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2009年11月 4日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その63)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その3)

 この大谷氏が引用している部分は、現行版では第2部第19章「対象についての従来の諸論述」「第2節 アダム・スミス」「1 スミスの一般的観点」に該当する草稿から引用されている。そこでわれわれは大谷氏が引用している部分の草稿そのものをその前後も含めて少し長く紹介してみよう(これは市原健志氏の草稿研究にもとづいて草稿を復元したものである。翻訳文は新日本新書版をベースにしている。エンゲルスの編集によって草稿が書き換えられている部分はそれが分かるように赤字にしてある〔だからエンゲルス版とその部分を比較すれば、エンゲルスがどのようにマルクスの草稿に手を入れているかが分かる〕。【 】で括った部分が大谷氏が引用している部分であるが、全集版をベースにしている大谷氏の訳文とは少し違っている。なお大谷氏の引用部分を最初のものには(1)、あとのものには(2)と番号を便宜的につけてある)。

 1)社会的年生産物の一部は生産手段から構成され,その価値は次のように分割される。--一つの価値部分は、これらの生産諸手段の生産にさいして消費された生産諸手段の価値にすぎず、したがって、更新された形態で再現する資本価値にすぎない。第二の部分は、労働力に投下された資本の価値、または、この生産部面の資本家たちによって支払われた労賃の総額に等しい。最後に、第三の価値部分は、この部門の産業資本家たちの利潤と地代の源泉をなす。
 第一の構成部分、すなわちA・スミスによればこの部門で仕事をする個別諸資本全部の固定資本の再生産された部分は、個別資本家なり社会なりの「純収入から明らかに除外されていて、決してそれの一部をなすことはありえない」。それは、つねに資本として機能し、決して収入としては機能しない。その限りでは、各個別資本家の「固定資本」は〔全〕社会の固定資本となんら異なるところはない。しかし、
(1)【生産諸手段として存在する社会の年生産物の他の価値諸部分--したがってまた、この生産諸手段総量の可除部分のうちに実存する価値諸部分--は、確かに同時に、この生産に参加するすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃銀、資本家にとっての利潤および地代を形成する。しかし、これらの価値部分は、社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する--社会のこの年生産物は、その社会に属する個別資本家たちの生産物の総計からなるにすぎないにもかかわらず、そうなのである。これらの価値部分は、たいていはすでにその本性上、生産諸手段として機能しうるだけであって、必要な場合には消費諸手段として機能しうるような部分でさえも、新たな生産の原料または補助材料として役立つように予定されている。しかし、それらの価値部分がこのようなものとして--すなわち資本として--機能するのは、その生産者たちの手中でではなく、その使用者たちの手中でである。すなわち--
 2)、消費諸手段の直接的な生産者たちの手中でである。それらの価値部分〔生産諸手段〕は、第二種部門の資本家たちのために、消費諸手段の生産にさいして消費された資本(この資本が労働力に転換されない限りで、すなわちこの第二種部門の労働者たちの労賃の総額をなすものではない限りで)を補填するのであるが、他方では、この資本、すなわちいまや消費諸手段を生産する資本家たちの手中に消費諸手段の形態で存在する資本は、それはそれで--すなわち社会的立場から見れば--第一種部門の資本家たちと労働者たちとが彼らの収入をそこにおいて実現する消費元本をなす
 もしA・スミスがここまで分析を進めたのであれば、全問題の解決に欠けるところはほんのわずかにすぎなかったであろう。彼は核心に迫っていた。というのは、すでに次のことに気がついていたからである。すなわち一方では
(2)【社会の年々の総生産物を構成する一方の種類の商品資本の価値の一定の諸部分は、それの生産に従事する個別的な労働者と資本家とにとっての収入を確かになしはするが、しかし社会の収入の構成部分をなすものではなく、他方では、他方の種類の商品資本の価値の一部分は、それの個別的所有者すなわちこの投資部面に従事する資本家たちにとっての資本価値を確かになしはするが、それでもなおそれは社会的収入の一部をなすにすぎない、ということがそれである。(全集版451-2頁)

 さて、この草稿の引用文全体をしっかり検討すれば、大谷氏の批判はまったく不当な言い掛かり以上ではないことが分かるであろう。そのために、引用文全体を解読してみよう。

 引用文を正しく理解するためには、この一文が全体としてどういう文脈のなかで書かれているものかを踏まえておく必要がある。まずこの引用文は《ところで、もしA・スミスが、まえには彼が固定資本と呼ぶものの再生産の考察にさいして、そして、こんどは彼が流動資本と呼ぶものの再生産の考察にさいして、彼の頭に浮かんだ思想の諸断片を総括したとしたら、彼は次のような結論に到達したことであろう--》(全集版451頁)という導入文があって、そのあとに続く文である。つまりこの引用文は、スミスが不変資本の存在を「総収入」と「純収入」とを使い分けることによってこっそり導入しようとしていることを暴露したあと、スミスがもっと自分の考えを整理したなら至っていたであろう結論として述べられているものである。マルクスはそれを二つの点にまとめている。
 最初は大谷氏による(1)の引用文が含まれる部分である(マルクスが「1)」と番号を打っている部分)。第一パラグラフでは社会的年生産物の一部は生産手段からなり(すなわち部門 I の生産物であり)、それは三つの価値部分に分割される、すなわち不変資本、可変資本、剰余価値である。しかしマルクスは「不変資本、可変資本、剰余価値」という用語はまだ使わずに、それを、不変資本部分=《生産諸手段の生産にさいして消費された生産諸手段の価値にすぎず、したがって、更新された形態で再現する資本価値にすぎない》価値部分、可変資本部分=《労働力に投下された資本の価値、または、この生産部面の資本家たちによって支払われた労賃の総額に等しい》価値部分、剰余価値部分=《この部門の産業資本家たちの利潤と地代の源泉をなす》価値部分と説明している。これはまったく正確な説明であり、大谷氏も文句のつけようがないであろう。特に可変資本部分についての説明に注意して頂きたい。ここには大谷氏が主張するような、どんな曖昧さも不明確さもない。つまりマルクスにはもともとは大谷氏が指摘するような可変資本の概念を不明確に捉えているようなことがないことが、これを見ても分かるのである。
 そしてマルクスはまず最初の構成部分(不変資本部分)を問題にし、そして次は可変資本部分と剰余価値部分の説明に入っている。そして後者の説明の一部を大谷氏は引用しているわけである。第一の構成部分(部門 I の商品資本のうちの不変資本部分)は、《それは、つねに資本として機能し、決して収入としては機能しない。その限りでは、各個別資本家の「固定資本」は〔全〕社会の固定資本となんら異なるところはない》と説明されている。ここで「固定資本」が鍵かっこに入ってるのは、スミスがいうところの「固定資本」だからである。重要なことはこの場合は各個別資本家にとっても、全社会にとっても同じだと述べていることである。つまり決して収入として機能しないという意味でそうだと述べているのである。つまりどんな意味でも、スミスが主張するような収入には決して分解しない部分だとマルクスは述べているわけである。
 それに対して、次に見ている可変資本部分と剰余価値部分の場合は、個別の生産当事者にとってと、社会にとってとでは違っている、というのが次にマルクスが述べていることなのである。つまり《確かに同時に、この生産に参加するすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃銀、資本家にとっての利潤および地代を形成する》と述べているのは、この部分( I 〔v+m〕)は個別の生産当事者にとっては、価値部分としては彼らの消費に充てられる部分だというのである。あくまでも「価値部分」としてマルクスが述べていることは、それまでの敍述から明らかである。ところが大谷氏は、〈第 I 部門のv+mは、この部門の商品資本の一部ではあっても、けっして「この生産に参加したすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃金、資本家にとっての利潤と地代」ではありえない〉と批判している。しかしこんな当たり前の批判でマルクスを批判したつもりなのは驚きである。大谷氏は、 I (v+m)が部門 I の〈商品資本の一部であ〉ることをマルクスは知らないとでも主張されるのであろうか。大谷氏がマルクスが商品資本が三つの価値部分に分けられること、そしてそのうちのv+mの価値部分について述べていることをまったく無視している(理解されていない?)。大谷氏にお聞きするが、 「 I (c+v+m)」は何を表していると考えておられるのか。「これは商品資本であり、そのうちのcもvもmもその一部である」、これが大谷氏の説明である。これではcもvもmも何も説明されたことにはならない。これらは直接には決して不変資本、可変資本、剰余価値そのものではない。それらはあくまでも部門 I で生産された商品資本を、再生産の観点から、その価値を構成する諸部分として分けられたものに過ぎないのである。

 (以下、文章の途中ですが、字数の関係で、次回に続きます。)

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