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2015年6月18日 (木)

現代貨幣論研究(5)

                             金廃貨論者(林紘義)にとって不都合な事実

 林紘義氏は、以前、インフレーションを特集した『プロメテウス』第48号を紹介した記事(『海つばめ』1001号4面)の中で、田口騏一郎氏が、「インフレとは何か――マルクスの理論に学ぶ」という巻頭論文で、「インフレとは価格の度量標準の事実上の切り下げによる物価上昇」であると規定したことを批判して、次のように書いた。

 〈そもそもインフレとは、貨幣が流通手段の機能において自立化し、ついには紙券化し、その結果として流通において減価する現象である。金本位制の廃絶を必ずしも前提はしないが――というのは、金本位制が一時的に停止されていた時代にもあり得たから――、しかし現代のように金本位制が廃絶されている時代に特有なものであり、現代の「管理通貨制度」のもとにおいて一般的に発展するのである。つまり、貨幣が廃絶され、一般的に紙券に取って代わられている時代を前提とするのである。
 そんな貨幣が実際上存在しない社会において、貨幣の価値尺度機能や「価格の度量標準」機能を問題にすること自体、奇妙な試みに見える。〉
 〈20世紀も後半、資本主義の矛盾が異常に深化してきた結果として、貨幣はすでに流通から姿を消したのであり、そのかぎり“正常に”機能する条件を失っているのである。だからこそ、インフレといった“非正常な”事態がしばしば――あるいはほとんど恒常的に――生まれ、発展するのである。
 現代資本主義とは、この限り、“非正常”が正常とも常態ともなった資本主義、まさに崩壊し、死滅しつつある資本主義であり、そのことはいわゆる世界中に腐敗をまき散らす“ドル支配”にも、諸国家の通貨の絶えざる減価の中にも、あるいは国家の無政府的な財政・信用政策も――したがって、財政や国家信用の解体状況にも――余りにはっきり現われているのである。
 そんな時に、商品の価格表現に関するいわば“技術的な”理屈を持ち出すのは、いずれにせよ、ひどく矮小で、ピントはずれにしか見えないのである(もちろん、「価格」の科学的な意味を説明し、しかも現代資本主義にあっては、商品価値の貨幣による価格表現も正常的には行われない、ということを言う意味でなら、貨幣に価値尺度機能や度量標準機能について語るなら、それなりの意義もないことはない。しかしそれは、積極的にインフレを規定し、説明することとは別の課題としてなされるべきであろう)。
 それに、いま一体、円が金の何グラムを表し、それが何グラムになったからインフレが何%進んだ、などと言えるのか、いかにしてそれを確定できるのか。
 もちろん、金市場から逆算すれば、円は金のいくばくに値すると言うことはできるかもしれない、しかしそんなことをして、どんな意味があるというのであろうか。そんなことをしてインフレを説くなら、“金価格”ではなく、他の任意の商品の価格を持ち出しても全く同じことであろう。〉(『海つばめ』1001号)

 林氏の理解では、金本位制が崩壊するということは、金がもはや貨幣ではなくなることであり、〈貨幣が廃絶〉されたことを意味するらしい。これを読めば、私だけではなく、誰が読んでも、林氏は金廃貨論者だと断じるだろう。
 もっとも私は先には林氏は「おどおどとした臆病で姑息な金廃貨論者」だとも指摘した(現代貨幣論研究(4)参照)。それは今回も確認することができる。例えば『資本論』で明らかにされている商品の価格表現を、現代資本主義にあっては単なる〈“技術的な”理屈〉でしかないとする一方で、それでは少し言い過ぎだと考えてか、括弧に入れて〈もちろん、「価格」の科学的な意味を説明し、しかも現代資本主義にあっては、商品価値の貨幣による価格表現も正常的には行われない、ということを言う意味でなら、……それなりの意義もないことはない〉などとも付け加えている。つまり一方で否定しながら、他方ではそれを肯定して、あいまい模糊としたものにして誤魔化す、これが姑息な林氏の常套手段なのである。
 もっとも今回の括弧入りの説明文は、一見すると『資本論』の貨幣論を肯定しているかに見えるが、しかしよくよく読むと必ずしもそうではないことにも気付く。確かに今回も一見すると『資本論』の価格理論は〈「価格」の科学的な意味を説明〉するものであるかに述べているように思わせてはいる。しかしよく読むと、それはあくまでも〈現代資本主義にあっては、商品価値の貨幣による価格表現も正常的には行われない、ということを言う意味で〉なら、と限定付きであり、それに限るなら〈それなりの意義もないことはない〉という婉曲な言い回しなのである。つまり『資本論』の価格理論が「科学的」だと認めているわけ決してないのである。なぜなら、もしそれが本当に科学的だというなら、それが資本主義的生産様式のなかに深く貫く法則を解明したものだというなら、どうしてそれでもって現代資本主義の商品の価格表現を説明できないであろうか。〈現代資本主義にあっては、商品価値の貨幣による価格表現も正常的には行われない〉というなら(林氏は別のところでは現代資本主義では商品の価格は無害念になるとまで述べているのだが)、それはそもそも『資本論』の価格理論では現代資本主義における商品の価格の説明は不可能だということであり、だから『資本論』の価格理論などは科学にも値しないということでしかない。そしてこれこそ林氏の本音なのである。しかしそれをアケスケに林氏は語ることはしない(出来ない)のである。何とも姑息で卑怯な金廃貨論者ではある。

 ところで林氏が現代の資本主義においてはもはや金は貨幣ではなく、〈貨幣は廃絶〉された、と主張する根拠として述べているのは、〈貨幣はすでに流通から姿を消した〉からだという。つまり林氏にとっては貨幣イコール流通手段なのである。だから流通手段として商品流通から姿を消した金は、もはや貨幣ではないというのである。だからまた貨幣の価値尺度機能や度量標準機能も怪しげなわけのわからないものにならざるをえないわけである。だから商品の価格というものも無概念になる。
 しかしこれは何度もいうが、貨幣を古典派経済学のレベルで捉えることでしかない。『資本論』の第1章を何度も繰り返し研究せよと人に説教を垂れる御仁の『資本論』理解というのはこの程度のものなのである。何とも人をバカにした話ではないか。
 
 林氏は次のようにも述べている。

 〈もちろん、金市場から逆算すれば、円は金のいくばくに値すると言うことはできるかもしれない、しかしそんなことをして、どんな意味があるというのであろうか。そんなことをしてインフレを説くなら、“金価格”ではなく、他の任意の商品の価格を持ち出しても全く同じことであろう。〉

 林氏には金の円価格やドル価格こそが、商品流通の現実に規定されて、円札やドル札がどれだけの金を代理しているのかを示しているものであることが分かっていない。林氏には金の購入も、他の商品、例えばリンゴやパソコンの購入とおなじに見えるのである。しかしこれもすでに述べたが、こうした理解はただ目におえる現象に囚われ、直接的な表象として捉えられる仮象に騙されているのである。考えてもみたまえ、金の購入者はそれを何らかの工業材料として購入する人はともかく、多くの人はそれを消費するために購入するのではない。それを確かな貨幣財産として彼らは購入するのである。だから金の購入というのは一つの仮象なのである。それは決して商品の売買ではない。それは流通貨幣を本源的な蓄蔵貨幣に転換しているのである。しかしまた、まさにこうした金の売買という仮象こそ、金が依然として貨幣であることをわれわれに示しているのである。

 ところで林氏の主張を直接批判をするのが今問題なのではない。林氏が金廃貨論者であることをとにかく確認するために上記の説明が必要だったのである。問題は、《金廃貨論者(林紘義)にとって不都合な事実》とした表題の内容である。

 実は最近興味深い記事を目にした。それは欧州各国の中央銀行が大がかりな金の移送を進めているという記事である。その全文を次に示しておこう。

 〈欧州各国の中央銀行が大がかりな金の移送を進めている。安全資産といわれる金を自国外の機関に任せて保管する現状を見直す。5月にはオーストリア中銀が英国から持ち帰る意向を表明した。ユーロへの不信感やテロに対する警戒心に世界情勢の変調が重なるなか、金塊が飛行機に乗って相次ぎ“帰国”する。
 ニューヨーク連銀の地下には各国中銀から預かった金塊が積まれる。丈夫な保管庫には2012年時点で53万本の金塊があった。重さは約6700トン。世界の年間個人総消費量の2倍超に当たる。映画「ダイ・ハード3」ではテロリストがここから金塊を強奪するエピソードが描かれている。
 昨年10月末、米連邦準備理事会(FRB)の元議長、グリーンスパン氏がニューヨークで講演した。同じ頃に終了したFRBの量的緩和について「有効需要を喚起できなかった」と評したうえで「金は政策的に保有する価値がある」と語った。
 翌11月、ニューヨーク連銀の保管庫から50トン近くの金塊が引き出されていた。09年以降、ほとんど動きがなかった保管庫の金塊は14年から減りだした。これまでにドイツが85トン、オランダが122トンを回収したことが明らかになっている。
 ドイツは20年末までにニューヨークから計300トンを運ぶ。保安上、移送の詳細は非公表だが、ニューヨークからだと空路になる。飛行機で運べる金は多くても1度で3トンが限界だ。100回以上にわたって大西洋上を金塊が飛ぶことになる。
 280トンの金を保有するオーストリア。このうち英国で管理する110トンを持ち帰る。各国は移送の事実こそ明かすが、明確な真意は語らない。
 スイスでは昨年11月に金の保有を巡り国民投票が実施された。(1)中銀保有の金を売却しない(2)国外保管の金をスイスへ移す――などが問われた。結局、否決されたが、発端はユーロへの不信感だった。同国はユーロを導入していないが、外貨準備に組み込む。
 金移送ブームについて金融・貴金属アナリストの亀井幸一郎氏は「ユーロの先行きが不透明な状況のなか各国は金を自ら管理しようとしている」と話す。
 日本ユニコムの菊川弘之主席アナリストは「貿易が増えている中国との関係も影響している」と政治的な思惑についても言及する。亀井氏も「(世界が)多極化するなか、米国への依存を解消しようとしているのでは」とつけ加える。
 他国に預ける潜在的なリスクはもう一つある。過激派組織「イスラム国」(IS)を巡る緊張だ。01年の米同時テロでは崩落した世界貿易センタービルの地下に8トンの金塊が保管されていた。当時のニューヨーク商品取引所が準備する金だった。
 全量が無事に回収された今では「有事の金」を語る出来事だが、預ける側からすれば国外のテロで、映画のように金を失うわけにはいかない。
 日本はどうか。日銀は765トンの金を保有する。現在の価値で約3兆6千億円。保安上、保管場所を明らかにしていないが、国内で管理されているといわれる。〉(2015/6/10 23:45日本経済新聞 電子版)

 各国の中央銀行が他国に預けてある金の現物を自国に移そうというのは、それこそが彼らの最後の拠り所であり、自国の信用制度の軸点だと考えるからであろう。こうしたことは信用制度が世界的に発展している現代資本主義においてもまったく変わっていないのである。そしてこれこそ、金が依然として価値の唯一の絶対的な定在であることを何よりも示している。現代資本主義においては「貨幣(金)は廃絶された」と主張する林氏はこの現実を如何に説明するのであろうか。

 マルクスはそれを次のように説明している。

 〈だが,金銀はなにによって富の他の諸姿態から区別されるのか? その価値の大きさによってではない。というのも,これは金銀に物質化されている労働の分量によって規定されているのだからである。そうではなくて,富の社会的な性格の自立した化身,表現として区別される。この社会的な定在は,社会的な富の現実の諸要素と並んで,その外部に,彼岸(Jeneseits) として,物として,物象として,商品として,現われるのである。生産が円滑に進んでいるあいだは,このことは忘れられている。いまや,富の社会的な形態としての信用が,貨幣の地位を押しのけて奪ってしまう。生産の社会的な性格にたいする信頼こそが,生産物の貨幣形態を,ただ瞬過的でしかないもの(たんなる心像),ただ観念的でしかないものとして現われさせるのである。ところが,信用がゆらげば--そしてそういう局面は近代産業の循環のうちにつねに必然的に出現する--,今度は,いっさいの実物の富が現実に貨幣に,金銀に転化されなければならなくなる。だが,この気遣いじみた要求はシステムそのものから必然的に生え出てくるのであり, しかも、この巨額の要求と比べられる金銀のすべては, [イングランド〕銀行の地下室にある数百万でしかない。3) つまり,地金流出の諸結果のうちには,生産が現実には社会的な過程として社会的な統制に服していないという事情が、富の社会的な形態が富の外にある一つのとして存在するという事情が,きわめてどぎつく現われてくるのである。これはじっさい,ブルジョア的システムがそれ以前の諸システムと, これらのシステムが商品取引と私的交換とにもとづいているかぎりでは,共通にもっていることである。しかしそれは,ブルジョア的システムのなかで最も明確に,そしてばかげた矛盾と背理との最もグロテスクな形態で現われる。なぜならば,1)ブルジョア的システムでは,直接的使用価値のための生産は最も完全に止揚されており, したがって富は,ただ,生産と流通との絡み合いとして表現される社会的な過程として存在するだけだからであり, 2)信用システムが発展するにつれてブルジョア的システムは,富とそれの運動とのこの金属的制限を,物的かつ幻想的な制限を,たえず止揚しようと努めながら,またたえず繰り返してこの制限に頭をぶつけるのだからである。〉(《「貴金属と為替相場Jcr資本論』第3部第35章)の草稿について》大谷訳118-119頁、下線はマルクスによる強調)
 
 〈生産が現実には社会的な過程として社会的な統制に服していないという事情、富の社会的な形態が富の外にある一つのとして存在するという事情〉そのものは現代資本主義においても何一つ変わっていないことは誰もが認めることであろう。だから現代資本主義も金属的な制限を決して止揚しているわけではないのである。この現実を見ることができず、ただ現象だけに囚われている金廃貨論者だけが馬鹿げた幻想に浸ることができるだけである。世界の中央銀行が自国の金にしがみつかねばならないほど世界的な信用システムは動揺の時代を迎えつつあるということでもある。これこそ金廃貨論者にとって不都合が現実があるだろうか。今回は引用ばかりで申し訳ないが、こうした紹介も意味のないことではないと信じる。

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