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2009年7月10日 (金)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その26)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回四度び中断した●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての続きです。)


 こうしたこの追加貨幣の意味するものを理解すると、先に、マルクスが第2稿で次のように述べていた意味が明確になっていくるのである。

 《最後に、問題をもっとも単純な諸条件に還元するために、貨幣流通を、したがってまた資本の貨幣形態をまったく捨象しなければならない。流通する貨幣量は、明らかに、それを流通させる社会的総生産物の価値の構成要素をなすものではない。したがって、総生産物の価値がいかにして不変価値等々に配分されるのかということが問題であるならば、この問いそれ自体は、貨幣流通とは無関係である。問題が貨幣流通を顧慮することなく扱われた後に、はじめて貨幣流通に媒介されたものである現象がいかに現われるかを理解することが出来る》(前掲早坂論文『経済』09年2月号155頁、新日本新書版第7分冊628頁、上製版2巻632頁も参照)。

 この引用文でマルクスは《流通する貨幣量は、明らかに、それを流通させる社会的総生産物の価値の構成要素をなすものではない》と述べている。これは総商品資本の転換を媒介する貨幣の奇妙な性格について検討してきたわれわれならば、この一文でマルクスが何を言おうしているのかは明瞭に理解できるであろう。そしてこの貨幣がそうしたものであるからこそ、社会的総資本の価値と素材における補填関係だけを考察する場合には、それを考慮する必要がないこと(なぜなら、そもそもその貨幣は社会的総資本の一部を構成しないのだから)、それを捨象して考察する必要があること、少なくともそうした考察の重要な意義が、分かろうというものである。

 大谷氏らは、この貨幣の奇妙な特性に注目して、これを「貨幣資本の前貸」と区別して、「流通手段の前貸」だと称しているのである。しかし何度も繰り返すことになるが、例え資本家が最初に投じる追加貨幣であっても、彼が生産に必要な諸手段(生産手段と労働力)を購入するために投じるのなら、それは彼にとっては貨幣資本の前貸以外の何ものでもないのである。ただその貨幣は再生産表式の考察では、必ずそれを手放した資本家の手許に直ちに還流するものとして現われるので、その奇妙な還流形態に着目して、それがその貨幣に特有の還流形態を示すものと考え、それがマルクスが第3部第33章で述べている《流通手段の支出と資本の貸出との区別は、現実の再生産過程ではもっともよく現われている》(全集25b680頁)と述べている、その区別を意味するのではないかと考えたのが、久留間健氏なのである。しかしマルクスが第33章で述べているものは、そうしたものではなく、貨幣市場商品市場との区別が理解できず、絶えず資本(貨幣資本、ただしmoneyed Capital)と通貨(流通手段)とを混同して混乱している銀行学派を批判するために論じているものなのである。

 少し私自身のこの間の、それこそ“苦闘”の一端を紹介させて頂きたい。正直にいうと、この「追加貨幣」とは何か、という問題は私にとっても長く悩ましい問題の一つであった。当初はその「追加貨幣」という独特のタームにも私も特に注意を払っていたわけではない。
 なぜこのような「不合理な」(としか私には思えなかった)貨幣が登場するのか、それが、私にとってはなかなか解けない謎だったのである。こうした貨幣は第1篇の「資本の循環」や第2篇の「資本の回転」を考えている限りは、不合理な存在以外の何ものでもなかったからである。例えばG-W…P…W'-G'の貨幣資本の循環を考えた場合、最後の流通過程である、W'-G'の過程をこれから辿ろうとする資本家が、W'、つまり生産過程の結果である商品資本とともに、同時に同額のG(貨幣資本)を持っているなどという想定は不合理以外の何ものでもないように思えるからである。もちろんこの場合、条件のとり方によっては、必ずしも「同額」でなければならないわけではないが、しかし例え同額でなかったにしても彼の商品資本とは別個にただ彼らの商品資本を流通させるためだけに、彼らの商品資本とは別個に貨幣を所持し、それを流通に投じなければならないという想定そのものは、個別資本の循環を考える限り、不合理以外のなにものでも無かった。なぜなら、そんな貨幣を持っているのなら、どうして最初のG-Wの貨幣資本の前貸のときにその貨幣資本も一緒に投じなかったのか、と思うからである。なぜわざわざ、自分の商品資本の流通のためだけに、そうした彼らにとっては遊休しているに過ぎない貨幣資本を持ち続けなければならないのか、これはあらゆる資本から最大限の利潤を得ようとする資本の本性から考えても、不合理以外の何ものでもないではないか。しかし「追加貨幣」というのは、まさにこうした貨幣なのである。
 当初の私の考えでは、これはマルクスが社会的な総商品資本の転換の考察において取っている、極端な仮定からくるものではないか、というものであった。社会的総資本の流通を商品資本の循環として考察する場合、社会のすべての資本は年一回転すると仮定される。しかもすべての資本が周期を同じくして年一回転すると仮定されるのである。例えば単純再生産の場合、出発表式として示されている総商品資本は、その年再生産の過程で生産された社会のすべての商品資本をその価値と素材とによって区別し配列したものなのである。そしてこの社会のすべての商品資本がまず最初に同時にW'-G'-Wの流通過程を辿り(但し流通期間は通常ゼロと仮定されている)、それぞれ社会の必要な諸部門にその流通過程を通じて配分され、そしてそれぞれの生産過程で生産的に消費され、あるいは労働者や資本家個人にも配分されて、やはりそれぞれの諸個人においても個人的に消費され、そうして社会の総再生産が行なわれる、よってまた同時に労働者や資本家個人も再生産される、だからまた資本-賃労働の社会的な関係も再生産される。すなわちW…P…W'の生産過程を経て、再び出発点の表式である総商品資本のW'に戻ってくると考えられている。つまり社会の総資本を構成するすべての個々の資本がその回転期間がすべて同じ1年で、しかもまったく同じ周期によって回転するといった極端な仮定だからこそ、この奇妙な貨幣が登場するのではないか、と考えたのである。
 というのは実際の社会的な総資本の流通を考えるなら、こうした追加的な貨幣は不要のように思えるからである。社会の総資本を構成する個々の資本はその回転期間も循環の周期も多種多様であろう。マルクスは第2篇の「資本の回転」では、資本の流通期間中は、資本の生産過程が休止せざるを得ないことから、それを避けるために、一つの資本をいくつかの構成部分に分けて、それぞれが異なる回転を行なうことによって、生産が継続して行なわれる諸条件を考察したりしている。だから社会的に考えるなら、一層、ある資本がその商品資本を実現しようとしているときには、他の資本はその貨幣資本を商品資本に転換しようとしていると考えることは十分根拠のあることであり、だからそこには「追加貨幣」というような不合理な貨幣が存在する余地はないように思えるからである。だからこうした貨幣はあくまでも社会的総資本の流通を再生産表式によって考察するために行なっている極端な仮定そのものからくるものであろうと考えたのである。そこでこうした不合理が生じない工夫はないかと色々と考えたりもしたのである。例えば、こうした追加貨幣を銀行が前貸すると仮定すれば、たちまちその不合理性がなくなることは明らかであった。そうすれば資本は自身の商品資本とは別個に、ただ彼らの商品資本を流通させるために貨幣を持たねばならないというような仮定は不要になるからである。しかし第2部第3篇では、当然、信用は捨象されており、銀行の介在を前提することは許されないのである。それなら在庫形成を導入すれば、こうした追加貨幣の不合理性は少なくとも在庫形成から不可避に生じる遊休貨幣資本として説明可能であり、その不合理性は除去できるのではないかとも考えたりしたのであるが、しかしそれも十分納得できる説明ができなかったのである。こうしてこのような追加貨幣の不合理性は単に極端な仮定からくるものではなく、むしろそれは社会的な物質代謝を商品流通によって行なっている資本主義的生産様式そのものに根ざす、だからまたその商品流通を媒介する貨幣そのものの本質に根ざすものであることにようやく気付いたのである。

 先にも紹介したが、マルクスは次のように述べている。

 《最後に、問題をもっとも単純な諸条件に還元するために、貨幣流通を、したがってまた資本の貨幣形態をまったく捨象しなければならない。流通する貨幣量は、明らかに、それを流通させる社会的総生産物の価値の構成要素をなすものではない。したがって、総生産物の価値がいかにして不変価値等々に配分されるのかということが問題であるならば、この問いそれ自体は、貨幣流通とは無関係である。問題が貨幣流通を顧慮することなく扱われた後に、はじめて貨幣流通に媒介されたものである現象がいかに現われるかを理解することが出来る》(前掲早坂論文『経済』09年2月号155頁、新日本新書版第7分冊628頁、上製版2巻632頁も参照)。

 以前にも指摘したが、《流通する貨幣量は、明らかに、それを流通させる社会的総生産物の価値の構成要素をなすものではない》というマルクスの指摘は重要である。われわれの生活する社会の物質代謝はどのようにして行なわれているのかを少し考えてみよう。単純再生産を想定すると、それは次のように行なわれている(単純再生産の表式を考えてみよう)。まずこの社会は1500の可変資本によって必要なものを生産している。1500の可変資本というのは、現物形態としては1500の価値ある労働力である。それが最終的には3000の価値ある消費手段を生産して、それを労働者と資本家がそれぞれ半分ずつを個人的に消費して社会の物質代謝を形成しているのである。しかしこの社会はこの3000の価値ある消費手段を生産するために6000の生産手段を必要としており、よってこの社会は6000の生産手段を使い、1500の労働力によって、3000の生活手段を生産して、その社会の物質代謝を支えているわけである。1500の労働力のうち1000の労働力は6000の生産手段をただ再生産するためだけに使われ、生活手段を直接生産しているのは500の労働力である。そしてこの社会が生み出している3000の価値ある消費手段というのは、1500の労働力が一年間に新たに生み出した価値そのものなのである。つまりこの社会はその一年間に新たに生み出した価値をその次の一年間にはすべて個人的に消費してしまうことによって、その物質代謝を行なっている社会なのである。

   (以下、この項目は、さらに次回に続きます)。

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