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2009年7月

2009年7月31日 (金)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その39)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているかの続きで、「その3」です。)

 ところで大谷氏はマルクスが項目「b」で提起している問題に移る前に、次のように書いている。

 〈そのうえでマルクスは、両部門とも剰余価値の半分を蓄積するものとし、両部門間の転換のうち、 I (1000v + 500m) とII1500cとの転換と、第 I 部門内部での I 4000cの転換とを、研究済みとして度外視し、残る、 I 500mとII(376v + 376m) のそれぞれの内部での、また両者の間での、蓄積のために必要な転換を研究する。その結果、彼は、第II部門は第 I 部門の剰余生産物から、蓄積のための追加不変資本として140の生産手段を買うが、第 I 部門が、受け取った貨幣を蓄積を準備する可能的貨幣資本として流通から引き上げるので、第II部門はその剰余生産物のうちの140を貨幣化することができない、という事態を見いだす。そこで、彼は言う。〉(下174頁)

 これはマルクスが項目bにうつる直前のパラグラフの説明として大谷氏が行なっているつもりなのであろう(というのは、それに続く引用文--それはすぐに紹介する--はbと項目が打たれたパラグラフの冒頭から引用されているからである)。しかしその内容は決してbの直前のパラグラフの内容とは合致していない。そこには大谷氏の勝手な解釈によるものが混入されている。マルクスが実際に書いているパラグラフは次のようなものである(しかしマルクスが計算間違いをしている数値はそのままにしてある)。

 《したがって,ここで研究しなければならないものとして残っているのは,500m( I )と376v+376m(II)とであって,《それらが》一方では両方のそれぞれの側での内部関係に関わるかぎりで,他方では両方の側のあいだでの運動に関わるかぎりで,研究する必要があるのである。IIでも同じく剰余価値の半分が蓄積されることが前提されているのだから,ここでは188が資本に転化することになり,そのうちの1/4(1)の47が可変資本で,これを概数計算のために48とすれば,不変資本に転化されるべき188-48=140が残る。》(大谷訳下12頁)

 このようにマルクス自身は、IIでの蓄積額が188であり、そのうち可変資本に48、不変資本に140が転化されると述べているだけである。だから大谷氏が〈その結果、彼は、第II部門は第 I 部門の剰余生産物から、蓄積のための追加不変資本として140の生産手段を買うが、第 I 部門が、受け取った貨幣を蓄積を準備する可能的貨幣資本として流通から引き上げるので、第II部門はその剰余生産物のうちの140を貨幣化することができない、という事態を見いだす〉などと述べているのは、ただ大谷氏が後のマルクスの敍述をもとに勝手に自身の憶測を並べているだけなのなのである。というのは後のマルクスの敍述を見ても、ここで大谷氏が言っているような〈第 I 部門が、受け取った貨幣を蓄積を準備する可能的貨幣資本として流通から引き上げる〉というようなことはマルクス自身は一言も述べていないからである。マルクスが言っているのは、ただ部門 I は500mをすべて蓄積に回すということだけである。その蓄積に回す500mの具体的な内容についてはまったく不問にしているのである。ここにはマルクスの敍述上の工夫があると思われるので、その点は厳密に読む必要があるのである。

 さて、大谷氏は上記の一文に続けて、項目bの冒頭の一文を引用している。われわれもそれを重引しておこう。

 《われわれはここで一つの新しい問題にぶつかるのであるが、ある種類の諸商品が他の種類の諸商品と交換されるのが常だ、同じように、商品と貨幣とが交換され、その貨幣がまた別の種類の商品と交換されるのが常だ、という日常的な理解(3)にとっては、このような問題があるということだけでも奇妙だと思われるにちがいない》(S. 807.35–38)(下174頁)。

 そしてこの引用文のなかにある一文に注(3)をつけて、次のようにそれを説明している。

 〈(3)この、「ある種類の諸商品が他の種類の諸商品と交換されるのが常だ、同じように、商品と貨幣とが交換され、その貨幣がまた別の種類の商品と交換されるのが常だ、という日常的な理解」とは、貨幣をもっぱら流通手段とみなす、古典派経済学以来の貨幣ベール観にほかならない。〉(下190頁)

 これはこの限りではまったく正しいように思える。しかし大谷氏はなぜマルクスはここでそのことを指摘しているのかについて、その意味を理解されているとは言い難いのである。なぜなら、この引用文に続けて、大谷氏は次のように書いているからである。

 〈この問題は、なぜ、「新しい問題」なのであろうか? まず、これまですでにマルクスは、単純再生産の分析で、固定資本の償却および更新から必至となる一方的販売および一方的購買を見ただけではなく、直前の拡大再生産の分析の3で、蓄積ファンドの形成および解消から必至となる一方的販売および一方的購買を見ていたのだから、ここでの問題は、単なる、一方的販売による貨幣蓄積と一方的購買による現実的蓄積との量的不一致という問題でないことは明らかである。〉(下174頁)

 しかし先のように、マルクスが古典派経済学の貨幣ベール観にたっている限りは、このような問題があるということだけでも奇妙だと思われるに違いない》とわざわざ書いているとするなら、マルクスがそれによって何を問題にしようとしているかは明瞭ではないだろうか。すなわちそれは資本の流通においては、貨幣は単なる流通手段としての機能だけで捉えるだけでは不十分であること、貨幣は蓄蔵貨幣においても、資本の流通を媒介する上で必然的な契機として入ってきて、それに固有の諸条件をもたらすこと、それがすなわち資本の流通では貨幣は流通手段だけでなく貨幣資本でもあることからくる条件だとマルクスは述べていたのではなかったのか。そのように、貨幣ベール観の立場に立てば問題にもならない問題を、これからマルクスは「一つの新しい問題」として提起すると言明しているのだから、その「一つの新しい問題」が何であるか明らかであるように思えるのである。だから、どうして大谷氏のような結論が引き出されるか、まるで理解できないのである。マルクスが以前はどのように述べていたのかをわれわれはもう一度確認しておこう。

 《しかし,単に一方的な諸変態,すなわち一方では大量の単なる購買,他方では大量の単なる販売が行なわれるかぎり--そしてすでに見たように資本主義的な基礎の上での年間生産物の正常な転換はこれらの一方的な変態を必然的にする--,均衡はただ,一方的な購買の価値額と一方的な販売の価値額とが一致することが前提されている場合にしか存在しない。商品生産が資本主義的生産の一般的形態だということは,貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本として資本主義的生産において演じる役割を含んでいるのであり,またそのことは,単純な規模のであれ拡大された規模のであれ再生産の正常な転換の,正常な経過の,この生産様式に特有な一定の諸条件を生みだすのであるが,均衡は--この生産の形成は自然発生的であるので--それ自身一つの偶然だから,それらの条件はそっくりそのまま,不正常な経過の諸条件に,恐慌《の諸可能性》に一転するのである。》(草稿51頁、大谷訳上49頁)

 ここでマルクスが商品生産が資本主義的生産の一般的形態だということは,貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本として資本主義的生産において演じる役割を含んでいる》と述べているのは、現実の蓄積のために必然的な契機として入ってくる貨幣蓄蔵について述べていること、一方における蓄蔵貨幣の形成のための一方的販売と、他方における蓄蔵貨幣が現実の蓄積のために投下される一方的購買との価値額の一致という条件について述べていることは明らかである。

  (以下、この項目はさらに続きます。)

2009年7月30日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その38)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているかの続きです。この項目は何回かに分けて論じる必要がありそうなので、今回は「その2」とします。)

 ところで大谷氏は先の説明で、マルクスは〈単純再生産のための配列をもった表式と拡大再生産の出発のための表式(いわゆる出発表式)とを比べて、「一方のbの場合には、年間生産物の諸要素の機能配置がふたたび同じ規模での再生産が開始されるようになっているのに、他方のaでは、その機能配置が拡大された規模での再生産の物質的基礎をなしているだけである」(S. 807.5–8)と言い、続けて、「このことは、『資本論』第1部で別の諸観点から検討したジェイムズ・ミルS・ベーリとのあいだの資本の蓄積にかんする争い、すなわち産業資本の大きさが不変な場合のそれの作用の拡張可能性にかんする争いに、きっぱりと決着をつけるものである」(S. 807.9–12)と書き、この最後の章句の欄外に線を引いている。これによって、さきに1のところで立てられた、現実の蓄積すなわち拡大再生産が開始されるための前提が、どのようにして単純再生産のもとでつくりだされることができるのか、という問題に明快な解答が与えられたことになる〉と述べていた。ここで〈『資本論』第1部で別の諸観点から検討したジェイムズ・ミルS・ベーリとのあいだの資本の蓄積にかんする争い、すなわち産業資本の大きさが不変な場合のそれの作用の拡張可能性にかんする争い〉なるものが、果たして〈現実の蓄積すなわち拡大再生産が開始されるための前提が、どのようにして単純再生産のもとでつくりだされることができるのか〉というような内容をめぐる争いだったのかどうか、それが問題である。それを検討してみよう。実はこれについては、すでに21章該当部分の段落ごとの解読のなかで説明しているので、それをほぼそのままここに転用することにする。それは次のようなものである。

 【マルクスはここでは『資本論』第1部のジェイムズ・ミルとサミュエル・ベーリとのあいだの資本蓄積にかんする争い、なるものを取り上げている。つまり上記のマルクスの論述は、この両者の争いに〈きっぱりと決着をつける〉ものだというのである。この両者の争いとはどういうものであろうか?
 この両者の争いについては詳しくは知るよしもないが、マルクスが第1部で論じていることは(これは現行版では22章第5節にある注64、フランス語版では24章第5節の注56に関連しているのだが、この第5節は現行版とフランス語版とでは大きく異なっており、マルクス自身はドルゲに宛てた英語版への指示から見て、第8稿では、恐らくフランス語版を想定して論じていると考えてよいであろう)、経済学者たちは社会資本を固定的なものと見て(そこには労働財源も固定的なものとして低賃金を正当化する底意があった)、それをドグマとしていたが、ベーリはそれを批判していたようである。注では次のベーリの一文が引用されている。

 「経済学者たちは、一定量の資本および一定数の労働者を、一様な力を持つ生産用具として、またある一様な強度で作用するものとして取りあつかう傾向が強い。・・・・商品が生産の唯一の動因であると主張する人々は、総じて生産というものは拡大されえない、というのは、そのような拡大のためには、生活手段、原料、および道具が前もって増加されていなければならないからである、というように論証するのであるが、これは事実上、いかなる生産の増大も、前もって生産が増大しなければ起こりえない、言いかえれば、いかなる増大も不可能であるということになる」(S・ベイリー『貨幣とその価値の転変』、五八、七〇ページ)

 こうした論争に〈きっぱりと決着をつける〉とマルクスはいうのだが、それは要するに問題は蓄積のために必要なのは、〈与えられた生産物のさまざまな要素の違った配列、あるいは違った機能規定を前提するだけなのだということなのである。ベイリーが「いかなる生産の増大も、前もって生産が増大しなければ起こりえない、言いかえれば、いかなる増大も不可能であるということになる」というのに対して、マルクスはそうでなく、問題は与えられた生産規模においても、そこにおける生産物のさまざまな要素の配列如何、機能如何によるのだと反論しているわけである。だから「蓄積のためには蓄積が前提される」という主張を、マルクスは一方でその正当性を認め、自らも前提しているのに、他方で、それを否定しているかに見える場合もあるのは、それを否定しているときは、まさにここでベイリーが述べているような意味で、つまり「いかなる生産の増大も、前もって生産が増大しなければ起こりえない」といった主張の批判として(「増大」には「増大」が前提するという同義反復に対して、「同じ規模」でも蓄積は可能だという批判として)述べていると解すべきであろう。蓄積のためには蓄積が前提されるというのは、蓄積に必要な追加的生産手段や追加的生活手段が市場に見出される必要があるということであり、そのためには前年度の剰余生産物がそうしたものとして生産されていなければならないこと、すなわちそれらを生産した前年度の再生産の機能配置がすでにそうしたものになっていなければならないこと(これ自体は必ずしも生産の「増大」を前提せずとも、「同じ規模」でも可能である)、すなわちすでに単純再生産ではなかったこと(つまり拡大再生産=蓄積のための機能配置であったこと)を前提するという意味で言われていると解すべきであろう。】

 このようにマルクスが、ジェイムズミルベーリとのあいだの資本の蓄積にかんする争い、すなわち産業資本の大きさが不変な場合のそれの作用の拡張可能性にかんする争い》と述べている問題は、決して〈現実の蓄積すなわち拡大再生産が開始されるための前提が、どのようにして単純再生産のもとでつくりだされることができるのか〉というような問題ではなく、それに《きっばりと決着をつける》というものではないことが分かるであろう。なぜなら、この場合も単純再生産そのものが問題なのではなく、ただ規模の点で単純再生産と同じであっても、すでに機能配置が拡大再生産になっているなら、蓄積は可能だということだからである。例え規模は単純再生産と同じでも機能配置が拡大再生産のそれになっているなら、それは拡大再生産であって、そうした機能配置の商品資本が生産されたということはすでにそれを生産した生産過程が単純再生産ではなかった(剰余生産物が単純再生産とは違ったものとして生産されている)ことを意味するからである。だから大谷氏らが理解するように、マルクスは決して単純再生産から如何にして拡大再生産に「移行」するかなどということを問題にしているのではないからである。

 以下、大谷氏はマルクスが「b)」と項目を書いた部分の説明に移るのであるが、その主張はただ混乱としかいいようがない問題点が含まれているように思える。それをこれから見ていくことにしよう。

 マルクスの敍述を辿ると、マルクス自身は、項目「a」において、「困難」の最後の帰結として単純再生産の表式のどの部分の機能配置を変える必要があるかを明らかにしたあと、ではそれがどういうものでなければならないかを、実際に機能配置が拡大再生産になっている表式(a表式)を提示して、さらにもう一度、拡大再生産の本質が単純再生産との量的相違にあるのではなく、質的相違にこそあることを、今度は表式を使って再確認するとともに、今度は拡大再生産では、では以前の単純再生産の表式の考察を前提するなら,何が新しく考察の対象になるのか、何が新たな問題として考察されなければならないのかを、つまり考察の対象を限定し、明確にすることも、この項目「a」での課題の一つとして考えていたことが分かる。そして項目「b」では、拡大再生産の表式を前提して、部門IIにおける蓄積のための貨幣蓄蔵が如何に形成されるのかという「一つの新しい問題」を、蓄積のための《貨幣源泉が部門IIのどこで湧き出るのか》という困難として提起して、しかしそれも「部門 I での蓄積」と同様に、そうした困難は単なる外観上のものに過ぎないことを明らかにして、部門IIでの蓄積のための貨幣源泉も、結局は、部門 I でのそれと同じように解決されうること、されなければならないことを確認することが「b」の課題だったと思われるのである。こうしてマルクスは最初に提起した(2と項目を打った最後の部分で提起した)《外観上の困難》《部門 I での蓄積》《部門IIでの蓄積》に分けて《詳しく解決する》という課題(草稿47頁、大谷訳上40頁)を、最終的に解決し終える予定だったのである(そしてそれは何度もいうように拡大再生産の概念の解明を終えることでもあった)。しかし、マルクス自身はこの「b」を最後まで仕上げることなく、途中で《云々、云々。》という形で打ち切ってしまっているのである(草稿61頁、大谷訳下21頁)。だからこの「b」で提起されている問題に対して、さまざまな解釈や憶測を生み出し、混乱をもたらしているともいえるのである(その意味では、その混乱の責任の一端はマルクス自身にもある)。しかし全体の流れを正確に読み取れば、この「b」で提起されている問題が何であるのかは明確であり、間違うことはない。

 (以下は、次回に続きます。)

2009年7月29日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その37)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているか

 次は[c 一回目の試み――「一つの新しい問題」と解決の挫折] というものである。これは一般には「a表式」と言われている表式のことであり、それに関連して、マルクスが「b)」と項目をつけている部分で言及している「一つの新しい問題」を如何に理解するか、という問題である。このa表式の提示を、「一回目の試み」などと位置づけることそのものが、a表式の評価として間違っていることは、すでに指摘した。a表式がそもそもどうしてここで--5のa)と項目が打たれたところで--提示されているのか、という肝心なことが理解されていないために、それ以降のマルクスの説明についても、まったく正しい理解は望めないのである。いずれにせよ、大谷氏の説明を紹介していこう。大谷氏はa表式を紹介したあと、次のようにそれを説明してる。

 〈草稿の59ページで、マルクスは、「われわれは次の表式によって再生産を考察する」(S. 806.13)と言って、次の「表式a」を示し、両部門での蓄積についての検討を始める。

     I) 4000c + 1000v + 1000m = 6000 
 a)                                                                =8252
     II) 1500c +  376v +  376m = 2252 

 このすぐあとで、マルクスは拡大再生産の開始について、さきに3および4で明らかにしたことを一般化して、きわめて重要な確認を行なっている。すなわち、拡大再生産の開始は、「与えられた生産物量のさまざまな要素の違った配列あるいは機能規定を前提するだけ」であり、ここで変化するのは再生産の諸要素の「質的規定」であって、この変化がそのあとに続いて行なわれる拡大再生産の「物質的前提」だ、ということである(S. 806.25–34)。そして、単純再生産のための配列をもった表式と拡大再生産の出発のための表式(いわゆる出発表式)とを比べて、「一方のbの場合には、年間生産物の諸要素の機能配置がふたたび同じ規模での再生産が開始されるようになっているのに、他方のaでは、その機能配置が拡大された規模での再生産の物質的基礎をなしているだけである」(S. 807.5–8)と言い、続けて、「このことは、『資本論』第一部で別の諸観点から検討したジェイムズミルS・ベーリとのあいだの資本の蓄積にかんする争い、すなわち産業資本の大きさが不変な場合のそれの作用の拡張可能性にかんする争いに、きっぱりと決着をつけるものである」(S. 807.9–12)と書き、この最後の章句の欄外に線を引いている。これによって、さきに1のところで立てられた、現実の蓄積すなわち拡大再生産が開始されるための前提が、どのようにして単純再生産のもとでつくりだされることができるのか、という問題に明快な解答が与えられたことになる。〉(下173-4頁)

 大谷氏の説明では、なぜ、この時点で、マルクスはa表式を提示したのかがまったく分からない。とにかくマルクスはここから突然、拡大再生産の表式を使った「分析」を開始するのであり、その「一回目の試み」が開始されるというわけである。しかしこの表式のすぐあとに続くマルクスの説明は、どうやら大谷氏の理解では、〈3および4で明らかにしたことを一般化〉したり、〈1のところで立てられた……問題に明快な解答〉を与えたりしているというのである。しかしそれは「一回目の試み」としては若干違和感が否めない。というのは大谷氏が「二回目の試み」と考えている、B表式、つまりマルクス自身によって《拡大された規模での再生産のための出発表式》と名付けられている表式においては、すぐに部門 I からの蓄積の計算に入っているのに、「一回目の試み」ではそうではないからである。こうした表面的な相違だけでも、a表式とB表式とでは提示している目的が異なることが分かりそうなものである。
 ところで大谷氏によると、このa表式のあとのマルクスの説明は、〈3および4で明らかにしたことを一般化〉して、単純再生産から拡大再生産に如何に「移行」するかという〈問題に明快な解答〉を与えたのだというのである。もちろん、〈3および4で明らかにしたこと〉〈1のところで立てられた〉問題が〈現実の蓄積すなわち拡大再生産が開始されるための前提が、どのようにして単純再生産のもとでつくりだされることができるのか〉というようなものではなかったことはすでに詳しく論証した。そうした理解が間違いであるのと同じように、a表式のあとに展開されているマルクスの一連の説明をそうしたものとして理解することもまた間違っているとしか言いようがない。実際のマルクスの説明にもとづいて、それを検証してみよう。

 マルクスは上記のa表式を提示したあと、表式の計算などにとりかかるのではなく、《まず第1に気がつくのは,年間の社会的再生産の総額が8252で,表式 I )で9000だったのに比べて小さくなっているということである》と全体の「規模」を問題にしている。ここで《表式 I )》と述べているのは、単純再生産で論じた表式を指しているのである。つまりここでも、すなわち拡大再生産の表式を提示したあとも、マルクスはまず「規模」としては単純再生産より小さいことを指摘し、拡大再生産はだから規模の問題(量の問題)ではなく、質的な問題であることをふたたび確認しようとしていることが分かるのである。実際、マルクスは《表式 I よりもはるかに大きい額を取ること》もできる、とa表式の規模を10倍にした表式を示したあと、次のように述べている。

 《〔しかしながらa)で〕表式 I での額よりも小さい額を選んだのは,次のことが目につくようにするためにほかならない。すなわち,拡大された規模での再生産(これはここでは,より大きな資本投下で営まれる生産のことである)は生産物の絶対的大きさとは少しも関係がないということ,この再生産は,与えられた商品量について,ただ,与えられた生産物のさまざまな要素の違った配列あるいは違った機能規定を前提するだけであり,《したがって》価値の大きさから見れば単純再生産にすぎない,ということである。単純再生産の与えられた諸要素の量ではなくてそれらの質的規定が変化するのであって,この変化がそのあとに続いて行なわれる拡大された規椹での再生産の物質的前提なのである。》(大谷訳下8頁)

 注意が必要なのは、ここでもマルクスは価値の大きさから見れば単純再生産にすぎないと述べている。これは決して単純再生産そのものを問題にしているのではないのである。これは以前(草稿53頁、大谷訳上57頁)においても単純再生産--《たんに》価値の大きさ《だけ》から見れば--の内部で、拡大された規模での再生産の、現実の資本蓄積の、物質的土台〔Substrat〕が生産される》と述べていたのと同じである。これは決して〈現実の蓄積すなわち拡大再生産が開始されるための前提が、どのようにして単純再生産のもとでつくりだされることができるのか〉ということと同じではないのである。マルクスが言っているのは、拡大再生産というのは量の問題ではなく、質の問題であるということである。だからそれが分かるように、敢えて価値の大きさかから見れば単純再生産と同じ規模にしたり、それよりも小さくとったりしてるのだ、ということである。マルクスはさらにそれが分かるように、a表式と全体の規模が同じで、単純再生産の機能配置になっているb表式まで提示して、次のように念を押している。

 《表式a)で現われようとb)で現われようと,どちらの場合にも年間生産物の価値の大きさは同じであって,ただ,一方のb)の場合には年問生産物の諸要素の機能配置がふたたび同じ規模での再生産が開始されるようになっているのに,他方のa)ではその機能配置が拡大された規模での再生産の物質的基礎〔Basis)をなしているだけである。》(大谷訳10頁)

 われわれが気付くのは、マルクス自身はa表式について、すぐにその計算にかかるのではなく、あくまでも拡大再生産の概念をもう一度、今度は表式を使って念を押していることである。こうしたマルクスの説明を見ても、これが決して大谷氏が言うように〈一回目の試み〉などというものでは決してないこと、それはマルクスがそれ以前の拡大再生産の概念を解明するための一連の考察の一つの帰結として、最初から機能配置が単純再生産とは違って拡大再生産のものになっている表式を、一つの具体例として提示したものであることが分かるのである。

 (この項目は、次回に続きます。)

2009年7月28日 (火)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その36)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●何のための〈[a「困難」の確認]〉なのか?の続きです。)

 少し「a)」の部分の敍述を追ってみよう。マルクスは部門 I の剰余価値1000mの半分500mが《ふたたびそれ自身不変資本として部類 I に合体される》と想定する。だからこの部分は部門IIの不変資本の現物形態として補填されるわけには行かないのである。だから2000c(II)の一部500c(II)が現物形態に転換できないことになる。それをマルクスは次のように述べている。

 《だから,2000(v+m)( I )ではなくてただ1500(v+m)( I )だけが,つまり(1000v+500m) I だけが,2000(c)II)と転換可能である。すなわち,500c(II)は,その商品形態から生産資本(不変資本)IIに再転化できないのである。したがって,IIでは過剰生産が生じることになり,その大きさはちょうど I で行なわれた,生産 I の規模の拡大のための過程に対応することになる。》

 ここでマルクスは1000v+500m( I )がIIcと転換されるためには、IIcは2000ではなく、過剰になる500c(II)が削減されなければならないこと、つまり1500c(II)でなければならないことを示唆しているのである。しかしマルクスは直ちにその考察に移らずに、次のパラグラフからはこうした《cIIについての第一の困難》を部門IIにおける商品在庫の存在を想定して《回避》する試みを検討している。そして次のパラグラフでは、こうした試みが、三点にわたって反証され、そうした試みの不可が論証されているのである(こうしたマルクスの特徴的な論じ方にわれわれは注意を促したい。というのは「b)」以降でもまったく同じような論じ方をマルクスはやっているのだからである)。そしてその三つ目の理由として次のように結論している。

 《3)いま避けようとしているこの困難が単純再生産の考察では生じなかったという事情は,とりもなおさず,ここでの問題が I の諸要素の再配列,違った配置(再生産にかんしての)だけに起囚する一つの独自な現象にあることを証明している。この別の配置なしには,およそ拡大された規模での再生産は行なわれえないのである。》

 これがすなわち困難の考察の帰結なのである。そしてマルクスはその次のパラグラフから《さて,次の表式によって再生産を考察しよう》と、最初から I 、II両部門とも拡大再生産の機能配置になっているいわゆる表式「a)」を提示するのである。大谷氏らの解釈だと、この拡大再生産の表式の提示は、あまりにも唐突のように思うかも知れないが、マルクスにとっては、それ以前のすべの考察は、いわばこの表式を提示するためのものだったといっても過言ではないのであり、実際、その直前の「困難」の考察では部門IIの2000cが1500cにされる必要があることまで明らかにしたのである。そしてその上での表式「a)」の提示なのである。そして「a)」表式では、部門IIのcは1500にされ、それに対応する形で、同じ部門のvとmの数値も設定されていることが分かるのである。

 大谷氏の説明では、なぜ、マルクスは「a)」と項目を記している部分で、拡大再生産の表式(a表式)を提示しているのかがまったく説明がつかない。何度も言うが、それはまさにそれまでの一連の「困難」の考察--それは拡大再生産の概念の考察そのものである--の帰結として提示されているのである。そこらあたりの関連が大谷氏にはまったく掴まれていないように思える。マルクスはそれまでの一連の考察で、単純再生産を前提して、その一部の蓄積を仮定するというようなやり方では不合理や困難に陥ることを論証し、だから拡大再生産には単純再生産とは異なる機能配置にもとづくものが必要であることを何度もしつこいほどに論証してきたのである。その最後のものが、すなわち「a)」と項目が書かれている部分の前半において考察されているものなのである。そこでは具体的に単純再生産の表式のどこをどのように変えるべきかまで考察されているのである。だからそれまで何度も拡大再生産には単純再生産とは異なる機能配置にもとづものが必要であることを論証した結果として、ではそれでは、それはどういう機能配置にもとづくものなのかを具体的に示したものこそ、この「a表式」なのである。だからこそa表式は「a)」と項目が書かれた最後の困難の考察の帰結として「a)」の項目のなかで提起されているのである。こうしたa表式の提起の意味も大谷氏は何一つ理解されていないことはすぐに見るであろう(大谷氏はそれを何かマルクス自身が、いまだ模索途中の不十分な認識のもとに提起した「第一回目の試み」であるなどという捉え方をしているのである!)。マルクスの草稿を忠実に辿るなら、いわゆる「a表式」は項目「a」のなかで提示され、その「a表式」にもとづく考察は「b」の最後まで(と私が考えている横線で区切られた部分まで--大谷訳では下21頁まで--)続き、そこで終わっているのである(なぜなら、その次からはまた新しい「B式」が提示されているから)。そしてだから何度も言うが、《5)部門IIでの蓄積》の考察そのものも、すなわち「部門 I での蓄積」「部門IIでの蓄積」に分けて考察されてきた「拡大再生産の概念」の解明そのものも、実はこの横線で区切られたところで終わっているのである。

●同じような拡大再生産の表式の提示でも、その目的や役割、位置づけには決定的な相違がある

 次に大谷氏は[b 表式を利用した蓄積の進行過程の考察]に移る。そして次のように書き出している。

 〈続いてマルクスは、両部門で蓄積の準備が行なわれ、両部門で現実の蓄積が進行する過程を、表式を利用しながら考察する。この表式展開の試みは5回繰り返されている。〉(下173頁)

 このように大谷氏はマルクスが「a)」と項目を打ったところで提示している表式(いわゆるa表式)と、そのあと《貨幣源泉はIIのどこで湧き出るのか》を論じた一連の考察を途中で打ち切って提示しているB表式(草稿61頁、大谷訳下21頁)以下とを、同じ〈表式展開の試み〉(下173頁)と捉えているのである(そしてこの点に限れば、大谷氏にはエンゲルスのこの部分の編集を批判する資格はないであろう)。もちろん、大谷氏は続けて〈この5回の展開の試みは、それぞれ異なった仕方で行なわれており、引き出されている結論も異なっており〉(同)とも述べているが、しかし、a表式とB表式以降との拡大再生産の表式の提示の目的や意義の決定的な相違というものにまったく気付かれていないのである。それらはa表式も含めて、〈マルクスがここでやろうとしたのは――エンゲルス版がわれわれに与えてきた印象とは違って――何年にもわたって進行する拡大再生産の過程を表式の形態で記述しようとする試みだったのではなくて、表式の助けを借りてそのような過程の進行を分析しようとする試みだった〉(同)というのである。しかしこれまで論じてきたことからすでに明らかなように、こうした捉え方は極めて問題があると言わざるをえない。
 なぜなら、マルクスがa表式を提示したのは、それまでの一連の考察で拡大再生産のためには単純再生産とは異なる機能配置にもとづ表式の提示が必要であることを論証してきた、いわばその帰結して、具体的に拡大再生産の表式を例示したものなのである。それに対して、B表式は、すでにそれまでの一連の考察で拡大再生産の概念が解明されて、拡大再生産のために必要な表式も明らかにされたあと、では今度は、拡大再生産にはどのような法則性があるのかを解明するために、拡大再生産の表式の機能配置のさまざまな具体的数値を変更しながら、年次を重ねて表式を計算して、部門 I と部門IIとの相互的な制約関係等を探っていくことが目的なのだからである。だからa表式の提示とB表式以降の表式の提示とその計算の試みとでは、その目的や意義付けがまったく異なるのである。

 ただついでに指摘しておくと、大谷氏が、ここでエンゲルス版が与える印象、つまり〈何年にもわたって進行する拡大再生産の過程を表式の形態で記述しようとする試み〉に対して、対置しているものは〈表式の助けを借りてそのような過程の進行を分析しようとする試みだった〉というものである。しかし、この二つの対立点というものは極めて分かりにくい。エンゲルスの編集だとただ「記述」するだけで、「分析」がないとどうやら大谷氏は言いたいらしいのだが、そんなことが果たして断定できるのであろうか。エンゲルス版でも、「第一例」「第二例」のあと「蓄積が行なわれる場合のIIcの転換」として、それまでの一連の考察がまとめられているのだから、それまでの考察がただ「記述しようとする試み」だけで、「分析しようとする試み」では無かったなどとは言えないのではないだろうか。要するにエンゲルス版と大谷氏の理解とにはさしたる相違はないと言えるのである。

 これもまあ大して重要な問題ではないが、もう一つつけ加えると、こうした大谷氏の説明は、以前の同氏の説明とも若干違っているということである。大谷氏はこの論文の最初のあたりで、次のように述べていた。

 〈マルクスはこの「5」のなかで、エンゲルス版でそう見えるのとは違って、両部門間の過不足のない相互補填のもとで順調に進行する拡大再生産の過程を示すような表式を描こうと苦心惨憺したのではまったくなかった。マルクスは、浮上した困難を打開する道を探るために表式を利用しただけだった。〉(上143頁)

 このように大谷氏は最初は〈浮上した困難を打開する道を探るために表式を利用しただけだった〉と説明していたのである。ところが今回は〈表式の助けを借りてそのような過程の進行を分析しようとする試みだった〉と説明されている。つまり今回は〈浮上した困難〉〈打開〉についてはまったく問題にされていない。この両者の説明には、かなり違ったものを私は感じるのであるが、どうであろうか。

 さて、やや横道にそれたが、だから大谷氏が次のように書いているのも納得できないのである。

 〈そのような観点に立って、この5回の表式展開を見ると、マルクスは1回目の試みを行なうなかで、それまで彼にまだはっきりとは見えていなかった重要な内的関連に気づき、それを生かす仕方で2回目の試みを行なうが、勘違いや計算の誤りから、表式の展開が思いがけない結果をもたらしたために展開を中断したこと、3回目および4回目のスムーズに進められない展開もそれぞれ中断したのち、5回目の表式展開を3年度の期首まで進めたところで、得られた結果を一般化して記述したことが分かる。〉(下173頁)

 しかしこうした問題も続く一連の考察のなかで具体的に指摘していく予定なので、ここではこれ以上、この問題について論じることはやめておこう。

2009年7月27日 (月)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その35)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●何のための〈[a「困難」の確認]〉なのか?

 さて、大谷氏の最初の項目は[a「困難」の確認]というものである。大谷氏はそれについて次のように述べている。

 〈この5では、まず、4の末尾でつかみ出された「困難」、すなわち、「諸要素が――たとえば来年といった将来の拡大を目的として――違うように配列ないし配置されているだけ」であるような、 I での生産規模拡大のための過程が、IIでは、それと同じ大きさの過剰生産をもたらす、という困難が確認される。〉(下172-3頁)

 これが項目「a」で書かれていることのすべてである。これでは、大谷氏はの冒頭における考察は、〈4の末尾でつかみ出された「困難」〉が、ただ再び〈確認される〉だけだと考えているとしか捉えようがない。しかし大谷氏は4や5における「困難」の確認が何のためになされているのかがお分かりではないように思える。そもそも4の考察と5の冒頭の考察とには明らかに異なる点があることにも、大谷氏はまったく気付かれていないようである。それは次のような点で違っている。

(1)4ではその冒頭の《これまでわれわれは,A,A’,A”,等々( I )が彼らの剰余生産物をB,B’,B”,等々( I )に売ることを前提してきた。しかし,A( I )が,B(II)への販売によって自分の剰余生産物を貨幣化する,と仮定しようという文言から始まっているように、A( I )はB(II)に剰余生産物を販売して貨幣化すると前提されている。それに対して、5では《剰余生産物 I の半分がふたたびそれ自身不変資本として部類 I に合体される》という仮定である。つまり4では I の蓄積は追加可変資本の蓄積であることが想定されているのに、5ではそれは追加不変資本の蓄積が想定されているのである。
(2)5ではその「困難」が《cIIについての第一の困難》と説明されているが、4ではそうした説明はない。
(3)4では部門 I にA群の資本家とB群の資本家が想定され、それと同時に部門IIにもB群の資本家(とA群の資本家)の存在を暗示しているが、5ではA、B二種類の資本家群の存在については言及されていない。
(4)これも重要な相違であるが、4ではA( I )が剰余価値をそれまではB( I )に販売すると仮定されていたのを、今度はB(II)に販売するという仮定であった。しかし具体的な数値にはまったく触れていない。ところが5では I の剰余生産物の半分(1000/2m)が部類 I に合体されるとされており、しかも部門 I と部門IIの単純再生産における部門間の関係表式-- 1000v+1000m( I )と2000c(II)の関係表式--が示されている。

 これだけの相違があるのである。この相違について若干の補足をしておこう。
 まず(2)の相違については、あまり大したことではないように思えるが、しかし考えてみれば、マルクスは5の冒頭をcIIについての第1の困難という文言ではじめているが、しかし「第二の困難」については、何も述べていない。マルクスが「b)」と項目を打ったところからは、「一つの新しい問題」が考察され、それも一つの「困難」であるかに思えるのだが、しかしでは、それが「cIIについての第二の困難」と言えるのか、というとそうではない。それはIIの剰余価値の一部が追加不変資本として蓄積される場合の困難について論じているのだからである。だから5で、 I における追加不変資本の蓄積におけるIIcの困難が「第一の困難」とされていることを考えるなら、 I における追加可変資本のによるIIcの困難が、つまり「4)」と項目を打ったところで考察している「困難」が、あるいは「第二の困難」とマルクスは考えていたかも知れないということである。
 次に(3)で指摘したことは非常に重要なことである。不破哲三氏などは、「4)」以前からのマルクスの一連の「困難」や「不合理」、「矛盾」の確認は、マルクス自身がさまざま「困難」や「不合理」、「矛盾」に突き当たっているのであり、マルクスの「試行錯誤」を示すものだと捉え、大谷氏もそれ以前はともかく、「5)」の「a)」で拡大再生産の表式を提示して以降は、マルクス自身がさまざまな「試行錯誤」を繰り返していると捉えている。しかしこうした捉え方は、マルクスの敍述上の工夫をそのまま馬鹿正直に真に受けた誤解としか言いようがないのである。例えばマルクスが《だが,待て! ここにはなにか儲け口はないものか?》(草稿60頁、大谷訳下15頁)と、わざとおどけた書き方をして、そうした一連の困難の模索が、敢えてそうした困難という形で当面する問題を提起しているだけなのだということを示唆しているのに、多くの人たちは、あたかもマルクス自身が《儲け口》を捜して「暗中模索」し、「試行錯誤」しているかに捉えているのである。マルクスもまさか自分のこうした敍述上の工夫が真に受けられて、誤解されるとは思わなかったであろう。
 しかし、マルクスが「4)」と番号を打った段階でも、すでに部門IIにもこれからそれまで蓄蔵してきた潜勢的貨幣資本を投じて現実に蓄積しようとしている資本家群Bを想定していることを見ても、マルクスにとっては初めから問題は明瞭であり、最終的な問題の解決や結論は明らかであったことが分かるのである。マルクスが実際に部門 I と同様に、部門IIにおいてもA群の資本家とB群の資本家を想定するのは、実は、この草稿の一番最後の部分、エンゲルスが「補遺」とした部分においてである。つまりマルクスがそうしたわざとおどけた表現を使ったりして論じてきて、最後に「云々、云々。」という形で途中で敍述を打ち切ってしまった部分(草稿の61頁、大谷訳下21頁)で取り上げた問題を、もう一度取り上げて、今度は同じ問題を結論的論じている部分、すなわち部門IIにおける蓄積のための潜勢的貨幣資本の蓄蔵が如何になされるのかを論じているところにおいてである。だから不破氏や大谷氏らのように(そして伊藤武氏も同類であるが)、マルクス自身が部門IIにおいて「蓄積のための貨幣源泉」を捜してアチコチと試行錯誤を繰り返しているなどという捉え方は、全くもって笑止千万なのである。マルクスはすでに「4)」と番号を打ったところで部門IIにおいてB群の資本家の存在を前提して論じている事実こそマルクスにとって最初から問題は明瞭であったことをハッキリと示しているからである。つまり部門IIにおけるB群の資本家たちというのは、それまで潜勢的貨幣資本を蓄蔵してきて、これからそれを投じて現実の蓄積を開始しようとしている資本家たちである。そうしたB群の資本家を想定するということは、部門IIにおいて蓄積のための貨幣源泉を捜すことなど初めから不要だということを示しているのである。それは部門 I においてB群の資本家を想定したときにそうであったのとまったく同じなのである。つまりマルクスは「4)」と番号を打った時点で、「b)」の項目で論じている「貨幣源泉」の問題は解決しているのである。よってマルクスは最初から問題をハッキリと見通した上で論じていることは明らかなのである。それをあたかもマルクス自身が「試行錯誤」を繰り返しているかに考えている、大谷氏らの理解は誤解も甚だしいと言わなければならない。

 さて、「4)」と「5)」とでは同じ「困難」でも、これだけの相違があることが分かった。では、マルクスの問題意識は、「4)」と「5)」とではどういう点で異なるのか、それを考えてみよう。「4)」までの一連の「困難」の確認や「不合理」や「矛盾」の確認は、蓄積または拡大再生産は単純再生産とは質的に異なること、だから単純再生産を前提してその一部を拡大させようとしても「困難」や「矛盾」に陥ることを論証して、両者の質的相違、単純再生産から拡大再生産への「移行」には質的飛躍が必要であること、また拡大再生産の場合は、その一部だけの蓄積を想定して考察すると不合理に陥ることを確認して、拡大再生産のためには I 、II両部門が同時に蓄積すると想定する必要があることを確認してきたのである。だからこうした一連の考察において、拡大再生産のためには、 I 、II両部門において、単純再生産とは最初から異なる機能配置にもとづく表式が必要であることを示すことがマルクスの本来の意図なのである。それに対して「5)」における同じような「困難」の確認は、具体的に以前の単純再生産の表式(エンゲルス版の第20章で取り上げた表式)を想定した上で、では単純再生産のどの部分の機能配置をどのように変える必要があるのかを探るのが今度の目的なのである。だから「4)」と「5)」とでは同じ「困難」の確認といっても、目的はハッキリと異なることが理解されなければならない。

 (以下、この項目は次回に続きます。)

2009年7月18日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その34)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●《5)部門IIでの蓄積》はどこまで含まれるのか?

 ここからは【「5 第II部門での蓄積」での考察の歩み】と題して、マルクスが5と番号を打った部分以下の説明が行なわれるのだが、すでに指摘したように、大谷氏らは、この5以下の部分全体が--だからエンゲルスが「補遺」とした草稿の最後の部分までをも含んだ全体が--、5の中に入ると考えている。こうした捉え方にはすでに疑問を提示しておいた。しかしそれを問題にする前に、まずこの項目を大谷氏は次のように書き出している点を問題にしなければならない。

 〈マルクスは、このように第 I 部門での蓄積を、正確には、現実の蓄積のために行なわれるここでの準備過程とそれがもたらす諸結果とを、考察したのち、次に、「5 第II部門での蓄積」に移る。〉(下172頁)

 これまでのマルクスの考察が、決して〈正確には、現実の蓄積のために行なわれるここでの準備過程とそれがもたらす諸結果〉といったものでは無かったことはすでに指摘したが、大谷氏はマルクスにとって《部門IIでの蓄積》の考察も《外観上の困難》《詳しく解決》する一環であるとの認識がないのである。これはある意味では致命的である。そもそもマルクスが《部門 I での蓄積》《部門IIでの蓄積》とにわけて考察しているのは、何のためかというもっとも根本的なことが抜け落ちているのである。マルクスはすべての資本家が一方的販売によって蓄積のための潜勢的貨幣資本、すなわち蓄蔵貨幣の形成を行なおうとしたら困難に陥ること、だからそれを《詳しく解決》するなかで、つまり蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるかを解明することによって、《蓄積または拡大再生産》の概念を明らかにしようとしているのである。すなわち《蓄積または拡大再生産》は単純再生産とは質的に異なること、そしてその質的相違とは剰余価値を形成する剰余労働の具体的形態の相違であり、剰余生産物の物的形態の相違であること、だから蓄積というのは生産過程そのものの一現象であり、だからそれは生産過程を通って流通過程に現われてる総商品資本の素材的内容そのものが単純再生産とは質的に違っていること、だからわれわれは拡大再生産のためには、最初から単純再生産とは異なる機能配置にもとづく表式が必要であることを明らかにしようとしているのである。そしてまた、マルクスがそうした拡大再生産の概念《部門 I での蓄積》《部門IIでの蓄積》にわけて、それぞれにおいて考察し、そのなかでさまざまな困難や不合理を導き出しているということは、同時に、拡大再生産とは、部門 I だけの蓄積や部門IIだけの蓄積として考察することには限界があること、拡大再生産のためには常に両部門が同時に蓄積することが前提されなければならないことを明らかにためでもあったのである。5はその意味では、拡大再生産の概念を解明する一連の考察を締めくくる位置を占めているのである。
 だからそれは--つまり拡大再生産の概念の解明は--、決してこの草稿の最後まで続いているわけではない。それだとマルクスは最後まで拡大再生産の概念を明らかにするだけに終わり、実際の拡大再生産における諸法則やそれに伴うさまざまな諸問題を何一つ解明しなかったということになってしまう。こうした理解が間違っているのは、例えば大谷氏が詳細に研究した第3部第5篇の「利子生み資本」の全体の構成を見ても分かるであろう。第5篇は第21~24章で「利子生み資本」の概念が解明され、第24~25章で「利子生み資本」の運動諸形態が解明され、そして第26章で「利子生み資本」の歴史的考察がなされていたのである。こうしたマルクスの展開はある意味では普遍的であって、だから《蓄積または拡大再生産》の敍述でもそれは概ね妥当するし、しなければならない。もちろん実際には拡大再生産の歴史的な考察といったものが必要かどうかは別途検討される必要はあるが、少なくともそうした問題を検討するまで、マルクスの命はもたなかったことは確かである。しかし私は少なくとも「拡大再生産の概念」「拡大再生産の諸法則」、およびその「まとめと残された課題」については、マルクスは不十分ながらも解明していると考えている。

 さて、しかし大谷氏は、この5が草稿の最後まで含んでいると考えている。だから項目【「5 第II部門での蓄積」での考察の歩み】をさらにa~iの九つの項目にわけて、5以降のマルクスが拡大再生産の表式を使って計算している部分も含めて一連のものとして、論じているのである。すなわち、次のように述べている。

 〈これ以下(5以下--引用者)の叙述は、第8稿のなかでもとくに、エンゲルスが彼の序文で書いている「病状の重圧にたいするむりやりな挑戦の痕跡」(II/13, S. 8.5–6; MEW, Bd. 24, S. 12)がきわめて顕著に見られるところで、「論理的な連続はしばしば中断され、所々に論述の切れたところがあり、ことに終りのほうはまったく断片的である」(II/13, S. 8.26–28; MEW, Bd. 24, S.12)。このなかに含まれる表式の展開のところでは、数字の書き誤り、見間違い、誤った計算などがいたるところに見られる。しかし、エンゲルスが言うように、たしかに、「マルクスの言おうとしたことは、あれこれの仕方でこのなかに述べられている」(II/13, S. 8.29–30; MEW, Bd. 24, S. 12)と言いうる〉(下172頁)

 ただエンゲルス自身は、大谷氏らのように、マルクスが5と番号を打った以下の部分全体が5に、つまり《部門IIでの蓄積》に含まれているとは考えなかったようである。それは現行版の次のような目次をみれば明らかである。

 《第12章 蓄積と拡大再生産
   第1節 部門 I での蓄積
   第2節 部門IIでの蓄積
   第3節 蓄積の表式的敍述
   第4節 補遺》

 ただエンゲルスはマルクスが《5)部門IIでの蓄積》と表題を書いた場所をまったく無視して、それをマルクスが「4)」と番号を打ったパラグラフの前に持ってきている。しかも実際には《部門IIでの蓄積》が論じられているかなりの部分を次の「第3節 蓄積の表式的敍述」の中に含めてしまっている。ただエンゲルスはマルクスが《云々。云々。》という形で敍述を打ち切ってしまっている部分(実はここまでが5に含まれている部分なのであるが)を補足するために、草稿の最後の部分(エンゲルスが「補遺」とした部分)が書かれたと判断している(これはこの限りでは正しい!)。実際、このマルクスの敍述の中断こそ、実は、5の部分の考察が終わるところであり、その考察の中断を示しているのである。そしてエンゲルスが考えているように、その中断された考察は、最後の部分(エンゲルスが「補遺」とした部分)で、もう一度、同じ問題が今度は結論的に論じられているのである。だから確かにエンゲルスの編集にはさまざまな問題があるが、しかし少なくとも5以下がまったく同じ問題が論じられているなどと解釈している大谷氏らに比べれば、まだしも《マルクスの言おうとしたこと》(エンゲルス)をなんとか理解しようとの努力のあとが伺えるものとなっているといえるのである。

 いずれにしても、大谷氏らの5以下の捉え方が誤りであることは、その都度、それぞれの項目でそれらの本来の課題を明らかにするなかで解明していくことにしよう。

2009年7月17日 (金)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その33)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●3、4でマルクスは何を問題にしているのかの続きです。)


 この2や3、4において、マルクスが課題とするものが、大谷氏やエンゲルスが主張するような、〈単純再生産の内部で、どのようにして拡大再生産のための物質的土台が生み出されうるのか〉というようなことではないのは、次のような事実を確認すればたちどころに明らかとなる。すなわち、マルクスは外観上の困難を解決するために、次のような考察から開始している。

 部門 I を構成している多数の産業部門での諸投資も,それぞれの特殊的産業部門内部でのさまざまな個別的投資も,{それらの規模,技術的諸条件,等々,市場関係,等々をまったく度外視すれば}それぞれの年齢,すなわち機能期間に応じて,それぞれ,剰余価値が《次々に》潜勢的な貨幣資本に転化していく過程のさまざまな段階にあるということは明らかであって,この転化がそれらの資本の機能資本の拡大のためであろうと新たな産業的事業における貨幣資本の投下のためであろうと--「拡大された規模での生産」の2つの形態--,このことに変わりはない。そこから出てくるのは,それらのうちの一部分適当な大きさに成長した《自分の》潜勢的な貨幣資本をたえず生産資本に転化させているが,すなわち積み立てられた,剰余価値の貨幣化によって積み立てられた貨幣で生産手段--不変資本の《追加的》諸要素--を買っているが,他方,他の1部分はまだ自分の潜勢的な貨幣資本の積立てをやっている,ということである。つまり資本家たちは,この2つの部類のどちらかに属して,一方は買い手として他方は売り手として--そして両方のそれぞれがどちらか一方だけの役割を担って--互いに相対しているのである。》(大谷訳上40-1頁、草稿47頁、下線はマルクスによる強調)

 こうした想定のもとに、マルクスは潜勢的な貨幣資本の積立をやっている資本家群をA、他方、それまで剰余価値の貨幣化によって積み立てた貨幣で生産手段を買って、現実の蓄積を行なおうとしている資本家群をBとして、一連の考察を行なっていることは周知のことである。
 ところでエンゲルスが断りなくマルクスの一文を変更して、移行論を展開している部分の直前でも、マルクスは次のように論じている。

 《この剰余生産物を次々に売っていくことによって,資本家たちは蓄蔵貨幣,《追加的な》潜勢的貨幣資本を形成する。いまここで考察している場合には,この剰余価値ははじめから生産手段の生産手段というかたちで存在している。この剰余生産物は,B,B',B”,《等々》( I )の手のなかではじめて追加不変資本として機能する。しかしそれは,可能的には、それが売られる以前から,貨幣蓄蔵者A,A’,A”等々( I )の手のなかで追加不変資本である。これは, I の側での《再》生産の価値の大きさだけを見るならば,単純再生産の限界の内部でのことである。というのは,この可能的な追加不変資本(剰余生産物)を創造するのに追加資本が動かされたわけでもなく,また単純再生産の基礎の上で支出されたのよりも大きい剰余労働が支出されたわけでもないからである。違う点は,ここではただ,充用される剰余労働の形態だけであり,その特殊的な役立ち方の具体的な性質だけである。》(大谷訳54頁、草稿52-53頁、下線はマルクス)

 このすぐあとに続く括弧内の文章をエンゲルスは括弧を外して、その一部を次のように書き換えているのである。

 《単純再生産の場合には、全剰余価値 I が収入として支出され、したがって商品IIに支出されるということが前提された。したがって、剰余価値 I は、不変資本IIcをその現物形態で再び補填するべき生産手段だけから成っていた。そこで、単純再生産から拡大再生産への移行が行なわれるためには、部門 I での生産は、IIの不変資本の諸要素をより少なく、しかしそれだけの I の不変資本の諸要素をより多く生産できるようになっていなければならない。この移行は必ずしも困難なしに行なわれるものではないが、しかし、それは、 I の生産物のあるものがどちらの部門でも生産手段として役立つことができるという事実によって、容易にされるのである。》(全集版615頁)

 このようにエンゲルスはマルクスの問題意識が文字どおり「単純再生産から拡大再生産への移行が行なわれるためには」何が問題なのかということであるかに理解している。そして先に見たように、大谷氏もそうしたエンゲルスの修正を「きわめて適切」なものとしているのである。

 しかしエンゲルスも大谷氏もマルクスはその前の考察で部門 I でA、B二つの資本家群を想定して問題を論じている意味を深く考えもしていない。考えてみよう。これから潜勢的可変資本を蓄蔵しようとしている資本家群Aはまだよいとしても、すでにこれまで剰余価値を貨幣化した貨幣を蓄蔵して、必要な額に達したのでそれをこれから現実の蓄積のために不変資本の購入に投じようとしている資本家群Bというのは、果たして単純再生産を想定して可能であろうか。決して否である。なぜなら、彼らはそれ以前までは、資本家群Aとして剰余価値を一方的に販売して、それを実現して入手した貨幣を流通から引き上げて、蓄蔵してきた資本家たちであり、彼らが一方的に販売してきた剰余生産物は、まさに追加的生産手段以外の何ものでもなかったからである。彼らが彼らの剰余生産物(生産手段の生産手段)を一方的に販売できたのは、まさに現実に蓄積を行なう資本家たちがいたからに他ならないのである。だからそもそもマルクスがA、B二種類の資本家群を想定しているということ自体が、マルクスがすでに一般に年々拡大再生産が行なわれている過程を想定して問題を考察していることを示しているのである。問題はあくまでも再生産の価値の大きさだけを見るならば,単純再生産の限界の内部でのことである》というにすぎない。つまり価値の大きさだけを見るなら、単純再生産の場合とまったく変わらないとマルクスは述べているのであって、それをエンゲルスや大谷氏はあたかも単純再生産そのものについてマルクスは述べているかに読み誤っているのである。だから彼らはマルクスがあたかも単純再生産から拡大再生産への「移行」を論じていると捉えたのである。しかし何度もいうが、マルクスがA、B二つの資本家群を想定しているということ自体が、それは単純再生産では不可能なことであり、単純再生産とは相いれない想定なのである。マルクスはあくまでも現実に年々拡大再生産を繰り返している過程を、ただ前提して、それを観察・分析しているにすぎないのである。拡大再生産の概念を解明するためには、それはまったく正しい方法論的立場である。ただマルクスは拡大再生産が単純再生産とは異なる質的内容を持っていることを明らかにするために、単純再生産との比較によって拡大再生産の諸特徴を明らかにし、その概念を解明しようとしているのであり、そのためにただ規模において単純再生産と同じか、またはそれよりも小さいケースを敢えて選んで、問題を考察しているだけなのである。

2009年7月16日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その32)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●3、4でマルクスは何を問題にしているのか

 次に大谷氏は2について、次のように説明する。

 〈つまり、この2は、蓄積のための潜勢的貨幣資本の積立とそれについての外観上の困難を指摘している。〉(下171頁)

 この2の理解については、別に異論はない。しかし、引き続いて3、4について、次のようにまず概観を明らかにしている。

 〈続いて、第 I 部門の剰余生産物の一方的販売による可能的貨幣資本の形成がどのようにして行なわれるかを、3でまず、この販売が第 I 部門の内部で行なわれる場合について、次の4で、それが第II部門への販売によって行なわれる場合について論じる。〉(下171頁)

 しかしこれは不正確であるし、重要なポイントを見ていないように思える。マルクス自身は実際にはどう言っているのかをわれわれは確認しよう。

 《われわれは,この外観上の困難をさらに詳しく解決するまえに,まず部門 I (生産手段の生産)での蓄積と部門II(消費手段の生産)での蓄積とを区別しなければならない。部類 I から始めよう。》(大谷訳上40頁)

 このようにマルクスは2の最後に述べたあと、段落を変えて3を始めているのである。つまりマルクス自身は、部門 I での蓄積部門IIでの蓄積に分けて考察するのは、《この外観上の困難をさらに詳しく解決する》ためであることを明確に語っているのである。だから次に始まる3以下が《部門 I での蓄積》であり、さらにそのうちの3は部門 I での不変資本の蓄積、そして4が同部門での可変資本の蓄積であること(しかし実際には《追加可変資本の考察》の開始は三つ前のパラグラフから始まっている)、そしてさらに5が《部門IIでの蓄積》(これはマルクス自身が表題を書いている)となっていることを知るのである。つまりマルクス自身は《5)部門IIでの蓄積》と表題を書いた部分もあくまでも《外観上の困難を詳しく解決する》ためのもの、つまり一方的な販売による蓄積のための貨幣蓄蔵を行なおうとすると陥る困難を解決する一環であると考えていたということである。
 そしてこうした困難を解決するということは、すなわち如何にして社会的な年間の再生産における蓄積がなされるのかを明らかにすることであり、そのことはすなわち《蓄積あるいは拡大再生産》の概念を明らかにすることでもあるのである。

 次に大谷氏は3のより詳しい説明に移るのであるが、その中で次のように述べている(下線は大谷氏による強調個所)。

 〈しかし、彼がここではじめて解明した最大の問題は、単純再生産の内部で、どのようにして拡大再生産のための物質的土台が生み出されうるのか、ということである。生産を現実に拡大するためには、なによりもまず、蓄積される剰余価値が、現実の蓄積に必要な現物形態をもつ生産手段に転化できなければならない。それは、第 I 部門で、可能的貨幣資本を形成するために一方的に販売される剰余生産物の現物形態が、そのように変化することによって、単純再生産の内部で可能となるのである。〉(下171-2頁)
 〈このように、マルクスは拡大再生産の考察を、どのようにして拡大再生産の開始――エンゲルスはこれをきわめて適切に「単純再生産から拡大再生産への移行」(II/12, S. 458.34-35; II/13, S. 461.31-32)と表現した――が行なわれうるか、そのさいに生じる困難はなにか、ということから始めているのである。拡大再生産の開始とは蓄積率がゼロからプラスに転じることであるから、第一に、諸要素の配置の変更が必要だということと、第二に、この変更は第II部門での過剰生産をもたらすということとは、必要な変更を加えれば、すでに蓄積が進行しているさいに蓄積率が上昇する場合にも妥当するのであって、マルクスは3および4での分析によって、蓄積率が変動する場合一般についても示唆を与えているのである。〉(下172頁)

 しかしこれはまったく問題を読み誤っているとしか言いようがない。マルクスの意図は単純再生産と比べながら、拡大再生産の特徴、すなわちその概念を明らかにすることなのである。あるいはむしろ大谷氏が述べていることとはまったく逆に、単純再生産から拡大再生産には「移行」できないこと、「移行」しようとするなら、不合理や矛盾に陥ることを明らかにして、両者には質的な相違・飛躍があることを示すことなのである。
 すでに紹介したように、マルクスは1で最初に「蓄積」の直接的な規定として《現実の蓄積とは拡大された規模での再生産である》(強調引用者)との規定を与えた。しかし拡大再生産の概念は、決して量的な(規模の)問題ではなく、その前にまずは質的な問題として捉える必要があるということを示そうというのが、1~5全体を貫くマルクスのメインテーマなのである(だからこうした視点の強調は5と番号を打ったところまで--但しこの5に該当する部分は、草稿の最後まで続いているという大谷氏らの理解とは異なり、草稿の61頁にある区切りの横線までである--一貫している)。そしてそのために、マルクスは規模としては単純再生産と同じかあるいはそれよりも小さいケースをわざわざ選んで、しかしこうしたケースでも蓄積が可能であること、だから蓄積は単に量的に拡大することあるいは量的拡大を前提するものではないこと重要なのは単純再生産と拡大再生産とには質的な相違があり、前者から後者への「移行」には質的飛躍が必要であること、だから拡大再生産のためには単純再生産とは質的に異なる機能配置が必要であり、それを前提しなければならないこと、を明らかにしているのである(そしてそれが最終的には拡大再生産の機能配置にもとづく表式--a表式--の提示に帰結している)。そしてこうした考察の過程そのものが、まさに拡大再生産とは何か、その概念を明らかにすることでもあったのである。その詳しい検証はこの「マルクス研究会通信」における段落ごとの解読を見て頂きたい。そこでは大谷氏らが主張する、いわゆる「移行」論の間違いもとことん批判したつもりである。

 (この項目は、次回に続きます。)

2009年7月15日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その31)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●1で論じていることは、現実の拡大再生産の直接的な規定である

 ここからは〈第八稿の拡大再生産論展開の道筋とポイント〉について、大谷氏の理解するところが紹介されている。すなわち〈マルクスがここでなにをしようとしたのか、なにをつかんだのか、なにを明らかにしたのか、を述べる〉(下170頁)のだという。

 まず大谷氏はマルクス自身が1~4の番号を打っている部分について、それぞれでマルクスは何を問題にしているのかについて論じている。最初は1の部分である。

 〈ここでは、拡大再生産がまだ始まっていないところで、それが始まるために存在すべき前提はなにか、を論じているのだ、ということである。言い換えればここで、単純再生産のもとで、どのようにして、この二つの前提条件が先行的につくりだされうるのか、という問題が立てられたのである。〉(下171頁)

 これをみると、大谷氏によれば、マルクスはまず単純再生産を前提し、その上で、そこから拡大再生産を開始するための、それを始めるために存在すべき前提を論じているというのである。
 しかし私の理解するところによれば、マルクスはまず拡大再生産そのものを前提し、その上で、まず蓄積のもっとも直接的な規定をあたえるところからはじめていると理解している。実際、マルクスは1を次のようにはじめている。

 《1)第1部では,蓄積が個々の資本家については次のように現われる[sich darstellen]こと,すなわち,彼の商品資本を.貨幣化するさいに彼はこの商品資本のうち剰余価値を表示する(つまり剰余生産物によって担われている)部分をそれによって貨幣に転化させるが,それを彼はふたたび彼の生産資本の現物諸要素に再転化させるというように現われること,つまり,実際には現実の蓄積とは拡大された〔vergrössert〕規摸での再生産であることを明らかにした。しかし個別資本の場合に現われる〔erscheiaen〕ことは年間再生産でも現われざるをえない》(大谷訳上32頁、下線はマルクスによる強調)。

 つまり、まずマルクスは蓄積は第1部、つまり「資本の生産過程」では、個々の資本家について《次のように現われる》と述べている。それは剰余価値を貨幣化したものを再び生産資本の現物諸要素に再転化させるというように《現われる》と。そしてだから《実際には現実の蓄積とは拡大された〔vergrössert〕規摸での再生産である》と述べている。だからマルクスはあくまでも《現実の蓄積》を問題にし、そこから出発しているのであり、これがマルクスの与えた蓄積のもっとも直接的な規定なのである。そしてその上で、マルクスは《個別資本の場合に現われることは年間再生産でも現われざるをえない》と結論している。だからこの直接的な蓄積の規定は、年間再生産における蓄積の規定でもあるわけである。だからここでわれわれは社会的総資本の再生産における蓄積(拡大再生産)のもっとも直接的な規定--現実の蓄積とは拡大された〔vergrössert〕規摸での再生産である--が与えられていることを知るのである。後にわれわれは「蓄積の概念」で重要なのは、単に「規模」、すなわち「量」の拡大ではなく、「質」的な相違であることを知るのだが、しかし「蓄積または拡大再生産」のもっとも表面的な、だからまたわれわれの表象に直接《現われる》--この《現われる》という文言こそ、この規定の直接性を示している--ものは、拡大された規模で再生産が行なわれているという事態なのである。これは誰が見ても了解できるありふれた事実でもある。マルクスの考察はまさにこうしたありきたりの事実から開始されているのである。
 だからマルクスは決して蓄積を、すなわち〈拡大再生産がはじまっていないところで、それが始まるために存在すべき前提はなにか、を論じているの〉ではない。すでに〈はじまってい〉《現実の蓄積》を前提して、そのうえで問題を論じていることは明らかなのである。つまり現実の蓄積を前提し、それを観察しながら、蓄積が行なわれるためには何が前提されるのかを、これからマルクスは分析していくのである。現実の年間再生産における蓄積を前提し、その観察と分析を通じて、現実の蓄積には何が前提されるのかを考察していこうとしているのである。だから大谷氏の捉え方はまったくマルクスの方法とは逆としかいいようがない。

 マルクスは決して、単純再生産を前提してその考察を行なっているなどということはいえない。例えば1の中の次の第2パラグラフを見ても分かる。

 《ある個別資本が500で,年間剰余価値が100(つまり商品生産物は400c+100v+100m)だとすれば,600が貨幣に転化され,そのうちの400cはふたたび前貸不変資本の現物形態に,100vは労働力に転換され,そして--蓄積の場合には(蓄積だけが行なわれるものとすれば),それに加えて,100mが商品形態から貨幣形態に転換された《のちに》,さらに生産資本の現物諸要素への転換によって追加不変資本に転化させられる。そのさい次のことが前提されている。第1に,年間に100mが次々に貨幣として積み立てられるが,機能している不変資本の拡張のためであろうと,新たな産業的事業の創設のためであろうと,この額で十分である(技術的諸条件に対応している)ということである。しかしこの過程が行なわれうるようになるまでには,つまり現実の蓄積--拡大された規模での生産--が始められうるようになるまでには,もっとずっと長いあいだにわたる剰余価値の貨幣への転化と貨幣での積立てとが必要だということもありうる。2)拡大された規模での生産が事実上すでにあらかじめ始められているということが前提されている。というのは,貨幣(貨幣で積み立てられた剰余価値)を生産資本の諸要素に再転化させるためには,これらの要素が商品として市場で買えるものとなっていることが前提されているからである。》(同上32-33頁、下線はマルクス)

 ここでもまだ個別資本のケースを考察しているが、もちろん、マルクスはすでに見たように、個別資本で生じたことは《年間再生産でも現われざるをえない》ことを確認した上で、こうした考察をしているのである。マルクスは明確に蓄積だけが行なわれるものとすれば》と述べている。つまり剰余価値のすべてを蓄積に回すとすれば、と仮定しているのである。しかもその条件を考察して、《2)拡大された規模での生産が事実上すでにあらかじめ始められているということが前提されている》とも述べている。つまり蓄積(拡大再生産)とは何か、その概念を明らかにするためには、すでに現実に蓄積(拡大再生産)が行なわれていることを前提しなければならない、と明確に述べているのである。これを読んで、マルクスは単純再生産を前提して、その上で拡大再生産のための前提を分析しているなどとどうして理解できるのであろうか。それはただ何らかの偏見や思い込みをもってマルクスの文章を読んだとしか言いようがない。以上が1の内容である。

 因みに、私自身は、マルクスが1と番号を打った部分で何を論じているについて、次のように考えている。その内容を表題として表してみよう。

 1 個別資本の蓄積で現われたことは、年間再生産での蓄積でも現われざるをえない
  (1)蓄積(拡大再生産)の直接的表象、直接的規定
    《現実の蓄積とは拡大された規模での再生産である》
  (2)現実の蓄積(拡大再生産)の直接的反省関係
    《蓄積には蓄積が前提される》

 つまり1でマルクスが述べていることは、こうした二つの問題なのである。これは現実に蓄積が年々繰り返されている資本主義的生産の現象を前にして直接に得られるものである。年々蓄積が繰り返されている現実を見れば、まずそれは拡大された規模での生産を繰り返しているものとして、われわれには現われ、だからまた蓄積には蓄積が前提されるものとして現われてくるのである。これが1でマルクスが考察している内容なのである。つまり現実に行なわれている蓄積を前提し、そのうえでそれを観察し、そのもっとも直接的な、われわれの意識に現われる表象から得られる規定を与え、その上で、今度は、蓄積の直接的な反省規定を与えているのである。これはこれまでの『資本論』のあらゆる篇や章や節や等々の諸項目の冒頭で見られる敍述の共通した特徴でもあり、マルクスの唯物論的な方法にも合致するものなのである。

2009年7月14日 (火)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その30)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●5月号掲載分の論文の全体の見通し

 さて、いよいよここからは、5月号掲載分の検討である。以後、大谷氏の論文からの引用は、特に断りがない限りは、『経済』2009年5月号(No.164)からのもので、(下169頁)等と略して記すことにする。ここからは第8稿の最後の部分である「拡大再生産の分析」部分が考察対象になっている。この部分は、すでにこのブログで段落ごとに解読を試みた箇所であり、よって当然、以前の私の考察を踏まえた批判的検討を行なうことになり、以前の考察が再び取り上げられることにならざるをえない。だからどうしても重複は避けられないのであるが、今回の連載を読まれている方が、すべて以前の段落ごとの解読を読まれているとは限らないから、重複を恐れずに、論じていくことにしたい。とりあえず、読者の便宜のために、最初に大谷氏の論文のこの部分全体の見通しを紹介しておこう。まずこの部分は「6 第8稿における拡大再生産の分析の内容と特色」という大項目が立てられ、それが全体として次のような構成になっている。

〈 6 第8稿における拡大再生産の分析の内容と特色

(1) 第8稿の拡大再生産論展開の筋道とポイント
 【 1-4での問題提起ととりあえずの解答】
 【「5 第II部門での蓄積」での考察の歩み】
  [a「困難」の確認]
  [b 表式を利用した蓄積の進行過程の考察]
  [c 1回目の試み--「一つの新しい問題」と解決の挫折]
  [d 2回目の試み--追加労働者の賃金支出についての新たな想定。「資本主義的生産の進行とは矛盾している」→中断]
  [e 3回目および4回目の試み--「病状の重圧にたいするむりやりな挑戦」]
  [f 5回目の試み--  I (v + 1/2 m) >IIc]
  [g コメント--拡大再生産の展開についての総括]
  [h これまでの考察からの帰結]
  [i 「貨幣源泉」問題への最終的コメント]
(2) 第8稿における貨幣ベール観の最終的克服
 【再生産過程の分析におけるマルクスの苦闘の意味】
 【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】〉

 以上のような内容になっている。これらを一つ一つ批判的に検討していくことにしよう。

●「II 蓄積または拡大された規模での生産」の冒頭にある「先取り」を如何に理解すべきか

 大項目、「6 第8稿における拡大再生産の分析の内容と特色」の、いわば前文にあたる部分である。大谷氏はここで「蓄積または拡大された規模での生産」とマルクス自身によって表題がつけられた部分(エンゲルスが「第21章 蓄積と拡大再生産」と表題をつけた部分)で、表題の冒頭に《先取り。》と書いていることについての大谷氏の解釈が述べられている。
 その解釈は、要するにマルクスは単純再生産を敍述するさいに、ノートの46-47頁を飛ばして誤って紙を2枚めくったので、単純再生産の敍述を終えて、拡大再生産の敍述に移るときに、遡って、その空白になったノート部分(46頁~47頁)からその敍述を開始したので、それが分かるように表題の前に《先取り。》と書いたのだというものである。大谷氏はそれを次のように述べている。

 〈この飛ばされた46―47ページはノートの見開きの2ページだから、彼はたぶん、誤って紙を2枚めくってしまったのである。彼はおそらく、すぐにはこのことに気づかないまま書き続け、単純再生産の記述を50ページのなかばで終わらせた。そしてそのあと彼は、この飛ばされた46-47ページを「蓄積または拡大された規模での生産」の書き出しに使った。このことを分かるようにするために、46ページ冒頭の見出し「蓄積または拡大された規模での生産」のまえに「先取り」と書き(S. 790.14)、47ページの末尾には「この先は51ページ」、そしてその51ページの先頭には「47ページからの続き(47ページを見よ)」と書いた(S. 794.3)。だからここでの「先取り」という語は、さきの16ページに見られた、「あとに置くべきものの先取り」における「先取り」の場合とは違って、ノートページが前後していることを示すためのものでしかなく、叙述の内容についてのものではないと考えられるのである。〉(下170-1頁)

 つまり単純なミスからくるもので、〈敍述の内容についてのもの〉ではないというのである。しかし果たしてそうであろうか。そんな単純な理由なら、わざわざ表題の前に《先取り》と書く必要はなかったと考えられる。なぜなら、46頁の冒頭には《II 蓄積または拡大された規模での生産》という表題が書かれているのだから、そこからは45頁まで論じてきた単純再生産の敍述の続きではないことは一目瞭然であり、間違うことはないからである。そして45頁まで単純再生産の敍述を追ってきた場合も、その敍述が途中で切れており、46頁に続いていないこともまた一目瞭然だから、わざわざ《先取り》などと断る必要もないと思えるからである。しかし47頁末尾と48頁冒頭とは、ともに文章の途中で切れていると推測できるので、文章の続き具合が一見しただけは判然としない。だからマルクスは47頁の末尾に《この先は51ページ》と書き、また50頁と51頁とのつながりも、分かりにくいから、51頁の冒頭に《47頁からの続き(47頁を見よ)》と書いたと推測できるのである。
 つまりもう一度確認すると、46頁の冒頭には表題が書かれて、そこから別のテーマが開始されていることがハッキリしているのだから、それが45頁まで論じてきたものの続きでないことは歴然としているから、だからわざわざ《先取り》などと書く必要はまったくなかったということである。にも関わらず、マルクスが《先取り》と書いたのは、やはりわれわれとしては、単純再生産の敍述を開始する時に、彼がそれ以後の敍述が《後におくべきものの先取り》であるとの断りを書いたのと同じ含意のもとに、今回も、これから述べる《蓄積または拡大された規模での生産》は、本来はもっと後で展開すべきものの《先取り》であると断るために書いたとしか考えられないのである。
 そして、マルクスにとって、なぜこれが《先取り》であるかは明らかである。マルクスは、《利用すべき諸箇所》で、《ノートII》(第2稿)のところに《この第2の敍述が基礎におかれなければならない》と書きつけたことからも明らかなように、彼が第2稿を書き終えて、もう一度、第2部全体の構成を考えて、第2稿の表紙に書いた目次(全体のプラン)では「B 拡大された規模での再生産。蓄積」「a)貨幣流通のない敍述」「b)媒介する貨幣流通のある敍述」に分けられる予定であったからである(八柳前掲論文参照)。だからこれから敍述する「蓄積または拡大された規模での生産」は、本来はa)のあとに展開されるべきb)を《先取り》して、最初から貨幣流通による媒介を入れた考察を行うとの考えであったからに他ならない。つまりマルクスは、第2稿で考えていたいわゆる「二段階の構成の敍述のプラン」を、第8稿の段階でもまったく放棄などしていなかったことを、むしろこの《先取り》という断り書きは(そして先の単純再生産の敍述が始まるところに書いた《後におくべきものの先取り》という断り書きとともに)、明らかに証明しているのである。

2009年7月13日 (月)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その29)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回七度び中断した●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての最後の部分である【追記】から始まります。)

【追記】

 この[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての項目の考察において、私は大谷氏らの主張の批判として、彼らの「流通手段の前貸」というタームに、「追加貨幣」というタームを対置し、このタームの独自性を理解することこそが重要だと指摘してきた。ところが、この項目をすべてアップした後に、この「追加貨幣」というタームそのものはエンゲルスの創作であり、マルクス自身は(草稿では)使っていないことを知った。マルクス自身はただ「貨幣」としているだけである。これは不勉強の至りであるが、しかし、いまさらすべてを書き直すわけにも行かないので、このままアップしておくことにする。そしてこれまでこの項目をお読み頂いた読者なら、「追加貨幣」がエンゲルスの創作であり、マルクス自身はただ単に「貨幣」と書いているだけだということを知ったとしても、別段驚かれることはないだろうと思うのである。というのは、これまでの私の一連の考察の結論は、このエンゲルスが「追加貨幣」と述べているものは、実は、一国の流通貨幣そのものであること、しかもそれは貨幣とはそもそも何かを明らかにするような根源的な内容を明らかにするものですらあることを知っているからである。だからマルクス自身は、「追加貨幣」ではなく、ただ単に「貨幣」と述べていると知っても、なるほど「追加貨幣」の何たるかを知っている今では、それはむしろ納得できると了承されるだろうからである。だから私はこの項目をそのまま掲示しておくことにした。もちろん、「追加貨幣」がエンゲルスの創作だということを前もって知っていたなら、全体の展開はまた違ったものになったかも知れないが、しかし結論は変わらないし、論じている内容は本質的には何ら間違ったことを言っているとは思わないからである。しかし、「追加貨幣」がエンゲルスの創作だったという、ある意味では根本的なことを知らなかったのは、私の不勉強の至りであり、その点はお詫びしたい。

 なおこれはついでに述べておくのであるが、マルクス自身が同じ第2部第20章第5節「貨幣流通による諸変換の媒介」において「流通手段を前貸しする」と述べている部分(全集版517頁)、この大谷氏らの主張を裏付けるものであるかのように思われる部分、の原文は以下のようになっている。

 Er shieβt sich selbst(ob aus eignr oder per Kredit aus fremder Tasche,ist hier ganz gleichgültiger Umstand)Geld auf erst zu ergattenden Mehrwest vor ;damit aber auch zirkulierendes Medium zur Realisation später zu realisierenden Mehrwert.

 つまり全集版で「流通手段」と訳されているのは「zirkulierendes Medium」である。しかし一般にいう「流通手段」というのは(例えば第1部第1篇第3章に出てくる)、「Zirkulationsmittel」である。だから全集版のように流通手段を前貸する」と訳すより、新日本新書版のように流通媒介物をも前貸する」と訳す方が適切であるように思える。

 以上、えらくながながと論じてきたが、この項目の検討は終えることとする。

●[e 社会的総再生産過程における金生産の分析]も今一つハッキリしない

 これもこれまで考察してきたと同じように、項目【二重の叙述方法の放棄と貨幣運動の全面的な組み入れ】に関連して、特に〈ここでの、社会的総再生産過程における貨幣の運動ないし役割についての分析では、とくに次の諸点が重要である〉(中131-132頁)として、a~eの項目を立てた、最後の問題なのである。

 そこでは大谷氏は、マルクスは〈第八稿で、貨幣材料となる金の社会的再生産を分析した〉(中134頁)ことを指摘しながら、貨幣材料としての金の生産は資本主義的生産の社会にとっては流通費にあたり、商品生産一般の空費であること、それは資本家たちが彼らの剰余価値の一部をたえず貨幣に転化して、それを流通界に拠出するという仕方で、負担しなければならないこと、そうした問題を、〈マルクスはここではじめて、金生産部門とその他の生産諸部門とのあいだの転換運動を分析した〉(中135頁)と指摘したあと、最後に次のように述べている。

 〈そのさい彼は、金生産をいわば「流通機械」としての貨幣の原料を生産する生産部門として第 I 部門に含めたために、一方では、補填関係の説明に舌足らずの部分を残したけれども、他方では、そうすることによって、生産手段生産部門における拡大再生産のための潜在的な追加貨幣資本の本源的な源泉を確定することができたのであった。〉(中135頁)

 金生産部門を第 I 部門に含めたことについて、大谷氏の評価はあいまいなように思える。それは一方では、〈補填関係の説明に舌足らずの部分を残した〉という。確かに現行の「第12節 貨幣材料の再生産」では、部門 I に属するとされた金生産部門を I (20c+5v+5m)として、そのうちの5vだけが、如何にして部門IIcの一部と転換するかを論じているだけである。マルクスはまずIIcと転換したあと、それは部門IIの内部でさらに転換されてIImの一部と転換されて、それは最終的には蓄蔵貨幣になるとしている。確かに金生産部門の I vの転換だけを論じているという点では〈舌足らず〉と言えるが、それは結局は、部門IIの剰余価値の負担になることは指摘しており、その限りでは正しい結論になっている。つまり金生産部門の I (5v+5m)はIImに帰着しなければならないこと、また I (20c)は、だから部門 Imに帰着することを示唆しているのである。大谷氏の指摘はこうしたことだと理解する。しかしこれが果たして金生産部門を部門 I に含めたが故にそうなった、つまり最後までcやmの転換まで論じずに終わったのだ、と言えるのかどうかが問題であろう。

 金生産部門を部門 I に含めると言っても実際上は、マルクスはそれを別個に I (20c+5v+5m)として考察しており、その限りでは同じことなのである。マルクスを批判する人たちは、金生産部門を部門 I にも部門IIにも属さない、部門IIIにすべきであるとか、あるいは部門IIの亜部門にすべきだとか色々と主張されているが、要するに金生産部門をそれ自体として区別して論じるということでは、結局は、同じことになるのであり、貨幣材料としての金生部門の産物全体が社会的には追加補充される貨幣であり、よって他の生産諸部門の剰余価値から負担されて(単純再生産なら他の諸生産部門の資本家の消費の一部がそれだけ削られることになる)、一旦は蓄蔵されること、だから金生産部門の不変資本を補填するのは第 I 部門の剰余価値であり、金生産部門の可変資本と剰余価値を補填するのは第II部門の剰余価値であることは明らかなのである。それさえハッキリしていれば、それを部門 I に入れようが部門IIに入れようが、あるいは部門IIIにしようが、同じことであり、要するに金生産部門をそれ自体として取り出して考察する(マルクスがやっているように)ことが一番肝心なことなのである。

 もう一つ大谷氏は、金生産部門を部門 I に含めることによって、マルクスは〈生産手段生産部門における拡大再生産のための潜在的な追加貨幣資本の本源的な源泉を確定することができたのであった〉とも述べている。これがよく分からない。これは第21章該当部分における考察を述べているのであろうか。確かにそこでは、マルクスは金生産部門を蓄積のための貨幣蓄蔵の本源的源泉として述べているが、しかしそれは決して〈生産手段生産部門における拡大再生産のための潜在的な追加貨幣資本の本源的な源泉〉だけを論じているのでない。第II部門における本源的な貨幣源泉についても論じている(エンゲルスが「補遺」とした部分で)。こうした問題は別途、その部分で詳しく論じることになると思うので、ここでは深入りは避けるが、しかもそうしたことが金生産部門を部門 I に含めることによって可能になったかにも大谷氏はいうのであるが、果たしてそれは正しいのであろうか。
 マルクスはむしろ「第12節 貨幣材料の再生産」では次のように述べている。

 《ここで分かることは……単純再生産の場合にも、そこでは言葉の本来の意味での蓄積すなわち拡大された規模での再生産は排除されているとはいえ、貨幣の積み立てまたは貨幣蓄蔵は必然的に含まれているこということである。》(全集版583頁)

 マルクスは金生産部門からの本源的な蓄蔵貨幣の形成は、言葉の本当の意味での蓄積、すなわち拡大された規模での生産のために行う蓄蔵貨幣の形成とは異なることを明瞭に理解している。これは第21章該当部分の考察を踏まえれば、われわれにとっても、極めて明らかである。以前、すでに一部紹介したが、マルクスは《 I のA、A'、A"、等々の側での可能的な新追加貨幣資本の形成……は、生産手段( I )の追加的生産の単なる貨幣形態なのである》(大谷訳『経済志林』上57頁)と明確に述べていたからである。すなわち蓄積のために行なわれる潜勢的貨幣資本としての貨幣蓄蔵は、追加的生産手段(あるいは部門IIの場合は追加的生活手段)を貨幣化したものでなければならないのである(そうでないと現実に蓄積する資本家はその物的対象を市場に見いだせない)。だから金生産部門にもとづく蓄蔵貨幣を単純には拡大再生産のための貨幣蓄蔵と同列には論じられないのである。そこまで理解して問題を論じなければならないであろう。

2009年7月12日 (日)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その28)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回六度び中断した●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての続きです。)


【補論】

 大谷氏は次のように書いていた。

 〈ここで注意が必要なのは、G_Wがつねに、同時に流通手段の前貸であるわけではない、ということである。資本家が自己の商品資本の一部である商品の販売W_Gによって入手した貨幣で商品を買う購買G_Wは、流通手段の前貸にはならない。この貨幣のなかに含まれる彼の収入すなわち剰余価値の支出であるg_wもそうはならない。また、労働者の労働力の変態W(A)_G_Wでは、労働力の販売が必ず先行するのであって、労働者が流通手段を前貸することはありえない。〉(中133頁)

 それを私は、こうした主張は明らかにマルクスの貨幣論からすればおかしいと指摘した。なぜなら、「前貸」という表現はともかく〈資本家が自己の商品資本の一部である商品の販売W_Gによって入手した貨幣で商品を買う購買G_Wは、流通手段の前貸にはならない〉などというが、そのGは単純流通のレベルでみれば、明らかに単なる貨幣でしかなく、だからそれは流通手段という抽象的な機能を果たすであろう(もちろんこの場合の「流通手段」は支払手段も含めた広義の意味である)。だからまた〈労働者が流通手段を前貸することはありえない〉というのもおかしいのであって、労働者が賃金で生活手段を購入する場合は、彼が支払う貨幣は流通手段として機能するであろうからである、と。
 だから大谷氏らは、明らかに「流通手段」という語に、それが本来持っている意味以上の意味を付加していること、すわなち〈G_Wが同時に流通手段の前貸となるのは、W_G_Wの第二の変態G_Wが第一の変態W_Gよりも前に行なわれ、あとからW_Gによって補われる場合だけなのである〉(中133頁)と。つまり社会的総再生産過程において第二の変態が第一の変態より先に行なわれ、そのあと第一の変態が行なわれる場合の貨幣という独特の意味である。しかしそれはマルクスの貨幣論にはない「流通手段」の内容規定である、と批判したのであった。

 ところがこうした批判に対して、大谷氏の主張のポイントは、「前貸にはならない」というところにあるのであって、「流通手段にはならない」ということではないのだ、と大谷氏を擁護する人たちからの反論があった。その反論について少し考えてみたい。

 果たしてそういう反論者の理屈は成り立つのだろうか。もしそういう理屈を並べるのなら、〈資本家が自己の商品資本の一部である商品の販売W_Gによって入手した貨幣で商品を買う購買G_Wは、流通手段の前貸にはならない〉だけでなく、その場合は、「貨幣資本の前貸にもならない」といわなければならないであろう。なぜならそれは〈前貸にはならない〉というところにポイントがあるのだから、つまり「還流しない」ということなのだから。そのGがもし還流しないなら、当然、それが貨幣資本としても還流しないことになり、だから〈貨幣資本の前貸にもならない〉ことになるであろう。しかし大谷氏自身はもちろん、同氏を擁護する人たちもそれが〈貨幣資本の前貸〉であることは認めるのである。とするならそれはやはり〈流通手段の前貸でもある〉ということではないだろうか(もし彼らのように「流通手段」に独特の意味を付加しないならばであるが)。というのはそれを貨幣資本の前貸だということは、それがゆくゆくは再び貨幣資本として(もちろん一定の増殖をして)還流してくることを見越して手放すからであろう。しかしそうであるなら、その還流してきた貨幣資本は、やはり商品流通のレベルで見るなら、単なる貨幣として還流してくるのであり、その限りではそれは流通手段(広義の)としても還流してきたということでもあるだろうからである。貨幣資本としての手放しは、同時に単純流通のレベルでは単なる貨幣、だからまた流通手段としての手放しでもあることを認めるなら、貨幣資本としての還流は、同時に同じ単純流通レベルでは流通手段としての還流でもあることも認めなければならないわけである。だからどうしてこの場合だけ〈同時に流通手段の前貸であるわけではない〉などといえるのであろうか。それはやはり〈流通手段〉に独特の意味を加えているからそう言えるのではないのだろうか。もちろん、この場合、還流に一定の期間が必要だというなら、そうである。しかし還流にかかる期間の長短によって、それが「前貸」でないというのなら、そもそもそれは「貨幣資本の前貸」でもないといわなければ辻褄が合わないであろう。貨幣資本の場合は一定の期間を通じて還流してきても前貸といえるが、しかし流通手段として捉えるときには、そうはいえない、流通手段の場合には、すぐに還流して来ないと「前貸」とは言わないのだというのは理屈には合わないのである。

 確かに大谷氏が指摘するケースは、W-Gを見越して、G-Wをするケースであり、すぐに自分が手放したGは、W-Gで帰ってくると想定したGの手放しである。だからそれは「前貸なのだ」というのであろう。しかしそうであるなら、例えば労働者がGーWで貨幣を支出したからといって、彼は自分の労働力をすぐに販売して、すなわちW-Gを見越して、G-Wをして悪いこともないわけである。そればかりか大谷氏が強調するように、労働力の価値への支払は常に後払いである。例えば週給なら、労働者は一週間働いたその末にやっとその一週間分の賃金を支払って貰えるわけである。しかしその一週間を労働者は何も食べずに働くわけには行かない。だから労働者がその一週間分の生活費に支出する貨幣は、まさに週の末に得られる賃金を見越して支払うのではないのか。とするなら、大谷氏の理屈からすれば、労働者こそ「流通手段の前貸」をしているということにはならないか。もし大谷氏らの主張のポイントが「前貸になるかどうか」にあるという反論者の主張の前提に立つなら、労働者こそが、まず流通手段を前貸して、そのあと自分の労働力への支払を受けてその還流を得るのではないだろうか。だから労働者の場合だけなぜそれがありえないのか、皆目分からないことになってしまう。

 もっとも、単なる商品流通のレベルで見るなら、貨幣資本の前貸、すなわち貨幣資本の商品資本への転換も、単なる貨幣による単なる商品の購買である。だからこの単なる貨幣による単なる商品の購買を、「流通手段の前貸」などとはいえないというなら、それはその通りであり、正しい。単純な商品流通では、貨幣はそれを手放した人からどんどん遠ざかるだけであるとマルクスも指摘している。だから単純流通のレベルでみるなら、貨幣の手放しを「前貸」と表現することは正しくないのだ、というのなら、私もそれに異論はない。しかしそれならそれはすべての資本家による貨幣の手放しについていえるのであって、ある特別な場合だけに限定する必要性もないわけである。

 結局、私にはやはり大谷氏らは「流通手段」というタームに独特の意味を持たせているように思えるのである。そしてそれは明らかにマルクスの貨幣論から逸脱しているのである。大谷氏らは「流通手段」というタームに、社会的な総商品資本の転換を媒介するために、最初に流通に投じられる貨幣という意味を込めて「流通手段の前貸」と称しているのである。だからこの場合の「流通手段」は、マルクスがその貨幣論で述べている狭い意味での流通手段(鋳貨としての流通手段)でもないし、広い意味での流通手段(通貨としての流通手段、すなわち狭義の流通手段と支払手段)でもないのである。それは大谷氏らが勝手に作り上げた独特の意味・内容を付加された「流通手段」なのである。こうした「流通手段」がマルクスの貨幣論からの逸脱であるというのは、マルクス自身はそういう意味での「流通手段の前貸」などいう問題をまったく論じていないからである。
 ではマルクスはそうした場合の貨幣について、どのような言葉を使っているのであろうか。先に紹介した第2部第20章第5節「貨幣流通による諸変換の媒介」ではマルクスは次のように論じていた。

 《この貨幣は、予想収入すなわちこれから売られる商品に含まれている剰余価値からの予想収入を表わしている。……この貨幣は追加されたもので、--われわれの知る限りでは--、売れた商品の代金ではなかったからである。この貨幣が I に還流しても、これによって I は自分の追加貨幣を回収しただけで、 I の剰余価値を貨幣化したのではない。》(全集版邦訳515頁)

 つまりマルクス自身は、《追加貨幣》というタームを使っているのである。それはなぜ「追加」貨幣というかというと、社会的総資本の流通を貨幣流通による媒介を顧慮して考察する場合に、資本家は彼らの商品資本とは別個にその貨幣を持っていて、ただ彼らの商品資本の転換を媒介するために最初に流通過程に投じるものとして現われてくるからである。だからその貨幣は社会の総商品資本の構成部分をなしていないのであって、それとは別に追加的に投じられるものだから、マルクスは《追加貨幣》という厳密な規定を与えているのである。それを大谷氏らは〈流通手段の前貸〉という独特な規定に変えているわけである。だから彼らのいう「流通手段」はその限りでは、明らかにマルクスの貨幣論にはないタームなのである。われわれが知っている流通手段は、第1部第3章で展開されている貨幣の抽象的な諸機能の一つであるが、大谷氏らがいう「流通手段の前貸」は、第2部第3篇の社会的総資本の流通というより具体的な資本の流通過程で初めて現われるものであり、貨幣資本の還流形態とは異なる独特な還流形態によって規定されていることから考えても(もっともそうした区別の無意味さはすでに指摘したが)、それはマルクスの貨幣論にはない規定であることが分かるのである。

 (あと「追記」を残すのみとなりましたが、残念ながら、字数オーバーです。残された「追記」は次回に回します。)

2009年7月11日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その27)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回五度び中断した●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての続きです。)


 ところで貨幣というのは、この社会的な物質代謝を媒介するには必要不可欠なものではあるが、しかし社会的物質代謝の構成部分そのものではないのである。マルクスは第8稿の第21章該当箇所で「貨幣は何も生み出さない」と何度も強調しているが、貨幣自体は社会の物質代謝を支えているものでは決してないのである。だからこそ、われわれが社会の物質代謝を社会的総資本の流通過程として考察する場合に、貨幣はその社会的総資本の外部から、それらを媒介するものとして、よって追加的に投じられるものとして、登場する必要があったのである。追加貨幣のある種の奇妙な性質はまさに貨幣のこうした本質から来るものだったのである。それが一定の不合理性をもつなら、まさにそうした貨幣の、物質代謝には何らの寄与もしないのに、この社会では必要不可欠な存在でもあるという不合理性そものから来るものだったといえるであろう。つまり個別資本の循環や回転を考察していたときには、貨幣(資本)は資本の循環や回転の必要不可欠の契機であり、資本がとる諸形態の一つの形態であるのに、社会的総資本の転換を考察するとたちまちその不可欠の契機としての特性が消え失せてしまうのである。だからこうした追加貨幣の本質は、個別資本の循環や回転を考察している段階では、いまだ明確ではなかったのである。しかし、社会的総再生産過程の考察になると、その本質、社会的物質代謝における“余計者”としての存在は際立って現われてくるというわけなのである。それがすなわち「追加貨幣」の奇妙な特性なのである。
 だからこの追加貨幣を、ただ「流通手段の前貸」などと説明したのでは、そうした追加貨幣の本質について理解が深められることは期待できないのである。

 さらに、やや本筋からずれて“道草”をすることになるが、われわれは、これまで考察した「追加貨幣」に関連して、“貨幣とはそもそも何か”という問題を考えてみることにしよう。

 流通する貨幣量は--実は、これは別に流通するものに限らず、一国にある貨幣量全体についても言いうるのだが--、社会的総生産物の価値の構成要素をなしていないという先のマルクスの言明は、貨幣の本質について、極めて重要ことを示唆している。もちろん、年々新しく生み出される金生産物は、その限りでは社会的総生産物の価値の構成要素をなしているのであるが、われわれはこれをとりあえずは除外しておく。この社会的生産物のうち年価値生産物の全体〔これはおなじみの単純再生産の表式であらわすと、 I (1000v+1000m)+II(500v+500m)=3000である〕は、毎年毎年生産されると同時にそれは消費されてしまうものなのである(もちろん、ここではとりあえず新価値生産物のうちの固定資本も捨象しておこう。固定資本はただ年々消費されるのではなく、一定の長い期間を通じて消費される点が異なるだけで消費されるという点では基本的には変わらないのである)。つまりそれらは生まれると同時に無くなってしまうものである(形成された商品価値は交換を通じて消費者に譲渡され、その使用価値の実現ととにもに価値も無くなる。もちろん、新価値生産物のうち生産手段の価値は部門IIで生産的消費の過程で生産物に移転するが、しかしその移転分も年度を越えて、最終的には個人的に消費されるとともに無くなる)。ところが一国の貨幣というのは、常に流通過程にあるか、あるいは蓄蔵されており、昔から、それが磨滅して(金貨の場合)消滅する部分を除けば、社会のなかに存在し続けてきたものだということである。つまり年々生産される商品価値は新しい価値であり、すぐにあるはいつかは無くなってしまうものであるが、貨幣(流通貨幣も蓄蔵貨幣も)は古い価値のまま社会にあり続けているものなのである。これは当たり前のことではないかというかも知れないが、貨幣とはそもそも何かを理解する上でこれは重要な視点であることは強調しておきたい。
 それを理解するために一つの思考実験をすることにする。今、貴方が100万円の価値のある商品を生産してそれを誰かに販売して、100万円という貨幣を手に入れたとしよう。貴方は自分が生産した価値を今は100万円の貨幣という形態で手にもっていると考えている。しかし問題を社会な再生産の観点から考えてみると、奇妙なことに気付く。今、この時点で、商品を生産したのは貴方一人だけだったと仮定しよう。とすると、貴方が生産した商品価値100万円だけ社会は新しい価値を生み出したのである。社会は新価値100万円を生み出した。ところが貴方がそれを他の誰かに販売し、その他の誰かがそれを個人的に消費したとすると、社会全体でみると、貴方の生産した価値100万円はなくなってしまうわけである。ところが貴方はまだ手許に100万円の貨幣を持っている。貴方は自分が生産した価値100万円をまだしっかり手許に確保していると確信しているのだが、しかし、社会的にみると、そうではなく、貴方がこの世に生み出した価値100万円はすでにゼロになっているのである。では、貴方がしっかり握って離さない自分が生み出した価値だと思い込んでいる100万円の貨幣は一体何であろうか? 実は、それはこの世に昔からずっとあり続けて多くの人たちの手垢で汚れた価値であって、それがたまたま貴方のところに今は来ているだけなのである。その価値はアチコチ場所を変えて移動し、あるときは一カ所に長くとどまったりしているが、しかしその価値は昔から徐々に積み重ねられてきたものであり、一部は徐々に磨滅して消滅しているが、しかし社会はその消滅した分は絶えず新たに生み出して補充し、また社会が必要とするその量が増大するのに応じてまた追加補充しているような性格の価値なのである。その一部がたまたま今は貴方の手のなかに一時的にあるだけなのである。誰もそれを手にしたからといって、それを何か自分の生活に役立たせられるような代物ではなく、せいぜい、金庫のなかに積んでおくぐらいしか出来ないまったく役立たずな代物なのだが、しかしこの社会ではそれをありがたがる人が多いのもまた事実である。
 貴方は自分が生み出した100万円の価値をまだ自分でしっかり持っていると思っているが、しかし実は、貴方の生み出した100万円の価値はすでにこの世からなくなってしまい、ゼロになっているのである。だから、貴方が、そのように思っているのは、単なる錯覚でしかないわけである。では、貴方が握っている確かな100万円という貨幣は何を表しているのであろうか? それが問題なのである。それこそ貨幣とは何かを物語っているものなのである。
 貴方が握っている100万円の貨幣は、貴方以外の誰かが新たに生産した100万円の価値ある貴方が必要とする使用価値を、貴方が優先的に手に入れ、それを消費する権利を表しているのである。それは社会を構成する人々がとにかくその行為によって互いに認め合ってきたことである。だからもし貴方以外に誰も新しい価値を生産しないなら、貴方はただババ抜きゲームで最後にババを抜いた人となり、せっかく、貴方は社会に一定の有用なものを与えたのに、社会から何の有用な効果をもつものも得られないということになってしまうであろう。
 つまり貨幣というのは、将来の生産に対する請求権を表しているのである。だからこうした貨幣の性格から考えるなら、それは金というそれ自体に価値をもつものに限る必要性もないわけである。それは金以外のものによっても代理することが出来る。社会のすべての人々がそれを認め合うなら、それは紙切れでもよいし、単なる電磁的な信号でもよいわけである。もちろん、それが金貨幣ならある意味絶対的な権利を表しているが、しかしそれに類似するものなら、それをある程度の不確かさで表していると言えるであろう。つまり貴方は100万円の価値ある商品を社会に与え、それを証明するものとして100万円の価値ある金を持っているとしよう。その場合は、次に貴方の番になると確実に100万円の価値ある使用価値を得ることが可能である。しかしそれか紙切れで代表されていると、その紙切れは実は貴方が持っているあいだに、100万円ではなく、80万円の価値しか代表していないようになる可能性もあるのである。あるいはその紙切れが、単なる信用にもとづくものなら、その信用が破綻するとただの紙屑になってしまう可能性もある。そうした不確かなものである。これが貨幣を社会の総再生産の観点から考察したもう一つの本質なのである。

 (さらにこの項目は、次回に続きます。)

2009年7月10日 (金)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その26)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回四度び中断した●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての続きです。)


 こうしたこの追加貨幣の意味するものを理解すると、先に、マルクスが第2稿で次のように述べていた意味が明確になっていくるのである。

 《最後に、問題をもっとも単純な諸条件に還元するために、貨幣流通を、したがってまた資本の貨幣形態をまったく捨象しなければならない。流通する貨幣量は、明らかに、それを流通させる社会的総生産物の価値の構成要素をなすものではない。したがって、総生産物の価値がいかにして不変価値等々に配分されるのかということが問題であるならば、この問いそれ自体は、貨幣流通とは無関係である。問題が貨幣流通を顧慮することなく扱われた後に、はじめて貨幣流通に媒介されたものである現象がいかに現われるかを理解することが出来る》(前掲早坂論文『経済』09年2月号155頁、新日本新書版第7分冊628頁、上製版2巻632頁も参照)。

 この引用文でマルクスは《流通する貨幣量は、明らかに、それを流通させる社会的総生産物の価値の構成要素をなすものではない》と述べている。これは総商品資本の転換を媒介する貨幣の奇妙な性格について検討してきたわれわれならば、この一文でマルクスが何を言おうしているのかは明瞭に理解できるであろう。そしてこの貨幣がそうしたものであるからこそ、社会的総資本の価値と素材における補填関係だけを考察する場合には、それを考慮する必要がないこと(なぜなら、そもそもその貨幣は社会的総資本の一部を構成しないのだから)、それを捨象して考察する必要があること、少なくともそうした考察の重要な意義が、分かろうというものである。

 大谷氏らは、この貨幣の奇妙な特性に注目して、これを「貨幣資本の前貸」と区別して、「流通手段の前貸」だと称しているのである。しかし何度も繰り返すことになるが、例え資本家が最初に投じる追加貨幣であっても、彼が生産に必要な諸手段(生産手段と労働力)を購入するために投じるのなら、それは彼にとっては貨幣資本の前貸以外の何ものでもないのである。ただその貨幣は再生産表式の考察では、必ずそれを手放した資本家の手許に直ちに還流するものとして現われるので、その奇妙な還流形態に着目して、それがその貨幣に特有の還流形態を示すものと考え、それがマルクスが第3部第33章で述べている《流通手段の支出と資本の貸出との区別は、現実の再生産過程ではもっともよく現われている》(全集25b680頁)と述べている、その区別を意味するのではないかと考えたのが、久留間健氏なのである。しかしマルクスが第33章で述べているものは、そうしたものではなく、貨幣市場商品市場との区別が理解できず、絶えず資本(貨幣資本、ただしmoneyed Capital)と通貨(流通手段)とを混同して混乱している銀行学派を批判するために論じているものなのである。

 少し私自身のこの間の、それこそ“苦闘”の一端を紹介させて頂きたい。正直にいうと、この「追加貨幣」とは何か、という問題は私にとっても長く悩ましい問題の一つであった。当初はその「追加貨幣」という独特のタームにも私も特に注意を払っていたわけではない。
 なぜこのような「不合理な」(としか私には思えなかった)貨幣が登場するのか、それが、私にとってはなかなか解けない謎だったのである。こうした貨幣は第1篇の「資本の循環」や第2篇の「資本の回転」を考えている限りは、不合理な存在以外の何ものでもなかったからである。例えばG-W…P…W'-G'の貨幣資本の循環を考えた場合、最後の流通過程である、W'-G'の過程をこれから辿ろうとする資本家が、W'、つまり生産過程の結果である商品資本とともに、同時に同額のG(貨幣資本)を持っているなどという想定は不合理以外の何ものでもないように思えるからである。もちろんこの場合、条件のとり方によっては、必ずしも「同額」でなければならないわけではないが、しかし例え同額でなかったにしても彼の商品資本とは別個にただ彼らの商品資本を流通させるためだけに、彼らの商品資本とは別個に貨幣を所持し、それを流通に投じなければならないという想定そのものは、個別資本の循環を考える限り、不合理以外のなにものでも無かった。なぜなら、そんな貨幣を持っているのなら、どうして最初のG-Wの貨幣資本の前貸のときにその貨幣資本も一緒に投じなかったのか、と思うからである。なぜわざわざ、自分の商品資本の流通のためだけに、そうした彼らにとっては遊休しているに過ぎない貨幣資本を持ち続けなければならないのか、これはあらゆる資本から最大限の利潤を得ようとする資本の本性から考えても、不合理以外の何ものでもないではないか。しかし「追加貨幣」というのは、まさにこうした貨幣なのである。
 当初の私の考えでは、これはマルクスが社会的な総商品資本の転換の考察において取っている、極端な仮定からくるものではないか、というものであった。社会的総資本の流通を商品資本の循環として考察する場合、社会のすべての資本は年一回転すると仮定される。しかもすべての資本が周期を同じくして年一回転すると仮定されるのである。例えば単純再生産の場合、出発表式として示されている総商品資本は、その年再生産の過程で生産された社会のすべての商品資本をその価値と素材とによって区別し配列したものなのである。そしてこの社会のすべての商品資本がまず最初に同時にW'-G'-Wの流通過程を辿り(但し流通期間は通常ゼロと仮定されている)、それぞれ社会の必要な諸部門にその流通過程を通じて配分され、そしてそれぞれの生産過程で生産的に消費され、あるいは労働者や資本家個人にも配分されて、やはりそれぞれの諸個人においても個人的に消費され、そうして社会の総再生産が行なわれる、よってまた同時に労働者や資本家個人も再生産される、だからまた資本-賃労働の社会的な関係も再生産される。すなわちW…P…W'の生産過程を経て、再び出発点の表式である総商品資本のW'に戻ってくると考えられている。つまり社会の総資本を構成するすべての個々の資本がその回転期間がすべて同じ1年で、しかもまったく同じ周期によって回転するといった極端な仮定だからこそ、この奇妙な貨幣が登場するのではないか、と考えたのである。
 というのは実際の社会的な総資本の流通を考えるなら、こうした追加的な貨幣は不要のように思えるからである。社会の総資本を構成する個々の資本はその回転期間も循環の周期も多種多様であろう。マルクスは第2篇の「資本の回転」では、資本の流通期間中は、資本の生産過程が休止せざるを得ないことから、それを避けるために、一つの資本をいくつかの構成部分に分けて、それぞれが異なる回転を行なうことによって、生産が継続して行なわれる諸条件を考察したりしている。だから社会的に考えるなら、一層、ある資本がその商品資本を実現しようとしているときには、他の資本はその貨幣資本を商品資本に転換しようとしていると考えることは十分根拠のあることであり、だからそこには「追加貨幣」というような不合理な貨幣が存在する余地はないように思えるからである。だからこうした貨幣はあくまでも社会的総資本の流通を再生産表式によって考察するために行なっている極端な仮定そのものからくるものであろうと考えたのである。そこでこうした不合理が生じない工夫はないかと色々と考えたりもしたのである。例えば、こうした追加貨幣を銀行が前貸すると仮定すれば、たちまちその不合理性がなくなることは明らかであった。そうすれば資本は自身の商品資本とは別個に、ただ彼らの商品資本を流通させるために貨幣を持たねばならないというような仮定は不要になるからである。しかし第2部第3篇では、当然、信用は捨象されており、銀行の介在を前提することは許されないのである。それなら在庫形成を導入すれば、こうした追加貨幣の不合理性は少なくとも在庫形成から不可避に生じる遊休貨幣資本として説明可能であり、その不合理性は除去できるのではないかとも考えたりしたのであるが、しかしそれも十分納得できる説明ができなかったのである。こうしてこのような追加貨幣の不合理性は単に極端な仮定からくるものではなく、むしろそれは社会的な物質代謝を商品流通によって行なっている資本主義的生産様式そのものに根ざす、だからまたその商品流通を媒介する貨幣そのものの本質に根ざすものであることにようやく気付いたのである。

 先にも紹介したが、マルクスは次のように述べている。

 《最後に、問題をもっとも単純な諸条件に還元するために、貨幣流通を、したがってまた資本の貨幣形態をまったく捨象しなければならない。流通する貨幣量は、明らかに、それを流通させる社会的総生産物の価値の構成要素をなすものではない。したがって、総生産物の価値がいかにして不変価値等々に配分されるのかということが問題であるならば、この問いそれ自体は、貨幣流通とは無関係である。問題が貨幣流通を顧慮することなく扱われた後に、はじめて貨幣流通に媒介されたものである現象がいかに現われるかを理解することが出来る》(前掲早坂論文『経済』09年2月号155頁、新日本新書版第7分冊628頁、上製版2巻632頁も参照)。

 以前にも指摘したが、《流通する貨幣量は、明らかに、それを流通させる社会的総生産物の価値の構成要素をなすものではない》というマルクスの指摘は重要である。われわれの生活する社会の物質代謝はどのようにして行なわれているのかを少し考えてみよう。単純再生産を想定すると、それは次のように行なわれている(単純再生産の表式を考えてみよう)。まずこの社会は1500の可変資本によって必要なものを生産している。1500の可変資本というのは、現物形態としては1500の価値ある労働力である。それが最終的には3000の価値ある消費手段を生産して、それを労働者と資本家がそれぞれ半分ずつを個人的に消費して社会の物質代謝を形成しているのである。しかしこの社会はこの3000の価値ある消費手段を生産するために6000の生産手段を必要としており、よってこの社会は6000の生産手段を使い、1500の労働力によって、3000の生活手段を生産して、その社会の物質代謝を支えているわけである。1500の労働力のうち1000の労働力は6000の生産手段をただ再生産するためだけに使われ、生活手段を直接生産しているのは500の労働力である。そしてこの社会が生み出している3000の価値ある消費手段というのは、1500の労働力が一年間に新たに生み出した価値そのものなのである。つまりこの社会はその一年間に新たに生み出した価値をその次の一年間にはすべて個人的に消費してしまうことによって、その物質代謝を行なっている社会なのである。

   (以下、この項目は、さらに次回に続きます)。

2009年7月 9日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その25)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回三度中断した●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての続きです。)


 一般に貨幣というのは、誰かが--それが例え資本家であろうと--、何らかの価値あるものを他者に販売して入手したものと想定されなくてはならない(もちろん、金生産者は別ではあるが)。ただし資本家が常にそうした形で貨幣を手にするかといえば必ずしもそうではなく、彼らは詐取することもあれば、強奪もするわけであるが、経済学的には、金生産者以外は、常に対価を与える代わりに得るものが貨幣なのである。ところが社会的総資本の流通を考察する場合には、こうした前提が崩れるのである。社会的総資本の流通を、われわれは総商品資本の循環として考察するのであるが、そこには資本の流通のみならず、個人的消費のための流通、すなわち一般的な商品流通も資本の流通と絡み合って登場する。つまり社会的総資本の流通の過程というのは、社会の総流通を対象としているのである。再生産表式(これは単純再生産でも拡大再生産でも同じである)の出発式で表されている社会の総商品資本というのは、これからそれらが流通して、それぞれ必要なところに配分され、且つ消費されて、社会の再生産が行なわれることを示している(このなかには労働力の再生産も資本家個人の再生産も、よってまた資本と賃労働の関係の再生産も含まれる)。再生産表式の出発式というのはその過程の出発点を示すものである。ところがこの出発式には貨幣は登場していない。しかし社会の総資本が総商品資本として示され、まず最初にW'-G'の過程を通過することが前提されている。しかしよくよく考えてみると、社会のすべての商品資本が貨幣資本に転換しようとしても、それは不可能事であることが分かる。なぜなら、すべての資本家が同時に彼らの商品資本を販売して貨幣資本に転換しようとしても、誰もそれを買う人がいないからである。なぜなら、W'-G'の過程は、同時にそれは反対側からみれば、G-Wの過程だからである。つまりある資本家がW'-G'の過程を行なうためには、あるいはそれが行なえるということは、別の資本家(あるいは個人)が同時にG-Wの過程を行なうからに他ならないのである。だからすべての資本家が同時にW'-G'の過程を行なうという仮定そのものは背理なのである。だから社会的総資本の流通を、総商品資本の循環として、貨幣流通の媒介を入れて考察する場合は、単純には考えることはできないことになる。今、社会的総資本の流通をもう一度、商品資本の循環で示してみると、次のようになる。

 W1'-G1'-W1…P1…W1'=W'2-G2'-W2…P2…W2' 
     ・ -------------・ (貨幣資本の循環サイクル)

 ここで1、2の番号は商品資本の循環の年度を表している。つまり第一年度の最後の商品資本は第二年度の出発式の商品資本になるわけである。われわれが再生産表式の出発式として考えているのは、この最初のW1'かW2'なのである。だからそれはW'-G'-Wの流通過程をこれから辿る社会の総商品資本を表しているのである。しかしすべての資本家が彼らの商品資本を同時に販売することは不可能である。だからそのうちの一部の資本家はW'-G'-Wの過程のうち、あとの方のG'-Wを先にやる必要があるのである。大谷氏が述べているのはこうしたことである。しかも彼らが最初に流通に投じるG'(このGに「'」がついているということは、単純再生産では資本家が彼らの個人的消費のためにも最初に流通に追加貨幣を投じることを表している)というのは少なくとも今考察しようとしている年度の総商品資本の転換において、何らかの商品価値が転化した貨幣ではないことになる。なぜなら、その社会のすべてのこれから貨幣に転換しなければならない商品資本のすべてが表式には表されているのだから、それを媒介するために登場する貨幣は、少なくともその表式で示されている総商品資本の例えその一部でも転化したものではないことになるからである。だから最初に流通に投じられる貨幣は、その表式に示されている総商品資本の実現した貨幣ではない。それは理由はともかく、とにかく資本家が商品資本とは別に手許に持っていて流通に投じたと仮定するしかないような貨幣なのである。
 いや、それならそれは、前年度の循環の終わりに商品資本が実現した貨幣だから、やはり何らの価値あるものを販売して入手したものだとの貨幣の最初の想定はその貨幣にも成立しているのではないのか、と思うかもしれない。しかしそうではないのである。なぜなら、前年度の流通を媒介する貨幣も、やはり今年度と同じ条件にあるのであり、それはやはり総商品資本とは別個に、いわばその外部から追加的に投じられたものだから、ただその追加貨幣が年度の最後に回収されただけに過ぎないのであり、だからそれは商品資本の貨幣化した貨幣とは言えず、ただ資本家がもともと商品資本とは別個に保持していた貨幣を回収しただけになるのである。
 だからこそこの貨幣は奇妙な存在としてわれわれの前に現われるのである。とにかくもう一度、単純再生産の表式を書いてみよう。

  I 4000c+1000v+1000m=6000
                                        計9000
 II 2000c+ 500v+ 500m=3000

 社会の総資本(総商品資本)は9000となっているが、この出発式に表されていないものが二つある(もちろん捨象されている固定資本は論外とする)。一つは労働力商品であり、もう一つは、これらのすべての商品(商品資本と労働力商品)の流通を媒介する貨幣が、すなわちそれなのである。だから社会のすべての総商品、あるいは総価値をいうなら、総商品資本9000+総労働力商品1500+流通に投じられる流通貨幣総額(これは額としては仮定のとりようによってさまざまである)となるのである。この流通貨幣総額というのは、一国に存在する貨幣総額(それは蓄蔵貨幣と流通貨幣の合計である)のうち、流通過程に留まっている貨幣の総額と考えることができる。単純な商品流通や個別資本の流通過程(循環や回転)では、われわれは常にそれは流通にあるものと仮定してきたのであるが、社会の総商品資本の流通を考察する場合には、それを誰かが流通に投じるものとして想定する以外に考えることはできないのである。そして誰が投じるかといえば、結局、それは資本家以外にはありえないわけである。労働者が彼らの労働力商品とは別個に貨幣を持って登場するという仮定は不可能だから(なぜなら労働者が貨幣を持っているのなら、労働力を売らずにその貨幣を使って必要なものを買うだろうから)、資本家がそれを投じるしかない。これがすなわち「社会の総資本の流通を媒介する貨幣」なのである。だからそれは何らかの商品の価値が実現したものとして登場するわけにはいかないのである。というのは、これからすべての商品(商品資本と労働力)の流通を媒介するものとして登場しているのだから、この貨幣がすでに別のある商品の実現形態として登場するわけにはいかないからである。だからこの貨幣は奇妙な性格を帯びざるをえないことになるのである。
 先に紹介した第5節の引用文で、マルクスがそうした500ポンドを回収しても、それは剰余価値を貨幣化したのではない、と述べていたのはこのことなのである。つまりその貨幣というのはもともとそうした何らかの価値の実現したものではないということなのである。それに対して、引用文の前半で、マルクスが I は彼の個人的消費のために追加的に流通に投じる貨幣で彼の剰余価値を貨幣化すると述べているのは、彼が追加的に投じる500ポンドで、とにかく彼の剰余価値1000ポンドとIIの不変資本1000IIcとの転換が行なわれるのであり、その限りでは彼の剰余価値1000ポンドは彼が流通に投じた500ポンドで貨幣化されたといえるのである。というのは彼は彼の剰余価値1000を彼自身の個人的消費手段に転換し、それを消費したのだから、IIの1000c(生活手段)を購入するのに支出した1000ポンドは明らかに彼の剰余価値の貨幣化したものであることは明らかだからである。それに対して、彼が最終的に回収した500ポンドが彼の剰余価値の貨幣化でないことは、彼はその500ポンドを回収しただけで、それを彼自身の消費にさらに支出するわけではないことを見れば、明らかである。それが剰余価値の貨幣化であるなら、単純再生産の前提では、それは資本家の個人的消費として支出されるのに、それはそうではない(すでに資本家の個人的消費は終わってい)からである。というのは、それは実は彼が最初に流通に投じた追加貨幣を回収しただけだからである。このように、一見すると矛盾しているように見えた先のマルクスの論述は、こうしたことを述べているのである。

 (以下、さらにこの項目は続きます。)

2009年7月 8日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その24)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回再び中断した●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての続きです。)


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 さて、やや脱線したが、本線に戻そう。問題は次のようなことであった。社会的総再生産過程を総商品資本の循環として考察するさいに、総商品資本を価値・素材の両面から補填・転換させるために、資本家が彼の商品資本とは別個に保持していて、追加的に流通に投じる貨幣が必要だということである。それが大谷氏らに言わせると、貨幣資本の循環のさいに、最初に前貸される「貨幣資本の前貸」とは違って、それと区別される「流通手段の前貸」というのであった。しかし果たしてそうした主張は正しいのか、それをさらに検討することにしよう。

 大谷氏は「流通手段の前貸」を説明して次のように述べていた。

 〈G_Wが同時に流通手段の前貸となるのは、W_G_Wの第二の変態G_Wが第一の変態W_Gよりも前に行なわれ、あとからW_Gによって補われる場合だけなのである〉(中133頁)

 大谷氏はこうした区別を最初に論じたのは久留間健氏だと注9で指摘しているが、われわれは前畑雪彦氏がやはり久留間健氏の所説にもとづいてそれを定式化しているものを検討して、この問題を考えることにしよう。彼は、次の〈二つの種類の貨幣の還流運動〉があるのだという(前畑雪彦「流通手段の前貸と資本の前貸」『立教経済学研究』34巻4号253頁)。

 1、資本の前貸
  (1)還流形態 G-W…P…W'-G'
  (2)還流根拠 資本としての価値の自己増殖による
  (3)還流期間 流通時間プラス生産時間

 2、流通手段の前貸
  (1)還流形態 G-W-G
  (2)流通根拠 資本家が商品形態で所有している資本及び所得以上に追加的に貨幣を、従ってまたそれだけ追加的に価値を投下したことによる。
  (3)還流期間 流通期間

 果たしてこうした区別が正しいのかどうかである。
 こうした区別の無意味さは、まず2の還流形態の書き方を変えてみれば分かる。これは内容から書き直すと次のようでなければならない。

 G2-W2 W1'-G1'

 つまり最初のG-Wは、第二年目の再生産の出発のためのG-Wなのである。だからそれが分かるように、G2-W2と書いて見ると、その循環は次のようになる。

 [G2-W2]…P2…W2'-G2'

 だからこのG2の還流形態は、1とまったく同じ還流形態をとっているし、だからやはり彼らの理屈からすれば、「貨幣資本の前貸」なのである。
 それに対して、G2-W2のあとに行なわれるW-Gというのは、内容から書き直すと、W1'-G1'となる。つまりそれは初年度の循環

 G1-W1…P1…[W1'-G1']

 の最後の商品資本の貨幣資本への転換なのである。
 だからこれもやはり1の還流形態と同じ還流形態をとるのであって、やはり彼らの理屈からいえば「貨幣資本の前貸」なのである。
 しかしでは1と2とでは何が異なるのであろうか。
 もう少し彼らが注目しているこの二つの貨幣の還流形態の相違を考察してみよう。1の還流形態はいうまでもなく、貨幣が貨幣資本として前貸される場合の循環を見ているのである。そして同じ貨幣資本の循環として見るなら、2もまったく同じ循環をしていることをわれわれは見たわけである。しかしそうだとするなら、2の還流形態G-W-Gは何を意味するのであろうか。それは貨幣だけに注目し、その貨幣が持っている資本の形態規定性を捨象して、たんなる貨幣として見るなら、それは最初に流通に投じた資本家の手ともにすぐに還流するものとして現われるのである。だから問題は、貨幣を資本の形態規定性において見るか、たんなる貨幣としてより表面的・抽象的に見るかの相違なのである。確かに貨幣資本も単純な商品流通のレベルで見るなら、それは流通手段としてわれわれに観察されるわけである。だから彼らは2を流通手段、1を貨幣資本と区別したわけである。しかしそのことは、決して、貨幣の還流形態の相違によってあるものは流通手段になったり、別のものは貨幣資本になるわけではない。それは同じ貨幣をより抽象的なレベルで見るか、それともより具体的に資本の形態規定性を帯びたものとして見るかによる相違にすぎないわけである。それは例えば1の場合も最初に前貸される貨幣資本も抽象的なレベルで観察するなら、われわれにはたんなる貨幣として、流通手段として見えることからも明らかである。彼らは1では資本としての形態規定性というより具体な規定性で見て、2ではより抽象的に見ているだけなのである。そしてもしより具体的な規定性で見るなら、1も2も貨幣資本の循環過程としては同じものとして観察できるのであり、ただその循環のどの部分を見るかの相違でしかない、すなわち1の場合、二つの循環期間を連続して考えてみると、G1-W1…P1…W1'-G1'・G2-W2…P2…W2'-G2'となるのに対して、2の場合は、G2-W2・W1'-G1'であるから、これは[G2-W2]…P2…W2'-G2'とG1-W1…P1…[W1'-G1']という二つの循環期間を一部順序を逆にしていることになる。つまり第一の循環期間の最後のW1'-G1'が、第二の循環期間の最初のG2-W2のあとになされるということである。だから二つの循環の相違を見るなら、ここにこそその相違があるのである。そしてこうした循環過程をなぜ一部の資本家がとる必要があるのかについては、すでに述べた通りである。

 だから問題は次のようにいえるだろう。要するに、社会的総商品資本の流通を媒介する貨幣は、資本家が彼らの総商品資本とは別個に、追加的に流通に投じるしかないということである。だからその貨幣は、少なくともいま問題にしている総再生産過程の流通(その総商品資本の循環期間)においては、商品の実現形態として登場しえないということである(だからこそ、それは「追加」貨幣なのだ)。そしてその追加貨幣が、再生産に必要な生産手段や労働力を購入するために前貸されるなら、それは資本にとっては「貨幣資本の前貸」であるが、しかしそれは資本関係を捨象して単純流通として見るなら、やはりその追加貨幣もただ流通手段として機能するだけであり、あるいはまた資本家自身の個人的な消費手段の購入のために支出されるなら、それは彼にとっては単なる流通手段でしかないということでしかない(だから言いたければ「流通手段の前貸」と言ってもよいわけである)。それ以上の「困難」な問題は何もないのである。だから久留間健氏とそれに追随する人たちが考えるように、貨幣の還流形態の相違によって、一方は「貨幣資本の前貸」であり、他方は「流通手段の前貸」だなどという区別はありえないのである。同じ貨幣がある資本家にとっては貨幣資本であるものが、別の資本家にとっては単なる流通手段でしかない場合もあるわけだから。

 ただ総商品資本を価値と素材において補填し合う関係を貨幣流通による媒介を顧慮して考察する場合に登場するこうした貨幣(追加貨幣)には、確かに奇妙な性格があり、それを理解するには多少の「困難」が伴うことも事実である。それがどうしてそうなのかについてもう少し吟味してみよう。
 マルクスが第2部第3篇第20章「単純再生産」第5節「貨幣流通による諸変換の媒介」で取り扱っている「貨幣」というのは、確かに一見すると奇妙な性格を持っている。それが奇妙であるのは、この節の次の一文を見れば明らかである(しかしわれわれは全集版で示すことしか出来ないが)。

 《前述の転換(4)で、IIではなく I が買い手として現われ、したがって500ポンドの貨幣を同じ価値量の消費手段に支出するとすれば、その場合には転換(5)ではIIが同じ500ポンドで生産手段を買い、(6)では I がその500ポンドで消費手段を買い、(7)ではIIがその500ポンドで生産手段を買う。そこで、結局、500ポンドは、前の場合にIIに帰ったように、 I に帰ってくる。この場合には、剰余価値はその資本家的生産者自身が個人的消費に支出する貨幣によって貨幣化されるのであるが、この貨幣は、予想収入すなわちこれから売られる商品に含まれている剰余価値からの予想収入を表わしている。この剰余価値の貨幣化は、500ポンドの還流によって行なわれるのではない。なぜならば、 I は、商品 I vでの1000ポンドの他に、転換(4)の終わりに貨幣で500ポンドを流通に投じているが、この貨幣は追加されたもので、--われわれの知る限りでは--、売れた商品の代金ではなかったからである。この貨幣が I に還流しても、これによって I は自分の追加貨幣を回収しただけで、 I の剰余価値を貨幣化したのではない。 I の剰余価値の貨幣化は、この剰余価値が含まれている商品 I mの販売によってはじめて行なわれるのであり、この貨幣化が持続するのは、いつでも、ただ、この商品の販売によって得られた貨幣がまたあらためて消費手段に支出されていない間だけのことである。》(『資本論』第2部全集版515頁)

 この一文はそれまでの展開を理解しないとなかなか分かりにくいが、ここでマルクスが述べていることで奇妙に思えるのは、前半部分では《剰余価値はその資本家的生産者自身が個人的消費に支出する貨幣によって貨幣化される》と述べているのに、後半部分では《この貨幣が I に還流しても、これによって I は自分の追加貨幣を回収しただけで、 I の剰余価値を貨幣化したのではない》とまったく逆のことを述べているように見えることである。前者では《剰余価値が貨幣化される》と述べ、後者では《剰余価値を貨幣化したのではない》という。一体、マルクスは何を言いたいのであろうか。しかも後者の場合、明らかに資本家 I は彼の剰余価値をIIに販売して500ポンドを回収したのに、この500ポンドは I の剰余価値を貨幣化したのではない、というのである。どうしてこうしたことになるのか、それを考えてみよう。

  (以下、この項目はさらに次回に続きます。)

2009年7月 7日 (火)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その23)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回中断した●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての続きです。)


 それにそもそも社会の総資本が総商品資本(W’)として、われわれの前に前提されている場合、このW’には当然、貨幣あるいは貨幣資本は含まれていない。つまりわれわれが社会的な総再生産過程の考察の出発点として前提している単純再生産の出発表式には(もちろん拡大再生産の出発表式でも同じであるが)、貨幣や貨幣資本は現われていない。だから貨幣流通による媒介によってそれらの総商品資本(総生産物)の相互補填を考察するためには、どうしてもそれを媒介する貨幣を何処からか持ってくる必要がある。つまり個別の諸資本の循環や回転を考察する場合には、ただ流通過程に存在すると前提するだけで良かった貨幣を、社会的総再生産過程を考察する場合には、誰がその貨幣を最初に流通に投じるかという問題が新たな問題として生じてくるのである。そしてそれは結局、資本家しかいない。だから社会的な総資本のうち、一部の資本家はW’-G’ではなく、G-Wの過程から開始するしかないのである。つまり彼らはW’-G’・G-Wの過程を、後半部分から開始するわけである。すなわち彼らはW’-G’を目当てに、G-Wをまずやり、そのあとW’-G’をやって、彼が最初に流通に投じた貨幣Gを回収するのである。その貨幣をマルクスは「追加貨幣」と述べている。ところがどうしたことか、大谷氏はこのマルクスが論じている「追加貨幣」という範疇を無視している(あるいは見落としている)。そして彼らはそれを、ただ貨幣をその抽象的な機能で見た場合の規定性に過ぎない「流通手段」とし、その「流通手段」に、そうした社会的総資本の流通を媒介するために一部の資本家によって追加的に最初に流通に投じられる貨幣という意味を付加しているために、問題が混乱してくるのである。彼らはそうした社会的総商品資本の貨幣流通による媒介による補填関係の考察から生じる貨幣の新たな形態規定性と貨幣の抽象的な機能規定とを明確に区別できずに、それらを混同しているのである。これが大谷氏(そして同じ問題を論じている多くの学者たち)の“躓きの石”である。それは次のような大谷氏の説明に現われている。

 〈ここで注意が必要なのは、G_Wがつねに、同時に流通手段の前貸であるわけではない、ということである。資本家が自己の商品資本の一部である商品の販売W_Gによって入手した貨幣で商品を買う購買G_Wは、流通手段の前貸にはならない。この貨幣のなかに含まれる彼の収入すなわち剰余価値の支出であるg_wもそうはならない。また、労働者の労働力の変態W(A)_G_Wでは、労働力の販売が必ず先行するのであって、労働者が流通手段を前貸することはありえない。だから、G_Wが同時に流通手段の前貸となるのは、W_G_Wの第二の変態G_Wが第一の変態W_Gよりも前に行なわれ、あとからW_Gによって補われる場合だけなのである(S. 766.18–25, 795.18–21, 800.27–32, 801.25–28 und 809.37–810.5)(8)。〉(中133頁)

 これが「追加貨幣」の説明なら問題はない。しかしそれが「流通手段の前貸」として説明されていることが問題なのである。「追加貨幣」の概念が明確に掴まれているなら、それが〈資本家が自己の商品資本の一部である商品の販売W_Gによって入手した貨幣〉でないことは明らかであろう。なぜなら、それは資本家たちが彼らのすべての商品資本の補填を媒介させるために、彼らの商品資本とは別個に保持していて、「追加的」に流通に投じる貨幣なのだからである。それは《売れた商品の代金ではな》い(全集版515頁)。
 ところが大谷氏はそれを〈流通手段の前貸〉として定式化している。しかし流通手段というのは、貨幣の抽象的な機能の一つであり、貨幣を単純流通で捉えたときの一つの機能なのである。だからそうした抽象的なレベルでみるかぎりでは〈資本家が自己の商品資本の一部である商品の販売W_Gによって入手した貨幣で商品を買う購買G_W〉もやはりそれは流通手段としての貨幣の機能でもあることには違いはないのである。だから大谷氏が次のように述べていることも正しいとはいえない。

 〈このように、社会的総再生産過程では資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流とが複雑な仕方で絡み合っているので、両者を概念的に区別したうえで、その絡み合いを明晰に把握するには抽象力の弛みない緊張が必要である。マルクスは第8稿で、貨幣流通によって媒介された資本の運動と資本の運動との絡み合い、資本の運動と収入の運動との絡み合い、収入の運動と収入の運動との絡み合いを分析しているが、そのさいの一つの力点は、資本の前貸・還流と流通手段の前貸・還流とを明確に区別したうえで、両者が絡み合って現われる複雑な過程を明らかにするところに置かれていたのである(9)。〉(中133頁)

 重要なことは、〈社会的総再生産過程では資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流とが複雑な仕方で絡み合っているので、両者を概念的に区別したうえで、その絡み合いを明晰に把握する〉ことではない。必要なことは、「追加貨幣」の概念とその独自性を明確につかむことである。それさえできれば、その「追加貨幣」が具体的な資本の形態規定性としては「貨幣資本の前貸」として把握される場合もありうるし、単純な流通過程の一契機としては単なる「流通手段の前貸」である場合もありうるのである。同じ過程が抽象レベルの相違によってわれわれに違った様相と規定性を与えるのはありふれたことである。
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 これはついでに指摘しておくことだが、ここで大谷氏は〈マルクスは第8稿で、貨幣流通によって媒介された資本の運動と資本の運動との絡み合い、資本の運動と収入の運動との絡み合い、収入の運動と収入の運動との絡み合いを分析している〉と述べている。われわれはこうした表現を見て、「おや?」と思わざるをえない。というのは、大谷氏は以前、〈「第2部第2稿」の【第1稿に対する理論的な前進】〉の一つとして、〈[c 資本と資本との、資本と収入との、収入と収入との交換、という考え方の放棄]〉(上152頁)と題して次のように述べていたからである。

 〈第一稿の第三章の最初に置かれた二つの項目は、「1 資本と資本との交換、資本と収入との交換、および、不変資本の再生産」および「2 収入と資本。収入と収入。資本と資本。(それらのあいだの交換)」である(II/4.1, S. 301–344)。この表題からも読み取れるように、マルクスはここでは、社会的総再生産過程の運動の核心を、商品形態を取った資本および収入が持ち手を変える三つの「交換」に見ていた。こうした把握には、少なくとも、三つの難点がある。〉(上152-3頁)

 そして大谷氏は〈三つの難点〉なるものを示していたのであるが(そしてもちろん、それらに対して私は根拠がないことを指摘したのであるが)、ところがここでは、マルクス自身が第8稿の段階でも、〈資本の運動と資本の運動との絡み合い、資本の運動と収入の運動との絡み合い、収入の運動と収入の運動との絡み合いを分析している〉と述べている。一方は「交換」であり、他方は「運動」の「絡み合い」だから問題はないというのだろうか、しかし「運動」の「絡み合い」は「交換」し合うことによって生じるのだから、こんなことは言い訳にはならないだろう。明らかに大谷氏はここでは以前自身が述べたことと矛盾したことを言っているのである。

 (この項目は、次回に以降に、まだまだ続きます。)

2009年7月 6日 (月)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その22)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]について

 これも先の「a」と同様、大谷氏が「第2稿第3章にたいする第8稿第3章の理論的前進」の一つとして上げた、【二重の叙述方法の放棄と貨幣運動の全面的な組み入れ】に関連して、特に〈ここでの、社会的総再生産過程における貨幣の運動ないし役割についての分析では、とくに次の諸点が重要である〉(中131-132頁)としている二つ目の項目である。ここで大谷氏が論じている問題は、これまでにも日本の多くのマルクス経済学者のなかでも議論され論争されてきた問題の一つである、“いわゆる資本の前貸か、流通手段の前貸か”という問題なのである。この問題については私も正直いろいろと頭を悩ませたが、最終的な結論は、大谷氏らが依拠している久留間健氏の諸説は受け入れられないというものであった。だからここでは大谷氏の主張を踏まえながら、久留間健氏の諸説をもとに論を展開している人たちの意見も参考にしながら、問題を少し詳細に、また私自身の思考過程も紹介しながら、検討して行きたいと考えている。よって、大谷氏の論文の分量(それは『経済』の上下2段組1頁強程度)に比べて、批判的検討がかなりの分量になってしまうが、その点はご容赦ねがいたい。

 まずわれわれは内容を詳細に吟味する手続きとして、大谷氏の論述に沿ってその内容を逐一検討することから開始しよう。まず大谷氏は次のように述べている。

 〈貨幣資本の循環における最初の段階であるG_Wは、それ自体としては一つの「流通行為」であるが、なによりもまず、価値増殖を目的として貨幣資本を生産資本の諸要素に転態する流通行為であり、のちのW’_G’ によって還流すべき資本の「前貸〔Vorschuß〕」である。この、生産過程への不変資本および可変資本の前貸が、「資本の前貸」の「範疇的規定」であって、 マルクスは、ケネーおよび重農学派が「前貸〔avance〕」をそのようなものとして規定したことをきわめて高く評価している(S. 717.21–26, 721.40–722.9, 796.41–797.11 und 789.33–36)。〉(中132頁)

 ここでは大谷氏は貨幣資本の循環のG-Wは、〈それ自体としては一つの「流通行為」である〉と述べている。これの意味するところを正確に理解しているのかどうかが問題なのである。以前にも指摘したが、そこらあたりが大谷氏にはあいまいな気がするからである。これは資本の流通過程を資本関係を捨象して見るなら、それは単純流通として現われてくるということなのである。つまりそれは単なる商品流通の過程だ、すなわち貨幣の商品への変態、貨幣による商品の購買、として現われるということだ。しかしその単純流通はより具体的な資本関係のもとでは貨幣資本の商品資本への転化であり、貨幣資本の「前貸」になるとマルクスは指摘している。なぜなら貨幣は、この場合、価値を増殖させて手許に還流してくることを期待して投ぜられるからである。これこそ「前貸〔Vorschuß〕」真の意味だ、とマルクスは次のように述べている。

 《資本家が労働力を買う貨幣は、彼にとっては価値増殖のために投じた貨幣、つまり貨幣資本である。それは、支出されたのではなく、前貸しされているのである。(これが「前貸」--重農学派の avance --の真の意味であって、資本家がこの貨幣そのものをどこからもってくるかには何の関係もないのである。資本家が生産過程の目的のために支払う価値は全て資本家にとっては前貸しされているのであって、この支払が前になされようと後からなされようとそれに変わりはないのである。その価値は生産過程そのものに前貸しされているのである。)》(第2部第19章全集版466頁)

 大谷氏が〈マルクスは、ケネーおよび重農学派が「前貸〔avance〕」をそのようなものとして規定したことをきわめて高く評価している〉と述べているのはこの一文を指すのであろう。いずれにせよ重要なのは過程を抽象的なレベルで見るか、より具体的なレベルで見ているかの相違であることをしっかり理解することである。続く大谷氏の一文をさらに検討しよう。

 〈ところが、この同じ流通行為G_W が、同時に、「資本の前貸」とは区別されるべきもう一つの「前貸〔Vorschuß〕」でもありうるところから、「難問〔perplexity〕」(II/4.1, 151.29)が生じる。もう一つの「前貸」とは、社会的総再生産を媒介する流通手段を資本家階級のうちのだれかが流通過程に前貸しなければならない、という意味での「前貸」、すなわち流通過程への流通手段の前貸である。〉(中132頁)

 まずわれわれはこの場合の「前貸」はマルクスが「真の意味」での「前貸」と述べていたものと異なることをまず踏まえておこう。というのは、この場合、貨幣を流通に投じる資本家はそれによって何も儲けないとマルクス自身も述べているからである。そしてこれはある意味では当然であって、というのは前にも述べたように、資本の流通過程を資本関係を捨象して考察するなら、単純流通として現われ、単純流通の過程としては同じ価値がその姿態を変態させるだけなのだから、そこには増殖などありえないからである。大谷氏は〈もう一つの「前貸」とは、社会的総再生産を媒介する流通手段を資本家階級のうちのだれかが流通過程に前貸しなければならない、という意味での「前貸」、すなわち流通過程への流通手段の前貸である〉という。しかしここで重要なのは、社会的総再生産を媒介する貨幣一般を「流通手段」という場合は、それを抽象的なレベルで見ているからそういえるのであって、具体的な形態規定性から捉えるなら「貨幣資本」でもありうるという視点が果たして大谷氏にあるかどうかである。マルクス自身はこうした〈社会的総再生産を媒介する〉するために資本家が投じる貨幣のことを「追加貨幣」と述べている(全集515頁)。確かにマルクスもそれを「流通手段の前貸」とも述べている場合もあるが(同517頁)、しかしその場合は部門 I の資本家が自身の個人的消費のために自分の収入を目当てに投じる貨幣だから、それを「流通手段の前貸」としているだけであることに気付く必要がある。だから〈社会的総再生産を媒介する〉貨幣だから「流通手段」だとするのは早計なのである。それはあくまでも〈社会的総再生産を媒介する〉貨幣を単純な商品流通のレベルでみるなら、それは「流通手段」になるのであり、もし〈社会的総再生産を媒介する〉貨幣であっても、具体的な資本関係のなかで見るならば、それは「貨幣資本」として現われる場合もあるし、収入を媒介する場合は「流通手段」として機能する場合もあるのである。例えば資本家 I が自身の不変資本の補填のために、生産手段の現物形態で存在している商品資本の実現を目当てに、まず最初に手持ちの貨幣を流通に投じるなら、その場合は、抽象的なレベルでは、単なる貨幣の手放し、つまり流通手段を流通に投じたのであるが、より具体的な資本の形態規定性から見れば、彼は貨幣資本を前貸したのである。そしてこの場合も彼が「追加貨幣」を投じる役割を果たした当事者であることには何ら変わりはない。だから大谷氏が続けて次のように述べているのは、マルクスが「追加貨幣」と述べているものの説明でなければならないのである。

 〈社会的総生産物すなわち総商品資本の諸転換あるいは相互補填を媒介する流通手段としての貨幣は、総商品資本の持手である個別資本家たちの手もとにあるほかはない、つまり、彼らは商品資本のほかに、準備貨幣資本または鋳貨準備の形態で貨幣をもっているのである。彼らのこの貨幣が再生産の諸要素の諸転換あるいは補填を媒介し始めるのは、彼らがこの貨幣で商品を買うこと、すなわちG_Wを行なうことによってである。このGによる購買が、彼による流通過程への流通手段の前貸である。けれども、彼らのこの購買すなわちG_Wは、じつは、彼らの商品資本の総変態すなわちW_G_Wのうちの第二の変態をなすG_Wなのであり、彼らはこれを、第一の変態W_Gに先行させて行なうのである。だから彼らは、そのあとに行なわれる第一の変態W_Gによって、前貸したのと同額の貨幣額を回収する。これが、彼が前貸した流通手段の彼のもとへの還流であり、彼はこれによって、ふたたび手もとに前貸したのと同額の準備貨幣資本または鋳貨準備を取り戻すことになる。〉(中132-3頁)

 つまり〈社会的総生産物すなわち総商品資本の諸転換あるいは相互補填〉を貨幣流通による媒介を考慮して考察する場合に一つの困難にわれわれは突き当たる。総商品資本の補填関係を商品資本の循環として考察するということは、W’-G’-W…P…W’の過程として考察することである。しかし社会の総資本が総商品資本としてわれわれの前に前提されている場合、それらがまずW’-G’の過程をとろうとしても不可能であること気付く。なぜなら、一つの個別資本のW’-G’(商品資本の貨幣資本への転化)は他の個別資本のG-W(貨幣資本の商品資本への転化)か、あるいは労働者や資本家の個人的消費のための単なるG-Wを前提するからである。だからすべての商品資本が同時にW’-G’の過程を行なうというわれわれの想定には、もともと無理があるのである。
 (以下、この項目は続きます。)

2009年7月 4日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その21)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●[a 可変資本の貨幣形態での前貸および還流の重要性の強調]についての続きです。)


 さらに〈貨幣資本の循環と商品資本の循環とは時間的にずれており、しかも不変資本の前貸および還流と可変資本の前貸および還流とは、これまた時間的にずれているのだから、これが――のちに拡大再生産のところで現われてくるように――事態を複雑にし、叙述に一連の難しさをもたらすことになる〉というのは、まったくわれわれの理解を越えている。なぜ、総商品資本の循環として考察される社会的な総再生産過程の考察に貨幣資本の循環が入ってくるのか訳が分からないからである。
 まず大谷氏は〈貨幣資本の循環と商品資本の循環とは時間的にずれて〉いるとおっしゃる。もし大谷氏が個別諸資本の現実の循環や回転を問題にしているのなら確かにそうである。しかしわれわれが今問題にしているのは、社会的な総再生産過程である。とするなら、こうした過程の考察においては、マルクスは常に流通期間をゼロと仮定していることは大谷氏もご存知であろう。もし流通期間がゼロならば、貨幣資本の循環と商品資本の循環とに時間的ズレなど生じるはずがないではないか。
 また〈不変資本の前貸および還流と可変資本の前貸および還流とは、これまた時間的にずれている〉というに至ってはまったく混乱以外の何ものでもない。〈不変資本の前貸〉とか〈可変資本の前貸〉などと述べているのは、あるいは大谷氏は問題をただ貨幣資本の循環としてしか考えていないのではないかと疑わせるところがあるが、しかし、まあそれはおいておこう。問題を“善意に”解釈して、商品資本の循環のうちの流通過程、すなわちW'-G'-Wのうち、W'-G'を終えて、G-Wの過程を大谷氏は問題にしているのだとわれわれも考えることにしよう。そこで大谷氏は〈不変資本の前貸〉〈可変資本の前貸〉とは〈時間的にずれている〉とおっしゃる。大谷氏がそのように考えているのは、おそらく労賃の支払は後払いであり、例えばそれは一週間ごとに週末に支払われ、それに対して、不変資本、つまり生産手段(われわれは固定資本を捨象しよう、そうするとこれは労働対象である)については、生産を開始する期のはじめに資本家はそれを購入しなければならない。だから不変資本の前貸は期の最初になされるが、しかし可変資本の前貸はそれから一週間遅れてなされる、つまり時間的にずれると言いたいのであろう。
 しかしこんな捉え方は果たして正しいのであろうか。すでに以前にも指摘したが、大谷氏も生産を開始する期の最初に労働力も資本家によって購入されていなければ、生産がまったく進まず、労働対象が生産的に消費されるはずもないことは認めるであろう。《資本家が労働力を買うのは、それが生産過程に入る前で》(全集版490頁)なければないのである。ということは大谷氏は労働力は生産を開始する期のはじめに購入されるが、しかしその賃金の支払は一週間後だから、だから可変資本の前貸も一週間後になされるのだ、とどうやら考えているようなのである。しかしもしそれが正しいとするなら、一体、その賃金が支払われるまでの一週間、生産過程で働いている労働力とは一体なんであろうか? 大谷説だとまったく無規定な代物になる。それは生産資本ではない。なぜなら、可変貨幣資本はまだ前貸されておらず、よってそれはまだ現物形態に、すなわち労働力に転化していないはずだからである。こんなバカな話はないことは誰でも分かるであろう。例え労働者に対する賃金の支払が一週間後であろうが、一カ月後であろうが、しかし可変資本は生産を開始する期のはじめに前貸され(つまり労働力は購入され)、それは現物形態に(すなわち労働力に)転化されなければならない。そうでないと生産資本は必要な条件を満たさない。そして考えてみれば、例えば不変資本の前貸にしても、大谷氏の理屈だと、資本家が生産材料を信用で購入し、一週間後に支払う約束で購入したなら(そして資本の取り引きとしてはそうした信用取引は一般的ですらある)、不変資本の前貸も一週間後に行なわれることになる。とするなら、その一週間分の生産過程で生産的に消費される労働対象は一体何なのか、という疑問がまた生じることになる。それは大谷説では生産資本でないことになるからである。これではまったくチンプンカンプンではないだろうか。これを混乱といわずして何を混乱というのであろうか。

 それにしても、大谷氏は、先に検討した[b 商品資本の循環の独自性の明確化](中123頁)のところでは、第2稿では、マルクスにあっては、いまだ社会的総再生産過程を商品資本の循環として捉えるという視点が不十分であったかに述べていたのであった。ところが、第8稿では、いつのまにか、総再生産過程を商品資本の循環として捉える視点そのものを飛び越えて、もはや商品資本の循環として捉えることそのものがすでに不十分であって、今度は、それに〈貨幣資本の循環が考慮に入れられなければならない〉というのである。第2稿では〈商品資本の循環の独自性〉を十分明確化していない理由として、大谷氏は、〈マルクスが、ケネーの経済表の基礎を成しているのは生産資本の循環と商品資本の循環だ、と述べていた〉(中123頁)からだと指摘していた。ところがいまでは大谷氏は第8稿では、商品資本の循環だけでなく、貨幣資本の循環も考慮に入れる必要があるのであり、そうしたものにマルクスの視点は移っているかにおっしゃるのである。しかしこれは以前の指摘からするなら、むしろマルクスの視点の後退ではないのだろうか。
 大谷氏は、商品資本の循環に加えて〈貨幣資本の循環が考慮に入れられなければならない〉とおっしゃるのであるが、では、「生産資本の循環」はどうなのであろうか。どうして生産資本の循環は問題にはならないのであろうか。〈時間的にずれて〉いるというのなら、生産資本の循環だってそうではないのか。こうして大谷氏は自身が主張される第2稿の〈不完全〉状態へと後退し、ますます混沌のなかにはまり込んで行く。

2009年7月 3日 (金)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その20)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●【社会的生産の二つの部門の呼び方の変更】についての続きです。)

 このように大谷氏があげる理由は余り「合理的」なものとはいえない。では、マルクスは第2稿の想定を第8稿でどうして変更したのであろうか。残念ながら、私にはマルクス自身の文言にもとづいてその理由を説明することは出来ない。しかしもし勝手な類推が許されるなら、次のような理由が考えられるのではないかと思っている。
 もちろん、大谷氏も指摘しているように、マルクスの総再生産過程の考察は、スミス批判を通じて理論的には深められてきたということが、その理由の一つとしてあげられるように思う。しかしそれだけが理由とも思えない。もっと本質的な問題がそこにはあるように思えるのである。すなわち、人間の社会的な生産(社会的な物質代謝活動)は本源的には彼らの社会的生活の維持と再生産を目的にしている。つまり衣食住の基本的な諸手段を生産しその生活を維持することである。その意味では消費手段の生産こそ、社会的生産の目的なのである。しかし人間の社会的生産活動においては、そうした消費手段を生産するための諸手段をも生産する必要がある。そしてさらにそうした消費手段の生産のための生産手段を生産するためにも、やはり生産手段が必要であり、それらも常に再生産される必要があるのである。そして人間の生産活動の歴史的な発展が進めば進むほど、直接には個人的な消費には役立たないそうした生産諸手段の生産により多くの社会的労働を配分するようになってきた。しかしどんなに社会が発展しようと、個人的な消費手段の生産のための生産手段の生産や、さらにはそうした生産手段を生産するための生産手段の生産も、究極的には直接的な消費手段を、われわれが自然から入手し、われわれ自身の生活の再生産、すなわち社会的物質代謝を維持するために存在しているわけである。だからその意味では個人的な消費手段の生産部門こそ、社会的生産の基底的部分であり、なければならず、だから、マルクスは当初はそれを部門 I とし、生産手段生産部門を部門IIとしたのではなかったと思える。
 しかし翻って、資本主義的生産様式は、決して使用価値の生産を直接に目的にした生産ではない。利潤を唯一の推進動機とも規定的目的ともする生産様式なのである。だからこそ、資本主義的生産様式においてはすべてが逆立ちして現われてくる。先の本源的な関係においてもそうである。「生産のための生産」あるいは「蓄積のための蓄積」が資本主義的生産様式の標語となる。だからそこでは、生産手段の生産こそが第一義的なものとして現われてくるのである。だからマルクスは第8稿では、資本主義的生産様式における社会的総資本の再生産の考察としては、生産手段の生産部門こそ部門 I に、そして消費手段の生産部門を部門IIとすべきだと考えたのではないだろうか。私にはそのように思えるのである。
 
●【二重の叙述方法の放棄と貨幣運動の全面的な組み入れ】も受け入れられない

 これも大谷氏によれば、「第2稿第3章にたいする第8稿第3章の理論的前進」なのだそうだが、すでに何度も指摘しているが、こうした評価は大谷氏らの独断でしかないと言わざるをえない。ここでも大谷氏はエンゲルスの「序文」をそのまま踏襲して、次のように述べている。

 〈いまでは、社会的総再生産過程の分析を、「貨幣流通を捨象した叙述」と「媒介する貨幣流通を伴う叙述」との二段構えで行なうという以前の叙述方法で遂行できないことは、マルクスにとって明らかであった。第8稿の第3章では、マルクスは最初から貨幣の運動を組み入れて再生産過程の進行を観察している。〉(中131頁)

 しかし、こうした主張にはどれほどの根拠があるのだろうか。大谷氏は何の根拠も示さずに〈マルクスにとって明らかであった〉などと述べているが、もし本当にそうだとするなら、どうして第8稿のなかに、マルクス自身の文言として、そうした「二段構えの敍述方法」を「否定」し「放棄」するという一文が、あるいはそれをほのめかすようなものでもよいが、そうした一文がまったく見い出されないのであろうか。その理由を大谷氏らは説明すべきではないだろうか。あれだけ第1稿でも第2稿でも、「二段構えの敍述方法」の意義を強調してきたマルクスなのだから、もしマルクス自身にそれまでの敍述方法を放棄する意図があったなら、当然、それを何らかの形で述べたり、示唆したりする文言があって然るべきではないだろうか。それがまったくない事実をどのように大谷氏らは説明するのであろうか。
 すでに何度も指摘したが、〈第8稿の第3章では、マルクスは最初から貨幣の運動を組み入れて再生産過程の進行を観察している〉という事実自体は、何もそれを論証することにはならないのである。なぜなら、それはマルクスが第8稿では、最初から問題を限定して論じているからそうなっているだけのことだからである。しかもマルクスは問題を限定して論じる自身の意図を「先取り」という断り書きでちゃんと示していることはすでに指摘した通りである。

●[a 可変資本の貨幣形態での前貸および還流の重要性の強調]について

 さて、大谷氏は先の項目、【二重の叙述方法の放棄と貨幣運動の全面的な組み入れ】に関連して、特に〈ここでの、社会的総再生産過程における貨幣の運動ないし役割についての分析では、とくに次の諸点が重要である〉(中131-132頁)として、a~eの項目を立てて論じている。これはその最初の項目である。大谷氏は次のように論じている。

 〈マルクスは第8稿で、資本主義的生産では貨幣形態での可変資本の前貸とそれの貨幣形態での還流とが決定的な契機をなすこと、だからまた、社会的総資本の再生産過程の考察でも、この前貸および還流の分析が決定的に重要であることを強調した(S. 731.15–33)。だから生産手段、消費手段、労働力という商品の相互間の「素材的転換」を考察することで満足しているわけにはいかない。貨幣を媒介にしたこれらの転換が、可変資本の貨幣形態での前貸および還流とどのように絡み合っているのか、ということがつかまれなければならないのである。だから、総再生産過程の分析が商品資本の循環にもとづいて行なわれるとしても、そのさい貨幣資本の形態にある可変資本の循環が、総じて貨幣資本の循環が考慮に入れられなければならないということになる。貨幣資本の循環と商品資本の循環とは時間的にずれており、しかも不変資本の前貸および還流と可変資本の前貸および還流とは、これまた時間的にずれているのだから、これが――のちに拡大再生産のところで現われてくるように――事態を複雑にし、叙述に一連の難しさをもたらすことになる。〉(中132頁)

 〈マルクスは第8稿で、資本主義的生産では貨幣形態での可変資本の前貸とそれの貨幣形態での還流とが決定的な契機をなすこと、だからまた、社会的総資本の再生産過程の考察でも、この前貸および還流の分析が決定的に重要であることを強調した〉ということはまあよいとしよう。確かにマルクスは「第20節 単純再生産」「第3節 両部門間の転換  I (v+m)対IIc」(この部分は第8稿)のなかで次のように述べているからである。

 《しかし、この相互転換は貨幣流通によって成立するのであって、貨幣流通はそれを媒介するとともにそれの理解を困難にするのであるが、しかしそれは決定的に重要である。というのは、可変資本部分は絶えず繰り返し貨幣形態で現れなければならないからである。すなわち貨幣形態から労働力に転換される可変資本として現れなければならないからである。》(全集版490頁)

 しかしこのマルクスの文言を金科玉条にして、貨幣資本の還流の決定的意義なるものをあまりにも強調しすぎることは正しくないであろう。なぜなら、マルクスがここで強調しているのは、可変資本の場合は常に貨幣形態でそれが労働力に転換されなければならないからだとの理由によるからである。労賃は例えそれが後払いであろうが、先払いであろうが、常に現金で支払われる必要がある。だから可変資本は常に貨幣形態で資本家の手許に還流する必要がある。マルクスが指摘しているのはこの事実である。しかしこうした理由は事態の具体的な側面である。そして具体的には不変資本部分の場合には資本家たちは相互に信用を与え合うことによって、貨幣を媒介せずに商品資本を相互に補填し合うケースが多く、だから必ずしも貨幣形態で還流する必要はないのである。しかし注意が必要なのは、われわれが考察している社会的な総再生産過程では、そうした信用など具体的な諸契機は捨象されているのである。だから可変資本部分だけではなく、不変資本部分も剰余価値部分も、資本家たちはそれらすべての商品資本を一旦は貨幣資本に転換すると仮定されているのである。それゆえ、可変資本が常に貨幣形態で労働力に転換されなければならないということだけをことさら強調することは、われわれが考察している抽象レベルを考慮しないことであり、それ自体が誤りに転ずる可能性を持っているのである。
 だから大谷氏らが、可変資本部分が常に貨幣形態で還流する必要があるということを強調するあまり、〈だから生産手段、消費手段、労働力という商品の相互間の「素材的転換」を考察することで満足しているわけにはいかない〉などというのはおかしな議論なのである。一体、誰が満足しているのか分からないが、このように言うことは、大谷氏は少なくとも〈生産手段、消費手段、労働力という商品の相互間の「素材的転換」を考察する〉意義そのものは認めているのであろうか。それは必要な考察の一つの段階ではあるが、それだけに〈満足して〉留まっていてはダメだということなら、まったくそのとおりであり、誰も文句は言わないであろう。誰もそれに満足せよとか、そこに留まっておるべきだなどとは主張していないからである。しかしその前では大谷氏はその意義さえも認めず、「二段構えの敍述方法」をマルクスは放棄したと言ったのではなかったのか。それとも〈満足しているわけにはいかない〉というのは、それ自体を否定するための単なるレトリックなのであろうか。
 確かに〈資本主義的生産では貨幣形態での可変資本の前貸とそれの貨幣形態での還流とが決定的な契機をなす〉ことは認めよう。しかしだからといって、〈貨幣を媒介にしたこれらの転換(=商品相互の素材転換)が、可変資本の貨幣形態での前貸および還流とどのように絡み合っているのか、ということがつかまれなければならないのである〉というなら、それは行き過ぎであり、問題の一面化である。なぜなら、単に問題は〈可変資本の貨幣形態での前貸および還流とどのように絡み合っているのか〉ということだけが問題ではないし、それだけが解明されればよいという問題でもないからである。不変資本や剰余価値もそれぞれが貨幣流通に媒介されてどのように補填され合うのかも解明される必要があるからである。

  (以下、この項目も次回に続きます。)

2009年7月 2日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その19)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


 (以下は、項目●【「実体的諸条件」の解明から社会的総再生産過程の考察への課題の転換】についても疑問の続きです。)


 マルクスは蓄積にはそれに先行する潜勢的可変資本である貨幣の蓄蔵が不可欠なことを指摘して、その蓄蔵貨幣が如何に形成されるかを論じているところで、次のように述べている(下線はマルクスによる強調)。

 《この剰余生産物を次々に売っていくことによって,資本家たちは蓄蔵貨幣,《追加的な》潜勢的貨幣資本を形成する。いまここで考察している場合には,この剰余価値ははじめから生産手段の生産手段というかたちで存在している。この剰余生産物は,B,B',B”,《等々》( I )の手のなかではじめて追加不変資本として機能する。しかしそれは,可能的には、それが売られる以前から,貨幣蓄蔵者A,A’,A”等々( I )の手のなかで追加不変資本である。これは, I の側での《再》生産の価値の大きさだけを見るならば,単純再生産の限界の内部でのことである。というのは,この可能的な追加不変資本(剰余生産物)を創造するのに追加資本が動かされたわけでもなく,また単純再生産の基礎の上で支出されたのよりも大きい剰余労働が支出されたわけでもないからである。違う点は,ここではただ,充用される剰余労働の形態だけであり,その特殊的な役立ち方の具体的な性質だけである。この剰余労働は,IIのために機能すべき,またそこでcII)となるべき生産手段の生産にではなくて,生産手段( I )の生産手段に支出されたのである。……
 したがって、単純再生産--《たんに》価値の大きさ《だけ》から見れば--の内部で、拡大された規模での再生産の、現実の資本蓄積の、物質的土台〔Substrat〕が生産されるということになる。それはまさにとりもなおさず(当面の場合には)、《直接に》生産手段の生産に支出された剰余労働 I 、すなわち可能的剰余不変資本の創造に支出された、労働者階級( I )の剰余労働である。だから、 I のA、A'、A"、等々の側での可能的な新追加貨幣資本の形成……は、生産手段( I )の追加的生産の単なる貨幣形態なのである。
 したがって、可能的追加貨幣資本の生産は、ここでは……、生産過程そのものの現象、すなわち生産資本の一定の形態の、あるいは実体的に言えば〔realiter〕それの諸要素の一定の形態の生産という現象のほかにはなにも表現していない。》
(大谷訳『経済志林』54-58頁)

 ここではマルクスは、蓄積の本質、その概念を解明しているのであるが、蓄積に必要な貨幣蓄蔵は剰余価値を実現して入手した貨幣を蓄蔵するのであるが、しかしその販売される剰余生産物そのものがすでに追加的な生産手段として生産されていなければならないこと、だから蓄積というのは剰余生産物を生産する労働者の充用される剰余労働の形態だけであり,その特殊的な役立ち方の具体的な性質だけ》が問題なのであり、だから蓄積というのは--そしてそれに必要な潜勢的貨幣資本の形成というのは--、生産過程そのものの一現象、すなわち生産資本の一定の形態の、あるいは実体的に言えば〔realiter〕それの諸要素の一定の形態の生産という現象のほかにはなにも表現していない》と述べている。つまりここでマルクスが問題にしているのは、資本の蓄積の一契機である蓄蔵貨幣の形成という問題の背後にあるまさに「実体的諸条件」そのものなのである。そしてこれが資本家Aから資本家Bに生産手段の生産手段として販売されるのであるから、それが「実体的素材変換」でもあることはいうまでもないであろう。だから第8稿では〈社会的再生産における「実体的素材変換」にかかわる「実体的諸条件」という文言はどこにも見ることができない〉などという大谷氏の主張は正しくないであろう。

 そしてだからまたエンゲルスの第3篇の表題の変更は〈適切なものであった〉とは必ずしも言えないであろう。やはりそれは問題を一面化し、マルクスの問題意識を十分理解したものとは言えなかったと評価すべきであろう。
 マルクスは第3篇の表題を、第2稿では、《流通過程および再生産過程の現実的(実在的)諸条件》としている。これは、まずは直接的な表象として捉えられる、現実の貨幣流通を媒介して行なわれている社会的な総再生産過程を前提し、そこから、その背後にあって、その基礎となっている実体的な諸条件を、まずは貨幣流通による媒介を捨象して掴み出し、そうした上で、今度は貨幣流通による媒介によって行なわれている現実の総再生産過程を、その抽出した本質的的諸関係から展開して説明することによって、その特殊歴史的な諸特徴を浮き立たせようという、マルクスの方法論的な意図を示す表題でもあるのである。エンゲルスが変更した表題はそうしたマルクスの方法論的な意図を理解しないものといわざるをえない。

 また大谷氏が第3篇の課題を次のようにいうのもエンゲルスを擁護するためであろうが、やや問題の一面化のような気がする。

 〈第8稿の第3篇の課題は、個別諸資本の諸変態相互間の、またそれらと一般的商品流通との絡み合いを論じることによって、社会的総商品資本の循環を、さまざまの個別資本の総計すなわち資本家階級の総資本である社会的資本の運動形態としても、また社会的資本によって生産される剰余価値または剰余生産物の運動形態としても、考察すること、そしてこの考察のなかで、年々の再生産のさまざまの要素の転換を分析して社会的再生産の諸条件を摘出する、というところにある。約言すれば、社会的総商品資本の流通過程としての社会的総再生産過程を分析することである。この点から見て、エンゲルスが彼の版の第3篇に与えた「社会的総資本の再生産と流通」というタイトルは、この第8稿の内容を表現するのに適切なものであったと言うことができる。〉(中130頁)

 マルクスは第2稿の表紙に書いたプランで、第3章(篇)の項目(1)の内容を《社会的に考察された可変資本、不変資本、および剰余価値》とし、それを《(A)単純な規模での再生産》《(B)拡大された規模での再生産、蓄積》とに分けている。大谷氏の視点には《社会的に考察された不変資本、可変資本、および剰余価値》という項目が抜け落ちている。大谷氏がここで言っていることは、ただ個別資本の運動をその総計としての社会的総資本の運動として捉えるという、あまりにも当たり前な単純化された課題意識でしかないといえる。つまりエンゲルスの表題はそうした問題意識をただ表すだけのものだということを、大谷氏は図らずもここで暴露しているとさえいえるのである。

●【社会的生産の二つの部門の呼び方の変更】について

 ここでは大谷氏は、第2稿までは、マルクスは消費手段生産部門を部門 I とし、生産手段生産部門を部門IIとしていたが、第8稿ではそれを逆転したこと、その理由については、日本ではいろいろな研究者からさまざまな見解が披露されているが、〈ここでは、この新しい順序が、もとの順序よりもはるかに合理的であることを述べるにとどめる〉(中131頁)として次のような理由を上げておられる。

 〈第一に、商品資本の循環では、商品資本の諸要素によって生産資本の諸要素を、すなわち生産手段の形態にある不変資本および労働力の形態にある可変資本を、補填することが問題である。生産資本がc + vで表わされ、商品資本の価値がc + v + mで表わされるのであれば、資本の構成諸部分の補填を論じるさいにも、まず生産手段生産部門の生産物による両部門のcの補填を論じ、次に、消費手段生産部門の生産物による労働力の再生産を通じての両部門のvの補填を論じるのが納得のいく順序である。
 第二に、第8稿での拡大再生産の表式を展開するさいに、生産の出発点で不変資本はすでに必要な生産手段の形態に転換されているのにたいして、可変資本は貨幣形態にあって、次第に前貸しされるものと想定されている。つまり、なによりもまず、両部門で不変資本が現物形態で補填されなければならないのである。この点から見ても、新たな順序はまったく事態相応的である。
 第三に、同じことを別の面から見ることになるが、拡大再生産の場合、両部門での蓄積の物質的基礎である追加生産手段が生産手段生産部門で生産されていなければならない。この点からも、生産手段生産部門を第 I 部門とすることは合理的なのである。〉
(中131頁)

 まず最初の理由であるが、生産資本がc+vで表され、商品資本の価値がc+v+mで表されるのだから、問題の考察もこの順序でなされるのが合理的というのであるが、これはさほど根拠のあるもののようには思えない。第2稿では、「 I )消費手段の生産」から「II)生産手段の生産」へと、この順序で考察されており、また可変資本、不変資本の順序で考察されているが、商品資本を表す表式はc+v+mで表されており、だからと言ってそこにどんな不合理もみられないからである。
 第二の理由も首をかしげざるをえない。確かに可変資本は生産過程と並行して前貸されるという想定は可能であるが、しかし不変資本(生産手段)だけが現物形態で補填されていればよいというようなものではない。やはり可変資本も現物形態で、すなわち労働力に転換されて生産過程に存在しないと、そもそも現実の生産あるいは拡大再生産は始まらないからである。もちろん、労賃後払いの場合は、現実に労働が支出されてから支払われるが、しかしそのことは生産の開始時点で、可変資本も労働力に転換されている必要があるということとまた別の問題であろう。確かに労働力は日毎に再生産される必要があり、だから可変資本は独特の循環形態をとるが(そのような想定は可能だが、常にそうした想定が必要というわけでもない。問題の簡単化のためにはそうした想定は不要であろう)、しかし常に生産過程には不変資本(生産手段)だけでなく、可変資本(労働力)も現物形態で存在しなければならない(そうでないと現実の生産が出来ない)という点では両者に何ら異なる点はないのである。だからこうしたことは部門逆転の理由にはならないのではないだろうか。
 この第三の理由も了解しがたい理由である。マルクスの拡大再生産の考察過程を考えるなら、蓄積の物質的基礎が追加的生産手段だけであるなどということは出来ないからである。マルクスは最初の問題を限定して考察しているケースを除いては、常に部門 I の蓄積と同時に部門IIにおける蓄積も行なわれるものと想定して考察し、計算しているからである。だからその限りでは、追加生活手段の生産も拡大再生産の物質的基礎と言いうるからである。だからこうした理由も納得しがたいのである。

 (以下、この項目は次回に続きます。)

2009年7月 1日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その18)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●【スミスのドグマについての最終的な総括】に関して

 大谷氏は「(3) 第2稿第3章にたいする第8稿第3章の理論的前進」(※)の最初の項目としてこの問題を取り上げている。ここではマルクスは労働の二重性からスミスのドグマを最終的に批判しただけでなく、スミスが区別していないさまざまな流通過程および生産過程がどのように絡み合っているかを明らかにして、そのドグマのたえず再生産される原因をも明らかにしたことが指摘されている。そしてさらに大谷氏は〈マルクスはこの第八稿で、スミスの分析の方法の根本的な欠陥を突いて、スミスの価値論を次のように総括的に批判している〉(中129頁)として次のマルクスの一文を紹介している。

 《A・スミスが問題にする商品は、はじめから商品資本……であり、つまり、資本主義的に生産された商品であり、資本主義的生産過程の結果である。だから、この過程が(したがってまたそれに含まれている価値増殖・価値形成過程が)前もって分析されなければならなかったであろう。この過程の前提そのものがまた商品流通なのだから、この過程の説明はまた、それからは独立な、それに先行する商品分析を必要とするのである。A・スミスが「深奥に」たまたま正しい点を射当てているかぎりでも、いつでも彼はただ、商品分析のついでに、すなわち商品資本の分析のついでに、価値生産を考慮するだけなのである。》(S. 726.27–38.)(中129-130頁)

 そしてこれについて〈これはまさに、マルクスのスミス価値論批判の理論的な到達点と言うべきものであった〉(中130頁)と評価されているのであるが、しかし引用されているマルクスの一文の内容は何か第8稿で初めて「到達」したようなものといえるのであろうか、との疑問を禁じえない。なぜなら、ここで言われていることは、スミスが問題にする商品は、はじめから商品資本、つまり資本主義的に生産された商品だから、資本主義的生産過程を前提するものであり、まずその分析が必要とされる。しかも資本主義的生産過程は、さらにそれに先行する商品分析を必要とするのであって、それが前提される。そうした考察がスミスミには欠けている。つまり抽象的な商品の分析や貨幣の分析が彼らには欠けているということに過ぎない。これは以前にも紹介したが、『経済学批判』の銀行学派に対する批判がそのまま当てはまる。それをもう一度紹介しておこう。

 《総じてこれらの著述家たちは、まずもって、単純な商品流通の内部で展開されるような、そして、過程をへる諸商品それ自体の関連から生じてくるような抽象的な姿で、貨幣を考察することをしない。だから彼らは、貨幣が商品との対立のなかでうけとる抽象的な諸形態規定性と、資本や収入〔revenue〕などのような、もっと具体的な諸関係をうちにかくしている貨幣の諸規定性とのあいだをたえずあちこちと動揺するのである。》(全集13巻161-162頁)

 だからこうしたスミス批判が、第8稿の段階でのマルクスの最終的な「到達点」だとされる大谷氏の評価には首をかしげざるをえないのである。そもそも『資本論』の構成を振り返れば、マルクスがここでスミスを批判して述べていることは、自身の『資本論』の構成をそのまま対置していると言ってもよいようなものである。だからそうしたものが『資本論』の草稿の最終段階でようやく到達したかに言われる大谷氏の主張には納得が行かないのである。

 さらに大谷氏は上記の評価に続けて、次のようにも述べている。

 〈のちに述べるように、マルクスは第8稿で、第2稿の第3章でもまだ残っていた、社会的総再生産過程をまずなによりも商品と商品との転換と見る、古典派の貨幣ベール観を最終的に脱ぎ捨てた。これは、スミス批判を理論的な実践によって完遂したことを意味していた。〉(中130頁)

 〈のちに述べる〉とされているのだから、その時に問題にすればよいのであるが、しかし〈社会的総再生産過程をまずなによりも商品と商品との転換と見る、古典派の貨幣ベール観を最終的に脱ぎ捨てた〉と言われるのであるが、しかし社会的総再生産過程を商品資本の循環過程(W’-G’-W…P…W’)としてみるマルクスの立場は、いわばそれを(W’-…W’)としてみることでもあり、それは〈商品と商品との転換〉として見ることでもあるのである。要するに大谷氏は貨幣流通による媒介を捨象した再生産過程の考察の意義を認めないから、そうした考察を〈古典派の貨幣ベール観〉だと揶揄しているに過ぎないのである。しかし、マルクスが果たして本当にそうした立場に、つまり貨幣流通による媒介を捨象した考察の意義を否定する立場に立ったのかどうかという点については、すでに述べてきたように根本的な疑問を持たざるをえないのである。

 さらにこれは大した問題ではないので、ついでに指摘するのであるが、大谷氏は〈マルクスは、スミスが区別していない労働そのものの二重の性格を、商品流通の表面に現われる単純な商品の分析によってつかみだした〉(中129頁)と言われるのであるが、〈商品流通の表面〉ではなく、ブルジョア社会の表面〉ではないのだろうか。なぜなら、マルクスは次のように述べているからである。

 《われわれは、最も単純な経済的関係・ブルジョア的富の基素(エレメント)・としてブルジョア社会の表面に現われるような商品から出発した。》(草稿集第4巻54頁)
 《この単純な流通はブルジョア社会の表面であって、それが出てくるところの、もっと深い所で行われる諸操作は、そこでは消え去っているのだが、このようなそれ自体として考察された単純な流通は、交換のいろいろな主体のあいだの相違を、ただ形態的で一時的な相違のほかには、なにも示していない。(全集29巻249頁)

 単純な商品流通そのものが資本主義的生産の「表面に現われている」ものではないのかと思うのである。

(※)ここで大谷氏は表題を「(3) 第2稿第3章にたいする第8稿第3章の理論的前進」としている。確かに大谷氏は、先に〈この第8稿の1ページの行頭には、「第2部第3章〔Ch. III,b. II〕」(S. 698.1)という見出しがあとから書き込まれている〉(中128頁)と指摘されていた。しかし他方で、大谷氏は〈彼(=マルクス--引用者)は、1872年の『資本論』第1巻第2版で、初版での7章編成を7篇編成に組み換えたが、この先例に合わせて、これ以降は第2部も、3章編成から3篇編成に変更した〉(中119頁)とも述べていたのである(だから私はその矛盾を指摘したのであったが)。つまり大谷氏の理解では、第8稿の段階では第2稿で「第3章」であったものは、「第3篇」でなければならないはずである。にも関わらず、この表題では、相変わらず「第8稿第3章」としているのはいかがなものであろうか。マルクスの草稿どおりにしたといわれるならそれまでであるが。

●【「実体的諸条件」の解明から社会的総再生産過程の考察への課題の転換】についても疑問

 これは「(3) 第2稿第3章にたいする第8稿第3章の理論的前進」の二つ目の項目であるが、ここで大谷氏は、それを次のように説明している。

 〈第8稿では、第3篇の課題について、さきに第2稿で獲得された「e  第3章の課題についての新たな視点」として述べた観点が、考察の全体を貫くようになった。ここにはもはや、第2稿までの、社会的再生産における「実体的素材変換」にかかわる「実体的諸条件」という文言はどこにも見ることができない。〉(中130頁)

 しかし大谷氏は第8稿が貨幣流通による媒介を顧慮した社会的総再生産過程(単純および拡大)の考察に、マルクス自身は限定して、それを「先取りして」論じている、ということが分かったなら、すなわち第8稿がそうした限定した性格のものであることが分かっているなら--そしてわれわれはすでに「利用すべき諸箇所」「ノートII」のところで、マルクスが《この第二の叙述が基礎に置かれなければならない》と書いたこと、そしてこの指示のあとに書かれたマルクスの諸草稿は、まさにそうした指示にもとづいた性格を持っていること、すなわちそれらすべてが部分的・断片的なものにすぎず、第8稿もその例に洩れないことを指摘した--、そこで〈社会的再生産における「実体的素材変換」にかかわる「実体的諸条件」という文言はどこにも見ることができない〉ことは何ら不思議でもなんでもないことに大谷氏は気付いたことであろう。というのはすでに問題の重点はそうした問題になかったからである。しかしそのことは「実体的素材変換」「実体的諸条件」がどうでもよいものであるということでは決してない。事実、マルクス自身も第8稿の《II 蓄積または拡大された規模での生産》でもそうした考察を行なっているからである。その一例を紹介してみよう。
 
 (残念ながら字数オーバーです。だから第8稿から引用とその考察、およびこの項目に関連したそれ以外の批判的検討は、次回に回します。)

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