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2009年7月18日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その34)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●《5)部門IIでの蓄積》はどこまで含まれるのか?

 ここからは【「5 第II部門での蓄積」での考察の歩み】と題して、マルクスが5と番号を打った部分以下の説明が行なわれるのだが、すでに指摘したように、大谷氏らは、この5以下の部分全体が--だからエンゲルスが「補遺」とした草稿の最後の部分までをも含んだ全体が--、5の中に入ると考えている。こうした捉え方にはすでに疑問を提示しておいた。しかしそれを問題にする前に、まずこの項目を大谷氏は次のように書き出している点を問題にしなければならない。

 〈マルクスは、このように第 I 部門での蓄積を、正確には、現実の蓄積のために行なわれるここでの準備過程とそれがもたらす諸結果とを、考察したのち、次に、「5 第II部門での蓄積」に移る。〉(下172頁)

 これまでのマルクスの考察が、決して〈正確には、現実の蓄積のために行なわれるここでの準備過程とそれがもたらす諸結果〉といったものでは無かったことはすでに指摘したが、大谷氏はマルクスにとって《部門IIでの蓄積》の考察も《外観上の困難》《詳しく解決》する一環であるとの認識がないのである。これはある意味では致命的である。そもそもマルクスが《部門 I での蓄積》《部門IIでの蓄積》とにわけて考察しているのは、何のためかというもっとも根本的なことが抜け落ちているのである。マルクスはすべての資本家が一方的販売によって蓄積のための潜勢的貨幣資本、すなわち蓄蔵貨幣の形成を行なおうとしたら困難に陥ること、だからそれを《詳しく解決》するなかで、つまり蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるかを解明することによって、《蓄積または拡大再生産》の概念を明らかにしようとしているのである。すなわち《蓄積または拡大再生産》は単純再生産とは質的に異なること、そしてその質的相違とは剰余価値を形成する剰余労働の具体的形態の相違であり、剰余生産物の物的形態の相違であること、だから蓄積というのは生産過程そのものの一現象であり、だからそれは生産過程を通って流通過程に現われてる総商品資本の素材的内容そのものが単純再生産とは質的に違っていること、だからわれわれは拡大再生産のためには、最初から単純再生産とは異なる機能配置にもとづく表式が必要であることを明らかにしようとしているのである。そしてまた、マルクスがそうした拡大再生産の概念《部門 I での蓄積》《部門IIでの蓄積》にわけて、それぞれにおいて考察し、そのなかでさまざまな困難や不合理を導き出しているということは、同時に、拡大再生産とは、部門 I だけの蓄積や部門IIだけの蓄積として考察することには限界があること、拡大再生産のためには常に両部門が同時に蓄積することが前提されなければならないことを明らかにためでもあったのである。5はその意味では、拡大再生産の概念を解明する一連の考察を締めくくる位置を占めているのである。
 だからそれは--つまり拡大再生産の概念の解明は--、決してこの草稿の最後まで続いているわけではない。それだとマルクスは最後まで拡大再生産の概念を明らかにするだけに終わり、実際の拡大再生産における諸法則やそれに伴うさまざまな諸問題を何一つ解明しなかったということになってしまう。こうした理解が間違っているのは、例えば大谷氏が詳細に研究した第3部第5篇の「利子生み資本」の全体の構成を見ても分かるであろう。第5篇は第21~24章で「利子生み資本」の概念が解明され、第24~25章で「利子生み資本」の運動諸形態が解明され、そして第26章で「利子生み資本」の歴史的考察がなされていたのである。こうしたマルクスの展開はある意味では普遍的であって、だから《蓄積または拡大再生産》の敍述でもそれは概ね妥当するし、しなければならない。もちろん実際には拡大再生産の歴史的な考察といったものが必要かどうかは別途検討される必要はあるが、少なくともそうした問題を検討するまで、マルクスの命はもたなかったことは確かである。しかし私は少なくとも「拡大再生産の概念」「拡大再生産の諸法則」、およびその「まとめと残された課題」については、マルクスは不十分ながらも解明していると考えている。

 さて、しかし大谷氏は、この5が草稿の最後まで含んでいると考えている。だから項目【「5 第II部門での蓄積」での考察の歩み】をさらにa~iの九つの項目にわけて、5以降のマルクスが拡大再生産の表式を使って計算している部分も含めて一連のものとして、論じているのである。すなわち、次のように述べている。

 〈これ以下(5以下--引用者)の叙述は、第8稿のなかでもとくに、エンゲルスが彼の序文で書いている「病状の重圧にたいするむりやりな挑戦の痕跡」(II/13, S. 8.5–6; MEW, Bd. 24, S. 12)がきわめて顕著に見られるところで、「論理的な連続はしばしば中断され、所々に論述の切れたところがあり、ことに終りのほうはまったく断片的である」(II/13, S. 8.26–28; MEW, Bd. 24, S.12)。このなかに含まれる表式の展開のところでは、数字の書き誤り、見間違い、誤った計算などがいたるところに見られる。しかし、エンゲルスが言うように、たしかに、「マルクスの言おうとしたことは、あれこれの仕方でこのなかに述べられている」(II/13, S. 8.29–30; MEW, Bd. 24, S. 12)と言いうる〉(下172頁)

 ただエンゲルス自身は、大谷氏らのように、マルクスが5と番号を打った以下の部分全体が5に、つまり《部門IIでの蓄積》に含まれているとは考えなかったようである。それは現行版の次のような目次をみれば明らかである。

 《第12章 蓄積と拡大再生産
   第1節 部門 I での蓄積
   第2節 部門IIでの蓄積
   第3節 蓄積の表式的敍述
   第4節 補遺》

 ただエンゲルスはマルクスが《5)部門IIでの蓄積》と表題を書いた場所をまったく無視して、それをマルクスが「4)」と番号を打ったパラグラフの前に持ってきている。しかも実際には《部門IIでの蓄積》が論じられているかなりの部分を次の「第3節 蓄積の表式的敍述」の中に含めてしまっている。ただエンゲルスはマルクスが《云々。云々。》という形で敍述を打ち切ってしまっている部分(実はここまでが5に含まれている部分なのであるが)を補足するために、草稿の最後の部分(エンゲルスが「補遺」とした部分)が書かれたと判断している(これはこの限りでは正しい!)。実際、このマルクスの敍述の中断こそ、実は、5の部分の考察が終わるところであり、その考察の中断を示しているのである。そしてエンゲルスが考えているように、その中断された考察は、最後の部分(エンゲルスが「補遺」とした部分)で、もう一度、同じ問題が今度は結論的に論じられているのである。だから確かにエンゲルスの編集にはさまざまな問題があるが、しかし少なくとも5以下がまったく同じ問題が論じられているなどと解釈している大谷氏らに比べれば、まだしも《マルクスの言おうとしたこと》(エンゲルス)をなんとか理解しようとの努力のあとが伺えるものとなっているといえるのである。

 いずれにしても、大谷氏らの5以下の捉え方が誤りであることは、その都度、それぞれの項目でそれらの本来の課題を明らかにするなかで解明していくことにしよう。

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