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2009年7月 9日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その25)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回三度中断した●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての続きです。)


 一般に貨幣というのは、誰かが--それが例え資本家であろうと--、何らかの価値あるものを他者に販売して入手したものと想定されなくてはならない(もちろん、金生産者は別ではあるが)。ただし資本家が常にそうした形で貨幣を手にするかといえば必ずしもそうではなく、彼らは詐取することもあれば、強奪もするわけであるが、経済学的には、金生産者以外は、常に対価を与える代わりに得るものが貨幣なのである。ところが社会的総資本の流通を考察する場合には、こうした前提が崩れるのである。社会的総資本の流通を、われわれは総商品資本の循環として考察するのであるが、そこには資本の流通のみならず、個人的消費のための流通、すなわち一般的な商品流通も資本の流通と絡み合って登場する。つまり社会的総資本の流通の過程というのは、社会の総流通を対象としているのである。再生産表式(これは単純再生産でも拡大再生産でも同じである)の出発式で表されている社会の総商品資本というのは、これからそれらが流通して、それぞれ必要なところに配分され、且つ消費されて、社会の再生産が行なわれることを示している(このなかには労働力の再生産も資本家個人の再生産も、よってまた資本と賃労働の関係の再生産も含まれる)。再生産表式の出発式というのはその過程の出発点を示すものである。ところがこの出発式には貨幣は登場していない。しかし社会の総資本が総商品資本として示され、まず最初にW'-G'の過程を通過することが前提されている。しかしよくよく考えてみると、社会のすべての商品資本が貨幣資本に転換しようとしても、それは不可能事であることが分かる。なぜなら、すべての資本家が同時に彼らの商品資本を販売して貨幣資本に転換しようとしても、誰もそれを買う人がいないからである。なぜなら、W'-G'の過程は、同時にそれは反対側からみれば、G-Wの過程だからである。つまりある資本家がW'-G'の過程を行なうためには、あるいはそれが行なえるということは、別の資本家(あるいは個人)が同時にG-Wの過程を行なうからに他ならないのである。だからすべての資本家が同時にW'-G'の過程を行なうという仮定そのものは背理なのである。だから社会的総資本の流通を、総商品資本の循環として、貨幣流通の媒介を入れて考察する場合は、単純には考えることはできないことになる。今、社会的総資本の流通をもう一度、商品資本の循環で示してみると、次のようになる。

 W1'-G1'-W1…P1…W1'=W'2-G2'-W2…P2…W2' 
     ・ -------------・ (貨幣資本の循環サイクル)

 ここで1、2の番号は商品資本の循環の年度を表している。つまり第一年度の最後の商品資本は第二年度の出発式の商品資本になるわけである。われわれが再生産表式の出発式として考えているのは、この最初のW1'かW2'なのである。だからそれはW'-G'-Wの流通過程をこれから辿る社会の総商品資本を表しているのである。しかしすべての資本家が彼らの商品資本を同時に販売することは不可能である。だからそのうちの一部の資本家はW'-G'-Wの過程のうち、あとの方のG'-Wを先にやる必要があるのである。大谷氏が述べているのはこうしたことである。しかも彼らが最初に流通に投じるG'(このGに「'」がついているということは、単純再生産では資本家が彼らの個人的消費のためにも最初に流通に追加貨幣を投じることを表している)というのは少なくとも今考察しようとしている年度の総商品資本の転換において、何らかの商品価値が転化した貨幣ではないことになる。なぜなら、その社会のすべてのこれから貨幣に転換しなければならない商品資本のすべてが表式には表されているのだから、それを媒介するために登場する貨幣は、少なくともその表式で示されている総商品資本の例えその一部でも転化したものではないことになるからである。だから最初に流通に投じられる貨幣は、その表式に示されている総商品資本の実現した貨幣ではない。それは理由はともかく、とにかく資本家が商品資本とは別に手許に持っていて流通に投じたと仮定するしかないような貨幣なのである。
 いや、それならそれは、前年度の循環の終わりに商品資本が実現した貨幣だから、やはり何らの価値あるものを販売して入手したものだとの貨幣の最初の想定はその貨幣にも成立しているのではないのか、と思うかもしれない。しかしそうではないのである。なぜなら、前年度の流通を媒介する貨幣も、やはり今年度と同じ条件にあるのであり、それはやはり総商品資本とは別個に、いわばその外部から追加的に投じられたものだから、ただその追加貨幣が年度の最後に回収されただけに過ぎないのであり、だからそれは商品資本の貨幣化した貨幣とは言えず、ただ資本家がもともと商品資本とは別個に保持していた貨幣を回収しただけになるのである。
 だからこそこの貨幣は奇妙な存在としてわれわれの前に現われるのである。とにかくもう一度、単純再生産の表式を書いてみよう。

  I 4000c+1000v+1000m=6000
                                        計9000
 II 2000c+ 500v+ 500m=3000

 社会の総資本(総商品資本)は9000となっているが、この出発式に表されていないものが二つある(もちろん捨象されている固定資本は論外とする)。一つは労働力商品であり、もう一つは、これらのすべての商品(商品資本と労働力商品)の流通を媒介する貨幣が、すなわちそれなのである。だから社会のすべての総商品、あるいは総価値をいうなら、総商品資本9000+総労働力商品1500+流通に投じられる流通貨幣総額(これは額としては仮定のとりようによってさまざまである)となるのである。この流通貨幣総額というのは、一国に存在する貨幣総額(それは蓄蔵貨幣と流通貨幣の合計である)のうち、流通過程に留まっている貨幣の総額と考えることができる。単純な商品流通や個別資本の流通過程(循環や回転)では、われわれは常にそれは流通にあるものと仮定してきたのであるが、社会の総商品資本の流通を考察する場合には、それを誰かが流通に投じるものとして想定する以外に考えることはできないのである。そして誰が投じるかといえば、結局、それは資本家以外にはありえないわけである。労働者が彼らの労働力商品とは別個に貨幣を持って登場するという仮定は不可能だから(なぜなら労働者が貨幣を持っているのなら、労働力を売らずにその貨幣を使って必要なものを買うだろうから)、資本家がそれを投じるしかない。これがすなわち「社会の総資本の流通を媒介する貨幣」なのである。だからそれは何らかの商品の価値が実現したものとして登場するわけにはいかないのである。というのは、これからすべての商品(商品資本と労働力)の流通を媒介するものとして登場しているのだから、この貨幣がすでに別のある商品の実現形態として登場するわけにはいかないからである。だからこの貨幣は奇妙な性格を帯びざるをえないことになるのである。
 先に紹介した第5節の引用文で、マルクスがそうした500ポンドを回収しても、それは剰余価値を貨幣化したのではない、と述べていたのはこのことなのである。つまりその貨幣というのはもともとそうした何らかの価値の実現したものではないということなのである。それに対して、引用文の前半で、マルクスが I は彼の個人的消費のために追加的に流通に投じる貨幣で彼の剰余価値を貨幣化すると述べているのは、彼が追加的に投じる500ポンドで、とにかく彼の剰余価値1000ポンドとIIの不変資本1000IIcとの転換が行なわれるのであり、その限りでは彼の剰余価値1000ポンドは彼が流通に投じた500ポンドで貨幣化されたといえるのである。というのは彼は彼の剰余価値1000を彼自身の個人的消費手段に転換し、それを消費したのだから、IIの1000c(生活手段)を購入するのに支出した1000ポンドは明らかに彼の剰余価値の貨幣化したものであることは明らかだからである。それに対して、彼が最終的に回収した500ポンドが彼の剰余価値の貨幣化でないことは、彼はその500ポンドを回収しただけで、それを彼自身の消費にさらに支出するわけではないことを見れば、明らかである。それが剰余価値の貨幣化であるなら、単純再生産の前提では、それは資本家の個人的消費として支出されるのに、それはそうではない(すでに資本家の個人的消費は終わってい)からである。というのは、それは実は彼が最初に流通に投じた追加貨幣を回収しただけだからである。このように、一見すると矛盾しているように見えた先のマルクスの論述は、こうしたことを述べているのである。

 (以下、さらにこの項目は続きます。)

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