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2009年11月

2009年11月 7日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その66)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その6)

 さらにこのマルクスの冒頭の敍述を見てわれわれは奇妙なことに気付く。マルクスは単純再生産の最後に部門 I の4000cの考察をやろうとしているのであるが、その冒頭で I (1000v+1000m)とII(2000c)との関連やII(500v+500m)の内部の相互転換、および《単純再生産の全構図》については、《後に立ち戻ることの保留をつけて》やると述べている。これが奇妙であるのは一見して明らかだ。というのはマルクスはこの第8稿の単純再生産の部分では、以前にも紹介したが、市原氏によると次のような順序で考察しているのである。

(1)「第3節 両大部門間の変換-- I (v+m)対IIc」
(2)「第4節 大部門IIの内部での変換。必要生活手段と奢侈品」
(3)「第5節 貨幣流通による諸変換の媒介」
(4)「第11節 固定資本の補填」
(5)「第12節 貨幣材料の再生産」
(6)「第10節 資本と収入--可変資本と労賃」

 つまりマルクスがここで《後に立ち戻ることの保留をつけて》と述べている問題は、実際には草稿ではすでに考察済みの問題なのである。にも関わらず、ここでマルクスがこのように断っているということは、このマルクスの断りは、実際のこれまでの草稿での敍述を前提にしたものではないということを示している。それならそれは何を前提にしているのか。それはいうまでもなく、本来マルクスが構想している執筆順序以外の何物でもない。つまり将来まとめるであろう完全稿では、マルクスは I )4000cの考察を最初にやる考えであるということである。あるいはもしエンゲルスに編集を委ねることを前提にしているなら、エンゲルスにこの部分が単純再生産の冒頭に来るべきことを知らしめるために書いているということである。
 つまりマルクス自身のプランとしてはまず最初に部門 I の4000cの考察が来て、そのあと I (1000v+1000m)とII(2000c)との関係が考察され、さらにII(500v+500m)内部の相互転換が考察され、そして最後に《単純再生産の全構図》が考察される予定であったということである。だからこれは以前、「二段階の敍述構想」の放棄という、プランの変更をマルクス自身は果たして考えていたのかどうか、という問題を論じたときに、われわれが指摘していたとおりに、やはりマルクス自身は第8稿の段階でも、第2稿の敍述と同じように(しかし生産手段の生産部門を部門 IIから部門 I にし、生活手段の生産部門を部門 I から部門IIにするという、位置づけの変化に対応させてではあるが)、部門 I の不変資本の転換の考察⇒両部門の転換の考察⇒部門IIの内部の転換の考察⇒全体の構図の考察、という順序で考えていたことが分かるのである(そしてこの点では早坂啓造氏の問題提起は的確であったことが分かる)。これを見てもマルクス自身には第2稿の段階で立てたプランを変更する意図など第8稿の段階でも、まったく無かったことが明瞭に分かるのである。
 とするなら、大谷氏が単純再生産の敍述の締めくくりとして、マルクス自身が自己のこれまでの見解を自己批判をしているという部分は、単純再生産を締めくくるどころか、本来は単純再生産の一番最初に論じなければならない部門 I の不変資本の転換をマルクスが単純再生産の考察の最後で論じているだけのものだと考えなければならないのである(このように敍述の順序が前後するのは、他方で第8稿の性格を物語っている。すなわちそれはあくまでもノートであり、しかも第2稿で明らかにした全体のプランをべーすに第2稿の敍述の不十分さや欠落個所を部分的に補足するために書かれているという性格をである)。そして実際、現行の第10節の敍述を追ってみると、確かに最初の部分は明らかにマルクスの問題意識が不変資本の考察にあることが分かるのである(そうした問題意識でこの冒頭部分を読んでむしろ初めてマルクスは何を言おうとしているのかが分かったほどである)。しかし途中からどうやらマルクスの問題意識は変化していくような感じも受けるのである。実際、市原健志氏も次のように指摘している。

 〈つまり第10節の対象は I )4000cの考察であったことになる。そして実際そうした文章を受けて続けて読むならば,第10節の初めの部分(現行版435ページ8行目〔邦訳,699ページ3行目〕から437ページ2行目〔邦訳,7011ページ9行目〕まで)は,確かに部門 I の不変資本に関連した叙述を展開しているように見える。しかし,そのあとでは,なぜかマルクスはエンゲルスによって付けられた第10節の表題「資本と収入--可変資本と労賃」に一致する内容に考察の対象を絞っていってしまう。したがって結局,この第10節では I)4000cの考察はせずに終り,ついに「第20章 単純再生産」に該当する第8稿の部分ではこのことの考察ははずされる結果になった。〉(同論文上146頁、なお邦訳頁数は新日本新書版のもの)

 このように市原氏もいうのであるが、しかしもしマルクス自身の問題意識がそのように変化したのなら、マルクスは恐らく草稿にそうしたことを書いたのではないかと思う。つまりそういう断りを入れるか、あるいは横線でも引いて、ここからは違う問題を論じるということがわかるようにした筈である。しかし市原氏の草稿解読ではそうした断りや横線などは見当たらないのである。だからマルクス自身は恐らく最初に立てた問題を追究しているのではないかという見当が立つのである。

 問題はなぜ、マルクスは最初は部門 I の4000cの考察を行なうと断って始めているのに、そして実際、最初の部分では明らかに不変資本cの考察を行なっていると思えるのに、どうして途中から I (1000v+1000m)とII(2000c)の貨幣流通による媒介を入れた補填関係を、特に I (1000v)とII(1000c)とのそれの考察に移ってしまっているように思えるのかということである。

 結局、この問題を考えるためには、エンゲルスが「第10節 資本と収入、可変資本と補填」 とした部分の草稿全体を復元して、マルクスの敍述を逐一追って、その詳細な解読を行なう以外にないのである。しかしそうすると、あまりにも問題が横道に逸れ過ぎてしまうことになってしまう。だからわれわれは、とりあえずはこの問題は保留し、後にもう一度この問題には立ち返ることにしてまずは大谷氏の敍述を追って行くことにしよう。

 大谷氏は先の引用文で〈マルクスはまず、社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていることに注意を向けたあと、次のように言う〉として、以下のマルクスの一文を引用し、さらにそれを次のように論じている。

 〈「今はやりの観念――{俗物と一部の経済学者たちはこの観念によって理論的な困難から、すなわち現実の関連の理解から、わが身を遠ざけているのだ}、すなわち、一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念は、部分的には正しいにしても、もし一般的にそう観念するなら、まったくまちがいになる――つまり、それは、年間再生産に伴って行なわれる全転換過程の完全な誤解を含んでおり、したがってまた部分的には正しいことの事実的基礎に関する誤解を含んでいる。――。そこで、われわれは、この見解の部分的な正しさの基礎をなしている事実的諸関係をまとめてみることにしよう。そうすれば同時にこの諸関係のまちがった把握も明らかになるであろう。」(S. 780.31–41.)
 ここで言う、「一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念」こそ、まさに、上に引用した第八稿の第一層でのマルクスのそれであり、第一稿での「資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換」という把握そのものである。マルクスはここで、かつての自分の「誤解」とそれを生みだした「事実的諸関係」を明らかにしようとする。〉
(下188-9頁)

 この引用文の内容に対する大谷氏の解釈を問題にする前に、大谷氏は先にも紹介したが、〈マルクスはまず、社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていることに注意を向けたあと、次のように言う〉として、上記の引用文を紹介するのであるが、そもそも〈社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていること〉と引用文の内容が、どのように関連しているのかが、大谷氏の説明ではまったく分からないということである。どうして上記のような説明のあと、マルクスは《一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念》の説明に入っているのであろうか。それがさっぱり分からないのである。どうして年間総生産物の価値が生産手段によって移転された価値とその年に支出された人間的労働の対象化された価値とを含むことや、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられているということが、《一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念》の説明と結びついているのであろうか、それがさっぱり分からないのである。
 これは分からないのは、ある意味では当然なのである。というのは、大谷氏が上記にまとめている部分と引用文との間には、マルクスの一連の敍述が挟まっており、それを大谷氏はここでは飛ばして、その二つ部分をただ機械的にくっつけているだけなのだからである。しかしこの大谷氏が飛ばしている部分は、どうしてマルクスは最初に「 I )4000c」の考察を行なうと言明しながら、途中から「 I )1000v」と「II)1000c」との貨幣流通を媒介にした補填関係の考察に移ってしまっているのかを考える上で重要な部分なのである。
 だからこの問題も、結局は、やはり草稿そのものをマルクスの敍述を丁寧に追って考えてみるしかないわけである。よってこの問題も、われわれはやはり後回しにしなければならない。しかし大谷氏はこうしたマルクスの問題意識のつながりや展開について何の注意も払わずに、問題を論じていることがよく分かるであろう。

 (この項目は次回に続きます。)

2009年11月 6日 (金)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その65)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その5)

 さて大谷氏は以上のようなマルクスの問題ある敍述(ただ氏がそう考えるだけなのだが)を指摘したあと、次のように述べている。

 〈このような表現は、第8稿の第二層では完全に消える。消えるだけではない。マルクスは、自分がかつて頻繁に使っていたそのような表現を明示的に掲げたうえで、それを批判する。すなわち、彼はここで、はっきりと自己批判をしているのである。〉(下188頁)

 しかしわれわれは大谷氏が第8稿の〈第一層〉と言われている部分においても、マルクス自身は決して間違って問題を論じていなかったことを確認した。ただ確かに大谷氏が読み誤ったように、マルクスは一見すると分かりにくい表現をしていたことは事実である。それはどうしてであろうか。そしてそれに対して、これから大谷氏がマルクスが〈ハッキリと自己批判している〉という〈第二層〉として持ち出しているところでは、どうしてマルクスは大谷氏が〈このような表現は、……完全に消える〉と思えるほどに問題を論じているのであろうか。それを少し考えてみよう。
 それは他でもない、すでにこれまでの検討でも示唆してきたように、大谷氏が〈第一層〉〈第二層〉として持ち出してきている草稿部分でマルクスが何を論じているのかを考えてみれば分かるのである。大谷氏がマルクスが依然として曖昧な間違った論じ方をしているとして例示した〈第一層〉の部分というのは、すでに指摘したが、マルクスがスミスのいわゆる「v+mのドグマ」を批判している部分である。この部分はマルクスが《あとに置くべきものの先取り》として考察を始めている単純再生産の考察より前に位置する。だからここでは社会の総再生産過程を「第 I 部門」と「第II部門」に分けて論じる前のところであり、だからそれらはまだ《第一種部門》《第二種部門》というように表現されている。また「不変資本」、「可変資本」、「剰余価値」という用語さえ、大谷氏が例示した部分では避けられている。ましてや大谷氏が書いているような、「 I (v+m)」というような、われわれにとっては再生産表式でおなじみの記号ももちろん使われていない(しかしもちろん、大谷氏が引用している部分以外では、スミス批判のなかでもこれらの用語は使われているのであるが)。しかもここで問題なのは、スミスの「v+mのドグマ」、すなわちスミスが社会の年生産物の交換価値を賃金、利潤、地代に分解したり、それによって構成するという主張を批判することにある。だからここでは貨幣流通が問題なのでなく、社会の総生産物の価値と素材における補填関係が問題なのである。だからここでは一見すると大谷氏が問題として挙げたくなるような敍述が見られたのである(しかし断るまでもないが、詳細にマルクスがいわんとすることを読み取れば、そうした大谷氏のような捉え方は誤りであり、マルクスは問題を正確に論じていることが読み取れたはずである)。
 それに対して、大谷氏が〈第8稿の第二層〉として上げているところは、単純再生産の敍述の一番最後の部分に位置している。つまりこの部分は、マルクスが《あとに置くべきものの先取り》と断って考察を進めているところなのである。だからここでは最初から貨幣流通による媒介を入れた考察を《先取り》して論じている部分なのである。だからマルクスが大谷氏らが満足のいくような敍述をしているのはある意味では当然なのである。それを大谷氏らは、貨幣流通による媒介を捨象して論じていたときの敍述をマルクス自身が〈ハッキリと自己批判している〉などと捉えているだけの話なのである。しかし果たしてその部分はそうしたマルクス自身の〈厳しい自己批判〉といえるのかどうか、それは引き続いて検討して行かなければならない。

 まず大谷氏は、マルクス自身の〈厳しい自己批判〉だとする部分を紹介をするに当たって、次のように書きはじめている。

 〈第8稿の単純再生産の部分で、社会的総再生産過程における金生産について論じたあと、マルクスは、単純再生産の叙述を締め括っている (S. 779.4–790.13)。マルクスはまず、社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていることに注意を向けたあと、次のように言う。〉(下188頁)

 この後続けて、大谷氏はマルクスの一文を引用しているのであるが、その引用文の大谷氏の解釈の検討は後回しにして、この部分に対する異議をまず提起しておきたい。
 大谷氏がマルクスが〈厳しい自己批判〉をしているとして引用しているのは、現行の「第20章 単純再生産」「第10節 資本と収入、可変資本と補填」と題されている部分におけるマルクスの記述である。この部分は、草稿では単純再生産に関する敍述が見られる一番最後に書かれているものである(だから草稿では「第12節 貨幣材料の再生産」の敍述に続けて区切りを示す横線を引いた後に書かれている)。だから大谷氏は〈第8稿の単純再生産の部分で、社会的総再生産過程における金生産について論じたあと、マルクスは、単純再生産の叙述を締め括っている〉と考えているわけである。しかしこの部分の解釈として、果たして〈単純再生産の叙述を締め括っている〉という理解は正しいのかどうかである。確かにそれは第8稿の単純再生産を考察している部分の一番最後に位置しており、その位置だけを見るなら〈締めくくっている〉という大谷氏の理解は正しいかに見える。しかし大谷氏は草稿のこの部分の正確な情報を読者に伝えていない(意図的に?)。というのは、そこには現行版では欠けている冒頭部分があるからである。おそらくエンゲルスは、自身がつけた表題(「第10節 資本と収入、可変資本と補填」)に相応しくないと判断して削除したのであろうが、しかしこの冒頭の部分は、この個所でマルクスが何を論じようとしていたのか、またこの部分がマルクスの単純再生産全体の敍述プランのなかでどういう位置を占める予定であったのかを考える上で重要な意味を持っているのである。大谷氏は、この部分が、単純再生産の敍述の締めくくりとして、マルクス自身が、それまでの古典派経済学の貨幣ベール観を引きずっていた自身の見解を自己批判するために書かれたものであるかにいうのであるが、そうした自分の主張にとって不都合なところ、つまり実際には草稿には存在する冒頭部分を、エンゲルスと同様に、敢えて論じずにいるように思えてならないのである。単純再生産の最後で論じているこの部分は、果たして大谷氏がいうような目的で書かれたものであるのかどうか、あるいはマルクスの全体の構想のなかでどういう位置を占めているのか、われわれは草稿に直接当たって検討してみることにしよう。

 市原健志氏はこの第10節(もちろん節もその表題もエンゲルスによるものであるが)の冒頭にエンゲルスによって削除された一文があるとして次のようにそれを紹介している(市原健志《『資本論』第2部第3篇第19・20章と第2部第8稿》下187頁)

 《3) I 1000v+1000m
                             および単純再生産の全構図
    II2000c+500v+500m

に後に立ち戻ることの保留をつけて、今やわれわれはさしあたり I )4000cに目をむけることにしよう。》

 そしてこの部分に市原氏は次のようなコメントを書いている。

 〈つまり、第10節の初めは「 I )4000c」の考察を目的にしていたと言える。なお、この部分の冒頭にある「3)」に対応する「1)」と「2)」がどれであるかについては判然としない。〉

 われわれは、このエンゲルスによって削除された冒頭部分を見て気付くのは、この部分でマルクス自身は何を論じようとしていたかが明確に述べられていることである。すなわち第 I 部門の商品資本のうちの不変資本の価値部分、「 I )4000c」の考察である。だから大谷氏がいうようなそれまでの自身の見解を「自己批判」するために書かれたものなどでは決してないことがこの一文だけでも明瞭であろう。

 (この項目は次回に続きます。)

2009年11月 5日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その64)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その4)

 (以下は前回、文章の途中で中断したところからの続きである。)

つまりcは再生産の観点から見るなら、価値部分としては、再び部門 I の不変資本に充てられる部分なのである。つまりその部分の商品資本が販売された貨幣で再び購入されるのは、やはり部門 I の生産物であり、部門 I で充用される生産手段なのである。つまり I cというのは、商品資本のうち再生産の補填関係から捉えられた価値部分として見た場合に、再び部門 I で生産手段として充用されるものに該当するということを表しているのである。だからこの部分の商品資本の現物形態も、再び部門 I で生産手段として役立つ使用価値でなければならない。そして I (v+m)は、やはり部門 I の商品資本のうち、再生産の補填関係から見た場合、vは再び可変資本として部門 I で充用される部分であり、mは資本家が彼らの剰余価値として取得する価値部分なのである。そして可変資本として部門 I で充用される価値部分ということは、部門 I の労働者に支払われた賃金と価値額として等しいことを意味するのである。だから I (v+m)は補填関係としてみた価値部分としては、労働者と資本家の収入として消費される部分であり、だから部門IIの生産物と交換されなければならないわけである。だから I (v+m)の商品資本は現物形態としては、部門IIの生産手段として存在していなければならない、等々。こうしたことはマルクスにとってはまったく明瞭なことである。だから大谷氏の批判などは不当な言い掛かりでしかないのである。先に紹介しておいたマルクスの説明をもう一度思い出そう。マルクスは次のように説明していた。可変資本部分(v)=《労働力に投下された資本の価値、または、この生産部面の資本家たちによって支払われた労賃の総額に等しい》価値部分、剰余価値部分(m)=《この部門の産業資本家たちの利潤と地代の源泉をなす》価値部分。これらは部門 I の商品資本を《価値によって次のように分割される》としてマルクスが説明していたものである。このマルクスの説明にはどんな混乱も不明確さもないことは明らかではないか。
 それではどうして、マルクスはここで大谷氏が問題にするような表現を使っているのだろうか。それはスミスがすべての生産物の価値は賃金、利潤、地代に分解すると主張していることを問題にし、それを批判するために論じているからである。つまりこの部分(すなわち I 〔v+m〕)は、価値部分としては、この生産に参加するすべての当事者にとっては彼らの収入に充てられるものであるが、《しかし、これらの価値部分は、社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する》のだ、つまりそれは素材的には生産手段であり、だから社会的に考えるなら、資本としてしか機能し得ないものだ、つまりスミスのいうように収入に分解しうるように見えるものも、社会的には収入には分解しえないものが存在するのだというのがマルクスのいわんとすることなのである。もちろん、ここで社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する》という場合の「収入」や「資本」は、スミスを意識してスミス流の使い分けをそのまま使っているのである。だからマルクスは問題をきわめて正確に論じていることは明らかなのである。

 次はマルクスが「2)」と番号を打っている部分の検討に移ろう。
 この「2)」は、スミスが彼自身の考えをきちんと総括したなら、到達したであろう結論の二つ目の項目という意味である。そしてここでは、 I (v+m)の価値部分は《社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する》するが、それが資本として機能するのは、《第一種部門の資本家》、つまり部門 I の資本家においてではなく、《第二種部門の資本家》、つまり部門IIの資本家たちのためにであり、彼らはそれによって消費手段の生産に際して消費された「資本」(生産手段)を補填するのだ、ということである。そして彼らの手にある商品資本の価値部分、《すなわちいまや消費諸手段を生産する資本家たちの手中に消費諸手段の形態で存在する〔商品〕資本》は、《社会的立場から見れば》--つまりその素材(使用価値)を社会的分業の観点から見るなら--《第一種部門の資本家たちと労働者たちとが彼らの収入をそこにおいて実現する消費元本をなす》と述べているのである。こうした説明はまったく正確であり、どんな曖昧さや混乱もないことは明らかであろう。

 そしてこうしたスミスが彼が断片的に述べているものを総括したなら到達したであろう二つの結論を述べたあと、マルクスは、もし上記のような結論までスミスが分析を進めたなら、《全問題の解決に欠けるところはほんのわずかだったであろう》《彼は核心に迫っていた》として、スミスがすでに気付いていたこととして述べている部分が大谷氏が次に引用している部分(われわれが(2)と番号を打った引用文)なのである。だからそれはスミスがすでに気付いていたこととして、マルクス自身がまとめている文章なのである。われわれはその一文をもう一度引用しておこう。

 《社会の年々の総生産物を構成する一方の種類の商品資本の価値の一定の諸部分は、それの生産に従事する個別的な労働者と資本家とにとっての収入を確かになしはするが、しかし社会の収入の構成部分をなすものではなく、他方では、他方の種類の商品資本の価値の一部分は、それの個別的所有者すなわちこの投資部面に従事する資本家たちにとっての資本価値を確かになしはするが、それでもなおそれは社会的収入の一部をなすにすぎない、ということがそれである。》

 この一文に対して、大谷氏の批判ももう一度並べて書いてみよう。

 〈ここで「社会の年間総生産物をなしている商品資本の一方の種類の価値の一定の部分」、すなわち第 I 部門の商品資本のv+mの部分は、それ自体としては、けっして「その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしている」のではなく、「他方の種類の商品資本の価値の一部分」、すなわち第II部門の商品資本のcの部分は、それ自体としては、けっして「社会的収入の一部分」ではない。〉

 果たして大谷氏はマルクスが述べていることを十分解読していると言えるであろうか。大谷氏は I (v+m)について〈それ自体としては、けっして「その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしている」のではな〉いと述べている。〈それ自体としては〉ということで何を言いたいのかは、先の引用文(1)に対する批判から類推するに、それは「それ自体としては部門 I の商品資本だ」と言いたいのであろう。しかしそんな批判をして批判になっていると思うことが驚きであり、大谷氏がこのマルクスの一文をほとんど理解していないことを反対に暴露しているのではないだろうか。それにそもそもマルクス自身は大谷氏がいうように〈それ自体としては〉などという断りは一言も述べていない。《それの生産に従事する個別的な労働者と資本家とにとって》は彼らの《収入をなす》と述べているのである。大谷氏はマルクスが「個別の生産当事者の観点」(これは商品資本の価値部分を再生産の補填関係から見るということである)と「社会的な観点」(これは生産物の使用価値を社会的分業の観点からみるということである)とを使い分けていることに何の関心も示していない。それが大谷氏がこのマルクスの一文を読み誤った原因であろう。マルクス自身はそれに続けて「それらは素材からみるなら」《しかし社会の収入の構成部分をなすものではな》いとも明確に述べているのである。このマルクスの言明を詳細に検討すれば、最初の(1)の引用文と同様に、マルクスは部門 I の総生産物(総商品資本)のうちの一定部分(すなわち I 〔v+m〕)は、その生産の当事者にとっては再生産の観点からみて、どういう役割を与えられたものか、という視点と、それが社会的には、つまり社会全体の分業という観点からみた場合、その生産物の使用価値がどういう役割を担っているか、という二つの観点から問題をみていることが分かるであろう。だからマルクスが言いたいのは、部門 I の商品資本の一定部分、すなわち I (v+m)の価値部分は一方で労働者の収入と資本家の収入に分解するが、しかし他方ではその現物形態は生産手段だから、社会的には資本を構成するのだと述べていることが分かる。つまりスミス自身はそこまで気付いていたのだ、というのがマルクスがここで言いたいことなのである。だからそこに表現上すっきりしないところがあるといえば、いえるかも知れないが、しかしそれはスミスが気付いていたという内容だからであり、スミスの言い回しを使いながらそれを述べているからである。またここで重要なのは、部門 I の総生産物(総商品資本)の価値と素材における補填関係であり、大谷氏が問題にするような、資本の循環における形態転換などはまったく問題になっていないからでもある。だからマルクスはこうした論じ方をしているということが大谷氏にはまったく理解されていないといわざるをえない。

 (以下、この項目は次回に続く。)

2009年11月 4日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その63)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その3)

 この大谷氏が引用している部分は、現行版では第2部第19章「対象についての従来の諸論述」「第2節 アダム・スミス」「1 スミスの一般的観点」に該当する草稿から引用されている。そこでわれわれは大谷氏が引用している部分の草稿そのものをその前後も含めて少し長く紹介してみよう(これは市原健志氏の草稿研究にもとづいて草稿を復元したものである。翻訳文は新日本新書版をベースにしている。エンゲルスの編集によって草稿が書き換えられている部分はそれが分かるように赤字にしてある〔だからエンゲルス版とその部分を比較すれば、エンゲルスがどのようにマルクスの草稿に手を入れているかが分かる〕。【 】で括った部分が大谷氏が引用している部分であるが、全集版をベースにしている大谷氏の訳文とは少し違っている。なお大谷氏の引用部分を最初のものには(1)、あとのものには(2)と番号を便宜的につけてある)。

 1)社会的年生産物の一部は生産手段から構成され,その価値は次のように分割される。--一つの価値部分は、これらの生産諸手段の生産にさいして消費された生産諸手段の価値にすぎず、したがって、更新された形態で再現する資本価値にすぎない。第二の部分は、労働力に投下された資本の価値、または、この生産部面の資本家たちによって支払われた労賃の総額に等しい。最後に、第三の価値部分は、この部門の産業資本家たちの利潤と地代の源泉をなす。
 第一の構成部分、すなわちA・スミスによればこの部門で仕事をする個別諸資本全部の固定資本の再生産された部分は、個別資本家なり社会なりの「純収入から明らかに除外されていて、決してそれの一部をなすことはありえない」。それは、つねに資本として機能し、決して収入としては機能しない。その限りでは、各個別資本家の「固定資本」は〔全〕社会の固定資本となんら異なるところはない。しかし、
(1)【生産諸手段として存在する社会の年生産物の他の価値諸部分--したがってまた、この生産諸手段総量の可除部分のうちに実存する価値諸部分--は、確かに同時に、この生産に参加するすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃銀、資本家にとっての利潤および地代を形成する。しかし、これらの価値部分は、社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する--社会のこの年生産物は、その社会に属する個別資本家たちの生産物の総計からなるにすぎないにもかかわらず、そうなのである。これらの価値部分は、たいていはすでにその本性上、生産諸手段として機能しうるだけであって、必要な場合には消費諸手段として機能しうるような部分でさえも、新たな生産の原料または補助材料として役立つように予定されている。しかし、それらの価値部分がこのようなものとして--すなわち資本として--機能するのは、その生産者たちの手中でではなく、その使用者たちの手中でである。すなわち--
 2)、消費諸手段の直接的な生産者たちの手中でである。それらの価値部分〔生産諸手段〕は、第二種部門の資本家たちのために、消費諸手段の生産にさいして消費された資本(この資本が労働力に転換されない限りで、すなわちこの第二種部門の労働者たちの労賃の総額をなすものではない限りで)を補填するのであるが、他方では、この資本、すなわちいまや消費諸手段を生産する資本家たちの手中に消費諸手段の形態で存在する資本は、それはそれで--すなわち社会的立場から見れば--第一種部門の資本家たちと労働者たちとが彼らの収入をそこにおいて実現する消費元本をなす
 もしA・スミスがここまで分析を進めたのであれば、全問題の解決に欠けるところはほんのわずかにすぎなかったであろう。彼は核心に迫っていた。というのは、すでに次のことに気がついていたからである。すなわち一方では
(2)【社会の年々の総生産物を構成する一方の種類の商品資本の価値の一定の諸部分は、それの生産に従事する個別的な労働者と資本家とにとっての収入を確かになしはするが、しかし社会の収入の構成部分をなすものではなく、他方では、他方の種類の商品資本の価値の一部分は、それの個別的所有者すなわちこの投資部面に従事する資本家たちにとっての資本価値を確かになしはするが、それでもなおそれは社会的収入の一部をなすにすぎない、ということがそれである。(全集版451-2頁)

 さて、この草稿の引用文全体をしっかり検討すれば、大谷氏の批判はまったく不当な言い掛かり以上ではないことが分かるであろう。そのために、引用文全体を解読してみよう。

 引用文を正しく理解するためには、この一文が全体としてどういう文脈のなかで書かれているものかを踏まえておく必要がある。まずこの引用文は《ところで、もしA・スミスが、まえには彼が固定資本と呼ぶものの再生産の考察にさいして、そして、こんどは彼が流動資本と呼ぶものの再生産の考察にさいして、彼の頭に浮かんだ思想の諸断片を総括したとしたら、彼は次のような結論に到達したことであろう--》(全集版451頁)という導入文があって、そのあとに続く文である。つまりこの引用文は、スミスが不変資本の存在を「総収入」と「純収入」とを使い分けることによってこっそり導入しようとしていることを暴露したあと、スミスがもっと自分の考えを整理したなら至っていたであろう結論として述べられているものである。マルクスはそれを二つの点にまとめている。
 最初は大谷氏による(1)の引用文が含まれる部分である(マルクスが「1)」と番号を打っている部分)。第一パラグラフでは社会的年生産物の一部は生産手段からなり(すなわち部門 I の生産物であり)、それは三つの価値部分に分割される、すなわち不変資本、可変資本、剰余価値である。しかしマルクスは「不変資本、可変資本、剰余価値」という用語はまだ使わずに、それを、不変資本部分=《生産諸手段の生産にさいして消費された生産諸手段の価値にすぎず、したがって、更新された形態で再現する資本価値にすぎない》価値部分、可変資本部分=《労働力に投下された資本の価値、または、この生産部面の資本家たちによって支払われた労賃の総額に等しい》価値部分、剰余価値部分=《この部門の産業資本家たちの利潤と地代の源泉をなす》価値部分と説明している。これはまったく正確な説明であり、大谷氏も文句のつけようがないであろう。特に可変資本部分についての説明に注意して頂きたい。ここには大谷氏が主張するような、どんな曖昧さも不明確さもない。つまりマルクスにはもともとは大谷氏が指摘するような可変資本の概念を不明確に捉えているようなことがないことが、これを見ても分かるのである。
 そしてマルクスはまず最初の構成部分(不変資本部分)を問題にし、そして次は可変資本部分と剰余価値部分の説明に入っている。そして後者の説明の一部を大谷氏は引用しているわけである。第一の構成部分(部門 I の商品資本のうちの不変資本部分)は、《それは、つねに資本として機能し、決して収入としては機能しない。その限りでは、各個別資本家の「固定資本」は〔全〕社会の固定資本となんら異なるところはない》と説明されている。ここで「固定資本」が鍵かっこに入ってるのは、スミスがいうところの「固定資本」だからである。重要なことはこの場合は各個別資本家にとっても、全社会にとっても同じだと述べていることである。つまり決して収入として機能しないという意味でそうだと述べているのである。つまりどんな意味でも、スミスが主張するような収入には決して分解しない部分だとマルクスは述べているわけである。
 それに対して、次に見ている可変資本部分と剰余価値部分の場合は、個別の生産当事者にとってと、社会にとってとでは違っている、というのが次にマルクスが述べていることなのである。つまり《確かに同時に、この生産に参加するすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃銀、資本家にとっての利潤および地代を形成する》と述べているのは、この部分( I 〔v+m〕)は個別の生産当事者にとっては、価値部分としては彼らの消費に充てられる部分だというのである。あくまでも「価値部分」としてマルクスが述べていることは、それまでの敍述から明らかである。ところが大谷氏は、〈第 I 部門のv+mは、この部門の商品資本の一部ではあっても、けっして「この生産に参加したすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃金、資本家にとっての利潤と地代」ではありえない〉と批判している。しかしこんな当たり前の批判でマルクスを批判したつもりなのは驚きである。大谷氏は、 I (v+m)が部門 I の〈商品資本の一部であ〉ることをマルクスは知らないとでも主張されるのであろうか。大谷氏がマルクスが商品資本が三つの価値部分に分けられること、そしてそのうちのv+mの価値部分について述べていることをまったく無視している(理解されていない?)。大谷氏にお聞きするが、 「 I (c+v+m)」は何を表していると考えておられるのか。「これは商品資本であり、そのうちのcもvもmもその一部である」、これが大谷氏の説明である。これではcもvもmも何も説明されたことにはならない。これらは直接には決して不変資本、可変資本、剰余価値そのものではない。それらはあくまでも部門 I で生産された商品資本を、再生産の観点から、その価値を構成する諸部分として分けられたものに過ぎないのである。

 (以下、文章の途中ですが、字数の関係で、次回に続きます。)

2009年11月 3日 (火)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その62)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その2)

 それは例えば、大谷氏がこうしたマルクスの誤った敍述の典型として〈資本と資本との交換〉を例に上げて次のように述べている場合にも、それは当てはまるのである。

 〈第2部の第1稿でこの不明確さがきわめて明瞭に現われていたのが、すでに見た、「資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換」という把握である。たとえば、第 I 部門内部での不変資本の相互補填の場合、資本が資本として相互に位置を変換するのではない。どちらの不変資本もその形態を変えるだけであって、位置を変換するのは商品または貨幣である。商品と貨幣の持手変換すなわち商品の売買を通じて、資本の変態と資本の変態とが絡み合うのである。「資本と資本との交換」という表現には、資本循環の形態と商品流通の形態との関連についての混同が纏い付いている。〉(下187頁)

 こうしたマルクス批判も、やはり私には、マルクスにとっては濡れ衣でしかない、と思わざるをえない。というのは、大谷氏はあくまでも貨幣流通による媒介を前提にしてこうしたことを述べているのであるが、しかしマルクスが「資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換」という場合には、貨幣流通を捨象して問題を価値と素材の両面による補填関係として見ているのだからである。それは次のような一文に明瞭に表れている。

 《(3)さて、まず第一に労働者について言えば、素材的にみれば、事柄はあたかも、彼らは各人が自分の生産物のうちで彼のものとなる部分を現物で受け取り、これらの生産物を彼ら相互のあいだで交換しあう、というのと同じことである。つまり、収入と収入との交換である。》(『資本の流通過程』207頁)

 ご覧の通り、マルクスが収入と収入との交換》として述べているのは、あくまでも《素材的にみれば》という限定をつけ、しかも《事柄はあたかも》そうしたことと《同じである》と述べていることが分かる。これは部門で言えば、生活手段の生産部門(第1稿では《資本A》)の労働者について述べているのであるが、つまり素材的に見れば、さまざまな生活手段を生産している労働者たちは、結局、自分たちが生産した生産物(=生活手段、消費者によって収入として消費されることを予定している生産物)を互いに交換して消費するのと同じ結果になると述べているわけである。それがすなわち収入と収入との交換》ということでマルクスが述べている内容なのである。そしてこれは価値と素材の両面による補填関係としてみるなら、まったくその通りである。マルクスは問題を混乱して捉えていないことは、そのすぐあとで、次のようにも述べていることから明らかである。

 《というのは、資本家は商品のうちの労働者が受け取るはずの部分をも売るのであり、したがって労働者たちは生産物のうちの自分たちの分け前をたがいに直接に交換しあうわけではないからである》(同上)

 だから大谷氏にわざわざ指摘してもらわなくても、貨幣流通を考慮すれば、こうした収入と収入との交換》といったことが直接には妥当しなくなることぐらいはマルクスも十分承知の上で述べていることが分かるのである。しかし貨幣流通をとりあえずは捨象して総商品資本を価値と素材における両面からの補填関係として捉えるならば、それは、現実的(リアール)には、《資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換》に、結果としてはなるのだ(それと同じことである)、ということがマルクスが、この言葉で本来は述べていることなのである。それを大谷氏らはマルクスの主張を厳密に検討もせずに、自説の誤った前提--貨幣流通による媒介を捨象して考察することは出来ない、という--を絶対化して、常に貨幣流通による媒介を入れて問題を考えているから、こうしたマルクスの主張を混乱とするだけなのである。自己の誤った前提のもとに、マルクスを批判することこそ、混乱以外の何物でもないであろう。マルクス自身は大谷氏に指摘されなくても、貨幣流通を入れた場合にどうなるかについても、明確に問題を把握して論じているわけである。ただマルクスはそうしたものをいちいちその前提をその都度断って述べていないがために(その限りでは確かにマルクスもそれほど自覚的では無かったと言えるかも知れないが)、ある場合には素材的に問題を見たり、他の場合には貨幣流通を入れて考察しているがために、ある場合にはやや曖昧な表現と思える敍述をしてる場合もあれば、他の場合には正確に問題を論じている場合もあるというように、われわれには見えるだけなのである。私にはそのように思えるのである。

 さて、大谷氏は上記のようなマルクスの〈不明確〉な敍述が、第8稿の1877年3月に書かれた〈第一層〉でも、まだ見られるとして、二つの文を引用し、その不明確さを次のように指摘している。

 〈「社会の年間生産物中の生産手段から成っている部分の他の価値部分――したがってまたこの生産手段総量の可除部分のうちに存在する価値部分――は、同時に、この生産に参加したすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃金、資本家にとっての利潤、そして地代をなしている。」(S. 708.30–35.)
 ここで言う、「社会の年間生産物中の生産手段から成っている部分の他の価値部分――したがってまたこの生産手段総量の可除部分のうちに存在する価値部分――」、すなわち第 I 部門のv+mは、この部門の商品資本の一部ではあっても、けっして「この生産に参加したすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃金、資本家にとっての利潤と地代」ではありえない。
 その少しあとでも、次のように言う。
 「一方では、社会の年間総生産物をなしている商品資本の一方の種類の価値の一定の部分は、その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしてはいるが、しかし社会の収入の成分をなしてはいないのであり、また、他方の種類の商品資本の価値の一部分は、この種類の商品資本の個別的所有者すなわちこの投資部面で仕事をする資本家にとっての資本価値をなしてはいるが、それにもかかわらずそれはただ社会的収入の一部分でしかない、ということにスミスは気がついていたのである。」(S. 709.12–19.)
 ここで「社会の年間総生産物をなしている商品資本の一方の種類の価値の一定の部分」、すなわち第 I 部門の商品資本のv+mの部分は、それ自体としては、けっして「その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしている」のではなく、「他方の種類の商品資本の価値の一部分」、すなわち第II部門の商品資本のcの部分は、それ自体としては、けっして「社会的収入の一部分」ではない。〉
(下188頁、傍点は下線に変換してある)

  (この項目は次回に続きます。)

2009年11月 2日 (月)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その61)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その1)

 さて、いよいよ最後の項目である。ここでは大谷氏が〈第2稿の第3章から第8稿の第3篇にかけて、マルクスが決定的な理論的飛躍を成し遂げた〉(下187頁)と評価する問題が論じられている。ここで論じられている問題は、簡単にいうなら、マルクスは当初は“可変資本は労働者の収入になる”というような論じ方をしている点が指摘され、それが第8稿では「自己批判」されているということなのである。大谷氏らの(というのはこうした指摘をするのは大谷氏に留まらず、宮川彰氏や伊藤武氏らも同様の主張を行なっているから)この主張は、確かに部分的には当てはまるところがあるように私には思えたこともあったのである。だから何を隠そう、私自身もそうした理解に以前は半ば賛意を示してもいた。しかし第8稿でマルクスがそれまでの自己の主張を「自己批判」しているとの判断には、やや行き過ぎの感が拭えなかった。というのは、確かにマルクスは第8稿以前の諸草稿のなかで、そうした概念的にやや首をかしげる表現をしていることは確かであるが、しかし同時に同じ文献のなかでも問題を正確に論じている場合も多々見られるからである。だから確かにマルクス自身に問題を十分意識的に整理して論じる姿勢が無かったにしても、マルクス自身が概念的に対象を十分に捉えておらず、混乱していたかに言われると抵抗を感じざるを得ないのである。ましてやマルクスが以前の自身の見解を「自己批判」しているなどという評価には、やはり違和感を禁じえなかった。だからこの問題での大谷氏の主張の批判的検討にはやや微妙なところがあり、問題をとにかく厳密に検討していくしかないと考えている。だから、この部分の検討も、あるいは読者の皆様には、まどろっこしいものと受けとめられるかも知れないが、ご容赦願いたい。というのは、この部分の批判的検討は、ある意味では自分自身が以前支持していた見解に対する、それこそ「自己批判」的検討でもあるからである。しかしとりあえず大谷氏の説明を追って行くことにしよう。

 まず大谷氏は第5-7稿でマルクスが第2部第1篇第1章を何度も書き直した内容について、次のように述べている。

 〈マルクスはその後も、貨幣資本の循環、生産資本の循環、商品資本の循環、という三つの循環形態が示しているものを正確に叙述する試みを繰り返した。
 そのなかでマルクスは、次第に、資本家がつねに貨幣形態で前貸しなければならず、したがってつねに貨幣形態で還流してこなければならない可変資本の運動の重要性に目を向けるようになる。資本の側ではG-W(A) である可変資本の前貸に対応する、労働者の側での労働力商品の変態はW(A)-Gであり、労働力を再生産するための流通W(A)-G-W(Km)の第一の変態である。その第二の変態であるG-W(Km) が労働者の収入の支出である。資本の変態と収入の支出が絡み合うのは、この第二の変態であって、可変資本の前貸であるG-W(A) は直接には収入の支出と絡み合ってはいない。このような関連や絡み合いの正確な把握には、資本の形態としての可変資本の変態の運動と労働者の商品である労働力の変態の運動との明確な区別、労働力商品の第二の変態としての、賃金の支出による消費手段への転化と資本家の側での商品資本の貨幣資本への転化との明確な区別が不可欠である。〉
(下187頁)

 こうした理解が大谷氏によれば、第5-7稿において第1篇第1章を繰り返し練り直すなかで到達したものだというのである。しかしこうした理解にはやはり納得が行かない部分が残るのである。というのは、第1稿の中にも次のように明確に問題を理解しているマルクスがいるからである。

 《他方、可変資本について言えば、それは貨幣の形態で労働者に前貸しされるのであって、労働者は、これと引き換えに彼の労働を引渡すが、その受け取った貨幣で彼は自分の生活手段を買う。労賃は労働の価値に、いなもっと正確に言えば労働能力の価値に等しい、と前提されているのだから、労働者は彼の全賃銀を彼の労働能力の再生産のために、それゆえ必需品の購入に支出する、ということが同時に前提されている。それゆえ、全可変資本が実際には(レアリーテル)収入として支出されるのであって、資本家にとってはそれは労働に転化するが、労働者にとってはそれは収入に転化する。》(『資本の流通過程』202頁)

 以前は私もこのマルクスの一文にはやや混乱が見られると受けとめていたのであるが、しかしよくよく吟味してみるとそうではないと思うようになった。ここでマルクスは可変資本は貨幣の形態で労働者に前貸されるということをまず指摘している。これは大谷氏が〈そのなかでマルクスは、次第に、資本家がつねに貨幣形態で前貸しなければならず、したがってつねに貨幣形態で還流してこなければならない可変資本の運動の重要性に目を向けるようになる〉などと述べている問題であるが、しかしそんなことはある意味では当たり前のことであり、改めて力説しなければならないことであろうか、との疑問は禁じえない。そして、労賃が労働力の価値の転化形態であることもここでは明確に語られている。しかしこれもまた当然のことであり、ことさら改めて強調しなけれはならないほどのことでもない。そしてそれが収入として生活必需品の購入に支出される。《それゆえ、全可変資本が実際には(レアリーテル)収入として支出される》と述べている。この一文が以前には、やや問題があると考えていたのである。しかしよく考えてみると、マルクスは《実際には(レアリーテル)》と限定して述べている。つまりマルクスはこの場合は貨幣を捨象して素材的に問題を見ているのである。というのは、マルクスはその直前(201頁)で《この考察においては貨幣流通(および貨幣資本としての形態にある資本)を捨象する》と前提しているからである(とは言うものの、マルクスはこれ以後においてもこうした前提を無視して、貨幣流通を入れた考察もやってはいるのであるが。ここらあたりはノートということからくる一定の厳密にさに欠けるところがあると言えば言えるかもしれない)。マルクスはここでは「可変資本が、実際には貨幣の形態で労働者に前貸されるが、しかしそれを労働者はすべて生活必需品の購入に支出するのであり、それが前提されているなら、貨幣流通を捨象すれば、全可変資本は実際には(レアリーテル)収入として支出される、つまり生活必需品との補填関係にある」と述べているのである。マルクスがこうした限定のもとに論じているものを(あるいは特に限定しなくても、特定の条件のもとに論じているものを)、大谷氏らは、常に貨幣流通による媒介を前提した上で(というのは大谷氏らは貨幣流通による媒介を捨象した考察の意義そのものを認めていないから--いうまでもなく私はそれは間違っていると考えている)、だから最初からマルクスが想定している条件とは違ったものを想定した上で、マルクスの敍述の不十分さや混乱を指摘しているように思えてならないのである。だからこの場合も、貨幣資本や貨幣流通を捨象して、問題を価値と素材との補填関係として見るなら、すべての可変資本は実際には(レアリテール)、つまり商品資本の価値の構成部分としては、収入に分解するものであり、素材的には、生活手段の生産部門の生産物と補填し合わなければならないと述べているのである。そしてそう理解すればここには何の問題もない。マルクスは同時に《資本家にとってはそれ(=可変資本--引用者)は労働に転化するが、労働者にとってはそれは収入に転化する》とも述べており、可変資本が資本の循環としては、その貨幣形態を脱ぎ捨てて、労働力に転換し、生産資本の形態をとることも明確に述べているわけである。だからこうした敍述を見れば、マルクス自身が問題を混乱して捉えているわけではないことが分かるのである。ただどういう前提のもとに論じているかについて必ずしもその都度マルクスは明確にせずに論じている場合が多いために、ある場合は価値と素材の面だけからその補填関係を論じ、ある場合には貨幣流通の媒介を入れて資本の形態転換の側面から捉えている等々ではないかと思うのである。それを大谷氏らは常に問題を一面的な前提のもとに--つまり貨幣流通による媒介のもとに--捉えようとするがために、そうしたマルクスの敍述に、問題が無区別に整理されずに論じられていると見えるだけであるように思えるのである。

   (この項目は次回に続きます。)

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