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2009年7月17日 (金)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その33)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●3、4でマルクスは何を問題にしているのかの続きです。)


 この2や3、4において、マルクスが課題とするものが、大谷氏やエンゲルスが主張するような、〈単純再生産の内部で、どのようにして拡大再生産のための物質的土台が生み出されうるのか〉というようなことではないのは、次のような事実を確認すればたちどころに明らかとなる。すなわち、マルクスは外観上の困難を解決するために、次のような考察から開始している。

 部門 I を構成している多数の産業部門での諸投資も,それぞれの特殊的産業部門内部でのさまざまな個別的投資も,{それらの規模,技術的諸条件,等々,市場関係,等々をまったく度外視すれば}それぞれの年齢,すなわち機能期間に応じて,それぞれ,剰余価値が《次々に》潜勢的な貨幣資本に転化していく過程のさまざまな段階にあるということは明らかであって,この転化がそれらの資本の機能資本の拡大のためであろうと新たな産業的事業における貨幣資本の投下のためであろうと--「拡大された規模での生産」の2つの形態--,このことに変わりはない。そこから出てくるのは,それらのうちの一部分適当な大きさに成長した《自分の》潜勢的な貨幣資本をたえず生産資本に転化させているが,すなわち積み立てられた,剰余価値の貨幣化によって積み立てられた貨幣で生産手段--不変資本の《追加的》諸要素--を買っているが,他方,他の1部分はまだ自分の潜勢的な貨幣資本の積立てをやっている,ということである。つまり資本家たちは,この2つの部類のどちらかに属して,一方は買い手として他方は売り手として--そして両方のそれぞれがどちらか一方だけの役割を担って--互いに相対しているのである。》(大谷訳上40-1頁、草稿47頁、下線はマルクスによる強調)

 こうした想定のもとに、マルクスは潜勢的な貨幣資本の積立をやっている資本家群をA、他方、それまで剰余価値の貨幣化によって積み立てた貨幣で生産手段を買って、現実の蓄積を行なおうとしている資本家群をBとして、一連の考察を行なっていることは周知のことである。
 ところでエンゲルスが断りなくマルクスの一文を変更して、移行論を展開している部分の直前でも、マルクスは次のように論じている。

 《この剰余生産物を次々に売っていくことによって,資本家たちは蓄蔵貨幣,《追加的な》潜勢的貨幣資本を形成する。いまここで考察している場合には,この剰余価値ははじめから生産手段の生産手段というかたちで存在している。この剰余生産物は,B,B',B”,《等々》( I )の手のなかではじめて追加不変資本として機能する。しかしそれは,可能的には、それが売られる以前から,貨幣蓄蔵者A,A’,A”等々( I )の手のなかで追加不変資本である。これは, I の側での《再》生産の価値の大きさだけを見るならば,単純再生産の限界の内部でのことである。というのは,この可能的な追加不変資本(剰余生産物)を創造するのに追加資本が動かされたわけでもなく,また単純再生産の基礎の上で支出されたのよりも大きい剰余労働が支出されたわけでもないからである。違う点は,ここではただ,充用される剰余労働の形態だけであり,その特殊的な役立ち方の具体的な性質だけである。》(大谷訳54頁、草稿52-53頁、下線はマルクス)

 このすぐあとに続く括弧内の文章をエンゲルスは括弧を外して、その一部を次のように書き換えているのである。

 《単純再生産の場合には、全剰余価値 I が収入として支出され、したがって商品IIに支出されるということが前提された。したがって、剰余価値 I は、不変資本IIcをその現物形態で再び補填するべき生産手段だけから成っていた。そこで、単純再生産から拡大再生産への移行が行なわれるためには、部門 I での生産は、IIの不変資本の諸要素をより少なく、しかしそれだけの I の不変資本の諸要素をより多く生産できるようになっていなければならない。この移行は必ずしも困難なしに行なわれるものではないが、しかし、それは、 I の生産物のあるものがどちらの部門でも生産手段として役立つことができるという事実によって、容易にされるのである。》(全集版615頁)

 このようにエンゲルスはマルクスの問題意識が文字どおり「単純再生産から拡大再生産への移行が行なわれるためには」何が問題なのかということであるかに理解している。そして先に見たように、大谷氏もそうしたエンゲルスの修正を「きわめて適切」なものとしているのである。

 しかしエンゲルスも大谷氏もマルクスはその前の考察で部門 I でA、B二つの資本家群を想定して問題を論じている意味を深く考えもしていない。考えてみよう。これから潜勢的可変資本を蓄蔵しようとしている資本家群Aはまだよいとしても、すでにこれまで剰余価値を貨幣化した貨幣を蓄蔵して、必要な額に達したのでそれをこれから現実の蓄積のために不変資本の購入に投じようとしている資本家群Bというのは、果たして単純再生産を想定して可能であろうか。決して否である。なぜなら、彼らはそれ以前までは、資本家群Aとして剰余価値を一方的に販売して、それを実現して入手した貨幣を流通から引き上げて、蓄蔵してきた資本家たちであり、彼らが一方的に販売してきた剰余生産物は、まさに追加的生産手段以外の何ものでもなかったからである。彼らが彼らの剰余生産物(生産手段の生産手段)を一方的に販売できたのは、まさに現実に蓄積を行なう資本家たちがいたからに他ならないのである。だからそもそもマルクスがA、B二種類の資本家群を想定しているということ自体が、マルクスがすでに一般に年々拡大再生産が行なわれている過程を想定して問題を考察していることを示しているのである。問題はあくまでも再生産の価値の大きさだけを見るならば,単純再生産の限界の内部でのことである》というにすぎない。つまり価値の大きさだけを見るなら、単純再生産の場合とまったく変わらないとマルクスは述べているのであって、それをエンゲルスや大谷氏はあたかも単純再生産そのものについてマルクスは述べているかに読み誤っているのである。だから彼らはマルクスがあたかも単純再生産から拡大再生産への「移行」を論じていると捉えたのである。しかし何度もいうが、マルクスがA、B二つの資本家群を想定しているということ自体が、それは単純再生産では不可能なことであり、単純再生産とは相いれない想定なのである。マルクスはあくまでも現実に年々拡大再生産を繰り返している過程を、ただ前提して、それを観察・分析しているにすぎないのである。拡大再生産の概念を解明するためには、それはまったく正しい方法論的立場である。ただマルクスは拡大再生産が単純再生産とは異なる質的内容を持っていることを明らかにするために、単純再生産との比較によって拡大再生産の諸特徴を明らかにし、その概念を解明しようとしているのであり、そのためにただ規模において単純再生産と同じか、またはそれよりも小さいケースを敢えて選んで、問題を考察しているだけなのである。

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