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2009年11月 2日 (月)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その61)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その1)

 さて、いよいよ最後の項目である。ここでは大谷氏が〈第2稿の第3章から第8稿の第3篇にかけて、マルクスが決定的な理論的飛躍を成し遂げた〉(下187頁)と評価する問題が論じられている。ここで論じられている問題は、簡単にいうなら、マルクスは当初は“可変資本は労働者の収入になる”というような論じ方をしている点が指摘され、それが第8稿では「自己批判」されているということなのである。大谷氏らの(というのはこうした指摘をするのは大谷氏に留まらず、宮川彰氏や伊藤武氏らも同様の主張を行なっているから)この主張は、確かに部分的には当てはまるところがあるように私には思えたこともあったのである。だから何を隠そう、私自身もそうした理解に以前は半ば賛意を示してもいた。しかし第8稿でマルクスがそれまでの自己の主張を「自己批判」しているとの判断には、やや行き過ぎの感が拭えなかった。というのは、確かにマルクスは第8稿以前の諸草稿のなかで、そうした概念的にやや首をかしげる表現をしていることは確かであるが、しかし同時に同じ文献のなかでも問題を正確に論じている場合も多々見られるからである。だから確かにマルクス自身に問題を十分意識的に整理して論じる姿勢が無かったにしても、マルクス自身が概念的に対象を十分に捉えておらず、混乱していたかに言われると抵抗を感じざるを得ないのである。ましてやマルクスが以前の自身の見解を「自己批判」しているなどという評価には、やはり違和感を禁じえなかった。だからこの問題での大谷氏の主張の批判的検討にはやや微妙なところがあり、問題をとにかく厳密に検討していくしかないと考えている。だから、この部分の検討も、あるいは読者の皆様には、まどろっこしいものと受けとめられるかも知れないが、ご容赦願いたい。というのは、この部分の批判的検討は、ある意味では自分自身が以前支持していた見解に対する、それこそ「自己批判」的検討でもあるからである。しかしとりあえず大谷氏の説明を追って行くことにしよう。

 まず大谷氏は第5-7稿でマルクスが第2部第1篇第1章を何度も書き直した内容について、次のように述べている。

 〈マルクスはその後も、貨幣資本の循環、生産資本の循環、商品資本の循環、という三つの循環形態が示しているものを正確に叙述する試みを繰り返した。
 そのなかでマルクスは、次第に、資本家がつねに貨幣形態で前貸しなければならず、したがってつねに貨幣形態で還流してこなければならない可変資本の運動の重要性に目を向けるようになる。資本の側ではG-W(A) である可変資本の前貸に対応する、労働者の側での労働力商品の変態はW(A)-Gであり、労働力を再生産するための流通W(A)-G-W(Km)の第一の変態である。その第二の変態であるG-W(Km) が労働者の収入の支出である。資本の変態と収入の支出が絡み合うのは、この第二の変態であって、可変資本の前貸であるG-W(A) は直接には収入の支出と絡み合ってはいない。このような関連や絡み合いの正確な把握には、資本の形態としての可変資本の変態の運動と労働者の商品である労働力の変態の運動との明確な区別、労働力商品の第二の変態としての、賃金の支出による消費手段への転化と資本家の側での商品資本の貨幣資本への転化との明確な区別が不可欠である。〉
(下187頁)

 こうした理解が大谷氏によれば、第5-7稿において第1篇第1章を繰り返し練り直すなかで到達したものだというのである。しかしこうした理解にはやはり納得が行かない部分が残るのである。というのは、第1稿の中にも次のように明確に問題を理解しているマルクスがいるからである。

 《他方、可変資本について言えば、それは貨幣の形態で労働者に前貸しされるのであって、労働者は、これと引き換えに彼の労働を引渡すが、その受け取った貨幣で彼は自分の生活手段を買う。労賃は労働の価値に、いなもっと正確に言えば労働能力の価値に等しい、と前提されているのだから、労働者は彼の全賃銀を彼の労働能力の再生産のために、それゆえ必需品の購入に支出する、ということが同時に前提されている。それゆえ、全可変資本が実際には(レアリーテル)収入として支出されるのであって、資本家にとってはそれは労働に転化するが、労働者にとってはそれは収入に転化する。》(『資本の流通過程』202頁)

 以前は私もこのマルクスの一文にはやや混乱が見られると受けとめていたのであるが、しかしよくよく吟味してみるとそうではないと思うようになった。ここでマルクスは可変資本は貨幣の形態で労働者に前貸されるということをまず指摘している。これは大谷氏が〈そのなかでマルクスは、次第に、資本家がつねに貨幣形態で前貸しなければならず、したがってつねに貨幣形態で還流してこなければならない可変資本の運動の重要性に目を向けるようになる〉などと述べている問題であるが、しかしそんなことはある意味では当たり前のことであり、改めて力説しなければならないことであろうか、との疑問は禁じえない。そして、労賃が労働力の価値の転化形態であることもここでは明確に語られている。しかしこれもまた当然のことであり、ことさら改めて強調しなけれはならないほどのことでもない。そしてそれが収入として生活必需品の購入に支出される。《それゆえ、全可変資本が実際には(レアリーテル)収入として支出される》と述べている。この一文が以前には、やや問題があると考えていたのである。しかしよく考えてみると、マルクスは《実際には(レアリーテル)》と限定して述べている。つまりマルクスはこの場合は貨幣を捨象して素材的に問題を見ているのである。というのは、マルクスはその直前(201頁)で《この考察においては貨幣流通(および貨幣資本としての形態にある資本)を捨象する》と前提しているからである(とは言うものの、マルクスはこれ以後においてもこうした前提を無視して、貨幣流通を入れた考察もやってはいるのであるが。ここらあたりはノートということからくる一定の厳密にさに欠けるところがあると言えば言えるかもしれない)。マルクスはここでは「可変資本が、実際には貨幣の形態で労働者に前貸されるが、しかしそれを労働者はすべて生活必需品の購入に支出するのであり、それが前提されているなら、貨幣流通を捨象すれば、全可変資本は実際には(レアリーテル)収入として支出される、つまり生活必需品との補填関係にある」と述べているのである。マルクスがこうした限定のもとに論じているものを(あるいは特に限定しなくても、特定の条件のもとに論じているものを)、大谷氏らは、常に貨幣流通による媒介を前提した上で(というのは大谷氏らは貨幣流通による媒介を捨象した考察の意義そのものを認めていないから--いうまでもなく私はそれは間違っていると考えている)、だから最初からマルクスが想定している条件とは違ったものを想定した上で、マルクスの敍述の不十分さや混乱を指摘しているように思えてならないのである。だからこの場合も、貨幣資本や貨幣流通を捨象して、問題を価値と素材との補填関係として見るなら、すべての可変資本は実際には(レアリテール)、つまり商品資本の価値の構成部分としては、収入に分解するものであり、素材的には、生活手段の生産部門の生産物と補填し合わなければならないと述べているのである。そしてそう理解すればここには何の問題もない。マルクスは同時に《資本家にとってはそれ(=可変資本--引用者)は労働に転化するが、労働者にとってはそれは収入に転化する》とも述べており、可変資本が資本の循環としては、その貨幣形態を脱ぎ捨てて、労働力に転換し、生産資本の形態をとることも明確に述べているわけである。だからこうした敍述を見れば、マルクス自身が問題を混乱して捉えているわけではないことが分かるのである。ただどういう前提のもとに論じているかについて必ずしもその都度マルクスは明確にせずに論じている場合が多いために、ある場合は価値と素材の面だけからその補填関係を論じ、ある場合には貨幣流通の媒介を入れて資本の形態転換の側面から捉えている等々ではないかと思うのである。それを大谷氏らは常に問題を一面的な前提のもとに--つまり貨幣流通による媒介のもとに--捉えようとするがために、そうしたマルクスの敍述に、問題が無区別に整理されずに論じられていると見えるだけであるように思えるのである。

   (この項目は次回に続きます。)

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