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2009年7月11日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その27)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回五度び中断した●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての続きです。)


 ところで貨幣というのは、この社会的な物質代謝を媒介するには必要不可欠なものではあるが、しかし社会的物質代謝の構成部分そのものではないのである。マルクスは第8稿の第21章該当箇所で「貨幣は何も生み出さない」と何度も強調しているが、貨幣自体は社会の物質代謝を支えているものでは決してないのである。だからこそ、われわれが社会の物質代謝を社会的総資本の流通過程として考察する場合に、貨幣はその社会的総資本の外部から、それらを媒介するものとして、よって追加的に投じられるものとして、登場する必要があったのである。追加貨幣のある種の奇妙な性質はまさに貨幣のこうした本質から来るものだったのである。それが一定の不合理性をもつなら、まさにそうした貨幣の、物質代謝には何らの寄与もしないのに、この社会では必要不可欠な存在でもあるという不合理性そものから来るものだったといえるであろう。つまり個別資本の循環や回転を考察していたときには、貨幣(資本)は資本の循環や回転の必要不可欠の契機であり、資本がとる諸形態の一つの形態であるのに、社会的総資本の転換を考察するとたちまちその不可欠の契機としての特性が消え失せてしまうのである。だからこうした追加貨幣の本質は、個別資本の循環や回転を考察している段階では、いまだ明確ではなかったのである。しかし、社会的総再生産過程の考察になると、その本質、社会的物質代謝における“余計者”としての存在は際立って現われてくるというわけなのである。それがすなわち「追加貨幣」の奇妙な特性なのである。
 だからこの追加貨幣を、ただ「流通手段の前貸」などと説明したのでは、そうした追加貨幣の本質について理解が深められることは期待できないのである。

 さらに、やや本筋からずれて“道草”をすることになるが、われわれは、これまで考察した「追加貨幣」に関連して、“貨幣とはそもそも何か”という問題を考えてみることにしよう。

 流通する貨幣量は--実は、これは別に流通するものに限らず、一国にある貨幣量全体についても言いうるのだが--、社会的総生産物の価値の構成要素をなしていないという先のマルクスの言明は、貨幣の本質について、極めて重要ことを示唆している。もちろん、年々新しく生み出される金生産物は、その限りでは社会的総生産物の価値の構成要素をなしているのであるが、われわれはこれをとりあえずは除外しておく。この社会的生産物のうち年価値生産物の全体〔これはおなじみの単純再生産の表式であらわすと、 I (1000v+1000m)+II(500v+500m)=3000である〕は、毎年毎年生産されると同時にそれは消費されてしまうものなのである(もちろん、ここではとりあえず新価値生産物のうちの固定資本も捨象しておこう。固定資本はただ年々消費されるのではなく、一定の長い期間を通じて消費される点が異なるだけで消費されるという点では基本的には変わらないのである)。つまりそれらは生まれると同時に無くなってしまうものである(形成された商品価値は交換を通じて消費者に譲渡され、その使用価値の実現ととにもに価値も無くなる。もちろん、新価値生産物のうち生産手段の価値は部門IIで生産的消費の過程で生産物に移転するが、しかしその移転分も年度を越えて、最終的には個人的に消費されるとともに無くなる)。ところが一国の貨幣というのは、常に流通過程にあるか、あるいは蓄蔵されており、昔から、それが磨滅して(金貨の場合)消滅する部分を除けば、社会のなかに存在し続けてきたものだということである。つまり年々生産される商品価値は新しい価値であり、すぐにあるはいつかは無くなってしまうものであるが、貨幣(流通貨幣も蓄蔵貨幣も)は古い価値のまま社会にあり続けているものなのである。これは当たり前のことではないかというかも知れないが、貨幣とはそもそも何かを理解する上でこれは重要な視点であることは強調しておきたい。
 それを理解するために一つの思考実験をすることにする。今、貴方が100万円の価値のある商品を生産してそれを誰かに販売して、100万円という貨幣を手に入れたとしよう。貴方は自分が生産した価値を今は100万円の貨幣という形態で手にもっていると考えている。しかし問題を社会な再生産の観点から考えてみると、奇妙なことに気付く。今、この時点で、商品を生産したのは貴方一人だけだったと仮定しよう。とすると、貴方が生産した商品価値100万円だけ社会は新しい価値を生み出したのである。社会は新価値100万円を生み出した。ところが貴方がそれを他の誰かに販売し、その他の誰かがそれを個人的に消費したとすると、社会全体でみると、貴方の生産した価値100万円はなくなってしまうわけである。ところが貴方はまだ手許に100万円の貨幣を持っている。貴方は自分が生産した価値100万円をまだしっかり手許に確保していると確信しているのだが、しかし、社会的にみると、そうではなく、貴方がこの世に生み出した価値100万円はすでにゼロになっているのである。では、貴方がしっかり握って離さない自分が生み出した価値だと思い込んでいる100万円の貨幣は一体何であろうか? 実は、それはこの世に昔からずっとあり続けて多くの人たちの手垢で汚れた価値であって、それがたまたま貴方のところに今は来ているだけなのである。その価値はアチコチ場所を変えて移動し、あるときは一カ所に長くとどまったりしているが、しかしその価値は昔から徐々に積み重ねられてきたものであり、一部は徐々に磨滅して消滅しているが、しかし社会はその消滅した分は絶えず新たに生み出して補充し、また社会が必要とするその量が増大するのに応じてまた追加補充しているような性格の価値なのである。その一部がたまたま今は貴方の手のなかに一時的にあるだけなのである。誰もそれを手にしたからといって、それを何か自分の生活に役立たせられるような代物ではなく、せいぜい、金庫のなかに積んでおくぐらいしか出来ないまったく役立たずな代物なのだが、しかしこの社会ではそれをありがたがる人が多いのもまた事実である。
 貴方は自分が生み出した100万円の価値をまだ自分でしっかり持っていると思っているが、しかし実は、貴方の生み出した100万円の価値はすでにこの世からなくなってしまい、ゼロになっているのである。だから、貴方が、そのように思っているのは、単なる錯覚でしかないわけである。では、貴方が握っている確かな100万円という貨幣は何を表しているのであろうか? それが問題なのである。それこそ貨幣とは何かを物語っているものなのである。
 貴方が握っている100万円の貨幣は、貴方以外の誰かが新たに生産した100万円の価値ある貴方が必要とする使用価値を、貴方が優先的に手に入れ、それを消費する権利を表しているのである。それは社会を構成する人々がとにかくその行為によって互いに認め合ってきたことである。だからもし貴方以外に誰も新しい価値を生産しないなら、貴方はただババ抜きゲームで最後にババを抜いた人となり、せっかく、貴方は社会に一定の有用なものを与えたのに、社会から何の有用な効果をもつものも得られないということになってしまうであろう。
 つまり貨幣というのは、将来の生産に対する請求権を表しているのである。だからこうした貨幣の性格から考えるなら、それは金というそれ自体に価値をもつものに限る必要性もないわけである。それは金以外のものによっても代理することが出来る。社会のすべての人々がそれを認め合うなら、それは紙切れでもよいし、単なる電磁的な信号でもよいわけである。もちろん、それが金貨幣ならある意味絶対的な権利を表しているが、しかしそれに類似するものなら、それをある程度の不確かさで表していると言えるであろう。つまり貴方は100万円の価値ある商品を社会に与え、それを証明するものとして100万円の価値ある金を持っているとしよう。その場合は、次に貴方の番になると確実に100万円の価値ある使用価値を得ることが可能である。しかしそれか紙切れで代表されていると、その紙切れは実は貴方が持っているあいだに、100万円ではなく、80万円の価値しか代表していないようになる可能性もあるのである。あるいはその紙切れが、単なる信用にもとづくものなら、その信用が破綻するとただの紙屑になってしまう可能性もある。そうした不確かなものである。これが貨幣を社会の総再生産の観点から考察したもう一つの本質なのである。

 (さらにこの項目は、次回に続きます。)

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