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2009年9月17日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その60)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


 (以下は、項目●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?の続きであり、その5[最終回]です。)


 明らかにここでマルクスが《重農学派やA. スミス以来の自由貿易学派が前提しているような,実際にはただ商品対商品の転換が行なわれるだけだ》という主張に対置しているのは、一方的購買や一方的販売という事態である。すなわち単純な商品流通ではなく、商品資本の流通においては蓄蔵貨幣もその媒介の必然的契機として入ってくるということである。そしてそれは単純再生産の場合の固定資本の補填においてすでに見たことであるが、《ここ》、つまり蓄積の場合においても同じであり、貨幣を蓄蔵する部門A、A'、等の単なる販売が、現実の蓄積を行なうB、B'等の単なる購買と価値額で一致することが均衡の条件として現われてくることを明らかに示しているのである。
 だからここでは〈個別諸資本の循環の絡み合い〉などを、直接にはまったくマルクスは問題にもしていないことが分かるであろう。そしてこれは当然である。何度もいうが、社会的総資本の運動には〈個別諸資本の循環の絡み合い〉が前提されていることは誰も否定しないし、否定しようがない。しかしそのことは社会的総資本の運動を考察する場合においても、直接に〈個別諸資本の循環の絡み合い〉を問題にするということとは別問題なのである。マルクスは第2稿第1章で次のように述べている(下線は引用者、下線部分に注目)。

 《個別資本ということで理解されなければならないのは、社会的総資本のうち個別資本家たちの資本として分離され機能している部分である。社会的資本はそのような個別諸資本からなるにすぎず、それゆえ社会的資本の運動は個別諸資本の諸運動の複合体からなるに過ぎない。けれども、この複合体そのものを描くことと、この複合体を構成する孤立的諸運動を描くこととは、別問題である(八柳訳第2稿、MEM研究No.7〔1989.7〕60頁)。

 また現行の第1篇第3章(第6稿)にもつぎのような一文がある(下線は引用者、下線部分に注目)。

 《たとえば、われわれが一国の一年間の総生産物を考察して、その一部分が全ての個別事業の生産資本を補填し他の部分が色々な階級の個人的消費にはいって行く運動を分析するならば、われわれはW'・・W'を、社会的資本の運動形態としても、また社会的資本によって生産される剰余価値または剰余生産物の運動形態としても、考察するのである。社会的資本は個別資本の総計(株式資本も含めて、また政府が生産的賃労働を鉱山や鉄道などに充用して産業資本家として機能する限りでは国家資本も含めて)に等しいということ、また、社会的資本の総運動は個別資本の諸運動の代数的総計に等しいということ、このようなことは決して次のことを排除するものではない。すなわち、この運動は、単純な個別資本の運動としては、同じ運動が社会的資本の総運動の一部分という観点から、したがって社会的資本の他の諸部分の運動との関連の中で考察される場合とは違った諸現象を呈するということ、また、同時にこの運動は、色々な問題、すなわち、個々の個別資本の循環の考察によって解決されるのではなくそのような考察では解決が前提されていなければならないような諸問題を解決すること、これである。》(24巻120-1頁)

 だからわれわれは、どうして大谷氏が第1稿の〈商品と商品との交換〉に対して第8稿では〈個別諸資本の循環の絡み合い〉にマルクスの視点が〈変化〉しているなどと主張されているのか皆目分からないのである。

 もう一つの(2)で大谷氏が指摘する〈変化〉なるものは、結局は、第1稿(あるいは第2稿)では、社会的総資本の再生産過程を、貨幣流通による媒介を考慮に入れて考察する場合に、蓄蔵貨幣の形態にある貨幣の役割やその運動を考察の対象にしていないが、第8稿ではそれを対象にしているということに過ぎない。確かにこれは事実としてはその通りである。しかしそれは、第1稿では、固定資本の補填も蓄積も貨幣流通による媒介を考慮して考察していないから、そうであるに過ぎないのであって、そのことは第2稿についても同じことが言える。そして第8稿では、ただ、そうしたそれまでの諸草稿では考察の対象になって来なかった問題が考察の対象になっているというだけのことである。しかし蓄蔵貨幣が蓄積や固定資本の補填といった資本の流通の過程でそれを媒介するための必然的な契機として現われてくるというようなことは、すでに第1部でもまた第2部第2章(篇)でも解明済みのことであり、決して第8稿で始めて解明されたというようなものではないのである。第8稿では、それを社会的総資本の再生産の観点から考察しているだけである。ついでにマルクスが第2稿において蓄積のためには蓄蔵貨幣の形成が必然的な一契機として入ってくることを論じている部分を紹介しておこう(これは第3章ではなく、第1章である。すでに指摘したが、第2稿の第3章では「拡大された規模での再生産。蓄積」は論じられなかった)。

 《変化する他のあらゆる事情を捨象するとしても、それにもかかわらず、生産過程が拡大されうる諸比率は、恣意的なものではなく、生産過程の性格に規定されていることを念頭に置かなければならない。すなわち、貨幣に転化された剰余価値は、例え資本化するように予定されていても--資本化によってさまざまな循環の反復が〔行なわれうる〕--、現実に追加資本として機能しうるような大きさにまで、すなわち過程進行中の資本価値の循環に入り込みうるような大きさにまで、蓄積されなければならないことがありうる。このような場合には、剰余価値はしばらく潜在的貨幣資本として、すなわち蓄蔵貨幣形態で存在する。したがって、厳密に言えば、ここでは蓄蔵貨幣の形成は、資本主義的蓄積過程から生じるがそれでもこの過程とは本質的に区別される一契機として、現われる。なぜなら、潜在的貨幣資本の形成によっては、再生産過程そのものは拡大されていないからである》(八柳訳第2稿、MEM研究No.7〔1989.7〕51頁)。

 だからマルクスが第1稿や第2稿でそうした問題を考察していないから、そうした問題が分かっていなかったということには決してならないし、ましてやだから第1稿や第2稿の段階におけるマルクスに〈貨幣ベール観〉〈残滓〉があったのだなどとは決して言えないのである。

 もちろん、マルクス自身にも、第1稿や第2稿では、表現に曖昧さを残すものがあったというならその通りである。そして第8稿ではより厳密に問題が論じられている、等々というようなものはいくらでもあるであろう(例えば上記の引用文中、マルクスは潜在的貨幣資本を「蓄積」すると述べているが、第8稿ではこうした表現は消えて、厳密に「蓄蔵」すると述べている等々)。しかしそのことはマルクスが第1稿や第2稿では〈貨幣ベール観〉を古典派経済学と共有していたなどということには決してならないし、その〈残滓〉があったなどということもできないのである。概念に曖昧さがあったり、問題が十分整理されていなかったということと、古典派経済学的な限界を残していたということとは決して同じではないからである。あくまでもマルクスが、社会的総資本の再生産の過程を、理論的により深く解明していく過程で、問題がより整理され、概念もより厳密化されていったということに過ぎないのである。

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