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2010年11月

2010年11月30日 (火)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-6)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-6)

 

 (2)各パラグラフごとの解読(続き)

【2】   

 〈[506] I )収入の支出を媒介し, したがって個人的消費者と小売商人--この範噂には消費者(生産的消費者すなわち生産者とは区別される個人的消費者)に売るすべての商人を含めることができる--とのあいだの交易を媒介するかぎりでの,鋳貨 (貨幣)のCirculation I 。ここでは貨幣は,たえず資本を補填するとはいえ,鋳貨の機能において流通する。そして,一国の貨幣のうちの或る部分は,総流通貨幣のうちこの分量をなしている構成部分はたえず入れ替わるにせよ,いつでもこの機能に当てられているのである。これに反して,購買手段(流通手段)としてであろうと,支払手段としてであろうと,貨幣が資本の移転を媒介するかぎりでは,この貨幣は資本である。この区別に従えば,この貨幣を鋳貨から区別するものは,購買手段としての機能でもなければ支払手段としての機能でもない。というのは,商人と商人とのあいだでも,彼らが互いに現金で買い合うかぎりでは貨幣は購買手段として機能することができるし,また商人たちと消費者たちとのあいだでも,信用が与えられて収入が《まず》消費されてからあとで支払が行なわれるかぎりでは,支払手段として働くことができるからである。だから区別は,第2の場合にはこの貨幣が一方の側(売り手)のために資本を補填するだけではなく,他方の側(買い手)によっても資本として支出されるという区別である。つまり区別は,実際には,収入の貨幣形態と資本の貨幣形態との区別であって,Circulation資本とのあいだの区別ではない。というのは,貨幣の一定の部分が,第1の機能においてとまったく同様に,商人どうしのあいだの媒介物として流通しているのだからである。ところが,次のことによってさまざまな種類の混乱がはいってくる。--a)機能上の諸規定の混同によって, b)この2つの異なった機能における流通する貨幣の量に関する問題の混入によって,c)2つの機能で流通する,したがってまた再生産過程の2つの部面で流通する通貨Currenciesの分量の相互間の相対的な割合に関する問題。 a については,貨幣は一方の形態にあればCirculation(currency)で他方の形態にあれば資本だ,というトゥックの表現のなかにすでに混乱がある。収入の実現のためであろうと資本の移転のためであろうと,貨幣がどちらかの機能で役立つかぎり,貨幣は売買または支払において,購買手段または支払手段として,そして広義では流通手段として機能するのである。貨幣がその支出者たちまたは受領者たちの計算のなかでもっているそれより進んだ規定,すなわちそれが彼らにとって資本を表わすか収入を表わすかという規定は,この点では絶対になにも変えない。そして,このこともまた二重に現われる。2つの部面で流通する貨幣の種類は違うとはいえ,同じ貨幣片,たとえば1枚の5ポンド銀行券は,一方の部面から[507]他方の部面に移って行って両方の機能をかわるがわる行なう。これは,小売商人が自分の資本に貨幣形態を与えるには,彼が自分の買い手から受け取る鋳貨の形態による《ほかはない〔allein〕》ということだけからも必要なことである。本来の補助鋳貨はたえず小売商人〔Epicier〕 の手のなかにあるとみなすことができる。彼は釣り銭の支払のためにたえずそれを必要とし,また自分の客からたえずそれを取り戻す。しかし彼はまた貨幣をも受け取る,すなわち価値尺度たる金属で造った鋳貨,つまりイギリスでならば半ソヴリン貨やソヴリン貨,および銀行券,ことに小額の種類の銀行券,たとえば5ポンド券や10ポンド券をも受け取るのである。これらの金や銀行券を,彼は毎日,取引銀行に預金し,これをもって(自分の銀行預金への指図によって)自分の手形の支払をする。しかし,同様にたえずこの同じソヴリン貨や半ソヴリン貨や銀行券が,消費者としての全公衆によって,彼らの収入の貨幣形態として銀行からふたたび(直接または間接に)引き出され,こうしてたえず小売商人の手に還流し,このようにして彼のために彼の,資本・プラス・収入,の新たな一部分を実現するのである。|〉 

 まずこのパラグラフの冒頭に〈 I )〉という番号が付けられている。これはすでに紹介したように、マルクスが第28章に相当する草稿に「 I 」と番号を打っていると先に紹介したが、実は、それがこの第二パラグラフに打たれている〈 I )〉という番号なのである。ではなぜこれが第1パラグラフではなく、第2パラグラフに打たれているのかについては、確たる判断材料はないと大谷氏は述べているが、同時に同氏は次のようにその理由を推測している。

 〈この「 I )」が、行の左端にあとから書き加えられたもののように見えることを考え合わせると、書き加えのさいに、第1パラグラフの前に書くべきところを、誤って第2パラグラフの前に書いてしまった、と見ることができるかも知れない。〉(「資本主義的生産における信用の役割」(『資本論』第3部第27章)の草稿について」『経済志林』52巻3・4号347頁)

 こうした大谷氏の推測にはやや納得が行かない面が残るが、しかしこの問題については、これ以上はここでは取り扱わないことにしたい。この問題についての私自身の考えや推測については、このレジュメの一番最後でもう一度論じようと思っているが、しかしそれは進展状況次第でどうなるかは分からない。

 さて、この第【2】パラグラフは長文であるが、以下の28章全体のパラグラフの構成を見渡すと、マルクスはこの【2】の216頁(大谷テキストの頁数)の下から4行目の〈ところが、次のことによってさまざまな種類の混乱がはいってくる。--a)......b)......c)......〉と続く前のところまで(上記のテキストのなかに「/」を挿入しておいた)は、銀行学派の「通貨と資本との区別」の問題を総括的に論じており、いわば銀行学派の「通貨と資本との区別」の直接的な批判を加えている部分と読み取ることができる。つまり銀行学派は通貨と資本とを区別していろいろと論じているが、しかし彼らの区別そのものには根拠がないことを、実際に彼らがいう区別そのものの直接的な反省を行うことによって、その区別の根拠のなさを暴露しているのである。そしてその上で、さらに次の三つのことによって《さまざまな種類の混乱が入ってくる》として、詳しく、a)、b)、c)のそれぞれについて見ていっているように思えるのである。だからわれわれも、この長い【2】全体をそうした二つの部分にわけて考えることにしよう。

 ではまず【2】の最初の部分(「/」より前の部分)にはなにが書かれているのか詳しく見ていくことにしよう。われわれは最初からすなおに読んで行こう。マルクスがいろいろと挿入している部分を省略して、また判りにくいところを補足して、全体を流れとして読めば、それは次のように展開されている。

 〈(銀行学派がいうように)収入の支出を媒介するもの、つまり個人的な消費者と小売商人とのあいだの売買を媒介するのは、鋳貨であり、その流通である。確かにここで流通するのは鋳貨だ。つまり狭い意味での流通手段である。一国の貨幣のうちのある部分は、いつでもこの機能に当てられている。(確かにその限りでは銀行学派がそれを「通貨」というのには根拠がある)。しかし、その鋳貨は同時に、たえず資本を補填している。なぜならそれは小売商人--小売商人も資本家なのだ--の資本の運動を媒介するものだからである。それによって小売商人は彼の商品資本を貨幣資本に転換するのだ。(これを銀行学派は見落としている)。だからこの場合、「通貨」との規定に反して、購買手段としてであろうと、支払手段としてであろうと、貨幣が(小売)資本の移転を媒介するのだから、(銀行学派の理屈では)「資本」ということになる。だから、鋳貨は資本でもあるのである。
 だから銀行学派のいう区別に従えば、貨幣が「鋳貨」と区別されて「資本」となるのは、貨幣の購買手段としての機能でもなければ支払手段としての機能でもない。というのは、商人と商人とのあいだでも、(貨幣は支払手段としてだけではなく)彼らが互いに現金で買い合うかぎりでは購買手段として機能することができるし、また商人たちと消費者たちとのあいだでも、(貨幣は購買手段としてだけではなく)、信用が与えられて収入がまず消費されてからあとで支払いが行われるかぎりでは、支払手段としても働くことができるからである。つまりどちらにおいても貨幣は購買手段としても支払手段としても機能しているのだから、だから「通貨」と「資本」とを区別するものは、この二つの機能によるのではないことになる。
 では区別はどこにあるかというと。第1の場合(商人と消費者とのあいだでは)、同じ貨幣が売り手(商人)にとっては彼の商品資本を貨幣資本に転換する(彼の資本を補填する)のに役立つのだが、買い手(消費者)とっては彼の収入をただ支出するのに役立つだけである。それに対して、第2の場合には(商人と商人とのあいだでは)、同じ貨幣が売り手のために資本を補填する(彼の商品資本を貨幣資本に転換する)のに役立つだけでなく、買い手にとっても彼の貨幣資本を商品資本に転換するのに役立つ、つまり全体として彼らは互いに資本を補填し合うという違いだけである。
 だから区別は、実際には、貨幣が一方では収入の支出として役立ち、他方では資本の移転として役立っているというだけのことだ。つまりそれは結局、収入と資本との区別であって、だからこれは決して彼らがいう、「通貨」と「資本」とのあいだの区別ではない。
 しかしこれは当然であって、一国の貨幣のある一定の部分は、第一の機能、つまり収入の支出においてとまったく同じように、商人どうしのあいだの媒介物としても流通しているのだからである。同じ貨幣がどちらの流通にも使われているのだから、一方は通貨で他方は資本だなどといえるはずがない。もしどうしても通貨か資本かを問うなら、第一の場合も貨幣は鋳貨(通貨)でもあれば資本でもあり、第二の場合も貨幣は資本でもあれば、やはり鋳貨(通貨)でもありうるのである。〉

  だいたいマルクスはこのように語っているのである。マルクスの文章をそのまま読めばなかなかわかりにくいところがあるが、このように補足して読めば、それ自体はそれほど難しいことを、言っているわけではないことが分かるであろう。

 (以下、字数制限のために文章の途中であるが、次回に回します。)

2010年11月16日 (火)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-5)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-5)

 

 (2)各パラグラフごとの解読

 それでは各パラグラフごとに見て行くことにしよう。われわれはまず、マルクスの草稿の本文を大谷禎之介氏の翻訳文をそのまま利用させて頂いて、青字(太字)で示し(しかし大谷氏が付け加えているエンゲルスの修正の内容を紹介する「注」やMEGAの注解を紹介する〔注解〕などは、必要なもの以外は煩雑になるので取り上げない。ただし下線はマルクス自身のものである)、そのあとその平易な書き下しを提示し(太字)、さらに必要な解説を加えるという形で、進めることにする。

【1】(このパラグラフは、ノート328頁上段に書かれており、本文である。なお【14】まで本文は続く)

〈卜ゥック,ウィルスン,等々がしている, Circulation通貨--引用者)と資本との区別はそしてこの区別をするさいに,鋳貨としての流通手段と,貨幣と,貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capital)とのあいだの諸区別が,乱雑に混同される〔)〕,次の二つのことに帰着する。--〉

 さてこのパラグラフは、いわばこの第28章全体の導入部分である(あるいはこの導入部分は、28章だけではなくて、マルクスが I 、II、IIIと番号を打った部分全体--つまりエンゲルスが編集段階で設定した章にもとづくなら28-35章全体--に対する導入として書かれている可能性もある)。われわれはこのパラグラフについてはすでに特別に取り上げて論じてきた。しかしやはり、もう一度、全体の平易な書き下しをやっておくことにしよう。それは次のようなものになるだろう。

 〈トゥックやウィルソンなどの銀行学派がやっている「通貨」と「資本」との区別は、結局、次の二つのことに帰着するのだ。彼らはこの区別としていろいろと論じるのはよいのだが、しかしそこで「鋳貨としての流通手段」、つまり単純な流通での貨幣の流通手段としての機能や、あるいは「貨幣」、つまりこれは「本来の貨幣」であり、金無垢の金貨のことだが--こういう貨幣は当然、「蓄蔵貨幣」とか「支払手段」とか「世界貨幣」とかいう機能を果たすわけだ--、総じてこういう単純な流通における商品と区別された貨幣については彼らはまったく理解できないのだ。さらにいえば「貨幣資本」、これはいうまでもなく「資本の流通過程」で運動する貨幣形態をとった資本のことだ。だからこれは、例えば「商品資本」とか「生産資本」という他の資本の諸形態との関連のなかで問題になる貨幣なのだ。こういう貨幣の規定性も彼らにはわからない。そればかりかこういうより進んだ貨幣の具体的な規定をもっとも抽象的な貨幣の機能と混同したり、あっちの規定からこっちの規定へとふらつくばかりなのだ。だから彼らは「利子生み資本」という意味での貨幣資本も分かっていない。 つまり彼らの商売である銀行業者が現実に取り扱っている資本、彼らがmoneyed Capitalと言っているやつだ。ようするに、彼らは「通貨」と「資本」との区別をやるといっていろいろな面から貨幣を論じるのはよいのだが、こうした本当に科学的な概念において貨幣を論じることは出来ないし、その諸区別を明確にすることもできない。ただそれらが乱雑に混同されるだけなのだ。しかし問題はこれらの貨幣の諸規定の「生きた関係」、つまり現実の経済的関係のなかでそれらを具体的にとえらることにある。あるいは経済的な諸範疇の全体系のなかでそれらの諸規定がどういう位置や関係にあるかを知ることなのだ。まあ、これから彼らの主張を具体的に見ていくなかで説明しよう。〉

 ようするに、ここでは銀行学派が「通貨と資本との区別」をするさいの「混乱」を批判することが言明され、そしてその批判の観点は、「鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本との諸区別」を明確にすることだ、つまりそれらの「生きた関係」を明らかにすることだ、ということである。そして銀行学派の「通貨と資本との区別」は結局は、〈次の二つのことに帰着する〉と述べて、以下、二つのことを明らかにすることが示唆されている。
 ところが、問題はこの〈二つのこと〉が何と何を指すのかはなかなか分かりづらいのである。だからわれわれは、この問題はとりあえずは保留して、先に進むことにしよう。

 《エンゲルスの長い挿入部分》

 さて、われわれのこの学習はマルクスの草稿の理解に重点を置き、エンゲルスの編集の解釈にはあまり拘らないことにする予定であるが、しかしここではついでにエンゲルスの長い挿入文を見ておくことにしよう。その詳細な検討は必要ないと思うが、エンゲルスが紹介しているトゥック『通貨原理の研究』キニア『恐慌と通貨』からの一文は検討が必要だからである。なぜなら、これらはマルクスが以下で批判している銀行学派の主張を典型的に示すものと考えられるからである。それらの主張をふまえておくことは、以下のマルクスの批判を理解する上でも役立つと思えるのである。
 まずトゥック『通貨原理の研究』からの一文である。エンゲルスは「原文で挙げる」として英文で紹介しているが、われわれは第25章で紹介されている翻訳文を紹介しておこう。

 〈トゥック。「銀行業者の業務は二様のものである。すなわち,第1に,資本を直接に運用できない人々からそれを集めて,それを運用することができる人々に分配し移転することである。これは資本の流通である。もうひとつの部門は,彼らの顧客の所得から預金を受け入れ,顧客が消費の対象に支出するのにある金額を必要とするときにそれを払い出すことである。これは通貨の流通である。」(トゥック『通貨原理の研究,云々』.第2版,ロンドン. 1844年. 36ページ) 「一方は,一面では資本の集中,他面ではその分配であり,他方は,それぞれの地方の地方的目的のための流通の管理である。」〈同前. 37ページ。)〉

 トゥックは通貨と資本との区別はアダム・スミスが指摘した商人と商人との取引きと、商人と消費者との取引きとの区別に照応するのだ、と述べている(ここでアダム・スミスが「商人」という場合は資本家のことであり、「消費者」とは最終消費者であり、生産的な消費者ではない)。つまり商人と商人との間を媒介するものは資本だが、商人と消費者との間を媒介するものは通貨だというのである。ただトゥックは銀行学派だからそこに銀行を介在させる。つまり銀行業者たちの業務としてそれを説明している。すなわち銀行業者たちの一方の業務は、資本をその直接の用途をもたない人々から集めること、およびそれを、用途を持つ人々に配分または移譲することである。他方の部門は顧客たちの収入からなる預金を受け入れ、顧客たちが彼らの消費目的で支出するために要求するだけの額を払いだすことである。前者が資本の流通であり、後者は通貨の流通である。これがトゥックが『通貨原理の研究』で言っていることである。
 次はキニア『恐慌と通貨』の方である。エンゲルスは〈キニアは……正しい見解にずっと近づいている〉としているが、果たしてどうか?

 〈「貨幣は, 2つの根本的に違う操作を行なうために使用される。商人どうしのあいだでの交換の媒介物としては,貨幣は資本の移転が行なわれるのに役立つ用具である。すなわち,貨幣での一定額の資本と商品での同額の資本との交換である。しかし労賃の支払や商人たちと消費者たちとのあいだの売買に用いられる貨幣は,資本ではなく,収入である。すなわち,社会の収入のうちの,日常の支出に向けられる部分である。この貨幣は不断の日常的使用のなかで流通している。そして,ただこれだけが,厳密な妥当性をもってCurrencyと呼ぶことのできるものである。資本の前貸はまったく銀行やその他の資本所有者の意志にかかっている, --というのは,借り手はいつでも見つかるからである。ところが, currencyの額は,貨幣が日常的支出のためにそのなかで流通している社会の必要にかかっているのである。」キニア『恐慌と通貨』ロンドン,1847,[p.3,4]〉

 キニアの主張も基本的にはトゥックとまったく同じであることが分かる。つまりキニアも商人と商人との間で流通するものを資本とし、商人と消費者との間で流通するもの、つまり収入として使われるものは通貨だといっているにすぎない。トゥックとキニアの相違は前者が銀行の業務を介在させているのに対して、キニアはそうではないというだけの相違にすぎないのである。キニアが補足的に言っていることは、資本の前貸し、つまり投資はその所有者の意志によって決まるが、流通手段の額は、すべての人々の必要によって決まる、ということを言っているのみである。キニアが通貨の量が実際に流通する商品の価格によって定まると言っている限りにおいては正しい。
 しかしいずれにしても通貨と資本との区別として語る分では、トゥックとキニアには相違は無い。だからキニアの方が「正しい見解にずっと近づいている」などというエンゲルスの評価は必ずしも正しいとは言えないであろう。

2010年11月 8日 (月)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-4)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-4)

 

(以下の文章は、28-3に直接、繋がっています。)  もう少し補足しておこう。われわれは『資本論』第1巻第1篇で商品や貨幣について学んだ。そこでは貨幣は最初は金として登場した。しかし今日では、金は貨幣として表面的には通用していない。だからこの第1篇で明らかにされている諸法則は、金が貨幣として通用していた昔のことなのかというと、そうではない。今日の高度に発展した資本主義的生産様式においても、そのもっとも抽象的な法則としてそれらは貫いている。というのは、マルクスが『資本論』第1巻第1篇で考察している単純な商品流通というのは、このブルジョア社会のもっとも表面に現われていて、われわれが直接目に見える形で現象しているものを、その背後に隠されていて、それらを複雑に規定している資本主義的な諸関係や諸法則を捨象して、ただ表面に現われているものをそれ自体として、その限りでは抽象的に取り上げて考察しているものなのである。だからそこで明らかにされている単純な商品流通の諸法則は、現代のブルジョア社会のなかでも、確かに現代に固有の資本主義的な諸関係に規定されているものの、依然としてその中に貫いているものである。法則というものは条件が変われば、その現れ方も変わるが、しかし法則そのものが無くなるわけではない。マルクスも『資本論』第1巻第1篇で明らかにされている貨幣の抽象的な法則は、より具体的な資本主義的な諸関係に規定されて、貨幣がまざまな諸形態をとったとしても、例えば、貨幣資本(Geldcapital)やmoneyed Capitalとしての利子生み資本等々の諸形態のもとでも、そうした抽象的な諸法則そのものはまったく変わらないし、そのなかに貫いているのだ、と、われわれがこれから学習する、この第28章に該当する草稿のなかでも述べている。

 また第2巻に出てくる貨幣資本(Geldcapital)については、これは第3巻に出てくる貨幣資本(moneyed Capital)とは本質的な違いがある。第2巻と第3巻とではその抽象レベルが違うというのは当然だが、それだけでなく、第2巻では資本主義的な再生産における運動諸法則が解明されている。だから貨幣資本はそうした資本主義的な再生産の中にあって運動する貨幣である。それに対して、第3巻に出てくる貨幣資本(moneyed Capital)は、そうしたものとは違って、資本主義的な再生産の外部にあって運動するものなのである。この違いは決してどうでもよいことではない。
 資本主義的な再生産というのは、現在の物質的な冨を生産して、この社会の物質代謝を担い、いわばこの社会を土台として支えているものである。だから貨幣資本(Geldcapital)というのはそうした再生産に関連したものであり、その諸法則を担うものなのである。
 それに対して貨幣資本(moneyed Capital)は、ある意味では再生産過程を「土台」とすれば、その「上部構造」のようなものである。それは土台、すなわち現実の資本の再生産や蓄積からは自立し、まるでそれとは無関係であるかのように一人歩きして、現実資本の蓄積とは比較にならないほどの架空な貨幣資本(moneyed Capital)の膨大な蓄積を生み出す。そこでは一瞬のうちに何億、何十億、いや何百億という巨額の儲けがあったかと思うと、同じようにあっと言う間に何百億という損失を被り、たちまち破産するという悲喜劇が演じられている。それは信用の世界であり、だからあっと言う間に膨れ上がるかと思えば、またあっというにしぼんでしまう。今日では確かにそれはもっとも華やかなものとして取り扱われてはいる。株式や証券、為替、あるいは「デリバティブ」といった名前は聞いたことがあるが何のことかさっぱり分からないような、こうしたさまざまな問題も、すべて貨幣資本(moneyed Capital)の運動がつくりだすものであり、だからこれらはすべて「利子生み資本」の概念なくしては理解できないものである。その意味では「利子生み資本」を概念的に捉え、その運動の諸法則を解明していくことは現代の資本主義社会を解明するうえで非常に重要なことなのである。しかしもちろん、それはあくまでも上部構造の話に過ぎない。上部構造ももちろん土台に反作用を及ぼすし、その限りでは決してどうでもよいものではないが、しかしその限界をしっかり踏まえておくことも重要なことであろう。貨幣資本(moneyed Capital)の運動する世界は、価値も剰余価値も、つまり社会の冨を一切生み出さず、ただ労働者から搾り取った剰余価値の分配を巡って資本家どもが醜い争いを繰り広げる世界であり、労働者には無縁のおどろおどろしい世界なのだ。

 もう一つ次は、最初に草稿を読む上での注意をしておこう。われわれが【1】と番号を打ったパラグラフの前に「[505]/328上/」というパラグラフがある。ここで[ ]で囲った505というのは、MEGAの編集テキストの頁数であるが、そのあとにある「/328上/」というのは、マルクス自身のノートの328頁の上段を意味する。「/」は途中であり、「|」は始まりである。それに対して【15】【18】の最初には「|330下|」「/330下/」と打たれている。これは同じ330頁の下段ということで、最初のものはその始まりを、後者はその途中を意味している。
 マルクスはノートをとる時、ノートの上下半分の所に折り痕をつけて上下を区別し、上半分にはテキストの本文を書き、その本文の必要部分にアルファベットで注をつけ、その注を下半分に書くようにしていた。またマルクスは、先に「雑文」とか「混乱」とかに分類されたもの、つまり諸著作からの摘要や諸資料などからの抜き書きとコメントについては、こうした折り痕を無視して上から下までびっしり書いており、だから実際にマルクスの草稿のナマ原稿を見れば、それが本文なのか、あるいは原注なのか、それとも本文を書くためかあるいは後の研究のための資料として抜き書きしたものであるのかは、一目で分かるようにしていたのである。
 ところがエンゲルスはマルクスの草稿を編集するにあたり、ミミズの這ったようなエンゲルスでさえ読みにくいマルクスのノートを、とにかく最初はすべての草稿を編集用に清書するところから始めなければならなかった。エンゲルスは途中でその作業を秘書を雇って口実筆記でやったのだが、そのためもあってか、こうしたマルクスのノートのとり方をまったく無視して、清書原稿を作ってしまうことになったと想像されている(大谷氏はそう推測している)。そのことがエンゲルスが実際の編集の過程において、本文そのものの中に原注を原注としてではなく、本文としてそのまま差し込んでしまったり、「雑文」や「混乱」と分類される本来は資料として準備されたものからも本文を構成してしまったり、あるいはそれらを本文のさまざまなところに挿入して本文の繋がりを見えにくくしたり、本文自体を膨らませることになってしまった主要な理由と考えられるのである(これも大谷氏の推測)。
 だから、われわれは草稿を読む場合、それがマルクスのノートの上段に書かれているものか、下段に書かれているものかに注意しながら読まなければならない。つまり上段部分として書かれているものが、本文として続いている一連の文章であること、それに対して下段のものはそれに対する原注として書かれたものだということである。だから続き具合が判りにくい場合(この大谷氏の翻訳文は、そうした分かりにくさがある)、とりあえず原注部分は飛ばして本文だけを一通り読み通すのも一つの読み方として考えられるであろう。
 なおついでに付け加えておくと、エンゲルスはマルクスの第5篇の部分の草稿について「ここには、出来上がった草稿はなく、仕上げの輪郭たるべき梗概さえもなく、ただ、一度ならず注意書きか評言や抜粋の形での資料やの無秩序な堆積に終わる仕上げかけたものがあるだけだった」と述べているが(第三巻「序言」)、しかしこうしたエンゲルスの評価も、多分にノートのとり方によって区別しているマルクスの草稿の上記の特徴を読み取れなかったエンゲルス自身に責任があるように思える。なぜなら、マルクスの草稿は、そうしたマルクスのノートのとり方を十分に踏まえて読めば、決して「無秩序な堆積」といったものではなく、いまだ骨格だけに終わっている感もないとは言えないものの、基本的なものは論じられているように思えるし、また整然と展開されているようにも思えるからである。そのことは、実際に、この第28章に該当する部分を、これから詳細に検討していけば、分かることである。

 (なかなかパラグラフごとの解読が始まらないが、次からは、いよいよそれに取りかかります。)

2010年11月 2日 (火)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-3)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-3)

 

3、大谷氏の論文(マルクスの草稿)の検討

 1)、冒頭のパラグラフの解釈について

 エンゲルスは第28章に「流通手段と資本。トゥック及びフラートンの見解」という表題をつけている(草稿ではすでに述べたように、ただ「 I )」と番号が打たれているだけである)。大谷氏はすでに紹介したように、草稿のこの部分では「銀行学派による通貨と資本との区別の批判」がされていると説明していた。つまり、われわれが検討するこの草稿は「貨幣資本(moneyed Capital)論」の本論が始まる最初の部分、すなわち「利子生み資本」が実際に運動するその具体的諸形態の分析が始まるのだが、しかしこの第28章の部分は、そのためのいわば前置きとして、それに関連する諸学説をまず片づけておこうとマルクスは考えたように思える。
 マルクスは第27章に該当する草稿の終わり近くで次のように述べている。

 《これまで(つまり第27章に該当する部分で--引用者)われわれは主として信用制度の発展(そしてそれに含まれている資本所有の潜在的な止揚)を、主として生産的資本に関連して、考察した。いまわれわれは、利子生み資本そのもの(信用制度による利子生み資本への影響、ならびに利子生み資本がとる形態)の考察に移るが、そのさい総じて、なお若干のとくに経済学的な論評を行わなければならない。》(大谷禎之介訳『経済志林』第52巻第3・4号43-4頁)

 つまり第28章は、マルクスがここで「行わなければならない」と言っている「若干のとくに経済学的な論評」部分に該当すると考えられる。つまり銀行学派の主張を取り上げて、それを批判しているのである。

 それではまず最初のパラグラフを見てみよう。
 この部分は、大谷氏によれば、エンゲルスの断りのない修正が施されているところである。そしてそのために、多くのマルクス経済学者たちを惑わせてきたところでもある。確かにこの部分の理解は極めて重要であり、その意味では、エンゲルスの断りのない修正は罪が深いと言わざるを得ない。マルクスは次のように書いている。

 《トゥック、ウィルソン、等々がしている、Circulation〔通貨--引用者〕と資本との区別は、そしてこの区別をするにさいに、鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本(英語の意味での moneyed Capital)とのあいだの区別が、乱雑に混同される。次の二つのことに帰着する。--》

 しかしエンゲルスはこの部分を次のように書き換えたのである。

 《トゥーク、ウィルソン、その他によってなされる流通手段と資本との区別は、--そこでは、貨幣・貨幣資本一般・としての流通手段と、利子生み資本(英語でいうmoneyed Capital)としての流通手段との区別が、ごっちゃに混同されるが、--次の二つのことに帰着する》(青木書店版)

 このようなエンゲルスの書き換えでは、確かに何が何だか訳が分からないものになってしまっている。しかしエンゲルスの批判をすることがここでの本旨ではないので、とりあえず、われわれはエンゲルスの修正には取り合わないでおこう。問題はこの冒頭のパラグラフを正しく理解することである。ではそれをどう理解したらよいのか。

 まず、ここで重要なのは、マルクスがトゥックやウィルソン等々がしている「通貨と資本との区別」について、そもそもそうした銀行学派がいうところの区別そのものが正しくないと見ていることである。もちろん、銀行学派が貨幣をさまざまな規定性で捉えようとしたことそのものには積極的な意味があるとマルクスは評価している。『経済学批判』には次の一文がある。

 《これらすべての著述家たち(トゥック、フラートン、ウィルソンなど--引用者)は、貨幣を一面的にではなく、そのさまざまな諸契機において把握してはいるが、しかし、貨幣のこれらの契機相互間の生きた関連にせよ、経済的諸範疇の全体系との生きた関連にせよ、なんらかの生きた関連を把握することなく、貨幣を単に素材的に把握しているだけである。》(草稿集第3巻427頁)

 銀行学派は「貨幣を単に素材的に把握しているだけである」というマルクスの指摘が重要である(それはおいおい分かるであろう)。マルクスは、銀行学派の「通貨と資本との区別」に対して、「鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本との間の区別」を「対置」しているのである。つまり銀行学派は「貨幣を単に素材的に把握して」「通貨と資本との区別」を論じているのに対して、マルクスは科学的には「鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本との間の区別」を明確にしなければならないのだと述べているのである。そしてここで「科学的に」と言ったが、その内容も先の『経済学批判』では「貨幣のこれらの契機相互間の生きた関連」、「経済的諸範疇の全体系との生きた関連」と述べており、「生きた関連を把握すること」こそが重要だとマルクスは述べていることが分かる。それが銀行学派には分かっていないのだ、と。
 だから問題は、「鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本との間の区別」を科学的に、すなわち「生きた関連において」如何に捉えるべきなのか、ということである。ではその「生きた関連を把握する」とはどういうことなのか、しかしそれはまさにマルクスが以下の論考で考察しようとしていることなのである。

 2)、各パラグラフごとの解説

 (1)はじめに

 われわれは大谷氏が翻訳されたマルクスの草稿を、各パラグラフごとに、つまり大谷氏が分けている部分ごとに番号を記して(【1】~【54】)、それぞれについて、とにかくマルクスの草稿そのものを平易に書き直すことから始めよう。そしてそこでは何が問題になっているか、それは全体のなかでどういう意義をもっているのか等々についても可能な限り解明していくことにしよう。

 しかしその前に、すこし補足しておくべきことがある。
 「鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本との区別」という、このマルクスが述べている「四つの範疇」のそれぞれについて、少し復習しておこう。

 まず「鋳貨としての流通手段」については、これは『資本論』第1巻第1篇第3章第2節に出てくる「流通手段」と同じものである。マルクスはこの「鋳貨としての流通手段」と後に出てくる「支払手段」とを合わせたものも、「流通手段」とも述べている場合がある。だから前者を「狭義の流通手段」、後者を「広義の流通手段」と区別する場合もある。しかし「鋳貨としての流通手段」という場合は間違いようがないのであり、それは明らかに「狭義の流通手段」を意味するのである。

 次は「貨幣」についてである。これは同第3章第3節に出てくる定冠詞のない「貨幣」である。マルクスはこれを「第三の規定における貨幣」とか「貨幣としての貨幣」「本来の貨幣」とも述べている。だからこの「貨幣」の中には「蓄蔵貨幣」(そして『経済学批判』では、「鋳貨準備金」が入っている)と「支払手段」と「世界貨幣」が含まれているのである。

 次の「貨幣資本」であるが、これについてはすでに述べたが、第2巻「資本の流通過程」で「商品資本」や「生産資本」と区別された貨幣形態をとる資本のことであり、マルクスはmoneyed Capitalと区別するためにGeldcapitalとドイツ語で表記し、「貨幣としての資本」ともいったりしている。

 「利子生み資本」については、もはや多くを語る必要はないであろう。第3巻の「貨幣市場」において運動する「貨幣資本(moneyed Capital)」のことである。

 このようにして見てくると、最初の「鋳貨としての流通手段」と「貨幣」とは、第1巻第3章「貨幣または商品流通」に出てくるものであることが分かる。マルクスは『経済学批判』の最後のあたりで銀行学派の批判をやっているが、そこで次のように述べている。

 《総じてこれらの著述家たち(銀行学派たち--引用者)は、まず最初に抽象的な姿で、すなわち、単純な商品流通の内部で展開されるような、そして、過程を経過する諸商品の連関自体から生じてくる姿で、貨幣を考察することをしない。だから彼らは、貨幣が商品との対立のなかで受け取るもろもろの抽象的な形態規定性と、資本や収入などのような、もっと具体的な諸関係をうちに隠している貨幣のもろもろの規定性とのあいだを、たえずあちらこちらと動揺するのである。》(草稿集第3巻427-8)

 つまり銀行学派はこうした「鋳貨としての流通手段」や「貨幣」という単純な商品流通の内部で展開される規定性における貨幣を概念的に理解できず、もっと具体的な収入や資本などの規定性と混同するのである。あるいはそれらの諸規定の抽象レベルを理解することなく、あっちの規定からこっちの規定へと動揺をくりかえすのである。
 だから「貨幣資本」が第2巻で主に取り扱われ、「利子生み資本」が第3巻の貨幣市場で運動する貨幣である、というように、われわれがこれまで敢えて第1巻第2巻第3巻と『資本論』でのそれらが主に取り扱われている巻数を上げたのは、それらの諸規定の抽象レベルを確認するためでもあるのである。
 すでに紹介したように、マルクスは同じ『批判』のなかで、銀行学派は《貨幣のこれらの契機相互間の生きた関連にせよ、経済的諸範疇の全体系との生きた関連にせよ、なんらかの生きた関連を把握することなく、貨幣を単に素材的に把握しているだけである》と述べていた。諸範疇が主に取り扱われている『資本論』の巻数を確認することは、だから《経済的諸範疇の全体系との生きた関連》を把握するためにも役立つと考えたわけである。

 要は、問題はこれらの諸範疇の「生きた関連である」とマルクスはいう。それをわれわれは、以下に見て行こうとするわけである。ただあらかじめ断っておくと、マルクス自身は以下では(28章の部分では)、必ずしも最初に上げたこれらの諸範疇に沿って問題を展開しているわけではない。それはどうしてなのかは、また適当なところで説明することになると思う。とにかくわれわれは徹底的に平易に解説することを心がけ、第3巻を読んでなくてもわかるようにしたいと思っている。(以下、字数制限の関係で中断するが、この項目はあと少し次回にも続きます)。

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