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2009年9月 8日 (火)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その56)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?

 先に見たように、大谷氏は〈第8稿における拡大再生産の分析の……特色〉〈貨幣ベール観の最終的克服〉にあると考えているのである。果たしてそうした理解は正しいのか、具体的に検討していこう。

 まず大谷氏は〈それでは、第3章(第3篇)をめぐるマルクスのこの悪戦苦闘の過程は、その全体を見るとき、彼にとってどのような意味をもつ過程だったのであろうか〉(下185頁)と述べて、【再生産過程の分析におけるマルクスの苦闘の意味】 という項目を立てて考察を始めている。そこでは〈第1稿から第2稿を経て第8稿にいたる過程で、第3章(第3篇)でのマルクスの叙述には、さまざまの点での変遷が見られたが、決定的であるのは、社会的総再生産過程の分析の中心課題の変化〉(下185-6頁)だと述べて、〈社会的総再生産過程の分析の中心課題〉がどのように〈変化〉したかを論じている。しかし、奇妙なことに、大谷氏は第1稿と第8稿とを比較しながら、どうしてか第2稿を抜かしているのである。すなわち次のように述べている。

 〈第1稿では、中心課題を、総商品資本あるいは総商品生産物の諸要因のあいだでの「実体的転換」、すなわち「素材的変換」の解明に見て、この解明のためには、まずもって、これらの転換を媒介する貨幣の運動を捨象することによって、再生産過程の核心的な運動を把握すべきであり、この運動を媒介する貨幣の運動の考察は、いわばそれに付随するものでもあるかのように副次的に取り扱われていた。それにたいして、第8稿では、分析の中心課題は、流通手段としての貨幣の機能と蓄蔵貨幣の形態にある貨幣の機能とが再生産過程のなかで果たす、それぞれ異なった役割を明確に把握することによって、社会的総再生産過程における個別諸資本の循環の相互の絡み合いを明らかにするとともに、それら資本の循環と貨幣運動との絡み合いとを全体的に解明する、というところに置かれている。〉(下186頁)

 確かに第1稿では貨幣流通による媒介を入れた考察とそれを捨象した考察とが入り交じり、マルクスはそうした敍述の問題点を自身で反省して、《最終的な敍述では》この両者分離して論じるべきということを述べている(大谷他訳前掲邦訳書213頁)。だから第2稿では、それはいわゆる「二段の敍述構成」として具体化され、「流通過程および再生産過程の現実的諸条件」と題された第3章(篇)の「第1節 社会的観点から考察された可変資本、不変資本および剰余価値」では、「A 単純再生産」「a 媒介する貨幣流通のない説明」「b 媒介する貨幣流通のある説明」とに分けられ、B 拡大された規模での再生産。蓄積」も、「a 貨幣流通のない敍述」「b 貨幣流通のある敍述」とに分けられているのである(八柳良次郎訳第2草稿、前掲訳5頁)。
 ところが大谷氏は、この第2稿についてはどうしてかまったく不問にして、第1稿と第8稿だけを直接較べているのである。〈マルクスの叙述…(の)…変遷〉を問題にするのなら、当然、その敍述が第2部全体をカバーしている第2草稿を論じないのは片手落ちといわざるをえないであろう。だからここには明らかに何らかの意図があると思わざるをえない。
 確かに第1稿では、主要には、大谷氏がいうように、〈総商品資本あるいは総商品生産物の諸要因のあいだでの「実体的転換」、すなわち「素材的変換」の解明〉に重点を置いているというならそうかもしれない。しかし、マルクス自身が《最終的な敍述では、この第1節を、(1)総再生産過程における商品資本の現実的素材変換、(2)この素材変換を媒介する貨幣流通、という二つの部分に分離した方がよいであろう。いまそうなっているように、貨幣流通を考えに入れることは、たえず展開の脈絡を破ることになるからだ。》(前掲大谷他訳第1稿213頁)と述べているように、第1稿では貨幣流通を考慮に入れた考察も行なわれているのである。そして第8稿では、大谷氏が〈流通手段としての貨幣の機能と蓄蔵貨幣の形態にある貨幣の機能とが再生産過程のなかで果たす、それぞれ異なった役割を明確に把握〉しているというように、問題は最初から貨幣流通による媒介を考慮して取り上げられているのである。しかしそのことは、マルクスの問題意識が、すなわち〈社会的総再生産過程の分析の中心課題〉〈総商品資本あるいは総商品生産物の諸要因のあいだでの「実体的転換」、すなわち「素材的変換」の解明〉から〈流通手段としての貨幣の機能と蓄蔵貨幣の形態にある貨幣の機能とが再生産過程のなかで果たす、それぞれ異なった役割を明確に把握〉することに〈変化〉したことを意味するのでは決してない。マルクスの問題意識は最初から一貫している。つまり《総再生産過程における商品資本の現実的素材変換》《この素材変換を媒介する貨幣流通》をともに考察することである。ただ第1稿では、その両方が分離されずに論じられていたのが、第2稿では、それらが整然と分離されて論じられており、第8稿では、そのうち第2稿では、十分展開されなかった貨幣流通による媒介を考慮した敍述を中心に補足的に論じられているだけなのである(だからそれは、何度もいうが、大谷氏やエンゲルスが主張しているような、〈新しい観点にもとづいて第3章を全面的に書き直したもの〉では決してないのである)。もし〈変遷〉いうなら、問題がより深められ、より整理されており、また諸概念がより厳密にされて行っていること、さらにいまだ不十分で手つかずの部分だったものが一つ一つ解明されて埋められて行っているということであろうか。しかしそのことはマルクスの問題意識や分析の重点が〈変化〉したことを決して意味しないのである。

 さて、大谷氏は〈中心課題のこの変遷のなかに、二つの点での大きな変化を見ることができる〉(下186頁)として、二つのものを上げている。その最初のものは次のようなものである。

 〈第一に、第1稿では、社会的総再生産過程を観察するさいに、主として、再生産の諸要素のあいだの交換、したがって結局は、商品と商品との交換に目を向けていたのにたいして、第8稿では、二つの部門にまとめられた個別諸資本が、諸要素の転換運動に媒介されて経ていく価値増殖と価値実現の運動に、したがって結局は、二つの部門にまとめられた個別諸資本の循環の絡み合いに目を向けるようになった、という変化である。〉(下186頁)

 まず問題の重点が移っている、というなら確かにそうである。しかしそのことは最初の考察が否定されて、新しいものに変化したことを意味するのではない。例えば第1稿では〈商品と商品との交換に目を向けていた〉のに、第8稿では、〈個別諸資本の循環の絡み合いに目を向けるようになった〉と大谷氏はいうのであるが、第8稿の重点をこのように捉えることの問題点はとりあえずおいていても(これはすぐに後で問題にする)、第8稿では〈商品と商品との交換〉という契機がどうでも良くなったかに理解するなら、とんでもないことなのである。社会的総資本の再生産過程を商品資本の循環として考察するということは、結局は、総商品資本が社会的に、素材的にも価値的に如何に補填し合うかが問題になるのであり、その限りでは〈商品と商品との交換〉として現われるからである。もちろん、それらは単純な商品の交換ではなく、商品資本の流通である。だからそこには固有の新しい条件が加わってくる。例えば固定資本の補填や蓄積という条件において、社会的な総再生産過程を考察する場合には、蓄蔵貨幣とその量が再生産の新しい条件となってくる。しかし蓄蔵貨幣が諸資本の再生産を媒介する貨幣の新しい形態として加わるにしても、そうした蓄蔵貨幣も流通にでて行くときは流通手段として機能するのであり、流通過程ではもちろん直接的ではないにしても、やはり〈商品と商品との交換〉を媒介するものとして現われるのである。あるいはそうしたものが一つの条件になるのである。例えば蓄蔵貨幣が流通にでて行く場合には、それは一方的な購買として現われる。その限りではそれは〈商品と商品との交換〉ではないかに見える。しかしそれを社会的な再生産の一契機として捉えるなら、そうした一方的な購買に対しては、他方における一方的な販売、すなわち商品を販売するだけで販売して入手した貨幣を蓄蔵する行為が対応しなければならず、こうした条件を全体として見るなら、社会的には、直接的ではないにしても、やはり一方における商品の購買に対しては、他方における商品の販売が対応しており、〈商品と商品との交換〉が成り立っているし、そうでなければならないのである。ただ問題がより複雑になり、内容規定がより豊かになっているだけに過ぎない。

  (この項目は次回に続きます。)

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