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2009年7月12日 (日)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その28)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回六度び中断した●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての続きです。)


【補論】

 大谷氏は次のように書いていた。

 〈ここで注意が必要なのは、G_Wがつねに、同時に流通手段の前貸であるわけではない、ということである。資本家が自己の商品資本の一部である商品の販売W_Gによって入手した貨幣で商品を買う購買G_Wは、流通手段の前貸にはならない。この貨幣のなかに含まれる彼の収入すなわち剰余価値の支出であるg_wもそうはならない。また、労働者の労働力の変態W(A)_G_Wでは、労働力の販売が必ず先行するのであって、労働者が流通手段を前貸することはありえない。〉(中133頁)

 それを私は、こうした主張は明らかにマルクスの貨幣論からすればおかしいと指摘した。なぜなら、「前貸」という表現はともかく〈資本家が自己の商品資本の一部である商品の販売W_Gによって入手した貨幣で商品を買う購買G_Wは、流通手段の前貸にはならない〉などというが、そのGは単純流通のレベルでみれば、明らかに単なる貨幣でしかなく、だからそれは流通手段という抽象的な機能を果たすであろう(もちろんこの場合の「流通手段」は支払手段も含めた広義の意味である)。だからまた〈労働者が流通手段を前貸することはありえない〉というのもおかしいのであって、労働者が賃金で生活手段を購入する場合は、彼が支払う貨幣は流通手段として機能するであろうからである、と。
 だから大谷氏らは、明らかに「流通手段」という語に、それが本来持っている意味以上の意味を付加していること、すわなち〈G_Wが同時に流通手段の前貸となるのは、W_G_Wの第二の変態G_Wが第一の変態W_Gよりも前に行なわれ、あとからW_Gによって補われる場合だけなのである〉(中133頁)と。つまり社会的総再生産過程において第二の変態が第一の変態より先に行なわれ、そのあと第一の変態が行なわれる場合の貨幣という独特の意味である。しかしそれはマルクスの貨幣論にはない「流通手段」の内容規定である、と批判したのであった。

 ところがこうした批判に対して、大谷氏の主張のポイントは、「前貸にはならない」というところにあるのであって、「流通手段にはならない」ということではないのだ、と大谷氏を擁護する人たちからの反論があった。その反論について少し考えてみたい。

 果たしてそういう反論者の理屈は成り立つのだろうか。もしそういう理屈を並べるのなら、〈資本家が自己の商品資本の一部である商品の販売W_Gによって入手した貨幣で商品を買う購買G_Wは、流通手段の前貸にはならない〉だけでなく、その場合は、「貨幣資本の前貸にもならない」といわなければならないであろう。なぜならそれは〈前貸にはならない〉というところにポイントがあるのだから、つまり「還流しない」ということなのだから。そのGがもし還流しないなら、当然、それが貨幣資本としても還流しないことになり、だから〈貨幣資本の前貸にもならない〉ことになるであろう。しかし大谷氏自身はもちろん、同氏を擁護する人たちもそれが〈貨幣資本の前貸〉であることは認めるのである。とするならそれはやはり〈流通手段の前貸でもある〉ということではないだろうか(もし彼らのように「流通手段」に独特の意味を付加しないならばであるが)。というのはそれを貨幣資本の前貸だということは、それがゆくゆくは再び貨幣資本として(もちろん一定の増殖をして)還流してくることを見越して手放すからであろう。しかしそうであるなら、その還流してきた貨幣資本は、やはり商品流通のレベルで見るなら、単なる貨幣として還流してくるのであり、その限りではそれは流通手段(広義の)としても還流してきたということでもあるだろうからである。貨幣資本としての手放しは、同時に単純流通のレベルでは単なる貨幣、だからまた流通手段としての手放しでもあることを認めるなら、貨幣資本としての還流は、同時に同じ単純流通レベルでは流通手段としての還流でもあることも認めなければならないわけである。だからどうしてこの場合だけ〈同時に流通手段の前貸であるわけではない〉などといえるのであろうか。それはやはり〈流通手段〉に独特の意味を加えているからそう言えるのではないのだろうか。もちろん、この場合、還流に一定の期間が必要だというなら、そうである。しかし還流にかかる期間の長短によって、それが「前貸」でないというのなら、そもそもそれは「貨幣資本の前貸」でもないといわなければ辻褄が合わないであろう。貨幣資本の場合は一定の期間を通じて還流してきても前貸といえるが、しかし流通手段として捉えるときには、そうはいえない、流通手段の場合には、すぐに還流して来ないと「前貸」とは言わないのだというのは理屈には合わないのである。

 確かに大谷氏が指摘するケースは、W-Gを見越して、G-Wをするケースであり、すぐに自分が手放したGは、W-Gで帰ってくると想定したGの手放しである。だからそれは「前貸なのだ」というのであろう。しかしそうであるなら、例えば労働者がGーWで貨幣を支出したからといって、彼は自分の労働力をすぐに販売して、すなわちW-Gを見越して、G-Wをして悪いこともないわけである。そればかりか大谷氏が強調するように、労働力の価値への支払は常に後払いである。例えば週給なら、労働者は一週間働いたその末にやっとその一週間分の賃金を支払って貰えるわけである。しかしその一週間を労働者は何も食べずに働くわけには行かない。だから労働者がその一週間分の生活費に支出する貨幣は、まさに週の末に得られる賃金を見越して支払うのではないのか。とするなら、大谷氏の理屈からすれば、労働者こそ「流通手段の前貸」をしているということにはならないか。もし大谷氏らの主張のポイントが「前貸になるかどうか」にあるという反論者の主張の前提に立つなら、労働者こそが、まず流通手段を前貸して、そのあと自分の労働力への支払を受けてその還流を得るのではないだろうか。だから労働者の場合だけなぜそれがありえないのか、皆目分からないことになってしまう。

 もっとも、単なる商品流通のレベルで見るなら、貨幣資本の前貸、すなわち貨幣資本の商品資本への転換も、単なる貨幣による単なる商品の購買である。だからこの単なる貨幣による単なる商品の購買を、「流通手段の前貸」などとはいえないというなら、それはその通りであり、正しい。単純な商品流通では、貨幣はそれを手放した人からどんどん遠ざかるだけであるとマルクスも指摘している。だから単純流通のレベルでみるなら、貨幣の手放しを「前貸」と表現することは正しくないのだ、というのなら、私もそれに異論はない。しかしそれならそれはすべての資本家による貨幣の手放しについていえるのであって、ある特別な場合だけに限定する必要性もないわけである。

 結局、私にはやはり大谷氏らは「流通手段」というタームに独特の意味を持たせているように思えるのである。そしてそれは明らかにマルクスの貨幣論から逸脱しているのである。大谷氏らは「流通手段」というタームに、社会的な総商品資本の転換を媒介するために、最初に流通に投じられる貨幣という意味を込めて「流通手段の前貸」と称しているのである。だからこの場合の「流通手段」は、マルクスがその貨幣論で述べている狭い意味での流通手段(鋳貨としての流通手段)でもないし、広い意味での流通手段(通貨としての流通手段、すなわち狭義の流通手段と支払手段)でもないのである。それは大谷氏らが勝手に作り上げた独特の意味・内容を付加された「流通手段」なのである。こうした「流通手段」がマルクスの貨幣論からの逸脱であるというのは、マルクス自身はそういう意味での「流通手段の前貸」などいう問題をまったく論じていないからである。
 ではマルクスはそうした場合の貨幣について、どのような言葉を使っているのであろうか。先に紹介した第2部第20章第5節「貨幣流通による諸変換の媒介」ではマルクスは次のように論じていた。

 《この貨幣は、予想収入すなわちこれから売られる商品に含まれている剰余価値からの予想収入を表わしている。……この貨幣は追加されたもので、--われわれの知る限りでは--、売れた商品の代金ではなかったからである。この貨幣が I に還流しても、これによって I は自分の追加貨幣を回収しただけで、 I の剰余価値を貨幣化したのではない。》(全集版邦訳515頁)

 つまりマルクス自身は、《追加貨幣》というタームを使っているのである。それはなぜ「追加」貨幣というかというと、社会的総資本の流通を貨幣流通による媒介を顧慮して考察する場合に、資本家は彼らの商品資本とは別個にその貨幣を持っていて、ただ彼らの商品資本の転換を媒介するために最初に流通過程に投じるものとして現われてくるからである。だからその貨幣は社会の総商品資本の構成部分をなしていないのであって、それとは別に追加的に投じられるものだから、マルクスは《追加貨幣》という厳密な規定を与えているのである。それを大谷氏らは〈流通手段の前貸〉という独特な規定に変えているわけである。だから彼らのいう「流通手段」はその限りでは、明らかにマルクスの貨幣論にはないタームなのである。われわれが知っている流通手段は、第1部第3章で展開されている貨幣の抽象的な諸機能の一つであるが、大谷氏らがいう「流通手段の前貸」は、第2部第3篇の社会的総資本の流通というより具体的な資本の流通過程で初めて現われるものであり、貨幣資本の還流形態とは異なる独特な還流形態によって規定されていることから考えても(もっともそうした区別の無意味さはすでに指摘したが)、それはマルクスの貨幣論にはない規定であることが分かるのである。

 (あと「追記」を残すのみとなりましたが、残念ながら、字数オーバーです。残された「追記」は次回に回します。)

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