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2009年7月28日 (火)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その36)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●何のための〈[a「困難」の確認]〉なのか?の続きです。)

 少し「a)」の部分の敍述を追ってみよう。マルクスは部門 I の剰余価値1000mの半分500mが《ふたたびそれ自身不変資本として部類 I に合体される》と想定する。だからこの部分は部門IIの不変資本の現物形態として補填されるわけには行かないのである。だから2000c(II)の一部500c(II)が現物形態に転換できないことになる。それをマルクスは次のように述べている。

 《だから,2000(v+m)( I )ではなくてただ1500(v+m)( I )だけが,つまり(1000v+500m) I だけが,2000(c)II)と転換可能である。すなわち,500c(II)は,その商品形態から生産資本(不変資本)IIに再転化できないのである。したがって,IIでは過剰生産が生じることになり,その大きさはちょうど I で行なわれた,生産 I の規模の拡大のための過程に対応することになる。》

 ここでマルクスは1000v+500m( I )がIIcと転換されるためには、IIcは2000ではなく、過剰になる500c(II)が削減されなければならないこと、つまり1500c(II)でなければならないことを示唆しているのである。しかしマルクスは直ちにその考察に移らずに、次のパラグラフからはこうした《cIIについての第一の困難》を部門IIにおける商品在庫の存在を想定して《回避》する試みを検討している。そして次のパラグラフでは、こうした試みが、三点にわたって反証され、そうした試みの不可が論証されているのである(こうしたマルクスの特徴的な論じ方にわれわれは注意を促したい。というのは「b)」以降でもまったく同じような論じ方をマルクスはやっているのだからである)。そしてその三つ目の理由として次のように結論している。

 《3)いま避けようとしているこの困難が単純再生産の考察では生じなかったという事情は,とりもなおさず,ここでの問題が I の諸要素の再配列,違った配置(再生産にかんしての)だけに起囚する一つの独自な現象にあることを証明している。この別の配置なしには,およそ拡大された規模での再生産は行なわれえないのである。》

 これがすなわち困難の考察の帰結なのである。そしてマルクスはその次のパラグラフから《さて,次の表式によって再生産を考察しよう》と、最初から I 、II両部門とも拡大再生産の機能配置になっているいわゆる表式「a)」を提示するのである。大谷氏らの解釈だと、この拡大再生産の表式の提示は、あまりにも唐突のように思うかも知れないが、マルクスにとっては、それ以前のすべの考察は、いわばこの表式を提示するためのものだったといっても過言ではないのであり、実際、その直前の「困難」の考察では部門IIの2000cが1500cにされる必要があることまで明らかにしたのである。そしてその上での表式「a)」の提示なのである。そして「a)」表式では、部門IIのcは1500にされ、それに対応する形で、同じ部門のvとmの数値も設定されていることが分かるのである。

 大谷氏の説明では、なぜ、マルクスは「a)」と項目を記している部分で、拡大再生産の表式(a表式)を提示しているのかがまったく説明がつかない。何度も言うが、それはまさにそれまでの一連の「困難」の考察--それは拡大再生産の概念の考察そのものである--の帰結として提示されているのである。そこらあたりの関連が大谷氏にはまったく掴まれていないように思える。マルクスはそれまでの一連の考察で、単純再生産を前提して、その一部の蓄積を仮定するというようなやり方では不合理や困難に陥ることを論証し、だから拡大再生産には単純再生産とは異なる機能配置にもとづくものが必要であることを何度もしつこいほどに論証してきたのである。その最後のものが、すなわち「a)」と項目が書かれている部分の前半において考察されているものなのである。そこでは具体的に単純再生産の表式のどこをどのように変えるべきかまで考察されているのである。だからそれまで何度も拡大再生産には単純再生産とは異なる機能配置にもとづものが必要であることを論証した結果として、ではそれでは、それはどういう機能配置にもとづくものなのかを具体的に示したものこそ、この「a表式」なのである。だからこそa表式は「a)」と項目が書かれた最後の困難の考察の帰結として「a)」の項目のなかで提起されているのである。こうしたa表式の提起の意味も大谷氏は何一つ理解されていないことはすぐに見るであろう(大谷氏はそれを何かマルクス自身が、いまだ模索途中の不十分な認識のもとに提起した「第一回目の試み」であるなどという捉え方をしているのである!)。マルクスの草稿を忠実に辿るなら、いわゆる「a表式」は項目「a」のなかで提示され、その「a表式」にもとづく考察は「b」の最後まで(と私が考えている横線で区切られた部分まで--大谷訳では下21頁まで--)続き、そこで終わっているのである(なぜなら、その次からはまた新しい「B式」が提示されているから)。そしてだから何度も言うが、《5)部門IIでの蓄積》の考察そのものも、すなわち「部門 I での蓄積」「部門IIでの蓄積」に分けて考察されてきた「拡大再生産の概念」の解明そのものも、実はこの横線で区切られたところで終わっているのである。

●同じような拡大再生産の表式の提示でも、その目的や役割、位置づけには決定的な相違がある

 次に大谷氏は[b 表式を利用した蓄積の進行過程の考察]に移る。そして次のように書き出している。

 〈続いてマルクスは、両部門で蓄積の準備が行なわれ、両部門で現実の蓄積が進行する過程を、表式を利用しながら考察する。この表式展開の試みは5回繰り返されている。〉(下173頁)

 このように大谷氏はマルクスが「a)」と項目を打ったところで提示している表式(いわゆるa表式)と、そのあと《貨幣源泉はIIのどこで湧き出るのか》を論じた一連の考察を途中で打ち切って提示しているB表式(草稿61頁、大谷訳下21頁)以下とを、同じ〈表式展開の試み〉(下173頁)と捉えているのである(そしてこの点に限れば、大谷氏にはエンゲルスのこの部分の編集を批判する資格はないであろう)。もちろん、大谷氏は続けて〈この5回の展開の試みは、それぞれ異なった仕方で行なわれており、引き出されている結論も異なっており〉(同)とも述べているが、しかし、a表式とB表式以降との拡大再生産の表式の提示の目的や意義の決定的な相違というものにまったく気付かれていないのである。それらはa表式も含めて、〈マルクスがここでやろうとしたのは――エンゲルス版がわれわれに与えてきた印象とは違って――何年にもわたって進行する拡大再生産の過程を表式の形態で記述しようとする試みだったのではなくて、表式の助けを借りてそのような過程の進行を分析しようとする試みだった〉(同)というのである。しかしこれまで論じてきたことからすでに明らかなように、こうした捉え方は極めて問題があると言わざるをえない。
 なぜなら、マルクスがa表式を提示したのは、それまでの一連の考察で拡大再生産のためには単純再生産とは異なる機能配置にもとづ表式の提示が必要であることを論証してきた、いわばその帰結して、具体的に拡大再生産の表式を例示したものなのである。それに対して、B表式は、すでにそれまでの一連の考察で拡大再生産の概念が解明されて、拡大再生産のために必要な表式も明らかにされたあと、では今度は、拡大再生産にはどのような法則性があるのかを解明するために、拡大再生産の表式の機能配置のさまざまな具体的数値を変更しながら、年次を重ねて表式を計算して、部門 I と部門IIとの相互的な制約関係等を探っていくことが目的なのだからである。だからa表式の提示とB表式以降の表式の提示とその計算の試みとでは、その目的や意義付けがまったく異なるのである。

 ただついでに指摘しておくと、大谷氏が、ここでエンゲルス版が与える印象、つまり〈何年にもわたって進行する拡大再生産の過程を表式の形態で記述しようとする試み〉に対して、対置しているものは〈表式の助けを借りてそのような過程の進行を分析しようとする試みだった〉というものである。しかし、この二つの対立点というものは極めて分かりにくい。エンゲルスの編集だとただ「記述」するだけで、「分析」がないとどうやら大谷氏は言いたいらしいのだが、そんなことが果たして断定できるのであろうか。エンゲルス版でも、「第一例」「第二例」のあと「蓄積が行なわれる場合のIIcの転換」として、それまでの一連の考察がまとめられているのだから、それまでの考察がただ「記述しようとする試み」だけで、「分析しようとする試み」では無かったなどとは言えないのではないだろうか。要するにエンゲルス版と大谷氏の理解とにはさしたる相違はないと言えるのである。

 これもまあ大して重要な問題ではないが、もう一つつけ加えると、こうした大谷氏の説明は、以前の同氏の説明とも若干違っているということである。大谷氏はこの論文の最初のあたりで、次のように述べていた。

 〈マルクスはこの「5」のなかで、エンゲルス版でそう見えるのとは違って、両部門間の過不足のない相互補填のもとで順調に進行する拡大再生産の過程を示すような表式を描こうと苦心惨憺したのではまったくなかった。マルクスは、浮上した困難を打開する道を探るために表式を利用しただけだった。〉(上143頁)

 このように大谷氏は最初は〈浮上した困難を打開する道を探るために表式を利用しただけだった〉と説明していたのである。ところが今回は〈表式の助けを借りてそのような過程の進行を分析しようとする試みだった〉と説明されている。つまり今回は〈浮上した困難〉〈打開〉についてはまったく問題にされていない。この両者の説明には、かなり違ったものを私は感じるのであるが、どうであろうか。

 さて、やや横道にそれたが、だから大谷氏が次のように書いているのも納得できないのである。

 〈そのような観点に立って、この5回の表式展開を見ると、マルクスは1回目の試みを行なうなかで、それまで彼にまだはっきりとは見えていなかった重要な内的関連に気づき、それを生かす仕方で2回目の試みを行なうが、勘違いや計算の誤りから、表式の展開が思いがけない結果をもたらしたために展開を中断したこと、3回目および4回目のスムーズに進められない展開もそれぞれ中断したのち、5回目の表式展開を3年度の期首まで進めたところで、得られた結果を一般化して記述したことが分かる。〉(下173頁)

 しかしこうした問題も続く一連の考察のなかで具体的に指摘していく予定なので、ここではこれ以上、この問題について論じることはやめておこう。

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