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2009年7月27日 (月)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その35)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●何のための〈[a「困難」の確認]〉なのか?

 さて、大谷氏の最初の項目は[a「困難」の確認]というものである。大谷氏はそれについて次のように述べている。

 〈この5では、まず、4の末尾でつかみ出された「困難」、すなわち、「諸要素が――たとえば来年といった将来の拡大を目的として――違うように配列ないし配置されているだけ」であるような、 I での生産規模拡大のための過程が、IIでは、それと同じ大きさの過剰生産をもたらす、という困難が確認される。〉(下172-3頁)

 これが項目「a」で書かれていることのすべてである。これでは、大谷氏はの冒頭における考察は、〈4の末尾でつかみ出された「困難」〉が、ただ再び〈確認される〉だけだと考えているとしか捉えようがない。しかし大谷氏は4や5における「困難」の確認が何のためになされているのかがお分かりではないように思える。そもそも4の考察と5の冒頭の考察とには明らかに異なる点があることにも、大谷氏はまったく気付かれていないようである。それは次のような点で違っている。

(1)4ではその冒頭の《これまでわれわれは,A,A’,A”,等々( I )が彼らの剰余生産物をB,B’,B”,等々( I )に売ることを前提してきた。しかし,A( I )が,B(II)への販売によって自分の剰余生産物を貨幣化する,と仮定しようという文言から始まっているように、A( I )はB(II)に剰余生産物を販売して貨幣化すると前提されている。それに対して、5では《剰余生産物 I の半分がふたたびそれ自身不変資本として部類 I に合体される》という仮定である。つまり4では I の蓄積は追加可変資本の蓄積であることが想定されているのに、5ではそれは追加不変資本の蓄積が想定されているのである。
(2)5ではその「困難」が《cIIについての第一の困難》と説明されているが、4ではそうした説明はない。
(3)4では部門 I にA群の資本家とB群の資本家が想定され、それと同時に部門IIにもB群の資本家(とA群の資本家)の存在を暗示しているが、5ではA、B二種類の資本家群の存在については言及されていない。
(4)これも重要な相違であるが、4ではA( I )が剰余価値をそれまではB( I )に販売すると仮定されていたのを、今度はB(II)に販売するという仮定であった。しかし具体的な数値にはまったく触れていない。ところが5では I の剰余生産物の半分(1000/2m)が部類 I に合体されるとされており、しかも部門 I と部門IIの単純再生産における部門間の関係表式-- 1000v+1000m( I )と2000c(II)の関係表式--が示されている。

 これだけの相違があるのである。この相違について若干の補足をしておこう。
 まず(2)の相違については、あまり大したことではないように思えるが、しかし考えてみれば、マルクスは5の冒頭をcIIについての第1の困難という文言ではじめているが、しかし「第二の困難」については、何も述べていない。マルクスが「b)」と項目を打ったところからは、「一つの新しい問題」が考察され、それも一つの「困難」であるかに思えるのだが、しかしでは、それが「cIIについての第二の困難」と言えるのか、というとそうではない。それはIIの剰余価値の一部が追加不変資本として蓄積される場合の困難について論じているのだからである。だから5で、 I における追加不変資本の蓄積におけるIIcの困難が「第一の困難」とされていることを考えるなら、 I における追加可変資本のによるIIcの困難が、つまり「4)」と項目を打ったところで考察している「困難」が、あるいは「第二の困難」とマルクスは考えていたかも知れないということである。
 次に(3)で指摘したことは非常に重要なことである。不破哲三氏などは、「4)」以前からのマルクスの一連の「困難」や「不合理」、「矛盾」の確認は、マルクス自身がさまざま「困難」や「不合理」、「矛盾」に突き当たっているのであり、マルクスの「試行錯誤」を示すものだと捉え、大谷氏もそれ以前はともかく、「5)」の「a)」で拡大再生産の表式を提示して以降は、マルクス自身がさまざまな「試行錯誤」を繰り返していると捉えている。しかしこうした捉え方は、マルクスの敍述上の工夫をそのまま馬鹿正直に真に受けた誤解としか言いようがないのである。例えばマルクスが《だが,待て! ここにはなにか儲け口はないものか?》(草稿60頁、大谷訳下15頁)と、わざとおどけた書き方をして、そうした一連の困難の模索が、敢えてそうした困難という形で当面する問題を提起しているだけなのだということを示唆しているのに、多くの人たちは、あたかもマルクス自身が《儲け口》を捜して「暗中模索」し、「試行錯誤」しているかに捉えているのである。マルクスもまさか自分のこうした敍述上の工夫が真に受けられて、誤解されるとは思わなかったであろう。
 しかし、マルクスが「4)」と番号を打った段階でも、すでに部門IIにもこれからそれまで蓄蔵してきた潜勢的貨幣資本を投じて現実に蓄積しようとしている資本家群Bを想定していることを見ても、マルクスにとっては初めから問題は明瞭であり、最終的な問題の解決や結論は明らかであったことが分かるのである。マルクスが実際に部門 I と同様に、部門IIにおいてもA群の資本家とB群の資本家を想定するのは、実は、この草稿の一番最後の部分、エンゲルスが「補遺」とした部分においてである。つまりマルクスがそうしたわざとおどけた表現を使ったりして論じてきて、最後に「云々、云々。」という形で途中で敍述を打ち切ってしまった部分(草稿の61頁、大谷訳下21頁)で取り上げた問題を、もう一度取り上げて、今度は同じ問題を結論的論じている部分、すなわち部門IIにおける蓄積のための潜勢的貨幣資本の蓄蔵が如何になされるのかを論じているところにおいてである。だから不破氏や大谷氏らのように(そして伊藤武氏も同類であるが)、マルクス自身が部門IIにおいて「蓄積のための貨幣源泉」を捜してアチコチと試行錯誤を繰り返しているなどという捉え方は、全くもって笑止千万なのである。マルクスはすでに「4)」と番号を打ったところで部門IIにおいてB群の資本家の存在を前提して論じている事実こそマルクスにとって最初から問題は明瞭であったことをハッキリと示しているからである。つまり部門IIにおけるB群の資本家たちというのは、それまで潜勢的貨幣資本を蓄蔵してきて、これからそれを投じて現実の蓄積を開始しようとしている資本家たちである。そうしたB群の資本家を想定するということは、部門IIにおいて蓄積のための貨幣源泉を捜すことなど初めから不要だということを示しているのである。それは部門 I においてB群の資本家を想定したときにそうであったのとまったく同じなのである。つまりマルクスは「4)」と番号を打った時点で、「b)」の項目で論じている「貨幣源泉」の問題は解決しているのである。よってマルクスは最初から問題をハッキリと見通した上で論じていることは明らかなのである。それをあたかもマルクス自身が「試行錯誤」を繰り返しているかに考えている、大谷氏らの理解は誤解も甚だしいと言わなければならない。

 さて、「4)」と「5)」とでは同じ「困難」でも、これだけの相違があることが分かった。では、マルクスの問題意識は、「4)」と「5)」とではどういう点で異なるのか、それを考えてみよう。「4)」までの一連の「困難」の確認や「不合理」や「矛盾」の確認は、蓄積または拡大再生産は単純再生産とは質的に異なること、だから単純再生産を前提してその一部を拡大させようとしても「困難」や「矛盾」に陥ることを論証して、両者の質的相違、単純再生産から拡大再生産への「移行」には質的飛躍が必要であること、また拡大再生産の場合は、その一部だけの蓄積を想定して考察すると不合理に陥ることを確認して、拡大再生産のためには I 、II両部門が同時に蓄積すると想定する必要があることを確認してきたのである。だからこうした一連の考察において、拡大再生産のためには、 I 、II両部門において、単純再生産とは最初から異なる機能配置にもとづく表式が必要であることを示すことがマルクスの本来の意図なのである。それに対して「5)」における同じような「困難」の確認は、具体的に以前の単純再生産の表式(エンゲルス版の第20章で取り上げた表式)を想定した上で、では単純再生産のどの部分の機能配置をどのように変える必要があるのかを探るのが今度の目的なのである。だから「4)」と「5)」とでは同じ「困難」の確認といっても、目的はハッキリと異なることが理解されなければならない。

 (以下、この項目は次回に続きます。)

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