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2010年12月

2010年12月21日 (火)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-9)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-9)

 

 (2)各パラグラフごとの解読(続き)

 

【5】(このパラグラフは、必ずしも【4】に直接続くものではなく--だから〈第2に〉として展開されているものの一部ではなく、a)の項目の中の別の問題を考察しているように思える。)

 〈収入のCirculationとしてのCirculationと資本ののCirculationとしてのCirculationとの区別を, Circulation資本との区別にしてしまうのは,愚にもつかないことである。このたわごとは, トゥックがまさに,銀行券を発行する発券銀行業者の立場に立っていることからきているものである。彼の銀行券のうち, (いつでも別の銀行券〔である〕とはいえ)たえず公衆の金庫やポケット的のなかにあり,流通手段として機能している部分は,彼にとって紙と印刷とのほかにはなんの費用もかからない。それは,彼あての流通する債務証券(手形)であるが,それが彼の手に貨幣をもたらし,したがって彼の資本の増殖の手段として役立つ。しかしそれは,彼の資本(彼自身の資本または借り入れた資本)とは異なるものである。そこから,彼にとってはCirculation資本との区別が生じるのであって,この区別は諸概念規定とはなんの関係もないのであり,当のトゥック自身によってなされた概念規定とはまったく関係がないのである。〉

 だからもう一度a)の内容を確認しておくと、〈機能上の諸規定の混同によって〉というものであった。それを頭に入れて読んでみよう。ただし、上記の内容はかなり説明を加えないと、分からない部分があるので、若干、説明を多くした。

 〈流通を収入の流通と資本の流通に分けて、その区別を「通貨」と「資本」との区別にしてしまうのは馬鹿げたことである。このたわごとはトゥックが発券銀行業者の立場に立っていることから来ている。彼が発行する銀行券のうちたえず公衆の金庫やポケットのなかにあり、流通手段として機能している部分、つまり収入の流通を媒介している部分は、彼にとっては紙と印刷のほかには何の費用もかからない。
 銀行券というのは、本当は銀行が自分あてに振り出す手形であり、だから銀行の債務証書なのだ。銀行は銀行券をもってきた人には無条件で、その額面に値する金を支払わなければならない。だから銀行はそのための準備金を常に用意しておかなければならない。だが、銀行券を手にするすべての人が銀行にそれを求めるわけではない。だから銀行は準備している金貨幣よりも多くの銀行券を発行することができるのだ。だから本当は、紙と印刷のほかには何の費用もかかっていないといっても、それは準備金を上回る銀行券についていいうることだ。しかしそのように銀行業者が意識するかはまた別の話しである。
 銀行券を持っている人々は、特別なことがないかぎり、金貨幣との交換を銀行に請求せずに、その銀行券そのものを金貨幣の代用として、流通手段として使う。だから銀行は銀行券を発行すれば、実質上、貨幣を手に入れたことになるのだ。しかも、もし彼がそれを「利子生み資本」として貸し出せば、彼の資本の増殖の手段として役立つ。
 しかし何度もいうが、それは彼にとっては紙と印刷の外には何の費用もかかっていないように見える。だから彼の資本、つまり彼自身が投下した資本やあるいは預金のように借り入れた資本とは異なるものとして彼には認識されるのである。なぜなら、後者は最初から儲け(利子)を前提にしたもので、彼にとって費用のかかっているものだからだ。投下した資本はその儲けから配当をする必要があるし、預金も預金者に利子(もちろんそれは彼が預金を貸し出して稼ぐ利子より少ないのだが)を支払わなければならない。それが彼には「費用」と映るのである。だから発券銀行業者は、「銀行券」と「自分の資本」とを区別するようになる。
 そして最初にも確認したように、銀行券は一般的には「収入」の流通に使われ、彼のいう「自分の資本」はさまざまな資本家に貸し出されて、「資本」の流通を担う。
 そこから彼--つまりこの場合は発券銀行業者=トゥックのことだが--にとって、また新たな「通貨」と「資本」との区別が生じてくる。もちろんそれはやはり「収入」と「資本」という二つの流通を担う《機能上の諸規定の混同によって》生じているのではあるが、公衆のなかで流通していて(彼らの金庫やポケットの中にあって)銀行に還流して来ない「銀行券」、そしてその限りで彼らには紙と印刷費の他には何の費用もかからないものを「通貨」と見、「自分の資本」の持ち出しに関わるものを「資本」と見るという区別である。
 しかしこの区別は、諸概念規定とはまったく何の関係もないのはいうまでもないが、当のトゥック自身がやっている概念規定、つまり先に見た貨幣が一方は「収入」を実現するから、他方は「資本」の移転に役立つからということで、前者を「通貨」とし、後者を「資本」とする区別ともまったく関係がないのである。〉

 ここでは〈収入のCirculationとしてのCirculationと資本のCirculationとしてのCirculationとの区別を, Circulation資本との区別にしてしまうのは,愚にもつかないことである〉というように〈Circulation〉が翻訳されないまま出てくる。このあたりの事情については、大谷氏は第1パラグラフの注3で次のように述べている。

 〈3) circulation, Zirkulationは,言うまでもなく「流通」の意味にも,「通貨」の意味にも,さらに銀行用語ではイングランド銀行券の「流通高」の意味に用いられる。そしてこの第28章部分では,この語がこの3つの意味で自在に使われている。エンゲルス版でもZirkulationが,同様にこれらの意味で使われているが,エンゲルスはまたしばしば,これらをドイツ語で(Zirkulationsmittel,U mlaufsmittel,Summe der Zirkulationなどのように)訳し分けてもいる。邦訳ではそれらのそれぞれに,エンゲルスの独訳によったりして, 1つの訳を与えている。もちろんそのような訳し分けが不可能であるわけではないが,どちらとも断定できない微妙なケースがあるほか,マルクスが意識的にこの語の両意性を生かしていると考えられるところもあるので,本稿では,草稿でのcirculationまたはCirculationを,この語のまま掲げることにする。〉

 こうした理由から原文のまま紹介されているのであるが、先の一文はどう理解したらよいのかなかなか分かりづらい。特に〈CirculationとしてのCirculation〉という用語が二回も出てきて、 どう理解したらよいのか困るのである(邦訳全集版では「流通としての流通」とそのまま訳しているが)。これは〈流通としての流通〉というような言い方にとらわれず、〈収入のCirculation(流通)〉、〈資本のCirculation(流通)〉をそれぞれ一つの言葉として理解すれば、〈収入の流通という流通と資本の流通という流通との区別を〉と理解すればよいことが分かる。だから〈流通を収入の流通と資本の流通に分けて、その区別を「通貨」と「資本」との区別にしてしまうのは馬鹿げたことである〉と解釈することにした。

 なお、この発券銀行業者の「混乱」は、またあとでも(同じ銀行学派であるフラートン批判のところでも)、彼らが「資本」という言葉で何を考えているのかをマルクスが暴露するところでも出てくるので、何度も、このパラグラフに帰って、その内容を理解することが重要であることを付記しておく。

2010年12月15日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-8)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-8)

 

 (2)各パラグラフごとの解読(続き) 

 

 【3】(これはノートの329頁上段の始めから書かれており、本文であるが、全体が( )で括られており、【2】の最後の一文に関連して、それを補足的に説明するために挿入された文であろう)

 〈|329上| (最後の事実は重要なのであって, トゥックがまったく見落としているものである。貨幣が貨幣資本として投下されるときにのみ,すなわち過程の発端でのみ,資本価値は資本価値として存在する。商品には,資本・プラス・剰余 〔Surplus〕〔が含まれており〕, したがって,それに合体された収入源泉を伴っているのである。)〉

 【2】の最後では小売商人たちは毎日、顧客から受け取った金貨や銀行券は取り引き銀行に預金し、その預金の振り替えにって自分たちが発行した手形の支払すること、そして同様にこのように小売商人たちによって預金された金貨や銀行券は、再び消費者としての全公衆によって、彼らの収入の貨幣形態として銀行から直接かあるいは間接に(つまり彼らの雇用者が彼らに賃金を支払うために)引き出され、そして公衆は再び小売商人から消費手段を購入して、たえず彼らの手に金貨や銀行券を還流させるのであるが、しかしこの還流の過程というのは、小売資本の商品資本を貨幣資本へと転換する過程である。つまり小売資本はこの過程を通じて彼らの資本を回収するとともに、彼らの利潤、つまり彼らの収入を実現することでもあるのだ、ということが指摘されていた。今回のパラグラフはこの部分に対する補足説明と考えることができる。ではその内容を書き下してみよう。

 〈最後の事実は重要なのであって、トゥックがそこに「通貨」だけを見て、まったく見落としているものである。同じ貨幣でも貨幣資本として投下される時に、初めてそれが資本になるということ、すなわち過程の発端でのみ、資本価値は資本価値として存在するのである。だから小売商人が売る商品、つまりそれは小売商人が最初に貨幣資本を投じて卸売商人から購入したものであり、だから彼の商品資本なのだが、そこには資本プラス剰余価値が、つまり商人の収入になる源泉が、すでに合体され伴っているのである。〉

これはこれ以上の解説は不要なほど容易に理解できるであろう。

 


【4】 
(これは【2】の本文に直接続くものと考えられる)

 〈しかし第2に,小売商人〔Epicier〕自身にとっては,通貨〔currency〕は彼の資本を補填するのであり,彼の資本の貨幣形態を表わすのだからである。〉

 

 まず、マルクスはここで〈しかし第2に〉と述べている。しかしこれに対応する〈第1に〉というのは見当たらない。これは恐らく【2】の後半部分で〈そして、このこともまた二重にあらわれる〉と述べていたが、この〈二重にあらわれる〉最初のもの、つまり〈第1に〉に該当するものが、そのあとにすぐに続くものであり、だからこのパラグラフはそれに続く〈第2〉のものと考えられる。

 〈二重にあらわれる〉〈このこと〉とは、もう一度確認すると、貨幣の抽象的な規定、つまり通貨としての規定は、より進んだより具体的な収入や資本の規定がそれに付け加わることによっては〈絶対になにも変えない〉ということであった。だからここで〈二重にあらわれる〉というのは、一つは--つまり【2】の最後のところで検討したのは--、主に小売商人が消費者とのあいだで取り扱う抽象的な規定性における貨幣が、すなわち金属貨幣や補助鋳貨などが、収入の実現という機能によって検討された。つまりそこでは彼らは収入の実現という機能だけに注目して、小売商人の資本を補填するという機能を見落とし、ただそこで流通している貨幣の素材的な面だけに注目して、それを「通貨」としたのであった。だからもう一つは--つまりこの【4】では--資本の移転という機能における貨幣を検討することだと予想される。ところがその内容は次のようなものである。

 〈第2に、小売商人自身にとっては、通貨は彼の資本を補填するのであり、彼の資本の貨幣形態を表すのである。〉

 

 このパラグラフは、このように書くだけで、それ以上の展開はないのである。ここらあたりがノートである所以でもあるだろうか? ここでは恐らく資本の移転という貨幣の機能における貨幣の具体的な形態--そこでは取り引きは主要には信用によって媒介されるのだが--、あるいはその素材的な面(例えば預金の振り替えによって、また手形や小切手などの信用貨幣の流通で、貨幣そのものはほんとど姿を表さない現象)に銀行学派がしがみつき、そこで貨幣が果たしている抽象的な機能や規定性を見落としていることを暴露するつもりだったのではないかと想像するのだが、しかしそれはただ想像することしかできない。

2010年12月 7日 (火)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-7)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-7)

 

 (2)各パラグラフごとの解読(続き)

 (今回は前回文章の途中で中断した部分に直接繋がる文章から始まっています。)

 

 全体としてこの部分でマルクスが言っていることは〈銀行学派が通貨と資本との区別として言っていることは、結局は、収入と資本との区別を言っているだけで、彼らはそれを通貨と資本との区別に間違って捉えているのだ〉、〈彼らは通貨と資本とを截然と区別するが、しかし彼らのいう通貨は同時に資本でもあり、彼らのいう資本とは同時に通貨でありうるのだ〉ということである。つまりここではマルクスは銀行学派の「通貨と資本との区別」のいわば直接的な批判を行っていると言える。

 しかし注意が必要なのは、マルクスがここで「通貨」や「資本」と言っている場合、それらは銀行学派が用いている意味合いをそのまま利用して使っているという点である。例えば「資本」という場合、本来なら科学的なカテゴリーとしては「貨幣資本(Geldcapital)」というべき内容であるのに、敢えてそうした厳密なカテゴリーは避けて、ただ銀行学派の用いている用語をそのまま使って、「資本」とのみ述べている。総じてこの第28章該当部分(草稿では「 I 」と番号が打たれている部分)では、用語そのものを銀行学派の使い方をそのまま踏襲しながら、そうした彼らの用いている用語の意味をそのまま捉えたとしても、なおかつそれ自体が矛盾したり破綻していることを論証するという批判の仕方をとっており(だからわれわれが冒頭のパラグラフで最初に確認したような、銀行学派の「通貨」と「資本」との区別に、マルクスが対置していたような科学的な概念--鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本〔Geldcapital〕と、利子生み資本〔moneyed Capital〕とのあいだの諸区別--とその生きた関連を明確に対置するというような形では批判されておらず)、その限りでは、なかなか理解が困難なものになっているのである。その点に留意しながら、引き続く文章も読む必要がある。

 では次は、上記の部分に続くマルクスの一文(「」以下の部分)を検討しよう。

 マルクスは〈銀行学派は「収入」と「資本」との区別を、「通貨」と「資本」との区別として間違って捉えているのだが〉さらに〈次のことによってさまざまな種類の混乱が入ってくる〉と述べて、まず次の三つの事情を列挙している。

 〈a)機能上の諸規定の混同によって
  b)この2つの異なった機能における流通する貨幣の量に関する問題の混同によって
  c)2つの機能で流通する、したがってまた再生産過程の2つの部面で流通する通貨Currenciesの分量の相互間の相対的な割合に関する問題。〉

 

 この三つの「混同」や「問題」から生じる銀行学派の「混乱」を今すぐ理解するのは無理である。それは後にマルクス自身が展開しているので、われわれもそこでこのマルクスのいう銀行学派の「混乱」とはどういうことかを理解することにしよう。
 ただ注意が必要なのは、このa)、b)、c)について、a)はすぐに続く文書のなかで考察されており、b)は【7】パラグラフから、c)は【8】パラグラフから始まるが、このc)の考察がどこまで続いているのか今一つ不明なことである。最後まで続いているようにも思えるのだが、よく分からない。しかし結論は急がず、この点については、おいおい考えていくことにしよう。

 それでは、そのすぐあとでマルクスが考察している、a)の部分をまず検討してみよう。
 つまりここでは〈機能上の諸規定の混同によって〉持ち込まれる銀行学派の〈混乱〉が分析されていると考えられる。では、それはどういうことであろうか?
 ここでもわわれわれはまずマルクスの文章を素直に読むことから始めよう。

 〈貨幣は収入の形態にあれば「通貨」で、資本の形態にあれば「資本」だ、というトゥックの表現のなかにすでに混乱がある。収入の実現であろうと資本の移転のためであろうと、貨幣がどちらかの機能で役立つということは、貨幣は売買または支払において、購買手段または支払手段として、そして広い意味では流通手段として役立つということなのである。こうした単純な商品流通における貨幣の抽象的な規定性は、貨幣がそれを支出する人や受け取る人の計算のなかでもっている、それよりもより進んだ規定、つまりそれが彼らにとって資本を表すか収入を表すかというより具体的な規定性がそれに加わったからといって、こうした貨幣の抽象的な規定性には何の影響も与えないし、それを変えるものでは絶対にないのである。
 しかし銀行学派はこうしたことがわからない。彼らは、経済の表面的な関係、ただ彼らが直接経験する素材的な面しか見ないから、一つの機能、例えばより進んだ貨幣の具体的な機能に注目すれば、他の機能、抽象的な機能を忘れるのである。そして反対に抽象的な機能に注目する時は、より具体的な機能を見落とすのである。だから彼らの混乱も二重に現れている。
 まず、二つの部面、つまり収入の流通を媒介する部面と、資本の流通を媒介する部面とでは、流通する貨幣の種類は確かに違うのだが--そして銀行学派はその素材的な違いにしがみつく--、しかしまた同じ貨幣片、例えば1枚の5ポンド銀行券が、一方の部面から他方の部面に移っていって両方の機能を代わる代わる担うというのも普通に見られることである。
 同じ貨幣片が両方の機能を果たしうるということは、例えば小売商人が自分の資本に貨幣形態を与えるためには、つまりこれは小売商人が自分の商品資本を貨幣資本に転換することであり、その意味では銀行学派が一方でしがみついている資本の移転を媒介する機能を果たすことになるのだが(しかしもちろん銀行学派はこの場合はそれに気づかない)、しかし彼はそれを自分の商品の買い手である消費者から受け取る鋳貨、--つまり銀行学派がこの場合にしがみついている貨幣の素材的な面なのだが--という形態でやるしかないということを考えても、それが必要なことが分かるであろう。つまりこの場合は一つの同じ鋳貨が消費者の収入を実現するという機能と同時に資本の移転という機能も果たしているわけなのだ。
 先に二つの部面で流通する貨幣の種類は違うといったが、本来の補助貨幣、つまり少額のコインは、絶えず小売商人の手のなかにあるとみなすことができる。彼は釣り銭の支払のためにもそれが必要だし、また自分の客からたえずそれを取り戻す。しかし彼はまた金貨幣である鋳貨(イギリスなら半ソヴリン貨やソヴリン貨)や少額の銀行券(例えは5ポンド券や10ポンド券)も受け取るだろう。これらの金貨や銀行券を、彼は毎日、取引銀行に預金し、その預金で自分が商品資本を仕入れた卸売商人などへの支払をやるだろう。その場合、彼は卸売商人に振り出した手形への支払を、銀行預金への指図によって、つまり小切手で行う(自分の預金の振り替えで決済する)。このように、第一の部面では主に補助貨幣や鋳貨、少額の銀行券が流通し、第二の部面では主に手形や小切手といった信用貨幣が流通し、貨幣はその差額を決済する時にだけ使われる。銀行学派がしがみついているのは、こうした両方で流通する貨幣の経験的な違いであり、彼らはこうした素材的な面しか見ることができない。そしてそれらを彼らは何か別々の機能を果たしているかに勘違いするのである。
 しかしいうまでもなく、小売商人によって銀行に預金された、ソヴリン貨や半ソヴリン貨や銀行券は、消費者である全公衆によって、彼らの収入の貨幣形態として、銀行からふたたび引き出され、彼らの収入の実現として役立つ。しかしそのことはそれらが再び小売商人に支払われて、彼れらの手に還流してくることなのだ。そしてそれは彼のために彼の資本を補填してやること、つまり彼の資本の移転を媒介して、そのことによって、彼に資本・プラス・利潤、つまり彼の収入の新たな一部分を実現してやることなのである。〉

 

 この部分はこのように補足して平易に書き直せば、容易に理解できるであろう。マルクスが〈機能上の諸規定の混同によって〉〈混乱〉しているとして述べていることは、銀行学派が貨幣の抽象的な諸規定とより具体的な諸規定との区別ができていないことを指していると考えることができる。ここでマルクスは貨幣の抽象的な諸規定は、それに例えそれよりもより具体的な諸規定や諸機能が加わったとしても何も変わらないと述べていることは重要なことである。貨幣資本や商品資本も資本の循環の一形態であるが、それらが流通の局面に出てくるなら、単なる貨幣や商品として振る舞うのであり、その限りでは単純な商品流通として現象するのだというのがマルクスの述べていることである。そしてそうした抽象的なものとしては貨幣は支払手段か流通手段(購買手段)として、すなわち広義の流通手段として、すなわち「通貨」として機能するのだ、ということである。

 

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