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2009年9月12日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その59)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


 (以下は、項目●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?の続きであり、その4です。)


 さて、大谷氏はこのように二つの〈変化〉を指摘したあと、次のようにそれをまとめている。

 〈この二つの変化が意味するのは、一言にして言えば、「経済学、ことに重農学派やA・スミス以来の自由貿易学派がやっているような、実際にはただ、商品と商品との転換が行なわれるだけだということを前提すること」(S. 794.39–41)という、古典派経済学に纏い付いていた貨幣ベール観の最終的な払拭であり、第二稿までのマルクスにもなお残っていたその最後の残滓の除去であり、それによるマルクス独自の社会的再生産の理論の最終的仕上げである。〉(下186-7頁)

 しかしこれはマルクスに対する不当な言い掛かりであるとしか言いようがない。大谷氏は何をもって、〈貨幣ベール観〉〈残滓〉が、〈第二稿までのマルクスにもなお残っていた〉と主張されるのであろうか。大谷氏は〈この二つの変化が意味するのは〉と述べている。つまり、これまで考察した〈二つの変化〉からそう結論付けているわけである。だからそれまでの大谷氏の主張をもう一度振り返って整理してみよう。
 まず大谷氏は〈第1稿から第2稿を経て第8稿にいたる過程で、第3章(第3篇)でのマルクスの叙述には、さまざまの点での変遷が見られたが、決定的であるのは、社会的総再生産過程の分析の中心課題の変化〉だと主張され、そして〈社会的総再生産過程の分析の中心課題〉がどのように〈変化〉したかを論じてきた。それを大谷氏は第1稿と第8稿とを比較して、次の二つの〈変化〉であると主張されたわけである。

(1)一つは〈社会的総再生産過程を観察するさいに〉〈第1稿では、……主として、再生産の諸要素のあいだの交換、したがって結局は、商品と商品との交換に目を向けていた〉のが、〈第8稿では、……二つの部門にまとめられた個別諸資本の循環の絡み合いに目を向けるようになった、という変化〉というものであった。
(2)もう一つは〈社会的総再生産過程における貨幣の役割〉を問題にされ、〈第1稿では、……主として素材変換を媒介する流通手段の機能に見てい〉たが、〈第8稿では、……流通手段としての貨幣の機能と蓄蔵貨幣の形態にある貨幣の機能との区別は厳然として貫徹しているだけでなく、再生産過程におけるこの二つの機能を峻別することによってはじめて、単純商品流通とは異なる資本主義的流通過程の独自の諸現象を解明して〉いると主張され、さらに〈再生産過程における貨幣運動〉としても〈第1稿では、……いわゆる「貨幣還流法則」――すなわち流通手段の前貸と還流の法則――とそのバリエーションでしかなかったのにたいして、第8稿では、……流通手段の前貸と還流の運動とは明確に区別されるべき、一方的販売および一方的購買による、蓄蔵貨幣から流通手段へ、流通手段から蓄蔵貨幣へという反対方向への二つの貨幣運動を明確に摘出している、という変化〉というものであった。

 しかしすでに検討したように、(1)で述べている問題は、むしろ大谷氏の側の混乱としかいいようがない問題意識である。社会的な総資本の再生産過程において、〈個別諸資本の循環の絡み合い〉といったものが直接の対象になりうると考えること自体が間違っているからである。それは前提されているというなら否定はしないが、それ自体が直接の対象にはなりようがないからである。もし大谷氏がそうした〈個別諸資本の循環の絡み合い〉を直接対象にして社会的総資本の再生産過程を考察できるというならやって貰いたいものである。個別諸資本というのは、それを構成する諸部分すら、循環や回転期間がそれぞれ異なっており、それらは極めて複雑に絡み合っているのである。そうしたものをそのまま前提してそれを対象に科学的な考察ができる筈はないのである。科学的には現実の複雑な錯綜したものをそのまま前提するのではなく、物理学や化学における実験のように、一定の純粋な条件をわれわれの抽象力によって前提して考察する以外にやりようがないのである。そして社会的総資本の再生産においては、マルクスはすべての資本が年一回転する(流通期間はゼロ)という条件のもとに考察している。だから社会的には大きくは第 I 部門と第II部門、すなわち生産手段の生産部門と消費手段の生産部門が前提され、第 I 部門には、さらに消費手段の生産のための生産手段を生産する部門と生産手段の生産のための生産手段を生産する部門が、第II部門には、必要消費手段の生産部門と奢侈品を生産する部門にそれぞれ分けられているが、しかしそれらはまだ決して〈個別諸資本〉などは決してない。それは大部門に対して、中部門を構成するだけである。それ以上のより詳細な生産部門の区別はマルクス自身は考察していない(ましてや〈個別諸資本〉など問題にもしていない)。そしてそれぞれの生産部門間のそれぞれの商品資本の価値構成の諸部分が如何に補填し合うかを考察しているのであって、ここには〈個別諸資本の循環〉など出てくることはないし、ましてそれらの〈絡み合い〉もまったく出てくる余地はないのである。そしてこれ以外にわれわれは社会的な総資本の再生産過程を科学的に考察する方法を知らないのである。いやそうではない、社会的総資本の再生産の考察においても〈個別諸資本の循環の絡み合い〉が考察されなければならないと、大谷氏がいうのであれば、何度もいうが、是非、その見本を見せて貰いたいものである。そしてマルクスが第8稿でそうした考察を行なっているというのであれば、マルクスのそうした文章をお示し頂きたい。大谷氏はマルクスは第8稿で〈個別諸資本の循環の絡み合い〉という視点を新たに据えていると言いながら、何一つ具体的にマルクス自身の文章を示していないからである。

 大谷氏が〈第8稿では、……二つの部門にまとめられた個別諸資本の循環の絡み合いに目を向けるようになった〉ということに対置されているのは、〈第1稿では、……主として、再生産の諸要素のあいだの交換、したがって結局は、商品と商品との交換に目を向けていた〉ということである。この後者の〈商品と商品との交換〉というのは、最初に大谷氏がマルクスから引用した文章の中にある言葉である。果たしてマルクスは、大谷氏が引用した文章において、この〈商品と商品との交換〉に対して、何を対置しているのか、本当に〈個別諸資本の循環の絡み合い〉を対置しているのかをわれわれは検証してみよう。まずそれが分かるように、マルクスの文章を大谷氏が引用してる前後を含めて少し長く引用してみよう(大谷氏が引用した部分を赤字で示す)。

 《ついでに,ここでふたたび,次のことを述べておこう。以前(単純再生産の考察のところで)と同様に,ここでふたたびわれわれは次のことを見いだす。年間生産物のさまざまな構成部分の転換,すなわちそれらの流通{これは同時に,資本の構成部分の回復――単純な規模での,または拡大された規模での資本の再生産,しかもさまざまな規定性における資本(不変資本,可変資本,固定資本,流動資本,貨幣資本,商品資本)の再生産――でなければならない}は,われわれが1)〔単純再生産〕のところで,たとえば固定資本の再生産のところで見たのとまったく同様に,けっして,あとから行なわれる販売によって補われるたんなる商品購買,またはあとから行なわれる購買によって補われるたんなる販売を前提していない。したがって,経済学,ことに重農学派やA. スミス以来の自由貿易学派が前提しているような,実際にはただ商品対商品の転換が行なわれるだけだということを前提してはいないのである。単純再生産のところで見たように,たとえば不変資本IIcの固定諸成分の周期的更新{――(その総資本価値は (v+m)( I ) の諸要素に転換される),それは,固定資本の最初の出現〔と更新〕との中間期間には,つまりその機能期間の全体にわたって,まだ更新されないで以前の形態のままで働き続けるが,他方ではそれの価値がだんだん貨幣として沈澱していく――}は,cIIのうち貨幣形態から現物形態に再転化する固定部分のたんなる購買を前提するが,この購買にはm( I ) のたんなる販売が対応する。他方ではそれは,cIIのたんなる販売(すなわちcIIのうち貨幣として沈澱する固定価値部分の販売)を前提するが,この販売にはm(I) のたんなる購買が対応する。この場合に転換が正常に行なわれるためには,たんなる購買(cIIの側からの)が価値の大きさから見てたんなる販売(cIIの側からの)に等しいということ,また同様に,m( I ) からcIIのA)へのたんなる販売がcIIのB)からのm( I ) のたんなる購買に等しいということが前提される。〔/〕同様にここでは,m( I ) のうちの貨幣蓄蔵部分であるA,A' のたんなる購買(「販売」の誤記?--引用者)が,m I のうちの,蓄蔵貨幣を追加生産資本の諸要素に転化させる部分であるB,B',等々と均衡を保っている,ということが前提される。》(草稿51、大谷訳上48-9頁、〔/〕は引用者が付けた)

 実はこの引用文に続く文章は、われわれが先に(1)(2)と便宜的に番号を打って紹介した文章なのである。
 この引用文では、前後の関連が分かりにくいので注意が必要なのは、マルクスは単純再生産のときに考察した固定資本の補填のケースについて論じているのであるが、それはあくまでも蓄積に関連させて論じているということである。だから最初の部分(大谷氏が引用した部分まで)と、〔/〕以下の部分とは蓄積について述べているということである。すなわち、最初に2回出てくる《ここでふたたび》と、〔/〕以下で出てくる《同様にここでは》の、《ここ》とは、同じ内容であり、それまで考察してきている部門 I における不変資本の蓄積の場合のことである。それに気をつけて、この文章を検討して頂きたい。

 (この引用文の検討は、字数オーバーになるために、次回でやります。)

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