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2015年6月 4日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-10)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-10)

 

 (2)各パラグラフごとの解読(続き) 

【6】 (このパラグラフも【5】とはまた別の問題が論じられており、むしろa)の締めくくりのように思える)

 〈規定性の相違--収入の貨幣形態として機能するのか,それとも資本の貨幣形態として機能するのか,という相違一ーは,さしあたり,流通手段としての貨幣の性格を少しも変えるものではない,一一貨幣がどちらの機能を果たそうと。たしかにこの相違は,貨幣は一方の規定ではより多く本来の流通手段(鋳貨,購買手段)として機能する,という違いをもたらすと言える。なぜなら,この売買は分散して行なわれるからであり,また収入を支出する人々の多数を占める労働者は相対的にわずかしか信用で買うことがで[508]きないからである。他方,商業界では,一部は集中によって,一部は優勢な信用制度こよって,貨幣はおもに支払手段として機能する。しかし,支払手段としての貨幣と購買手段(流通手段)としての貨幣との区別は,貨幣 に属する区別であって,貨幣資本との区別ではない。小売商業では(im kleinen Retail)より多く銅や銀が流通し,卸売商業では(im grossen) より多く金が流通しているからといって,一方での金と他方での銀や銅との区別は, Circulationと資本との区別ではないのである。〉

 この部分はそれほど難しくはないので、平易に書き下ろすだけにしておこう。以下、書き下ろし文である。

 〈収入の貨幣形態として機能するか、それとも資本の貨幣形態として機能するか、という規定性の(機能上の)相違は、さしあたり、(広い意味での)流通手段としての貨幣の性格を少しも変えない。ただ貨幣がどちらの機能を果たすかによって、一方は、本来の流通手段(鋳貨、購買手段)として機能するが、他方は、支払手段として機能するといえる。なぜなら、収入の貨幣形態として機能する場合は、売買は分散して行われ、収入を支出する人々の多数を占める労働者は相対的にわずかしか信用では買うことが出来ないからである。しかし他方の商業界では、一部は集中によって、一部は発展した信用制度によって、取り引きは信用を介して行われ、だから貨幣はおもに差額の決済として、支払手段として機能するのである。
 しかし支払手段としての貨幣と購買手段(流通手段)としての貨幣という、貨幣の二つの機能上の区別は、貨幣に属する区別であって、つまり単純な商品流通上の貨幣の区別にすぎず、貨幣と資本との区別ではないのである。
 小売業ではより多く銅や銀が流通し、卸売商業では、より多く金が流通しているからといって、一方での金と他方での銅や銀との区別が、通貨と資本との区別にならないのはあたりまえであろう。種類は違っても、どちらも単純な商品流通の観点から見れば、広い味での流通手段、すなわち通貨なのだから。〉


 以上で、a)の考察は終わる。



【7】 (こではb)が検討される)

 〈b について。貨幣が流通しているかぎりでは,購買手段としてであろうと支払手段としてであろうとーーまた,2つの部面のどちらでであろうと,またその機能が収入の,それとも資本の金化ないし銀化であるのかにまったくかかわりなく一一,貨幣の流通する総量の量については,以前に単純な商品流通を考察したときに展開した諸法則があてはまる。流通速度,つまりある一定の期間に同じ貨幣片が購買手段および支払手段として行なう同じ諸機能的の反復《の回数》,同時に行なわれる売買,支払の総量,流通する商品の価格総額,最後に同じ時に決済されるべき支払差額,これらのものが,どちらの場合にも,流通する貨幣の総量通貨currency)の総量を規定している。このような機能をする貨幣がそれの支払者 または受領者にとって資本を表わしているか収入を表わしているかは,ここでは事柄をまったく変えない。流通する貨幣の総量は購買段および支払手段としての貨幣の機能によって規定されて〔いる〕のである。

① 〔注解〕カール・マルクス『経済学批判。第1分冊』,ベルリン, 1859年,81-85ページ, 124-125ページ, 127-128ページ (MEGA,II/2,8 .170-174,206/207 und 209)。

 ここでは【2】で示された3つのことの2つ目、すなわち《b)この2つの異なった機能における流通する貨幣の量に関する問題によって》生じる「混乱」の検討に当てられている。ここで二つの異なった機能とは、収入の実現という機能と資本の移転という機能である。この二つの異なった機能で流通する貨幣の量に関する問題での銀行学派の混乱した主張が検討されると思われる。ところが、マルクスは上記のように、平易に書き下ろすと、ただ次のように書いているだけである。

 
〈次はb)についてである。貨幣が流通している限りでは、購買手段としてであろうと支払手段としてであろうと、あるいは二つの部面、すなわち商人と消費者との間であろうと、商人と商人との間であろうと、さらにはその機能が収入の支出を担うか、あるいは資本の補填、つまり商品資本を貨幣資本に転換すること、要するに商品を売って金や銀の金属貨幣に変えることであろうと、そうしたより進んだ貨幣のさまざまな諸機能や諸規定が加わろうとも、もし貨幣の流通する総量を問題にするのなら、それは以前に単純な商品流通を考察した時に展開した諸法則が当てはまるのである。
 それは次のようなものであった。流通速度(つまりそれはある一定の期間に同じ貨幣片が購買手段および支払手段として行う同じ諸機能の反復の回数のことだ)、同時に行われる売買、支払の総量、流通する商品の価格総額、そして最後に同じ時に決済されるべき支払の差額、これらのものが、単純な商品流通の場合はもちろん、資本の流通においても、どちらの場合にも、流通する貨幣の総量、つまり通貨の総量を規定しているのである。
 だから、このような機能をする貨幣がそれの支払者または受領者にとって資本を表しているか収入を表しているかは、ここでは事柄をまったく変えないのだ。流通する貨幣の総量は購買手段および支払手段という単純な商品流通における貨幣の機能によって規定されているのである。〉


 このようにここでは、マルクスは銀行学派の「混乱」した主張がどういうものかについては、ほとんど紹介していない。ただこの一文から想像できるのは、銀行学派は貨幣の総量をそれが収入を実現するか、資本の移転を担うかというより進んだ規定にとらわれて、それを間違って計算しているということだけである。それがどのように間違っているかについては何も述べていない。それにこのb)はa)やc)比べて不釣り合いに思えるほど簡単である。
 これはどうしてなのであろうか? もちろん、それはこれがノートだからではあるのだが、実は、この銀行学派の貨幣の流通量の混乱した主張の批判は、マルクスはすでに第2巻でやっているのである。マルクスがこの第3部の第1草稿のこの部分を書いている時には、すでに第2部の第1草稿が書かれていたと想像される(マルクスは第1草稿を書いたとき、第2部より第3部を先に書きはじめており、途中から第2部に移り、再び第3部を書くという複雑な書き方をしているのであるが、大谷氏は第3部の第4章[篇]の手前で第2部の執筆に移ったと推理している)。
 またこの問題を、マルクスは1861~3年の草稿でも取り上げており、マルクスにとってはすでに解決済みの問題であったことはいうまでもない。だから恐らくマルクスにとってはすでに何度も取り上げた問題でもあり、ノートということもあって、それを再び詳しく繰り返す愚を避けたのであろう。
 では、それはどういう誤りだったのか、簡単に紹介しておこう。

 マルクスは第2巻の第17章「剰余価値の流通」のところ(われわれは第2部の第1草稿ではなく、現行版を参考にする)で、トゥックら銀行学派が、彼らの論敵(通貨学派)から問いかけられながら答えていない問題、すなわち「如何にして資本家は、流通に投げ入れるよりも多くの貨幣をたえず流通から引き上げうるのか」という問題を取り上げている。結局、その回答は例え剰余価値分が含まれその分だけ価値が増大した商品資本を流通に投げ入れたとしても、貨幣流通の分量については単純な商品流通の法則が支配するのであって、その商品が資本制的に生産されたかどうかは、流通に必要な貨幣額の分量を絶対に変化させないのだ。だから問題そのものが最初から存在しない、と答えている。もしどうしても商品流通に必要な貨幣量を問うなら、それは一国の商品流通に必要な貨幣はどこから来るかという一般問題になるのだ、とも。

 またマルクスは第2巻の第20章「単純再生産」においても、次のように述べている。

 《すでに見たごとくA・スミスにあっては、社会的総生産物価値の全体が収入すなわちv+mに分解され、したがって不変資本価値はゼロだとされる。だから必然的に、年収入の流通に必要な貨幣は年生産物全体の流通のためにも十分だということになり、したがってわれわれの場合では、9000の価値ある消費手段の流通に必要な貨幣は9000の価値ある年生産物全体の流通のためにも十分だということになる。これが事実上A・スミスの見解であって、それがT・トゥックによって繰り返される。/収入の貨幣化に必要な貨幣分量が社会的生産物全体の流通に必要な貨幣分量に対する関係についてのこの誤った表象は、年生産物全体の種々の質料的および価値的要素がいかに再生産され、年々補填されるかについての、無理解で無思想な表象の必然的な一結果である。》

 そしてマルクスはスミスとトゥックの著書から彼らの誤った主張を引用しているが、その紹介は割愛する(もし興味があれば、各自、第2巻全集版586-7頁を見てもらいたい)。ようするに、それはどういうことかというと、スミスは例のマルクスが名付けた「v+mのドグマ」から、不変資本の流通を見ずに、社会の総生産物の流通を、収入の流通に解消する、つまり社会の総生産物の流通に必要な貨幣量を収入の流通に必要な貨幣量とするのだが、それをトゥックは資本の流通では信用が媒介されて、実際上は貨幣は流通しない、だから結局は商人と商人との取引の総額(実際に貨幣が譲渡される額)は、商人と消費者間の取引総額によって決定され限定されると主張して、スミスの主張を引き継ぐのである。つまりこの場合も、彼らはこういう現実の流通の素材的な面だけに注目して、スミスの誤りを繰り返すのだ。(なお大月書店刊『資本の流通過程』[『資本論』第2部第1草稿]222-3頁、同書店刊『資本論草稿集』8)「経済学批判(1961-1863年草稿)V」313-318頁も参照)
 とりあえず、b)の説明はこれぐらいにしておこう

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