無料ブログはココログ

« 大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その28) | トップページ | 大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その30) »

2009年7月13日 (月)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その29)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回七度び中断した●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての最後の部分である【追記】から始まります。)

【追記】

 この[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての項目の考察において、私は大谷氏らの主張の批判として、彼らの「流通手段の前貸」というタームに、「追加貨幣」というタームを対置し、このタームの独自性を理解することこそが重要だと指摘してきた。ところが、この項目をすべてアップした後に、この「追加貨幣」というタームそのものはエンゲルスの創作であり、マルクス自身は(草稿では)使っていないことを知った。マルクス自身はただ「貨幣」としているだけである。これは不勉強の至りであるが、しかし、いまさらすべてを書き直すわけにも行かないので、このままアップしておくことにする。そしてこれまでこの項目をお読み頂いた読者なら、「追加貨幣」がエンゲルスの創作であり、マルクス自身はただ単に「貨幣」と書いているだけだということを知ったとしても、別段驚かれることはないだろうと思うのである。というのは、これまでの私の一連の考察の結論は、このエンゲルスが「追加貨幣」と述べているものは、実は、一国の流通貨幣そのものであること、しかもそれは貨幣とはそもそも何かを明らかにするような根源的な内容を明らかにするものですらあることを知っているからである。だからマルクス自身は、「追加貨幣」ではなく、ただ単に「貨幣」と述べていると知っても、なるほど「追加貨幣」の何たるかを知っている今では、それはむしろ納得できると了承されるだろうからである。だから私はこの項目をそのまま掲示しておくことにした。もちろん、「追加貨幣」がエンゲルスの創作だということを前もって知っていたなら、全体の展開はまた違ったものになったかも知れないが、しかし結論は変わらないし、論じている内容は本質的には何ら間違ったことを言っているとは思わないからである。しかし、「追加貨幣」がエンゲルスの創作だったという、ある意味では根本的なことを知らなかったのは、私の不勉強の至りであり、その点はお詫びしたい。

 なおこれはついでに述べておくのであるが、マルクス自身が同じ第2部第20章第5節「貨幣流通による諸変換の媒介」において「流通手段を前貸しする」と述べている部分(全集版517頁)、この大谷氏らの主張を裏付けるものであるかのように思われる部分、の原文は以下のようになっている。

 Er shieβt sich selbst(ob aus eignr oder per Kredit aus fremder Tasche,ist hier ganz gleichgültiger Umstand)Geld auf erst zu ergattenden Mehrwest vor ;damit aber auch zirkulierendes Medium zur Realisation später zu realisierenden Mehrwert.

 つまり全集版で「流通手段」と訳されているのは「zirkulierendes Medium」である。しかし一般にいう「流通手段」というのは(例えば第1部第1篇第3章に出てくる)、「Zirkulationsmittel」である。だから全集版のように流通手段を前貸する」と訳すより、新日本新書版のように流通媒介物をも前貸する」と訳す方が適切であるように思える。

 以上、えらくながながと論じてきたが、この項目の検討は終えることとする。

●[e 社会的総再生産過程における金生産の分析]も今一つハッキリしない

 これもこれまで考察してきたと同じように、項目【二重の叙述方法の放棄と貨幣運動の全面的な組み入れ】に関連して、特に〈ここでの、社会的総再生産過程における貨幣の運動ないし役割についての分析では、とくに次の諸点が重要である〉(中131-132頁)として、a~eの項目を立てた、最後の問題なのである。

 そこでは大谷氏は、マルクスは〈第八稿で、貨幣材料となる金の社会的再生産を分析した〉(中134頁)ことを指摘しながら、貨幣材料としての金の生産は資本主義的生産の社会にとっては流通費にあたり、商品生産一般の空費であること、それは資本家たちが彼らの剰余価値の一部をたえず貨幣に転化して、それを流通界に拠出するという仕方で、負担しなければならないこと、そうした問題を、〈マルクスはここではじめて、金生産部門とその他の生産諸部門とのあいだの転換運動を分析した〉(中135頁)と指摘したあと、最後に次のように述べている。

 〈そのさい彼は、金生産をいわば「流通機械」としての貨幣の原料を生産する生産部門として第 I 部門に含めたために、一方では、補填関係の説明に舌足らずの部分を残したけれども、他方では、そうすることによって、生産手段生産部門における拡大再生産のための潜在的な追加貨幣資本の本源的な源泉を確定することができたのであった。〉(中135頁)

 金生産部門を第 I 部門に含めたことについて、大谷氏の評価はあいまいなように思える。それは一方では、〈補填関係の説明に舌足らずの部分を残した〉という。確かに現行の「第12節 貨幣材料の再生産」では、部門 I に属するとされた金生産部門を I (20c+5v+5m)として、そのうちの5vだけが、如何にして部門IIcの一部と転換するかを論じているだけである。マルクスはまずIIcと転換したあと、それは部門IIの内部でさらに転換されてIImの一部と転換されて、それは最終的には蓄蔵貨幣になるとしている。確かに金生産部門の I vの転換だけを論じているという点では〈舌足らず〉と言えるが、それは結局は、部門IIの剰余価値の負担になることは指摘しており、その限りでは正しい結論になっている。つまり金生産部門の I (5v+5m)はIImに帰着しなければならないこと、また I (20c)は、だから部門 Imに帰着することを示唆しているのである。大谷氏の指摘はこうしたことだと理解する。しかしこれが果たして金生産部門を部門 I に含めたが故にそうなった、つまり最後までcやmの転換まで論じずに終わったのだ、と言えるのかどうかが問題であろう。

 金生産部門を部門 I に含めると言っても実際上は、マルクスはそれを別個に I (20c+5v+5m)として考察しており、その限りでは同じことなのである。マルクスを批判する人たちは、金生産部門を部門 I にも部門IIにも属さない、部門IIIにすべきであるとか、あるいは部門IIの亜部門にすべきだとか色々と主張されているが、要するに金生産部門をそれ自体として区別して論じるということでは、結局は、同じことになるのであり、貨幣材料としての金生部門の産物全体が社会的には追加補充される貨幣であり、よって他の生産諸部門の剰余価値から負担されて(単純再生産なら他の諸生産部門の資本家の消費の一部がそれだけ削られることになる)、一旦は蓄蔵されること、だから金生産部門の不変資本を補填するのは第 I 部門の剰余価値であり、金生産部門の可変資本と剰余価値を補填するのは第II部門の剰余価値であることは明らかなのである。それさえハッキリしていれば、それを部門 I に入れようが部門IIに入れようが、あるいは部門IIIにしようが、同じことであり、要するに金生産部門をそれ自体として取り出して考察する(マルクスがやっているように)ことが一番肝心なことなのである。

 もう一つ大谷氏は、金生産部門を部門 I に含めることによって、マルクスは〈生産手段生産部門における拡大再生産のための潜在的な追加貨幣資本の本源的な源泉を確定することができたのであった〉とも述べている。これがよく分からない。これは第21章該当部分における考察を述べているのであろうか。確かにそこでは、マルクスは金生産部門を蓄積のための貨幣蓄蔵の本源的源泉として述べているが、しかしそれは決して〈生産手段生産部門における拡大再生産のための潜在的な追加貨幣資本の本源的な源泉〉だけを論じているのでない。第II部門における本源的な貨幣源泉についても論じている(エンゲルスが「補遺」とした部分で)。こうした問題は別途、その部分で詳しく論じることになると思うので、ここでは深入りは避けるが、しかもそうしたことが金生産部門を部門 I に含めることによって可能になったかにも大谷氏はいうのであるが、果たしてそれは正しいのであろうか。
 マルクスはむしろ「第12節 貨幣材料の再生産」では次のように述べている。

 《ここで分かることは……単純再生産の場合にも、そこでは言葉の本来の意味での蓄積すなわち拡大された規模での再生産は排除されているとはいえ、貨幣の積み立てまたは貨幣蓄蔵は必然的に含まれているこということである。》(全集版583頁)

 マルクスは金生産部門からの本源的な蓄蔵貨幣の形成は、言葉の本当の意味での蓄積、すなわち拡大された規模での生産のために行う蓄蔵貨幣の形成とは異なることを明瞭に理解している。これは第21章該当部分の考察を踏まえれば、われわれにとっても、極めて明らかである。以前、すでに一部紹介したが、マルクスは《 I のA、A'、A"、等々の側での可能的な新追加貨幣資本の形成……は、生産手段( I )の追加的生産の単なる貨幣形態なのである》(大谷訳『経済志林』上57頁)と明確に述べていたからである。すなわち蓄積のために行なわれる潜勢的貨幣資本としての貨幣蓄蔵は、追加的生産手段(あるいは部門IIの場合は追加的生活手段)を貨幣化したものでなければならないのである(そうでないと現実に蓄積する資本家はその物的対象を市場に見いだせない)。だから金生産部門にもとづく蓄蔵貨幣を単純には拡大再生産のための貨幣蓄蔵と同列には論じられないのである。そこまで理解して問題を論じなければならないであろう。

« 大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その28) | トップページ | 大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その30) »

「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その28) | トップページ | 大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その30) »