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2009年7月14日 (火)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その30)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●5月号掲載分の論文の全体の見通し

 さて、いよいよここからは、5月号掲載分の検討である。以後、大谷氏の論文からの引用は、特に断りがない限りは、『経済』2009年5月号(No.164)からのもので、(下169頁)等と略して記すことにする。ここからは第8稿の最後の部分である「拡大再生産の分析」部分が考察対象になっている。この部分は、すでにこのブログで段落ごとに解読を試みた箇所であり、よって当然、以前の私の考察を踏まえた批判的検討を行なうことになり、以前の考察が再び取り上げられることにならざるをえない。だからどうしても重複は避けられないのであるが、今回の連載を読まれている方が、すべて以前の段落ごとの解読を読まれているとは限らないから、重複を恐れずに、論じていくことにしたい。とりあえず、読者の便宜のために、最初に大谷氏の論文のこの部分全体の見通しを紹介しておこう。まずこの部分は「6 第8稿における拡大再生産の分析の内容と特色」という大項目が立てられ、それが全体として次のような構成になっている。

〈 6 第8稿における拡大再生産の分析の内容と特色

(1) 第8稿の拡大再生産論展開の筋道とポイント
 【 1-4での問題提起ととりあえずの解答】
 【「5 第II部門での蓄積」での考察の歩み】
  [a「困難」の確認]
  [b 表式を利用した蓄積の進行過程の考察]
  [c 1回目の試み--「一つの新しい問題」と解決の挫折]
  [d 2回目の試み--追加労働者の賃金支出についての新たな想定。「資本主義的生産の進行とは矛盾している」→中断]
  [e 3回目および4回目の試み--「病状の重圧にたいするむりやりな挑戦」]
  [f 5回目の試み--  I (v + 1/2 m) >IIc]
  [g コメント--拡大再生産の展開についての総括]
  [h これまでの考察からの帰結]
  [i 「貨幣源泉」問題への最終的コメント]
(2) 第8稿における貨幣ベール観の最終的克服
 【再生産過程の分析におけるマルクスの苦闘の意味】
 【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】〉

 以上のような内容になっている。これらを一つ一つ批判的に検討していくことにしよう。

●「II 蓄積または拡大された規模での生産」の冒頭にある「先取り」を如何に理解すべきか

 大項目、「6 第8稿における拡大再生産の分析の内容と特色」の、いわば前文にあたる部分である。大谷氏はここで「蓄積または拡大された規模での生産」とマルクス自身によって表題がつけられた部分(エンゲルスが「第21章 蓄積と拡大再生産」と表題をつけた部分)で、表題の冒頭に《先取り。》と書いていることについての大谷氏の解釈が述べられている。
 その解釈は、要するにマルクスは単純再生産を敍述するさいに、ノートの46-47頁を飛ばして誤って紙を2枚めくったので、単純再生産の敍述を終えて、拡大再生産の敍述に移るときに、遡って、その空白になったノート部分(46頁~47頁)からその敍述を開始したので、それが分かるように表題の前に《先取り。》と書いたのだというものである。大谷氏はそれを次のように述べている。

 〈この飛ばされた46―47ページはノートの見開きの2ページだから、彼はたぶん、誤って紙を2枚めくってしまったのである。彼はおそらく、すぐにはこのことに気づかないまま書き続け、単純再生産の記述を50ページのなかばで終わらせた。そしてそのあと彼は、この飛ばされた46-47ページを「蓄積または拡大された規模での生産」の書き出しに使った。このことを分かるようにするために、46ページ冒頭の見出し「蓄積または拡大された規模での生産」のまえに「先取り」と書き(S. 790.14)、47ページの末尾には「この先は51ページ」、そしてその51ページの先頭には「47ページからの続き(47ページを見よ)」と書いた(S. 794.3)。だからここでの「先取り」という語は、さきの16ページに見られた、「あとに置くべきものの先取り」における「先取り」の場合とは違って、ノートページが前後していることを示すためのものでしかなく、叙述の内容についてのものではないと考えられるのである。〉(下170-1頁)

 つまり単純なミスからくるもので、〈敍述の内容についてのもの〉ではないというのである。しかし果たしてそうであろうか。そんな単純な理由なら、わざわざ表題の前に《先取り》と書く必要はなかったと考えられる。なぜなら、46頁の冒頭には《II 蓄積または拡大された規模での生産》という表題が書かれているのだから、そこからは45頁まで論じてきた単純再生産の敍述の続きではないことは一目瞭然であり、間違うことはないからである。そして45頁まで単純再生産の敍述を追ってきた場合も、その敍述が途中で切れており、46頁に続いていないこともまた一目瞭然だから、わざわざ《先取り》などと断る必要もないと思えるからである。しかし47頁末尾と48頁冒頭とは、ともに文章の途中で切れていると推測できるので、文章の続き具合が一見しただけは判然としない。だからマルクスは47頁の末尾に《この先は51ページ》と書き、また50頁と51頁とのつながりも、分かりにくいから、51頁の冒頭に《47頁からの続き(47頁を見よ)》と書いたと推測できるのである。
 つまりもう一度確認すると、46頁の冒頭には表題が書かれて、そこから別のテーマが開始されていることがハッキリしているのだから、それが45頁まで論じてきたものの続きでないことは歴然としているから、だからわざわざ《先取り》などと書く必要はまったくなかったということである。にも関わらず、マルクスが《先取り》と書いたのは、やはりわれわれとしては、単純再生産の敍述を開始する時に、彼がそれ以後の敍述が《後におくべきものの先取り》であるとの断りを書いたのと同じ含意のもとに、今回も、これから述べる《蓄積または拡大された規模での生産》は、本来はもっと後で展開すべきものの《先取り》であると断るために書いたとしか考えられないのである。
 そして、マルクスにとって、なぜこれが《先取り》であるかは明らかである。マルクスは、《利用すべき諸箇所》で、《ノートII》(第2稿)のところに《この第2の敍述が基礎におかれなければならない》と書きつけたことからも明らかなように、彼が第2稿を書き終えて、もう一度、第2部全体の構成を考えて、第2稿の表紙に書いた目次(全体のプラン)では「B 拡大された規模での再生産。蓄積」「a)貨幣流通のない敍述」「b)媒介する貨幣流通のある敍述」に分けられる予定であったからである(八柳前掲論文参照)。だからこれから敍述する「蓄積または拡大された規模での生産」は、本来はa)のあとに展開されるべきb)を《先取り》して、最初から貨幣流通による媒介を入れた考察を行うとの考えであったからに他ならない。つまりマルクスは、第2稿で考えていたいわゆる「二段階の構成の敍述のプラン」を、第8稿の段階でもまったく放棄などしていなかったことを、むしろこの《先取り》という断り書きは(そして先の単純再生産の敍述が始まるところに書いた《後におくべきものの先取り》という断り書きとともに)、明らかに証明しているのである。

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