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2009年7月31日 (金)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その39)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているかの続きで、「その3」です。)

 ところで大谷氏はマルクスが項目「b」で提起している問題に移る前に、次のように書いている。

 〈そのうえでマルクスは、両部門とも剰余価値の半分を蓄積するものとし、両部門間の転換のうち、 I (1000v + 500m) とII1500cとの転換と、第 I 部門内部での I 4000cの転換とを、研究済みとして度外視し、残る、 I 500mとII(376v + 376m) のそれぞれの内部での、また両者の間での、蓄積のために必要な転換を研究する。その結果、彼は、第II部門は第 I 部門の剰余生産物から、蓄積のための追加不変資本として140の生産手段を買うが、第 I 部門が、受け取った貨幣を蓄積を準備する可能的貨幣資本として流通から引き上げるので、第II部門はその剰余生産物のうちの140を貨幣化することができない、という事態を見いだす。そこで、彼は言う。〉(下174頁)

 これはマルクスが項目bにうつる直前のパラグラフの説明として大谷氏が行なっているつもりなのであろう(というのは、それに続く引用文--それはすぐに紹介する--はbと項目が打たれたパラグラフの冒頭から引用されているからである)。しかしその内容は決してbの直前のパラグラフの内容とは合致していない。そこには大谷氏の勝手な解釈によるものが混入されている。マルクスが実際に書いているパラグラフは次のようなものである(しかしマルクスが計算間違いをしている数値はそのままにしてある)。

 《したがって,ここで研究しなければならないものとして残っているのは,500m( I )と376v+376m(II)とであって,《それらが》一方では両方のそれぞれの側での内部関係に関わるかぎりで,他方では両方の側のあいだでの運動に関わるかぎりで,研究する必要があるのである。IIでも同じく剰余価値の半分が蓄積されることが前提されているのだから,ここでは188が資本に転化することになり,そのうちの1/4(1)の47が可変資本で,これを概数計算のために48とすれば,不変資本に転化されるべき188-48=140が残る。》(大谷訳下12頁)

 このようにマルクス自身は、IIでの蓄積額が188であり、そのうち可変資本に48、不変資本に140が転化されると述べているだけである。だから大谷氏が〈その結果、彼は、第II部門は第 I 部門の剰余生産物から、蓄積のための追加不変資本として140の生産手段を買うが、第 I 部門が、受け取った貨幣を蓄積を準備する可能的貨幣資本として流通から引き上げるので、第II部門はその剰余生産物のうちの140を貨幣化することができない、という事態を見いだす〉などと述べているのは、ただ大谷氏が後のマルクスの敍述をもとに勝手に自身の憶測を並べているだけなのなのである。というのは後のマルクスの敍述を見ても、ここで大谷氏が言っているような〈第 I 部門が、受け取った貨幣を蓄積を準備する可能的貨幣資本として流通から引き上げる〉というようなことはマルクス自身は一言も述べていないからである。マルクスが言っているのは、ただ部門 I は500mをすべて蓄積に回すということだけである。その蓄積に回す500mの具体的な内容についてはまったく不問にしているのである。ここにはマルクスの敍述上の工夫があると思われるので、その点は厳密に読む必要があるのである。

 さて、大谷氏は上記の一文に続けて、項目bの冒頭の一文を引用している。われわれもそれを重引しておこう。

 《われわれはここで一つの新しい問題にぶつかるのであるが、ある種類の諸商品が他の種類の諸商品と交換されるのが常だ、同じように、商品と貨幣とが交換され、その貨幣がまた別の種類の商品と交換されるのが常だ、という日常的な理解(3)にとっては、このような問題があるということだけでも奇妙だと思われるにちがいない》(S. 807.35–38)(下174頁)。

 そしてこの引用文のなかにある一文に注(3)をつけて、次のようにそれを説明している。

 〈(3)この、「ある種類の諸商品が他の種類の諸商品と交換されるのが常だ、同じように、商品と貨幣とが交換され、その貨幣がまた別の種類の商品と交換されるのが常だ、という日常的な理解」とは、貨幣をもっぱら流通手段とみなす、古典派経済学以来の貨幣ベール観にほかならない。〉(下190頁)

 これはこの限りではまったく正しいように思える。しかし大谷氏はなぜマルクスはここでそのことを指摘しているのかについて、その意味を理解されているとは言い難いのである。なぜなら、この引用文に続けて、大谷氏は次のように書いているからである。

 〈この問題は、なぜ、「新しい問題」なのであろうか? まず、これまですでにマルクスは、単純再生産の分析で、固定資本の償却および更新から必至となる一方的販売および一方的購買を見ただけではなく、直前の拡大再生産の分析の3で、蓄積ファンドの形成および解消から必至となる一方的販売および一方的購買を見ていたのだから、ここでの問題は、単なる、一方的販売による貨幣蓄積と一方的購買による現実的蓄積との量的不一致という問題でないことは明らかである。〉(下174頁)

 しかし先のように、マルクスが古典派経済学の貨幣ベール観にたっている限りは、このような問題があるということだけでも奇妙だと思われるに違いない》とわざわざ書いているとするなら、マルクスがそれによって何を問題にしようとしているかは明瞭ではないだろうか。すなわちそれは資本の流通においては、貨幣は単なる流通手段としての機能だけで捉えるだけでは不十分であること、貨幣は蓄蔵貨幣においても、資本の流通を媒介する上で必然的な契機として入ってきて、それに固有の諸条件をもたらすこと、それがすなわち資本の流通では貨幣は流通手段だけでなく貨幣資本でもあることからくる条件だとマルクスは述べていたのではなかったのか。そのように、貨幣ベール観の立場に立てば問題にもならない問題を、これからマルクスは「一つの新しい問題」として提起すると言明しているのだから、その「一つの新しい問題」が何であるか明らかであるように思えるのである。だから、どうして大谷氏のような結論が引き出されるか、まるで理解できないのである。マルクスが以前はどのように述べていたのかをわれわれはもう一度確認しておこう。

 《しかし,単に一方的な諸変態,すなわち一方では大量の単なる購買,他方では大量の単なる販売が行なわれるかぎり--そしてすでに見たように資本主義的な基礎の上での年間生産物の正常な転換はこれらの一方的な変態を必然的にする--,均衡はただ,一方的な購買の価値額と一方的な販売の価値額とが一致することが前提されている場合にしか存在しない。商品生産が資本主義的生産の一般的形態だということは,貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本として資本主義的生産において演じる役割を含んでいるのであり,またそのことは,単純な規模のであれ拡大された規模のであれ再生産の正常な転換の,正常な経過の,この生産様式に特有な一定の諸条件を生みだすのであるが,均衡は--この生産の形成は自然発生的であるので--それ自身一つの偶然だから,それらの条件はそっくりそのまま,不正常な経過の諸条件に,恐慌《の諸可能性》に一転するのである。》(草稿51頁、大谷訳上49頁)

 ここでマルクスが商品生産が資本主義的生産の一般的形態だということは,貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本として資本主義的生産において演じる役割を含んでいる》と述べているのは、現実の蓄積のために必然的な契機として入ってくる貨幣蓄蔵について述べていること、一方における蓄蔵貨幣の形成のための一方的販売と、他方における蓄蔵貨幣が現実の蓄積のために投下される一方的購買との価値額の一致という条件について述べていることは明らかである。

  (以下、この項目はさらに続きます。)

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