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2015年6月25日 (木)

現代貨幣論研究(6)

           『資本論』の冒頭の商品論・貨幣論をどのように位置づけるのか

 以前、インフレーションを特集した『プロメテウス』(以下、『プロメ』と略)No.48をめぐって林紘義--田口騏一郎両氏の間で論争があった時に(この論争は「現代貨幣論」を研究するうえでなかなか興味深いものであり、われわれも今後も恐らく何度も取り上げる機会があるかも知れない)、平岡正行氏はその論争を取り上げて『海つばめ』1008号に「インフレとは何か」という論文を発表した。その論文は林氏の主張を概ね肯定しながら、田口氏の主張を批判するものであった(その論文そのものの批判はここでは取り上げない)。そこで彼は「田口氏の見解の誤り」という小項目の冒頭、次のように書き出している。

 〈京都で、インフレについての田口・林論争を検討したときに、田口氏の見解は正しくないが、林氏の批判(「海つばめ」1001号)も「貨幣が実際上存在しない社会において、貨幣の価値尺度機能や『価格の度量標準』機能を問題とすること自体、奇妙に見える」と言うのは言い過ぎだ、貨幣の価値尺度機能や価格の度量標準機能は現代ではないと言えるのか、といった意見が出され、議論となった。他の会員からも同様の質問も出ているようなので、これについての私の考えを述べながら、さらに田口氏の見解を検討していこう。〉

 ここで林氏の主張を「言い過ぎだ」としたのは恐らく平岡氏であろう。だから彼は『資本論』の冒頭の分析を踏まえて、次のようにいうのである。

 〈今日においては、金貨幣はおろか兌換銀行券すら実際には問題にならないような(つまり機能していない)時代である。しかし私は、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能そのものがなくなったとは考えてはいない。〉

 このように平岡氏は一見すると、林氏を批判して『資本論』の冒頭の分析を肯定しているように言いながら、しかし続けて次のようにも言うのである。

 〈しかしながら、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能そのものはなくなっていないとはいっても、金貨幣が現実に流通しているわけではなく、紙幣化した不換銀行券だけが流通している時代であり、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能も現実の経済過程の問題というよりも、その機能を前提として成り立っている社会における概念の問題といえるのではないだろうか。
 したがってこの抽象的な概念をもとに、インフレといった現代社会における現実的な問題を解明しようとしても問題の所在が明らかにならず、余計に混乱することになっているのではないだろうか。〉

 つまり平岡氏は、『資本論』の冒頭で明らかにされている貨幣の諸法則は否定しようもないが、しかしそれは〈インフレといった現代社会における現実的な問題を解明〉するためには役に立たず、そういう問題から現代的な問題を解明しようとすると〈余計に混乱することにな〉るというのである。つまり平岡氏は一見すると林氏とは違って『資本論』の冒頭で分析されている貨幣の諸法則の正しさを認めているように見える。しかし金貨幣が流通していないのだから(よってそれは機能していないと彼は即断するのだが)そんなものは役には立たないというのであり、これでは、結局、林氏と何も変わっていない。林氏は1001号の『プロメ』No.48を紹介する記事で田口会員の主張を批判して次のように書いていたのである。

 〈そもそもインフレとは、貨幣が流通手段の機能において自立化し、ついには紙券化し、その結果として流通において減価する現象である。金本位制の廃絶を必ずしも前提はしないが――というのは、金本位制が一時的に停止されていた時代にもあり得たから――、しかし現代のように金本位制が廃絶されている時代に特有なものであり、現代の「管理通貨制度」のもとにおいて一般的に発展するのである。つまり、貨幣が廃絶され、一般的に紙券に取って代わられている時代を前提とするのである。
 そんな貨幣が実際上存在しない社会において、貨幣の価値尺度機能や「価格の度量標準」機能を問題にすること自体、奇妙な試みに見える。〉

 同じような主張は『プロメ』No.48の猪俣の為替インフレ論を批判した論文の中にもみられる。

 〈金本位制を前提にするなら、為替相場が一定の限界--「金現送点」の狭い範囲内--を超えて変動することは決してない。他方、金本位制が崩壊するなら、それはすでに金が貨幣として現実に存在せず、ほとんど機能していないということだから--その役割は潜在的に貫かれるかもしれないが--,そもそも貨幣の価値尺度の機能とか、計算貨幣としての役割とかを“まともに”論じること自体がナンセンスに思われる。価値と価格との関係が混沌としたものとなり、不明となり、常に変動するものになるからこそ、つまり貨幣の価値尺度の機能とか計算貨幣の機能などが働かないからこそ、通貨の兌換停止、金本位制の崩壊は資本主義的生産を根底からゆさぶる動揺であり、その解体の始まりを意味するのである。商品の価格もまた形式的なもの、"無概念”となる。〉(75頁)

 ここでは林氏は、不換制下では商品の価格そのものが無概念になるとまで述べている。しかし林氏がどう言おうと、戦後の不換制下のいわゆる「管理通貨制度」が開始されて(「管理通貨制」への移行そのものはすでに戦前から始まっているのだが)、すでに半世紀以上にもなる。戦後の日本の“高度経済成長”は、まぎれもなくこうした通貨体制のもとでなし遂げられたのではないのか。林氏がいくら〈通貨の兌換停止、金本位制の崩壊は資本主義的生産を根底からゆさぶる動揺であり、その解体の始まりを意味する〉などと述べてみても、そうした指摘はまさに戦後の歴史そのものによって否定されている。つまり林氏の主張の理論的破綻は歴史的な事実によって実証されてしまっているのである。

 要するに、二人とも『資本論』の冒頭で分析されている貨幣論については、それは抽象的には正しいが、しかし現実の経済過程を説明するのには訳に立たないという点では一致するわけである。だから表題に掲げた《『資本論』の冒頭の商品論・貨幣論をどのように位置づけるのか》という問題は極めて重要な論点なのである。
 私は平岡論文を検討したときに、この部分について次のように批判した。(以下は私自身のノートから。このノートそのものを発表する機会はまたあるかも知れないが)

 〈現代において《「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能》が《その機能を前提として成り立っている社会における概念の問題》であって、《現実の経済過程の問題》ではないというのは、問題の混乱以外の何ものでもない。もしそれらが概念であるなら、その概念から現実の過程を説明してこそそれは概念たりうるのであり、現実の過程と結びつかない概念などは概念とは言えないのである。本質は現象するしせざるを得ない。現象しない本質などは本質とは言えない。実際問題として現代の通貨が諸商品の価値を価格として表現していることは歴然たる事実である(われわれは商品が「○○円」という値札をつけて店頭にならんでいることを日常の事実として知っている)、また度量標準によって比較可能になっていることも現実の過程ではないのか(100万円の自動車は100円の歯ブラシの1万倍の値段である)、そしてそれを説明するのに、《「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能》を前提せずして、どのように説明可能なのか、考えなくても明らかであろう。それらは現実の経済過程と結びついているからこそそれらは概念(本質的関係)なのだ。それを説明することが今日のわれわれの理論的課題なのである。「概念」だといって棚上げすることによっては何も説明できない。平岡氏のように《したがってこの抽象的な概念をもとに、インフレといった現代社会における現実的な問題を解明しようとしても問題の所在が明らかにならず、余計に混乱することになっているのではないだろうか》というのなら、それは科学を放棄するに等しいであろう。
 もし平岡氏がそうした《抽象的な概念》を抜きに《現代社会における現実的な問題》であるインフレを《解明》できるというならやって貰いたい。それができるなら話は簡単である。しかしそもそも「インフレとは何か」というこの平岡氏の論文の表題に掲げた問題一つとっても、この論文では何一つ説明されていないではないか。平岡氏はインフレについてどんな規定も与えていない。マルクスによる《インフレの概念の説明》は認めているようである。しかし平岡氏の独自の《現代社会における現実的な問題》としてのインフレについては何の説明もないし、どんな規定も与えていないのである。〉

 このようにこの問題は『資本論』の冒頭の商品をどう考えるかという問題と密接に関連している。以前、セミナーでこの問題を私が取り上げた時(エンゲルスの経済理論を批判した時)、林氏は私に対して「宇野学派的だ」などというレッテルを張って批判したが(なぜレッテル張りだというかというと、私の見解がどういう点で宇野派的なのかの論証が何一つ無かったから)、林氏自身は恐らく冒頭の商品を、エンゲルスと同じように、歴史的な商品、つまり資本主義以前の、まだ資本主義へと発展する以前の商品と同じと考えているのであろう。あるいは少なくとも金貨幣が実際に流通している一時代前の資本主義社会における商品や貨幣を分析・解明したものだというようなあいまいな理解なのであろう。だから金貨幣がすでに流通から姿を消した〈現代社会における現実的な問題〉の解明には役立にたたない(平岡)とか、〈貨幣が実際上存在しない社会において〉は、それが存在していた時代の、つまり『資本論』の冒頭で問題にされているような〈貨幣の価値尺度機能や「価格の度量標準」機能を問題にすること自体、奇妙な試みに見える〉〈貨幣の価値尺度の機能とか、計算貨幣としての役割とかを“まともに”論じること自体がナンセンス〉(林)というわけである。

 私は先のエンゲルスの経済理論を批判的に取り上げたセミナーで(そのときのレジュメと報告はここここを参照)、冒頭の商品を、現実の資本主義社会における商品から資本関係を捨象して取り出した、その意味では抽象的なものであるが、しかし現実の資本主義社会においてはこうした単純な商品や貨幣は、社会の表面に現象しており、われわれが直接目にすることのできる具体物としても存在しているのだ、と指摘した。例えば私たちが日常的にスーパーで目にする商品が、すわなちそれである。またそれをお金を出して購入する行為もそうしたものである。これらは単純な商品と貨幣との関係であり、その限りでは単純流通の問題なのである。実際、われわれは店頭に並んでいる諸商品がどういう経路を辿って、だからまたその身にどれだけ複雑な関係を纏ってそこに並んでいるのかということは、直接には分からない。つまりそれらはそうした複雑な諸関係、資本家的な諸関係をその背後に隠した形で現象しているわけである。だからわれわれが店頭の商品をそのあるがままに表象するなら、それはすでに本来は資本家的商品であるのに、そこから資本関係を捨象した形で、すなわちその意味では抽象物としてそれらを捉えていることになるのである。そしてこうした関係は、金貨幣が実際に流通から姿を消した今日の資本主義的生産様式においてもまったく同じなのである。つまり『資本論』の冒頭で分析されている商品論や貨幣論は、今日の、あるいは現代の「管理通貨制」と言われている不換制下の資本主義の現実においても、そのなかに法則として貫いているものを考察したものなのである。

 宇野弘蔵の批判をするのがここでの課題ではないが(それをやるならまた別の連載としてとりあげたい)、林氏が私の主張を「宇野学派的だ」などというレッテルを貼って批判したので、敢えて、この問題と関連させて少し論じておこう。宇野の「原理論」というのは、彼の説明によれば「純粋の資本主義」を想定して、その分析から得られるものであり、それはカテゴリーが自己を展開するようなものとして論じられるべきものらしい。この「純粋の資本主義」というのは、歴史的には18世紀から19世紀の半ばのいわゆる「自由主義の時代」において、資本主義が傾向的にそのような純粋な形で現われてきたものを、さらに純化して得られるものらしい。しかしこうした理解は、マルクスの方法を真似ているようでまったく違ったものなのである。
 確かにマルクスも当時のイギリスの資本主義社会を資本主義的生産様式が典型的に発展したものとして分析の対象にしていることは誰もが知っている。しかしマルクスの場合は、決して「純粋の資本主義」といったものを想定して、それを分析しているのではない。マルクスの場合は、分析の対象はあくまでも当時の具体的なイギリス資本主義の現実なのである(それが常に主体として前提されていなければならない、とマルクスは述べている)。ただマルクスはそのイギリス資本主義の現実の中に貫く法則を一般的な形で取り出しているのである。だからそれが法則としては純粋な形で捉えられるのもある意味では当然なのである。だからまたその法則は資本主義がどのように表面的には変容しようともそれが資本主義であるかぎりでは、その中に一般的に貫いているような性格のものでもあるのである。これは自然法則とその意味ではまったく同じである。例えば重力の法則を実験や観察で明らかにしたのは、一昔前のガリレオが生きていた時代の現実においてであったであろうが、しかしその法則が今の世の中にも貫いていることを誰も疑わないであろう。資本主義的生産様式の諸法則も、法則という限りではまったく同じなのである。

 マルクスは、われわれがいま丁度のこのブログ上で解説している『資本論』の第3部第5篇第28章該当部分の草稿(28-10を参照)の中で次のように述べている。

 〈貨幣が流通しているかぎりでは,購買手段としてであろうと支払手段としてであろうと--また,2つの部面のどちらでであろうと,またその機能が収入の,それとも資本の金化ないし銀化であるのかにまったくかかわりなく--,貨幣の流通する総量の量については,以前に単純な商品流通を考察したときに展開した諸法則があてはまる。流通速度,つまりある一定の期間に同じ貨幣片が購買手段および支払手段として行なう同じ諸機能的の反復《の回数》,同時に行なわれる売買,支払の総量,流通する商品の価格総額,最後に同じ時に決済されるべき支払差額,これらのものが,どちらの場合にも,流通する貨幣の総量,通貨(currency)の総量を規定している。このような機能をする貨幣がそれの支払者 または受領者にとって資本を表わしているか収入を表わしているかは,ここでは事柄をまったく変えない。流通する貨幣の総量は購買手段および支払手段としての貨幣の機能によって規定されて〔いる〕のである。

 つまり『資本論』の冒頭で分析されている抽象的な商品や貨幣の諸法則というのは、それにどんなに複雑な規定性が加わろうとまったく変わらずその中に貫いているということである。マルクスはここでは貨幣の流通の総量について論じているが、しかしそれは貨幣のさまざまな抽象的な諸機能(例えば価値尺度の機能や度量標準の機能等々)についてもまったく同じことが言えるのである。だから現代資本主義のようないわゆる「管理通貨制度」のもとにおいてもそれらはまったく同じように貫いているのである。それらは資本主義的生産様式の諸法則を一般的な形で取り出し叙述したものなのだから、資本主義が資本主義である限りはその中に貫いているのはある意味では当然なのである。
 しかし、こうしたことが林氏や平岡氏には分からないのである。彼らは目の前の現代資本主義の変容した現象に囚われて、『資本論』の冒頭の商品論や貨幣論では、現実を説明することはできない、それは金が実際に流通していた一昔前の現実を説明することはできても、すでに「変容」してしまった現代資本主義の現実を説明するには古くさく用をなさないと考えるのである。
 このように、現代資本主義を解明していくためにも、『資本論』の冒頭の商品論や貨幣論をどのように位置づけるかということは極めて重要なことがわかるであろう。そこで間違うと林氏や平岡氏のようなとんでもない混迷に陥ってしまうことになるのである。

 林氏が私の冒頭の商品のとらえ方を「宇野学派的だ」と批判したことと関連して、もう少し論じておこう。私は先に紹介したように、冒頭の商品は、『資本論』の冒頭でマルクス自身によって説明されているように、「資本主義的生産様式が支配的に行なわれている社会の富」の「基本形態」としての商品であり、第1章では、とりあえず、その商品が現実のブルジョア社会の表面に現われているものをそのまま観察・分析するのであり、それは資本家的商品から資本家的な関係をとりあえずは捨象して得られる、その限りでは抽象的なものだとしたのである。しかしこうしたとらえ方を、どうやら林氏は「宇野学派的だ」と考えたようなのである。
 確かに宇野も冒頭の商品をマルクスの『資本論』の冒頭の一句を引用して、資本家的商品から抽象したものだと捉えている。しかし、宇野が「経済原論」の中で語っている内容は決してそうしたものではないのである。彼は冒頭の商品は資本関係を捨象した抽象的なものだということから、それが労働生産物であることや、資本主義的生産様式を前提することまでも捨象してしまうのである。そこから、彼が最初に考察の対象にする商品というのは、資本主義以前の古代社会における商品としてマルクスが語っているような、さまざまな自然的な社会構成体の隙間に棲息するような商品関係を想定したものなのである。それが彼が商品や貨幣、さらには資本までをも、まずは「流通形態」として論じなければならないとする理由なのである。なぜなら、それらはまだ商品形態が生産を捉える以前のものであり、ただ流通のなかで形態規定を与えられるものに過ぎないからである。その流通形態としての商品や貨幣が発展して、労働力までをも商品化することによって、初めて商品形態は生産過程を自らかのものに取り込むことになり、そうして初めて商品形態は社会的な物質代謝(宇野のいう原理)を司るものとなり、商品の価値もその実体を持つことになるのだというのが、宇野の主張なのである。だから宇野が冒頭の商品として論じているものには価値の実体規定はないし、ただ流通形態の規定性があるだけなのである。こうした考えから、宇野は『資本論』第1章の第1節・第2節を不要なものとするのであり、第3節の価値形態も不十分なものとするのである。
 まあ、宇野の主張の批判はまた別途やる機会があればそこでやるとして、とにかく宇野が『資本論』の冒頭の商品を資本家的な商品であり、それがブルジョア社会の表面に現われているものを、ただそれ自体として観察・分析しているものだと捉えているなどということは決してできないのであり、むしろ宇野のやっていることは、エンゲルスと同じように資本主義以前の商品、いまだ生産を捉えることができず流通から形態規定を与えられているだけの商品であるということである。たがら林氏が私の主張を「宇野学派的だ」などとレッテルを貼って批判したのは、ただマルクスの方法に対する無理解だけではなく、宇野の主張そのものをも十分には理解せずに,一知半解な認識のもとにただレッテルを貼っているだけに過ぎないということである。

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