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2010年10月

2010年10月23日 (土)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-2)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-2)

 

 (28-2)も(28-1)と同様に、草稿を研究するための予備知識である。 

2、「利子生み資本」、「貨幣資本」の概念について

 もちろん「利子生み資本」とは何か、それはどんな運動をするのか、ということを第5篇全体でマルクスは問題にしているのだから、それをここでわざわざ説明するのはおかしなことかもしれない。しかし最初にも疑問が出たように、やはりこの問題は簡単にでも説明しておかなければ先に進めない。またこの問題でも、例によってエンゲルスの編集のために混乱があり、やはり第28章の当該部分を検討する前に、簡単にでも説明しておくことが適当であろう。

 1)、「利子生み資本」とは?

 「利子生み資本」とは読んで字のごとく、「利子」を「生む」「資本」である。われわれが銀行にカネを預けると雀の涙にもならない「利子」がついてくる。つまり「利子」を「生む」。ではこのわれわれが銀行に預けるカネを「利子生み資本」というのかというと、もちろん、そう言っても間違いではない。しかしマルクスが論じているものからすればそれは派生的なものである。マルクスがここで論じているのは、そうではなく、われわれから集めたカネを銀行は企業に貸し出す、そのときのカネをマルクスは「利子生み資本」として分析の対象にしているのである。銀行は企業から受け取る利子とわれわれに払う利子との差額で儲けているわけだ。「利子生み資本」とは主要には銀行が企業に貸したり、返してもらったりしているカネのことである。
 われわれが知っている貨幣は、第一巻や第二巻では商品や商品資本の流通に使われた。それは商品と持ち手を変えて流通していくものであった。商品所持者は商品を手放す代わりに貨幣を手にした。つまり商品所持者は決して彼が持っている価値そのものは手放さずに、ただその価値の形態を商品から貨幣に変えただけだった。ところが銀行は貨幣を企業に貸し出す場合、彼は価値そのものを手放すのである。これが貸し借り、つまり貸借という独特の「利子生み資本」としての貨幣の運動を特徴づけるものである。「取り戻しを条件とする一時的な価値の手放し」を「貸借」というのである。そしてこの貸借こそ信用関係を形成するのである。
 「利子生み資本」とは、こういう貸借を通じて運動する貨幣のことである。だからそれは信用制度の下で運動するわけだ。銀行は出来るだけ有利な条件で貨幣を貸し出し、高い儲け(利子)を得ようとする。それに対して企業はまた出来るだけ有利な条件で資金を調達し、それを使って儲けようと(つまり産業利潤や商業利潤を上げようと)する。銀行にとって有利な貸し出しとは、つまり高い利子で貸し出すことである。それに対して企業にとって有利な資金調達とは低い利子で借り出すことである。だからここに「貨幣市場」なるものが生まれる。彼らは貨幣そのものを「商品」として“売買”するのである。もちろん、“売買”とはいうが、実際は「貸し借り」である。ただ貨幣市場では貨幣そのものが取引きされるために、あたかも貨幣そのものが商品として売買されるかの外観を得るわけである。そしてこの場合の「貨幣商品」の「価格」とはすなわち「利子(率)」のことである。商品市場では、商品の購入者は出来るだけ安く買おうとし、売る人は出来るだけ高く売ろうとするように、貨幣市場でも貨幣を売る人(貨幣を貸し出す人)は出来るだけ高く(つまり高い利子で)売ろうとする(貸し出そうとする)し、また貨幣を買う人(借り出す人)は出来るだけ安く(低い利子で)買おうとする(借りようとする)わけである。しかし商品の売買の場合は、もちろん売買当事者の駆け引きや需給によって市場価格は上下するが、しかしそれはおおむね商品の価値(生産価格)を中心に上下するのであって、長くスタンスをとって平均すれば、商品の市場価格はおおむねその商品の価値(生産価格)に一致する。ところが貨幣市場における貨幣の価格(利子)には、こういう商品の価値(生産価格)のような価格の“中心”になるようなものは無い。一方に貨幣の需要者があり、他方にその供給者があって、その需給によって利子(率)は決まってくるのだ、とマルクスは言っている。もちろん上限はある。利子といっても剰余価値の分岐したものである。だから産業資本や商業資本の稼いだ利潤以上に利子が上がることはありえない。
 しかしそんなことなら、そんなに難しいことはないではないか、というのか。確かにそうなのだ。ただここから奇妙なことが始まるのである。前に貸借とは「取り戻しを条件に一時的に価値を譲渡すること」だと言った。そしてそれは信用関係だとも。カネを借りる人は返済を約束する。しかし口約束ではなかなか「信用」できないし、証拠もない。だからそれを証文に書く。法的契約書だ。こういう類の契約書を一般的には「手形」という。大体においてカネを借りる人がいついつまで返済しますという証文を書くのだが、その反対の場合もある。こういうものはだいたい「紙切れ」に書かれるものだが、だからこの「紙切れ」はそれを持っていけばカネを手に入れることが出来る証文になるわけだ。だからこういうものを「貨幣請求権」という。つまりこういう貸借を記した紙切れは貨幣請求権を表している。そしてそれがすなわち「信用」そのものなのである。そしてこの「貨幣請求権」、つまり「信用」が実際上、貨幣と同じように通用し、流通することになる。そして奇妙がことがそこから始まるのである。
 実はわれわれが手にしている一万円札はこうしたものの一つなのである。それは「銀行券」という銀行の借用証文なのである。だから「この銀行券を持ってきた人には無条件で現金(金)を渡します」と昔の、つまり戦前の兌換制度下の銀行券の表面には書かれていたのである。つまりこれも一種の「貨幣請求権」であり、それが貨幣と同じように通用し、流通しているわけだ。信用制度とは、まさにこういう「紙の世界」がまかり通る世界のことなのである。
 われわれはこういう現実を目にしている。ただの「紙切れ」の束にすぎない札束の前では、人はすべて卑屈になり、へりくだり、媚びへつらう。絶世の美女も裸になり、凡人も人まで殺す。ところがこの摩訶不思議な現象が、究極まで発展するのが「信用の世界」なのである。「信用の世界」では、無から有が生まれ、マイナスがプラスに転化する。しかしその奇妙な世界の話は、ここでくどくどと説明してもしようがない。各人がまた『資本論』を実際に読んで学んでもらうことにしよう。マルクスはこの奇妙奇天烈な信用の世界の「母」こそ「利子生み資本」だと言っている。つまり「利子生み資本」こそがそれらの不可思議な世界を生み出しているのだ、と。
 われわれは「日銀は通貨をどんどん供給せよ」とか「もっと潤沢に貨幣を出せ」とか、「金融を緩和せよ」とか言われていることを新聞で読む。この場合の「通貨」や「貨幣」は決してわれわれがいつも目にしている「一万円札」のことではない。それは「通貨」や「貨幣」と言われるが、直接的には概念としての「通貨」や「貨幣」ではないのである。では何か? それこそまさにここでいう「利子生み資本」なのである。もちろん厳密に言えば各市中銀行が日銀にもっている当座預金残高を積み増すことだが、それを元手に各銀行が潤沢な「利子生み資本」を運用することになるのである。だから「利子生み資本」の概念を掴むこと、その運動を解明することが、今日の発展した信用制度を解明していくカギでもあるのである。

 2)「貨幣資本」の“ややこしい”二つの意味?

 第2巻の第1篇をすでに学んだわれわれは、「貨幣資本」と言えば、それが何であるかは知っている。それは資本がその循環を開始するときに最初にとる形態であった。つまり貨幣資本とは資本がその循環において姿態変換する一つの形態なのであった。資本の流通過程で資本が貨幣形態をとったものを「貨幣資本」といい、商品の形態を取ったものを「商品資本」、生産過程にあるものを「生産資本」といった。
 ところがややこしいことに第3巻でも「貨幣資本」が出てくる。もちろん、同じ意味なら何もややこしいことはないのだが、意味が違うのである。第3巻に出てくる「貨幣資本」は先に説明した「利子生み資本」と同じものなのである。なんで、こんなややこしいことになったのか? それは次のような事情なのだ。
 マルクスの場合、「利子生み資本」を意味する「貨幣資本」の場合はmanied Capitalまたはmoneyed Capital(CapitalのCが小文字であることも多い)あるいはmoney capitalと英語で書いて区別していたのに、それをエンゲルスがドイツ語で印刷用原稿を作るためもあってか、すべて「Geltkapital」というドイツ語に訳して統一してしまったのである。だから当然、それを日本語に訳する人が、その区別を無視してすべて「貨幣資本」と訳したのはある意味ではやむを得なかった。しかしマルクスが「Geltkapital」という場合は、「商品資本」および「生産資本」と区別される「貨幣資本」、つまり第2巻で出てくる資本の循環過程でとる形態としての「貨幣資本」を意味しているのである(本当はGeldcapitalにはこれ以外の意味もあるが、それは今は一層ややこしくなるから、触れないでおく)。だからこういうややこしいことになってしまったわけである。これもエンゲルスの編集に原因する混乱といえば言えるであろう。

 では「利子生み資本」と「貨幣資本(moneyed Capital)」とはまったく同じものかというと、そういうてもよいし、必ずしもそうでもないともいえる。 実は「貨幣資本(moneyed Capital)」というのは、当時の経済学者や経済実務家などが実際に使っていた言葉である。それに対して「利子生み資本」というのは、そういう具体的な「貨幣資本(moneyed Capital)」からマルクスが抽象して科学的な概念として確立したものである(ただし「利子生み資本」もマルクスは「[いわゆる]利子生み資本」とも言っているように、決してマルクス自身が作り出した言葉ではない。それは「利子を生む資本」一般に使われ、例えば資本主義以前の高利資本も「利子生み資本」であり、その意味では広く使われていたものと考えられる)。両者は同じものを意味するが、その意味では少し違うのである。

 われわれは第5篇全体を見渡して、それが三つの部分に分けられること、そしてわれわれがこれから検討する第28章が入っている二つ目の部分では〈「利子生み資本」が運動する具体的な諸形態が分析されている〉と説明した。つまりその意味では二つ目の部分は、「利子生み資本」の具体的な形態、すなわち「貨幣資本(moneyed Capital)論」が論じられていると言ってもよいのである(これは大谷氏の説)。そして今、われわれが問題にしている「第28章」に相当する部分こそ、「貨幣資本(moneyed Capital)論」の「本論」が始まる部分なのである(ただ「貨幣資本(moneyed Capital)論」の核心にあたる部分は、エンゲルス版の第30~32章に該当する部分だとも大谷氏は指摘している)。
 そこで、さあ、ようやく「第28章」を実際に検討してみることになったわけである。では、実際、マルクスの草稿をそれでは読んでいくことにしよう。(次回に続く)。 

2010年10月14日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-1)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-1)

 

 【連載を始める当たって】

 

 大谷禎之介氏の論考の批判的考察は最後の項目で中断してしまったままであるが、これは私自身の草稿(特に第2部第2稿の第3章)の研究がいまだ不十分であることを自覚し、それが終えるまでは一時中断することを余儀なくされているのである。これはまだ大分に時間を要すると思えるので、別の新しい連載を考えることにした。
 これもやはり大谷氏が20年もの歳月をかけて研究してこられた成果を受け継ごうとするものである。大谷氏は第2部第8稿の現行版第21章該当部分の草稿を直接調べ上げ、その解読された原文と翻訳文を『経済志林』第49巻第1号(1981年7月)に「上」、同第49巻第2号(1981年10月)に「下」を発表されたあと、引き続き第3部草稿の研究を行い、次々とその成果を発表された。そのすべてをここで紹介するわけには行かないが、それは主に、現行版第5篇「利子と企業者利得とへの利潤の分割 利子生み資本」に関連する草稿の研究論文と翻訳文の紹介であった。
 これからこの連載で紹介するのも、この大谷氏の研究成果にもとづいて、草稿の翻訳文を各パラグラフごとに詳細に考察し、解読していくものである。ただし、発表の順序は、現行版の篇や章にもとづいたものではなく、私自身が研究に取り組んだ順に行うことにする。今回の表題の最後に(28-1)とあるのは、現行版の第28章「流通手段と資本」の研究の最初のもの(No.1)ということである。順次(28-2)、(28-3)という形で進めて行きたい。
 (28-1)は、これから草稿を研究する準備段階のようなものである。なお発表する論考は、7年ほど前に、ある研究会にレジュメとして提出されたものであり、当時の内部における論争がある程度--かなり徹底的にそうした部分は削除したのであるが--反映していることをあらかじめお断りしておく。

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《「流通手段と資本」(『資本論』第3部第28章)
の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》
=の学習のために

 【はじめに】

 この大谷禎之介氏の論文は現行『資本論』第3巻第5篇をエンゲルスが編集する元になったマルクスの草稿を翻訳・分析し(大谷氏はマルクスの草稿のフォトコピーだけでなく、ナマの原稿そのものも見ている!)、エンゲルスの編集のあとを丁寧に追ったものである(マルクスはそれを「第3部第5章」としていた。だから草稿の「部」「章」はエンゲル ス版の「巻」「篇」に対応する。また大谷氏は「第1稿」としているが、第3部の主要草稿は第1稿しか残されていない)。だから第28章を理解するためには、少なくともエンゲルス版の第5篇に相当する部分全体を研究する必要があり、いきなり第28章だけを学習するというのはやや無理があるように思えるのである。しかも第5篇はエンゲルスが編集で一番手こずり、そのため第3巻刊行が遅れた主要な原因になった部分でもある(それは第3巻の序文でエンゲルス自身が語っている)。だから、ただでさえその錯綜した記述から理解が困難な部分でもあるのである。
 しかしこのレジュメでは、『資本論』第3巻をまだ読んでいない人や第5篇全体を深く研究したことのない人にも、出来るだけ内容が理解できるように徹底して平易に解説できればと思っている。それが成功するかどうか、それはとくとご賞味頂きたい。
 だからまた頭からハネつけて「自分には理解できないから」と諦めないで、とにかくこのレジュメだけでも読んでもらうことを、切にお願いする。

1、「第5篇」全体の構成とマルクスの草稿

 1)、第5篇全体では何が論じられているのか?

 われわれは「第28章」にとりかかる前に、まず「第5篇」全体はどういうことを論じているのか、またどういう構成になっているのかを.つまり全体を見渡しておこう。
 これも詳しくいうとキリがないのでとにかく簡単にやることにする。
 第5篇のテーマはその表題「利子と企業者利得への利潤の分割。利子生み資本」(マルクスの草稿では「第5章 利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂。利子生み資本」となっている)に明確に示されている。つまり「利子生み資本」が中心テーマなのである。
 「利子生み資本」て何や? とすぐに疑問が出てきそうである。当然である。しかしまあ、それはおいおい説明するとしてとりあえず置いておこう。
 表題だから内容を表しているのは当たり前やないか、とまた言われるかもしれない。これもまたしごくごもっともである。しかし実は、この第5篇の主要なテーマをどう見るかということは、必ずしも簡単な問題ではない。
 この第5篇は通常「利子・信用論」として理解されている場合が多く、マルクスはここで「信用」問題を中心に取り扱っているとする理解が一般的だからである。だからこの問題でも、「利子生み資本が中心」とする大谷氏と「いや信用論だ」とする三宅義夫氏との間で論争があったのである(この場合、われわれは独特の理解を示す宇野派は論外に置いていることを断っておく)。
 結局、この論争は三宅氏の批判に大谷氏が正面から答える前に三宅氏が亡くなり、その後、大谷氏の反論が出されたが、そういう経緯もあって必ずしも決着がついたとは言えない状態になっている。しかしいずれにせよ、その論争の詳しい内容はわれわれにとっては不要であろう。とにかくそういう論争があるほど、そんなに簡単な問題ではないということを押さえておいて欲しい(つまり依然としてその理解にはさまざまなものがあり、三宅氏と同じ理解を示している学者も多くいるということだ)。

 2)、第5篇の三つの構成部分

 われわれは大谷氏の説に一応もとづいて論じることにしよう。第5篇の主題は「利子生み資本」であるが、しかし全体の構成は大きく三つに分けることができる。いまエンゲルス版の章で分けると、

 1.第21章~第24章(草稿では「1)」~「4)」の番号がついている)。
 2.第25章~第35章(同「5)」)。
 3.第36章(「6))となる。

 1.はいわば「利子生み資本」の概念(つまり「利子生み資本」とは何か)が明らかにされている部分である。
 2.はその「利子生み資本」が運動する具体的な諸形態が分析されている。ただ「利子生み資本」が運動するのは「信用制度」の下においてであり、だから「利子生み資本」の運動諸形態を分析するために必要な限りで「信用」や「信用制度」がこの部分で論じられているのである(ところが三宅氏は第5篇の1.を前半部分、2.と3.を一緒にしたものを後半部分として二分割し、前半部分は「利子生み資本」が論じられ、後半部分は「信用制度」が考察されているとする)。
 3.はいわば「利子生み資本」の「歴史的な考察」がされている。つまり「利子生み資本」がどのように歴史的に生まれてきたのか、またそれは将来の社会に向けて如何なる意義があるのかが明らかにされている。

 このように全体としてもやはり「利子生み資本」が一貫して論じられているのである。

 さて、こうして見るとエンゲルス版は草稿と比べて、2.の部分が異常に膨れ上がっていることが分かる。マルクスの草稿ではただ「5)」と一つの数字が打たれた部分に過ぎないのに、エンゲルス版ではそれが11もの章に分けられている。これはどうしてであろうか?
 それはこの2.の部分が草稿のなかではもっとも完成度が低かったからである。だから、エンゲルスはマルクスが本文やあるいは後の執筆の参考にするために資料として作った「抜き書き」までもを本文に組み込んで新たに章を作ったり(例えば第26、33、34各章)、いくつかの章を膨らませており(例えば25章)、あるいはマルクスの分析の不十分さを補うためにエンゲルス自身が補足的に書き加えている(この場合は、一部不完全なものもあるが、一応どの部分がエンゲルスが書いたのかは分かるように編集している)ために(しかしあくまでもエンゲルスが「不十分」と考えたのであって、果たしてマルクスの草稿が本当に「不十分」だったのかどうか、エンゲルスの加筆が適当だったのかどうかは意見の分かれるところであろう)、この部分が異常に膨れ上がってしまったと考えられるのである(エンゲルス版と草稿との詳しい比較・検討を大谷氏はやっているが、ここでは割愛せざるを得ない)。

 3)、第28章が入っている「2.」部分の構成

 ところで、われわれがこれから学ぼうとするエンゲルス版の第28章は、この「2.」の部分に入っている。だからこの「2.」の部分の草稿はどのような構成になっているのか、何を問題にしているのかを、さらに詳しく見ていかなければならない。
  この部分は大きく分けると、二つに分類することが出来る。一つは「本文」に該当すると思われる部分(これには「本文」そのものとそれにマルクス自身がつけた「注」からなっている)。もう一つは「雑録」や「混乱」とされている部分である(これはいろいろな著書や資料--『銀行法委員会報告』や『商業的窮境』など議会資料や統計など--からの抜き書きとそれに対するコメントからなっている)。

 まず「本文」であるが、これは大きくは五つの部分に分かれるようである。
 (1)信用制度に関する基本的な位置づけを与え、その歴史的意義を明らかにする部分、つまり「2.」全体の序論的部分である。これはエンゲルス版の25章の前半部分と27章に該当する。
 (2)マルクスが「 I )」と番号をつけている部分で、大谷氏によれば「銀行学派による通貨と資本との区別の批判」が行われている部分で、エンゲルス版のほぼ第28章に該当する。つまりわれわれがこれから学ぼうとするところである。
 (3)マルクスが「II)」と番号をつけている部分で、これはやはり大谷氏によると「銀行業者の貨幣資本(moneyed Capital)の大部分は純粋に架空なものである」ということが書かれており、エンゲルス版の第29章に該当する。
 (4)マルクスが「III)」と番号をつけた部分で、この部分についても「貨幣資本(moneyed Capital)と現実資本--両者の増減(前者の蓄積、プレトラ(過多--引用者)、欠乏、後者の蓄積、過剰、不足)のあいだの関連、および、それらと国内の貨幣量との関連」と大谷氏は説明している。これはエンゲルス版の第30~32章に該当する。
 (5)いわば「2.」全体の締めくくりの部分で、この部分の内容は、大谷氏によれば「地金の蓄蔵と流出入。ブルジョア的体制における中央銀行の地金準備の意義」というものである。これはエンゲルス版の第35章に該当する。つまり信用の異常な発達によって、架空な取引が一人歩きし奇妙奇天烈な現象が生まれるが、結局は、やがてはそれは恐慌によって崩壊して地金が物をいうようになところまで引き戻されざるをえない、とマルクスは言いたかったのであろう。それで「2.」を締めくくろうと考えていたと思われる。

 次は「雑文」や「混乱」と分類されているものであるが、これについてはあまり詳しく論じてもしょうがない。ただ注意が必要なのは、エンゲルスはこれらを使ってすでに紹介したように第26章や第33章、第34章をほぼこれで作り、また第25章や第35章の後半部分にも挿入してそれぞれの章を膨らませていることである。しかしこれはまあ今はこだわってもしょうがない。次に行こう。(以下は次回に続く)

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