転も言わなくては首尾一貫することはできない、というのは、資本にとっては「移転」され、再生産されるのは不変資本(生産手段の価値)だけでなく可変資本(消費手段の価値)も同様だからである。資本は年々の再生産の出発点では生産手段も消費手段も「資本」として所有し、前提しているのであって、それらは年々の終わりにはまた自分の手元に戻っていなくてはならないのである。〉

 〈というのは、資本にとって〉と林氏はいうが、それが林氏には自己の主張の正当性の根拠になるとでも考えているのであろうか。つまり林氏にとっては〈資本にとって〉どうかが問題なのであって、問題は〈資本にとって〉〈首尾一貫すること〉なのか。
 もうここに至っては、付ける薬はなくなりつつある。では林氏にお聞きするが、「可変資本」はどうして「可変」資本というのでしょうか。あるいは不変資本はどうして「不変」資本というのでしょうか。可変資本はその資本価値が「増殖」するからそのような名前が付いている。しかしそのことは労働力の価値が生産物に移転するからではない。もしそうであるならそれは「増殖」しないだろうし、それは「可変」資本とは言わないだろう。そうではなく、労働力の価値は労働者の収入に転化し、その限りではもはや資本の価値ではない。資本家はそれまでの貨幣資本価値の代わりに労働力という商品を入手したのであり、その使用価値=労働が新たな価値を生み出すからこそ、彼が労働力に投じた資本価値は増殖するのである。だから労働力に投じた価値が移転・保存されるなどということはない。それに対して、生産手段に投じた資本価値は、生産過程で生産的に消費される過程で新たな使用価値を生み出すのであり、だからこそその価値は新たな使用価値の価値として再現するのである。
 生産手段も消費手段も年々新しい生産物として資本家の手元に戻っているというのは確かにそうである。それはすなわちW’である。だからそれは最初のW’がそのままその年度の終りに手にするW’へと価値を移転させたのだと林氏はいうのであろうか。それでは一体何のための資本の循環の分析であろうか。林氏は第2巻におけるマルクスの分析をすべて御破算にして、ただブルジョア的な意識にしがみつくしかないのであろうか。ブルジョア的な表面的なとらえ方を根拠に自説の正当性を論じるほどブルジョア化してしまったのであろうか。

●〈そしてこの場合には、「価値移転」論の限界が、矛盾が暴露されてしまう、というのは、価値としての消費手段(可変資本)は直接に「移転」するのではなく、直接には労働者の所得へと転化し、さらに労働者の労働によって現実的に再生産されるものとして現象するからである、その価値は「移転」されたものとして、「労働」によって(抽象的人間労働によってさえも)媒介されたものとして現れ、「有用労働によって移転されたもの」として現れないからである。〉

  ここでも林氏は「現象」という言葉を使っているが、その本当の意味を考えていない。〈価値としての消費手段(可変資本)は直接に「移転」するのではなく、直接には労働者の所得へと転化し、さらに労働者の労働によって現実的に再生産される〉というようなことは、決して「現象」しないのである。そうしたことが直接的ではなく、表面的には分からないからこそ、マルクスの分析によって初めて明らかにされる必要があったのである。
 しかしここに〈矛盾〉を見るのは、林氏が勝手な独断と偏見をこじつけているからに他ならない。一体、どこの誰が「労働力の価値」が移転するなどと主張しているのか。そんなわけのわからない主張者をでっち上げれば、その批判は確かに容易なものではある。しかしそれはただ自分ででっち上げた幽霊を相手に喧嘩しているようなものでしかない。

●〈かくして「価値移転」論のドグマに固執する限り、「価値法則」はわけの分からない理論的混沌と不合理に行き着くしかなく、社会主義社会における「分配法則」などどこかに吹っ飛んでしまうだけではない、資本主義社会の合法則的な理解さえも全く不可能になるだろう。スターリン主義者(共産党の連中)は途方に暮れるしかなく、結局実践的、理論的に自ら破綻し、いくじなくブルジョアの軍門に下るのである。〉

 何度もいうが、生産手段(不変資本)の「価値移転」を論じているのは、スターリン主義者ではなく、マルクス本人である。それは『資本論』を読んだ一人ら誰でも認めざるを得ないだろう。それはマルクスによって価値法則に則って考察されている。だからそれは決してドグマなどではなく、科学的分析の成果なのである。林氏こそ「反マルクス主義者」のレッテルに相応しい。こんなデタラメなことを振りまいて労働者を混乱させる責任はすべて林氏にあり、それを代表として奉っている同志会にある。その責任をもっと会員は自覚すべきではないか。こんな反マルクス主義者をいつまで代表の座に据えておくのか。もっと林批判の声が上がってもよいのだが、それが一向にないのは、同志会そのものが、こうした公然としたマルクス批判を受け入れるような状態になってしまっているのであろうか。これは労働者に対する裏切りではないのか。

●〈労働者にとって資本主義の現実の認識――従ってまた社会主義の理論の理解――は単純で明快である。9000の価値と使用価値(9000の価値を持つ使用価値)が年々再生産されるとするなら、それは年々9000の労働が支出されたのであって、それ以外ではない。消費手段を生産するために3000の労働が支出されたから、年々の「生きた労働」は、つまり総労働は3000でしかないといった観念は、社会的な分業の社会について、何も理解していないことを暴露しているだけである。もし3000の消費手段を得るために、3000の消費手段の生産に必要な労働だけでなく、6000の生産手段を生産する労働も必要だというなら、それは社会的な総生産のために、年々9000の労働が「分配」されるし、されなくてはならないということであって、それは余りに単純な現実であり、真実であるにすぎない。〉

 しかし現実にあるのは3000の総労働でしかないという事実を林氏は忘れている。3000の総労働しかないのに、どうして9000の労働を配分できるのか。これこそ言語矛盾ではないのか。林氏が年々9000の労働が支出されたといくら主張しても、現実に支出可能な労働は3000しかないのである。9000の価値ある使用価値が年々再生産されたということは正しい。しかしそれは使用価値が再生産されたのであって、9000の価値が再生産されたのではない。その事実を林氏は何とか無視し、誤魔化そうとしているが、それはそもそもの前提そのものを変えないかぎり不可能である。ここには強引な無理解があるだけである。使用価値と価値との混同が意図的になされている。年々の再生産に必要なのはその物質的基礎である使用価値である。だから年々再生産されるのは使用価値であり、それは9000の価値ある使用価値である。しかしその使用価値を再生産している労働は年間3000の価値しか生み出さない。なぜなら、労働者は1500人と想定されているからである(可変資本100が労働者100人の指標とするなら)。彼らの必要労働1500と剰余労働1500との合計3000の総労働が9000の価値を一年間に生み出すことは不可能である。残りの6000の価値は旧価値が移転・保存されただけに過ぎないからである。6000の価値を持つ生産手段も、年度の初めにまず分配(配分)される必要があるというなら確かにそうである。しかしそのことは6000労働が分配されるということとは違った内容である。それは対象化された労働であり、それに対して総労働の配分で問題になるのは生きた労働(今年度の総労働)の配分だからである。

●〈ブルジョアにとっては、搾取の対象となるのは、消費手段を生産する労働である、というのは、直接生産者から搾取して意味があるのは消費手段でしかないからである。どんな階級社会においても、支配階級は消費手段を収奪し、搾取することによって富んできたのである。もちろん生産手段を収奪することによって富むときもないとは言わないが、それは「ただ一度限りでのこと」――例えば、「原始的な蓄積」等々――であって、継続的に行うことは不可能であった、というのは、小生産者たちはいったん生産手段を収奪されれば「無産の民」になり、労働力を売って生きるしかなく、ブルジョアたちが再び生産手段を収奪しようとしてもできないからである。だからこそ、ブルジョアにとっては、消費手段を生産する労働だけが「生きた労働」――搾取可能な対象――として現象するのだが俗流ヘッポコ理論家たちは、そんなブルジョア意識を反映して騒ぎ立てるのである。ブルジョア社会では、もちろん一部の労働者は生産手段だけを生産して消費手段は生産しないのだが、ブルジョアたちは「賃労働」によって、そうした労働者をも――労働者の全体を――搾取するのであり、することができるのである。〉

 林氏はブルジョア社会と資本主義以前の階級社会との区別ができないのであろうか。資本主義社会では、資本は利潤、あるいは剰余価値という抽象的な富を目的とも推進動機ともして生産するのであって、決して消費手段というような使用価値を目的に運動しているのではない。資本は決して消費手段の収奪を目的にしているのではない。これではまるで盗賊か封建領主ではないか。〈ブルジョアにとっては、消費手段を生産する労働だけが「生きた労働」――搾取可能な対象――として現象する〉だって! 一体、〈俗流ヘッポコ理論家〉というのは林氏本人のことではないのか。

●〈年々の総生産は消費手段を生産する3000の労働の結果ではなく、9000の労働の結果であることを確認することは極めて重要である。それは、労働者が自らの解放に向かって前進していくために欠くことのできない自覚の一つであって、9000の労働を3000だなどと言いはやす連中のドグマに、たわ言に――つまり「価値移転」論などに――とらわれているなら、社会主義を勝ち取る闘いが挫折し、解体することほどに明らかなことはないであろう。社会が継続し、また労働者が生活し、生きて行くためには、3000の消費手段を生産する労働だけでなく、6000の生産手段を生産する労働も全く同様に必要であって、こうした分業はより多くの消費手段をより少ない労働で、より有効に獲得するためのものであること、消費手段を生産する労働も、生産手段を生産する労働も――ありとあらゆる社会的労働が――、質的に同一で、無差別平等の労働であることが、そして被搾取労働であることが――それ故に、全ての労働する人々の平等と無差別が、従ってまた各人の人格と自由が――確認されなくてはならないのである。〉

 ここにあるのは極めて乱雑で乱暴な議論であり、主張である。〈3000の労働の結果ではなく、9000の労働の結果であることを確認する〉ことが、どうして〈労働者が自らの解放に向かって前進していくために欠くことのできない自覚の一つ〉なのか、何も論証されていない。ただ断定、独断があるだけである。林氏こそ〈ドグマ〉を振りまき、〈たわ言〉に耽っているのではないのか。〈3000の労働の結果ではなく、9000の労働の結果であることを確認〉できないと〈社会主義を勝ち取る闘いが挫折し、解体することほどに明らかなことはない〉だって、馬鹿も休み休みにいうべきだ。
 〈社会が継続し、また労働者が生活し、生きて行くためには、3000の消費手段を生産する労働だけでなく、6000の生産手段を生産する労働も全く同様に必要〉。確かにそのとおりである。しかしそれらを生産する労働は3000の生きた労働だけである。その生きた労働は、その抽象的契機で3000の価値を追加し、その具体的契機で6000の価値を移転・保存するのである。
 林氏こそ3000の労働を9000の労働と強弁しているだけではないのか。これこそドグマというものである。
 何度もいうが、マルクスが単純再生産で想定しているのは、だからまた林氏もそれを踏襲しているのだから、可変資本は社会全体で1500しかないのであり、だから可変資本100が労働者100人の指標と考えるなら、社会のある年度に支出される総労働は1500人の必要労働1500に剰余労働1500を加えた3000しかないのである。林氏はこの想定を都合よく忘れている、あるいは忘れたふりをして、強引に社会の総労働は9000だと断定しているに過ぎない。

◆7、「生産手段の価値規定」の問題

●〈乗用車の価値規定は、労働対象としての鉄鋼(い)と、労働手段としての機械(A)の「価値規定」(労働時間)と、直接に乗用車を生産する労働時間の和としてのみによってなされるということは、鉄鉱石を生産する労働や、機械(A)を生産するための鉄鉱石や機械(B)等々を生産する労働がどうでもいいということではない。それらは社会的な総生産の中に、つまり社会的に必要な総労働の中に含まれているが、ただ消費手段の生産のために直接に支出されないのであり、従って消費手段の価値規定とは無関係であるということにすぎない。〉

 ここでも林氏は個別の商品の価値形成の問題と社会的総生産の使用価値と価値の補填関係を同じようなものとして混同して論じているが、しかし両者は区別して論じる必要がある。個別の商品の価値規定を考えるなら、一定の価格で購入された生産手段に投じられた労働が社会的な必要労働の一定量であることはすでに確認されており、それを改めて問題にする必要はない。しかし社会的な総生産を問題にするなら、生産手段と消費手段の生産に支出された労働は互いに補填関係にある必要がある。だから生産手段のための生産手段(鉄鉱石)を生産する労働も、価値としては、消費手段(乗用車)と補填関係に無ければならず、使用価値(鉄鉱石)としては消費手段(乗用車)とは全く補填関係(交換関係)がないのに、どうしてそれらが価値として補填し合うのかが問われるのである。

●〈もちろん、生産手段もまた価値規定を受け取るし、受け取ることができるというならそれは正しい。しかし社会主義で生産手段の価値規定といったものは仮に可能だとしても何の意味も持たないのである。というのは、生産手段は直接に使用価値として、その量として労働(労働者)と関係するからであり、また生産手段の個々人への分配といったことは全く問題にならないからである。〉

 ここで言われていることは本当は正しいのであるが、必ずしもそれが社会主義における分配問題を解決するもののようには述べられていない。また今までの混乱した主張とどのように関連しているのかも皆目分からないのである。しかしこの問題については、後に、それが社会主義における分配問題とどのように関連しているのかについて論じてみたい。

◆8、二種類の「有機的構成」の概念とマルクスの表式

●〈マルクスもまた、生産手段を生産する労働と、消費手段を生産する労働の比重が持つ重要な意義をよく理解していたのであって、彼は資本主義における、その特殊な現象形態を、資本の有機的構成として、すなわち不変資本と可変資本の比率として表現したが、しかし他方では、生産手段を生産する労働と消費手段を生産する労働の比率を、自然的な有機的構成という概念で言及している。マルクスの単純再生産の表式では、6000対3000つまり2対1である(もちろん不変資本と可変資本の比率では、6000対1500で4対1であるが)。〉

 ここでマルクスが〈生産手段を生産する労働と消費手段を生産する労働の比率を、自然的な有機的構成という概念で言及している〉というのであるが、果たしてそれは何処で言及されているのであろうか。確かにそれは興味深い問題ではあるが、殘念ながら、それについてマルクスが言及しているということを私は知らなかった。ただ言えることは、少なくとも林氏はマルクスが有機的構成と述べている概念を正確には理解していないということである。それについてはすでに確認した。

●〈そしてさらにマルクスは個々の資本家的商品の有機的構成の違いに基づく、「価値の生産価格への転化」についても語り、分析を行っているが、これは客観的に、個々の生産物の有機的構成が平均的な有機的構成とは――自然的なものとしても――異なってくる、ずれてくることから生じてくる、資本主義的現象である。〉

 ここでも林氏の『資本論』理解が如何にあやふやであるかが暴露されている。ここで言われていることは生産価格の概念としては間違っている。というのは、生産価格で問題になっている有機的構成の相違は、決して個々の生産物の有機的構成と平均的な有機的構成との違いではないからである。そうではなく生産部門間の有機的構成の相違がそれぞれの生産部門で生産される利潤(率)の相違をもたらし、それが資本規模に応じた利潤を得ようとする諸資本の競争を通じて平均利潤に還元され、その結果、生産価格が成立するのだからである。だから生産価格では、個別の生産物とその同じ生産部門の平均的生産条件との相違が問題なのではないのである。

◆9、生産力の向上もしくは「価値革命」と「価値規定」問題

●〈労働生産性の向上つまり「価値革命」(生産物を生産する労働時間の短縮)の問題もまた容易に解決することができる(「価値移転」論では、決して合理的に解決することはできないのだが)。
 我々の例において、消費手段の場合を取って論じることにしよう。自然的な有機的構成が2対1なら、生産手段の生産力が2倍になったなら(つまり必要労働時間が半分になったなら)、消費手段の生産性の上昇は、これまでの労働時間が3分の2に減少するという形で現れるが、消費手段の生産力が直接に2倍になったなら(つまり必要な労働時間が半減したなら)、直接に消費手段は半分の労働時間で生産されるという形で現象する。もちろん生産手段の場合も同様である。もし消費手段部門の生産力が2倍になり、そこでの労働時間が半分になったら、生産手段部門の必要労働は6分の1だけ縮小して、6分の5になるだろう。〉

 なぜ生産力の上昇が問題になるのか分からないが、詳しい検討は保留しておく。とにかく林氏の前提--生産手段を生産する労働は6000で、消費手段を生産する労働は3000という前提--そのものはおかしいということだけは指摘しておく。

◆10、我々の新しい概念の意義

 要するに林氏のすがりついているものは、価値としてはすべて同じ抽象的人間労働であり、だからその限りで過去の労働であるかとか、生きた労働であるかとかの区別はまったく問われない、という単純な事実である。しかしこれはもっとも単純な商品の価値規定にもどることであり、それ以降の資本のもとでの具体的な関係や考察、あるいは社会的な総再生産過程の分析をすべて無視して、ただ単純な商品の価値の抽象的規定に還元しただけの話であり、何も解決したことにはならないのである。こんなことなら最初から分かった話であって、一体、何をゴチャゴチャ言ってきたのかというしかない。しかし問題を抽象的なものに還元すれば、すべて複雑な具体的な問題は捨象されて単純になるというのでは何も具体的に明らかにしたことにはならないのは道理である。この論文で果たしてどれだけの人が社会主義における分配問題が解決されたと納得するであろうか。馬鹿馬鹿しい限りである。

 以上で本文の検討は終わる。次回は私自身の「社会主義における分配問題」についての積極的な主張を紹介することにする。

2015年7月 9日 (木)

林理論批判(6)

〈社会主義における「分配」はいかになされるか〉批判ノートNo.6

《『海つばめ』1236・1237合併号(2014.10.19)【4~6面】社会主義における「分配」はいかになされるか――消費手段の「価値規定」問題――「価値移転」ドグマとの訣別が“解決”の鍵》の批判的検討(の続き)

§§論文本分の検討(続き)

◆5、「生きた労働」と「過去の労働」(資本価値)及び後者の「(有用労働による)移転」論の虚偽性(ブルジョア的観念)

 前から何時も気になっていたのだが、林氏は「過去の労働」というときに常に「資本」とか「資本価値」というのであるが、これは資本=生産手段というブルジョア的な物神崇拝に陥っているからではないのだろうか。というのは「生きた労働」も、やはりそれは資本の生産過程における労働力の使用価値の実現過程--流動状態にある労働--なのだから、それ自体は資本の運動なのである。資本価値というなら可変資本もやはり資本価値であって、資本価値という点では不変資本と同じなのである。こうした基本的な概念の曖昧さが林氏には常に付きまとうのである。

●〈こうした認識から反省して見れば、「生きた労働」とか「過去の労働」といった観念が、どんなに不明瞭なものであるかが、労働者の観点からするなら虚偽の観念でさえあることが明瞭に暴露されてくる。というのは、生産手段を生産する労働も、消費手段を生産する労働もみな現実的であり、共に質的に同一の抽象的人間労働として現在的だからである、その意味では「過去の労働」といったものは存在する余地がないからであり、従ってそんなものが「有用的労働」によるものか、何によるかは知らないが「移転」されるはずもないのである。「過去の労働」といったものは、ただブルジョア社会では「資本価値」といった形で存在するのだが、そんなものは果たして社会的亡霊(物神崇拝の一種)ではないかと、我々は疑ってかかるべきであろう。〉

 〈こうした認識〉というが、一体、どういう認識なのかさっぱりわからない。
 林氏は〈「生きた労働」とか「過去の労働」といった観念が、どんなに不明瞭なものであるかが、労働者の観点からするなら虚偽の観念でさえあることが明瞭に暴露されてくる〉というのであるが、少なくとも〈「生きた労働」とか「過去の労働」〉というカテゴリーはマルクス自身が使っているものである。だからこうした林氏の主張は真っ正面からマルクス批判そのものといわざるを得ない。
 マル・エン全集のCD版の事項索引を検索すると「生きた労働と対象化された労働」という大項目があり、次の7つの小項目がある。「生きた労働」「生きた労働と対象化された労働の相互関係」「対象化された(過去の)労働」「対象化された労働にくらべての生きた労働の相対的減少」「致富の源泉としての生きた労働」「農業における生きた労働と対象化された労働」。
 マルクス自身がどのようにこれらの用語を使っているのかの具体例は別途抜き書き--それは事項索引で紹介されているもののほんの一部分でしかないが--を参照して頂きたい。それを読めば、マルクスにとってこの概念が極めて重要なものであったことが分かるであろう。
 例えば、一例として、次のようなものを見てみよう。

 〈労働力に含まれている過去の労働と労働力がすることのできる生きている労働とは、つまり労働力の毎日の維持費と労働力の毎日の支出とは、二つのまったく違う量である。前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値をなしている。〉(同253-254頁、太字は引用者)

 これを見ても、「生きた労働」と「過去の労働」は剰余価値の源泉を明らかにするためにも、つまり資本の搾取のカラクリを暴露するためにも、重要な役割を果たしていることが分かるであろう。またこうしたマルクスのこれらのカテゴリーの使い方をみると、林氏のように、「過去の労働」イコール「資本価値」という見方も一つの偏見でしかないことも明らかになるだろう。
 林氏は、〈生産手段を生産する労働も、消費手段を生産する労働もみな現実的であり、共に質的に同一の抽象的人間労働として現在的だからである、その意味では「過去の労働」といったものは存在する余地がないからであり、従ってそんなものが「有用的労働」によるものか、何によるかは知らないが「移転」されるはずもない〉というのだが、これはもう無茶苦茶な理屈である。確かにすべてを抽象的人間労働に還元するなら、それが何時如何なる時間と空間において支出されたかといったことは問われない。しかしそれをいうなら、梨も蜜柑も、柿も、すべて果物としては同じだから、それらの区別は無意味であるというのと同じことである。われわれが「生きた労働」とか「過去の労働」とか、労働を区別するのは、労働過程のさまざまな要因(大きくわけて生産手段や労働力)が生産物の価値形成にどのような仕方で参加するかを問うているのである。もし「生きた労働」とか「過去の労働」といった区別が無意味だというのなら、そもそも不変資本や可変資本といったものも無意味になるだろう。なせなら、それらも価値としてはまったく同じであり、同じ抽象的人間労働の凝固だからである。つまり林氏の言っていることは、問題を『資本論』の冒頭の商品論のレベルで捉えれば、資本関係などは無意味になると言っているだけのことなのである。
 〈「過去の労働」といったものは、ただブルジョア社会では「資本価値」といった形で存在するのだが、そんなものは果たして社会的亡霊(物神崇拝の一種)ではないかと、我々は疑ってかかるべきであろう〉だって!? 「過去の労働」を「資本価値」と考えるのは、確かにブルジョア的な偏見の類であろう。しかしそれは林氏が陥っている物神崇拝の一つではないのだろうか。「資本価値」というなら「生きた労働」もやはりそれは資本の生産過程の問題という点で、「資本価値」の増殖の問題なのである。「生きた労働」も価値増殖過程から見れば、それは可変資本であり、資本価値なのである。そうした視点が林氏にはないという点で、林氏はブルジョア的偏見を共有している。
 そもそもブルジョア的な意識に「過去の労働」とか「生きた労働」などという区別や問題意識があるだろうか。なぜなら、労働力の価値は過去の労働であり、その使用価値は生きた労働だという認識があれば(この両者を区別できるなら)、まさに搾取のカラクリそのものが暴露されてしまうからである。ブルジョア意識にそうしたものが生まれる筈が無いではないか。

●〈「資本」とは――「貨幣」という物質的な形を取って現れるとはいえ――本質的に社会関係であって、“モノ”の関係ではなく、従って“実体的な”関係ではないこと、単にそうしたものとして表象され、“仮象”されているにすぎないことが確認されなくてはならないのである。〉

  資本を〈実体的な関係でない〉というのであれば、それは価値そのものもそうしたものと考えることになる。つまり「価値の実体」などというのは無意味だということにならざるを得ない。これはほとんど宇野派的な考え方である。宇野派でも資本の生産過程において、労働力の商品化を通じて価値の実体は明らかになると考えているのだから、それ以下ともいえる。
 資本や商品の価値というものは、決してわれわれにとって単に〈仮象されている〉ようなものではない。それは労働者を労働に縛りつけ、剰余労働を貪るものである。そうした現実的な強制力を持っているのである。そういうものを、単なる仮象だなどというのは途方もない話ではないか。単なる仮象なら、単なる目くらましだというなら、実像をみれば、そんなものに騙されないことになるが、そんなことで資本はなくならないし、そんな認識で資本との闘いができる筈がないだろう。〔注:仮象--実在的対象を反映しているように見えながら、対応すべき客観的実在性のない、単なる主観的な形象。仮の形。偽りの姿。goo辞典〕

 ついでにマルクスの『聖家族』から次の一文を紹介しておこう。

 〈例えばマンチェスターやリヨンの職場で働いている大衆的な、共産主義的労働者は、「純粋思考」によって彼らの工場主や彼ら自身の実践的な屈従を議論でふきとばすことができようと信じてはいない。彼らは存在思考とのあいだの、意識生活とのあいだの区別を痛切に感じている。彼らは、財産、資本、貨幣、賃労働などが、けっして観念上の妄想ではなく、彼らの自己疎外の、非常に実践的な、非常に対象的な産物であり、したがって、思考意識のうちたけでなく、大衆的存在、生活のうちで人間が人間となるためにはこれらのものが実践的な、対象的な仕方で揚棄されなければならぬことを知っている。〉(全集2巻原55-56頁、下線はマルクス、太線は引用者)

●〈「価値移転」論は、「価値」を、従って「資本」をも、何か「実体的な」ものとしてつまり自然的、物質的といった意味での「実体的な」ものとして想定する、つまり“物神崇拝的な”意識、ブルジョア的な虚偽の意識に、錯誤にとらわれている。〉

 〈「価値移転」論〉は、生産物を生産するに必要な労働時間というものはそれに支出された多くの労働が加算されたものになるという、ある意味では如何なる社会的関係にも関わりのないものが、商品経済的な形態において現れたものに過ぎない。それは価値を自然的、物質的なものとして捉えるということとは無関係である。時間と空間を異にするさまざまな労働時間が、一つの最終生産物に対象化されたものとして加算されるためには、それらのさまざまな労働が一つの最終生産物を生産するために合目的的に結びついて支出されたものでなければならない。しかし私的な独立したものとして行われる商品経済社会の労働では、労働の社会的関係は、ただ生産物に対象化された労働が、価値という社会的実体をとることによって(注:それは「社会的」実体であって、決して「自然的」実体ではない。誰も価値を自然的実体などと主張しているわけではない。それは林氏の手前勝手な解釈に過ぎない)、その実現と移行によってその社会的関連が現実化されるのである。これらの商品を生産する労働が価値対象性として現われ、それが商品の使用価値が実現される過程で新しい生産物に移転・保存されるという形をとることによって、それらの労働の社会的関連は現実化し、労働の加算が可能になるのである。だからこうした関係は、商品経済に固有のものではあるが、何か〈虚偽の意識〉や〈錯誤〉といったものではなく、商品経済の社会において法則的なものである。
 こうした林氏の主張は、明らかに意図的に、マルクスの理論を〈ブルジョア的な虚偽の意識に、錯誤にとらわれている〉ものであるかに中傷し、あげつらうものでしかない。われわれは、ここに“マルクス批判者”、“反マルクス主義者”として登場している林氏の実像を、はっきりと確認すべきではないだろうか。

●〈「過去の労働」として現象しているものは、実際には、生産手段を生産する労働でしかないが、それは分業によって現実に存在する労働であって「過去の労働」といったものではない。そんな風に理解するのは、資本主義社会における、高度に発達した、社会的な分業を――つまり現代の社会がそうした分業によってのみ成り立ち、発展してきたことを――理解することができない人々のたわ言であろう。彼らはブルジョアの立場を、しかも個別的ブルジョアの立場を現実的に、さらには意識において克服することが決してできないのである。〉

  何度もいうが「過去の労働」など誰も見たこともない。だからそれが〈現象〉するはずもない。「過去の労働」は過去に支出されたから「過去の労働」というのである。過去に過ぎ去ったものは幽霊でもない限り「現象」することはない。
 「過去の労働」がどうして〈生産手段を生産する労働でしかない〉のか。〈生産手段を生産する労働〉というなら、それは「過去の労働」ではなく、「生きた労働」ではないのか。「過去の労働」というのは、生産物にすでに対象化された労働のことをいうのである。だからこれから〈生産する労働〉というのなら、それは「生きた労働」についてのみ言いうることである。そして確かに生産手段を生産する今年度の労働はすべて生きた労働である。しかし生産手段に対象化された労働としては、今年度の生産過程で生産的に消費される生産手段について言われているなら、確かにそれは過去の労働(前年度の労働)の産物である。しかし今年度の生産物としての生産手段に対して言われているのなら、すべてが過去の労働(前年度の労働)ではなく、生きた労働(今年度の労働)と過去の労働(前年度の労働)の移転分との合計である。
 林氏の独断と偏見は、「過去の労働」イコール「生産手段」イコール「資本価値」というものである。しかし労働力に含まれている「過去の労働」と、労働力がすることのできる「生きた労働」とは、まったく二つの違う量である、というマルクスの主張を、林氏は一体、どのように理解するのか。これも〈ブルジョア的な虚偽の意識〉だとでもいうのであろうか。

●〈実際、ブルジョアの意識には、つまり個別資本の立場からは、「資本」は「過去の労働」として現象するのであり、現実にそうしたものとして現れている。資本はまず資本から、つまり生産手段から出発するが、資本にとってはみな「過去の労働」の成果であり、その「蓄積」されたものでしかない。そして商品の価値(価格)も、資本価値(費用価格)と利潤の合計として表象される。〉

 林氏にはどうも「現象」という言葉の意味がわかっていないらしい。〈ブルジョアの意識〉を問題にするのなら、それは「観念」の問題か、あるいは「表象される」ものとすべきである。現象というのは、本質的なもの、内的なものが、直接的なものとして現われることである。そして何度もいうが、労働そのものは流動化され、対象に支出されて、対象化された時点ですでに消え去っており、だから「過去の労働」が、また現象するなどということはありえないのである。確かに過去の労働も生産物の表面やその中に形態的に残滓として残っている場合もあり、われわれはその痕跡を辿ることは可能であるが(例えば「お宝発見」のテレビ番組で鑑定士が「言い仕事をしていますね~ッ」という場合、彼は過去の労働の痕跡をみているわけである)、それは過去の労働が現象していることとは異なるものである(あくまでもそれは残滓であり、足跡みたなものである)。「過去の労働」は生産手段を生産する労働だというのは、一つの偏見であり、それこそブルジョア的な意識ではないだろうか。生産手段を生産する労働がすべて過去の労働である筈はない。例えば部門 I で支出される2000の労働(v+m)は生産手段を生産するが、それはその年の労働、つまり生きた労働であって、決して過去の労働ではない。しかしそのことはそれが分業によるからそうだというのではない。それは今年度に支出される労働だから過去の労働でないのであって、今年度に支出される労働もまた分業によって行われる労働であることは明らかであろう。分業で行われるから過去の労働が、現在の生きた労働になるわけではない。また消費手段に対象化されている労働も、すべてが現在の生きた労働でないことも明らかである。その中には生産手段から移転された過去の労働もあるからである。
 林氏は〈資本主義社会における、高度に発達した、社会的な分業〉を前提すれば、過去の労働や生きた労働の区別はなくなるかに主張しているが、そもそもマルクスが再生産表式で前提しているのは発達した社会的な分業にもとづく再生産過程ではないとでもいうのであろうか。
 〈資本はまず資本から、つまり生産手段から出発する〉ともいうが本当だろうか。資本はまず貨幣資本から出発するのではないのか、そして貨幣資本は生産過程の二つの契機、生産手段と労働力に転化するのではないのか。これは個別資本では特にそうである。林氏は「資本価値」はイコール生産手段であり、過去の労働だということだが、資本価値を費用価格というのでは、労働力(可変資本)を忘れているのではないだろうか。費用価格はc+vである。とにかく林氏の『資本論』理解は、このように無茶苦茶なのである。これが単に加齢による意識の混濁によるものか、それとももともと『資本論』を十分に研究していなかったことによるものかは分からないが……。

●〈しかし個別資本が「資本」(「過去の労働」)として意識し、認識するものは、社会全体の、ブルジョア社会全体の関係の中で考察するなら、「過去の労働」といったものではなく、現存の労働に、社会的な総労働の内の、生産手段を生産する社会的な労働によって規定されているにすぎない。それは「過去の労働」に関わることではなく、現存の年々の社会的総労働とその配分にかかわる問題にすぎないのであり、こうした観点からするなら、「過去の労働」の、つまり資本価値の「移転」といったことは、実際には陳腐なブルジョア的幻想にすぎないということになるし、ならざるを得ない。彼らは労働者の生産した富を、使用価値を「資本」として、自分の私的所有物として再び手にするのであり、することができるのだが、ブルジョアの目には、それが資本価値の「移転」として意識されるのである。〉

 林氏にとっては恐らく〈社会的な総労働〉というのは単純再生産の表式では、9000を意味するのであろう。そして〈社会的な総労働の内の、生産手段を生産する社会的な労働〉というのは6000を意味している。だから〈現存の年々の社会的総労働とその配分にかかわる問題にすぎない〉と考えるのである。しかし何度も言うがこれは正しくない。もし社会的総労働をいうなら、部門 I では2000であり、部門IIでは1000の合計3000のみである。これが今年度の、あるいはある年度の社会的な総労働なのである。だからそれをどう配分しようが、それが生み出す価値は3000しかないのである。にも関わらず、社会がその年度の最後に受け取る総生産物の価値は9000なのである。だから残りの6000は移転された「過去の労働」(前年度以前の労働)でしかないのである。こうした現実は、社会全体の関係でみたからこそ分かることでもある。だから林氏がどうあがこうが、決して過去の労働を〈幻想〉として葬り去ることはできないのである。何度も言うが資本価値の移転を論じているのは、マルクスであって決してブルジョアやブルジョア経済学者ではない。ブルジョアの目には生産手段も含めて彼らの資本全体が利潤の獲得に寄与するように見えるのであり、だから彼らには不変資本と可変資本との区別はないのである。だから彼らの目からみれば、自分の“労働”や“才覚”はもちろんのこと、生産手段も利潤を生み出すように見えるのであり、だから生産手段を単に価値を移転するだけのものとしては決して意識しないのである。不変資本の概念が明確にあってこそ、それは価値増殖には寄与せず、ただ価値を移転・保存するだけであり、だからこそそれは資本の価値増殖の観点からは「不変」の資本価値、すなわち不変資本とマルクスによって規定されたのである。哀れなことではあるが、こんな『資本論』の基本中の基本を、こともあろうに「マルクス主義」同志会の代表に教えなければならないとは、何たることであろうか。自ら目や耳を塞がずに、この現実を見よ、と私は全国の同志会の会員たちに--いまだ林氏に一定の幻想を持ち続けている、持ち続けたいと思い込んでいる--言いたい。この現実を知りながら、同志会こそが唯一の革命的な労働者の党派だなどと、労働者や若者たちに呼びかけるのは、一つの欺瞞ではないだろうか。

●〈通俗的に「過去の労働」と呼ばれていたものは、実際には(「価値」としてみるならば)生産手段を生産する労働であり、「生きた労働」といわれていたものは、消費手段を生産する労働でしかない。従って、使用価値として生産手段を生産する労働者(いわゆる第 I 部門の労働者)も「価値」(労働量)としては消費手段に対して、その労働部分だけの権利を持つのであり、他方消費手段を生産する労働者(第II部門の労働者)は、自らの生産した消費手段ではあっても、「価値」として生産手段を再生産した分に対しては権利を持たないのである。〉

 ここには「過去の労働」=「生産手段を生産する労働」、「生きた労働」=「消費手段を生産する労働」という一つのドグマがある。しかし何度もいうが「過去の労働」というのは、過去に(つまり今年度以前に)支出されたから「過去」なのであって、それが対象化されるものによって区別されるわけではない。そして同じことは「生きた労働」についても言いうるのであって、それは今年度に支出される、あるいは支出された労働について言われているのであって、それが支出される対象如何によるものではない。こんなことは当たり前のように思うのだが、しかし林氏にはどうもわからないらしい。とにかく、だから生産手段も消費手段も、その価値には過去の労働(前年以前の労働)と生きた労働(今年度の労働)との両方が含まれているのである。何が〈従って〉なんかさっぱりわからない。どうして以下のことが論理的に導き出されるのか。不可解な論理ではある。とにかくこんなわけの分からない理屈や思い込みに付き合うほどに骨の折れることはない。

●〈従来の観念(スターリン主義者の観念)では、ただ消費手段を生産する労働のみが「生きた労働」として考えられており、生産手段に“対象化”される労働は、事実上「過去の労働」として、「(有用労働によって)移転」されてきた資本価値と見なされてきた。しかし、再生産されるものが使用価値の全体であって、単に消費手段だけでないとするなら、「価値」においても同様であって、年々の総労働が「生きた労働」として消費手段にだけに支出されていて、生産手段には支出されないといった観念は途方もないのであり、分業によって社会が成り立っているような、どんな“近代的”社会の現実とも合致しないのである。〉

 何度もいうが、〈ただ消費手段を生産する労働のみが「生きた労働」として考えられており、生産手段に“対象化”される労働は、事実上「過去の労働」として、「(有用労働によって)移転」されてきた資本価値と見なされてきた〉などという〈観念〉を本当にスターリン主義者が振りまいてきたのであろうか。それさえ俄かには信じられないのである。林氏が勝手にでっち上げて、自分のドグマにしているだけではないのか。そうでないというなら、スターリン主義者の書いたものから、その一例を示すべきだろう。
 使用価値としては確かに年々新しい生産物が再生産されるが、たからと言って年生産物価値(マルクスの単純再生産の表式では9000)と年価値生産物(同3000)とが同じであるはずがない。林氏はスミスと同じように両者の区別ができていないのではなのいか。
 〈年々の総労働が「生きた労働」として消費手段にだけに支出されていて、生産手段には支出されないといった観念は途方もないの〉だ、というのはその通りである。しかし、林氏自身がいまさっき〈「生きた労働」といわれていたものは、消費手段を生産する労働でしかない〉と言ったのではないのか(一つ前のパラグラフ)。これではまったく訳がわからない。自分で自分の頭を殴っているようなものである。
 〈分業によって社会が成り立っているような、どんな“近代的”社会の現実とも合致しないのである〉などというが、そもそも問題は分業などとは何の関係もないということが分かっていない。労働が分割されていようが、前年以前に支出された労働は過去の労働であり、今年度に支出される労働は生きた労働である。社会的な総再生産で問題になっているのは、年度を分けて支出される労働によって区別が行われているのであって、分業などは何の関連もない。それとも分業が高度に発展すれば、前年以前に支出される労働というものはすべて無くなり(つまり前年以前に生産されたものをすべて今年度に必要としないことになり)、すべてが今年度の労働だけで生産が行われうるとでもいうのであろうか。それならそれを論証・証明すべきではないのか。そもそもマルクスが再生産表式で前提している最初のW’は前年度の総商品資本(総生産物)である。マルクスはエンゲルス版の482頁の最後のパラグラフに該当する部分の草稿で、次のように書いている(エンゲルスはこの部分を現行版のように勝手に書き直しているのだが)。

 〈年間の生産物――つまり年間の商品生産物すなわち年間の商品資本――の運動の視点から社会的再生産過程を考察すれば,つまり流通形態

W′-G-W...P...W′
   |
     g-w

(W′-G′-W ...P... W′)を考察すれば,ここでは必ず消費が一役を演じるのである。というのは,出発点のW′=W+Δwという商品資本は,前貸資本価値(不変的と可変的)と剰余価値とを含んでいるからである。だから商品資本の運動は,生産的消費とともに個人的消費をも含んでいるのである。〉(大谷訳)

 つまり我々の出発点W’は年間の商品資本、前年度に生産された年間総商品資本(総生産物)なのである。そしてそれには〈前貸資本価値(不変的と可変的)と剰余価値とを含んでいる〉。すなわち6000c(4000 I c+2000IIc)+1500v(1000 I v+500IIv)+1500m(1000 I m+500IIm)=9000である。だからそこに含まれる生産手段も消費手段も、すべて過去の労働(前年の労働)の産物である。労働者と資本家はその過去の労働の産物である消費手段を消費しながら、今年一年間、労働者は労働力を再生産しながら年間の労働を行うのであり、資本家は労働者に寄生しながら搾取に勤しむのである。そして労働者は生産過程では過去の労働(前年の労働、但し固定資本を考慮に入れるとそれ以前の年度の労働)の産物である生産手段を使って、一年間生きた労働をそれと結合して、部門 I の労働者は生産手段を、部門IIの労働者は消費手段を生産するのである。だからそれらの生産物、すなわち生産手段と消費手段の両方ともに、生産手段の過去の労働の移転分とそれに労働者が生きた労働によって付け加えた新しい追加価値の両方が含まれているのである。これもやはり再生産表式のイロハである。こんなことも分からない人物が、代表をしている「マルクス主義」同志会とは一体何なのか!?

●〈かくして、「価値規定による分配」の概念に到達するためには、何よりもまず、「有用労働による価値移転」といった虚偽の意識から解放されることが必要であり、またそうした意識から解放される限りで、この問題の解決――もちろん、さしあたりは理論的な解決に留まるのだが――は極めて容易であり、単純明快なものとして現れるのである。〉

 〈かくして〉、林氏は公然とマルクスに異をとなえ、〈「有用労働による価値移転」といった〉ものは〈虚偽の意識〉であり、労働者はそれから〈解放されることが必要であ〉ると叫ぶのである。つまりマルクスの理論から〈解放される限りで〉、問題は〈単純明快なものとして現れるのである〉。かくして、「マルクス主義」同志会の代表を名のる人物は、「マルクスからの解放」をとなえるまでに至ったわけである。なんとおぞましいことか!!

●〈かつて林は「有用労働による」価値移転という観念に反発したが、しかし今の時点に立って反省すれば、問題はむしろ「資本の価値移転」という観念そのものであり、それがどういう意味と内容かということであった。「有用的労働」による移転といったことも、ただ個別資本の“論理”として仮に意味があるとしても、そんな限界の中でのみのことであって、社会的な総生産と再生産という観点からすれば何の意味もないこと、社会的な総生産の論理において、そんなものを持ち出すのはまるでピント外れであり、有害でしかないことを、我々は確認する必要がある。〉

 しかしこれについてはもう我々は、先にマルクスの一文を紹介しておいた。不変資本部分の価値は、年間の生産過程において、新生産物に移転・保存されるという認識は、〈社会的な総生産と再生産という観点から〉も極めて重要であり、そうでないと年間生産物価値と年間価値生産物との区別ができないということを知っている。林氏のわけのわからない主張こそ、〈ピント外れであり〉、労働者の意識を混乱させるという点で〈有害でしかない〉。

●〈しかし人々は個々の資本に現れるままの現象に幻惑されて、「過去の労働」の移転という妄想から離れることはできないのである。こうした妄想は、一つには魚捕りをするには、その道具をまず作ってからでなくては魚を捕ることはできないという、自然発生的で“感覚的な”観念から出発するからであり、さらにブルジョア社会においても、ブルジョア的生産の出発点では、資本が、つまり生産手段が――消費手段もまた――社会的な生産もしくは再生産の前提として、「資本」として、現れるからであり、また資本は社会的な「価値」として、維持され、その“生命”を継続していく――自己増殖さえしていく――からである。〉

 魚を捕るためには、まずその道具が必要だということは、別に妄想でもなんでもない。誰も否定できない、客観的な物質的な関係である。およそ妄想に取りつかれたような林氏以外の正常な精神の持ち主ならそれを認めざるを得ないであろう。もちろん、魚は手づかみで捕れないことはないし、手づかみで魚をとりながら、その開いた時間、休憩時間等に道具を作ることも可能であろう。しかしそれは魚という自然のものを捉えるからいえることであって、例えば綿糸を作るためには、綿花と紡錘が必要なことは誰でも分かることである。この場合、まず綿糸を作り、そのあとで綿花を作ったり、紡錘を作るなどということは不可能である。こんな誰でも分かることも分からなくなっているのであろうか。別にブルジョア社会でなくても、生産を開始するためには、労働力と生産手段が前提されることは当然のことではないか。それが資本の生産過程として現われるなら、まず貨幣資本は生産の前提として、流通過程を通じて生産手段と労働力に、つまり不変資本と可変資本に転換される必要がある。そうでないと生産が始まらないのは誰でも分かる道理ではないのか。それは何も資本の生産だからそうだというようなものでは決してない。

●〈ロビンソンについての我々の例でも、彼はまず道具を作るのに6時間を費やし、それから3時間をかけて魚を捕ったのであって、まさに彼の魚を捕るという「労働」においては、道具を作るという労働は前提として、従って魚を捕るという労働に「移転」して現れたのである。〉

 道具を作る労働は、決して魚を捕るという労働に〈「移転」して現われ〉ることはない。なぜなら、道具を作る労働も魚を捕る労働もロビンソンにとっては、魚を捕るための一連の労働であり、だからそれらは単純に加算されるだけで良いからである。この場合は「移転」や「移行」などということも問題にならないのである。「価値の移行」という形で生産物に対象化された社会的な労働の移行が問題になるのは、それぞれの労働が私的な独立した労働として直接には社会的に結びついておらず、だからその社会的な結びつきを現実化するためには、それぞれの生産物が商品として交換される必要があり、その交換を通じて実現された価値が、生産過程を通じて移転することによって最終生産物に対象化された社会的に必要な労働となることが必要だったからである。だから最初から社会的に結びついた労働、例えば自動車生産工場におけるさまざまな自動車の部品を生産する部署の労働の場合には、それぞれの生産部署で生産された部品が別の部署に移ることによって、その部品に対象化された労働が移転されるのではない。それらは最初から最終生産物である自動車の生産のために直接社会的に結合された形で支出される労働なのだから、ただそれらの労働を単純に合計すれば自動車の生産に支出された労働は分かるのである。

●〈しかしロビンソンの場合においてさえ、彼は「移転」と言うことでは説明できない行動に出るかもしれない。例えば道具を作るのに6時間でなくて18時間を要するなら、彼はそのために道具を作る労働を3日間に分割せざるを得ないのであって、まず二日間を道具の生産に費やし、その後で1日まるまるを魚捕りについやすというやり方をしないであろう、というのは、魚は毎日捕らなくては腐ってしまって食べられないからであり、どうしても毎日魚捕りに3時間を割かなければならないからである。〉

 こういう点では、林氏は客観的な物質的な関係を意識しているわけである。もちろん、魚は干物にすれば保存はできるし、ロビンソンは大漁の時には、当然、その捕れすぎた魚の保存を考えたであろう。だから毎日、魚取りをやらなくてはならないということにはならない。そもそも嵐の時には魚採りはできないのであり、だからロビンソンは常に保険としてそうした場合のための保存食を考えたであろう。

●〈要するに、ロビンソン(孤立した個人)の場合には、いわば“縦並びの”労働分割が、配分がなされるかもしれないが、社会的な生産が行われるなら、“横並びの”配分が、つまり“分業”が行われるのであって、道具を作ることも、魚捕りをすることも“同時並行的に”なされるのであり、なされることが可能である。このことが理解され得るなら、社会主義における価値規定の理論の理解は容易になるであろう。〉

 労働過程そのものは、如何なる社会的関係とも無関係である。労働過程には労働対象と労働手段が必要ということは、如何なる社会にも関係のないことである。例え分業が発達していようが、平行して生産されている生産手段(労働対象と労働手段)を使って、平行して消費手段の生産はできないのである。この場合も、もし分業がなりたつなら、まず生産手段を生産するのを待って、その生産手段を使って、消費手段を生産する必要があるのである。だから消費手段の生産からみれば、その生産に必要な生産手段はそれ以前に、つまり過去に支出された労働の産物とならざるをえない。分業によって生産手段と消費手段の生産が平行して行われるかも知れないが、しかし今、消費手段の生産のために充用されている生産手段は、決してその時点で同時並行して生産手段の生産部門の生産過程にある生産手段をそのまま使うわけには行かないのは当然のことではないか。林氏は要するにそうした現実をただ「分業」の一言で飛び越えうると夢想しているだけである。

●〈「価値移転論」は結局不合理な循環論証に帰着したし、せざるを得なかった。
 消費手段の価値規定において問題となるのは、その消費手段を生産するに要した生産手段の「価値」のみであって、その生産手段の生産のためにさらに(つまり延々とさかのぼって)必要とされた生産手段の「価値」はいっさい無関係である。〉

 何がどのように「循環論証」になっているのか、林氏は何もそれを証明していない。〈消費手段の価値規定において問題となるのは、その消費手段を生産するに要した生産手段の「価値」のみであって、その生産手段の生産のためにさらに(つまり延々とさかのぼって)必要とされた生産手段の「価値」はいっさい無関係である〉というが、どうしてそういえるのか、何も論証されていない。ただの断定だけでは無意味である。

●〈例えば、乗用車の生産のためには、労働対象としての鉄鋼(い)と、労働手段としての機械(A)が必要であったとしよう。そしてこの鉄鋼のためには鉄鉱石が、そして機械(A)の生産のためには、鉄鋼と機械(B)が必要であったとしよう。しかしここでは鉄鉱石から鉄鋼を生産する労働や、機械(A)を生産するために必要な鉄鋼や機械(B)等々のことは考慮する必要は一切ないのである、というのは、乗用車を生産するために必要な鉄鋼と機械(A)は、すでに再生産された労働時間によって「価値規定」され、示されているからである。〉

 しかしそれは個別の乗用車を問題にしているだけだからそういえるのである。マルクスも綿糸を構成する価値について説明する時に次のように述べている。

 〈糸の生産にはまず第一にその原料が、たとえば一〇ポンドの綿花が必要だった。綿花の価値がどれだけであるかは、あらためて調べる必要はない。なぜならば、資本家はそれを市場で価値どおりに、たとえば一〇シリングで買ったのだからである。綿花の価格にはその生産に必要だった労働がすでに一般的社会的労働として表わされている。〉(全集23a245頁)

 しかし今われわれが問題にしているのは、社会的な総再生産の過程である。だからそれらはさまざまな生産部門が複雑に絡まり合って、相互に補填関係にあるのだが、それをわれわれは部門 I と部門IIの二大生産部門に分けて、全体としての相互補填関係を見ているのである。だからこそ「生産手段の生産のための生産手段」を生産する生きた労働部分(v+m)が、如何にして、消費手段の生産部門と補填関係にあるのかが問われるのである。というのは「生産手段のための生産手段」というのはすべて部門 I に販売されて、部門IIには販売されないのに、しかし彼らも彼らの商品を売ったお金で消費手段を買う必要があり、だからそれらの部門IIとの補填関係が社会的にはどのようになされているのかが問題になるからである。

●〈これは本質的に、機械や鉄鋼や鉄鉱石の価値規定を、「過去の労働」によって、つまり価値の移転によって行うことは不合理である。実際そうしたことは不可能である、というのは、結局は循環論証になるだけであり、価値を価値によって(現実には、価格を価格によって)規定するということになるしかないからである。〉

 これも乗用車という個別の商品の価値の形成過程を見ているからそういえるのである。マルクスは次のように書いている。

 〈こういうわけで、糸の価値、糸の生産に必要な労働時問が考察されるかぎりでは(注目! マルクスはこのように「限りでは」と限定している――引用者)、綿花そのものや消費される紡錘量を生産するために、最後には綿花や紡錘で糸をつくるために、通らなければならないいろいろな特殊な、時間的にも空間的にも分離されている、いくつもの労働過程が、同じ一つの労働過程の次々に現われる別々の段階とみなされることができるのである。糸に含まれている労働はすべて過去の労働である。糸を形成する諸要素の生産に必要な労働時間は、すでに過ぎ去っており、過去完了形にあるが、これにたいして、最終過程の紡績に直接に用いられた労働はもっと現在に近く、現在完了形にあるということは、まったくどうでもよい事情である。一定量の労働、たとえば三〇労働日の労働が、一軒の家の建築に必要だとすれば、三〇日めの労働日が最初の労働日よりも二九日おそく生産にはいったということは、その家に合体された労働時間の総計を少しも変えるものではない。このように、労働材料や労働手段に含まれている労働時間は、まったく、紡績過程のうちの最後に紡績の形でつけ加えられた労働よりも前の一段階で支出されたにすぎないものであるかのように、みなされうるのである(この場合「みなされうる」のであって、実際にそうだったわけではないのである――引用者)。〉(全集23巻a246-247頁)

 しかし何度もいうが、林氏は本来は社会的な再生産を問題にしているのに、それを個別の商品の生産に問題を転化しているのである。以前、林氏は鉄鋼やコメで社会的な総生産を象徴させたつもりで論じていたが、しかしそれ自体はまったく社会的な総生産にはなっていなかった。ただ単に自動車やコメといった個別の商品の生産を問題にしていたに過ぎなかったのである。ただ林氏は自分ではそれで社会的総再生産を象徴させていると思い込んでいたに過ぎない。この場合も問題を社会的総再生産の問題から、個別の乗用車の生産の問題に問題を転換して、論じているだけであって、それが社会的な総再生産における問題や、いうまでもなく、将来の社会主義における再生産を論じることにはなっていないのである。

●〈例えば、鉄鉱石(これは「生きた労働」からのみ価値規定される?)から出発して、次に、「過去の労働」つまり「移転された労働」――鉄鉱石に対象化された労働――と「生きた労働」なるものをプラスし、さらに順次、同様にして乗用車にまで至り、かくして乗用車の価値規定が可能になるように見える、しかし、最初の鉄鉱石の生産――採掘等々――もまた機械等々を必要とするのであって、鉄鉱石自体、その価値規定はアプリオリすなわち無前提ではない(いわゆる「生きた労働」だけでできるわけではない)。〉

 鉄鉱石が〈いわゆる「生きた労働」だけでできるわけではない〉などという当たり前のことを指摘して、何か立派なことをいったつもりになっているのが不可解である。こんな考察は無意味である。

●〈生産手段の価値もまた「再生産」されるとするのと、それが「有用労働によって移転される」とすることは同じことではないのか、という見解が、つまり「移転論者」の言い抜けが持ち出されるかもしれない。〉

 ここで問題を再生産の問題にすり替えている。個別の商品の生産についていえることがそのまま社会的な総再生産の問題として論じることはできないのである。後者には固有の問題があるということを林氏は知らないのである。
 「再生産」されるといことと、移転して「再現」するということは同じではない。しかしこれは「移転論者」だから区別できるのであって、林氏にはそれが分からず、移転した価値も「再生産」されたものと考えていることはすでに見たとおりである。

●〈つまり、年々の社会的な労働によって「生産手段の価値が、つまり『過去の労働』が移転される」(有用労働によって、ということは問わないとして)と規定することと、「生産手段の価値もまた『再生産される』とすることは結局同じことではないのか」、といった“疑問”である。〉

 何度もいうが、これは決して同じではない。〈「生産手段の価値が、つまり『過去の労働』が移転される」〉ということは、部門 I では4000cが部門 I の生産物である生産手段6000の一部分として移転され、部門IIでは2000cが部門IIの生産物、消費手段の価値3000の一部分として移転されることである。しかし〈「生産手段の価値もまた『再生産される』〉というのは、そうではない。例えば、部門 I では生産手段の価値4000も新たな生産物である生産手段6000の一部分として「再現している」とは言いうるが、しかしそれは新しい追加価値と同じように「再」び「生産」されたわけではない。v部分の場合、それに該当する価値が新しく生産されるという意味で再生産と言いうるが、c部分は「再現」するだけである。つまり元々あった価値が移転・保存されて別の新しい使用価値の価値として再び現われているという意味である。ただ社会的な総再生産というように、ここで「再生産」と言われているのは、使用価値についてである。社会的な総再生産を考えると、それが年々生産を継続するためには、その生産過程を構成する客観的および主体的条件が再び生産される必要がある。物質的条件の一部はもちろん年々消耗してしまうわけではないが、しかし消耗部分は常に補填される必要があるわけである。つまり再生産はこの場合、社会の総再生産を構成する使用価値について言われているのである。ただそれが保証されるためには、社会の総労働を有効に配分しなければならず、それを規定するのが価値の補填関係なのである。そしてその限りで過去の労働の移転分と新たな追加価値の部分が問題になるわけである。こうした価値の補填が問題になるのは、いうまでもなく、社会的な総再生産を構成する生産部門のそれぞれが私的に独立して存在していて、直接には社会的に結びついていないことからくる。だからこそそこで支出される労働も私的労働でしかないのである。生産手段が私的所有のもとにあるからこそ、それらの生産手段と結合される労働も、ただ私的な労働として支出されるしかない。

●〈しかし再生産されるのは生産手段ばかりではなく消費手段もまた同様であり、かくして両者を併せて年々の――一定期間の――社会的な総生産を形成するのである。生産手段は使用価値としてだけでなく、「価値」――質的に同一の抽象的人間労働――としても年々に生産もしくは再生産されたものであり、またそうしたものとして以外には存在していないのだから、そんな世界に「過去の労働」とか、そんなものの「移転」とかいったものが混入するはずも、し得るはずもないのである。「過去の労働」なるものを一体いかにして抽象的人間労働に還元できるのか、そんなことは不可能であろう。それは年々の現実の労働によって「対象化される」限りで、抽象的人間労働であるし、あり得るのである。
 もし年々の労働によって、「価値」もまた再生産され、規定されるのではないと言うなら、使用価値もまた、年々の再生産によって新しい使用価値として再生産されないし、され得ないということになるしかない。〉

 ここでも林氏は個別の商品の価値形成過程の問題と社会的な総再生産の問題を意図的かどうかは分からないが、すり替えて混同して論じている。〈生産手段は使用価値としてだけでなく、「価値」――質的に同一の抽象的人間労働――としても年々に生産もしくは再生産されたものであり、またそうしたものとして以外には存在していないのだから、そんな世界に「過去の労働」とか、そんなものの「移転」とかいったものが混入するはずも、し得るはずもない〉というのがそれである。確かに個別の商品の価値を考える場合、それが形成された時間的・空間的な隔たりは問われないのはマルクスも指摘している通りである。しかし林氏が問題にしているのはそうではなく、社会的な総再生産である。この場合の出発点は、マルクスも述べているように、年間の総生産物(総商品資本)であり、だからそれらの価値の考察においは、年間の価値生産物と、年間の生産物価値の相違を理解する必要があるのである。確かにそれらも価値としては抽象的人間労働の凝固であり、質的に同じであり、その限りでは、つまり商品の価値として見る限りでは、前年度に支出されたものかそれとも今年度に支出されたものかは問われない。しかし今問題になっているのは、社会的な総再生産というより具体的な問題なのであり、そこでは年間に支出される総労働は3000でしかないが、年間の生産される総生産物の価値は9000なのである。だから残りの4000は前年以前に支出され今年度の労働過程で移転・保存されたもの以外には考えようがない。

●〈しかし実際には、年々の使用価値は年々消費されると共に、再生産されるのであってそれは生産手段においてだけではない、消費手段においても原則的に同様である(人はしばしば、この後者のことを忘れるか、確認することを怠る)。〉

 一体、誰が忘れるのか知らないが、使用価値が年々再生産されなければならないという事実から、だからそれらの価値も年々新しく生産されたものだなどということはできないのである。

●〈総労働が社会的な分業として行われているとき、そして生産手段も消費手段もその生産が、広汎な社会的分業の中で行われているとき、生産手段の価値は「過去の労働」の移動であり、消費手段の価値のみが「生きた労働」の結果であるといった、スターリン主義流の混沌とした空文句は、マルクス主義の「価値」の理論の根底を脅かし、混乱させ、無意味なものに転落させる以外の、どんな意味も“役割”も持っていない。生産手段の価値が過去の労働の移転だというなら、消費手段もまた同様であろう、というのは、消費手段もまた生産手段を用いて生産されているのであって、その意味では「過去の労働」の移転でもあるからである。使用価値として消費手段ではないかといってもムダである、というのは、ここで問題になっているのは使用価値ではなく、価値(交換価値)だからである。〉

 何度もいうが、生産手段は過去の労働の移転したもので、消費手段は生きた労働の結果だなどと誰も言っていないのである。それは林氏が勝手にでっち上げた「スターリン主義者」でしかない。
 同じような混乱に陥っているのは外ならぬ林氏本人である。生産手段も、消費手段も、過去の労働の移転分と生きた労働が対象化された部分とで、その価値が構成されているのである。

●〈「価値移転論」は、ブルジョアの「費用価値学説」という形で理論的、“学問的”な形を取った意識と密接不可分である、つまり「価値」(彼らにとっては、そのものとしての「価格」であるが)とは資本価値(不変資本と可変資本)プラス利潤であるという意識である。ブルジョアにとっては、生産手段として、そしてまた消費手段として再生産された富は、ブルジョアの所有する「資本」として、その「移転」として意識されるのであり従ってその「価値」もまた「移転」されるのであるが、それはブルジョアの目に映る現実そのものである。〉

 われわれは確認しなければならない。生産過程において生産的に消費される生産手段の価値が、新しく生産された生産物の価値の一部として移転・保存されると主張しているのは、スターリン主義者ではなくマルクスその人であることを。だからこの林氏の主張は、まさにマルクスに対する侮辱であり、マルクス批判そのものである。問題をわざと混同して、誹謗中傷しているだけではないだろうか。林氏が公然たるマルクス批判者であることを、我々はしっかりと確認しなければならないのである。(以下、続く)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-14)

現行版第5編第28章該当箇所の草稿の解読


(2) 各パラグラフごとの解読
(続き)


【22】
 (これはノートの330頁上段の途中から書かれており、本文である。ただこの本文は途中からノート331頁上段に書き継がれている)

 〈/330上/まずもって明らかなのは,流通[511]媒介物の総量が増大せざるをえない第1の場合には,この媒介物にたいする需要が増大するということである。しかしまた同様に明らかなことは,たとえばある製造業者が,より多くの資本を貨幣形態で支出しなければならないので,ある銀行業者のもとでの自分の預金残高からソヴリン貨または銀行券でより多くを引き出すとしても,だからといって資本にたいする彼の需要が増大するわけではなく,ただ,彼が自分の資本を支出するさいのこの特殊的形態にたいする彼の需要が増大するだけだということである。ことはただ,彼が自分の資本をCirculationに投じるさいの技術的な形態にかかわるだけである。たとえば,信用制度の発展度が違えば,同量の可変資本,同額の労賃でも,他の国でよりも||133上|より多量の通貨〔currency〕を必要とするというようなものである。たとえば,イングランドではスコットランドでよりも, ドイツではイングランドでよりも,というように。農業者の(再生産過程で働いている)同量の資本が,季節が違えばa),それの諸機能を果たすのに違った量の貨幣を必要とする。/〉

 この本文は【17】に直接続いた一文であることに注意しながら読もう。まず最初に平易な書き下ろし文を示しておく。

 〈まずもって明らかなのは、流通媒介物の総量が増大せざるをえない第一の場合、すなわち繁栄期には、この媒介物に対する需要が増大するということである。しかし同様にまた明らかなことは、例えばある製造業者が、より多くの貨幣形態で支出しなければならないので、ある銀行業者のもとでの自分の預金の残高からソヴリン貨または銀行券でより多くを引き出すとしても、だからといってそれが資本にたいする彼の需要の増大を意味するわけではない。ただ、彼が自分の資本を支出するさいの、この特殊的形態、つまりいわゆる「現金」に対する彼の需要が増大したというだけだということである。問題は資本に対する需要ではなく、その特殊形態である「現金」に対する需要が増大したということなのだ。だからこのことは彼が自分の資本を流通に投じるさいの技術的な形態にかかわるだけなのである。彼が何らかの事情で「現金」を必要としたということだけなのだ。
 こうしたことは、例えば、信用制度の発展度が違えば、同量の可変資本、つまり同額の労賃でも、他の国でよりもより多量の通貨を必要とするというようなことである。例えば、イングランドではスコットランドでよりも、ドイツではイングランドでよりも、それぞれ信用制度が発展していないから、それだけ労働者への賃金として現金が支払われる割合が多いのと同じである。信用制度が発展していれば、例えばそれだけ労賃が労働者の預金口座に直接振り込まれるようになり、現金による支払が少なくなり、それだけ通貨に対する需要もより少なくなるであろうからである。その場合は、労働者が自分の預金から現金を引き出す場合にだけ現金が必要になるだけであり、それは一度に引き出されるわけではないからである。
 また同じことは、農業者の再生産過程で働いている同じ資本が、季節が違えば、その諸機能を果たすのに違った量の貨幣を必要とするのとも同じである。例えば穀物の刈り入れの季節では季節労働者を多量に雇い入れ、彼らの賃金を現金で支給しなければならず、また収穫後の地代や税金の支払が集中する時期は現金での支払が多くなる。しかし夏場等は肥料などへの購入に対する支払が増えるだけで現金での支払は減るといったように。〉

 このようにマルクスはフラートンが〈貸付資本に対する需要追加のCirculationに対する需要とはまったく別のものであって、両者がいっしょに現れることはあまりない〉(【17】参照)と主張していることに対する批判をまずここから開始している。すでに原注b)でも(【18】参照)、ウェゲリンの議会証言を対置することによってフラートンの批判を行っているが、本文としての批判はここからはじまっている。
 原注b)では、フラートンらが「貨幣融通に対する需要」とするものがウィルソンやトゥックらが「資本」とする金に対する需要とは一致しないことが指摘され、その論拠としてウェゲリンの証言が引用されただけであった。その証言では貨幣融通に対する需要に応じて発行される銀行券はすぐに銀行に還流するので、巨額の貨幣融通に対する需要に応じても、その準備にはいささかの影響も与えない、だからトゥックらが「資本」とする金の貸し出しに繋がるものではない、というものであった。マルクスはこのウェゲリンの証言によって、フラートンらのいう「貸付資本に対する需要」というのは、単なる資本一般に対する需要とは異なることを示唆しているのである。もちろんウェゲリンの証言はそれ以上のこと(つまり銀行券の銀行への即時の還流という事実)を語っているが、しかしここではまだそれを必ずしも反証として提出しているわけではない。原注b)ではマルクスはウェゲリンのイングランド銀行は貨幣融通の需要に応じても、準備にはなんの影響も与えないという証言に注目して、それをフラートンらの主張に対置しているだけである。
 そしてこのパラグラフでは、今度は、貨幣融通に対する需要が増大するとしても、それは必ずしも資本に対する需要が増大することを意味しない場合もあることを、別の形で論証しようとしている。すなわち、それは資本の支出の特殊な形態に対する需要が増大しているだけである場合もある、と反論しているのである。この場合、マルクスはまだそれを一般論として述べているだけである。だからある製造業者の例を上げたり、あるいは信用制度の相違によって同額の労賃の支払でも、それが貨幣形態でされるかどうかには差があることや、農業者の同じ資本でも貨幣形態で支出される場合が季節によって異なることなどを上げているのである。
 つまりフラートンが「貸付資本に対する需要の増大」といっているものは、ただ〈資本家が彼の資本を支出するさいのこの特殊的形態--つまり「現金」--にたいする需要が増大しているだけ〉の場合もありうるというのが、マルクスがこのパラグラフで言いたいことなのである。これが何を意味するかは、徐々に明らかにされていくであろう。

 ただこの部分では、信用制度の発展度がイングランドよりもスコットランドの方が高いことになるのだが、果たして当時の具体的な状況としてそうしたことが言えるのかどうか、という問題がある。というのはイングランドのロンドン(シティー)はやはり当時の信用制度の中心であり、各地方銀行もロンドンに支店や代理店を構えていたとの記述もあるからである。だからやはりイングランドの方が信用制度としては発展していたのではないのか、との疑問も生じるからである。
 これについては、フラートンの『通貨調節論』には、スコットランドでは銀行はその創業当時から預金に利子をつける慣行があって、そのために銀行業の使用資本は1826年から1840年までにほぼ倍増したこと、とくにその支店数の増加は著しく、人口6000人つき銀行本店または支店が各一つを数えるほどになっているとされている。そしてスコットランドでは社会の最下級層を除けばあらゆる人々が銀行を利用しているとも指摘している。フラートンは次のように述べている。

 〈スコットランドでは金を使わない。1ポンド以上の売買取引は一切帳簿振替か銀行券によって遂行され、銀行券発行の全体の3分の2までが金の役割を演ずるために行われている〉(116頁)〈また、スコットランドにおいて交換取引を円滑にするために活用される信用の力が、他の諸事情に関連して、イングランドにおけるよりも絶対的に劣っていないことは勿論、多少でも劣っているということさえないのである。否、全く反対である〉(117頁)。

 またこれに関連して、トゥックの『通貨原理の研究』を見ると、当時のスコットランドの銀行業者の議会証言が紹介されているが、そこには次のようなものがある。

 質問者は銀行券の発行が通貨の増加につながるのではないかとしつこく質問するのに対して、銀行業者は「特別な時期」(恐らく逼迫期のことを指していると思う)に銀行券を発行しても、それはすぐに自行や他行に預金として還流してくるので、通貨の流通高の増加につながらないと何度も証言している。それに対して、質問者は業を煮やして「その問題は、ずっとつきつめてゆけば結局、各銀行の発行した銀行券は公衆の手許には全然なくて、事実他の銀行の手に全部入ってしまうことにならざるをえないでしょう?」と決めつけたのに対して、次のように答えている。

 〈答え「それは、ただ考えた上だけの結果です。依然として300万ポンドの銀行券が銀行の外にあります。それはたいへん少額ではありますが、ひとびとはポケットや家庭の金箱のなかにいくらかの貨幣を持っていなければなりません。小売商人は、日々の売上げとしていくらかの貨幣を金庫のなかにいれておかなければなりません。そして製造業者は、使っているひとびとの労賃を支払うのに銀行券をもっていなければならない、などです。しかしそれは、イギリス全体の流通高にくらべればほんのごく小さな額です。スコットランドで300万ポンドというと全人口の一人当たり約1ポンドにすぎないのです。ところが、イングランドでは5ポンド以下のどんな品物にも金貨を使うことができるのに、なお銀行券の流通は一人当たり2ポンドです。イングランドの人口を1500万人、通貨を3000万ポンドとしての計算です」〉(70頁)(なおフラートンはこの1:2という比率は、銀行券の価値を考えると1:6になるとも指摘している)。

 これらの議会証言を見ても、当時のスコットランドがイングランドより信用制度としては発展していたと考えることが出来るであろう。

【23】 (このパラグラフはノート331頁の下段の最初にあり、原注であるが、ただa)とあるだけで、内容は何もない)

〈【原注】1331下1a)1)【原注終り】/〉

 これは【22】のパラグラフの最後の部分の農業者の資本の支出形態が季節によって異なることへの原注を予定していたと思われるが、結局、書き忘れたのか何も書かれていない。

 トゥックの『通貨原理の研究』に紹介されているJ.M.ギルバートの議会証言には次のようなものがある。〈……アイルランドの銀行券が12月に非常に増えるのは、その国の過剰発行の証拠になると思えるのですが、ところが事実は、収穫物が多量に市場に出されるために、年末にはとくに多くの銀行券が発行されるのです。……〉。またフラートンも次のように指摘している。〈農村地方では8月と4月とで紙券流通推定高には50万ポンド方の開きがある。8月には通貨の量は一様に最低を示している。それは一般にクリスマスに向かって増加していく。そして3月25日の御告祭頃に最高額に達する。普通その頃は農夫は仕入れを行い、且つまた地代と夏の諸税との支払を済まさなければならないのである〉(112頁)。マルクスはあるいはこうしたものを参考文献として考えていたのかも知れない。
(以下、続く)

2015年7月 7日 (火)

林理論批判(5)

〈社会主義における「分配」はいかになされるか〉批判ノートNo.5

《『海つばめ』1236・1237合併号(2014.10.19)【4~6面】社会主義における「分配」はいかになされるか――消費手段の「価値規定」問題――「価値移転」ドグマとの訣別が“解決”の鍵》の批判的検討(の続き)

§§論文本分の検討(続き)

◆4、全体の場合と、個々の消費手段の価値規定は別

●〈一つは、個々の消費手段の価値(生産に必要な労働量)の大小である。より大きな労働量の消費手段は小さい労働量の消費手段よりも大きな労働量によって「買われ」なくてはならない(分配されなくてはならない)ということである。例えば乗用車1台が200の価値であり、携帯一台2であったとするなら、乗用車は携帯1台の100倍の労働時間によって「買われる」ことができる、あるいは100倍の労働時間と引き替えにのみ手にすることができるということになる。
 だからこそ、社会主義の分配においてはまだ「価値規定による分配」と言うことになるし、ならざるを得ないのである。社会主義での原則は、社会に与えただけの自分の労働によって生産された生産物が自分のものとなる、ということである。もちろん、200の「価値」の乗用車を手にする個人は、年間労働が仮に200であるとするなら、乗用車をあえて手にしたら生きていくことができず、餓死するしかないが、携帯を「買った」だけの個人はまだ198の労働量(に対応する消費手段)に対する権利を持っているから、余裕を持って生活し、生きていくことができる。前者はしたかなく「ローンでも組む」しかないということになる(ここで「ローンを組む」というのはたとえであって、社会主義では別の形を取ることは言うまでもない)。〉

 ここに引用した一文の第2パラグラフの最初にある〈だからこそ〉はまったく関連がわからない。生産物に対象化された労働時間に大小があるということから、どうして論理的に〈「価値規定による分配」と言うことになる〉のか皆目わからない。社会主義では労働に応じた分配が問題になるのは、いまだその社会が資本主義から生まれたばかりで資本主義の残滓として「権利」意識があるということ、また生産力の発達も十分ではないために、限られた総労働を計画的に配分し、各人が与えた労働に応じて取るという原則を採用せざるを得ないというためではないのか。だからこそ各人が社会に与えた労働に応じて取るためには、彼らが取る消費手段にどれほどの労働が費やされているか(つまり林氏のいう価値規定」)が問題になるのではないのか。だからまた、さらに生産力が発達した高度な共産主義の段階では、各人は「必要に応じて取る」ということになるのではないのか(その場合には消費手段の使用価値だけが問題になり、それに支出された労働時間は問題にもならないであろう)。生産物に対象化される労働に大小の相違があることから労働に応じた分配が必要になるなどとどうして言えるのか。これはマルクスの『ゴータ綱領批判』で述べられていることとも違った林氏独自の主張であるが、正しいとは思えない。
 いずれにせよ林氏の関心は、極めて俗物的などうでもよいようなことのように思える。それを何か立派な理論的な問題であるかに論じているが、内容は空っぽである。

●〈もう一つ、注意すべきことは、個々の生産物はその自然的な「有機的構成」が、つまり「価値」構成の比率が異なっており、平均からずれていると言うことである。〉

 〈自然的な「有機的構成」〉とは何のことか(注:この論文を最後まで読むと、〈◆8、二種類の「有機的構成」の概念とマルクスの表式〉という項目があり、この言葉の意味も説明されているが、ここではとりあえず最初に疑問に思ったことを書いておく)。どうして「自然的」なのか、そしてどうして「有機的構成」に鍵括弧が付いているのか。林氏には有機的構成の意味が常に曖昧である。これまで何度もその度に、『資本論』の一文を引用・紹介してきたが、もう一度やっておこう。とにかく林氏の『資本論』理解はこのように曖昧模糊としたものなのである。『資本論』をとにかくもう一度徹底的に研究すべきなのは林氏本人であることは何度強調してもしすぎることはない。マルクスは有機的構成について次のように述べている。

 〈資本の構成は、二重の意味に解されなければならない。価値の面から見れば、それは資本が不変資本または生産手段の価値と、可変資本または労働力の価値すなわち労賃の総額とに分かれる割合によって、規定される。生産過程で機能する素材の面から見れば、それぞれの資本は生産手段と生きている労働力とに分かれる。この構成は、一方における充用される生産手段の量と、他方におけるその充用のために必要な労働量との割合によって規定される。私は第一の構成を資本の価値構成と呼び、第二の構成を資本の技術的構成と呼ぶことにする。二つの構成のあいだには密接な相互関係がある。この関係を表わすために、私は資本の価値構成を、それが資本の技術的構成によって規定されその諸変化を反映するかぎりで、資本の有機的構成と呼ぶことにする。簡単に資本の構成と言う場合には、いつでも資本の有機的構成を意味するものと考えられるべきである。〉(全集版23b799頁)

 だから資本の技術的構成を反映する限りでの価値構成を有機的構成とマルクスは述べているのである。もちろん、技術的構成を反映しない資本価値の比率は有機的構成とは言わないわけである。例えは綿糸の材料である綿花が農産物の不作のために、その価値が高騰した場合、技術的構成に変化はないのに、不変資本と可変資本との価値の割合は大きく変化しうる。しかしこうした場合は資本の価値構成の変化とは言い得ても有機的構成の変化とはいえないわけである。
 いずれにせよ〈自然的な「有機的構成」〉などというわけの分からない概念は成立しないのである。もし林氏がマルクスの規定しているものとは違った内容を自分は論じているのだ、というのならその自分流の概念を正確に説明すべきであろう。

●〈例えば、コメ10キロと乗用車1台の「価値規定」は如何、という問題を取ってみよう。
 両者とも、直接にその生産に支出された労働は10としよう。しかしコメを生産するための生産手段に支出されている労働量は10とし、他方自動車の方は50とすると、コメ10キロは20の労働量として規定されるが、他方自動車1台は60として規定されるし、されざるを得ない、ということになる。同じ労働量によって直接には生産されるが、コメ10キロは20の労働量によって手に入れることができるが、自動車の方は60の労働量によって「買う」必要がある――交換され得る、あるいはその労働量によって分配されることができる――ということである。
 コメを生産する生産手段の労働量は現実的なものであり、生産手段部門において示されており、また乗用車を生産するための生産手段の労働量も同じであり、そうした数字の計算は純粋に技術的なものであって、概念がはっきりしているなら、どんな社会でも、少しでもなれれば容易にやることができるだろう。そしてこうした計算が技術的に可能なのは生産手段を生産する労働も、消費手段を生産する労働も――つまり一切の社会的に必要な生産物を生産する労働が――質的に同一でただ量的に異なるだけの、抽象的人間労働に還元されているからであり、いる限りのことにすぎない。〉

 この引用文の第2パラグラフは一見するとまともなことを言っているように思える。ここでは少なくとも生産手段に支出された労働と区別されて、実際にコメを生産する労働や自動車を生産する労働が言われ、両者の合計がそれぞれの生産物に対象化された労働として計算されている。
 しかし第3パラグラフで言われていることは納得できない。生産手段に対象化された労働量を計算することが、果たしてそんなに簡単な問題なのであろうか。もしそれが簡単な問題なら、消費手段の生産に支出された労働量も簡単ではないのか。それならそもそもなぜ消費手段の価値規定についてこんな大騒ぎが必要なのか。生産手段に対象化された労働量の計算は簡単だというのは、生産手段の生産にも、やはり消費手段の生産の場合と同じように、生産手段が必要なことを簡単に忘れているからではないのか。
 林氏は〈こうした計算が技術的に可能なのは、生産手段を生産する労働も、消費手段を生産する労働も――つまり一切の社会的に必要な生産物を生産する労働が――質的に同一でただ量的に異なるだけの、抽象的人間労働に還元されているからであり、いる限りのことにすぎない〉というが、そもそも抽象的人間労働に還元されているというなら、そしてそれだけで労働を見るだけでよいというのなら、もともと不変資本価値とか可変資本価値、剰余価値等々の区別も必要ないのである。なぜなら、それらはすべて価値としては質的に同じ抽象的人間労働が凝固したものだからである。今、問題になっているのは、そうした抽象的な次元だけの問題ではないからこそ、それらが問題になっているのではないのか。資本関係のなかで(資本の循環と価値の増殖過程との関連のなかで)、価値の量的関係を見る場合に、資本の生産過程には客観的な契機と主体的な契機があり、一方を不変資本、他方は可変資本と資本価値が区別されたのである。それらは確かに価値としては全く質的に同じであるが、資本関係というより具体的な形態規定性においてはそれらは新たな規定性を受け取り区別されるのである。そもそも支出された人間労働をその継続時間で考えるということは、それらを最初から抽象的なものとして、質的な同一性のもとに見るということであり、だから林氏はただ同義反復を言っているだけなのである。労働時間に還元した時点で、それらはすべて異なる労働を質的に同じ人間労働に還元したことになり、それによって初めてその計算が可能になるのだからである。

●〈1台の乗用車を生産する労働が、仮にコメの一定量を生産する労働と等しくても、実際には乗用車と交換される労働量はコメの何倍、何十倍にもなりうるし、またなって当然であり、それこそが合理的である、というのは、乗用車に含まれる――その生産に必要な労働量――は、ただ乗用車を製造するための労働であるだけではなく、それに加えて、その乗用車の製造に必要な生産手段の「価値=労働量」もまた再生産され、プラスされているからである。乗用車ではこの部分の比重がコメよりも相対的に大きいのである。そしてこうした両者の懸隔は、歴史的なものである限り(そしてそれが仮に自然的な契機によるものであったとしても――例えば土地生産物の「価値」は豊度の違いによって異なり得る)、農業の機械化や科学技術の応用・適用や経営の大規模化等々が進み、生産性が上昇するなら、それに比例して急速に縮まり、縮小していくし、行くことができるだろう。〉

 林氏は〈乗用車に含まれる――その生産に必要な労働量――は、ただ乗用車を製造するための労働であるだけではなく、それに加えて、その乗用車の製造に必要な生産手段の「価値=労働量」もまた再生産され、プラスされている〉というのであるが、しかしそれはおかしい。なぜなら、生産手段の価値は〈再生産され〉るのではないからである。それはどういう労働によって〈再生産され〉るのであろうか。生産手段の価値は乗用車を製造する具体的有用労働によって移転され・保持されるだけである。この点を林氏は誤魔化している。林氏は自動車を製造する労働と、そのための生産手段を生産する労働とを区別し、自動車の価値は自動車を直接生産する労働量が生産手段の労働量にプラスされるというが、生産手段の労働量が、他方で〈再生産され〉るとも述べている。ではその〈再生産〉は自動車を生産する労働のどういう契機でなされるのか、もしその労働量そのものが〈再生産〉するというなら、おかしなことになる。自動車を生産する労働量は10である。どうして10の労働時間でさらにプラス50の労働時間を〈再生産〉するのであろうか。これではまったく説明不能に陥るであろう。
 林氏はまた有機的構成が生産力の発展によって歴史的に〈急速に縮まり、縮小していくし、行くことができる〉というが、果たしてこうしたことが一般的に言えるような傾向なのであろうか。少なくともマルクスはそうしたことは言っていなかったように思う。これだとすべての生産物がだんだんと同じ時間で生産されるようになる、少なくともそうした傾向を持っているということになるが、そんなことが法則的にいうるのであろうか。疑問である。しかしこれについてはただ断言されているだけで何の論証もないのだから、我々としてはただ疑問を呈することしかできない。(以下、続く)

2015年7月 1日 (水)

現代貨幣論研究(7)

            『海つばめ』1008号、平岡正行論文「インフレとは何か」批判

 前回の現代貨幣論研究(6)で言及したので、ついでだから、『海つばめ』1008号(2006.1.15)の平岡論文の批判も紹介しておこう。これはこの論文が出されたそのときに批判的メモとして書いたものであり、ほとんど手を加えずにそのまま紹介することにする。その一部は、前回、すでに紹介したのであるが、今回は、そのノートの全文を紹介することになる。
 (なお平岡氏の論文は、一般の読者には今では容易に見ることが困難と思えるので、今回は、その全文を付録として付けておく)。

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 平岡正行氏が『海つばめ』1008号で「インフレとは何か」と題して、主に田口騏一郎氏を批判している。詳しい検討はやめるが(それだけの価値を認めないから)、簡単にコメントしておきたい。
 まず平岡氏は田口氏が「金本位制のもとでもインフレが起こる」と述べたことに噛みついている。確かに田口氏の言い方は説明不足だし、このことで何を言いたいのかはやや分かりづらい。しかし悪意を持って田口氏の論文を読まないなら、田口氏の言いたいことは分からないこともない。
 要するに問題は「金本位制」という言葉で何を含意しているかである。どちらも「金本位制」とは何かを説明せずに論じている点では共通している。しかし両者は「金本位制」ということで含意している内容がどうやら違うように思えるのである。
 田口氏の場合は、「金本位制」ということで、恐らく金が貨幣となっており、金の一定量を基準に度量標準が決まっているという程度のものとして考えているように思える(他方、平岡氏は「金本位制」をほぼ「金兌換制」と同義と考えている)。こうしたことから田口氏はマルクスも述べているというのであろう。確かにマルクスが紙幣流通の独自の法則について語っている場合、彼は金鋳貨を前提に論じており、流通必要金量を前提している。その上で、紙幣の代表する金量の減少による名目的な価格の騰貴を説明しているのである。だから田口氏は恐らくマルクスは金が貨幣として存在し、金による価格の度量標準を前提した上で、紙幣の流通から価格の名目的騰貴(インフレという用語は使っていないが)説明しているではないかということを、「金本位制でもインフレは起こる」といったのであろう。善意に解釈すればこのように理解できる。しかし悪意を持てば、これは次のような批判になる。すなわち平岡氏は次のように批判している。
 平岡氏はまず田口氏の論文から次の一文を一部カットして引用する。

 「金本位制のもとでのインフレ現象とは、流通手段の代表する金量の減少による価格の騰貴である。……インフレとはなにかを明らかにするためには、貨幣の価値尺度機能、価格の度量標準とはなにかについて述べなくてはならない。こうしたことが明らかになってはじめてインフレとはなにかについて明らかにすることができる」

 そして次のようにこの一文について批判するのである。

 〈つまり、金本位制のもとでのインフレの関係を明らかにすることが、インフレとはなにかについて原理的に明らかにすることになり、その結果から、インフレとは貨幣の価値尺度機能、価格の度量標準の問題だというのである。〉

 しかしこれは林紘義氏流のねじ曲げた解釈というべきではないだろうか。では平岡氏に聞くが、平岡氏は、貨幣の価値尺度機能や価格の度量標準機能を前提せずにインフレを説明するというのであろうか? やれるものならやってみるが良い。それが出来るなら、ここでの放言を認めようではないか。田口氏が言っているのはただそういうことでしかない。田口氏は「金本位制のもとでのインフレ現象とは、流通手段の代表する金量の減少による価格の騰貴である」と述べている。この田口氏の言い方を見ても、氏が「金本位制」で何を含意しているかが窺い知れる。要するにそれは金が貨幣となっており、金の一定量によって度量標準が決められているというぐらいの意味しか持たせていないのである。それに田口氏は「インフレ現象とは、流通手段の代表する金量の減少による価格の騰貴」であると問題は流通手段としての貨幣の機能に関わる問題であることをハッキリ捉えている。ただ田口氏がいわんとすることは、そうした流通手段としての貨幣の機能からインフレを説明するためには、「貨幣の価値尺度機能、価格の度量標準とはなにかについて述べなくてはならない」と述べているだけである。つまり流通手段の機能から紙幣流通の独自の法則の結果として、価格の名目的な騰貴を説明するためには、そもそも貨幣の価値尺度機能や度量標準の機能が前提されなければならず、それらがまず説明されなければならないというに過ぎないのである。だからもしこの田口氏のこの言明を否定するなら、平岡氏は貨幣の価値尺度機能や度量標準の機能を抜きに、インフレを説明しなければならないことになるのである。出来るものならやってみるが良い。
 平岡氏も次のように述べている。

 〈マルクスは紙幣流通の法則について、その流通量が流通必要金量以内であれば一般的な貨幣流通の法則と同じであるが、紙幣は金貨幣のような制限を持たずに、流通必要金量以上に流通に投げ込まれるから、そこでは紙幣流通の特殊な法則があらわれ物価が騰貴することについて述べている。これがインフレの概念を示していることは田口氏も言うとおりであるが、しかし、マルクスの時代には、まだ金本位制が基本的には貫かれており、こうした特殊法則は一時的にその制約を停止したときの問題でしかなかった。ところが今や、金本位制からははるかに離れ、紙幣化する不換銀行券が流通するという、まさにマルクスが紙幣流通の特殊法則について述べたような状況が常態化しているのである。とするなら、インフレはこうした「特殊法則」が常態化している状況の問題として解明されなければならないのではないのか。〉

 まずここでは平岡氏もマルクスの「紙幣流通の特殊な法則」による物価の騰貴の説明が「インフレの概念を示している」ことを認めるのである。ところが平岡氏はどうやらこれだけでは満足しないようである。では平岡氏はそれに代わるインフレの概念をどのように説明するのかというと、皆目この論文でもやっていない(出来ない)のである(これは林氏においてもまったくおなじであるが、それは別途問題にしよう)。ところがこのマルクスの「インフレの概念」の説明をただ紹介しているだけの田口氏に噛みつくことだけは出来ると考えているのである。大したものではある(この大それた思い込みはただ林氏が田口氏を批判しているから“安心”してそれに追随しているだけでないなら幸いである)。マルクスに対してはまともに批判はできないが、しかしマルクスの説明をただ紹介しているだけの田口氏対しては批判できると思っている(これは林氏においても然り)。しかしもしそういう批判なら、つまりマルクスの説明を是としながら、なおかつ田口氏を批判するというなら、それはただ田口氏のマルクスの「インフレの概念」の説明の紹介は正確ではない、マルクスの説明を間違って紹介しているというような批判でしかないはずである。しかし林氏の批判はもちろん、平岡氏の批判も決してそうしたものではない。田口氏の論文はあくまでもマルクスの「インフレの概念」の解説を試みたものであろう。それを批判するなら、正しい解説を対置するのが批判の正しいやり方というものであろう。
 また平岡氏はここで「マルクスの時代には、まだ金本位制が基本的には貫かれており、こうした特殊法則は一時的にその制約を停止したときの問題でしかなかった」とも述べている。つまり平岡氏もマルクスの説明は「金本位制」のもとでのものであるということを認めているのである。ただ平岡氏は「一時的にその制約を停止した」と述べている。しかしそれは何を意味するのか、もともとマルクスが論じている紙幣は「国家の強制通用力によって流通に投げ込まれる紙幣」であり、だから不換券であることは明らかである。マルクスもそれが一旦流通に投げ込まれれば、自分から流通に出てくることはないとも述べている。しかしそれが例え不換券であっても、流通過程では金を代表していることは明らかである。金を代表するということは前提されており、だからこそそれは流通手段として機能するのである。
 そもそも平岡氏は〈その(紙幣の--引用者)流通量が流通必要金量以内であれば一般的な貨幣流通の法則と同じであるが、紙幣は金貨幣のような制限を持たずに、流通必要金量以上に流通に投げ込まれるから、そこでは紙幣流通の特殊な法則があらわれ物価が騰貴する〉と述べている。ということは同じ不換券でも流通必要量以内の発行であれば、「金本位制」のもとでの発行だが、それが流通必要量を超えるととたんに金本位制は「その制約を停止する」のだそうである。ここでいう「金本位制の制約」とは何かを平岡氏は説明すべきであろう。そしてそれは「停止」したり「発動したり」できるものなのであろうか。もしそれが「兌換」と同義というなら、そもそも紙幣は最初から不換券なのである。だから最初からそれは「制約を停止された」ものとして存在しているのではないのか、つまりそれは平岡氏の考えを前提すれば、最初から金本位制ではないとも言えるのではないのか。
 さて上記の引用の最後で平岡氏は〈まさにマルクスが紙幣流通の特殊法則について述べたような状況が常態化しているのである。とするなら、インフレはこうした「特殊法則」が常態化している状況の問題として解明されなければならないのではないのか〉という。しかしそうであるなら、マルクスが紙幣流通の特殊法則として述べていることを前提に、その法則の貫徹として今日のインフレも説明されるべきであろう。問題はそれが「常態化」している歴史的条件とその法則の今日における変容を明らかにすることである。それはマルクスの紙幣流通の独自の法則を前提にしてのみ説明可能なものではないのか。だからこそ田口氏はまずマルクスのその法則の解説を試みたのではないのか、田口氏の論文の意義もそこにあるのではないのか。そもそも平岡氏がこのようにいうなら、それを自分でやって見るべきであろう。
 ところで平岡氏は林氏が現代の通貨の価値尺度機能や度量標準機能についてこれを否定する主張を行っている(明確に否定せずにあいまい模糊とさせているところが林氏のズルイところなのだが)ことにも批判を向けている。平岡氏は一見すると〈しかし私は、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能そのものがなくなったとは考えてはいない〉と述べて、これらを認めているかのようである。しかしすぐに次のようにも述べてこれを否定する。〈しかしながら、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能そのものはなくなっていないとはいっても、金貨幣が現実に流通しているわけではなく、紙幣化した不換銀行券だけが流通している時代であり、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能も現実の経済過程の問題というよりも、その機能を前提として成り立っている社会における概念の問題といえるのではないだろうか〉。これを見るともともとは〈「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能も現実の経済過程の問題〉であって、概念の問題ではないかのようである。しかしそれらは現実の経済過程の問題であるからこそ、概念的に説明可能なものであり、概念的説明によってこそ科学的に説明できるのである。そしてマルクスはそれをしているのである。だから現代において〈「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能〉が〈その機能を前提として成り立っている社会における概念の問題〉であって、「現実の経済過程の問題」ではないというのは、問題の混乱以外の何ものでもない。もしそれは概念であるなら、その概念から現実の過程を説明してこそそれは概念たりうるのであり、現実の過程と結びつかない概念などは概念とは言えないのである。本質は現象するしせざるを得ない。現象しない本質などは本質とは言えない。実際問題として現代の通貨が諸商品の価値を価格として表現していることは歴然たる事実である(われわれは商品が「○○円」という値札をつけて店頭にならんでいることを日常の事実として知っている)、また度量標準によって比較可能になっていることも現実の過程ではないのか(100万円の自動車は100円の歯ブラシの1万倍の値段である)、そしてそれを説明するのに、〈「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能〉を前提せずして、どのように説明可能なのか、考えなくても明らかであろう。それは現実の経済過程と結びついているからこそそれは概念(本質的関係)なのだ。それを説明することが今日のわれわれの理論的課題なのである。「概念」だといって棚上げすることによっては何も説明できない。平岡氏のように〈したがってこの抽象的な概念をもとに、インフレといった現代社会における現実的な問題を解明しようとしても問題の所在が明らかにならず、余計に混乱することになっているのではないだろうか〉というなら、それは科学を放棄するに等しいであろう。
 もし平岡氏がそうした「抽象的な概念」を抜きに「現代社会における現実的な問題」であるインフレを「解明」できるというならやって貰いたい。それができるなら話は簡単である。しかしそもそも「インフレとは何か」というこの平岡氏の論文の表題に掲げた問題一つとってもこの論文では何一つ説明されていないのではないか。平岡氏はインフレについてどんな規定も与えていない。マルクスによる「インフレの概念の説明」は認めているようである。しかし平岡氏の独自の「現代社会における現実的な問題」としてのインフレについて何の説明もないし、どんな規定もないのである。
*     *     *     *     *
 ついでだから、平岡氏が肯定しているように思える(これはあからさまに行っていないが論文の基調はそのように読めないこともない)林紘義氏のインフレの規定について一言いっておこう。林氏は『プロメ』48号の「現代資本主義とインフレの問題を探る」で次のように述べている。

 〈「通貨」の減価として規定されて初めて、インフレはインフレとして、その概念に適応したものになるのではないのか〉(113頁)

 これがどうやら林氏の現代のインフレの規定であり、「概念」らしい。なんともお粗末なものではある。なぜなら、林氏はこの論文のもとになった学習会のレジュメでは、次のように述べていたからである。

 〈インフレがインフレであるためには、物価上昇が通貨膨張によって媒介されなくてはならない。つまり、「価格の度量標準の引き下げ」(俗に言えば「通貨の減価」)にまで立ち到っていなければならない。〉

 つまりこの説明によれば、「通貨の減価」というのは「俗に言えば」という但し書きによる説明であり、いわば通俗的な説明なのである(ところでこのレジュメの一文は『プロメ』の論文では〈インフレがインフレであるためには、物価上昇が通貨膨張によって媒介されなくてはならない。つまり、「通貨の減価」にまで立ち到っていなければならない〉と書かれ、レジュメで「俗に言えば」という補足的な説明が本文に来ている。これはいうまでもなく、田口氏の論文に対する批判との整合性を考えてのことであろう。しかしご都合主義的であり、姑息な辻褄合わせではある)。
 しかしそうであるなら、つまり「通貨の減価」が通俗的な説明であるというなら、どうしてインフレの科学的な概念的規定がそれをもってできたと言いうるのであろうか。まさかいくら林氏でも、レジュメ段階では通俗的だったが、論文にする段階では科学的になったのだとは言わないであろう。
 林氏がレジュメではどうして〈「通貨」の減価〉を通俗的な説明だといったかというと、ここで「通貨」という場合、それは林氏によれば、「紙幣化しつつある銀行券」を意味しているからである。つまりそれ自体には何の価値もないものでしかない。にも関わらずその「減価」が言われているからである。「価値」のないものが「減価」するのは概念矛盾も甚だしい。だからそれはあくまでも通俗的な説明だというのである。科学的には「紙幣化しつつある銀行券」が流通過程で代表する金量の減少という意味である。これが本当は科学的な説明なのである。そしてそれは度量標準の切り下げと実際上は同じ意味をもつとマルクスは説明しているのである(もちろん念のために言っておくと、法的・制度的な切り下げと流通過程における実際上の代表金量の減少とは決して同じではない)。しかしこの科学的な説明を林氏は、田口氏の論文を批判する手前、否定したい。だから林氏はその通俗的な説明に今度はしがみつくしかないのである。
 そもそも貨幣は諸商品の価値を表現するが、自身の価値をそれによっては表現するわけではない。貨幣の価値は貨幣と交換される諸商品列(使用価値)によって表現されているというのがマルクスの説明である。ということは、もし林氏のいう〈「通貨」の減価〉というものをただ機能だけに限って考えるなら(というのはそもそも通貨には価値はないと林氏はいうからである)、その「通貨」によってその価値が表現されている(尺度されてる)[といっても林氏は現代の通貨の価値尺機能を認めないのだからこうしたことも説明不可能になるのだが]諸商品全体(その使用価値全体)によって表現されている(尺度されれている)のである。とするならその「減価」とは何か、通貨によって表現されている(尺度されている)諸商品の使用価値量が減ることであろう。つまり1000円という「通貨」がそれまでは10個のリンゴの価値を表現していた(尺度していた)とするなら、10個が9個にも8個にもなるということである。要するにこれは物価の上昇をただ現象的になぞったことを意味するに過ぎない。これが林氏よれば、〈インフレはインフレとして、その概念に適応したものになる〉というのである。それなら、現代のインフレとは、通貨と交換される諸商品量が減ることと言っているのと同じである。これのどこが「概念」なのかといわざるをえない。こんなものはただ現象を言っているだけであり、ブルジョア経済学者でさえ言わないであろう。これではほとんど何も言っていないのに等しいのである。
*     *     *     *     *
 結局、平岡氏も林氏も、マルクスの貨幣論にもとづき、紙幣流通の独自の法則からインフレを説明しようという田口氏の試みを否定しているのである。平岡氏は一方でそれらを「概念」としては認めても、現実の経済過程の解明には役に立たない、むしろ混乱を持ち込むものだとまでいう。林氏もマルクスの貨幣論を現代のインフレの解明に適用するのは「奇妙に見える」のだという。
 要するに両者に共通するのは、マルクスの『資本論』、その「貨幣論」は現代のインフレを解明し、説明するのには役立たないと宣言していることである。だからこそ彼らはマルクスの貨幣論にもとづいて、マルクスが明らかにしている紙幣流通の独自の法則による商品価格の名目的な騰貴の説明を、「インフレの基礎理論」として紹介、解説しようとする田口論文の意義を否定するのである。つまり二人ともマルクスの『資本論』から現代のインフレを説明するのは間違いだと言っているのだ。現代のインフレを説明するのにマルクスの『資本論』はすでに古くさいのだと実際上は言っているのだ。なぜなら、マルクスの理論は金が貨幣として通用していた時代のものであるが、〈今日においては、金貨幣はおろか兌換銀行券すら実際には問題にならないような(つまり機能していない)時代である〉からだという。だからそんなものはすでに古くさいのであり、ただ混乱を持ち込むだけだと彼らは実際上主張しているのである。
 あれほど『資本論』研究の必要を強調し、『資本論』第一章を繰り返し学習せよと主張した林氏が(そしてそれに賛成した平岡氏が)いまや『資本論』の否定者として現れている(少なくとも「現代の現実の経済過程」の解明には役立たないという)。もっとも同志会への移行時に林氏はこうしたことを口走ったものの、いまでは主張した本人自身はすっかり忘れてしまっているようではあるが。しかし何という変わりようであることか、何と驚くべきことであろうか。
 しかし彼らが『資本論』の否定者として現れるなら、われわれはその断固たる擁護者として現れるし、現れなければならない。

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【付録】

【三面トップ】インフレとは何か--田口氏の問題意識に疑問--田口・林論争に寄せて

 インフレをめぐる、田口、林両氏の論争について考えてみたい。田口氏は、『海つばめ』1002号において、「インフレは金本位制のもとでも起こりうる」とし、林氏もそれを肯定しているかのように述べている。そして、マルクスもまたこうした主張をしているかに述べている。はたしてこれは正しいであろうか。これが私の疑問の出発点であった。以下、論争をもとにインフレについて考えてみたい。

◆田口氏の議論の出発点

 田口氏は次のように言う。
「林氏は、インフレは金本位制が廃止されている時代に特有なものであるという。もちろんそのように言うことはできるだろう。流通手段が自立化し、貨幣との関連を断ち切られているような時代にあっては流通手段の“減価”は容易となるからである。しかし、林氏もことわっているように、インフレは金本位制のもとでも起こりうる。事実、マルクスはインフレという言葉を使用してはいないにしても、アメリカの南北戦争時代のグリーン・バックスの発行によるインフレ現象について述べている。また一九二〇年代のドイツの有名なインフレもそうであった。もともと私の問題意識は『インフレとはなにか』について原理的に明らかにするということにあった。副題に『マルクスから学ぶ』としたのはこうした意図を含んだものであった」(『海つばめ』1002号)
 この一文に田口氏のインフレ問題を論じる出発点があるように思われるし、同時に、ここに誤りがあるのではないか、というのが私の意見である。
 田口氏は、「インフレは金本位制が廃止されている時代に特有なもの」ということについて、「もちろんそのように言うことはできるだろう」と肯定するかのように述べているが、しかし、実際にはそれに反対している。というのは、そのすぐ後に展開されている文章を見れば明らかである。
 つまり、「インフレとはなにか」という原理的なものを明らかにするには、インフレは金本位制が廃止されている時代に特有なものではなく、「金本位制のもとでも起こりうる」ものなのだから、むしろそこでの関係を明らかにしなければ、「原理的に明らかに」したことにはならない、というのが田口氏の問題意識であるように思われる。
 しかし、金本位制のもとでのインフレを検討することが、インフレについて原理的に明らかにするものなのであろうか。それに、そもそも金本位制のもとでインフレは起こりうるのだろうか。もし、起こらないとすれば、田口氏の検討は的外れの検討ということになる。私は、田口氏がインフレの原理的なものをこうした検討の仕方に求めたから、インフレは貨幣の価値尺度機能の問題だという“迷路”に迷い込んだのではないかと考える。
 事実、田口氏は先の引用に続いて次のように述べている。
 「金本位制のもとでのインフレ現象とは、流通手段の代表する金量の減少による価格の騰貴である。……インフレとはなにかを明らかにするためには、貨幣の価値尺度機能、価格の度量標準とはなにかについて述べなくてはならない。こうしたことが明らかになってはじめてインフレとはなにかについて明らかにすることができる」
 つまり、金本位制のもとでのインフレの関係を明らかにすることが、インフレとはなにかについて原理的に明らかにすることになり、その結果から、インフレとは貨幣の価値尺度機能、価格の度量標準の問題だというのである。

◆金本位制のもとでのインフレ?

 では、金本位制のもとでのインフレという問題について考えてみよう。
 田口氏は、林氏もまた、インフレは金本位制のもとでも起こりうると言っているかに述べているが、林氏の「海つばめ」1001号の主張は次のようなものである。「(インフレは)金本位制の廃絶を必ずしも必要としないが――というのは、金本位制が一時的に停止されていた時代にもあり得たから――、しかし現代のように金本位制が廃絶されている時代に特有なものであり、現代の『管理通貨制度』のもとにおいて一般的に発展するのである」
 つまり、林氏が「金本位制の廃絶は必ずしも必要としない」としているのは、金本位制が廃絶されないまでも、その機能が一時的に停止された時代にはインフレがあり得たということであり、金本位制が機能しているもとでインフレが起こるといったこととは別のことを述べていると、私には思われる。金本位制が機能した状況のもとでもインフレは起こるという田口氏の強い観念が、林氏の見解をゆがめてしまっているのではないか。
 そしてまた田口氏は、金本位制のもとでもインフレが起こることの証明として二つの歴史的事例を示している。しかし、この二つの例も、金本位制が機能しているとは言えない、つまり金本位制ではない状況のもとでのインフレなのである。
 最初は、田口氏が、マルクスもまた金本位制のもとでのインフレを認めていたかに述べ、引き合いに出している「アメリカの南北戦争時代のグリーン・バックスの発行によるインフレ現象」である。
 グリーンバックスとは南北戦争中の一八六二年二月制定の法貨法にもとづいて発行された裏面が緑色の合衆国紙幣のことで、戦費調達のためのものであった。この紙幣は、三次にわたる法貨法のもとで最大発行額四億五千万ドルに達し、インフレの原因となったのである。
 しかしこれが金本位制のもとでの事かというと、事情は異なる。
 米国の中央銀行としては、一七九一年の第一次と、一八一六年の第二次合衆国銀行が存在したが、一八三六年に消滅してしまい、一九一三年に連邦準備制度ができるまで不在であった。したがって、連邦政府はこの不在の間、紙幣を発行せず、グリーンバックスはあくまで例外であった。一般に流通していたのは州が認可した州法銀行券で、一八六三年の全国銀行法の成立以降は、国法銀行(五万ドル以上の資本を持つ銀行が認められた)の発行する国法銀行券(全国どこでも通用する統一的な紙幣)に代わっていった。
 グリーンバックス紙幣が発行されたのはこうした時代のことであり、「第3次法貨法の規定によりその国債への転換が拒否され、グリーンバックス紙幣は不換紙幣化したが、正貨兌換再開=通貨の収縮を支持する東部の銀行家・商人・綿工業者などと、通貨の膨張を要求するペンシルヴェニアの鉄鋼業者を中心とする下から展開しつつあった産業資本家や西部・南部の農民とのあいだの激しい抗争をへて、一八七五年に制定された正貨兌換再開法によって一八七九年一月一日より金との一対一での兌換が実現するという大変特異な収束の経過をたどることとなった」(大月『経済学辞典』)といわれるように、不換紙幣化していたからこそインフレを招いたのであり、金本位制のもとでのインフレとは言えないのである。ちなみに、一八七九年からの金との兌換によって米国は実質的な金本位制に入ったと言われ、正式に金本位制を採用するのは一九〇〇年になってからのことである。
 次に、第二の例である「一九二〇年代のドイツの有名なインフレ」について見てみよう。
 ドイツは一八七一年に成立し、二年後の一八七三年七月九日に金本位制採用を公布している。しかしここでもまた戦費調達のために、一九一四年八月四日、戦時金融立法によって銀行券の兌換義務はなくなり、金本位制から一時離れることになったのである。
 「『ライヒス・バンク(ドイツの中央銀行―平岡)は、もし三ヵ月より遅くない満期であるとするならば、国庫証券を割り引く権限を与えられ、そしてこれらの国庫証券を同行の法定準備の一部として使用することを公認された。これらの証書は、国庫のサインだけをもつものであったが、こうした同行の準備金に関して商業手形と同等にされた。この条項は、戦時中のライヒス・バンクの割引政策における基礎的な変化を特徴づけている。そして、発券に対するその効果は、強調しすぎることはありえない。』『銀行法の新しい改正は、国庫以外の他の保証人の追加的な裏書を廃止した。だからライヒスは、自己宛を意味するところの国庫宛に証書を振り出すことができ、ついでこの証券を同行で割り引くことができた。』ここにみるように、ライヒス・バンクの割引する銀行適格手形が、国庫手形からさらに短期の国庫証券(単名手形)に拡大されて、それが発券準備金に組み入れられたことは(金兌換停止)、中央銀行の発券・短期信用原則にたいする根本的な変化を示す」(生川栄治『ドイツ金融史論』・有斐閣)といった状況のもとで、大量の不換銀行券が発行され、インフレを引き起こしたのであって、これもまた、金本位制のもとでのインフレとは言えないのである。
 そもそも、金という価値を持った貨幣だけが流通する社会においては、流通必要金量を超えて貨幣が流通するわけではない。それは田口氏も認めるところである。それがなぜ、金本位制のもと、つまり金との兌換を義務づけられた紙幣や銀行券が流通するとインフレになると言えるのか。金との兌換という制限によって、それらが必要流通金量を超えようとしても制約を受けることになるのではないのか。もし、金本位制のもとでも恣意的に紙幣量をコントロールできるというのなら、いくらでもその量を自由に操って経済をうまく運営できるとする貨幣数量説論者の立場に限りなく近づくことになるのではないか。これが田口氏の見解に対する私の疑問である。

◆田口氏の見解の誤り

 京都で、インフレについての田口・林論争を検討したときに、田口氏の見解は正しくないが、林氏の批判(「海つばめ」1001号)も「貨幣が実際上存在しない社会において、貨幣の価値尺度機能や『価格の度量標準』機能を問題とすること自体、奇妙に見える」と言うのは言い過ぎだ、貨幣の価値尺度機能や価格の度量標準機能は現代ではないと言えるのか、といった意見が出され、議論となった。他の会員からも同様の質問も出ているようなので、これについての私の考えを述べながら、さらに田口氏の見解を検討していこう。
 「貨幣の価値尺度機能」という場合の「貨幣」は労働生産物たる商品である。そうであるからこそ、他の諸商品に等置されることができ、価値尺度として機能するのである。逆にいえば、価値尺度機能はある商品(例えば「金」)を貨幣たらしめる機能であって、諸商品の価値表現に材料を提供する機能である。
 一方、商品の価値を貨幣として機能している商品であらわしたものが価格であるが、価値尺度たる商品が金であるとすると、諸商品の価値の大きさは金の分量で表現されることになり、種々の分量を比較するためには一定の度量単位を、例えば「純金の量目二分(七百五十ミリグラム)をもって価格の単位と為しこれを円と称す」という具合に定め、この純金七百五十ミリグラムという度量単位を十進一位を持って分割・統合した度量標準が定められた。つまり「価格の度量標準」機能とは、金属貨幣で測られた同じ名称の大きさとして諸商品が互いに関係しあうことである。
 今日においては、金貨幣はおろか兌換銀行券すら実際には問題にならないような(つまり機能していない)時代である。しかし私は、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能そのものがなくなったとは考えてはいない。商品の価値の大きさは社会的必要労働時間によって決まるが、商品は他の商品との交換によってしかその価値を表現することはできず、したがって、商品社会においては諸商品の価値を表現するために、ある商品を貨幣というものにして価値尺度機能を果たすしかないからである。
 ただし、価格の度量標準について言えば、紙幣化した不換銀行券が流通している現在においては、円が金何グラムを表しているかは固定的ではない。この限りでは価格の度量標準そのものがなくなったかである。しかし、諸商品が金貨幣で測られた同じ名称の大きさとして互いに関係しあうという、その機能については依然として維持されていると考える。
 しかしながら、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能そのものはなくなっていないとはいっても、金貨幣が現実に流通しているわけではなく、紙幣化した不換銀行券だけが流通している時代であり、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能も現実の経済過程の問題というよりも、その機能を前提として成り立っている社会における概念の問題といえるのではないだろうか。
 したがってこの抽象的な概念をもとに、インフレといった現代社会における現実的な問題を解明しようとしても問題の所在が明らかにならず、余計に混乱することになっているのではないだろうか。
 マルクスは紙幣流通の法則について、その流通量が流通必要金量以内であれば一般的な貨幣流通の法則と同じであるが、紙幣は金貨幣のような制限を持たずに、流通必要金量以上に流通に投げ込まれるから、そこでは紙幣流通の特殊な法則があらわれ物価が騰貴することについて述べている。これがインフレの概念を示していることは田口氏も言うとおりであるが、しかし、マルクスの時代には、まだ金本位制が基本的には貫かれており、こうした特殊法則は一時的にその制約を停止したときの問題でしかなかった。ところが今や、金本位制からははるかに離れ、紙幣化する不換銀行券が流通するという、まさにマルクスが紙幣流通の特殊法則について述べたような状況が常態化しているのである。とするなら、インフレはこうした「特殊法則」が常態化している状況の問題として解明されなければならないのではないのか。
 私はインフレ問題を検討する中で、田口氏の見解に近い見解に出くわした。それは、「新しいインフレーションが古典的インフレーションにどれほど似ていないものであろうとも、それが物価の名目的騰貴の一種であるかぎり、その本質は、つねに、貨幣の価格標準の視角から解明されなければならないであろう」という岡橋保(『現代インフレーション論批判』日本評論社)の見解である。
 岡橋は「インフレーションの本質は価格標準の切り下げにもとづく物価の名目的騰貴」という立場をとるのであるが、これを強調するあまり、次のような誤った方向に進んでいる。
 彼は「インフレーションの現象形態は、金貨流通のばあいと、紙幣の専一的流通、あるいはこんにちのように兌換の停止された銀行券の専一的流通のもとにおけるばあいとでは、いちじるしく相違している」と一見その違いを強調しているように思えるのであるが、しかし、それは現象形態が相違しているということを述べているのであって、本質においてはなんら変わらないという立場をとっている。つまり、「商品の展開された一般的価値形態=貨幣形態が確立しておりさえすれば、単純商品流通の段階であれ、自由資本主義あるいは国家独占資本主義の段階であれ、価格標準の切り下げによる物価の名目的騰貴はかならずおこる」「インフレーションの本質であるところの価格標準の切り下げにもとづく物価の名目的騰貴そのことには、なんらのかわりもないからである」(前掲書、50~51頁)というのである。
 金本位制の時代も紙幣の時代も、そして不換銀行券の場合も、すべて、インフレの本質は価格標準の切り下げによる物価上昇だから同じであり、それぞれその現象形態が違うだけだというのである。はたして田口氏の見解はこうした岡橋の見解に迷い込みはしないであろうか(田口氏が金本位制のもとでのインフレにその原理をもとめたことは偶然であったのか)。
 岡橋の場合は「紙幣の過剰発行にもとづく価格標準の事実上の切り下げからおこる物価の名目的騰貴を、特に紙幣インフレーションあるいはインフレーションと呼んで、次に述べる価格標準の法律的切り下げによる物価の名目的騰貴を、平価の切り下げと名づけ、紙幣インフレーションと平価の切り下げとを区別し、両者のあいだになんらか本質的な区別でもあるかのように強調する論者もあるが、それはまちがっている」(同50頁)とさえ言い切るのである。
 田口氏はインフレの場合は「事実上の」という言葉をつけて、同じ価格の度量標準の切り下げによる物価上昇であっても、インフレと法的な切り下げとを区別していると林氏に反論したのであるが、インフレの本質を「価格の度量標準の切り下げによる物価上昇」とすれば、岡橋の方がある意味徹底しているのである。そしてわれわれは、岡橋のような誤った見解に迷い込まないためにも、インフレの本質をこうした点に求めることはまちがっていると考えるのである。
 岡橋は、「(われわれは)口では価格標準視角を云々しながらも、結果的には、これを放棄してしまった人たちを問題にする。これらの人たちは、インフレーション騰貴の名目性を価格標準の切り下げ、あるいはそれと同じ事態のなかに求めながらも、インフレーションと為替相場や金の市場価格との関係の一面だけしか見ようとしなかったり、あるいはそれを無視ないしは否定する。このような理論的偏向は、兌換停止下の銀行券を不換紙幣と同一視するその本質観のうちに、すでに、予見されたのであるが、さらに、兌換停止下の銀行券流通における貨幣流通の諸法則の支配を拒否することによって決定的なものとなった。こうして、こんにちの多彩なインフレーション論の氾濫が生じたのであるが、この理論的偏向は、じつは、価格標準の事実上の切り下げと法律上の切り下げ(平価切下げ)との区別のなかに起因している。しかもそれは、ヨリ根本的には、マルクスや、ことに、エンゲルスの銀貨幣の事例における誤りに発しているようにみえる」とさえ断言している。
 田口氏はこうした岡崎の見解にどう反論するのであろうか。
(二〇〇六・一・九)
(平岡正行)

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