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2009年11月 7日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その66)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その6)

 さらにこのマルクスの冒頭の敍述を見てわれわれは奇妙なことに気付く。マルクスは単純再生産の最後に部門 I の4000cの考察をやろうとしているのであるが、その冒頭で I (1000v+1000m)とII(2000c)との関連やII(500v+500m)の内部の相互転換、および《単純再生産の全構図》については、《後に立ち戻ることの保留をつけて》やると述べている。これが奇妙であるのは一見して明らかだ。というのはマルクスはこの第8稿の単純再生産の部分では、以前にも紹介したが、市原氏によると次のような順序で考察しているのである。

(1)「第3節 両大部門間の変換-- I (v+m)対IIc」
(2)「第4節 大部門IIの内部での変換。必要生活手段と奢侈品」
(3)「第5節 貨幣流通による諸変換の媒介」
(4)「第11節 固定資本の補填」
(5)「第12節 貨幣材料の再生産」
(6)「第10節 資本と収入--可変資本と労賃」

 つまりマルクスがここで《後に立ち戻ることの保留をつけて》と述べている問題は、実際には草稿ではすでに考察済みの問題なのである。にも関わらず、ここでマルクスがこのように断っているということは、このマルクスの断りは、実際のこれまでの草稿での敍述を前提にしたものではないということを示している。それならそれは何を前提にしているのか。それはいうまでもなく、本来マルクスが構想している執筆順序以外の何物でもない。つまり将来まとめるであろう完全稿では、マルクスは I )4000cの考察を最初にやる考えであるということである。あるいはもしエンゲルスに編集を委ねることを前提にしているなら、エンゲルスにこの部分が単純再生産の冒頭に来るべきことを知らしめるために書いているということである。
 つまりマルクス自身のプランとしてはまず最初に部門 I の4000cの考察が来て、そのあと I (1000v+1000m)とII(2000c)との関係が考察され、さらにII(500v+500m)内部の相互転換が考察され、そして最後に《単純再生産の全構図》が考察される予定であったということである。だからこれは以前、「二段階の敍述構想」の放棄という、プランの変更をマルクス自身は果たして考えていたのかどうか、という問題を論じたときに、われわれが指摘していたとおりに、やはりマルクス自身は第8稿の段階でも、第2稿の敍述と同じように(しかし生産手段の生産部門を部門 IIから部門 I にし、生活手段の生産部門を部門 I から部門IIにするという、位置づけの変化に対応させてではあるが)、部門 I の不変資本の転換の考察⇒両部門の転換の考察⇒部門IIの内部の転換の考察⇒全体の構図の考察、という順序で考えていたことが分かるのである(そしてこの点では早坂啓造氏の問題提起は的確であったことが分かる)。これを見てもマルクス自身には第2稿の段階で立てたプランを変更する意図など第8稿の段階でも、まったく無かったことが明瞭に分かるのである。
 とするなら、大谷氏が単純再生産の敍述の締めくくりとして、マルクス自身が自己のこれまでの見解を自己批判をしているという部分は、単純再生産を締めくくるどころか、本来は単純再生産の一番最初に論じなければならない部門 I の不変資本の転換をマルクスが単純再生産の考察の最後で論じているだけのものだと考えなければならないのである(このように敍述の順序が前後するのは、他方で第8稿の性格を物語っている。すなわちそれはあくまでもノートであり、しかも第2稿で明らかにした全体のプランをべーすに第2稿の敍述の不十分さや欠落個所を部分的に補足するために書かれているという性格をである)。そして実際、現行の第10節の敍述を追ってみると、確かに最初の部分は明らかにマルクスの問題意識が不変資本の考察にあることが分かるのである(そうした問題意識でこの冒頭部分を読んでむしろ初めてマルクスは何を言おうとしているのかが分かったほどである)。しかし途中からどうやらマルクスの問題意識は変化していくような感じも受けるのである。実際、市原健志氏も次のように指摘している。

 〈つまり第10節の対象は I )4000cの考察であったことになる。そして実際そうした文章を受けて続けて読むならば,第10節の初めの部分(現行版435ページ8行目〔邦訳,699ページ3行目〕から437ページ2行目〔邦訳,7011ページ9行目〕まで)は,確かに部門 I の不変資本に関連した叙述を展開しているように見える。しかし,そのあとでは,なぜかマルクスはエンゲルスによって付けられた第10節の表題「資本と収入--可変資本と労賃」に一致する内容に考察の対象を絞っていってしまう。したがって結局,この第10節では I)4000cの考察はせずに終り,ついに「第20章 単純再生産」に該当する第8稿の部分ではこのことの考察ははずされる結果になった。〉(同論文上146頁、なお邦訳頁数は新日本新書版のもの)

 このように市原氏もいうのであるが、しかしもしマルクス自身の問題意識がそのように変化したのなら、マルクスは恐らく草稿にそうしたことを書いたのではないかと思う。つまりそういう断りを入れるか、あるいは横線でも引いて、ここからは違う問題を論じるということがわかるようにした筈である。しかし市原氏の草稿解読ではそうした断りや横線などは見当たらないのである。だからマルクス自身は恐らく最初に立てた問題を追究しているのではないかという見当が立つのである。

 問題はなぜ、マルクスは最初は部門 I の4000cの考察を行なうと断って始めているのに、そして実際、最初の部分では明らかに不変資本cの考察を行なっていると思えるのに、どうして途中から I (1000v+1000m)とII(2000c)の貨幣流通による媒介を入れた補填関係を、特に I (1000v)とII(1000c)とのそれの考察に移ってしまっているように思えるのかということである。

 結局、この問題を考えるためには、エンゲルスが「第10節 資本と収入、可変資本と補填」 とした部分の草稿全体を復元して、マルクスの敍述を逐一追って、その詳細な解読を行なう以外にないのである。しかしそうすると、あまりにも問題が横道に逸れ過ぎてしまうことになってしまう。だからわれわれは、とりあえずはこの問題は保留し、後にもう一度この問題には立ち返ることにしてまずは大谷氏の敍述を追って行くことにしよう。

 大谷氏は先の引用文で〈マルクスはまず、社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていることに注意を向けたあと、次のように言う〉として、以下のマルクスの一文を引用し、さらにそれを次のように論じている。

 〈「今はやりの観念――{俗物と一部の経済学者たちはこの観念によって理論的な困難から、すなわち現実の関連の理解から、わが身を遠ざけているのだ}、すなわち、一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念は、部分的には正しいにしても、もし一般的にそう観念するなら、まったくまちがいになる――つまり、それは、年間再生産に伴って行なわれる全転換過程の完全な誤解を含んでおり、したがってまた部分的には正しいことの事実的基礎に関する誤解を含んでいる。――。そこで、われわれは、この見解の部分的な正しさの基礎をなしている事実的諸関係をまとめてみることにしよう。そうすれば同時にこの諸関係のまちがった把握も明らかになるであろう。」(S. 780.31–41.)
 ここで言う、「一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念」こそ、まさに、上に引用した第八稿の第一層でのマルクスのそれであり、第一稿での「資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換」という把握そのものである。マルクスはここで、かつての自分の「誤解」とそれを生みだした「事実的諸関係」を明らかにしようとする。〉
(下188-9頁)

 この引用文の内容に対する大谷氏の解釈を問題にする前に、大谷氏は先にも紹介したが、〈マルクスはまず、社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていることに注意を向けたあと、次のように言う〉として、上記の引用文を紹介するのであるが、そもそも〈社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていること〉と引用文の内容が、どのように関連しているのかが、大谷氏の説明ではまったく分からないということである。どうして上記のような説明のあと、マルクスは《一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念》の説明に入っているのであろうか。それがさっぱり分からないのである。どうして年間総生産物の価値が生産手段によって移転された価値とその年に支出された人間的労働の対象化された価値とを含むことや、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられているということが、《一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念》の説明と結びついているのであろうか、それがさっぱり分からないのである。
 これは分からないのは、ある意味では当然なのである。というのは、大谷氏が上記にまとめている部分と引用文との間には、マルクスの一連の敍述が挟まっており、それを大谷氏はここでは飛ばして、その二つ部分をただ機械的にくっつけているだけなのだからである。しかしこの大谷氏が飛ばしている部分は、どうしてマルクスは最初に「 I )4000c」の考察を行なうと言明しながら、途中から「 I )1000v」と「II)1000c」との貨幣流通を媒介にした補填関係の考察に移ってしまっているのかを考える上で重要な部分なのである。
 だからこの問題も、結局は、やはり草稿そのものをマルクスの敍述を丁寧に追って考えてみるしかないわけである。よってこの問題も、われわれはやはり後回しにしなければならない。しかし大谷氏はこうしたマルクスの問題意識のつながりや展開について何の注意も払わずに、問題を論じていることがよく分かるであろう。

 (この項目は次回に続きます。)

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