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2009年7月30日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その38)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているかの続きです。この項目は何回かに分けて論じる必要がありそうなので、今回は「その2」とします。)

 ところで大谷氏は先の説明で、マルクスは〈単純再生産のための配列をもった表式と拡大再生産の出発のための表式(いわゆる出発表式)とを比べて、「一方のbの場合には、年間生産物の諸要素の機能配置がふたたび同じ規模での再生産が開始されるようになっているのに、他方のaでは、その機能配置が拡大された規模での再生産の物質的基礎をなしているだけである」(S. 807.5–8)と言い、続けて、「このことは、『資本論』第1部で別の諸観点から検討したジェイムズ・ミルS・ベーリとのあいだの資本の蓄積にかんする争い、すなわち産業資本の大きさが不変な場合のそれの作用の拡張可能性にかんする争いに、きっぱりと決着をつけるものである」(S. 807.9–12)と書き、この最後の章句の欄外に線を引いている。これによって、さきに1のところで立てられた、現実の蓄積すなわち拡大再生産が開始されるための前提が、どのようにして単純再生産のもとでつくりだされることができるのか、という問題に明快な解答が与えられたことになる〉と述べていた。ここで〈『資本論』第1部で別の諸観点から検討したジェイムズ・ミルS・ベーリとのあいだの資本の蓄積にかんする争い、すなわち産業資本の大きさが不変な場合のそれの作用の拡張可能性にかんする争い〉なるものが、果たして〈現実の蓄積すなわち拡大再生産が開始されるための前提が、どのようにして単純再生産のもとでつくりだされることができるのか〉というような内容をめぐる争いだったのかどうか、それが問題である。それを検討してみよう。実はこれについては、すでに21章該当部分の段落ごとの解読のなかで説明しているので、それをほぼそのままここに転用することにする。それは次のようなものである。

 【マルクスはここでは『資本論』第1部のジェイムズ・ミルとサミュエル・ベーリとのあいだの資本蓄積にかんする争い、なるものを取り上げている。つまり上記のマルクスの論述は、この両者の争いに〈きっぱりと決着をつける〉ものだというのである。この両者の争いとはどういうものであろうか?
 この両者の争いについては詳しくは知るよしもないが、マルクスが第1部で論じていることは(これは現行版では22章第5節にある注64、フランス語版では24章第5節の注56に関連しているのだが、この第5節は現行版とフランス語版とでは大きく異なっており、マルクス自身はドルゲに宛てた英語版への指示から見て、第8稿では、恐らくフランス語版を想定して論じていると考えてよいであろう)、経済学者たちは社会資本を固定的なものと見て(そこには労働財源も固定的なものとして低賃金を正当化する底意があった)、それをドグマとしていたが、ベーリはそれを批判していたようである。注では次のベーリの一文が引用されている。

 「経済学者たちは、一定量の資本および一定数の労働者を、一様な力を持つ生産用具として、またある一様な強度で作用するものとして取りあつかう傾向が強い。・・・・商品が生産の唯一の動因であると主張する人々は、総じて生産というものは拡大されえない、というのは、そのような拡大のためには、生活手段、原料、および道具が前もって増加されていなければならないからである、というように論証するのであるが、これは事実上、いかなる生産の増大も、前もって生産が増大しなければ起こりえない、言いかえれば、いかなる増大も不可能であるということになる」(S・ベイリー『貨幣とその価値の転変』、五八、七〇ページ)

 こうした論争に〈きっぱりと決着をつける〉とマルクスはいうのだが、それは要するに問題は蓄積のために必要なのは、〈与えられた生産物のさまざまな要素の違った配列、あるいは違った機能規定を前提するだけなのだということなのである。ベイリーが「いかなる生産の増大も、前もって生産が増大しなければ起こりえない、言いかえれば、いかなる増大も不可能であるということになる」というのに対して、マルクスはそうでなく、問題は与えられた生産規模においても、そこにおける生産物のさまざまな要素の配列如何、機能如何によるのだと反論しているわけである。だから「蓄積のためには蓄積が前提される」という主張を、マルクスは一方でその正当性を認め、自らも前提しているのに、他方で、それを否定しているかに見える場合もあるのは、それを否定しているときは、まさにここでベイリーが述べているような意味で、つまり「いかなる生産の増大も、前もって生産が増大しなければ起こりえない」といった主張の批判として(「増大」には「増大」が前提するという同義反復に対して、「同じ規模」でも蓄積は可能だという批判として)述べていると解すべきであろう。蓄積のためには蓄積が前提されるというのは、蓄積に必要な追加的生産手段や追加的生活手段が市場に見出される必要があるということであり、そのためには前年度の剰余生産物がそうしたものとして生産されていなければならないこと、すなわちそれらを生産した前年度の再生産の機能配置がすでにそうしたものになっていなければならないこと(これ自体は必ずしも生産の「増大」を前提せずとも、「同じ規模」でも可能である)、すなわちすでに単純再生産ではなかったこと(つまり拡大再生産=蓄積のための機能配置であったこと)を前提するという意味で言われていると解すべきであろう。】

 このようにマルクスが、ジェイムズミルベーリとのあいだの資本の蓄積にかんする争い、すなわち産業資本の大きさが不変な場合のそれの作用の拡張可能性にかんする争い》と述べている問題は、決して〈現実の蓄積すなわち拡大再生産が開始されるための前提が、どのようにして単純再生産のもとでつくりだされることができるのか〉というような問題ではなく、それに《きっばりと決着をつける》というものではないことが分かるであろう。なぜなら、この場合も単純再生産そのものが問題なのではなく、ただ規模の点で単純再生産と同じであっても、すでに機能配置が拡大再生産になっているなら、蓄積は可能だということだからである。例え規模は単純再生産と同じでも機能配置が拡大再生産のそれになっているなら、それは拡大再生産であって、そうした機能配置の商品資本が生産されたということはすでにそれを生産した生産過程が単純再生産ではなかった(剰余生産物が単純再生産とは違ったものとして生産されている)ことを意味するからである。だから大谷氏らが理解するように、マルクスは決して単純再生産から如何にして拡大再生産に「移行」するかなどということを問題にしているのではないからである。

 以下、大谷氏はマルクスが「b)」と項目を書いた部分の説明に移るのであるが、その主張はただ混乱としかいいようがない問題点が含まれているように思える。それをこれから見ていくことにしよう。

 マルクスの敍述を辿ると、マルクス自身は、項目「a」において、「困難」の最後の帰結として単純再生産の表式のどの部分の機能配置を変える必要があるかを明らかにしたあと、ではそれがどういうものでなければならないかを、実際に機能配置が拡大再生産になっている表式(a表式)を提示して、さらにもう一度、拡大再生産の本質が単純再生産との量的相違にあるのではなく、質的相違にこそあることを、今度は表式を使って再確認するとともに、今度は拡大再生産では、では以前の単純再生産の表式の考察を前提するなら,何が新しく考察の対象になるのか、何が新たな問題として考察されなければならないのかを、つまり考察の対象を限定し、明確にすることも、この項目「a」での課題の一つとして考えていたことが分かる。そして項目「b」では、拡大再生産の表式を前提して、部門IIにおける蓄積のための貨幣蓄蔵が如何に形成されるのかという「一つの新しい問題」を、蓄積のための《貨幣源泉が部門IIのどこで湧き出るのか》という困難として提起して、しかしそれも「部門 I での蓄積」と同様に、そうした困難は単なる外観上のものに過ぎないことを明らかにして、部門IIでの蓄積のための貨幣源泉も、結局は、部門 I でのそれと同じように解決されうること、されなければならないことを確認することが「b」の課題だったと思われるのである。こうしてマルクスは最初に提起した(2と項目を打った最後の部分で提起した)《外観上の困難》《部門 I での蓄積》《部門IIでの蓄積》に分けて《詳しく解決する》という課題(草稿47頁、大谷訳上40頁)を、最終的に解決し終える予定だったのである(そしてそれは何度もいうように拡大再生産の概念の解明を終えることでもあった)。しかし、マルクス自身はこの「b」を最後まで仕上げることなく、途中で《云々、云々。》という形で打ち切ってしまっているのである(草稿61頁、大谷訳下21頁)。だからこの「b」で提起されている問題に対して、さまざまな解釈や憶測を生み出し、混乱をもたらしているともいえるのである(その意味では、その混乱の責任の一端はマルクス自身にもある)。しかし全体の流れを正確に読み取れば、この「b」で提起されている問題が何であるのかは明確であり、間違うことはない。

 (以下は、次回に続きます。)

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