無料ブログはココログ

« 林理論批判(1) | トップページ | 林紘義著『変容し解体する資本主義』批判ノート(2) »

2015年6月 9日 (火)

林理論批判(2)

〈社会主義における「分配」はいかになされるか〉批判ノート

《『海つばめ』1236・1237合併号(2014.10.19)【4~6面】社会主義における「分配」はいかになされるか――消費手段の「価値規定」問題――「価値移転」ドグマとの訣別が“解決”の鍵》の批判的検討(の続き)

§§論文本分の検討

  項目は、そのまま掲載していく。林氏の本文はほとんど各パラグラフごとに問題があり、だからほとんど各パラグラフごとにコメントを入れざるをえない状態である。だから読むものにとっては林氏の論文が寸断され、その関連が分からず、読みにくいかも知れないが、しかし想定する読者としては、林論文を一通りは目を通されていることを期待している(論文全文はここで見ることができる)。よって、その点はご容赦ねがいたい。

◆1、我々の前に提起された理論課題

  ここには細かいことで気付いたことは色々とあるが、特に引用してコメントするほどのことでもない。ただ林氏はスターリ主義者を批判したつもりになっているのだが、何度もいうが“ミイラとりがミイラになってしまっている”ことに気付いていない。林氏はスターリン主義者は市場社会主義だけを唱えているかに書いているが、以前のセミナーのレジュメでは、共産党系の雑誌『文化評論』に掲載された座談会を紹介していたが、そこでは「価値規定による分配問題」が論じられていたのである。『プロメテウス』(以下、『プロメ』)No.55・56を批判した時にも書いたが(この文書もいずれ公開する予定である)、彼らもまた将来の社会主義における「価値規定による分配」について論じ、それがあたかも社会主義の中心問題であるかに論じていたのである。だからこそ林氏も「社会主義の概念の根底」に個人的消費手段の分配問題を置き、それに拘っているのではないか。つまり林氏自身が、自分が批判するスターリニスト達と同じ土俵の上に立ってしまっているのである。しかしこれもすでに以前にも指摘したが、社会主義を分配問題から接近するのは俗流社会義者のやることである。社会主義の概念をいうならまずその生産様式を問わなければならず、だから少なくとも社会の生産を担う労働が直接社会化されるということについて言及すべきなのに、林氏の視野にはこうしたことが全くと言ってよいほど入っていないのである。これで果たして『資本論』の冒頭の商品論・貨幣論を真剣に研究したのかと思わざるを得ないほどである。私は以前、『資本論』を読む会のブログで、『資本論』の一文を解読するなかでこの問題について触れたので、それを少し紹介しておこう。それは「第3章 貨幣または商品流通」の「第1節 価値の尺度」の第3パラグラフにつけられている注50に関連して書かれたものである。(このブログについてはここを参照)。 

 【ところで、以前、将来の社会主義において「価値規定にもとづく分配」は如何にして可能かということが議論になりました。それを説明するために、マルクスの再生産表式を参考にして、いろいろな図案を使って説明したりしたものもありました。
 しかし今回のマルクスのこの注50の主張と関連させて考えてみると、将来の社会で個人的消費手段の分配が「価値規定(労働時間)」にもとづいて可能かどうかという以前の問題として、そもそも将来の社会ではすべての労働を直接社会化することが、果たして可能なのかどうかがまず問われなければならないのではないかという疑問が生じます。
 もしそれが可能なら、労働生産物はもはや商品にはならないし、貨幣も不要になり、〈労働証券は、ただ、共同労働に対する生産者の個人的分担と、共同生産物のうち消費に向けられる部分に対する彼の個人的請求権とを確認するだけ〉になるでしょう。つまり個人的消費手段の分配は直接労働時間を基準に行われるということになるはずではないでしょうか。
 ところが以前の議論では、こうした視点はほとんど無かったように思えます。そればかりか、今日のような高度に分業が発展し、国民的あるいは国際的に広範な社会的規模で、生産が高度で複雑な社会的な関係にあるような社会では、もはや労働者(生産者)は、それぞれの労働時間を交換することは不可能であるとか、物々交換によって、社会全体の生産や分配の問題が解決するなどということはありえないという主張がなされたのでした。
 確かにマルクスも将来の社会では労働者は生産物を交換することはないと述べています。しかし、その理由は「高度な分業の社会」だからとか、「生産が高度で複雑な社会的関係のもとで行われている社会」だからということではありません。マルクスは次のように述べているのです。  〈生産手段の共有を土台とする協同組合的社会の内部では、生産者はその生産物を交換しない。同様にここでは、生産物に支出された労働がこの生産物の価値として、すなわちその生産物にそなわった物的特性として現われることもない。なぜなら、いまでは資本主義社会とは違って、個々の労働は、もはや間接にではなく直接に総労働の構成部分として存在しているからである。〉(『ゴータ綱領批判』全集19巻19頁)

 つまりマルクスの場合、将来の社会で〈生産者がその生産物を交換しない〉としているのは、生産者の労働が直接社会化されているからだということです。労働が直接社会的なものとして最初から支出されるから、だからそれらの生産物の交換によって労働の社会的な関係を事後的に実証・確認する必要がないのです。だからやはりもっとも問われなければならないのは、労働を直接社会化し、個々の労働を直接に総労働の構成部分として位置づけることが果たして可能かどうかということではないかと思います。
 また労働者が互いの労働を交換するということについても、マルクスは次のように述べています。

 〈ここでは明らかに、商品交換が等価物の交換であるかぎりでこの交換を規制するのと同じ原則が支配している。内容も形式も変化している。なぜなら、変化した事情のもとではだれも自分の労働のほかにはなにもあたえることができないし、また他方、個人的消費手段のほかにはなにも個人の所有に移りえないからである。しかし、個人的消費手段が個々の生産者のあいだに分配されるさいには、商品等価物の交換の場合と同じ原則が支配し一つのかたちの労働が別のかたちの等しい量の労働と交換されるのである。〉(『ゴータ綱領批判』同上20頁)

 だから社会主義における個人的消費手段の分配では、等価物交換の場合と同じ原則が支配し、一つの形の労働が別の形の等しい量の労働と交換されるというのです。
 いずれにせよ、もし「高度な分業の社会」だからとか、「生産が高度で複雑な社会的関係のもとで行われている社会において」だから、などという理由を持ち出すなら、それは将来の社会主義の社会では、労働者(生産者)は互いの労働を直接社会的に計画的に配分し、関連させて支出することは不可能だと述べていることに、よって社会主義など不可能だということになりかねません。
 以前の議論では、「社会主義の概念の根底」とは何かが問われ、「社会主義における『分配』の問題」を解決することこそ、「"科学的社会主義"の概念の重要な契機」であり「その神髄」だと強調されたのでした。
 確かにマルクスも『ゴータ綱領批判』では、資本主義から生まれた直後の共産主義の最初の段階、つまり社会主義における個人的消費手段の分配問題を論じています。しかし、実は、マルクスの場合は、それが社会主義の概念の重要な契機をなすと考えるからそうしているのではないのです。そればかりかマルクスは社会主義を個人的消費手段の分配問題から論じることそのものを批判するために、『ゴータ綱領批判』で敢えてその問題を論じているのです。多くの論者はそうしたマルクスの意図を読み違えています。というのは、マルクスは多くの論者がよく引用する部分を論じた後で、次のように補足的に断っているからです。

 〈私が、一方では「労働の全収益」に、他方では「平等な権利」と「公正な分配」とにやや詳しく立ちいったのは、一方では、ある時期には多少の意味をもっていたがいまではもう時代おくれの駄弁になっている観念を、わが党にふたたび教条として押しつけようとすることが、また他方では、非常な努力でわが党にうえつけられ、いまでは党内に根をおろしている現実主義的見解を、民主主義者やフランス社会主義者のお得意の、権利やなにやらにかんする観念的なおしゃべりでふたたび歪曲することが、どんなにひどい罪悪をおかすことであるかを示すためである。
 以上に述べたことは別としても、いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであった。
 いつの時代にも消費手段の分配は、生産諸条件そのものの分配の結果にすぎない。しかし、生産諸条件の分配は、生産様式そのものの一特徴である。たとえば資本主義的生産様式は、物的生産諸条件が資本所有と土地所有というかたちで働かない者のあいだに分配されていて、これにたいして大衆はたんに人的生産条件すなわち労働力の所有者にすぎないということを土台にしている。生産の諸要素がこのように分配されておれば、今日のような消費手段の分配がおのずから生じる。物的生産諸条件が労働者自身の協同的所有であるなら、同じように、今日とは違った消費手段の分配が生じる。俗流社会主義はブルジョア経済学者から(そして民主主義者の一部がついで俗流社会主義から)、分配を生産様式から独立したものとして考察し、また扱い、したがって社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方を、受けついでいる。真実の関係がとっくの昔に明らかにされているのに、なぜ逆もどりするのか?〉(同上21-2頁、下線は引用者)

 ここではマルクスは、もっとも原則的な観点を私たちに教えてくれています。すなわち〈いつの時代にも消費手段の分配は、生産諸条件そのものの分配の結果にすぎない。しかし、生産諸条件の分配は、生産様式そのものの一特徴である〉と。だから将来の社会主義の社会についても、その分配を論じる前に、まずその生産の様式そのものを論じるべきであり、それこそが社会主義の概念をわれわれに与えてくれるものだということです。
 今回の注50でのマルクスの主張を参考に、「社会主義の概念の根底」なるものを考えてみると、それは次のように考えるべきではないかと思います。

 社会主義の概念の根底を問うなら、やはり社会的生産における人間の社会的な関係が直接的なものになるということではないでしょうか。生産における人間の互いの関係が、各人の自覚と自主的・意識的な参加によるものになるということです。それはすなわち社会的な物質代謝を人間が意識的に管理・統制する、出来るということでもあります。これがまた労働が直接社会化されるということの内容でもあるのです。だからこそ、人間は自分たちの社会的関係を自分たち自身から疎外された形態で持つことはなくなり、だからまた人間による人間の支配や隷属の関係もなくなり、人間は自分たちの社会的行為そのものを何か外的な第三者や物的関係によって代表させ、それによって逆に支配され統制されるようなこともまた無くなるということでもあるのです(だから社会は彼ら自身のもの、彼らが自覚的に取り結ぶものになるわけですから、彼らの社会的関係は、私的なものと公的なものにも分裂せず、物象的関係としての生産諸関係と政治的諸関係としても分裂せず、だからまた当然、国家も無くなります)。こうして人間は初めて彼らが生産において手にする社会の共有物である生産諸手段を、同時に社会的人間である各人自身に属するものとして、すなわち個人的な所有物としても対処し、だからまたそれらを単なる諸道具としてそれらの主人公になり、生産諸手段に隷属させられるということもなくなるのです。そして労働は依然として必然の領域にあるとはいえ、それ自体が人間の本質力を発現するものとなり、それによって人間は自身の個性を豊かにし全面的な発達を促すものとなり、自己実現の過程になるのです。かくして人間は、その前史を終え、自分たちの歴史を意識的に歩む、その本史を開始するようになるのです。社会主義とはその偉大な歴史の端初をなすものではないでしょうか。
 そもそも社会的な生産や分配が、直接労働時間をもとに組織され得るということは、このように、人間の労働が直接社会化されたものとして支出されるからに他ならないのです。人間は前もって自分たちの労働を社会の総労働の一部分として自覚的且つ意識的に支出し、社会の総労働の一部分を担うのであり、だからこそ、彼らの労働はその支出される前にすでに彼ら自身の一定の計画のもとに直接社会的に結びつけられており、彼がどの時間になにをするかということは前もってハッキリしているのです。まさに社会的な生産がこうしたものになるからこそ、社会的な分配も意識的に労働時間にもとづいて行うことが出来るようになるのです。こうしたことを確認することこそもっとも重要なことではないでしょうか。】

 しかし何度もいうが林氏にはこうした基本的な認識がまったくと言ってよほど無いとしか思われないのである。社会主義運動を担う革命家としては根本的な欠陥といえる。(続く)

 

« 林理論批判(1) | トップページ | 林紘義著『変容し解体する資本主義』批判ノート(2) »

林(紘義)理論批判」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1480743/60309489

この記事へのトラックバック一覧です: 林理論批判(2):

« 林理論批判(1) | トップページ | 林紘義著『変容し解体する資本主義』批判ノート(2) »