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2009年8月

2009年8月29日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その55)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


 (以下、最初の部分は、項目●[ i 「貨幣源泉」問題への最終的コメント]についての続きです。)


 ついでにエンゲルスがこの部分をどのように位置づけているかについて考えてみよう。エンゲルスはこの部分を「第4節 補遺」としていることについては、すでに指摘したが、本文のどの個所についての「補遺」とエンゲルスは考えていたのであろうか。
 それは「第3節 蓄積の表式的敍述」の最後の部分(「1 第一例」の直前)で、次のように書いていることから分かる。

 《この貨幣を可能的追加貨幣資本の形成のために流通から引き揚げることは、ただ二つの道だけによって可能であるように見える。その一つは、資本家IIの一部分が他の部分をだまして銭盗りに成功することである。新たな貨幣資本の形成のためには、われわれが知っているように、あらかじめ流通媒体が拡大されていることは必要ではない。どの方面かで貨幣が流通から引き揚げられて蓄蔵貨幣として貯えられるということの他には、何も必要ではない。この貨幣が盗まれたものでもありうるということ、したがって資本家IIのある部分のもとでの追加貨幣資本の形成が他の一部分の積極的な貨幣損失と結びついていることもありうるということは、事柄に何もつけ加えはしないであろう。資本家IIのうちのだまされた部分は、幾らか派手な暮らしができなくなるであろう。だが、ただそれだけのことであろう。
 もう一つの道は、IImのうちで必要生活手段で現われる部分が部門IIのなかで直接に新たな可変資本に転化させられることである。これがどのようにして行なわれるかは、この章の終わり(第4節)で研究されるであろう。》
(全集版632頁)

 この個所は、草稿ではどのあたりになるのかを探るためにやや長く引用しておいたが、この部分は草稿では、次の部分に該当すると思われる。

 《この貨幣を流通から引きあげ,こうして媒介的に可能的な追加貨幣資本を形成するために蓄蔵貨幣を形成することは,二通りの道によってだけ可能であるように見える。
 その一つは,資本家IIの一部分が他の部分をだまして貨幣を掠めることに成功することである。新たな貨幣資本の形成のためには,われわれの知っているように,あらかじめ通流媒介物が拡大されていることはけっして必要ではない。どの方面かで貨幣が流通から引きあげられて蓄蔵貨幣として蓄えられるということのほかには、なにも必要ではない。この貨幣が盗まれたものであり,したがってまた資本家IIのある部分のもとでの追加貨幣資本の形成がはっきりした貨幣損失と結びついているということが,云々,云々。》
(草稿61頁、大谷訳20-21頁)

 この二つを比べると、エンゲルスがかなり加筆していることが分かる。マルクス自身は、草稿では「二通りの道」があるかに「見える」と述べながら、「その一つ」については述べながら、「二つ目」について何も述べていないのに、エンゲルスはそれは《IImのうちで必要生活手段で現われる部分が部門IIのなかで直接に新たな可変資本に転化させられることである》であり、そしてそれは《この章の終わり(第4節)》、つまり彼が「補遺」とした部分で研究されるとしているのである。
 だからエンゲルスも、マルクスが《云々、云々。》と敍述を打ち切った部分の《補遺》として草稿の最後の部分が書かれたと判断していることが分かるであろう。そしてこの限りでは、エンゲルスは正しいのである。ただエンゲルスはマルクスが外観上の困難を列挙して、その不可を論証しているものと、彼が補遺とした部分とを同じ延長上のものと考えているようなのであるが、これは明らかに間違っている。エンゲルスもマルクスが外観上の困難を列挙している部分の性格や意義を正しく読み取っているとは言い難いのである。


●第2部第2稿の執筆を中断した理由は何か?

 さて、ようやく最後の項目「(2)第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」である。まずこの項目が全体のなかでどういう位置を占めているかを確認しておこう。これは大項目「6 第八稿における拡大再生産の分析の内容と特色」「(1)第八稿の拡大再生産論展開の筋道とポイント」と今回の項目に分かれていたのである。だから今回の項目では、大谷氏が「第八稿における拡大再生産の分析の……特色」「貨幣ベール観の最終的克服」にあると考えていることが分かるのである。果たしてそうした理解が正しいのか、具体的に検討していくことにしよう。しかしその前に、その前文ともいうべきところで大谷氏が次のように述べていることをまず問題にしておこう。

 〈すでに見たように、第2稿での第3章は、一方では、第1稿の執筆のなかで獲得した、第3章についての構想を実現しようとしたものであったが、他方では、その執筆のなかで第3章の課題についての新しい観点をすでに抱えるようになっており、第3章の執筆のなかで、マルクスは、第1稿から引き継いだ構想と、この新しい観点との相克に直面して、古い枠組みを維持できなくなり、執筆の中断を余儀なくされた。第8稿は、この新しい観点にもとづいて第3章を全面的に書き直したものである。〉(下185頁)

 これを読むと、マルクスが第2稿の執筆を中断したのは、内容的に行き詰まったからだということになる。そして第8稿は長い中断の後、〈新しい観点にもとづいて第3章を全面的に書き直したもの〉だという評価のように思われる。
 後者の評価は、ほぼエンゲルスと同じものであるが、すでにこれまでにも指摘してきたが、われわれはこうした評価には賛成しがたい。というのは、マルクスは決して第2稿におけるプランを変更しなかったし、だから第8稿は第2稿の第3章の〈全面的な書き直し〉ではなく、第2稿で不十分なところや、第2稿ではやり残している部分(特に「蓄積あるいは拡大再生産」等)を補うものとして書かれているものだからである。しかしそのことについては、これまでにも十二分に論証してきたと思っている。だからこの問題を再び、ここで繰り返す愚は避けたい。

 ここでは、最初の問題、すなわち、マルクスが第2稿の執筆を中断したのは、果たして内容的に行き詰まったからかどうか、という問題を論じておきたい。
 われわれは決してそうではないと考えている。もしマルクスが内容的に行き詰まったが故に中断したのなら、その中断がおよそ6年間にもわたったことが説明不可能であろう。6年間もマルクスは行き詰まったままで、それを打開する方向を見いだすことが出来なかった、などと大谷氏らは事実上主張していることになるが、果たしてそんなことをわれわれは信用することが出来るだろうか。決して否である。とするなら、マルクスが第2稿の執筆を中断し、しかもその中断が6年間にもわたらざるをえなかった理由は、他にあるはずである。エンゲルスはその理由について、序文で次のように述べている。

 《1870年以後、再び休止が生じたが、それはおもに病状のためであった。いつものようにマルクスは、この時期をもろもろの研究にあてた。農学、アメリカおよびことにロシアの農村事情、貨幣市場と銀行制度、最後に自然諸科学--すなわち地質学と生理学、またとくに独立の数学的研究--これらのものがこの時期の多数の抜き書き帳の内容をなしている。》(全集版8頁)

 実際、この当時の全集巻末の「マルクスとエンゲルスの生活と活動」を読むと、マルクスは1870年1月なかばから3月はじめまで病臥したり、3月10日ごろに『資本論』の仕事を再開するとあるものの、5月10日には「マルクスが病気になったので、ユングが総評議会会議でマルクスに代わって〔マルクスの起草した〕決議案を読み上げる」とあり、かなりマルクスの体調の悪さを思わせる記述が目立つ(8月9日からは健康がすぐれないので、保養のために家族とともにラムズゲートに1カ月弱滞在したりしている)。またこのころからドイツとフランスとの戦争が始まり、1871年のパリ・コミューンへと発展する両国における労働者の階級闘争の高揚が見られ、マルクスとエンゲルスが国際労働者協会(インタナショナル)の総評議会の活動に重点を移して行った時期とも重なっている。またマルクスは1871年の末からは『資本論』第1巻の第2版の準備に取りかかり、「補足と改訂」を書いたりしており、さらに72年からはフランス語版への手入れが始まり、これが1875年まで続いている。つまりこうしたマルクス自身の体調の悪化と総評議会の活動の繁忙化や優先すべき仕事等が原因となって、第2草稿の執筆を中断することを余儀なくされ、1876年になるまで第2部の仕事に戻ることができなかった理由と考えられるのである。
 そして実際、われわれがこの大谷論文の批判的検証によってすでに確認してきたように、大谷氏らが憶測するような意味での〈第3章の課題についての新しい観点〉といったものはマルクス自身にはまったく見られないし、ましてや〈第1稿から引き継いだ構想と、この新しい観点との相克に直面して、古い枠組みを維持できなくな〉ったなどということもまったくないことも確認してきたことなのである。

2009年8月27日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その54)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●[ i 「貨幣源泉」問題への最終的コメント]について

 この部分は、大谷氏のこの連載の「下」が始まる最初に、第8稿の拡大再生産の部分の全体の見通しで紹介したように、この部分は、「6 第8稿における拡大再生産の分析の内容と特色」という大項目の「(1) 第8稿の拡大再生産論展開の筋道とポイント」のさらに下の項目【「5 第II部門での蓄積」での考察の歩み】に分けて論じていた、その最後の項目なのである。つまり草稿の最後の部分の解説にもなっているわけだ。
 この部分は現行版ではエンゲルスによって「第4節 補遺」と題されている。この部分の詳しい解読は、私は別途、《第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解読》のなかで行なったので、ここで大谷氏が説明していることに、それを対置する必要性はあまりないと感じている(それを再び繰り返すのはあまりにも面倒だ!)。だから大谷氏のこの草稿の最後の部分の説明の内容については、もちろん、私なりの異論はあるが、特に論じないことにする(それに対する私の見解を読んでみようと思われる方は、段落ごとの解読の「その74」~「その78」を参照して頂きたい)。ただ大谷氏がこの部分をどのように位置づけているのかということについてだけ、もう一度キッチリ論じておく必要があると思う。だからそれだけをここでは論じることにしたい。

 さて、大谷氏はこの部分をどのように位置づけているかは、次の一文で示されている。

 〈マルクスは、蓄積についてのこの叙述では、固定資本がもたらす独自の諸問題は捨象してきたので、これについては「正確には示されていない」(S. 824.18)ことを注意したあと、最後のまとめを行なっている。ここは、エンゲルスが彼の版の第二一章で「IV補遺」としている箇所に当たる。内容的には、「5 第II部門での蓄積」で提起していた基本的な問題の一つ、すなわちIIにとっての「貨幣源泉」はどこにあるのか、という問題についての最終的なコメントである。〉(下184頁)
 〈以上で、「5 第II部門での蓄積」の考察が、だからまた「II 蓄積または拡大された規模での生産」の分析が終わった。第8稿ではじめて行なわれたこの「II」でのマルクスの考察は、単純再生産での考察を踏まえながら、さらに多くの新しい発見を含み、より進んだ理論的な研究のための手がかりを与える、きわめて内容豊富なものであった。〉(下185頁)

 つまり大谷氏によるとこの部分は〈内容的には、「5 第II部門での蓄積」で提起していた基本的な問題の一つ、すなわちIIにとっての「貨幣源泉」はどこにあるのか、という問題についての最終的なコメント〉(下184頁)ということになる。だからこの敍述をもって〈「5 第II部門での蓄積」の考察が、だからまた「II 蓄積または拡大された規模での生産」の分析が終わった〉(下185頁)ということにもなるのである。つまりマルクスの「5 第II部門での蓄積」の考察、だからまたその中の「a」「b」に分けられたうちの、後半の「b」で取り扱われていた問題が、この部分まで継続して論じられてきたのだという考えなのである(いうまでもなく、これは伊藤武氏の主張でもあり、むしろ伊藤氏の主張を大谷氏が受け入れたのであろう)。

 しかしわれわれはそうした理解には疑問を禁じえない。なぜなら、マルクスが拡大再生産の諸表式のなかで、年次を重ねて蓄積が進行する諸過程を計算によって求めたり、そうした一連の考察を踏まえて、拡大再生産が I 、II両部門で均衡を維持しながら、進行するための諸条件を纏めている部分等を見る限り、そこではマルクスが「b」で提起した「一つの新しい問題」、すなわち「貨幣源泉がIIのどこで湧き出るのか」といった問題が、まったく何一つ考察の対象になっていないことを知っているからである。そればかりか、マルクスは蓄積基金の問題は、拡大再生産の表式の計算過程では一切捨象しているのである。だからどうしてもそうした部分も含めて項目「b」の延長であり、その枠内における考察であるかに理解する大谷氏らの解釈(伊藤武の理解でもある)を受け入れることはできないのである。
 しかし、今問題になっている部分については、確かに大谷氏が指摘するように、「b」で提起された問題が再び考察の対象になっているように思える。だからすでに何度か述べてきたように、私は次のように推測するのである。すなわち、マルクスは項目「b」で追究した課題を十分に果たさずに、《云々、云々。》(草稿61頁、大谷訳下21頁)という形で途中で切り上げていることはすでに指摘したが、その中途半端な終わり方を、ここで補足していると考えられるのである。もちろん、今回取り扱っている問題は、前回切り上げた部分に直接結びついた敍述ではなく、むしろ「b」でマルクスが最終的に論じたいと考えていた問題、つまり部門IIにおける蓄積のための貨幣蓄蔵は如何になされるのか、という問題そのものを直接取り上げて、ここでは論じているように思えるのである。マルクスの当初のプランではそうした問題を、最初は《外観上の困難》として提起し(それがすなわち「一つの新しい問題」である)、そしてそれを解決する諸方策をいろいろと例示しながら、しかしそれらがすべて不可であることを論証することによって、結局、その《困難》《外観上》のものに過ぎないことを明らかにした上で、その《困難》《詳しく解決》する、つまり部門IIにおける蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるかを明らかにするつもりだったのである。いうまでもなく、その《詳しい解決》として考えていたのは、部門 I でなされたのと基本的には同じである。すなわち、部門 I と同様に、部門IIにおいても、これから蓄積のための貨幣蓄蔵を繰り返す資本家群Aと、すでに貨幣蓄蔵が終わって現実の蓄積を行なおうとしている資本家群Bとを想定することによって、問題は解決するということだったのである。ただ部門 I との相違は、部門IIにおいては、考察の対象は、資本間の直接的な取り引きだけではなく、追加労働者の追加的生活手段の消費がその間に入ってくることである。しかしそうした追加労働者の消費が媒介する場合も、基本的には部門 I と同じように問題は解決されうることは、すでに私は別途段落ごとの解読のなかで解明した通りである。
 しかしながら、マルクス自身は、そうした部門IIにおける蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるべきかを論じる前に、その導入部分として論じた、困難を解決する諸方策を例示し、それらの不可を論証してそれらの困難が単なる外観上のものに過ぎないことを明らかにする途中で敍述を打ち切ってしまっているのである(この敍述を中途半端な形で打ち切った理由はハッキリとはしないが、それについても私なりの推測は示してきた)。だから肝心の部門IIで如何にして蓄積のための貨幣蓄蔵がなされるのかについては、結局、まったく論じることなく終わっていたのである。だからマルクスは草稿の最後に、そうした中途半端な敍述を補足し、そこで一番論じようと考えていた問題を再び取り上げて、直接その問題を論じるために、この箇所を書いたのではないかと思えるのである。そうした意味では後に紹介するが、エンゲルスがこの部分を「補遺」としたのは、その限りでは内容的に合致していたのである。

 そしてさらに重要なことは、もしこの箇所が「5 部門IIでの蓄積」「b」の途中で敍述を打ち切った部分の補足であるとするなら、これまでの草稿の敍述全体が、何かマルクスが何の構想もなしに暗中模索のうちに試行錯誤を繰り返しながら書き散らしたものなどでは決してなく、むしろしっかりとした構想のもとに書き進められたものであるということを教えるのである。なぜなら、もし書き散らしたものであったなら、わざわざその一部の敍述の不十分さを補うための補足を最後に書く必要もないからである。しっかりした構想にもとづくものであったからこそ、「5」「b」における敍述の中途半端な切り上げ方が気になって、その不十分さを感じて、最後にその補足を書く必要があったと言えるからである。そして私はマルクスの草稿を丹念に読めば読むほど、そうした確信を--つまりしっかりした構想のもとに書き進められているという確信を--深めているのである。だからまた大谷氏や不破氏などが、マルクスをまるで何も分からずに右往左往し、試行錯誤を繰り返しているかに論じているのを見ると、腹立たしい気持ちを禁じえないのである。自らの薄っぺらな理解を棚に上げて、何とマルクスをバカにした話ではないか、と。

 (この項目は、次回に続きます。)

2009年8月14日 (金)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その53)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回中断した項目●[h これまでの考察からの帰結] における大変な勘違いの続きです。)

 だから大谷氏が〈 I (v+1/2m)=IIcの場合〉の場合について、〈この場合には、第 I 部門だけが蓄積し、第II部門では単純再生産が行なわれる〉などと述べているのは、まったく間違っているのである。別に部門 I だけが蓄積するのではなく、あくまでも両部門とも蓄積することが前提されているのである。ただ部門 I の単純再生産部分の転換のためには、IIの不変資本だけで十分であり、だからこの場合は I の単純再生産部分とIIの不変資本部分とが相互に転換されるのである。そしてまただからこそ I の追加可変資本はIIの追加不変資本と量的に一致しなければならず、だからまた当然、IIも I の追加可変資本に対応した追加不変資本とその追加不変資本に対応した追加可変資本を蓄積するのであって、決してIIは単純再生産を行なうだけではないのである。この大谷氏の説明は、氏がまったく問題を理解していないことを暴露しているのである。

 具体的に見てみよう。これはいわゆるB表式といわれる表式のケースである。

   I ) 4000c+1000v+1000m=6000
  II ) 1500c+ 750v+ 750m=3000  

 この表式が I (v+1/2m)=IIcの条件を満たしていることは、 I (1000v+500m)=1500c(II)で明らかである。このケースで〈第 I 部門だけが蓄積し、第II部門では単純再生産が行なわれる〉などということがどれほど問題を間違って捉えているかは明らかであろう。部門 I は蓄積分の500mのうち400mを追加不変資本として蓄積するのに対応して、100mを追加可変資本として蓄積するのであり、それに対応して部門IIも750mのうち100mを追加不変資本として蓄積し、その100mの追加不変資本に対応して50mを追加可変資本として蓄積するのである(だから合計150mを750mから差し引く必要がある)。だから部門 I だけでなく、部門IIも蓄積することは明らかである。

 次に〈 I (v+1/2m)>IIcの場合〉であるが、もちろん、これについても大谷氏の説明は正しくないのである。大谷氏が〈この場合には、第II部門で、 I (v+1/2m)-IIcの価値額の追加不変資本の蓄積と、それに対応する価値額の追加可変資本の蓄積が行なわれる〉と述べているのは、この限りではそのとおりである。しかしそれは I の単純再生産部分の転換のために、それが行なわれるという自覚が大谷氏にはまったくないのである。それが問題なのである。つまりこのケースは、 I の単純再生産部分を転換するには、IIの不変資本だけでは不足するので、IIは I の単純再生産部分を転換するためだけにも蓄積を余儀なくされるケースである。だからもちろん、 I はこの単純再生産部分の転換だけではなく、さらに1/2mの蓄積分を追加不変資本と追加可変資本として蓄積するのであって、よってIIにおいても、 I の単純再生産部分の転換に対応した蓄積だけではなく、さらに I の追加可変資本に対応した追加不変資本の蓄積とさらにそれに対応した追加可変資本の蓄積を、 I の単純再生産部分の補填に対応した蓄積分に加えて蓄積しなければならないのである。

 これも具体的に見てみよう。これは草稿65頁、大谷訳下44頁に掲げられている次のような表式である(これはエンゲルス版では「第二例」とされ、大谷氏によって〈五回目の試み〉とされた表式である)。

    I )5000c+1000v+1000m
   II )1430c+ 285v+ 285m

 この表式が I (v+1/2m)>IIcの条件を満たしていることは、 I (1000v+500m)>1430c(II)から明らかである。この場合、 I (1000v+500m)の単純再生産の転換のためにはIIcは1500-1430=70不足している。だからIIはこれを285mから持ってくる。すなわち70m(II)を追加不変資本として蓄積しなければならない。そしてそれに対応して14m(II)を追加可変資本として蓄積するわけである。ここまでは大谷氏も説明している。しかし問題はそれで終わったわけではないということが大谷氏には分かっていない。つまり部門 I は500mを有機的構成比5:1にもとづいて、417mを追加不変資本として、83を追加可変資本として蓄積する。だからそれに対応して、IIも201m(=285-84)から、さらに83m(II)を追加不変資本として蓄積し、それに対応して17m(II)を追加可変資本として蓄積する必要があるのである(だからIIの剰余価値の残りは201-100=101mとなる)。

 こうした間違いは、三つ目のケース〈 I (v+1/2m)<IIcの場合〉の説明を見れば、もっとハッキリする。大谷氏は〈この場合には、第II部門が単純再生産を行なうためだけでも、IIc- I (v+1/2m)の価値額の生産手段を第 I 部門から買わなければならない。しかし、すでに4でマルクスが述べていたように、第 I 部門はこの生産手段を供給できないので、「相対的過剰生産(IIにとっての)」と「再生産の不足(II)」が生じることになる〉などと述べている。
 こうした説明はある意味無茶苦茶である。大谷氏はマルクスが問題にしているのは部門 I の単純再生産部分の転換であるという認識がない、だからこうした無茶苦茶な説明になってしまっているのである。この場合は、 I の単純再生産部分の転換を行なっただけでは、IIの不変資本が余ってくるケースである。しかしこのことは「相対的過剰生産」などを意味するわけでは決してない。というのは、部門 I は単に単純再生産部分を転換すればそれでよいというわけではないからである。さらに部門 I は1/2mを蓄積する必要がある。そしてそのうちの一部を追加可変資本として蓄積し、それに必要な追加的な生活手段を必要とするわけである(もちろん、必要とするのは追加労働者であるが、それはすでに以前説明したように、マルクス自身はそれは十分承知しながら、しかし資本家の立場から見れば、IIが I の追加労働者に販売する生活手段は I の追加可変資本の現物形態として考えることができると述べていたことを想起せよ)。だからその追加可変資本として必要な生活手段をIIcの余剰分が賄うことができるわけである。だからこの場合は二つのケースがさらに考えられるのである。すなわち、IIcの余剰分( I の単純再生産部分を転換してさらに残った部分)が I の追加可変資本に対応した額である場合である。この場合は、IIでは一切蓄積は不要となり、それこそただ単純再生産を行なうだけで、 I での蓄積は可能となるであろう。しかしその余剰分が、 I の追加可変資本を賄うには不足する場合には、やはりIIでもその不足分に対応した追加不変資本の蓄積が必要となり、だからまたその追加不変資本に対応した追加可変資本もIIの剰余価値から蓄積に回される必要があるのである。
 実はこのケースは具体的には上記のいわゆる「第二例」とエンゲルスによって提示されている表式(大谷氏のいう〈五回目の試み〉)をマルクスが計算間違いを行なって計算している過程で偶然生じた下記のような表式なのである(草稿69頁、大谷訳下66頁)

   I ) 5800c+1160v+1160m
  II ) 1800c+348v+348m

 この場合、 I (v+1/2m)<IIcの条件は I (1160v+580m)<1800c(II)で満たしていることが分かる。この表式の詳しい計算は省略するが、上記に説明した手順で計算すれば二つ目のケースに該当することが分かるであろう。すなわちIIcの余剰分60c(II)が、 I が580m( I )を有機的構成比5:1で蓄積した場合の追加可変資本97m( I )より小さいケースであり、よってIIはその不足分37m(II)を追加不変資本として、そしてそれに対応して7m(II)を追加可変資本として蓄積するケースである。
 だから、この三つ目のケースについても、大谷氏の説明はまったくチンプンカンプンであることが分かる。大谷氏は〈すでに4でマルクスが述べていたように〉などとマルクスが拡大再生産の概念として、それが単純再生産とは質的に異なるものであること、あるいは後者から前者への移行には質的飛躍が必要であることを論証するために論じていた部分を、今になって持ち出したりしているが、これはトンチンカンとしか言いようがない。

 このようにマルクスが強調している問題、すなわち拡大再生産の基礎には単純再生産があり、だからそれを常にベースにして蓄積についても考えなければならない、という重要なメッセージを見落としている大谷氏は、大変な間違いを犯しているのである。

2009年8月13日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その52)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●[h これまでの考察からの帰結] における大変な勘違い

 ここでは[これまでの考察からの帰結]について大谷氏の理解が述べられているのであるが、ここでも大谷氏はまったくの勘違いをしているのである。

 しかしその勘違いの内容の検討に入る前に、大谷氏が最初に〈以上のコメントのあと、マルクスは、五回目の展開を、次年度の蓄積のための第三年度の資本の組み換えを行なったところで、表式を利用した拡大再生産の考察を終える。そして、「つまり、次のようないくつかのケースがあるわけである」(S. 822.23)と言って、両部門の諸要素のあいだの量的関係についてこれまでの考察のなかで得られた帰結をまとめている〉(下183頁)と述べている部分について一言述べておきたい。大谷氏はこのように言われるのであるが、しかし私にいわせれば、この「まとめ」は「拡大再生産の諸法則」という大項目のなかで考察されてきたものの全体の「まとめ」であり、また同時に今後に残された課題についても言及している、一番最後の(三番目の)大項目にあたるものなのである。確かにマルクス自身は草稿のなかにそれらしき区切りを示すようなものは何も書いていない。前回の「拡大再生産の概念」から「拡大再生産の諸法則」へ移行する場合には、マルクスはそれ示す区切りとして横線を書いていたが、今回は何も書いていないのである。しかしこの《つまり、次のようないくつかのケースがあるわけである》という書き出しは、ノートの70頁の冒頭から始まっているのである(大谷氏訳下68頁参照)。つまりマルクスはそれまでの「拡大再生産の諸法則」の一連の考察を踏まえて、ここから改めて頁を変えて、書き出したのがこの一文以降のものなのである。その意味では、頁を改めたことが、そうした一つの区切りを表しているのではないかと私自身は推測しているのである。しかし、まあこれは私の勝手な推測かも知れないが……。

 さて、肝心なのは、大谷氏の勘違いである。これはこれまでにも指摘してきたが、大谷氏がマルクスが常に拡大再生産の基礎にある単純再生産をまず最初に問題にしてそれを基準に考えていることを見落としていることからくる勘違いなのである。それは次の一文に示されている。

 〈蓄積の場合について、マルクスは、「なによりもまず蓄積率が問題になる」(S. 822.27)と注意したうえで、 I の蓄積率をつねに50%と仮定して進めてきたこれまでの考察のなかで、第 I 部門と第II部門との商品生産物の価値額の量的関係に三つのケースがあったことを指摘する。第一は、 I (v+1/2m)=IIcの場合で、この場合には、第 I 部門だけが蓄積し、第II部門では単純再生産が行なわれる。第二は、 I (v+1/2m)>IIcの場合で、この場合には、第II部門で、 I (v+1/2m)-IIcの価値額の追加不変資本の蓄積と、それに対応する価値額の追加可変資本の蓄積が行なわれる。第三は、 I (v+1/2m)<IIcの場合で、この場合には、第II部門が単純再生産を行なうためだけでも、IIc- I (v+1/2m)の価値額の生産手段を第 I 部門から買わなければならない。しかし、すでに4でマルクスが述べていたように、第 I 部門はこの生産手段を供給できないので、「相対的過剰生産(IIにとっての)」と「再生産の不足(II)」が生じることになる(S. 803.29–30)。〉(下183頁)

 この部分のマルクスの説明は実際はどうなっているのか、マルクスの文章をまず示しておこう(但し、マルクスが誤記している部分は正しく書き改めておく)。

 《そのさい,次の3つのケースが生じた。
1)(v+1/2m)( I )=c(II),このc(II)は(v+m) I よりも小さい。(これはつねにそうでなければならないのであって,そうでなければ I は蓄積しないことになる。〔))
2)(v+1/2m)( I )>cII . この場合には,IIが(c・プラス・mの一部分)IIによって(v+1/2m) I を補填することによって,補填が行なわれる。したがってこの額は(v+1/2m) I である。この場合,この転換はII)にとってはその不変資本の単純再生産ではなくて,すでに,IIの剰余生産物のうちIIが生産手段 I と交換する部分だけの大きさの不変資本の蓄積であり,同時にまた,IIがそれに応じて自分の可変資本を自分自身の剰余生産物から補充することを含んでいる。
3)(v+1/2m)〔 I 〕<cII. この場合には,IIはこの転換によっては自分の不変資本をすっかりは再生産していないのであって,不足分のために I から買わなければならない。しかし一方では,そのために〔IIでの〕可変資本のそれ以上の蓄積が必要になるわけではない。というのは,IIの不変資本は,その大きさから見れば,この操作によっていまはじめて,すっかり再生産されるのだからである。》
(草稿70頁、大谷訳下68-9頁)

 確かに、この部分のマルクスの説明は、不親切であり、一部は不適切でさえもある。だからこの部分だけを読むと大谷氏のようなトンチンカンな理解をしても無辺なるかなと言えないこともない。しかしこれまでのマルクスの展開をつぶさに跡づけてきたものなら間違うことはないのである。
 まず大谷氏の間違いは、マルクスがなぜ蓄積のパターンを I(v+1/2m)とIIcとの関連において見ているのかということを理解していないことである。これはすでに何度も指摘してきたが、マルクスは拡大再生産の基礎にある単純再生産を基準に問題を考えているから、こうしたことを問題にしているのである。すなわち I(v+1/2m)というのは、部門 I で蓄積率を50%にした場合の単純再生産の部分を意味するのである。それが部門IIの不変資本とどういう量的な関係にあるかによって、蓄積は三つのパターンに分けられるというのが、マルクスがここで言いたいことなのである。だから当然、マルクスにとっては、この単純再生産部分の転換だけではなく、それに加えて部門 I の蓄積分1/2mが既存の有機的構成にもとづいて一部は追加不変資本に他の一部は追加可変資本にそれぞれが転換され、それに対応して、部門IIでは I の追加可変資本に等しい価値額だけ、追加不変資本と、さらにそのIIの追加不変資本に対応する追加可変資本の蓄積がなされることは前提されているのである。ただそれはこの三つのパターンでは共通しているから、マルクスはそれらをすべて捨象して三つのパターンを規定する核心部分だけを取り出して問題を論じているのである。それが大谷氏にはまったく理解されていないのである。

 (以下は、次回に続きます。)

2009年8月12日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その51)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●[g コメント―拡大再生産の展開についての総括] も混乱である
の続きで、その2です。)


 さらに大谷氏は「余剰生産手段」などというタームについても述べているが、もしこれが剰余労働によって生産された生産手段という意味なら、別に問題はないが(それならそれはただ「剰余生産物」と同じ意味である)、「生産手段」としての「余剰」、すなわち「余っている」というような意味に捉えるなら混乱も甚だしいことになる。拡大再生産を前提しているときには、こうした概念はありえないからである。それにもし「余っている」とか「不足している」というなら、それは別に剰余労働の生産物に限定する必要もないからである。単に「余っている」というだけなら、部門 I (生産手段の生産部門)全体の生産規模が大きすぎた場合もありうるであろう。ところが、拡大再生産の概念のところで確認したように、蓄積で重要なのは、全体として生産手段が余っているか,余分に生産されたかどうか、というようなことではなく、部門 I の(別に部門 I だけではないのだが)剰余労働の具体的な形態が(だから剰余生産物の具体的な内容が)問われているのだからである。だから「余剰生産手段」などというタームを平気で使い、それが蓄積の条件だなどと主張している人たちは(大谷氏もどうやらその一人のようであるが)、彼らには拡大再生産の概念が欠落していることを自ら暴露しているようなものなのである。

 最後に大谷氏が〈マルクスは、一回目の試みで両部門の蓄積率を50%としたうえで拡大再生産への移行を試みて行き詰まった、その原因をここで明示的に反省しているのである〉などと述べているのを読むと、これまでこの批判を読んで来られた人なら、ただ苦笑するだけであろう。大谷氏らはマルクスが「a表式」で〈両部門の蓄積率を50%としたうえで拡大再生産への移行を試みて行き詰まった〉などというのだが、まずマルクス自身はa表式を表式の計算をやるために提起しているのではないということが彼らには分かっていない。マルクスはあくまでも拡大再生産の概念を最終的に明確にするために、拡大再生産の具体的な表式の一つとしてa表式を提示しているだけなのである。だからそこで問題になったのは、やはり拡大再生産の概念でしかないということ(拡大再生産が単純再生産とは質的に違っていることの表式を使った最終的な確認と、拡大再生産で新たに考察の対象となる問題の確認、さらに部門IIでの蓄蔵貨幣の形成が如何になされるかという問題の解明)が大谷氏らには分かっていない。それにそもそも〈拡大再生産への移行を試みた〉などというが、a表式は、最初から拡大再生産の表式として提示されているのだから、そこでは「移行」など問題にもなりようがないこと、だから当然、マルクス自身はまったく〈行き詰まって〉などいなかったことはすでに何度も明らかにしてきたところである。

 次にマルクスが「2)」として述べている理由についてである。これもわれわれはまず大谷氏の説明を紹介したあと、マルクスの実際の説明を並べて大谷氏の説明の是非を検討することにしよう。大谷氏は次のように述べている。

 〈マルクスは、第二に、第II部門の剰余生産物が両部門の追加労働者のための追加生活手段を供給しなければならない、ということを述べる。そのさい、彼はまず、可変資本について言うかぎり、蓄積のために第 I 部門がしなければならない操作は、追加労働力を買うための貨幣資本を蓄えることだけであって、生産過程が始まってから支払われた賃金で、第 I 部門の労働者が消費手段を買っていくのだが、第 I 部門の追加労働者が消費手段を買うことができるためには、第II部門にそのための商品在庫がなければならない、と言う。続いて、この「商品在庫」が意味するのは、第II部門が、第II部門での追加労働力のための追加消費手段だけでなく、それに加えてさらに、第 I 部門での追加労働力のための追加消費手段をも供給するのだ、と述べる。このように、マルクスはここで、第 I 部門の剰余生産物が両部門の追加生産手段を供給しなければならないように、第II部門の剰余生産物が追加労働力のための追加消費手段を供給しなければならない、ということを指摘するとともに、とくに後者では、追加消費手段はまず商品在庫の形態を取り、生産過程の進行とともに次第に買われるという仕方で供給されるのだという「独自性」をも指摘しているのである。〉(下182頁)

 次はマルクス自身の説明である。

 《2) I は自分の剰余生産物から,IIのなかでの蓄積に必要な不変資本を供給しなければならないのであって,それはまったく,IIが I に, I の剰余生産物のうち I 自身が追加資本(不変資本)として取得する部分のために,必要追加可変資本を供給しなければならないのと同様だからである。》(草稿67頁、大谷訳下48頁)

 このように大谷氏の説明は、マルクスが説明しているものと大きくずれてしまっている。
マルクスが言っていることは次のようなことである。すなわちIIの蓄積に必要な追加不変資本というのは、 I の追加可変資本と一致する必要があるということ(もちろん、これは部門 I と同時に部門IIにおいても蓄積が行なわれるという前提において成り立つ条件であり、後のマルクスの考察で出てくるが、部門 I が蓄積をしても、部門IIが単純再生産を行なうだけの場合はこの限りではない)。つまりこれは I の追加可変資本がIIcに新たに不変資本として追加される部分と一致する必要があるということであり、その部分だけIIcはさらに小さくなければならないということなのである。つまりここでも、マルクスはあくまでも蓄積の条件として部門 I のv+mとIIcとの量的関係を問題にしているのである(特にIIcの量的限度を確定しようとしている)。われわれが具体的に検討しているa)式では、その追加可変資本の蓄積分は500-416[2/3]=83[1/3]である。つまりそれを先の1583[1/3]から差し引くと1500が残る。要するに I (1000v+500m)=1500c(II)の関係、一般式にすると、もし I の蓄積率を50%と仮定するなら、I(v+1/2m)=IIc関係を満たす値よりIIcは小さくなければならないということである。これは結局は、次のことに帰着する。すなわち I の蓄積分500mを差し引いた資本家の消費分500m+可変資本1000m、つまり部門 I の単純再生産部分の価値量がIIc、第II部門の不変資本の価値量より大きな値になっている必要があるということである。すなわち、I(v+1/2m)≧IIcである。だからこれは I が蓄積するためには、IIcは、 I の単純再生産の部分を補填するに必要な値より大きくなってはならないということでもある。このようにマルクスが問題にしているのは、あくまでもそれまでの考察を踏まえて、蓄積の条件を結論的に導き出そうとしているのである。

 実は大谷氏はマルクスの説明をまったく誤読しているのである。大谷氏が〈そのさい、彼はまず、可変資本について言うかぎり、蓄積のために第 I 部門がしなければならない操作は、追加労働力を買うための貨幣資本を蓄えることだけであって、生産過程が始まってから支払われた賃金で、第 I 部門の労働者が消費手段を買っていくのだが、第 I 部門の追加労働者が消費手段を買うことができるためには、第II部門にそのための商品在庫がなければならない、と言う。続いて、この「商品在庫」が意味するのは、第II部門が、第II部門での追加労働力のための追加消費手段だけでなく、それに加えてさらに、第 I 部門での追加労働力のための追加消費手段をも供給するのだ、と述べる〉などと述べているのは、マルクスが「2)」と上げた理由を、さらに説明している次のような一文を誤読しているのである。

 《言うまでもなく,現実の《追加》可変資本は追加労働力から成っている。たとえばいまの場合,資本家 I は,奴隷所有者でもあればしなければならないように,自分が使用する追加労働力のためにIIから必要生活手段を在庫として買ったりためこんでおいたりはしない。IIと取引するのは,労働者自身である。しかしこのことは,資本家の立場から見れば追加労働力の消費手段は彼が《必[48]要な場合に》追加する労働力を生産し維持するための手段でしかなく,したがって彼の可変資本の現物形態でしかないということを,妨げるものではない。資本家自身がさしあたって行なった操作,ここでは I が行なったそれは,追加労働力を買うために必要な新たな貨幣資本を貯えたことだけである。彼がこの追加労働力を取り入れてしまえば,この貨幣はこの労働力にとっての商品IIの購買手段となるのであり,したがって,IIには労働力のための消費手段がみいだせるようになっていなければならないのである。》(草稿67頁、大谷訳下48-9頁)

 ここでマルクスが言っていることは、次のようなことである。「2)」で説明した理由では、部門 I の追加可変資本と部門IIの追加不変資本とが密接に関連していることから、あたかも両資本家間で直接それらの取り引きが行なわれるかの誤解を与えかねないが、しかし実際は、IIから追加不変資本(=IImc、追加生活手段)を購入するのは、 I に追加的に雇用された労働者である。しかし資本家の立場からみると、労働力も一つの特殊な生産手段に過ぎず、だから労働者が消費する生活手段は、その労働力を使用する資本家にとっては、自身の特殊な生産手段を維持するに必要な手段でしかない。だから I の追加労働者が手にする追加生活手段は資本家 I にとっては彼の追加可変資本の現物形態でしかないのだ、だから「2)」のように追加可変資本(= I mv、追加生産手段)と追加不変資本(=IImc、追加生活手段)とを直接関連させて論じることができるのだ、というものなのである。大谷氏の解釈が如何にマルクス自身が述べているものと違ったものになっているかが分かるであろう。大谷氏が勝手に述べている内容は、ある意味では、すべて拡大再生産の概念に該当するものであり、マルクスにとってはそれをいまさら確認しなければならないようなものではないのである。だからこれ以上、われわれも詮索するのは無用であろう。

2009年8月11日 (火)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その50)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●[g コメント―拡大再生産の展開についての総括] も混乱である

 ここでは〈コメント―拡大再生産の展開についての総括〉と題して、マルクスが草稿65-67頁(但し、66頁は存在しない)、大谷訳下48-49頁で分析している部分についての大谷氏の解釈が紹介されている。しかしここで述べられていることもまったく混乱以外の何ものでもないのである。

 まず大谷氏はフランス語版でマルクスが述べていたことを、ここで再び確認しているのだというのである。それはどういうことかいうと、次のようなことらしい。

 〈社会的総資本が生産する総剰余生産物について、それが追加生産手段と追加労働力のための追加生活手段とを含んでいなければならない〉〈社会的総資本が生産する総剰余生産物について、それが追加生産手段と追加労働力のための追加生活手段とを含んでいなければならない〉(下181頁)

 しかし大谷氏がいうようなことなら、別にフランス語版まで遡らなくても、マルクスがこの蓄積または拡大された規模での生産と題した最初のあたりで、つまり拡大再生産の概念を考察したところで、すでに展開していたことなのである。それを大谷氏らはマルクスが単純再生産から拡大再生産に如何に「移行」するかを論じているなどという間違った解釈をしたためにその内容を十分に理解できなかったに過ぎないのである。それは例えば、部門 I の資本家たちについて、次のように述べられていたことを振り返れば分かる。

 《この剰余生産物を次々に売っていくことによって,資本家たちは蓄蔵貨幣,《追加的な》潜勢的貨幣資本を形成する。いまここで考察している場合には,この剰余価値ははじめから生産手段の生産手段というかたちで存在している。この剰余生産物は,B,B',B”,《等々》( I )の手のなかではじめて追加不変資本として機能する。しかしそれは,可能的には、それが売られる以前から,貨幣蓄蔵者A,A’,A”等々( I )の手のなかで追加不変資本である。これは, I の側での《再》生産の価値の大きさだけを見るならば,単純再生産の限界の内部でのことである。というのは,この可能的な追加不変資本(剰余生産物)を創造するのに追加資本が動かされたわけでもなく,また単純再生産の基礎の上で支出されたのよりも大きい剰余労働が支出されたわけでもないからである。違う点は,ここではただ,充用される剰余労働の形態だけであり,その特殊的な役立ち方の具体的な性質だけである。この剰余労働は,IIのために機能すべき,またそこでcII)となるべき生産手段の生産にではなくて,生産手段( I )の生産手段に支出されたのである。》(草稿52-3頁、大谷訳上54頁)

 この一文はエンゲルスがマルクスの草稿に勝手に手を入れていわゆる「移行論」を展開している部分の直前にある一文である。だからエンゲルスの修正をマルクスの主旨を適切に表現するものだと持ち上げる大谷氏らはここでもマルクスは「移行」について論じていると捉えていたのである。しかし、よく読めば分かるように、マルクスは I の剰余生産物は I における追加不変資本の現物形態である、つまり「生産手段の生産手段」として生産されていなければならないことを明確に語っており、問題は《充用される剰余労働の形態だけであり,その特殊的な役立ち方の具体的な性質だけである》と明確に述べていたのである。つまり剰余生産物の物的形態がすでに蓄積が可能な形態で生産されていなければならないというようなことは、むしろ拡大再生産の概念最初のところで述べられていたことなのである。
 だからまた、これまで考察してきた拡大再生産の諸法則中間総括するような段階になって、やっとこうした問題を再確認しているのだ、という大谷氏の指摘はまったくトンチンカンなものでしかないのである。そんなことはマルクスにとっては、すでに十分、拡大再生産の概念のなかで展開ずみだからである。マルクスがここで問題にしているのはそういうことではなく、拡大再生産の諸法則の一つとして、蓄積のための部門 I の(v+m)と部門IIのcとの量的な相互関係を問題にしているのである。“質”の問題はすでに「概念」のなかで十分に解明された。ここで問題なのは「法則」としての“量”の問題なのである。

 だからまたマルクスがその量的関連を考察している部分についての大谷氏の説明もまったく的を外したものでしかないのである。大谷氏は次のように解説している。

 〈マルクスは、第一に、蓄積を前提すれば、 I (v+m)>IIcであることは自明だと言い、その理由として、第 I 部門の剰余生産物が両部門の追加不変資本となる生産手段を供給しなければならない、と言う。だから、第 I 部門の剰余生産物が含んでいる、両部門での追加生産手段となりうる価値額が、必然的に両部門の蓄積率を制約する。また、一方の部門の蓄積率が高くなれば、他方の部門の蓄積率は低くならざるをえない。マルクスはここで、第 I 部門の剰余生産物に含まれる、両部門のための追加生産手段の価値額が、両部門での蓄積を制約していることを明確に指摘しているのである。この価値額は、わが国でしばしば「余剰生産手段」と呼ばれているものにほかならない。マルクスは、一回目の試みで両部門の蓄積率を50%としたうえで拡大再生産への移行を試みて行き詰まった、その原因をここで明示的に反省しているのである。〉(下181-2頁)

 われわれはマルクス自身は実際にはどのように述べているのかをまず示しておこう。

 《蓄積を前提すれば,v+m( I )はcIIよりも大きいのであって,単純再生産でのようにcIIに等しいのではないということは,自明である。というのは,1) I はその剰余価値の一部分をそれ自身の生産資本に合体させ,それを不変資本に転化させるのであり,したがって,同時に消費手段IIによって補填されることはできないからである。》(草稿65頁、大谷訳下48頁)

 これがマルクスが大谷氏がいうように〈蓄積を前提すれば、 I (v+m)>IIcであること〉の最初に上げている理由である。大谷氏の説明と比べれば、如何に大谷氏が勝手な解釈を並べているかが分かるであろう。
 大谷氏は〈その理由として、第 I 部門の剰余生産物が両部門の追加不変資本となる生産手段を供給しなければならない、と言う〉と述べているが、マルクス自身は《 I はその剰余価値の一部分をそれ自身の生産資本に合体させ,それを不変資本に転化させる》と述べているだけであって、第 I 部門の剰余生産物が両部門の追加不変資本になるなどということを理由に上げているのではないのである。
 われわれがマルクスがこの一文で何を言いたいのかを、こうした考察を行なっている直接の表式と思われる、次のような表式(草稿65頁、大谷訳下44頁)を例に上げて、具体的に説明しておこう。

 a)  I )5000c+1000v+1000m
    II )
1430c+ 285v+  285m

 マルクスがこの「1)」で述べていることは次のようなことである。マルクスが行なっている想定では、部門 I の剰余価値1000mのうち半分500mを蓄積に回すのだが、これは当然すべて現物としては生産手段からなっている。しかしそのうちの追加不変資本として蓄積される部分については、部門 I によって再び利用されるわけである(だからそれは大谷氏が指摘するように、確かに生産手段のための生産手段として生産されていなければならないが、しかしそんなことはすでにわれわれにとっては拡大再生産の概念の考察によって了解ずみのことなので、ここでことさら確認しなければならないようなことではないのである)。だからそれをIIに販売して、IIcの現物補填として利用することはできない、というのがまずその理由である。つまり少なくともIIcは I が蓄積する追加不変資本部分だけ単純再生産の条件である I (v+m)=IIcの場合のIIcより少なくなければならない、つまりa)式では I(v+m)は I( 1000v+1000m)だから2000c(II)よりそれだけ少くなければならないというわけである。今、具体的にa)式で考えてみると、500m( I )の蓄積が I の有機的構成の比率5:1どおりに行われると仮定すると、追加不変資本は416[2/3]=約416.67となり、その大きさだけIIcは小くなければならないということになる。だからIIcは2000-416[2/3]=1583[1/3]以下でなければならないことになるわけである。 このようにマルクスはまずここでは蓄積の条件としてこのような量的な関係を問題にしているのである。だから大谷氏が理解するものとまったく違ったことなのである。
 だからまた大谷氏は両部門の蓄積率のことをアレコレ述べているが、しかしそんなことはマルクス自身はまったく問題にもしていないことが分かるであろう。

  (以下、この項目は次回に続きます。)

2009年8月10日 (月)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その49)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●[d 二回目の試み――追加労働者の賃金支出についての新たな想定。「資本主義的生産の進行とは矛盾している」→中断]の検討の続きで、その4です。)


 次に大谷氏は〈二回目の表式を使った拡大再生産の進行過程の展開で注目される〉ものをいくつかあげている。それらをすべて引用紹介すると煩雑になるので、大谷氏があげているものを箇条書き的に紹介しておこう。それは次のようなことである。

(1)表式のなかに「貨幣」が繰り返し登場し、「在庫」、「商品在庫」、「消費ファンド」等が書き添えられている。〈つまり、マルクスは資本の循環運動のなかのそれぞれの段階における諸要素を表式として書き表わし、それを使って循環運動を追っているのである〉。(下179頁)
(2)表式展開のなかで、〈現実の蓄積が開始されるさいの資本を、不変資本については、生産手段と、すでに生産資本の要素に転化された形態で示しているのに対して、可変資本については貨幣形態で示している〉。(下179頁)
(3)〈両部門の不変資本については、今年度の期首に完全に生産手段の形態に転換される〉。それに対して〈両部門の可変資本については、期首ではまだ貨幣形態にあるのであって、生産過程が、したがって現実の蓄積過程が開始され、進行していく過程で、それが次第に賃金として支払われ、その賃金で消費手段の形態にある商品生産物が次第に貨幣化されていく、と考えている〉。(下179-80頁)
(4)〈だから彼は、第 I 部門の商品生産物は期首に行なわれる流通過程によってただちに買い取られて貨幣に転化されるのにたいして、第II部門の商品生産物のうち、労働者の必要生活手段となる部分については、生産過程が始まるときにはそのすべてが商品在庫の形態を取っており、生産過程の進行とともに、それが次第に減少して、貨幣化されていく、と考えているのである〉。(下180頁)

 そして大谷氏は次のように総括している。

 〈このように、ここでのマルクスの二回目の表式展開は、社会的総再生産過程の分析にとって、きわめて重要な新たなステップを刻むものであった。〉(下180頁)

 しかし上記にあげたいくつかの特徴は、果たして〈社会的総再生産過程の分析にとって、きわめて重要な新たなステップを刻むもの〉というようなものなのであろうか。というのはこれまで大谷氏によって紹介されたものを見ただけでも、マルクスは単純再生産の考察においても、すでに貨幣流通による媒介を考慮した場合には、同じようなことを論じていたからである。われわれが【想定1】、【想定2】と名付けた引用文をもう一度検討してみよう。例えば上記の(3)と(4)については、【想定1】でも、《この生産過程に先行する、またはそれと並んで進む(並行する)流通過程、潜勢的な可変資本から現実の可変資本への転換、すなわち労働力の売買》とマルクスは述べていた。これはわれわれの解読によれば、【資本の回転は年一回転である。だからまず《だから,この生産過程に先行する》と書かれている《流通過程》というのは、1869年の期の初めに行なわれた流通過程を意味し、それは1869年の不変資本の補填を意味している。そして次に続けて書かれているもの、すなわち《またはそれ(生産過程--引用者)と並んで進む(並行する)流通過程,潜勢的な可変資本から現実の可変資本への転換,すなわち労働力の売買はなおさらのことである》というのは、いうまでもなく、1869年の一年間のあいだに継続して行なわれた可変資本の補填を意味するわけである。つまり可変資本の補填(潜勢的可変貨幣資本を現実の労働力に転換する過程)は1869年一年間を通じて生産過程と並行して行なわれたとマルクスはここでは考えているわけである。だからこれは引用文を見る限りでははっきりとは書かれてはいないが、労賃も週給なら週単位でその週末に支払われ、労働者はそれで消費手段(前々年度のつまり1868年の生産物)を1869年の一年間を通じて購入したと考えられているわけである。そして彼らはその1869年の一年間において、《自分の労働力を売ってしまっただけではなく、剰余価値などのほかに自分の労働力の価格の等価を商品で供給してしまった》わけである。その商品を資本家たちは1870年の初めの流通過程に商品資本W’として押し出しているわけである。ただ1870年の期の初めの流通過程にあるW’を考察する時点から考えると、それらはすべて《過ぎ去った》ものであり、だから労働者は1869年末に1869年の最後の一週間分の週給を受けて市場に現われている(彼はこの一週間分の給与で、1870年の最初の一週間を働くわけだ)。また1870年の当面の流通過程はW’-G’(商品資本の貨幣資本への転化)であるのだから、ここには労働市場はなく、労働者はただ購買者として現われているわけである。だから1870年の一年間を通じて労働者が購入するのは、彼らが1869年に生産した消費手段であるのは明らかである】。このように【想定1】でもすでに(3)(4)で指摘されていることはマルクスは述べていたことが分かる。そしていうまでもなく【想定2】はなおさらそう言えるのである。なぜなら、【想定2】ではマルクス自身が《こういう状況のもとでは、たとえば1870年に、この年の経過中に、第 I 部門の資本家が労働者に100ポンド・スターリングを支払い、労働者がこれで、彼ら自身が前年の1869年に生産した消費手段一部分を買い戻す。この購買によって100ポンド・スターリングは、1870年のうちに第 I 部門の資本家に還流する》と述べているが、これは第 I 部門(消費手段の生産部門)の資本家が最初は100ポンド・スターリングを貨幣準備として持ち、1870年の《この年の経過中に》、つまり一年間かけて、それを週給なら一週間の末ごとに労働者に支払ってゆき、そして労働者はやはりその一年間のあいだ同じ第 I 部門の資本家から自分が1869年に生産した消費手段の一部分を購入し、100ポンド・スターリングは資本家 I のもとに還流するとマルクスは述べているのだからである。そして【想定2】では、マルクス自身が《今年に消費される消費手段の一部分は、実際には、つねに、前年から受け継がれた商品在庫として存在する》とも述べているからである。
 では(1)や(2)で指摘されているようなことはどうであろうか。確かにこれまで大谷氏によって紹介されたものには表式展開しているようなものはなかったから、表式のなかでマルクスが「貨幣」や「在庫」などの文字を書いていることや、不変資本は生産資本に転化されていても、可変資本は貨幣形態で示しているというような表式には、われわれはお目にかかっていない。ではこれらはこの第8稿のB表式(大谷氏のいう〈二回目の試み〉)で初めて試みられたことなのであろうか。ところが、われわれは第2稿のなかにも、すでに次のような表式を見ることができるのである。

《 I  消費手段
 a 労働者の消費手段 200c(a)+50v(a)+50£G+50M(a)
 b 資本家の消費手段 200c(a)++50v(a)+50£G+50M(a) 》
(草稿176頁、水谷・名和前掲論文170頁)

 これは全体の表式のうちの部門 I (消費手段の生産部門)の部分だけを取り出したものであり、マルクスは部門II(生産手段の生産部門)については、生産手段aと生産手段bとに分け、さらにそれぞれをα、ααとβ、ββに分ける(だから生産手段生産部門だけで四つも生産部門がある)という非常に複雑な表式の計算を行なっているようなのであるが、ここで紹介した表式のなかに《50£G》とあるのは、「50ポンドの貨幣」の意味であり、それがまず可変資本の貨幣形態として存在していることを表式のなかで表現しているのである。だから表式のなかに可変資本の貨幣形態を書き記すというやり方は、すでに第2稿の段階からマルクスによって試みられているということである。だからこうしたことも果たしてB表式で初めて試みられた、〈きわめて重要な新たなステップを刻むもの〉と言えるのかどうかを疑わせるものではないだろうか。

●単純再生産部分の転換を見落とす

 さて、大谷氏はマルクスが自身の勘違いや計算間違いなどから〈二回目の試み〉が予想と違った傾向を示したために中断し、病状の重圧をおして〈三回目および第四回目の試み〉にも挑戦しながら、やはりいずれも中断したあと、〈五回目の試みで……最後の挑戦を試みる〉とし、その特徴を次のように述べている(これはエンゲルス版で「第二例」とされている表式のことである)。

 〈この五回目の試みでの表式の特徴は、両部門の諸要素の価値について、このあとでのコメントや総括につながるような量的関係が意識的に設定されていることである。すなわち、第 I 部門が50%の蓄積率で蓄積をするという前提のもとで,消費手段に転換すべき I (v+1/2m) が、生産手段に転換すべきIIcよりも I (v+1/2m)-IIcだけ大きい、という量的関係である。〉(下181頁)

 すでに指摘したことであるが、このように大谷氏は肝心なことを見落としているのである。マルクスが I(v+1/2m)とIIcの関係を問題にしているのは、部門 I の単純再生産部分の転換をまず問題にしているからだという認識が大谷氏にはないのである。大谷氏は I (v+1/2m)を〈消費手段に転換すべき〉ものとのみ捉えている。しかし単に〈消費手段に転換すべきもの〉というだけなら、別に I (v+1/2m)に限らないのである。蓄積される1/2mのうち追加可変資本に投下される部分も〈消費手段に転換すべきもの〉であるからである。同じことはIIcを〈生産手段に転換すべき〉ものとのみ考えていることについても言いうる。問題はそういうことではなくて、ここでマルクスが問題にしているのは I の単純再生産部分が転換するための条件なのである。マルクスは常に部門 I の単純再生産部分をまずベースにして問題を考えているという認識が大谷氏にはない。先のB表式の場合は、部門 I の単純再生産部分の転換はIIcと相互に転換されるだけであった( I 〔1000v+500m〕=II1500c)が、今回の場合は、部門 I の単純再生産部分の転換のためには、IIcが不足し、その分だけ第II部門で蓄積が必要となるケースとしてマルクスは問題にしているのである(実はB表式でも二年目からは同じ条件の表式になったのである)。このように大谷氏にはマルクスが常に単純再生産を基礎にして考えているということが分かっていないのである。それが後に見ることになるが、とんでもない間違いを犯すことに繋がっている。

2009年8月 9日 (日)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その48)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●[d 二回目の試み――追加労働者の賃金支出についての新たな想定。「資本主義的生産の進行とは矛盾している」→中断]の検討の続きで、その3です。)


 さらに続けて大谷氏の述べていることは、すでにこれまでこの批判を読んで頂いた人なら、その問題点はすぐに見抜けるであろう。

 〈この想定のもとでは、もはや、第II部門の商品生産物を実現することの困難も、第II部門が追加生産手段の購買に前貸した流通手段の還流の困難も生じないのであり、したがって、こうして一回目の試みでの「一つの新しい問題」そのものが消えたのであった(5)。
 この二回の試みのなかでマルクスは,抽象的にはそれまですでに十分に承知していたはずの次の二つのことを、具体的に生じた困難を解決する過程であらためて痛感したにちがいない。すなわち、第一に、拡大再生産の分析では、単純再生産の分析のさいには問題とならなかったような、再生産過程におけるもろもろの関連を、新たに問題として設定し直し、立ち入って解明する必要がある、ということ、そして第二に、社会的総資本の再生産過程のなかでの、可変資本の貨幣形態での前貸とそれの貨幣形態での還流という、資本の循環における決定的に重要な契機を正確に把握するためには、もはや商品資本の循環という視点からの考察では十分ではなく、貨幣資本の循環の視点からの考察を必要とするのであって、この二重の視点からの分析が要求される、ということである。〉
(下178頁)

 われわれは重複を恐れず、もう一度、上記の引用文の問題点を箇条書で書き出してみよう。
(1)まず〈この想定のもとでは、もはや、第II部門の商品生産物を実現することの困難も、第II部門が追加生産手段の購買に前貸した流通手段の還流の困難も生じないのであり、したがって、こうして一回目の試みでの「一つの新しい問題」そのものが消えたのであった〉などと述べているが、そもそもそうした「困難」「問題」も、ただ大谷氏らが間違って作り上げただけであって、勝手に考え出した想定をマルクスがあたかもやっているかに主張しているだけだということである。ついでに指摘しておくと、注5で紹介している前畑憲子氏が想定しているものと大谷氏が想定しているものとは若干違っている。これは詳しくは述べないが(その必要性もないが)、前畑氏の論文を読めば分かるであろう。
(2)〈抽象的にはそれまですでに十分に承知していたはずの次の二つのことを、具体的に生じた困難を解決する過程であらためて痛感したにちがいない〉などと大谷氏は言われているが、大谷氏らは、マルクスが「一つの新しい問題」として論じているものは、マルクスにとっては一つの「外観上の困難」でしかないという事実を理解されていない。彼らは、それがあたかもマルクス自身にとっても「一つの新しい問題」であり、「困難」であったかに理解されているのである。しかし項目「b)」のなかでマルクスが論じているものをつぶさに検討すれば分かることであるが、そこでのマルクスの狙いは、拡大再生産の概念を展開する一環として部門IIにおける蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかを解明することである。それを部門 I と部門IIとの補填関係に部門 I の労働者が介在することによって、部門IIの貨幣蓄蔵が如何になされ得るのかということを《一つの新しい問題》として提起し、それを《詳しく解決》するために、まずはそれを「外観上の困難」=《貨幣源泉が部門IIのどこから湧き出るのか》として提起し、そしてそれを解決するとして考えられ得るさまざまな方策を取り上げて、なおかつそれらの諸方策がすべて不可であることを論証することによって、そうした「困難」そのものが単なる「外観上」のものにすぎないことを明らかにし、さらにその上で、その《詳しい解決》、すなわち部門IIにおいて如何に蓄積のための貨幣蓄蔵がなされるのか、という問題を論じるつもりだったのである。それは、部門 I でなされたのと同じ想定を部門IIでもすることによって可能であること、すなわちこれから貨幣蓄蔵を行なう資本家群A、A'、A”等々と、これまで蓄蔵してきた貨幣額が現実の蓄積に必要な額に達したので現実の蓄積を行なおうする資本家群B、B'、B”等々を部門 I と同様に部門IIでも想定することによって、問題が解決することを示すことにあったのである。もちろん、マルクス自身はそれを最後まで敍述せずに、その導入部分に該当するアレコレの解決策の不可を論証する途中で《云々、云々。》という形で敍述を切り上げてしまっているのであるが。大谷氏らは、そうしたマルクスの敍述上の工夫を、あたかもマルクス自身が困難に陥って右往左往しているかに誤解しているのである。しかしこれは無理解も甚だしいし、ましてやそうした自分たちの無理解を棚に上げて、あたかもマルクスが自分の認識の浅さを〈あらために痛感したにちがいない〉などと書くに至っては思い上がりも甚だしいといわなければならない。
(3)次に、マルクスが〈痛感したにちがいない〉として指摘している二つのことについてである。〈第一に〉として述べていること、〈拡大再生産の分析では、単純再生産の分析のさいには問題とならなかったような、再生産過程におけるもろもろの関連を、新たに問題として設定し直し、立ち入って解明する必要がある、ということ〉は、ある意味では当たり前のことであり、マルクスが〈あらためて痛感し〉なければならないようなものではない。というのは、大谷氏らが勝手に憶測しているのとは異なり、マルクス自身は単純再生産と拡大再生産とで想定を変えたというようなことは決して無かったからであり、そればかりか、マルクスは《II) 蓄積または拡大された規模での生産と題した草稿の冒頭から、拡大再生産の概念を明らかにするために、それを単純再生産と比較しながら、拡大再生産に固有の問題を解明してきたからである。だから〈拡大再生産の分析では、単純再生産の分析のさいには問題とならなかったような、再生産過程におけるもろもろの関連を、新たに問題として設定し直し、立ち入って解明する必要がある〉などという、ある意味では拡大再生産の概念に該当するような内容は、すでにマルクスにとっては解決済みのことであり、いまさらそんなことを解明することがここでの課題ではないからである。そして、すでに指摘したように、大谷氏らこそが拡大再生産の基底にある単純再生産の契機を見落としているのである。
(4)そして〈第二に〉として述べていること、〈可変資本の貨幣形態での前貸とそれの貨幣形態での還流という、資本の循環における決定的に重要な契機を正確に把握するためには、もはや商品資本の循環という視点からの考察では十分ではなく、貨幣資本の循環の視点からの考察を必要とするのであって、この二重の視点からの分析が要求される〉などというのはまったく無茶苦茶である。これもすでに指摘したことであるが、可変資本が貨幣形態で常に還流しなければならないというのは、確かに資本主義的生産にとって重要なことであるが、しかしそれはそれ以外の資本の場合は、そのほとんどが信用によって取り引きされ、必ずしも貨幣形態での還流を必要としないという事実から来るのである。それを大谷氏らは、その内容も十分に考えもせずに、それが何か決定的なことであるかにあまりにも過大視しすぎているのである。再生産表式の抽象レベルでなら、その他の資本部分についても常に商品資本は必ず貨幣資本に転換すると仮定されるのであって、その限りでは可変資本部分だけを特別視する必要性はないのである。ましてやそのことを貨幣資本の循環として問題を捉えることであるかに考えるのだから、まったくもって混乱以外の何ものでもない。なぜなら、商品資本の循環として捉えるべき社会的な総再生産過程の考察においては、可変資本も常に商品資本の可変成分(すわなち)として、その循環が考察されるし、されなければならないからである。vの循環その補填関係)は商品資本の可変成分の循環(補填)であって、決して可変貨幣資本の循環(補填)そのものではない、という決定的なことが大谷氏らには分かっていない。 だから〈社会的総資本の再生産過程〉においては〈商品資本の循環という視点からの考察では十分ではな〉いなどと言ったり、〈二重の視点からの分析が要求される〉などというのは、ただただ混乱としか言いようがないのである。

 (以下、この項目は次回に続きます。)

2009年8月 8日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その47)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回中断した項目●[d 二回目の試み――追加労働者の賃金支出についての新たな想定。「資本主義的生産の進行とは矛盾している」→中断]の検討の続きで、その2です。)


 このようにわれわれは【想定1】の内容を解読した。この解読を読んでから、もう一度【想定2】を読んで頂きたい。そうすれば両者が、まったく同じ想定に立っていることがお分かりになるであろう。【想定2】でも、マルクスは《こういう状況のもとでは、たとえば1870年に、この年の経過中に、第 I 部門の資本家が労働者に100ポンド・スターリングを支払い、労働者がこれで、彼ら自身が前年の1869年に生産した消費手段一部分を買い戻す》と書いているように、資本家は一年間を通じて週給なら週末に賃金を支払い、それで労働者は毎日消費手段を第 I 部門(消費手段生産部門)の彼らが1869年に生産した消費手段の一部分を買い戻して労働力を再生産すると考えていることが分かる。だからこれは【想定1】とまったく同じ想定にマルクスは立っていることを意味するのである。
 このように、大谷氏が、先にマルクスが《一つの新しい問題》と述べている問題を前畑憲子氏の問題提起を受け入れて、極めて“独創的な”(?)解釈を充てて理解しようとした根底にある前提--すなわちマルクスは単純再生産と拡大再生産とでは二つの違った想定をしているという前提--がまったくの誤解・誤読にもとづくものであることが今ではまったく歴然としたわけである。

 しかも前回問題になったところは(つまり表式aは)、第8稿の大谷氏のいう「第2層」における、つまりマルクスの最晩年の段階における敍述である。ところが大谷氏はすでにそれを遡るに10年も前の草稿である第2稿でもマルクスは今回(B表式、大谷氏にいわせると「第二回目の試み」)の想定と同じ想定に立っていたというのである(それが先に紹介した【想定2】の引用文である)。とするなら、マルクスは第2稿の段階ではそうした想定に立っていながら、第8稿の第2層というもっとも最後の段階になって、しかもまったく一時的に(なぜならa表式というケースにおいてだけだから)、それとは違った想定に立ったのだ、と大谷氏らは事実上主張されていることになる。どうしてマルクスはそうしたある特定のケースにおいてだけそれまでと違った想定に立ったのであろうか、そんな不可解な“謎”について大谷氏らは、まともに説明ができるのであろうか。
 真実は、マルクスは単純再生産においても〈二つの異なった想定〉などはしていないこと、想定を変更するようなことはなかったこと、だからまた拡大再生産でも〈二つの異なった想定〉などはないし、想定の変更もなかったこと、表式aと表式Bとには、どんな想定の違いもないということである(但し誤解して貰っては困るが、ここで「どんな想定の違いもない」というのは、あくまでも今年度に追加労働者が購入する消費手段は前年の剰余労働の生産物だという点では両者に違いがないということであって、すでに検討したように、a表式とB表式とでは想定そのものはまったく違っているのである)。大谷氏らは、マルクスが一つも検討もしていないa表式の部門 I の追加可変資本の内容について、まったく勝手な憶測を行い、マルクスがやってもいない想定をまったく勝手に考えついて、それをマルクスがやっているなどとなすり付けているだけなのである。

 そして大谷氏は先の引用文(【想定2】の引用文)に続けて、次のようにそれを説明している(なおこの引用文の内容は、消費手段生産部門を第8稿と同じように部門IIにした表式でいうなら、部門IIのv、つまり100v(II)の転換を貨幣流通による媒介を考慮して論じていることになる。だからここでは第II部門の資本家と第II部門の労働者の間の貨幣流通によって媒介される相互転換の考察がなされているのである。だからまたマルクスは《買い戻し》といった表現も使っているのであろう)。

 〈要するに、労働者は、今年の生産のための労働力にたいして資本家が労働者に支払う賃金で、今年、前年の労働によって生産された商品生産物(消費手段)の一部を買い戻し、これによって翌年に売ることができる労働力を再生産するのである。〉(下178頁)

 しかしこれも少しおかしい。なぜなら、今年の労働者は彼らの労働力に対して受け取った賃金で、去年彼らが生産した商品生産物(消費手段)を買い戻すというのは、そのとおりだが、しかしそのことは彼らは今年中においても、生産過程において消耗した労働力を常に再生産する必要があるからそうするのであって、決して〈翌年に売ることができる労働力を再生産する〉ためだけではないからである。確かに今年の最後に受け取った賃金をもって翌年の流通過程に登場する労働者は、翌年の期のはじめに自分の労働力を販売できるようになっているというなら、そのとおりであろう。しかし今年彼らが受け取る賃金で消費手段を購入して、それを消費するのは、今年の彼らの労働力を今年中においても常に再生産するがためであって、決して、大谷氏がいうように、だだ〈翌年に売ることができる労働力を再生産する〉ためだけではないのである。

 さらに、それに続く次のような大谷氏の説明にも不正確なところがある。

 〈この場合、第 I 部門の資本家による追加労働者からの労働力の購買と、この追加労働者による第II部門の資本家からの消費手段の購買とは、次のように進行する。(1)資本家は、生産過程が開始されてから、週等々の一定期間の労働が終わった時点で追加労働者に賃金を支払う。(2)生産過程の進行とともに、追加労働者は毎週等々に、賃金として受け取った貨幣を支出して消費手段を買い、その消費によって労働力を再生産する。(3)第 I 部門の追加労働者は、労働力を再生産するために必要な消費手段を、生産過程の進行とともに次第に買っていくのだから、第II部門の資本家は、当該年度の生産過程が終了するまでは、自分の商品資本IIcのうちのこの部分を次第に貨幣化するのであって、第II部門の資本家の側では、生産過程が終了するまでは、つねにまだ売れていない商品在庫を抱えている。(4)このように、第 I 部門の資本家の側では、準備資本の形態、貨幣の形態で言えば鋳貨準備の形態にある可変貨幣資本を、生産過程の進行とともに次第に支払い、第II部門の資本家の側では、商品在庫の形態を取っている商品資本を、生産過程の進行とともに次第に貨幣化していく、ということになる。〉(下178頁)

 この一文を読んでいくつかのことに気付く。
 1、まずこの説明における〈この場合〉というは、先のわれわれが【想定2】と名付けた引用文の〈場合〉であり、それを大谷氏が拡大再生産のケースに適用したものである。つまり大谷氏が〈二回目の試み〉とするB表式で、マルクスがとっているというもののことであろう。
 2、しかしそうであるなら、これはわれわれが【想定1】と名付けたケース(大谷氏がa表式でマルクスがとっている〈異なる想定〉だと主張され、それがために《一つの新たな問題》が生じたとされているケース)とまったく同じであることが分かる。われわれの解読では、それは次のようになるからである。(1)資本家は生産過程と並行して週末ごとに労賃を支払う。(2)労働者は毎週末の賃金で、前年度に生産された消費手段を購入して労働力を再生産する。(3)だから当然、労働者に消費手段を一年を通して販売する資本家IIはその前年の生産物を最初はすべて商品在庫として保持し、その一部分を徐々に年間を通して労働者に販売することは前提されている。(4)また当然、生産過程と並行して年間を通して可変資本を補填する資本家はそのための可変貨幣資本を最初はそのすべてを準備状態で保持し、一週間ごとにそれを労働者に支払うことも前提されている。このように前提はまったく同じであることが分かるであろう。もちろん、一方は拡大再生産、他方は単純再生産の相違はあるのではあるが。
 3、その前のパラグラフで大谷氏は今年の労働者は今年受け取った賃金で前年の生産物を買い戻して〈翌年に売ることができる労働力を再生産する〉などと述べていたが、今回の敍述では、今年中にも労働者は毎週の賃金で毎日自身の労働力を再生産することになっている。だからこれはまあこれでよいわけである。
 4、しかし、大谷氏は重要な問題を見過ごしている。マルクスはB表式で、まず最初に計算しているのは、大谷氏が問題にしているような部門 I の追加労働者の問題ではなく、部門 I の単純再生産部分の転換だからである。すなわち I (1000v+500m)の転換なのである。常にマルクスが拡大再生産の表式の計算で、まず最初に、そこに含まれている単純再生産部分を区別し、それを計算してから、拡大再生産の部分の計算に移っているという、非常に重要な視点を大谷氏は見落としているのである。こうした視点は、この《II) 蓄積または拡大された規模での生産と題された草稿全体をも貫くものであって、これは単純再生産が拡大再生産のなかに含まれたその基体でもあるというマルクスの考えから来るものなのである。大谷氏はこの重要な観点を見落としているのであるが、それがために氏がどれほどとんでもない間違いに陥っているかを、われわれは後に知るであろう。
 5、大谷氏は(3)で〈第II部門の資本家は、当該年度の生産過程が終了するまでは、自分の商品資本IIcのうちのこの部分を次第に貨幣化する〉と述べている。しかし大谷氏が問題にしているのは部門 I の追加労働者の労働力であろう。とするなら、 I の追加労働者に資本家IIが販売するのはIIcではなく、IImc、つまりIIの剰余価値から蓄積に回される追加不変資本部分に予定されている部分でなければならないのである。

 (以下、この項目は次回に続きます。)

2009年8月 7日 (金)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その46)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●[d 二回目の試み――追加労働者の賃金支出についての新たな想定。「資本主義的生産の進行とは矛盾している」→中断]の検討

 さて、次は大谷氏のいう〈二回目の試み〉なるものである。これは草稿の61頁、大谷訳では下21頁に掲げられている表式のことである。マルクスは単純再生産の考察のときに提示した表式を《A 単純再生産の表式》としてまず掲げ、それに並べる形で《B 拡大された規模での再生産のための出発表式》と題して新たな拡大再生産の表式を提示している。すでに何度も紹介してきたが、私の解読によれば、ここからマルクスはそれまでの【拡大再生産の概念】の考察をひとまず終えて(単純再生産のA表式の上に横線が引かれているのがその区切りを示している)、次に【拡大再生産の諸法則】の考察を始めている部分なのである。しかし大谷氏によれば、それもやはりマルクスの“試行錯誤”の一環でしかなく、〈二回目の試み〉ということになるのだそうである。

 大谷氏は〈今回の試みで決定的に重要な〉こととして、次のように述べている。

 〈マルクスが、追加労働者による消費手段の購買について、追加労働者は労働力の対価として今年受け取った賃金で、今年のうちに、前年の労働によって生産された商品生産物の一部を買い戻す、という、前回の試みで取った想定とは異なる想定を取ったことである。この想定も、じつは、かつて第2稿における再生産の分析でマルクスがすでに取っていた想定であった。これは、マルクスが第2稿第3章の「b 媒介する貨幣流通の叙述」のなかで、消費手段生産部門(第2稿ではまだこれが第 I 部門であった)の内部での資本家と労働者とのあいだでの転換について、次のように書いたところから、誤解の余地なく読み取ることができる。〉(下177頁)

 大谷氏は〈今回の試みで決定的に重要なのは、……追加労働者は労働力の対価として今年受け取った賃金で、今年のうちに、前年の労働によって生産された商品生産物の一部を買い戻す〉などと述べているが、追加労働者が購入するのは、単に〈前年の労働によって生産された商品生産物〉ではなく、〈前年の剰余労働によって生産された商品生産物〉(下線は引用者)でなければならないこと、また追加労働者の場合は〈買い戻す〉というようなことは決してありえないこと(なぜなら彼らは前年には生産物を生産していないから)を忘れている。つまり大谷氏の述べている内容はこのようなあいまいさを含んでいる。
 また〈マルクスが第2稿第3章の「b 媒介する貨幣流通の叙述」のなかで〉と述べているが、これは正しくは《第2稿第3章「b 貨幣流通による媒介を考慮した敍述」》ではないのだろうか(というのは以前紹介した水谷・名和前掲論文ではそうなっているし、八柳良次郎氏の翻訳でも《b 媒介する貨幣流通のある説明》となっている)。この両者ではやや意味が違ってくるのではないかと思うのである。大谷氏の訳では敍述の対象は貨幣流通になるが、水谷・名和両氏の訳では(八柳氏の訳も)、敍述の対象は単純再生産であり、それを貨幣流通による媒介を考慮して敍述する(説明する)ことになる。一体、マルクスの意図としてはどっちであろうかと考えるなら、やはり、後者ではないかと考えるのである。
 さらに大谷氏は〈前回の試みで取った想定とは異なる想定を取った〉などというが、しかし何度も言うが、前回(すなわち表式a)では、マルクスは部門 I の追加可変資本については何も論じていないのである。大谷氏らが勝手にマルクスがそうしていると憶測しているだけなのである。
 実際、大谷氏が主張されるように〈今回の試みでは〉〈前回の試みで取った想定と異なる想定を取った〉と言えるのかどうかを検証してみよう。わわれわれは、もう一度、前回の想定と今回の想定とを引き比べて検証するのである(大谷氏が〈違った想定〉にあるという二つの例を便宜的に【想定1】と【想定2】と名付ける)。
 大谷氏が前回(つまり表式aで)マルクスが取っている想定というのは、現行第10節にある次のような一文であった。

【想定1】《年々の再生産のさまざまの要素の転換を研究しなければならないのであれば、過ぎ去った年間労働、終わっているこの年の労働の結果を研究しなければならない。この年間生産物という結果をもたらした生産過程は、われわれの背後にある(過ぎ去っており、それの生産物になってしまっている)。だから、この生産過程に先行するまたはそれと並んで進む(並行する)流通過程、潜勢的な可変資本から現実の可変資本への転換、すなわち労働力の売買はなおさらのことである。労働市場は当面の商品市場の一部分をなしていない。労働者はここではすでに、自分の労働力を売ってしまっただけではなく、剰余価値などのほかに自分の労働力の価格の等価を商品で供給してしまった。他方、彼は自分の労賃をポケットにもっており、転換が行なわれるあいだは、ただ商品(消費手段)の買い手として現われるだけである。》(S. 787.16-29.下線はマルクスの強調箇所、大谷氏の引用では傍点になっている)(下175頁)

 そして大谷氏が〈今回の試み〉〈前回の試みで取った想定と異なる想定〉としているのは、第2稿の次のようなものだという。

【想定2】《つまり、この取引の終りには、第 I 部門の資本は、ふたたび100ポンド・スターリングの貨幣を携えて第 I 部門の労働者に相対し、第 I 部門の労働者は、ふたたび100ポンド・スターリングの労働力の売り手として第 I 部門の資本に相対するのである。だから、ここでのように、消費手段を生産する第 I 部門の資本が毎年一回だけ回転する場合には、今年の、たとえば1870年の生産物は、来年の1871年の全年を賄うのに足りなければならない。他方、1871年には1872年に必要なものが生産されることになるのであり、1870年には1869年の生産物が消費されたのである。この想定では、すべての生産物について、ただ、農産物の一部分にとって現実に生じていることだけが前提されている。こういう状況のもとでは、たとえば1870年に、この年の経過中に、第 I 部門の資本家が労働者に100ポンド・スターリングを支払い、労働者がこれで、彼ら自身が前年の1869年に生産した消費手段一部分を買い戻す。この購買によって100ポンド・スターリングは、1870年のうちに第 I 部門の資本家に還流する。第 I 部門の資本家は、ふたたび1871年に、この100ポンド・スターリングで労働者に支払いを行なう、すなわち労働者は、ふたたび1871年に、この100ポンド・スターリングと引き換えに、彼らが1870年に生産した消費手段の一部分で支払いを受けるのである。今年に消費される消費手段の一部分は、実際には、つねに、前年から受け継がれた商品在庫として存在する。》(S. 426.16-33.)〉(下177-8頁)

 果たしてこの二つのものは違った想定に立っているといえるのかどうか。
 大谷氏がこの二つのものが違った想定に立っていると考えたのは、すでに指摘したように、最初のもの(【想定1】)を正確に読み取ることが出来なかったからに他ならない。われわれが【想定1】をどのように解読したのかを、それをもう一度、紹介しておこう。但し、【想定1】が【想定2】と同じ想定に立っていることが分かるように、先の解読を【想定2】と同じ年代を入れて書き直しておく。つまり「今年度」を「1870年」として書き直すと、前回の解読は次のようになる。

 【マルクスが想定しているのは、いうまでもなく、社会的総資本の流通を商品資本の循環として考察する場合である。だから再生産表式に表されているW’から考察が開始されるわけである。そしてW’の生産過程は、表式として提示されている時点(つまり1870年の期の初めに流通過程に登場している商品資本)から考えるなら、それは1869年の生産過程であり、《過ぎ去った》ものだと述べている。そして《だから,この生産過程に先行する,またはそれと並んで進む(並行する)流通過程,潜勢的な可変資本から現実の可変資本への転換,すなわち労働力の売買はなおさらのことである》と書いている。この部分をどう理解するかが重要である。これはどういうことかというと、資本の回転は年一回転である。だからまず《だから,この生産過程に先行すると書かれている《流通過程》というのは、1869年の期の初めに行なわれた流通過程を意味し、それは1869年の不変資本の補填を意味している。そして次に続けて書かれているもの、すなわち《またはそれ(生産過程--引用者)と並んで進む(並行する)流通過程,潜勢的な可変資本から現実の可変資本への転換,すなわち労働力の売買はなおさらのことである》というのは、いうまでもなく、1869年の一年間のあいだに継続して行なわれた可変資本の補填を意味するわけである。つまり可変資本の補填(潜勢的可変貨幣資本を現実の労働力に転換する過程)は1869年一年間を通じて生産過程と並行して行なわれたとマルクスはここでは考えているわけである。だからこれは引用文を見る限りでははっきりとは書かれてはいないが、労賃も週給なら週単位でその週末に支払われ、労働者はそれで消費手段(前々年度のつまり1868年の生産物)を1869年の一年間を通じて購入したと考えられているわけである。そして彼らはその1869年の一年間において、《自分の労働力を売ってしまっただけではなく、剰余価値などのほかに自分の労働力の価格の等価を商品で供給してしまった》わけである。その商品を資本家たちは1870年の初めの流通過程に商品資本W’として押し出しているわけである。ただ1870年の期の初めの流通過程にあるW’を考察する時点から考えると、それらはすべて過ぎ去ったものであり、だから労働者は1869年末に1869年の最後の一週間分の週給を受けて市場に現われている(彼はこの一週間分の給与で、1870年の最初の一週間を働くわけだ)。また1870年の当面の流通過程はW’-G’(商品資本の貨幣資本への転化)であるのだから、ここには労働市場はなく、労働者はただ購買者として現われているわけである。だから1870年の一年間を通じて労働者が購入するのは、彼らが1869年に生産した消費手段であるのは明らかである。】

 (以下、この項目は次回に続きます。)

2009年8月 6日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その45)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているかの続きで、「その9」です。)


 この表式aでマルクスが暗に前提している上記の(1)~(3)の想定について、もう少し考えてみよう。これは後に問題になる(大谷訳下21頁以下で取り上げられている)、《B 拡大された規模での再生産のための出発表式》でマルクスが行なっている想定と比較して検討してみよう。B表式--大谷氏が〈二回目の試み〉としている表式--における想定を同じように書き出してみると、次のようになる。

 (1)部門 I での蓄積率は50%と仮定。
 (2)1/2mを部門 I では既存の有機的構成(4:1)にもとづいて追加不変資本と追加可変資本に分割して蓄積する。
 (3)部門IIでも既存の有機的構成(2:1)にもとづいて蓄積を行なう。
 (4)その結果、部門IIでの蓄積率は部門 I での蓄積に規定される。

 というものである。

 これを先の表式aの想定と比べてみよう。まず気付くのは、二つの表式の想定はまったく異なることである。しかし二つの表式はそれぞれの想定にもとづくなら拡大再生産の表式として十分条件を満たしていることである。そしてわれわれが先に大谷氏が〈両部門のあいだでの転換が過不足なく進行するという想定、すなわち正常な経過の想定のもとで、与えられた前年度の商品生産物の諸要素の配置にもとづいて、再生産過程を表式として展開するためには、第 I 部門の蓄積率を先行的に決定し、それによる諸要素の配置の変更に合致するように第II部門の蓄積率を決定するほかはない〉などと主張されているのに対して、「そんなことを簡単に主張してよいのだろうか」と指摘したが、そうした大谷氏の断定が何の根拠もないことがこの二つの表式の比較検討によって容易に知ることが出来たのである。そしてさらに重要なのは、だからこそマルクスがa表式とB表式とでは考察している対象が異なることを、この二つの表式における想定の相違は示しているということである。
 マルクスがa表式で部門IIでの蓄積が既存のIIの有機的構成にもとづいて行なわれると想定したのに、部門 I での蓄積がどのような割合で行なわれるかは、部門IIでの蓄積如何によって規定されると想定したのはどうしてであろうか。これは明らかに、このa表式が大谷訳下1頁から始まっている《5) 部門IIでの蓄積》と題された枠内の考察だからに他ならない。つまりここで問題になっているのは、あくまでも《部門IIでの蓄積》だからである。だからマルクスの想定は、両部門とも蓄積率を50%にしながら、部門IIでの蓄積を優先して、部門 I での蓄積の有機的構成比はそれに従属して決まるとしているのである(もっともマルクス自身は部門 I での蓄積はただその剰余価値の半分を蓄積するという想定をしているだけで、その蓄積の具体的な割合そのものは一切問題にしていない。これはすぐあとに論じる《一つの新しい問題》の提起と関連しているためであるが、同時にここで問題になるのはあくまでも部門IIでの蓄積だとマルクスが考えていたからであろう)。つまりa表式の想定は、あくまでもそれが「5)」と番号が書かれている範囲内の考察であることを示しているのである。
 そしてそうであるなら、より重要なことにわれわれは気付かねばならない。つまりこのa表式とまったく異なる想定のもとに計算が行なわれているB表式というのは、すでに「5)」と番号が書かれている枠内(つまり「部門IIでの蓄積」)の考察ではないということでもある。なぜなら、ここではすでに部門 I での蓄積が優先するように想定が変わっているからである。だからB表式が「5)」の枠内の考察の延長であるかに主張する、大谷氏(そして伊藤武氏)らの主張が正しくないことを、むしろこれらは示しているのではないだろうか。
 そしてそうであれば、a表式とB表式とではまったく異なる問題意識にもとづいて、マルクス自身は提起していることが理解できるのである。マルクスがa表式で拡大再生産の表式として十分その条件を満たすものを提起しながら、その表式の計算そのものはほとんどしていないのは、すでに何度も強調してきたが、それは一つはあくまでも拡大再生産の概念を展開する一環であったからである。そして特にこの「5)」でマルクスが問題にしているのは、部門IIにおいて蓄積に先行する貨幣蓄蔵が如何になされるのかを明らかにすることであり、それによって拡大再生産の概念の展開を締めくくる予定だったからにほかならない。
 それに対して、B表式はまったく異なる目的にもとづいて提示されていることが分かる。つまりB表式では、すでに「部門IIでの蓄積」だけが問題になっていないことは誰が見ても分かるであろうが、ここではすでに蓄積の概念を展開することではなく、拡大再生産すなわち蓄積には如何なる法則性が内在しているのかを実際の表式を使って解明していくことが課題だからである。だからここでは部門 I での蓄積が優先される形で計算が行なわれて、しかも年次を重ねてそれが展開されたり、また拡大再生産の表式の条件(機能配置)を変化させて、それによって蓄積の条件がどのように変化するかを考察したりしているのである。このように、両者の想定の違いを考えただけでも、これらを大谷氏のように、〈第一回目の試み〉とか〈第二回目の試み〉等々として同じ表式展開(計算)の〈試み〉として捉えることは正しくないことが分かる。そして、やはり大谷訳下21頁にある区切りの横線が重要な意味を持っていることをわれわれは知ることができる。それは、われわれが考えているように、それまでの「拡大再生産の概念」の考察をひとまず終えて、今度からは「拡大再生産の諸法則」を展開するのだ、というマルクスの意志を示すものであり、そのための区切りを示す横線なのである。

 そしてこれも重要なことであるが、B表式における上記の(1)~(4)の想定は、B表式以降の異なるさまざまな機能配置にもとづく表式(大谷氏によればそれはB表式も含めて4例あることになる)においても基本的には変わらないということである(その意味では、それらは大谷氏がやっているように、同じような〈試み〉として捉えること自体は間違っていない)。そればかりか一連の表式の展開にもとづいて全体の総括を行なっているところでも、マルクスはやはり基本的には(1)~(4)の想定にもとづいて論じているのである。つまりわれわれが「拡大再生産の諸法則」としたところと、さらに「全体のまとめと残された課題」とした部分も、マルクスはこの想定のもとに論じていることが分かるのである。これが何を意味するかは自ずから明らかであろう。つまりこの(1)~(4)の想定にもとづいている部分は、全体としては同じ課題--拡大再生産の諸法則を解明しその総括的なまとめをするという課題--を対象にしているということなのである。

2009年8月 5日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その44)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているかの続きで、「その8」です。)


 さて、こうしたマルクスを軽んずる主張では、不破哲三氏の方が上を行くのである。不破氏もこの同じ問題に、大谷氏とまったく同じように、マルクスをまるで何も分かっていない“愚者”でもあるかのように取り扱っている。それも紹介して、ついでに批判しておこう。

 〈拡大再生産をめざして第一年度目から第二年目に進むためには、mの一部を蓄積しなければなりません。どれだけの蓄積をするか、マルクスは何気なく次の想定をしてしまいました。
 「さて、表式a)を立ち入って分析してみよう。 I でもIIでも剰余価値の半分は、収入として支出されないで蓄積される、すなわち追加資本の要素に転化されると想定しよう」
 これが、新たな災いのもとでした。第二年目についての計算をいくら進めても、部門 I と部門IIの関係をなりたたせる合理的な数字がでてこないのです。マルクスは、ああでもない、こうでもないと考えをめぐらせ、「しかし、待て! ここにはなにかちょっとした儲け口はないか?」とか、「突然、仮定をすり替えてはならない」とかの言葉をあちこちに書きつけますが、この行き詰まりからの出口はどうしても見つかりません。せっかく正常な軌道を見つけてそこへ乗り出したはずなのに、なぜ数式的にうまくゆかないのか、あれこれと袋小路からの出口を探す模索には、あせりの調子さえ感じるものがあります。〉
(『再生産論と恐慌』下196-198頁)

 つまり不破氏もマルクスが両部門を「何気なく」50%にしたのが「新たな災いもと」だとし、〈第二年目についての計算をいくら進めても、部門 I と部門IIの関係をなりたたせる合理的な数字がでてこないのです。マルクスは、ああでもない、こうでもないと考えをめぐらせ、「しかし、待て! ここにはなにかちょっとした儲け口はないか?」とか、「突然、仮定をすり替えてはならない」とかの言葉をあちこちに書きつけますが、この行き詰まりからの出口はどうしても見つかりません。せっかく正常な軌道を見つけてそこへ乗り出したはずなのに、なぜ数式的にうまくゆかないのか、あれこれと袋小路からの出口を探す模索には、あせりの調子さえ感じるものがあります〉などと述べている。
 しかしこれほどマルクスを愚弄するものはないであろう。マルクスが恰も表式aでこうした計算をやって何も分からずにウロウロするばかりであったかに不破氏はいうのであるが(そして大谷氏もそういう前提のもとに論じているのだが)、しかしマルクス自身は表式aについてそんな計算は一つもやっていないのである。そもそも表式aはそうした目的のために提示されているわけではないからである。
 そればかりか、不破氏や大谷氏もマルクスが想定しているとおりに計算をやってみることさえせずに、こうしたことを主張しているのである。特に大谷氏は部門 I の追加可変資本は140であるという計算までやっているのにである。もし、大谷氏がマルクスが暗に示唆しているように、部門 I の追加可変資本を140、追加不変資本を360として計算したなら、表式aが決して年次を重ねても〈部門 I と部門IIの関係がなりたたせる合理的な数字がでてこない〉などということはないことが分かったであろう。

 マルクスが表式aで想定しているのは、次のようなことである。

 (1)両部門とも蓄積率は50%である。
 (2)部門IIの蓄積はその既存の有機的構成比(4:1)にもとづいて蓄積を行なう。
 (3)それによって部門 I の蓄積の有機的構成比は規定される。

 というものである。
 この(3)の条件はもちろん、マルクス自身が明示的に論じているわけではない(これは当然である。なぜなら、マルクスにとっては、表式aは、そもそもそうした計算をするために提示したわけではないからである)。しかし、部門IIはその追加不変資本140m( I )を貨幣を投じて購入するとマルクスは想定しているが、それはマルクス自身は明示的には述べていないが、大谷氏も計算しているように、部門 I の追加可変資本は140であることを示唆しているのである。つまりこの場合、 I の蓄積の割合はIIの蓄積によって規定されているとマルクスは暗に想定していることになるのである。そしてもしこうした条件((1)~(3))のもとに表式aを計算して行けば、年次を重ねても十分それは計算可能であり、だから表式aは拡大再生産の表式の条件を“立派に”満たしていることを知るであろう。その計算の試みを私は先に連載した第8稿の段落ごとの解読で行なったので、それをそのままここに紹介しておこう。

 【さて、以下はまったくついでに論じるのだが、こうしてマルクスが本来問題にしているものを忠実に辿れば、いわゆる表式aが多くの論者(例えば不破哲三氏)が考えるようなものでは決してないことがわかるのである。それを少し論証してみよう。
 もう一度表式aを概数を省くために次のように書いて考えてみよう(もちろん言うまでもないが、概数を厭わないならマルクスの数式のままでもよいのである)。

    I ) 4000c+1000v+1000m=6000
a)                                    合計=8250
   II ) 1500c+  375v+ 375m=2250

 ここでマルクスは I 、II両部門ともその剰余価値の半分を蓄積すると仮定している。多くの論者はこうしたマルクスの仮定が間違っているのだというのである。しかし果たしてそうか。
 マルクスは両部門の蓄積率を50%とはしたが、それがどのような配分で、すなわちどのような有機的構成にもとづいて行われるかについては、第II部門についてだけ、旧来の有機的構成、すなわち4:1でなされると仮定しているだけで、第 I 部門については、まったくその蓄積分の構成については論じていない。ただ第 II 部門はその追加不変資本150m(II)を第 I 部門から現金で購入すると仮定しているだけである。これは何を意味するかは明らかである。これは部門 I の蓄積は500m( I )のうち、150mは追加可変資本に投下するということを意味するのである。とするなら、残りの350mが追加不変資本に投下されるということでしかない。つまり部門 I の蓄積の有機的構成は、マルクスは直接には何も論じていないが、しかし、第II部門に生産手段をどれだけ販売するかという形で、その追加可変資本の蓄積量を明らかにしており、その結果、部門 I の蓄積の追加不変資本と追加可変資本の割合は7:3で行われるとマルクス自身は想定していることがわかるのである(ところが不破氏も含めて多くの論者は、マルクスが一つもそのように想定もしていないのに、第 I 部門も既存の有機的構成比4:1で蓄積するのだと暗黙のうちに前提して、マルクスが一つもやってもいない計算をして、だから表式aでマルクスが両部門の蓄積率を「何気なく」50%にしたのが「新たな災いのもと」であり、「つまずき」だというのである。だからそれはマルクスがまだこの時点では、いまだ認識不足の状態であり、拡大再生産の正しい表式に到達していなかったことを示しており、マルクスが依然として「試行錯誤」の中にあることを示しているのだ、などと中傷して恥じないのである!)。
 そうすると第1年度の蓄積のために配置転換された表式は次のようになる(但し、あらかじめもう一度断っておくが、マルクス自身は表式aで拡大再生産の表式の年次展開の計算をやるつもりなどはなく、それがこの表式を提示した目的では無かったこと、課題は別にあったことはすでに何度も指摘してきたのであって、だから以後の計算はあくまでも、マルクスが表式aでは依然として試行錯誤の中にあり、混乱しているかに主張する馬鹿げた論者たち--不破氏がその典型だが--に対する反論のためにだけに論じるのだ、ということを確認しておいて欲しい)。

   I ) (4000c+350c)+(1000v+150v)+500m=6000   
                      
  II ) (1500c+ 150c)+(375v+37.5v)+ 187.5m=2250    

 だから第1年度の生産の開始は次式で行うことになる。

   I ) 4350c+1150v
                 
  II ) 1650c+ 412.5v

 今、剰余価値率を100%とすると、第1年度の末には次のようになっている。

  I ) 4350c+1150v+1150m=6650
                                      合計=9125
  II ) 1650c+ 412.5v+412.5m=2475

 ここでもやはり両部門とも蓄積率を50%とする。ただし第II部門だけ旧来の有機的構成(4:1)で蓄積を行うが、第 I 部門については、第II部門の蓄積に合う形で蓄積するという仮定しか存在しない。すると第2年度の蓄積のための配置転換は次のようになる。

  I ) (4350c+410c)+(1150v+165v)+575m=6650
               
  II )(1650c+165c)+(412.5v+41.25v)+206.25m=2475

 そして第2年度の末には次のようになる。

  I ) 4761c+1315v+1315m=7390
                                      合計=10112.5
  II ) 1815c+453.75v+453.75m=2722.5
    
 以下、計算は不要であろう。つまりマルクスの仮定--(1)蓄積率は両部門50%、(2)第II部門の蓄積は旧来の有機的構成(4:1)で行う、(3)それにもとづいて第 I 部門の蓄積の構成比が決まってくるという仮定--にもとづけば、決して表式aが不破哲三氏などが言うような未完成なものではないことがわかるであろう。不破氏はこうしたマルクス自身が仮定していることさえも正確に読み取る努力を怠り、表式aでもマルクスは第 I 部門の蓄積を既存の有機的構成比の4:1で行うと仮定していると勝手に独断して、しかもマルクス自身は何一つやってもいない計算をやっているかに論じ立て、「第二年目についての計算をいくら進めても、部門 I と部門IIとの関係をなりたたせる合理的な数字が出てこないのです。マルクスはああでもない、こうでもないと考えをめぐらせ、……なぜ数式的にうまくゆかないのか、あれこれと袋小路からの出口を探すマルクスの模索には、あせりの調子さえ感じさせるものがあります」(前掲書198頁)などと見てきたようなウソを並べているのである。しかし、上記の計算結果を見ても、マルクス自身が想定している条件をもとに計算しさえすれば、表式aが決して、「数式的にうまくゆかない」といったものではないことが分かるであろう。これを見れば、不破氏もそうだが、大谷氏も、如何に自分自身のマルクスを理解する努力の無さを棚に上げて、マルクスを貶めているかが分かるであろう。】

 だから大谷氏も不破氏も、マルクス自身が想定しているものを正確に読み取ることもせずに、だからマルクスがやってもしないことをやったかに主張して、だからマルクスの認識は不十分だったなどというのである。これがマルクスに対する冒涜でなくて何であろうか!

 (以下、この項目は次回に続きます。)

2009年8月 4日 (火)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その43)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 

 (以下は、項目●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているかの続きで、「その7」です。)

 ところが大谷氏はさらに次のように述べている。

 〈この想定のもとでは、追加労働者は、今年に資本家が追加労働者に支払った賃金で、翌年、今年の労働の結果である商品生産物の一部を買い戻す。だから、第 I 部門が追加生産手段と追加労働力とによって、今年、現実の蓄積を開始したにもかかわらず、追加労働者は、賃金の支払いが行なわれた今年は、その賃金で、前年度の労働によって生産された第II部門の商品生産物は買わないのである。だからこそ、第II部門から第 I 部門に、追加生産手段の購買で支払われた140の貨幣は、第 I 部門で追加労働力の購買で追加労働者に賃金として支払われたとしても、今年度中は、追加労働者はこの貨幣で第II部門から消費手段を買わないのであり、したがってこの貨幣が第II部門に還流してくることはないのである。他方で、その結果、前年度の労働によって生産された第II部門の商品生産物のうち、剰余価値を表わす一部分が実現できないまま、第II部門の手に残らざるをえない。〉(下176頁)

 つまりこういうことでマルクスが「一つの新しい問題」として論じている事態が説明できると大谷氏は言いたいのであろうが、しかし、何ともおかしな話ではないか。大谷氏はマルクスが実際に論じているものを正確に読んでいない。大谷氏は〈だからこそ、第II部門から第 I 部門に、追加生産手段の購買で支払われた140の貨幣は、第 I 部門で追加労働力の購買で追加労働者に賃金として支払われたとしても〉などと述べているが、マルクス自身は何度もいうが、部門 I で蓄積にまわされる500mについて、その一部140mが追加可変資本として追加労働者に支払われるなどということは何も述べていないのである(それは暗に前提されているというなら、そうかもしれないが)。マルクスが実際にやっていることは、ただ140m( I )をIIの追加不変資本として販売すると述べているだけである。だからIIはその140m( I )を購入するために貨幣を支出しなければならないと想定しているだけなのである。
 確かに大谷氏のいうような想定ならば、〈追加労働者はこの貨幣で第II部門から消費手段を買わないのであり、したがってこの貨幣が第II部門に還流してくることはない〉と言える。しかしそれではお聞きするが、それなら I の追加労働者は一体、今年の一年間は何を食べて働くのであろうか。 I の追加労働者は生活手段を手に入れるのは来年と想定されているのだから、今年は何も生活手段を入手できないことになる。彼らは今年はカスミでも食べて一年間を働くとでもいうのであろうか。こんなおかしな想定をして何の矛盾も不合理も感じないというのが何とも奇妙である。ましてや、そうした想定をマルクス自身がやっているというに至っては何をかいわんやである。大谷氏が先に引用された単純再生産の場合のマルクスの想定でも(先に紹介した現行版の第10節からの引用文を参照)、その内容を詳しく検討したように、大谷氏の主張されるような奇妙な想定をマルクスがやっているわけでは決していない。大谷氏は先の引用文を正しく理解されていないのではないかといわざるをえない。

 さらに大谷氏が次のように述べているのは、以前にも指摘したが、マルクスの敍述上の工夫を真に受けたものである。

 〈マルクスはこの問題に答えようとして、第II部門のなかのどこかになにか貨幣源泉がないか、あちこち探し回ったのち、この一回目の試みを中断した。〉(下176頁)

 これではマルクス自身が、まるで〈第II部門のなかのどこかになにか貨幣源泉がないか、あちこち探し回った〉かに大谷氏は解釈しているのであるが、これはあまりにも無理解に過ぎないだろうか。こうしたアチコチを探し回る一連の敍述はマルクスが意図的に行なっているものであることは、誰が読んでも分かりそうなものである。《だが、待て! ここには何か儲け口はないものか?》(草稿60頁、大谷訳下15頁)といったわざとおどけた言い方をマルクスがわざわざやっているのも、それを知らしめるためなのである。こうした敍述上の工夫は、『資本論』のアチコチで見られるものである。われわれはその少し前に5のa)の冒頭部分で論じている《cIIについての第一の困難》についても、マルクスは《困難を回避する》方策として商品在庫を想定して、しかしそうした方策は不可であることを論証するという回りくどい敍述をしていることを見た。あるいはまた現行版の「第17章 剰余価値の流通」でも《剰余価値を貨幣化する貨幣はどこからくるのか?》(現行版403頁)という問題を提起し、《もっともらしい逃げ口上》(同405頁)をあれこれと上げて、その不可を論証しているが、こうした敍述と、今回問題になっているb)と項目が打たれた部分におけるマルクスの敍述は極めて類似しているのである。だからこうしたマルクスの一連の敍述は、部門IIで貨幣源泉として考えられうるものをすべて考え出して、しかしそれらはすべて不可であることを論証することによって、そうした貨幣源泉を見い出すことの困難といったものが単に外観上のものにすぎないことを明らかにし、そしてその上で、ではどのようにして部門IIにおいて蓄積のための貨幣蓄蔵がなされるのかを明らかにするための、いわばその導入部分であり、そのための敍述上の工夫なのである。しかしその結論は、実はマルクスは書かずにその導入部分の敍述の途中で打ち切ってしまっているために、多くの人たちを惑わす結果になっているのである。しかしマルクスは、ちゃんとその結論を、草稿の一番最後で--エンゲルスが「補遺」としたところで--補足的に論じているのではあるが。

 さらに大谷氏が次のように述べていることはまったく“噴飯もの”である。

 〈念のために言えば、表式aを利用して分析するときに、マルクスは、これ以後の展開とは違う、もう一つの独自の想定をしていた。それは、両部門の蓄積率をそれぞれ独立に50%として表式を展開しようとしたことである。こののちの考察のなかでマルクスがはっきりと確認するように、両部門のあいだでの転換が過不足なく進行するという想定、すなわち正常な経過の想定のもとで、与えられた前年度の商品生産物の諸要素の配置にもとづいて、再生産過程を表式として展開するためには、第 I 部門の蓄積率を先行的に決定し、それによる諸要素の配置の変更に合致するように第II部門の蓄積率を決定するほかはない。さきに見た、第 I 部門が蓄積を行なうために可能的貨幣資本を形成することによる第II部門での過剰生産というのも、単純再生産の状態から第 I 部門がプラスの蓄積率を取るときには、両部門のあいだでの転換が過不足なく進行するためには、第II部門ではマイナスの蓄積率、つまり生産規模の縮小が必至となるということだったのである。この最初の表式展開のさいには、マルクスはこの事実にまだ気づいていなかったので、両部門の蓄積率を任意に50%としたのであった。〉(31頁下段~32頁上段)

 大谷氏は表式aでマルクスが両部門の蓄積率を50%にしたのは、〈マルクスはこの事実にまだ気づいていなかった〉から、すなわちマルクスの認識が不十分であったからだという。何と“傲慢な”言いぐさであろうか。大谷氏にもう少し謙虚な気持ちがあれば、マルクスがそんな簡単なことが分からないということはありえないと思い、自身のそうした軽はずみな判断をまず疑ったことであろう。こうした捉え方はあまりにもマルクスを軽んじるものではないだろうか。それはただ大谷氏がマルクスの草稿を正確に読み、忠実に辿っていないから、そうした誤った結論になっただけなのだから。
 大谷氏は〈こののちの考察のなかでマルクスがはっきりと確認するように〉などと述べているが、すでに何度も述べているが、表式aが何のために提示されているのか皆目分かっていないからこうしたことを言うことになっているのである。表式aが〈のちの考察〉とは、つまりB表式以降のものとは違って、拡大再生産の概念を明らかにする一環として提示されていること、だからまだマルクスの課題はさらにこのa表式を使って、拡大再生産の概念を展開し尽くすことなのである。マルクスが蓄積率を50%にしたのは、決して何か認識不足とかにもとづくものではない。大谷氏は〈両部門のあいだでの転換が過不足なく進行するという想定、すなわち正常な経過の想定のもとで、与えられた前年度の商品生産物の諸要素の配置にもとづいて、再生産過程を表式として展開するためには、第 I 部門の蓄積率を先行的に決定し、それによる諸要素の配置の変更に合致するように第II部門の蓄積率を決定するほかはない〉などと主張されているが、そんなことを簡単に主張してよいのだろうか。そうした大谷氏の主張が何の根拠もないことをわれわれはすぐに見るであろう。

 (以下、この項目は次回に続きます。)

2009年8月 3日 (月)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その42)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているかの続きで、「その6」です。)


 先の引用文でマルクスが述べていることを詳細に検討してみよう。
 マルクスが想定しているのは、いうまでもなく、社会的総資本の流通を商品資本の循環として考察する場合である。だから再生産表式に表されているW’から考察が開始されるわけである。そしてW’の生産過程は、表式として提示されている時点(つまり今年度なら今年度の流通過程に登場している商品資本)から考えるなら過ぎ去ったものだと述べている。そして《だから,この生産過程先行するまたはそれと並んで進む(並行する)流通過程,潜勢的な可変資本から現実の可変資本への転換,すなわち労働力の売買はなおさらのことである》と書いている。この部分をどう理解するかが重要である。これはどういうことかというと、資本の回転は年一回転である。だからまず《だから,この生産過程先行すると書かれている《流通過程》というのは、前年度の期の初めに行なわれた流通過程を意味し、それは前年度の不変資本の補填を意味している。そして次に続けて書かれているもの、すなわち《またはそれ(生産過程--引用者)と並んで進む(並行する)流通過程,潜勢的な可変資本から現実の可変資本への転換,すなわち労働力の売買はなおさらのことである》というのは、いうまでもなく、前年度一年間のあいだ、継続して行なわれた可変資本の補填を意味するわけである。つまり可変資本の補填(潜勢的可変貨幣資本を現実の労働力に転換する過程)は年間を通じて生産過程と並行して行なわれたとマルクスはここでは考えているわけである。だからこれは引用文を見る限りでははっきりとは書かれてはいないが、労賃も週給なら週単位でその週末に支払われ、労働者はそれで消費手段(前々年度の生産物)を年間を通じて購入したと考えられているわけである。そして彼らはその一年間、《自分の労働力を売ってしまっただけではなく、剰余価値などのほかに自分の労働力の価格の等価を商品で供給してしまった》わけである。その商品を資本家たちは今年度の初めの流通過程に商品資本W’として押し出しているわけである。ただ今年度のW’を考察する時点を考えると、それらはすべて過ぎ去ったものであり、だから労働者は前年末に前年の最後の一週間分の週給を受けて市場に現われている(彼はこの一週間分の給与で、今年度の最初の一週間を働くわけだ)。また当面の流通過程はW’-G’(商品資本の貨幣資本への転化)であるのだから、ここには労働市場はなく、労働者はただ購買者として現われているわけである。マルクスが言っているのは、このことである。

 ところが大谷氏は続けて次のように述べている。

 〈単純再生産の場合には、この想定のもとで年々の再生産が繰り返されるとしても、なんの「問題」も「困難」も生じることはない。だからマルクスはそこでは、この想定そのものについてそれ以上立ち入って論じることをしていなかった。
 しかし、この想定が、拡大再生産のさいの資本家による追加労働力の購買と追加労働者によるその対価としての賃金による商品(消費手段)の購買とに適用されるならば、独自の「新しい問題」が生じることになる。〉
(下175-6頁)

 つまり〈労働者は前年の労働力の販売によって得た労賃で、今年、労働者の前年の労働によって生産された生産物の一部を買い戻す〉という想定がである。しかしこれは当たり前ではないだろうか。追加労働者は、今年度に始めて雇用されるから「追加」労働者なのである。とするなら、彼らが前年度に何も生産していないことは前提されている。前年度に何も生産していない追加労働者が〈前年の労働によって生産された生産物の一部を買い戻す〉ことが出来ないことは当然ではないだろうか。追加労働者は前年度の剰余価値の一部によって追加的に雇用されるから、「追加」労働者なのである。それがそもそも追加可変資本の内実ではないか。蓄積というのは、剰余価値の一部を実現した貨幣を消費にではなく、再び生産資本(追加生産手段と追加労働力)に転化するからこそ蓄積なのである。剰余価値の一部を追加労働力に転化するということは、追加労働者は前年度に生産された剰余労働の生産物、すなわち追加的生活手段によって雇用されるということを意味するのである。だから彼らは、前年度には何も生産していないのは当然ではないか。彼らは前年度に雇用された労働者の剰余労働の生産物を今年度に消費して働くのである。
 もちろん、ここにも追加労働者に支払われる貨幣(労賃)は、誰が最初に流通に投じるのかという問題があることは確かである。先の引用文でマルクスが考察しているのは、単純再生産の表式における二つの部門の補填関係のうち、1000v( I )と1000c(II)との補填関係である。だからそれに引きつけて考察してみるなら、剰余価値の半分が蓄積されるとするなら、蓄積に回される500m( I )のうち追加可変資本として予定されている100m( I )が如何に貨幣化され、それが追加労働者に労賃として支払われるかという問題である。この100m( I )はIIにおける蓄積のための追加不変資本として販売される(だからこの追加貨幣を最初に流通に投じるのは部門IIの資本家である)。これは期の最初に行なわれたとするなら、部門 I の資本家はその売り上げの一部を、最初の一週間の労働に対して、期の週末に追加労働者に支払うことになるであろう。彼は100m( I )の売り上げ金100を一年間を通じて追加労働者に週末ごとに支払っていくわけである。そして追加労働者に100m(II)の生活手段を販売する資本家IIは、それによって彼が最初に投じた追加貨幣100を一年間を通じて回収することになる。労賃後払いの場合には、追加労働者は雇用された最初の一週間分の生活費を自分で負担しなければならないことになる。これは追加労働者に限らず、資本家が最初に事業を開始する場合には、もし同じ後払いの条件を前提するなら、同じことが言えるのであり、これは単純再生産の場合でも同じであろう。だから同じような〈この想定が、拡大再生産のさいの資本家による追加労働力の購買と追加労働者によるその対価としての賃金による商品(消費手段)の購買とに適用されるならば、独自の「新しい問題」が生じることになる〉というようなことは何もないのである。

 そこに大谷氏が〈独自の「新しい問題」が生じる〉かに思えたのは、大谷氏が先に引用した単純再生産の場合にマルクスが想定しているケースというものを正しく読み取っていないからに他ならない。単純再生産の場合の先の引用文(現行版の第10節からとってきたもの)を正しく理解しているなら、拡大再生産の場合と想定において何の問題も齟齬も生じないことが分かったであろう。恐らく大谷氏は先の引用文でマルクスが一年間、労賃を週給で生産過程と並行して支払っていくということを十分読み取れなかったのではないかと思う。だから一年分の労賃をその一年の最後に資本家は労働者に支払うとマルクスは想定していると考えたのであろう。つまり労賃後払いを一年の労働全体に適用して、労働者は一年間の労働のあとに年末にその一年分の労賃を受け取るとマルクスは想定していると考えたのではないかと思う。だからそれを拡大再生産に適用すると追加労働者は最初の一年間は労賃を受け取らないので、資本家IIから彼らの剰余生産物(消費手段)を購入しないことになり、資本家IIは140m(II)を販売できないというマルクスが指摘している「一つの新しい問題」が生じると考えたのであろう。しかしこれは大谷氏の先の引用文の読み間違いである。

 そもそも、拡大再生産では単純再生産とは想定は違っているのかというとそうではないのである。大谷氏らはそのように主張されるのではあるが。なぜなら、追加労働者は単純再生産で想定されているように自分自身の前年度の生産物を今年度に支払われた賃金で買い戻すということはありえないが(もっとも単純再生産でもこうしたことが直接言えるのは部門IIのほんの一部の労働者に対してだけであって、部門 I の労働者はもちろん、部門IIの労働者についても直接的にはそうしたことは言えないのであるが)、しかし彼らが今年度に支払われた賃金で前年度の生産物を購入するという想定は同じだからである。ただ拡大再生産の場合は、追加労働者が購入する前年度の生産物は、前年度に雇用された労働者の剰余労働の産物だという点が違うだけである(単純再生産の場合は、今年度の労働者が消費するのは、前年度の生産物のうちの可変資本部分か、可変資本を補填する生産物である)。今年度に消費する生産物が前年度の生産物であるという点では、単純再生産でも拡大再生産でもまったく同じ想定に立っているのである。

  (以下、この項目は次回に続きます。)

2009年8月 2日 (日)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その41)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているかの続きで、「その5」です。)


 さて、このように大谷氏はマルクスが「一つの新しい問題」として提起している問題を理解する直前まで行きながら、そこから逸れてしまい、では、それに代わってどういう解釈を示しているのかというのが、次の課題である。それは前畑憲子氏の問題提起を受け入れたもののようなのであるが、しかしそれはただ混乱としか言いようがないものなのである。今度はそれを検討していくことにしよう。まず大谷氏は次のように説明を始めている。

 〈じつは、ここでの問題が「新しい問題」であるのは、第 I 部門がすでに現実的蓄積を開始しているなかで生じた問題だからである。すなわち、第 I 部門が、剰余価値500を追加資本として現実的蓄積に前貸するという前提のもとで生じている問題なのである。第 I 部門は500mのうちの一部(360m)を I mcすなわち追加不変資本として生産資本に転化している。そして、この追加不変資本と追加労働力とからなる追加生産資本によって、現実に生産過程を拡大する。マルクスは、そのさいにこの問題が生じることを見いだして、「新しい問題」と呼んだのである。〉(下174-5頁)

 実はここでも大谷氏はマルクスの敍述に忠実ではなく、勝手な類推を挿入しているのである。大谷氏は部門 I が剰余価値500を追加資本として蓄積することを前提しているという。それはまあそのとおりである。しかしそれをさらに説明して、〈第 I 部門は500mのうちの一部(360m)を I mcすなわち追加不変資本として生産資本に転化している〉などと説明している。しかし一体、マルクスはどこでそんなことを述べているのであろうか。マルクス自身は蓄積する500mがどういう割合で蓄積されるかについてはまったく何も論じていないからである。恐らく大谷氏は部門IIが140を追加不変資本として蓄積するとマルクスは想定しているから、それに対応して、部門 I では追加可変資本として140が蓄積されるのだから、500-140=360が追加不変資本として蓄積されると計算したのであろう。しかしマルクス自身はこんな計算はまったくやっていないのである。マルクスはあくまでも部門 I では500mをすべて追加資本として蓄積に回すと前提しているだけである。なぜ、マルクスは500mの内容を問わないのか、それは次に提起する「一つの新しい問題」に関連しているからである。だからマルクスは敢えてそれを具体的には何も論じていないのである。しかしそうしたマルクスの意図を、ここで詳論すると余りにも問題がそれてしまう。だからその点については、私のこのブログで連載した第8稿の段落ごとの解読を参照して頂きたい(「その33」~「その40」を参照)。

 ここから以下の大谷氏の論述はマルクスの草稿から大きく離れて、マルクスが何を論じているのかを草稿そのものにもとづいて、それを忠実に辿る代わりに、まったく勝手な類推をやるだけのものになっている。だからここからは逐条的にマルクスの草稿との異同を指摘するような批判をするわけにはいかない。ここからは大谷氏の主張していることは、そもそも本当に内容的に検討に値するものであるかという形で、れわれわれは問題にしていかなければならない。

 まず大谷氏は〈じつは、この一回目の試みでマルクスは、追加可変資本による追加労働力の購買について、労働者が今年度に支払われる賃金で買うのは第II部門の来年度の商品生産物だ、とする想定を置いていたのである。この想定は、ここで突然に現われたものではなくて、じつは、すでに先行する単純再生産の分析のなかに登場していた想定であって、それがここで追加労働力に適用されたのであった。彼は、単純再生産のところで次のように書いた〉(下175頁)と述べて、第8稿の単純再生産の部分から取ってきた、次のような一文を引用している(この一文は、現行版では第10節のs.443にあるが,草稿ではこの第10節は単純再生産の部分の一番最後に位置しているのを、エンゲルスがここに持ってきて「第10節」にしたのである)。

 《年々の再生産のさまざまの要素の転換を研究しなければならないのであれば、過ぎ去った年間労働、終わっているこの年の労働の結果を研究しなければならない。この年間生産物という結果をもたらした生産過程は、われわれの背後にある(過ぎ去っており、それの生産物になってしまっている)。だから、この生産過程に先行する、またはそれと並んで進む(並行する)流通過程、潜勢的な可変資本から現実の可変資本への転換、すなわち労働力の売買はなおさらのことである。労働市場は当面の商品市場の一部分をなしていない。労働者はここではすでに、自分の労働力を売ってしまっただけではなく、剰余価値などのほかに自分の労働力の価格の等価を商品で供給してしまった。他方、彼は自分の労賃をポケットにもっており、転換が行なわれるあいだは、ただ商品(消費手段)の買い手として現われるだけである。》(S. 787.16-29.下線はマルクスの強調箇所、大谷氏の引用では傍点になっている)(下175頁)

 そして大谷氏はこの引用文について次のような解説を行なっている。

 〈すなわち、マルクスは、年間生産物のさまざまの要素の転換のさいには、労働者は、前年の流通過程での労働力の販売によって得た「自分の労賃をポケットにもっており、転換が行なわれるあいだは、ただ商品(消費手段)の買い手として現われるだけ」だ、と言う。ここでは、労働者は前年の労働力の販売によって得た労賃で、今年、労働者の前年の労働によって生産された生産物の一部を買い戻す、と想定されているである。
 単純再生産の場合には、この想定のもとで年々の再生産が繰り返されるとしても、なんの「問題」も「困難」も生じることはない。だからマルクスはそこでは、この想定そのものについてそれ以上立ち入って論じることをしていなかった。
 しかし、この想定が、拡大再生産のさいの資本家による追加労働力の購買と追加労働者によるその対価としての賃金による商品(消費手段)の購買とに適用されるならば、独自の「新しい問題」が生じることになる。〉
(下175-6頁)

 しかしこうした一連の説明を読んだだけでも、大谷氏の混乱は明瞭である。なぜなら、大谷氏は最初の問題の説明のときには〈じつは、この一回目の試みでマルクスは、追加可変資本による追加労働力の購買について、労働者が今年度に支払われる賃金で買うのは第II部門の来年度の商品生産物だ、とする想定を置いていた〉としているが、マルクスの引用文のあとの説明では〈ここでは、労働者は前年の労働力の販売によって得た労賃で、今年、労働者の前年の労働によって生産された生産物の一部を買い戻す、と想定されているである〉と説明しているからである。つまり最初の説明では労働者が購入するのは〈来年度の商品生産物だ〉といい、あとの方では〈前年の労働によって生産された生産物〉だと述べている。これではまったくチグハグではないだろうか(もっとも、この部分については、大谷氏を擁護される方から、最初に大谷氏が〈来年度の商品生産物だ〉と述べているのは、“来年度に生産される商品”ということではなく、“今年度に生産されて来年度に流通に入る商品”という意味で述べているのであり、だから二つの説明には矛盾はないとのことである)。

 それに大谷氏は〈じつは、この一回目の試みでマルクスは、追加可変資本による追加労働力の購買について、労働者が今年度に支払われる賃金で買うのは第II部門の来年度の商品生産物だ、とする想定を置いていたのである〉などと述べているが、一体、それはマルクスのどういう文章にもとづいて、そう主張されているのであろうか。そもそも〈今年度に支払われた賃金で買うのは……来年度の商品生産物だ〉などという想定は可能なのであろうか(例えここでいう〈来年度の商品生産〉“今年度に生産されて来年度に流通に入る商品”と理解してもである)。とするなら、今年度の労働者はどうして生活するのであろうか。来年度の商品生産物(あるいは来年度に流通に入る商品)は今年はまだ存在しないのだから、今年度の労働者は支払われた賃金で生活することも不可能になってしまう。こんなわけの分からない想定をマルクスがやっていると大谷氏は言われるのである。そうした想定をマルクスは単純再生産でもやっていたとして上げている例(先の引用文)は、果たしてそうしたものなのであろうか。われわれはそれをキッチリ検討しておくことにしよう。

 (以下、この項目は次回に続きます。)

2009年8月 1日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その40)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているかの続きで、「その4」です。)


 大谷氏は、マルクスが古典派経済学の貨幣ベール観にたっている限りは問題にもならない問題を「一つの新しい問題」として取り上げようとしているのだ、ということを理解することが出来ているのに、残念ながらその正しい理解から逸れてしまっているのである。実は、マルクスは以前にも同じようなことを主張していたのである。それは次のような一文である。

 《ついでに,ここでふたたび,次のことを述べておこう。以前(単純再生産の考察《のところで》)と同様に,ここでふたたびわれわれは次のことを見いだす。年間生産物のさまざまな構成部分の転換,すなわちそれらの流通{これは同時に,資本の構成部分の回復--単純な規模でのまたは拡大された規模での,資本の再生産,しかもさまざまな規定性における資本不変資本可変資本固定資本流動資本貨幣資本商品資本の再生産--でなければならない}は,われわれが I )〔単純再生産〕のところで,たとえば固定資本の再生産のところで見たのとまったく同様に,けっして,あとから行なわれる販売によって補われる単なる商品購買,またはあとから行なわれる購買によって補われる販売を前提していない。したがって,経済学,ことに重農学派やA.スミス以来の自由貿易学派が前提しているような,実際にはただ商品対商品の転換が行なわれるだけだということを前提してはいないのである。たとえば,単純再生産のところで見たように,たとえば不変資本IIc固定成分の《周期的》更新{--(その総資本《価値》は(v+m)( I )《の諸要素》に転換される),それは,固定資本の最初の出現〔と更新〕との中間期間には,つまりその機能期間の全体にわたって,《まだ》更新されないで以前の形態のままで働き続けるが,他方ではそれの価値がだんだん貨幣として沈澱していく--}は,cIIのうち貨幣形態から現物形態に再転化する《固定》部分の単なる購買を前提するが,この購買にはm( I )の単なる販売が対応する。他方ではそれは,cIIの単なる販売,すなわちcIIのうち貨幣として沈澱する固定価値部分の販売を前提するが,この販売にはm( I )の単なる購買が対応する。この場合に転換が正常に行なわれるためには,単なる購買(cIIの側からの)が価値の大ぎさから見て単なる販売(cIIの側からの)に等しいということ,また同様に,m( I )からcIIのa)への単なる販売がcIIのb)からのm( I )の単なる購買に等しいということが前提される。同様にここでは,m( I )のうちの貨幣蓄蔵部分であるA,A’の単なる購買が,m I のうちの,蓄蔵貨幣を追加生産資本の諸要素に転化させる部分であるB,B',等々と均衡を保っている,ということが前提される。》(草稿51頁、大谷訳上46-47頁)

 ここでマルクスが《したがって,経済学,ことに重農学派やA.スミス以来の自由貿易学派が前提しているような,実際にはただ商品対商品の転換が行なわれるだけだということを前提してはいないのである》と述べていることは、先に《われわれはここで一つの新しい問題にぶつかるのであるが、ある種類の諸商品が他の種類の諸商品と交換されるのが常だ、同じように、商品と貨幣とが交換され、その貨幣がまた別の種類の商品と交換されるのが常だ、という日常的な理解にとっては、このような問題があるということだけでも奇妙だと思われるにちがいない》と述べていることとまったく同じことを言っていることはお分かりであろう。すなわち〈貨幣をもっぱら流通手段とみなす、古典派経済学以来の貨幣ベール観〉を批判してマルクスはこのように述べているのである。とするなら、それにマルクスは何を対置しているのかといえば、まさに単なる販売》による貨幣蓄蔵であり、単なる購買による《蓄蔵貨幣を追加生産資本の諸要素に転化させる》こととの対応関係なのである。

 大谷氏は〈これまですでにマルクスは、……直前の拡大再生産の分析の3で、蓄積ファンドの形成および解消から必至となる一方的販売および一方的購買を見ていたのだから、ここでの問題は、単なる、一方的販売による貨幣蓄積と一方的購買による現実的蓄積との量的不一致という問題でないことは明らかである〉(下174頁)と述べている。確かに〈量的不一致〉そのものが問題になっているわけではない。しかしやはりここでも蓄積のための貨幣蓄蔵が問題になっているのである(ところで大谷氏は、ここでは「貨幣蓄積などと述べているが、マルクス自身は第8稿では、貨幣が蓄蔵されている段階では、それはまだ「蓄積」ではないという解釈から、だから「貨幣蓄積という文言は出来るだけ避けているように思える)。確かにその問題は、すでに部門 I のケースとして論じられた。しかし今回は部門IIでのそれが問題になっているのである(だからこそマルクスは《貨幣源泉が部門IIのどこで湧き出るのか》という《外観上の困難》を新たに提起し、その解決策をアレコレと探し出して提示しながら、なおかつその不可を論証することによって、最終的にその《詳しい解決》を示そうとしているのである)。しかも今回の部門IIでの貨幣蓄蔵は、部門 I でのそれがそうであったように、単に資本家同士の直接的な取り引きにおいて如何にそれが形成されるかを考えればよいという問題ではなく、資本家同士の取り引きに労働者がそのあいだに介在してくるのであり、それがすなわち「一つの新しい問題」でもあるとマルクスは考えているのである。だからマルクスはその解決策の一つとして例えば資本家が労働者に労賃を労働力の価値どおりに支払いながら、あとからその一部を詐取するというような方法などをアレコレ検討したりしているのである(ただ一言つけ加えれば、マルクスがこの部分で試みた、「一つの新しい問題」「外観上の困難」として提起し、その解決策をアレコレ提示して、その不可を論証するというやり方は必ずしもうまく出来ておらず、成功しているとは言い難い点があるということである。あるいはそうした思いが、マルクス自身にもあったが故に、その敍述を最後までやらずに途中で打ち切ってしまった理由の一つなのかも知れない。そしてそれが為に肝心の蓄積のための貨幣蓄蔵が部門IIで如何になされるのかという問題を論じずに終わってしまい、だからそれをエンゲルスが「補遺」としている草稿の一番最後で、再び今度は結論的に述べるという変則的な展開になってしまった理由と考えることができるのである)。

 さらに大谷氏が考えられる問題として提起しているのは、次のような問題である。

 〈またこれは、すでに4のなかで論じられた、第 I 部門が一方的販売によって手にした貨幣を流通から引き上げることによって、第II部門の商品を売れなくする、という困難でもない。そこでは、第 I 部門はまだ現実的蓄積を行なっておらず、第II部門からの貨幣を可能的貨幣資本として貨幣沈澱させる、ということの結果として第II部門で起こる「困難」が問題であった。こうした「困難」は、再生産過程の進行のなかでなんらかの仕方で解消されていくほかはないし、実際に、第II部門の縮小などによって解消されていくのである。〉(下174頁)

 これも大谷氏が4のなかでマルクスがどうしてこうした「困難」を指摘しているのかについてまったく理解されていないことを暴露している。大谷氏は〈こうした「困難」は、再生産過程の進行のなかでなんらかの仕方で解消されていくほかはないし、実際に、第II部門の縮小などによって解消されていくのである〉などと述べているが、マルクスが「困難」が如何に「解消」されるかといったことを何一つ問題にもしていないことについて、何の反省もないのである。しかしこの4でマルクスが何を問題にしているのかについては、すでにかなり詳しく検討したので、ここではこれ以上の詮索はやめておくことにする。

  (以下、この項目は次回に続きます。)

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