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2009年11月 5日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その64)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その4)

 (以下は前回、文章の途中で中断したところからの続きである。)

つまりcは再生産の観点から見るなら、価値部分としては、再び部門 I の不変資本に充てられる部分なのである。つまりその部分の商品資本が販売された貨幣で再び購入されるのは、やはり部門 I の生産物であり、部門 I で充用される生産手段なのである。つまり I cというのは、商品資本のうち再生産の補填関係から捉えられた価値部分として見た場合に、再び部門 I で生産手段として充用されるものに該当するということを表しているのである。だからこの部分の商品資本の現物形態も、再び部門 I で生産手段として役立つ使用価値でなければならない。そして I (v+m)は、やはり部門 I の商品資本のうち、再生産の補填関係から見た場合、vは再び可変資本として部門 I で充用される部分であり、mは資本家が彼らの剰余価値として取得する価値部分なのである。そして可変資本として部門 I で充用される価値部分ということは、部門 I の労働者に支払われた賃金と価値額として等しいことを意味するのである。だから I (v+m)は補填関係としてみた価値部分としては、労働者と資本家の収入として消費される部分であり、だから部門IIの生産物と交換されなければならないわけである。だから I (v+m)の商品資本は現物形態としては、部門IIの生産手段として存在していなければならない、等々。こうしたことはマルクスにとってはまったく明瞭なことである。だから大谷氏の批判などは不当な言い掛かりでしかないのである。先に紹介しておいたマルクスの説明をもう一度思い出そう。マルクスは次のように説明していた。可変資本部分(v)=《労働力に投下された資本の価値、または、この生産部面の資本家たちによって支払われた労賃の総額に等しい》価値部分、剰余価値部分(m)=《この部門の産業資本家たちの利潤と地代の源泉をなす》価値部分。これらは部門 I の商品資本を《価値によって次のように分割される》としてマルクスが説明していたものである。このマルクスの説明にはどんな混乱も不明確さもないことは明らかではないか。
 それではどうして、マルクスはここで大谷氏が問題にするような表現を使っているのだろうか。それはスミスがすべての生産物の価値は賃金、利潤、地代に分解すると主張していることを問題にし、それを批判するために論じているからである。つまりこの部分(すなわち I 〔v+m〕)は、価値部分としては、この生産に参加するすべての当事者にとっては彼らの収入に充てられるものであるが、《しかし、これらの価値部分は、社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する》のだ、つまりそれは素材的には生産手段であり、だから社会的に考えるなら、資本としてしか機能し得ないものだ、つまりスミスのいうように収入に分解しうるように見えるものも、社会的には収入には分解しえないものが存在するのだというのがマルクスのいわんとすることなのである。もちろん、ここで社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する》という場合の「収入」や「資本」は、スミスを意識してスミス流の使い分けをそのまま使っているのである。だからマルクスは問題をきわめて正確に論じていることは明らかなのである。

 次はマルクスが「2)」と番号を打っている部分の検討に移ろう。
 この「2)」は、スミスが彼自身の考えをきちんと総括したなら、到達したであろう結論の二つ目の項目という意味である。そしてここでは、 I (v+m)の価値部分は《社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する》するが、それが資本として機能するのは、《第一種部門の資本家》、つまり部門 I の資本家においてではなく、《第二種部門の資本家》、つまり部門IIの資本家たちのためにであり、彼らはそれによって消費手段の生産に際して消費された「資本」(生産手段)を補填するのだ、ということである。そして彼らの手にある商品資本の価値部分、《すなわちいまや消費諸手段を生産する資本家たちの手中に消費諸手段の形態で存在する〔商品〕資本》は、《社会的立場から見れば》--つまりその素材(使用価値)を社会的分業の観点から見るなら--《第一種部門の資本家たちと労働者たちとが彼らの収入をそこにおいて実現する消費元本をなす》と述べているのである。こうした説明はまったく正確であり、どんな曖昧さや混乱もないことは明らかであろう。

 そしてこうしたスミスが彼が断片的に述べているものを総括したなら到達したであろう二つの結論を述べたあと、マルクスは、もし上記のような結論までスミスが分析を進めたなら、《全問題の解決に欠けるところはほんのわずかだったであろう》《彼は核心に迫っていた》として、スミスがすでに気付いていたこととして述べている部分が大谷氏が次に引用している部分(われわれが(2)と番号を打った引用文)なのである。だからそれはスミスがすでに気付いていたこととして、マルクス自身がまとめている文章なのである。われわれはその一文をもう一度引用しておこう。

 《社会の年々の総生産物を構成する一方の種類の商品資本の価値の一定の諸部分は、それの生産に従事する個別的な労働者と資本家とにとっての収入を確かになしはするが、しかし社会の収入の構成部分をなすものではなく、他方では、他方の種類の商品資本の価値の一部分は、それの個別的所有者すなわちこの投資部面に従事する資本家たちにとっての資本価値を確かになしはするが、それでもなおそれは社会的収入の一部をなすにすぎない、ということがそれである。》

 この一文に対して、大谷氏の批判ももう一度並べて書いてみよう。

 〈ここで「社会の年間総生産物をなしている商品資本の一方の種類の価値の一定の部分」、すなわち第 I 部門の商品資本のv+mの部分は、それ自体としては、けっして「その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしている」のではなく、「他方の種類の商品資本の価値の一部分」、すなわち第II部門の商品資本のcの部分は、それ自体としては、けっして「社会的収入の一部分」ではない。〉

 果たして大谷氏はマルクスが述べていることを十分解読していると言えるであろうか。大谷氏は I (v+m)について〈それ自体としては、けっして「その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしている」のではな〉いと述べている。〈それ自体としては〉ということで何を言いたいのかは、先の引用文(1)に対する批判から類推するに、それは「それ自体としては部門 I の商品資本だ」と言いたいのであろう。しかしそんな批判をして批判になっていると思うことが驚きであり、大谷氏がこのマルクスの一文をほとんど理解していないことを反対に暴露しているのではないだろうか。それにそもそもマルクス自身は大谷氏がいうように〈それ自体としては〉などという断りは一言も述べていない。《それの生産に従事する個別的な労働者と資本家とにとって》は彼らの《収入をなす》と述べているのである。大谷氏はマルクスが「個別の生産当事者の観点」(これは商品資本の価値部分を再生産の補填関係から見るということである)と「社会的な観点」(これは生産物の使用価値を社会的分業の観点からみるということである)とを使い分けていることに何の関心も示していない。それが大谷氏がこのマルクスの一文を読み誤った原因であろう。マルクス自身はそれに続けて「それらは素材からみるなら」《しかし社会の収入の構成部分をなすものではな》いとも明確に述べているのである。このマルクスの言明を詳細に検討すれば、最初の(1)の引用文と同様に、マルクスは部門 I の総生産物(総商品資本)のうちの一定部分(すなわち I 〔v+m〕)は、その生産の当事者にとっては再生産の観点からみて、どういう役割を与えられたものか、という視点と、それが社会的には、つまり社会全体の分業という観点からみた場合、その生産物の使用価値がどういう役割を担っているか、という二つの観点から問題をみていることが分かるであろう。だからマルクスが言いたいのは、部門 I の商品資本の一定部分、すなわち I (v+m)の価値部分は一方で労働者の収入と資本家の収入に分解するが、しかし他方ではその現物形態は生産手段だから、社会的には資本を構成するのだと述べていることが分かる。つまりスミス自身はそこまで気付いていたのだ、というのがマルクスがここで言いたいことなのである。だからそこに表現上すっきりしないところがあるといえば、いえるかも知れないが、しかしそれはスミスが気付いていたという内容だからであり、スミスの言い回しを使いながらそれを述べているからである。またここで重要なのは、部門 I の総生産物(総商品資本)の価値と素材における補填関係であり、大谷氏が問題にするような、資本の循環における形態転換などはまったく問題になっていないからでもある。だからマルクスはこうした論じ方をしているということが大谷氏にはまったく理解されていないといわざるをえない。

 (以下、この項目は次回に続く。)

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