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2009年11月 3日 (火)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その62)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その2)

 それは例えば、大谷氏がこうしたマルクスの誤った敍述の典型として〈資本と資本との交換〉を例に上げて次のように述べている場合にも、それは当てはまるのである。

 〈第2部の第1稿でこの不明確さがきわめて明瞭に現われていたのが、すでに見た、「資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換」という把握である。たとえば、第 I 部門内部での不変資本の相互補填の場合、資本が資本として相互に位置を変換するのではない。どちらの不変資本もその形態を変えるだけであって、位置を変換するのは商品または貨幣である。商品と貨幣の持手変換すなわち商品の売買を通じて、資本の変態と資本の変態とが絡み合うのである。「資本と資本との交換」という表現には、資本循環の形態と商品流通の形態との関連についての混同が纏い付いている。〉(下187頁)

 こうしたマルクス批判も、やはり私には、マルクスにとっては濡れ衣でしかない、と思わざるをえない。というのは、大谷氏はあくまでも貨幣流通による媒介を前提にしてこうしたことを述べているのであるが、しかしマルクスが「資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換」という場合には、貨幣流通を捨象して問題を価値と素材の両面による補填関係として見ているのだからである。それは次のような一文に明瞭に表れている。

 《(3)さて、まず第一に労働者について言えば、素材的にみれば、事柄はあたかも、彼らは各人が自分の生産物のうちで彼のものとなる部分を現物で受け取り、これらの生産物を彼ら相互のあいだで交換しあう、というのと同じことである。つまり、収入と収入との交換である。》(『資本の流通過程』207頁)

 ご覧の通り、マルクスが収入と収入との交換》として述べているのは、あくまでも《素材的にみれば》という限定をつけ、しかも《事柄はあたかも》そうしたことと《同じである》と述べていることが分かる。これは部門で言えば、生活手段の生産部門(第1稿では《資本A》)の労働者について述べているのであるが、つまり素材的に見れば、さまざまな生活手段を生産している労働者たちは、結局、自分たちが生産した生産物(=生活手段、消費者によって収入として消費されることを予定している生産物)を互いに交換して消費するのと同じ結果になると述べているわけである。それがすなわち収入と収入との交換》ということでマルクスが述べている内容なのである。そしてこれは価値と素材の両面による補填関係としてみるなら、まったくその通りである。マルクスは問題を混乱して捉えていないことは、そのすぐあとで、次のようにも述べていることから明らかである。

 《というのは、資本家は商品のうちの労働者が受け取るはずの部分をも売るのであり、したがって労働者たちは生産物のうちの自分たちの分け前をたがいに直接に交換しあうわけではないからである》(同上)

 だから大谷氏にわざわざ指摘してもらわなくても、貨幣流通を考慮すれば、こうした収入と収入との交換》といったことが直接には妥当しなくなることぐらいはマルクスも十分承知の上で述べていることが分かるのである。しかし貨幣流通をとりあえずは捨象して総商品資本を価値と素材における両面からの補填関係として捉えるならば、それは、現実的(リアール)には、《資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換》に、結果としてはなるのだ(それと同じことである)、ということがマルクスが、この言葉で本来は述べていることなのである。それを大谷氏らはマルクスの主張を厳密に検討もせずに、自説の誤った前提--貨幣流通による媒介を捨象して考察することは出来ない、という--を絶対化して、常に貨幣流通による媒介を入れて問題を考えているから、こうしたマルクスの主張を混乱とするだけなのである。自己の誤った前提のもとに、マルクスを批判することこそ、混乱以外の何物でもないであろう。マルクス自身は大谷氏に指摘されなくても、貨幣流通を入れた場合にどうなるかについても、明確に問題を把握して論じているわけである。ただマルクスはそうしたものをいちいちその前提をその都度断って述べていないがために(その限りでは確かにマルクスもそれほど自覚的では無かったと言えるかも知れないが)、ある場合には素材的に問題を見たり、他の場合には貨幣流通を入れて考察しているがために、ある場合にはやや曖昧な表現と思える敍述をしてる場合もあれば、他の場合には正確に問題を論じている場合もあるというように、われわれには見えるだけなのである。私にはそのように思えるのである。

 さて、大谷氏は上記のようなマルクスの〈不明確〉な敍述が、第8稿の1877年3月に書かれた〈第一層〉でも、まだ見られるとして、二つの文を引用し、その不明確さを次のように指摘している。

 〈「社会の年間生産物中の生産手段から成っている部分の他の価値部分――したがってまたこの生産手段総量の可除部分のうちに存在する価値部分――は、同時に、この生産に参加したすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃金、資本家にとっての利潤、そして地代をなしている。」(S. 708.30–35.)
 ここで言う、「社会の年間生産物中の生産手段から成っている部分の他の価値部分――したがってまたこの生産手段総量の可除部分のうちに存在する価値部分――」、すなわち第 I 部門のv+mは、この部門の商品資本の一部ではあっても、けっして「この生産に参加したすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃金、資本家にとっての利潤と地代」ではありえない。
 その少しあとでも、次のように言う。
 「一方では、社会の年間総生産物をなしている商品資本の一方の種類の価値の一定の部分は、その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしてはいるが、しかし社会の収入の成分をなしてはいないのであり、また、他方の種類の商品資本の価値の一部分は、この種類の商品資本の個別的所有者すなわちこの投資部面で仕事をする資本家にとっての資本価値をなしてはいるが、それにもかかわらずそれはただ社会的収入の一部分でしかない、ということにスミスは気がついていたのである。」(S. 709.12–19.)
 ここで「社会の年間総生産物をなしている商品資本の一方の種類の価値の一定の部分」、すなわち第 I 部門の商品資本のv+mの部分は、それ自体としては、けっして「その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしている」のではなく、「他方の種類の商品資本の価値の一部分」、すなわち第II部門の商品資本のcの部分は、それ自体としては、けっして「社会的収入の一部分」ではない。〉
(下188頁、傍点は下線に変換してある)

  (この項目は次回に続きます。)

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