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2009年7月29日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その37)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているか

 次は[c 一回目の試み――「一つの新しい問題」と解決の挫折] というものである。これは一般には「a表式」と言われている表式のことであり、それに関連して、マルクスが「b)」と項目をつけている部分で言及している「一つの新しい問題」を如何に理解するか、という問題である。このa表式の提示を、「一回目の試み」などと位置づけることそのものが、a表式の評価として間違っていることは、すでに指摘した。a表式がそもそもどうしてここで--5のa)と項目が打たれたところで--提示されているのか、という肝心なことが理解されていないために、それ以降のマルクスの説明についても、まったく正しい理解は望めないのである。いずれにせよ、大谷氏の説明を紹介していこう。大谷氏はa表式を紹介したあと、次のようにそれを説明してる。

 〈草稿の59ページで、マルクスは、「われわれは次の表式によって再生産を考察する」(S. 806.13)と言って、次の「表式a」を示し、両部門での蓄積についての検討を始める。

     I) 4000c + 1000v + 1000m = 6000 
 a)                                                                =8252
     II) 1500c +  376v +  376m = 2252 

 このすぐあとで、マルクスは拡大再生産の開始について、さきに3および4で明らかにしたことを一般化して、きわめて重要な確認を行なっている。すなわち、拡大再生産の開始は、「与えられた生産物量のさまざまな要素の違った配列あるいは機能規定を前提するだけ」であり、ここで変化するのは再生産の諸要素の「質的規定」であって、この変化がそのあとに続いて行なわれる拡大再生産の「物質的前提」だ、ということである(S. 806.25–34)。そして、単純再生産のための配列をもった表式と拡大再生産の出発のための表式(いわゆる出発表式)とを比べて、「一方のbの場合には、年間生産物の諸要素の機能配置がふたたび同じ規模での再生産が開始されるようになっているのに、他方のaでは、その機能配置が拡大された規模での再生産の物質的基礎をなしているだけである」(S. 807.5–8)と言い、続けて、「このことは、『資本論』第一部で別の諸観点から検討したジェイムズミルS・ベーリとのあいだの資本の蓄積にかんする争い、すなわち産業資本の大きさが不変な場合のそれの作用の拡張可能性にかんする争いに、きっぱりと決着をつけるものである」(S. 807.9–12)と書き、この最後の章句の欄外に線を引いている。これによって、さきに1のところで立てられた、現実の蓄積すなわち拡大再生産が開始されるための前提が、どのようにして単純再生産のもとでつくりだされることができるのか、という問題に明快な解答が与えられたことになる。〉(下173-4頁)

 大谷氏の説明では、なぜ、この時点で、マルクスはa表式を提示したのかがまったく分からない。とにかくマルクスはここから突然、拡大再生産の表式を使った「分析」を開始するのであり、その「一回目の試み」が開始されるというわけである。しかしこの表式のすぐあとに続くマルクスの説明は、どうやら大谷氏の理解では、〈3および4で明らかにしたことを一般化〉したり、〈1のところで立てられた……問題に明快な解答〉を与えたりしているというのである。しかしそれは「一回目の試み」としては若干違和感が否めない。というのは大谷氏が「二回目の試み」と考えている、B表式、つまりマルクス自身によって《拡大された規模での再生産のための出発表式》と名付けられている表式においては、すぐに部門 I からの蓄積の計算に入っているのに、「一回目の試み」ではそうではないからである。こうした表面的な相違だけでも、a表式とB表式とでは提示している目的が異なることが分かりそうなものである。
 ところで大谷氏によると、このa表式のあとのマルクスの説明は、〈3および4で明らかにしたことを一般化〉して、単純再生産から拡大再生産に如何に「移行」するかという〈問題に明快な解答〉を与えたのだというのである。もちろん、〈3および4で明らかにしたこと〉〈1のところで立てられた〉問題が〈現実の蓄積すなわち拡大再生産が開始されるための前提が、どのようにして単純再生産のもとでつくりだされることができるのか〉というようなものではなかったことはすでに詳しく論証した。そうした理解が間違いであるのと同じように、a表式のあとに展開されているマルクスの一連の説明をそうしたものとして理解することもまた間違っているとしか言いようがない。実際のマルクスの説明にもとづいて、それを検証してみよう。

 マルクスは上記のa表式を提示したあと、表式の計算などにとりかかるのではなく、《まず第1に気がつくのは,年間の社会的再生産の総額が8252で,表式 I )で9000だったのに比べて小さくなっているということである》と全体の「規模」を問題にしている。ここで《表式 I )》と述べているのは、単純再生産で論じた表式を指しているのである。つまりここでも、すなわち拡大再生産の表式を提示したあとも、マルクスはまず「規模」としては単純再生産より小さいことを指摘し、拡大再生産はだから規模の問題(量の問題)ではなく、質的な問題であることをふたたび確認しようとしていることが分かるのである。実際、マルクスは《表式 I よりもはるかに大きい額を取ること》もできる、とa表式の規模を10倍にした表式を示したあと、次のように述べている。

 《〔しかしながらa)で〕表式 I での額よりも小さい額を選んだのは,次のことが目につくようにするためにほかならない。すなわち,拡大された規模での再生産(これはここでは,より大きな資本投下で営まれる生産のことである)は生産物の絶対的大きさとは少しも関係がないということ,この再生産は,与えられた商品量について,ただ,与えられた生産物のさまざまな要素の違った配列あるいは違った機能規定を前提するだけであり,《したがって》価値の大きさから見れば単純再生産にすぎない,ということである。単純再生産の与えられた諸要素の量ではなくてそれらの質的規定が変化するのであって,この変化がそのあとに続いて行なわれる拡大された規椹での再生産の物質的前提なのである。》(大谷訳下8頁)

 注意が必要なのは、ここでもマルクスは価値の大きさから見れば単純再生産にすぎないと述べている。これは決して単純再生産そのものを問題にしているのではないのである。これは以前(草稿53頁、大谷訳上57頁)においても単純再生産--《たんに》価値の大きさ《だけ》から見れば--の内部で、拡大された規模での再生産の、現実の資本蓄積の、物質的土台〔Substrat〕が生産される》と述べていたのと同じである。これは決して〈現実の蓄積すなわち拡大再生産が開始されるための前提が、どのようにして単純再生産のもとでつくりだされることができるのか〉ということと同じではないのである。マルクスが言っているのは、拡大再生産というのは量の問題ではなく、質の問題であるということである。だからそれが分かるように、敢えて価値の大きさかから見れば単純再生産と同じ規模にしたり、それよりも小さくとったりしてるのだ、ということである。マルクスはさらにそれが分かるように、a表式と全体の規模が同じで、単純再生産の機能配置になっているb表式まで提示して、次のように念を押している。

 《表式a)で現われようとb)で現われようと,どちらの場合にも年間生産物の価値の大きさは同じであって,ただ,一方のb)の場合には年問生産物の諸要素の機能配置がふたたび同じ規模での再生産が開始されるようになっているのに,他方のa)ではその機能配置が拡大された規模での再生産の物質的基礎〔Basis)をなしているだけである。》(大谷訳10頁)

 われわれが気付くのは、マルクス自身はa表式について、すぐにその計算にかかるのではなく、あくまでも拡大再生産の概念をもう一度、今度は表式を使って念を押していることである。こうしたマルクスの説明を見ても、これが決して大谷氏が言うように〈一回目の試み〉などというものでは決してないこと、それはマルクスがそれ以前の拡大再生産の概念を解明するための一連の考察の一つの帰結として、最初から機能配置が単純再生産とは違って拡大再生産のものになっている表式を、一つの具体例として提示したものであることが分かるのである。

 (この項目は、次回に続きます。)

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