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2009年9月

2009年9月17日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その60)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


 (以下は、項目●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?の続きであり、その5[最終回]です。)


 明らかにここでマルクスが《重農学派やA. スミス以来の自由貿易学派が前提しているような,実際にはただ商品対商品の転換が行なわれるだけだ》という主張に対置しているのは、一方的購買や一方的販売という事態である。すなわち単純な商品流通ではなく、商品資本の流通においては蓄蔵貨幣もその媒介の必然的契機として入ってくるということである。そしてそれは単純再生産の場合の固定資本の補填においてすでに見たことであるが、《ここ》、つまり蓄積の場合においても同じであり、貨幣を蓄蔵する部門A、A'、等の単なる販売が、現実の蓄積を行なうB、B'等の単なる購買と価値額で一致することが均衡の条件として現われてくることを明らかに示しているのである。
 だからここでは〈個別諸資本の循環の絡み合い〉などを、直接にはまったくマルクスは問題にもしていないことが分かるであろう。そしてこれは当然である。何度もいうが、社会的総資本の運動には〈個別諸資本の循環の絡み合い〉が前提されていることは誰も否定しないし、否定しようがない。しかしそのことは社会的総資本の運動を考察する場合においても、直接に〈個別諸資本の循環の絡み合い〉を問題にするということとは別問題なのである。マルクスは第2稿第1章で次のように述べている(下線は引用者、下線部分に注目)。

 《個別資本ということで理解されなければならないのは、社会的総資本のうち個別資本家たちの資本として分離され機能している部分である。社会的資本はそのような個別諸資本からなるにすぎず、それゆえ社会的資本の運動は個別諸資本の諸運動の複合体からなるに過ぎない。けれども、この複合体そのものを描くことと、この複合体を構成する孤立的諸運動を描くこととは、別問題である(八柳訳第2稿、MEM研究No.7〔1989.7〕60頁)。

 また現行の第1篇第3章(第6稿)にもつぎのような一文がある(下線は引用者、下線部分に注目)。

 《たとえば、われわれが一国の一年間の総生産物を考察して、その一部分が全ての個別事業の生産資本を補填し他の部分が色々な階級の個人的消費にはいって行く運動を分析するならば、われわれはW'・・W'を、社会的資本の運動形態としても、また社会的資本によって生産される剰余価値または剰余生産物の運動形態としても、考察するのである。社会的資本は個別資本の総計(株式資本も含めて、また政府が生産的賃労働を鉱山や鉄道などに充用して産業資本家として機能する限りでは国家資本も含めて)に等しいということ、また、社会的資本の総運動は個別資本の諸運動の代数的総計に等しいということ、このようなことは決して次のことを排除するものではない。すなわち、この運動は、単純な個別資本の運動としては、同じ運動が社会的資本の総運動の一部分という観点から、したがって社会的資本の他の諸部分の運動との関連の中で考察される場合とは違った諸現象を呈するということ、また、同時にこの運動は、色々な問題、すなわち、個々の個別資本の循環の考察によって解決されるのではなくそのような考察では解決が前提されていなければならないような諸問題を解決すること、これである。》(24巻120-1頁)

 だからわれわれは、どうして大谷氏が第1稿の〈商品と商品との交換〉に対して第8稿では〈個別諸資本の循環の絡み合い〉にマルクスの視点が〈変化〉しているなどと主張されているのか皆目分からないのである。

 もう一つの(2)で大谷氏が指摘する〈変化〉なるものは、結局は、第1稿(あるいは第2稿)では、社会的総資本の再生産過程を、貨幣流通による媒介を考慮に入れて考察する場合に、蓄蔵貨幣の形態にある貨幣の役割やその運動を考察の対象にしていないが、第8稿ではそれを対象にしているということに過ぎない。確かにこれは事実としてはその通りである。しかしそれは、第1稿では、固定資本の補填も蓄積も貨幣流通による媒介を考慮して考察していないから、そうであるに過ぎないのであって、そのことは第2稿についても同じことが言える。そして第8稿では、ただ、そうしたそれまでの諸草稿では考察の対象になって来なかった問題が考察の対象になっているというだけのことである。しかし蓄蔵貨幣が蓄積や固定資本の補填といった資本の流通の過程でそれを媒介するための必然的な契機として現われてくるというようなことは、すでに第1部でもまた第2部第2章(篇)でも解明済みのことであり、決して第8稿で始めて解明されたというようなものではないのである。第8稿では、それを社会的総資本の再生産の観点から考察しているだけである。ついでにマルクスが第2稿において蓄積のためには蓄蔵貨幣の形成が必然的な一契機として入ってくることを論じている部分を紹介しておこう(これは第3章ではなく、第1章である。すでに指摘したが、第2稿の第3章では「拡大された規模での再生産。蓄積」は論じられなかった)。

 《変化する他のあらゆる事情を捨象するとしても、それにもかかわらず、生産過程が拡大されうる諸比率は、恣意的なものではなく、生産過程の性格に規定されていることを念頭に置かなければならない。すなわち、貨幣に転化された剰余価値は、例え資本化するように予定されていても--資本化によってさまざまな循環の反復が〔行なわれうる〕--、現実に追加資本として機能しうるような大きさにまで、すなわち過程進行中の資本価値の循環に入り込みうるような大きさにまで、蓄積されなければならないことがありうる。このような場合には、剰余価値はしばらく潜在的貨幣資本として、すなわち蓄蔵貨幣形態で存在する。したがって、厳密に言えば、ここでは蓄蔵貨幣の形成は、資本主義的蓄積過程から生じるがそれでもこの過程とは本質的に区別される一契機として、現われる。なぜなら、潜在的貨幣資本の形成によっては、再生産過程そのものは拡大されていないからである》(八柳訳第2稿、MEM研究No.7〔1989.7〕51頁)。

 だからマルクスが第1稿や第2稿でそうした問題を考察していないから、そうした問題が分かっていなかったということには決してならないし、ましてやだから第1稿や第2稿の段階におけるマルクスに〈貨幣ベール観〉〈残滓〉があったのだなどとは決して言えないのである。

 もちろん、マルクス自身にも、第1稿や第2稿では、表現に曖昧さを残すものがあったというならその通りである。そして第8稿ではより厳密に問題が論じられている、等々というようなものはいくらでもあるであろう(例えば上記の引用文中、マルクスは潜在的貨幣資本を「蓄積」すると述べているが、第8稿ではこうした表現は消えて、厳密に「蓄蔵」すると述べている等々)。しかしそのことはマルクスが第1稿や第2稿では〈貨幣ベール観〉を古典派経済学と共有していたなどということには決してならないし、その〈残滓〉があったなどということもできないのである。概念に曖昧さがあったり、問題が十分整理されていなかったということと、古典派経済学的な限界を残していたということとは決して同じではないからである。あくまでもマルクスが、社会的総資本の再生産の過程を、理論的により深く解明していく過程で、問題がより整理され、概念もより厳密化されていったということに過ぎないのである。

2009年9月12日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その59)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


 (以下は、項目●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?の続きであり、その4です。)


 さて、大谷氏はこのように二つの〈変化〉を指摘したあと、次のようにそれをまとめている。

 〈この二つの変化が意味するのは、一言にして言えば、「経済学、ことに重農学派やA・スミス以来の自由貿易学派がやっているような、実際にはただ、商品と商品との転換が行なわれるだけだということを前提すること」(S. 794.39–41)という、古典派経済学に纏い付いていた貨幣ベール観の最終的な払拭であり、第二稿までのマルクスにもなお残っていたその最後の残滓の除去であり、それによるマルクス独自の社会的再生産の理論の最終的仕上げである。〉(下186-7頁)

 しかしこれはマルクスに対する不当な言い掛かりであるとしか言いようがない。大谷氏は何をもって、〈貨幣ベール観〉〈残滓〉が、〈第二稿までのマルクスにもなお残っていた〉と主張されるのであろうか。大谷氏は〈この二つの変化が意味するのは〉と述べている。つまり、これまで考察した〈二つの変化〉からそう結論付けているわけである。だからそれまでの大谷氏の主張をもう一度振り返って整理してみよう。
 まず大谷氏は〈第1稿から第2稿を経て第8稿にいたる過程で、第3章(第3篇)でのマルクスの叙述には、さまざまの点での変遷が見られたが、決定的であるのは、社会的総再生産過程の分析の中心課題の変化〉だと主張され、そして〈社会的総再生産過程の分析の中心課題〉がどのように〈変化〉したかを論じてきた。それを大谷氏は第1稿と第8稿とを比較して、次の二つの〈変化〉であると主張されたわけである。

(1)一つは〈社会的総再生産過程を観察するさいに〉〈第1稿では、……主として、再生産の諸要素のあいだの交換、したがって結局は、商品と商品との交換に目を向けていた〉のが、〈第8稿では、……二つの部門にまとめられた個別諸資本の循環の絡み合いに目を向けるようになった、という変化〉というものであった。
(2)もう一つは〈社会的総再生産過程における貨幣の役割〉を問題にされ、〈第1稿では、……主として素材変換を媒介する流通手段の機能に見てい〉たが、〈第8稿では、……流通手段としての貨幣の機能と蓄蔵貨幣の形態にある貨幣の機能との区別は厳然として貫徹しているだけでなく、再生産過程におけるこの二つの機能を峻別することによってはじめて、単純商品流通とは異なる資本主義的流通過程の独自の諸現象を解明して〉いると主張され、さらに〈再生産過程における貨幣運動〉としても〈第1稿では、……いわゆる「貨幣還流法則」――すなわち流通手段の前貸と還流の法則――とそのバリエーションでしかなかったのにたいして、第8稿では、……流通手段の前貸と還流の運動とは明確に区別されるべき、一方的販売および一方的購買による、蓄蔵貨幣から流通手段へ、流通手段から蓄蔵貨幣へという反対方向への二つの貨幣運動を明確に摘出している、という変化〉というものであった。

 しかしすでに検討したように、(1)で述べている問題は、むしろ大谷氏の側の混乱としかいいようがない問題意識である。社会的な総資本の再生産過程において、〈個別諸資本の循環の絡み合い〉といったものが直接の対象になりうると考えること自体が間違っているからである。それは前提されているというなら否定はしないが、それ自体が直接の対象にはなりようがないからである。もし大谷氏がそうした〈個別諸資本の循環の絡み合い〉を直接対象にして社会的総資本の再生産過程を考察できるというならやって貰いたいものである。個別諸資本というのは、それを構成する諸部分すら、循環や回転期間がそれぞれ異なっており、それらは極めて複雑に絡み合っているのである。そうしたものをそのまま前提してそれを対象に科学的な考察ができる筈はないのである。科学的には現実の複雑な錯綜したものをそのまま前提するのではなく、物理学や化学における実験のように、一定の純粋な条件をわれわれの抽象力によって前提して考察する以外にやりようがないのである。そして社会的総資本の再生産においては、マルクスはすべての資本が年一回転する(流通期間はゼロ)という条件のもとに考察している。だから社会的には大きくは第 I 部門と第II部門、すなわち生産手段の生産部門と消費手段の生産部門が前提され、第 I 部門には、さらに消費手段の生産のための生産手段を生産する部門と生産手段の生産のための生産手段を生産する部門が、第II部門には、必要消費手段の生産部門と奢侈品を生産する部門にそれぞれ分けられているが、しかしそれらはまだ決して〈個別諸資本〉などは決してない。それは大部門に対して、中部門を構成するだけである。それ以上のより詳細な生産部門の区別はマルクス自身は考察していない(ましてや〈個別諸資本〉など問題にもしていない)。そしてそれぞれの生産部門間のそれぞれの商品資本の価値構成の諸部分が如何に補填し合うかを考察しているのであって、ここには〈個別諸資本の循環〉など出てくることはないし、ましてそれらの〈絡み合い〉もまったく出てくる余地はないのである。そしてこれ以外にわれわれは社会的な総資本の再生産過程を科学的に考察する方法を知らないのである。いやそうではない、社会的総資本の再生産の考察においても〈個別諸資本の循環の絡み合い〉が考察されなければならないと、大谷氏がいうのであれば、何度もいうが、是非、その見本を見せて貰いたいものである。そしてマルクスが第8稿でそうした考察を行なっているというのであれば、マルクスのそうした文章をお示し頂きたい。大谷氏はマルクスは第8稿で〈個別諸資本の循環の絡み合い〉という視点を新たに据えていると言いながら、何一つ具体的にマルクス自身の文章を示していないからである。

 大谷氏が〈第8稿では、……二つの部門にまとめられた個別諸資本の循環の絡み合いに目を向けるようになった〉ということに対置されているのは、〈第1稿では、……主として、再生産の諸要素のあいだの交換、したがって結局は、商品と商品との交換に目を向けていた〉ということである。この後者の〈商品と商品との交換〉というのは、最初に大谷氏がマルクスから引用した文章の中にある言葉である。果たしてマルクスは、大谷氏が引用した文章において、この〈商品と商品との交換〉に対して、何を対置しているのか、本当に〈個別諸資本の循環の絡み合い〉を対置しているのかをわれわれは検証してみよう。まずそれが分かるように、マルクスの文章を大谷氏が引用してる前後を含めて少し長く引用してみよう(大谷氏が引用した部分を赤字で示す)。

 《ついでに,ここでふたたび,次のことを述べておこう。以前(単純再生産の考察のところで)と同様に,ここでふたたびわれわれは次のことを見いだす。年間生産物のさまざまな構成部分の転換,すなわちそれらの流通{これは同時に,資本の構成部分の回復――単純な規模での,または拡大された規模での資本の再生産,しかもさまざまな規定性における資本(不変資本,可変資本,固定資本,流動資本,貨幣資本,商品資本)の再生産――でなければならない}は,われわれが1)〔単純再生産〕のところで,たとえば固定資本の再生産のところで見たのとまったく同様に,けっして,あとから行なわれる販売によって補われるたんなる商品購買,またはあとから行なわれる購買によって補われるたんなる販売を前提していない。したがって,経済学,ことに重農学派やA. スミス以来の自由貿易学派が前提しているような,実際にはただ商品対商品の転換が行なわれるだけだということを前提してはいないのである。単純再生産のところで見たように,たとえば不変資本IIcの固定諸成分の周期的更新{――(その総資本価値は (v+m)( I ) の諸要素に転換される),それは,固定資本の最初の出現〔と更新〕との中間期間には,つまりその機能期間の全体にわたって,まだ更新されないで以前の形態のままで働き続けるが,他方ではそれの価値がだんだん貨幣として沈澱していく――}は,cIIのうち貨幣形態から現物形態に再転化する固定部分のたんなる購買を前提するが,この購買にはm( I ) のたんなる販売が対応する。他方ではそれは,cIIのたんなる販売(すなわちcIIのうち貨幣として沈澱する固定価値部分の販売)を前提するが,この販売にはm(I) のたんなる購買が対応する。この場合に転換が正常に行なわれるためには,たんなる購買(cIIの側からの)が価値の大きさから見てたんなる販売(cIIの側からの)に等しいということ,また同様に,m( I ) からcIIのA)へのたんなる販売がcIIのB)からのm( I ) のたんなる購買に等しいということが前提される。〔/〕同様にここでは,m( I ) のうちの貨幣蓄蔵部分であるA,A' のたんなる購買(「販売」の誤記?--引用者)が,m I のうちの,蓄蔵貨幣を追加生産資本の諸要素に転化させる部分であるB,B',等々と均衡を保っている,ということが前提される。》(草稿51、大谷訳上48-9頁、〔/〕は引用者が付けた)

 実はこの引用文に続く文章は、われわれが先に(1)(2)と便宜的に番号を打って紹介した文章なのである。
 この引用文では、前後の関連が分かりにくいので注意が必要なのは、マルクスは単純再生産のときに考察した固定資本の補填のケースについて論じているのであるが、それはあくまでも蓄積に関連させて論じているということである。だから最初の部分(大谷氏が引用した部分まで)と、〔/〕以下の部分とは蓄積について述べているということである。すなわち、最初に2回出てくる《ここでふたたび》と、〔/〕以下で出てくる《同様にここでは》の、《ここ》とは、同じ内容であり、それまで考察してきている部門 I における不変資本の蓄積の場合のことである。それに気をつけて、この文章を検討して頂きたい。

 (この引用文の検討は、字数オーバーになるために、次回でやります。)

2009年9月10日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その58)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


 (以下は、項目●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?の続きであり、その3です。)


 次に大谷氏が〈中心課題のこの変遷のなかに、二つの点での大きな変化を見る〉としている二つ目というのは、次のようなものである。

 〈第二に、第1稿では、社会的総再生産過程における貨幣の役割を主として素材変換を媒介する流通手段の機能に見ていて、再生産過程における貨幣運動は、いわゆる「貨幣還流法則」――すなわち流通手段の前貸と還流の法則――とそのバリエーションでしかなかったのにたいして、第8稿では、社会的総再生産過程においても、流通手段としての貨幣の機能と蓄蔵貨幣の形態にある貨幣の機能との区別は厳然として貫徹しているだけでなく、再生産過程におけるこの二つの機能を峻別することによってはじめて、単純商品流通とは異なる資本主義的流通過程の独自の諸現象を解明しており、再生産過程における貨幣運動については、流通手段の前貸と還流の運動とは明確に区別されるべき、一方的販売および一方的購買による、蓄蔵貨幣から流通手段へ、流通手段から蓄蔵貨幣へという反対方向への二つの貨幣運動を明確に摘出している、という変化である。こうした変化が、まず貨幣流通を捨象し、次にそれを導入して叙述するという二段構えの叙述方法を放棄したことと深く結びついていたことは、ここで再説するまでもないであろう。〉(下186頁)

 第1稿では資本の流通過程の契機として蓄蔵貨幣の役割を見ていなかったというのであるが、しかし固定資本の補填や蓄積を貨幣流通を媒介にして考察しない限り、それが問題にならないのは当然ではないだろうか。それらが第8稿では考察の対象になったというに過ぎないのである。しかしだからと言って、蓄積や固定資本の補填において蓄蔵貨幣が資本の流通において必然的な契機として入ってくるということが第8稿で初めて解明されたかに考えるのはまったく間違っている。まず蓄積についていうなら、すでに見たように、第8稿の《蓄積または拡大された規模での生産》と題された最初の部分、すなわち第1、第2パラグラフで個別資本を例に論じたときに、《第1部では、蓄積が個々の資本については次のように現われる》と述べていたように、こうした問題はすでに「第1部 資本の生産過程」で、すでに個別資本の観点から明らかにされていたことなのである。だから蓄積のためにはそれに先立って一定の必要な額になるまで貨幣蓄蔵が必要となるということは第一部で解明済みである。だから資本の流通過程で蓄蔵貨幣の形成が必然的にその契機に入ってくるというようなことは自明のことだったのである。また固定資本の補填についても、すでに第2部第2篇の「固定資本の回転」を論じたときに、それは指摘されていたことである(これは第2稿ではあるが)。固定資本を流動資本と区別するのは、まさにその価値の移転の相違によるのであって、だから固定資本はその部分的な磨滅とともに、その磨滅分が蓄蔵貨幣の形態で堆積され、そして完全に磨滅した時点で、その堆積され終わった蓄蔵貨幣で、固定資本全体が更新されるといったことはすでに考察済みのことなのである。このことは、例えば次のような一文をみれば、明瞭である。

 《われわれがこれらのことを、ただ単純な貨幣流通だけを前提して、もっと後ではじめて展開される信用制度を少しも顧慮することなしに、考察するならば、運動の機構は次のようなものである。第一部(第三章第三節a)で明らかにしたように、ある社会に現存する貨幣の一部分はいつでも蓄蔵貨幣として遊休しており、他の部分は流通手段として、または直接に流通している貨幣の直接的準備金として機能しているとしても、貨幣の総量が蓄蔵貨幣と流通手段とに分かれる割合は絶えず変動する。われわれの場合には、ある大きな資本家の手の中に蓄蔵貨幣として大量にたまっているはずの貨幣が、いま固定資本の購入にさいして一度に流通に投げ込まれる。それはそれ自身また社会の中で再び流通手段と蓄蔵貨幣として分けられる。固定資本の損耗の程度に応じてその価値は償却基金という形で出発点に還流するのであるが、この償却基金によって、流通貨幣の一部分は、前に固定資本を購入したときに自分の蓄蔵貨幣を流通手段に転化させて手放したその同じ資本家の手の中で、再び--長短の期間--蓄蔵貨幣を形成する。それは、社会に存在する蓄蔵貨幣の絶えず変動する分割であって、この蓄蔵貨幣は交互に流通手段として機能してはまた再び蓄蔵貨幣として流通貨幣量から分離されるのである。大工業と資本主義的生産との発展に必然的に並行する信用制度の発展につれて、この貨幣は蓄蔵貨幣としてではなく資本として機能するのであるが、しかしその所有者の手の中でではなく、その利用をまかされた別の資本家たちの手の中で機能するのである。》(第2部全集版222頁)

 だから第8稿であらためて、社会的総資本の再生産の観点から、そうしたことが論じられたからと言って、そうしたことが第8稿で初めて解明されたかに考えるのは間違いである。第8稿では、そうした問題が社会的な年間再生産の過程として貨幣流通を媒介にして考察されているだけなのである。

 そして大谷氏は問題が〈貨幣運動〉であるかに述べているのは、如何なものであろうか。例えば第1稿では〈いわゆる「貨幣還流法則」――すなわち流通手段の前貸と還流の法則――とそのバリエーションでしかなかったのにたいして、第8稿では……再生産過程における貨幣運動については、流通手段の前貸と還流の運動とは明確に区別されるべき、一方的販売および一方的購買による、蓄蔵貨幣から流通手段へ、流通手段から蓄蔵貨幣へという反対方向への二つの貨幣運動を明確に摘出している、という変化である〉と述べている。しかし第8稿でマルクスが考察の対象にしているのは、大谷氏が指摘するような〈貨幣運動〉といったものではない。例えば次の一文を検討してみよう。

 (1)購買のあとに販売が,また販売のあとに購買が同じ価値額で続いて行なわれるということによって均衡がつくりだされるかぎりでは,購買のさいに貨幣を前貸した側への,ふたたび買うまえにまず売ったほうの側への貨幣の還流が行なわれる。しかし,商品転換そのもの――年間生産物のさまざまな部分のそれ――にかんする現実の均衡は,互いに転換される諸商品の価値額が等しいということを条件とするのである。
 
(2)しかし,たんに一方的な諸変態,すなわち一方では大量のたんなる購買,他方では大量のたんなる販売が行なわれるかぎり――そしてすでに見たように資本主義的な基礎の上での年間生産物の正常な転換はこれらの一方的な変態を必然的にする――,均衡はただ,一方的な購買の価値額と一方的な販売の価値額とが一致することが前提されている場合にしか存在しない。商品生産が資本主義的生産の一般的形態だということは,貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本として資本主義的生産において演じる役割を含んでいるのであり,またそのことは,単純な規模のであれ拡大された規模のであれ再生産の正常な転換の,正常な経過の,この生産様式に特有な一定の諸条件を生みだすのであるが,均衡は――この生産の形成は自然発生的であるので――それ自身一つの偶然だから,それらの条件はそっくりそのまま,不正常な経過の諸条件に,恐慌の諸可能性に一転するのである。》(草稿51頁、大谷訳上48-49頁、(1)、(2)は引用者が便宜的に付けた)

 ここでマルクスが述べていることは、まさに大谷氏が第1稿と第8稿の〈変化〉として論じている内容と同じものが明らかにされている。(1)の内容は大谷氏が第1稿でマルクスが主に考察していると述べているものであり、(2)の内容はマルクスが第8稿で論じているものだとしていることである。しかしいずれもマルクスが問題にしているのは、「均衡の条件」である。確かに(1)では、購買のさいに貨幣を前貸した側への,ふたたび買うまえにまず売ったほうの側への貨幣の還流が行なわれる》「貨幣の還流法則」についても言及しているが、しかしマルクスが主として論じていることは、商品転換そのもの――年間生産物のさまざまな部分のそれ――にかんする現実の均衡は,互いに転換される諸商品の価値額が等しいということを条件とする》ということである。
 ましてや(2)では貨幣運動など問題にもなっていない。ここでも問題なのは、《均衡はただ,一方的な購買の価値額と一方的な販売の価値額とが一致することが前提されている場合にしか存在しない》という「均衡の条件」なのである。そしてこれこそ商品生産が資本主義的生産の一般的形態だということは,貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本として資本主義的生産において演じる役割を含んでいるのであり,またそのことは,単純な規模のであれ拡大された規模のであれ再生産の正常な転換の,正常な経過の,この生産様式に特有な一定の諸条件を生みだす》とマルクスが述べていることの本当の内容なのである(なぜこういうことを強調するかというと、第8稿では、貨幣は流通手段としてだけではなく、貨幣資本としても捉えられていることを強調する人たちは、実際には、その内容について、つまり貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本としても捉えられる必要があるということでマルクスが実際には何をいわんとしているのかということについて、あまりにも曖昧であり、だからとんでもないことまで言い出しているからである。例えば社会的総資本の再生産過程を商品資本の循環として捉えるだけでは不十分で、貨幣資本の循環としても捉える必要がある、などという大谷氏の主張などはその典型である!)。だから問題は〈一方的販売および一方的購買による、蓄蔵貨幣から流通手段へ、流通手段から蓄蔵貨幣へという反対方向への二つの貨幣運動を明確に摘出〉することなどにあるのではないのである。
 そしてこれはもはや言うまでもない事であるが、ここで大谷氏が、氏が言うところの〈中心課題の変化〉〈まず貨幣流通を捨象し、次にそれを導入して叙述するという二段構えの叙述方法を放棄したことと深く結びついていた〉などと述べていることもまったく正しくないことは、すでにこれまで述べてきたことからも、十二分に論証されていると思う。

 (この項目は、次回に続きます。)

2009年9月 9日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その57)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


 (以下は、項目●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?の続きであり、その2です。)


 さらに問題なのは、大谷氏が〈第8稿では、二つの部門にまとめられた個別諸資本が、諸要素の転換運動に媒介されて経ていく価値増殖と価値実現の運動に、したがって結局は、二つの部門にまとめられた個別諸資本の循環の絡み合いに目を向けるようになった〉などと述べていることである。先に引用した文章のなかでも、〈社会的総再生産過程における個別諸資本の循環の相互の絡み合いを明らかに〉しているという文言があったが、こうした理解はまったく納得がいかない。どうして〈個別諸資本の循環の絡み合い〉なのか。そんなことを第8稿のどこでマルクスは論じているというのであろうか、まったくもって不可解である。われわれが知っているのは、マルクスが《蓄積または拡大された規模での生産》と題した草稿の最初のあたりで、個々の資本家にとって現われた現実の蓄積は、年間再生産においても現われざるをえないと述べて、われわれがこれから対象にするのは《年間再生産》であり《年間の社会的再生産》であると述べていたことである。確かに《年間の社会的再生産》には個別諸資本の運動が含まれていること、あるいは〈個別諸資本の循環〉〈絡み合〉って存在していることが前提されているというならそうである。しかしそのことは年間の社会的再生産においては、直接には考察の対象としては現われないのである。それはただ前提されているだけである。そればかりかマルクスは社会的総再生産の過程をすべての資本が年1回転すると仮定して考察している。つまり個別諸資本がすべて年1回転するということは、流通期間をゼロとするなら、結局、すべての資本が周期を同じくして年1回転することを意味するのであり、だから個別諸資本の循環の絡み合いと言っても、そこには自ずから制限があることは最初から明らかなのである。個々別々の諸資本がそれぞれ異なった周期や循環期間を異にして絡み合っているような実際の社会的総資本の再生産過程をそのまま直接前提しては科学的な考察は不可能だからである。もしマルクスが第8稿では〈個別諸資本の循環の絡み合いに目を向ける〉ようになったというなら、具体的にマルクス自身の敍述を引き合いに出してそれを説明すべきであろう。

 確かに、マルクスは第8稿では、次のような〈絡み合い〉については論じている。

 《労働者階級 I によって労働力がたえず販売されるということ,〔 I の〕可変資本部分が彼らの商品資本の一部分から貨幣資本へと回復されること彼ら〔II〕の不変資本の一部分が彼らの商品資本の一部分から彼らの不変資本の自然形態へと補填されること,--これらは互いに条件となり合っているが,しかし非常に複雑な過程によって媒介されるのであって,この過程は実際には次の3つの互いにからみ合いながら互いに独立に進行する流通過程を含んでいるのである。
 1)労働者( I )の側ではA-G(=W-G),資本家 I への彼らの労働力の販売。G-W(II)(資本家IIの諸商品の購買。したがって,A-G( I )…G-W(II)。結果--(労働力)を維持し,それをふたたび商品として《労働》市場( I )で〔売ることができる〕。
 2)資本家II)の側ではW-G(労働者 I への彼らの商品の販売)…G-W(資本家 I の諸商品(v I )の購買)。結果--彼らの不変資本の一部分の,現物形態への回復
 3)資本家 I )の側ではG-A(労働力 I の購買)-W-G資本家IIへの彼らの商品の一部分の,すなわち労働者 I によって新たに創造された(v+m) I のうちのv部分の販売)。結果--彼らの可変資本価値の,商品資本( I )の価値部分から可変貨幣資本としての回復
 過程そのもののもつこの複雑さが,そっくりそのまま,不正常な経過にきっかけを与えるものとなるのである。》
(大谷訳上51-2頁)

 この部分はエンゲルスが編集の段階で削除した部分であるが(エンゲルスはこの部分の敍述が必ずしも拡大再生産に固有の問題ではないと考えて削除したのかも知れないが)、しかし非常に重要なことを論じていることは確かである。だがここでマルクスが述べていることは決して〈個別諸資本の循環の絡み合い〉といったものではない。まずどこにも〈個別諸資本〉などでて来ない。ここでマルクスが述べているのは次のようなことである。まずマルクスは、このパラグラフの一つ前のパラグラフで、一方的販売による貨幣蓄蔵と一方的購買による蓄蔵貨幣の現実の蓄積のための投資とが、価値量において釣り合わなければならないが、しかしそれは資本主義的生産においてはまったく偶然的であり、だからそれらは恐慌の諸可能性に転化すると述べていた。そしてこのパラグラフでは、一方的販売や一方的購買という点では、こうした過程においてもまったく同じことが言えるとマルクスは指摘しているのである。例えば労働者 I は常に資本家 I に彼らの労働力をただ一方的に販売するだけで、販売の見返りに資本家 I からその生産物を購入するわけではないこと、労働者 I は、資本家IIから一方的に生活手段を購買するだけで、彼らに労働力を売るわけではないこと、逆に資本家IIは労働者 I に一方的に生活手段を販売するだけであること、資本家 I は資本家IIに可変資本部分(生産手段)を一方的に販売するが、資本家IIから必要生活手段を購入するわけではないこと、等々。つまりこれらの過程はすべて一方的であり、相互に独立した流通過程であるが、にもかかわらずそれらは社会的には、偶然的な諸運動を通じて、量的に釣り合う必要があるのである。だからこそ、こうした過程の複雑さは、そのまま不正常な経過にきっかけを与えるのだということなのである。どこにも〈個別諸資本〉などでて来ないし、また〈個別諸資本の循環の絡み合い〉といったものが問題になっているわけではない。ここで問題になっているのは、やはり社会の総商品資本と労働力とが貨幣流通を媒介して相互に転換し合い補填し合う過程での〈絡み合い〉なのである(もちろん、ここで対象になっているのはそのすべてではなく、その一部分なのではあるが)。

 (この項目は次回に続きます。)

2009年9月 8日 (火)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その56)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?

 先に見たように、大谷氏は〈第8稿における拡大再生産の分析の……特色〉〈貨幣ベール観の最終的克服〉にあると考えているのである。果たしてそうした理解は正しいのか、具体的に検討していこう。

 まず大谷氏は〈それでは、第3章(第3篇)をめぐるマルクスのこの悪戦苦闘の過程は、その全体を見るとき、彼にとってどのような意味をもつ過程だったのであろうか〉(下185頁)と述べて、【再生産過程の分析におけるマルクスの苦闘の意味】 という項目を立てて考察を始めている。そこでは〈第1稿から第2稿を経て第8稿にいたる過程で、第3章(第3篇)でのマルクスの叙述には、さまざまの点での変遷が見られたが、決定的であるのは、社会的総再生産過程の分析の中心課題の変化〉(下185-6頁)だと述べて、〈社会的総再生産過程の分析の中心課題〉がどのように〈変化〉したかを論じている。しかし、奇妙なことに、大谷氏は第1稿と第8稿とを比較しながら、どうしてか第2稿を抜かしているのである。すなわち次のように述べている。

 〈第1稿では、中心課題を、総商品資本あるいは総商品生産物の諸要因のあいだでの「実体的転換」、すなわち「素材的変換」の解明に見て、この解明のためには、まずもって、これらの転換を媒介する貨幣の運動を捨象することによって、再生産過程の核心的な運動を把握すべきであり、この運動を媒介する貨幣の運動の考察は、いわばそれに付随するものでもあるかのように副次的に取り扱われていた。それにたいして、第8稿では、分析の中心課題は、流通手段としての貨幣の機能と蓄蔵貨幣の形態にある貨幣の機能とが再生産過程のなかで果たす、それぞれ異なった役割を明確に把握することによって、社会的総再生産過程における個別諸資本の循環の相互の絡み合いを明らかにするとともに、それら資本の循環と貨幣運動との絡み合いとを全体的に解明する、というところに置かれている。〉(下186頁)

 確かに第1稿では貨幣流通による媒介を入れた考察とそれを捨象した考察とが入り交じり、マルクスはそうした敍述の問題点を自身で反省して、《最終的な敍述では》この両者分離して論じるべきということを述べている(大谷他訳前掲邦訳書213頁)。だから第2稿では、それはいわゆる「二段の敍述構成」として具体化され、「流通過程および再生産過程の現実的諸条件」と題された第3章(篇)の「第1節 社会的観点から考察された可変資本、不変資本および剰余価値」では、「A 単純再生産」「a 媒介する貨幣流通のない説明」「b 媒介する貨幣流通のある説明」とに分けられ、B 拡大された規模での再生産。蓄積」も、「a 貨幣流通のない敍述」「b 貨幣流通のある敍述」とに分けられているのである(八柳良次郎訳第2草稿、前掲訳5頁)。
 ところが大谷氏は、この第2稿についてはどうしてかまったく不問にして、第1稿と第8稿だけを直接較べているのである。〈マルクスの叙述…(の)…変遷〉を問題にするのなら、当然、その敍述が第2部全体をカバーしている第2草稿を論じないのは片手落ちといわざるをえないであろう。だからここには明らかに何らかの意図があると思わざるをえない。
 確かに第1稿では、主要には、大谷氏がいうように、〈総商品資本あるいは総商品生産物の諸要因のあいだでの「実体的転換」、すなわち「素材的変換」の解明〉に重点を置いているというならそうかもしれない。しかし、マルクス自身が《最終的な敍述では、この第1節を、(1)総再生産過程における商品資本の現実的素材変換、(2)この素材変換を媒介する貨幣流通、という二つの部分に分離した方がよいであろう。いまそうなっているように、貨幣流通を考えに入れることは、たえず展開の脈絡を破ることになるからだ。》(前掲大谷他訳第1稿213頁)と述べているように、第1稿では貨幣流通を考慮に入れた考察も行なわれているのである。そして第8稿では、大谷氏が〈流通手段としての貨幣の機能と蓄蔵貨幣の形態にある貨幣の機能とが再生産過程のなかで果たす、それぞれ異なった役割を明確に把握〉しているというように、問題は最初から貨幣流通による媒介を考慮して取り上げられているのである。しかしそのことは、マルクスの問題意識が、すなわち〈社会的総再生産過程の分析の中心課題〉〈総商品資本あるいは総商品生産物の諸要因のあいだでの「実体的転換」、すなわち「素材的変換」の解明〉から〈流通手段としての貨幣の機能と蓄蔵貨幣の形態にある貨幣の機能とが再生産過程のなかで果たす、それぞれ異なった役割を明確に把握〉することに〈変化〉したことを意味するのでは決してない。マルクスの問題意識は最初から一貫している。つまり《総再生産過程における商品資本の現実的素材変換》《この素材変換を媒介する貨幣流通》をともに考察することである。ただ第1稿では、その両方が分離されずに論じられていたのが、第2稿では、それらが整然と分離されて論じられており、第8稿では、そのうち第2稿では、十分展開されなかった貨幣流通による媒介を考慮した敍述を中心に補足的に論じられているだけなのである(だからそれは、何度もいうが、大谷氏やエンゲルスが主張しているような、〈新しい観点にもとづいて第3章を全面的に書き直したもの〉では決してないのである)。もし〈変遷〉いうなら、問題がより深められ、より整理されており、また諸概念がより厳密にされて行っていること、さらにいまだ不十分で手つかずの部分だったものが一つ一つ解明されて埋められて行っているということであろうか。しかしそのことはマルクスの問題意識や分析の重点が〈変化〉したことを決して意味しないのである。

 さて、大谷氏は〈中心課題のこの変遷のなかに、二つの点での大きな変化を見ることができる〉(下186頁)として、二つのものを上げている。その最初のものは次のようなものである。

 〈第一に、第1稿では、社会的総再生産過程を観察するさいに、主として、再生産の諸要素のあいだの交換、したがって結局は、商品と商品との交換に目を向けていたのにたいして、第8稿では、二つの部門にまとめられた個別諸資本が、諸要素の転換運動に媒介されて経ていく価値増殖と価値実現の運動に、したがって結局は、二つの部門にまとめられた個別諸資本の循環の絡み合いに目を向けるようになった、という変化である。〉(下186頁)

 まず問題の重点が移っている、というなら確かにそうである。しかしそのことは最初の考察が否定されて、新しいものに変化したことを意味するのではない。例えば第1稿では〈商品と商品との交換に目を向けていた〉のに、第8稿では、〈個別諸資本の循環の絡み合いに目を向けるようになった〉と大谷氏はいうのであるが、第8稿の重点をこのように捉えることの問題点はとりあえずおいていても(これはすぐに後で問題にする)、第8稿では〈商品と商品との交換〉という契機がどうでも良くなったかに理解するなら、とんでもないことなのである。社会的総資本の再生産過程を商品資本の循環として考察するということは、結局は、総商品資本が社会的に、素材的にも価値的に如何に補填し合うかが問題になるのであり、その限りでは〈商品と商品との交換〉として現われるからである。もちろん、それらは単純な商品の交換ではなく、商品資本の流通である。だからそこには固有の新しい条件が加わってくる。例えば固定資本の補填や蓄積という条件において、社会的な総再生産過程を考察する場合には、蓄蔵貨幣とその量が再生産の新しい条件となってくる。しかし蓄蔵貨幣が諸資本の再生産を媒介する貨幣の新しい形態として加わるにしても、そうした蓄蔵貨幣も流通にでて行くときは流通手段として機能するのであり、流通過程ではもちろん直接的ではないにしても、やはり〈商品と商品との交換〉を媒介するものとして現われるのである。あるいはそうしたものが一つの条件になるのである。例えば蓄蔵貨幣が流通にでて行く場合には、それは一方的な購買として現われる。その限りではそれは〈商品と商品との交換〉ではないかに見える。しかしそれを社会的な再生産の一契機として捉えるなら、そうした一方的な購買に対しては、他方における一方的な販売、すなわち商品を販売するだけで販売して入手した貨幣を蓄蔵する行為が対応しなければならず、こうした条件を全体として見るなら、社会的には、直接的ではないにしても、やはり一方における商品の購買に対しては、他方における商品の販売が対応しており、〈商品と商品との交換〉が成り立っているし、そうでなければならないのである。ただ問題がより複雑になり、内容規定がより豊かになっているだけに過ぎない。

  (この項目は次回に続きます。)

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