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2009年9月10日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その58)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


 (以下は、項目●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?の続きであり、その3です。)


 次に大谷氏が〈中心課題のこの変遷のなかに、二つの点での大きな変化を見る〉としている二つ目というのは、次のようなものである。

 〈第二に、第1稿では、社会的総再生産過程における貨幣の役割を主として素材変換を媒介する流通手段の機能に見ていて、再生産過程における貨幣運動は、いわゆる「貨幣還流法則」――すなわち流通手段の前貸と還流の法則――とそのバリエーションでしかなかったのにたいして、第8稿では、社会的総再生産過程においても、流通手段としての貨幣の機能と蓄蔵貨幣の形態にある貨幣の機能との区別は厳然として貫徹しているだけでなく、再生産過程におけるこの二つの機能を峻別することによってはじめて、単純商品流通とは異なる資本主義的流通過程の独自の諸現象を解明しており、再生産過程における貨幣運動については、流通手段の前貸と還流の運動とは明確に区別されるべき、一方的販売および一方的購買による、蓄蔵貨幣から流通手段へ、流通手段から蓄蔵貨幣へという反対方向への二つの貨幣運動を明確に摘出している、という変化である。こうした変化が、まず貨幣流通を捨象し、次にそれを導入して叙述するという二段構えの叙述方法を放棄したことと深く結びついていたことは、ここで再説するまでもないであろう。〉(下186頁)

 第1稿では資本の流通過程の契機として蓄蔵貨幣の役割を見ていなかったというのであるが、しかし固定資本の補填や蓄積を貨幣流通を媒介にして考察しない限り、それが問題にならないのは当然ではないだろうか。それらが第8稿では考察の対象になったというに過ぎないのである。しかしだからと言って、蓄積や固定資本の補填において蓄蔵貨幣が資本の流通において必然的な契機として入ってくるということが第8稿で初めて解明されたかに考えるのはまったく間違っている。まず蓄積についていうなら、すでに見たように、第8稿の《蓄積または拡大された規模での生産》と題された最初の部分、すなわち第1、第2パラグラフで個別資本を例に論じたときに、《第1部では、蓄積が個々の資本については次のように現われる》と述べていたように、こうした問題はすでに「第1部 資本の生産過程」で、すでに個別資本の観点から明らかにされていたことなのである。だから蓄積のためにはそれに先立って一定の必要な額になるまで貨幣蓄蔵が必要となるということは第一部で解明済みである。だから資本の流通過程で蓄蔵貨幣の形成が必然的にその契機に入ってくるというようなことは自明のことだったのである。また固定資本の補填についても、すでに第2部第2篇の「固定資本の回転」を論じたときに、それは指摘されていたことである(これは第2稿ではあるが)。固定資本を流動資本と区別するのは、まさにその価値の移転の相違によるのであって、だから固定資本はその部分的な磨滅とともに、その磨滅分が蓄蔵貨幣の形態で堆積され、そして完全に磨滅した時点で、その堆積され終わった蓄蔵貨幣で、固定資本全体が更新されるといったことはすでに考察済みのことなのである。このことは、例えば次のような一文をみれば、明瞭である。

 《われわれがこれらのことを、ただ単純な貨幣流通だけを前提して、もっと後ではじめて展開される信用制度を少しも顧慮することなしに、考察するならば、運動の機構は次のようなものである。第一部(第三章第三節a)で明らかにしたように、ある社会に現存する貨幣の一部分はいつでも蓄蔵貨幣として遊休しており、他の部分は流通手段として、または直接に流通している貨幣の直接的準備金として機能しているとしても、貨幣の総量が蓄蔵貨幣と流通手段とに分かれる割合は絶えず変動する。われわれの場合には、ある大きな資本家の手の中に蓄蔵貨幣として大量にたまっているはずの貨幣が、いま固定資本の購入にさいして一度に流通に投げ込まれる。それはそれ自身また社会の中で再び流通手段と蓄蔵貨幣として分けられる。固定資本の損耗の程度に応じてその価値は償却基金という形で出発点に還流するのであるが、この償却基金によって、流通貨幣の一部分は、前に固定資本を購入したときに自分の蓄蔵貨幣を流通手段に転化させて手放したその同じ資本家の手の中で、再び--長短の期間--蓄蔵貨幣を形成する。それは、社会に存在する蓄蔵貨幣の絶えず変動する分割であって、この蓄蔵貨幣は交互に流通手段として機能してはまた再び蓄蔵貨幣として流通貨幣量から分離されるのである。大工業と資本主義的生産との発展に必然的に並行する信用制度の発展につれて、この貨幣は蓄蔵貨幣としてではなく資本として機能するのであるが、しかしその所有者の手の中でではなく、その利用をまかされた別の資本家たちの手の中で機能するのである。》(第2部全集版222頁)

 だから第8稿であらためて、社会的総資本の再生産の観点から、そうしたことが論じられたからと言って、そうしたことが第8稿で初めて解明されたかに考えるのは間違いである。第8稿では、そうした問題が社会的な年間再生産の過程として貨幣流通を媒介にして考察されているだけなのである。

 そして大谷氏は問題が〈貨幣運動〉であるかに述べているのは、如何なものであろうか。例えば第1稿では〈いわゆる「貨幣還流法則」――すなわち流通手段の前貸と還流の法則――とそのバリエーションでしかなかったのにたいして、第8稿では……再生産過程における貨幣運動については、流通手段の前貸と還流の運動とは明確に区別されるべき、一方的販売および一方的購買による、蓄蔵貨幣から流通手段へ、流通手段から蓄蔵貨幣へという反対方向への二つの貨幣運動を明確に摘出している、という変化である〉と述べている。しかし第8稿でマルクスが考察の対象にしているのは、大谷氏が指摘するような〈貨幣運動〉といったものではない。例えば次の一文を検討してみよう。

 (1)購買のあとに販売が,また販売のあとに購買が同じ価値額で続いて行なわれるということによって均衡がつくりだされるかぎりでは,購買のさいに貨幣を前貸した側への,ふたたび買うまえにまず売ったほうの側への貨幣の還流が行なわれる。しかし,商品転換そのもの――年間生産物のさまざまな部分のそれ――にかんする現実の均衡は,互いに転換される諸商品の価値額が等しいということを条件とするのである。
 
(2)しかし,たんに一方的な諸変態,すなわち一方では大量のたんなる購買,他方では大量のたんなる販売が行なわれるかぎり――そしてすでに見たように資本主義的な基礎の上での年間生産物の正常な転換はこれらの一方的な変態を必然的にする――,均衡はただ,一方的な購買の価値額と一方的な販売の価値額とが一致することが前提されている場合にしか存在しない。商品生産が資本主義的生産の一般的形態だということは,貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本として資本主義的生産において演じる役割を含んでいるのであり,またそのことは,単純な規模のであれ拡大された規模のであれ再生産の正常な転換の,正常な経過の,この生産様式に特有な一定の諸条件を生みだすのであるが,均衡は――この生産の形成は自然発生的であるので――それ自身一つの偶然だから,それらの条件はそっくりそのまま,不正常な経過の諸条件に,恐慌の諸可能性に一転するのである。》(草稿51頁、大谷訳上48-49頁、(1)、(2)は引用者が便宜的に付けた)

 ここでマルクスが述べていることは、まさに大谷氏が第1稿と第8稿の〈変化〉として論じている内容と同じものが明らかにされている。(1)の内容は大谷氏が第1稿でマルクスが主に考察していると述べているものであり、(2)の内容はマルクスが第8稿で論じているものだとしていることである。しかしいずれもマルクスが問題にしているのは、「均衡の条件」である。確かに(1)では、購買のさいに貨幣を前貸した側への,ふたたび買うまえにまず売ったほうの側への貨幣の還流が行なわれる》「貨幣の還流法則」についても言及しているが、しかしマルクスが主として論じていることは、商品転換そのもの――年間生産物のさまざまな部分のそれ――にかんする現実の均衡は,互いに転換される諸商品の価値額が等しいということを条件とする》ということである。
 ましてや(2)では貨幣運動など問題にもなっていない。ここでも問題なのは、《均衡はただ,一方的な購買の価値額と一方的な販売の価値額とが一致することが前提されている場合にしか存在しない》という「均衡の条件」なのである。そしてこれこそ商品生産が資本主義的生産の一般的形態だということは,貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本として資本主義的生産において演じる役割を含んでいるのであり,またそのことは,単純な規模のであれ拡大された規模のであれ再生産の正常な転換の,正常な経過の,この生産様式に特有な一定の諸条件を生みだす》とマルクスが述べていることの本当の内容なのである(なぜこういうことを強調するかというと、第8稿では、貨幣は流通手段としてだけではなく、貨幣資本としても捉えられていることを強調する人たちは、実際には、その内容について、つまり貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本としても捉えられる必要があるということでマルクスが実際には何をいわんとしているのかということについて、あまりにも曖昧であり、だからとんでもないことまで言い出しているからである。例えば社会的総資本の再生産過程を商品資本の循環として捉えるだけでは不十分で、貨幣資本の循環としても捉える必要がある、などという大谷氏の主張などはその典型である!)。だから問題は〈一方的販売および一方的購買による、蓄蔵貨幣から流通手段へ、流通手段から蓄蔵貨幣へという反対方向への二つの貨幣運動を明確に摘出〉することなどにあるのではないのである。
 そしてこれはもはや言うまでもない事であるが、ここで大谷氏が、氏が言うところの〈中心課題の変化〉〈まず貨幣流通を捨象し、次にそれを導入して叙述するという二段構えの叙述方法を放棄したことと深く結びついていた〉などと述べていることもまったく正しくないことは、すでにこれまで述べてきたことからも、十二分に論証されていると思う。

 (この項目は、次回に続きます。)

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