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2009年7月15日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その31)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●1で論じていることは、現実の拡大再生産の直接的な規定である

 ここからは〈第八稿の拡大再生産論展開の道筋とポイント〉について、大谷氏の理解するところが紹介されている。すなわち〈マルクスがここでなにをしようとしたのか、なにをつかんだのか、なにを明らかにしたのか、を述べる〉(下170頁)のだという。

 まず大谷氏はマルクス自身が1~4の番号を打っている部分について、それぞれでマルクスは何を問題にしているのかについて論じている。最初は1の部分である。

 〈ここでは、拡大再生産がまだ始まっていないところで、それが始まるために存在すべき前提はなにか、を論じているのだ、ということである。言い換えればここで、単純再生産のもとで、どのようにして、この二つの前提条件が先行的につくりだされうるのか、という問題が立てられたのである。〉(下171頁)

 これをみると、大谷氏によれば、マルクスはまず単純再生産を前提し、その上で、そこから拡大再生産を開始するための、それを始めるために存在すべき前提を論じているというのである。
 しかし私の理解するところによれば、マルクスはまず拡大再生産そのものを前提し、その上で、まず蓄積のもっとも直接的な規定をあたえるところからはじめていると理解している。実際、マルクスは1を次のようにはじめている。

 《1)第1部では,蓄積が個々の資本家については次のように現われる[sich darstellen]こと,すなわち,彼の商品資本を.貨幣化するさいに彼はこの商品資本のうち剰余価値を表示する(つまり剰余生産物によって担われている)部分をそれによって貨幣に転化させるが,それを彼はふたたび彼の生産資本の現物諸要素に再転化させるというように現われること,つまり,実際には現実の蓄積とは拡大された〔vergrössert〕規摸での再生産であることを明らかにした。しかし個別資本の場合に現われる〔erscheiaen〕ことは年間再生産でも現われざるをえない》(大谷訳上32頁、下線はマルクスによる強調)。

 つまり、まずマルクスは蓄積は第1部、つまり「資本の生産過程」では、個々の資本家について《次のように現われる》と述べている。それは剰余価値を貨幣化したものを再び生産資本の現物諸要素に再転化させるというように《現われる》と。そしてだから《実際には現実の蓄積とは拡大された〔vergrössert〕規摸での再生産である》と述べている。だからマルクスはあくまでも《現実の蓄積》を問題にし、そこから出発しているのであり、これがマルクスの与えた蓄積のもっとも直接的な規定なのである。そしてその上で、マルクスは《個別資本の場合に現われることは年間再生産でも現われざるをえない》と結論している。だからこの直接的な蓄積の規定は、年間再生産における蓄積の規定でもあるわけである。だからここでわれわれは社会的総資本の再生産における蓄積(拡大再生産)のもっとも直接的な規定--現実の蓄積とは拡大された〔vergrössert〕規摸での再生産である--が与えられていることを知るのである。後にわれわれは「蓄積の概念」で重要なのは、単に「規模」、すなわち「量」の拡大ではなく、「質」的な相違であることを知るのだが、しかし「蓄積または拡大再生産」のもっとも表面的な、だからまたわれわれの表象に直接《現われる》--この《現われる》という文言こそ、この規定の直接性を示している--ものは、拡大された規模で再生産が行なわれているという事態なのである。これは誰が見ても了解できるありふれた事実でもある。マルクスの考察はまさにこうしたありきたりの事実から開始されているのである。
 だからマルクスは決して蓄積を、すなわち〈拡大再生産がはじまっていないところで、それが始まるために存在すべき前提はなにか、を論じているの〉ではない。すでに〈はじまってい〉《現実の蓄積》を前提して、そのうえで問題を論じていることは明らかなのである。つまり現実の蓄積を前提し、それを観察しながら、蓄積が行なわれるためには何が前提されるのかを、これからマルクスは分析していくのである。現実の年間再生産における蓄積を前提し、その観察と分析を通じて、現実の蓄積には何が前提されるのかを考察していこうとしているのである。だから大谷氏の捉え方はまったくマルクスの方法とは逆としかいいようがない。

 マルクスは決して、単純再生産を前提してその考察を行なっているなどということはいえない。例えば1の中の次の第2パラグラフを見ても分かる。

 《ある個別資本が500で,年間剰余価値が100(つまり商品生産物は400c+100v+100m)だとすれば,600が貨幣に転化され,そのうちの400cはふたたび前貸不変資本の現物形態に,100vは労働力に転換され,そして--蓄積の場合には(蓄積だけが行なわれるものとすれば),それに加えて,100mが商品形態から貨幣形態に転換された《のちに》,さらに生産資本の現物諸要素への転換によって追加不変資本に転化させられる。そのさい次のことが前提されている。第1に,年間に100mが次々に貨幣として積み立てられるが,機能している不変資本の拡張のためであろうと,新たな産業的事業の創設のためであろうと,この額で十分である(技術的諸条件に対応している)ということである。しかしこの過程が行なわれうるようになるまでには,つまり現実の蓄積--拡大された規模での生産--が始められうるようになるまでには,もっとずっと長いあいだにわたる剰余価値の貨幣への転化と貨幣での積立てとが必要だということもありうる。2)拡大された規模での生産が事実上すでにあらかじめ始められているということが前提されている。というのは,貨幣(貨幣で積み立てられた剰余価値)を生産資本の諸要素に再転化させるためには,これらの要素が商品として市場で買えるものとなっていることが前提されているからである。》(同上32-33頁、下線はマルクス)

 ここでもまだ個別資本のケースを考察しているが、もちろん、マルクスはすでに見たように、個別資本で生じたことは《年間再生産でも現われざるをえない》ことを確認した上で、こうした考察をしているのである。マルクスは明確に蓄積だけが行なわれるものとすれば》と述べている。つまり剰余価値のすべてを蓄積に回すとすれば、と仮定しているのである。しかもその条件を考察して、《2)拡大された規模での生産が事実上すでにあらかじめ始められているということが前提されている》とも述べている。つまり蓄積(拡大再生産)とは何か、その概念を明らかにするためには、すでに現実に蓄積(拡大再生産)が行なわれていることを前提しなければならない、と明確に述べているのである。これを読んで、マルクスは単純再生産を前提して、その上で拡大再生産のための前提を分析しているなどとどうして理解できるのであろうか。それはただ何らかの偏見や思い込みをもってマルクスの文章を読んだとしか言いようがない。以上が1の内容である。

 因みに、私自身は、マルクスが1と番号を打った部分で何を論じているについて、次のように考えている。その内容を表題として表してみよう。

 1 個別資本の蓄積で現われたことは、年間再生産での蓄積でも現われざるをえない
  (1)蓄積(拡大再生産)の直接的表象、直接的規定
    《現実の蓄積とは拡大された規模での再生産である》
  (2)現実の蓄積(拡大再生産)の直接的反省関係
    《蓄積には蓄積が前提される》

 つまり1でマルクスが述べていることは、こうした二つの問題なのである。これは現実に蓄積が年々繰り返されている資本主義的生産の現象を前にして直接に得られるものである。年々蓄積が繰り返されている現実を見れば、まずそれは拡大された規模での生産を繰り返しているものとして、われわれには現われ、だからまた蓄積には蓄積が前提されるものとして現われてくるのである。これが1でマルクスが考察している内容なのである。つまり現実に行なわれている蓄積を前提し、そのうえでそれを観察し、そのもっとも直接的な、われわれの意識に現われる表象から得られる規定を与え、その上で、今度は、蓄積の直接的な反省規定を与えているのである。これはこれまでの『資本論』のあらゆる篇や章や節や等々の諸項目の冒頭で見られる敍述の共通した特徴でもあり、マルクスの唯物論的な方法にも合致するものなのである。

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