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2009年11月 6日 (金)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その65)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その5)

 さて大谷氏は以上のようなマルクスの問題ある敍述(ただ氏がそう考えるだけなのだが)を指摘したあと、次のように述べている。

 〈このような表現は、第8稿の第二層では完全に消える。消えるだけではない。マルクスは、自分がかつて頻繁に使っていたそのような表現を明示的に掲げたうえで、それを批判する。すなわち、彼はここで、はっきりと自己批判をしているのである。〉(下188頁)

 しかしわれわれは大谷氏が第8稿の〈第一層〉と言われている部分においても、マルクス自身は決して間違って問題を論じていなかったことを確認した。ただ確かに大谷氏が読み誤ったように、マルクスは一見すると分かりにくい表現をしていたことは事実である。それはどうしてであろうか。そしてそれに対して、これから大谷氏がマルクスが〈ハッキリと自己批判している〉という〈第二層〉として持ち出しているところでは、どうしてマルクスは大谷氏が〈このような表現は、……完全に消える〉と思えるほどに問題を論じているのであろうか。それを少し考えてみよう。
 それは他でもない、すでにこれまでの検討でも示唆してきたように、大谷氏が〈第一層〉〈第二層〉として持ち出してきている草稿部分でマルクスが何を論じているのかを考えてみれば分かるのである。大谷氏がマルクスが依然として曖昧な間違った論じ方をしているとして例示した〈第一層〉の部分というのは、すでに指摘したが、マルクスがスミスのいわゆる「v+mのドグマ」を批判している部分である。この部分はマルクスが《あとに置くべきものの先取り》として考察を始めている単純再生産の考察より前に位置する。だからここでは社会の総再生産過程を「第 I 部門」と「第II部門」に分けて論じる前のところであり、だからそれらはまだ《第一種部門》《第二種部門》というように表現されている。また「不変資本」、「可変資本」、「剰余価値」という用語さえ、大谷氏が例示した部分では避けられている。ましてや大谷氏が書いているような、「 I (v+m)」というような、われわれにとっては再生産表式でおなじみの記号ももちろん使われていない(しかしもちろん、大谷氏が引用している部分以外では、スミス批判のなかでもこれらの用語は使われているのであるが)。しかもここで問題なのは、スミスの「v+mのドグマ」、すなわちスミスが社会の年生産物の交換価値を賃金、利潤、地代に分解したり、それによって構成するという主張を批判することにある。だからここでは貨幣流通が問題なのでなく、社会の総生産物の価値と素材における補填関係が問題なのである。だからここでは一見すると大谷氏が問題として挙げたくなるような敍述が見られたのである(しかし断るまでもないが、詳細にマルクスがいわんとすることを読み取れば、そうした大谷氏のような捉え方は誤りであり、マルクスは問題を正確に論じていることが読み取れたはずである)。
 それに対して、大谷氏が〈第8稿の第二層〉として上げているところは、単純再生産の敍述の一番最後の部分に位置している。つまりこの部分は、マルクスが《あとに置くべきものの先取り》と断って考察を進めているところなのである。だからここでは最初から貨幣流通による媒介を入れた考察を《先取り》して論じている部分なのである。だからマルクスが大谷氏らが満足のいくような敍述をしているのはある意味では当然なのである。それを大谷氏らは、貨幣流通による媒介を捨象して論じていたときの敍述をマルクス自身が〈ハッキリと自己批判している〉などと捉えているだけの話なのである。しかし果たしてその部分はそうしたマルクス自身の〈厳しい自己批判〉といえるのかどうか、それは引き続いて検討して行かなければならない。

 まず大谷氏は、マルクス自身の〈厳しい自己批判〉だとする部分を紹介をするに当たって、次のように書きはじめている。

 〈第8稿の単純再生産の部分で、社会的総再生産過程における金生産について論じたあと、マルクスは、単純再生産の叙述を締め括っている (S. 779.4–790.13)。マルクスはまず、社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていることに注意を向けたあと、次のように言う。〉(下188頁)

 この後続けて、大谷氏はマルクスの一文を引用しているのであるが、その引用文の大谷氏の解釈の検討は後回しにして、この部分に対する異議をまず提起しておきたい。
 大谷氏がマルクスが〈厳しい自己批判〉をしているとして引用しているのは、現行の「第20章 単純再生産」「第10節 資本と収入、可変資本と補填」と題されている部分におけるマルクスの記述である。この部分は、草稿では単純再生産に関する敍述が見られる一番最後に書かれているものである(だから草稿では「第12節 貨幣材料の再生産」の敍述に続けて区切りを示す横線を引いた後に書かれている)。だから大谷氏は〈第8稿の単純再生産の部分で、社会的総再生産過程における金生産について論じたあと、マルクスは、単純再生産の叙述を締め括っている〉と考えているわけである。しかしこの部分の解釈として、果たして〈単純再生産の叙述を締め括っている〉という理解は正しいのかどうかである。確かにそれは第8稿の単純再生産を考察している部分の一番最後に位置しており、その位置だけを見るなら〈締めくくっている〉という大谷氏の理解は正しいかに見える。しかし大谷氏は草稿のこの部分の正確な情報を読者に伝えていない(意図的に?)。というのは、そこには現行版では欠けている冒頭部分があるからである。おそらくエンゲルスは、自身がつけた表題(「第10節 資本と収入、可変資本と補填」)に相応しくないと判断して削除したのであろうが、しかしこの冒頭の部分は、この個所でマルクスが何を論じようとしていたのか、またこの部分がマルクスの単純再生産全体の敍述プランのなかでどういう位置を占める予定であったのかを考える上で重要な意味を持っているのである。大谷氏は、この部分が、単純再生産の敍述の締めくくりとして、マルクス自身が、それまでの古典派経済学の貨幣ベール観を引きずっていた自身の見解を自己批判するために書かれたものであるかにいうのであるが、そうした自分の主張にとって不都合なところ、つまり実際には草稿には存在する冒頭部分を、エンゲルスと同様に、敢えて論じずにいるように思えてならないのである。単純再生産の最後で論じているこの部分は、果たして大谷氏がいうような目的で書かれたものであるのかどうか、あるいはマルクスの全体の構想のなかでどういう位置を占めているのか、われわれは草稿に直接当たって検討してみることにしよう。

 市原健志氏はこの第10節(もちろん節もその表題もエンゲルスによるものであるが)の冒頭にエンゲルスによって削除された一文があるとして次のようにそれを紹介している(市原健志《『資本論』第2部第3篇第19・20章と第2部第8稿》下187頁)

 《3) I 1000v+1000m
                             および単純再生産の全構図
    II2000c+500v+500m

に後に立ち戻ることの保留をつけて、今やわれわれはさしあたり I )4000cに目をむけることにしよう。》

 そしてこの部分に市原氏は次のようなコメントを書いている。

 〈つまり、第10節の初めは「 I )4000c」の考察を目的にしていたと言える。なお、この部分の冒頭にある「3)」に対応する「1)」と「2)」がどれであるかについては判然としない。〉

 われわれは、このエンゲルスによって削除された冒頭部分を見て気付くのは、この部分でマルクス自身は何を論じようとしていたかが明確に述べられていることである。すなわち第 I 部門の商品資本のうちの不変資本の価値部分、「 I )4000c」の考察である。だから大谷氏がいうようなそれまでの自身の見解を「自己批判」するために書かれたものなどでは決してないことがこの一文だけでも明瞭であろう。

 (この項目は次回に続きます。)

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