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2009年7月 8日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その24)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回再び中断した●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての続きです。)


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 さて、やや脱線したが、本線に戻そう。問題は次のようなことであった。社会的総再生産過程を総商品資本の循環として考察するさいに、総商品資本を価値・素材の両面から補填・転換させるために、資本家が彼の商品資本とは別個に保持していて、追加的に流通に投じる貨幣が必要だということである。それが大谷氏らに言わせると、貨幣資本の循環のさいに、最初に前貸される「貨幣資本の前貸」とは違って、それと区別される「流通手段の前貸」というのであった。しかし果たしてそうした主張は正しいのか、それをさらに検討することにしよう。

 大谷氏は「流通手段の前貸」を説明して次のように述べていた。

 〈G_Wが同時に流通手段の前貸となるのは、W_G_Wの第二の変態G_Wが第一の変態W_Gよりも前に行なわれ、あとからW_Gによって補われる場合だけなのである〉(中133頁)

 大谷氏はこうした区別を最初に論じたのは久留間健氏だと注9で指摘しているが、われわれは前畑雪彦氏がやはり久留間健氏の所説にもとづいてそれを定式化しているものを検討して、この問題を考えることにしよう。彼は、次の〈二つの種類の貨幣の還流運動〉があるのだという(前畑雪彦「流通手段の前貸と資本の前貸」『立教経済学研究』34巻4号253頁)。

 1、資本の前貸
  (1)還流形態 G-W…P…W'-G'
  (2)還流根拠 資本としての価値の自己増殖による
  (3)還流期間 流通時間プラス生産時間

 2、流通手段の前貸
  (1)還流形態 G-W-G
  (2)流通根拠 資本家が商品形態で所有している資本及び所得以上に追加的に貨幣を、従ってまたそれだけ追加的に価値を投下したことによる。
  (3)還流期間 流通期間

 果たしてこうした区別が正しいのかどうかである。
 こうした区別の無意味さは、まず2の還流形態の書き方を変えてみれば分かる。これは内容から書き直すと次のようでなければならない。

 G2-W2 W1'-G1'

 つまり最初のG-Wは、第二年目の再生産の出発のためのG-Wなのである。だからそれが分かるように、G2-W2と書いて見ると、その循環は次のようになる。

 [G2-W2]…P2…W2'-G2'

 だからこのG2の還流形態は、1とまったく同じ還流形態をとっているし、だからやはり彼らの理屈からすれば、「貨幣資本の前貸」なのである。
 それに対して、G2-W2のあとに行なわれるW-Gというのは、内容から書き直すと、W1'-G1'となる。つまりそれは初年度の循環

 G1-W1…P1…[W1'-G1']

 の最後の商品資本の貨幣資本への転換なのである。
 だからこれもやはり1の還流形態と同じ還流形態をとるのであって、やはり彼らの理屈からいえば「貨幣資本の前貸」なのである。
 しかしでは1と2とでは何が異なるのであろうか。
 もう少し彼らが注目しているこの二つの貨幣の還流形態の相違を考察してみよう。1の還流形態はいうまでもなく、貨幣が貨幣資本として前貸される場合の循環を見ているのである。そして同じ貨幣資本の循環として見るなら、2もまったく同じ循環をしていることをわれわれは見たわけである。しかしそうだとするなら、2の還流形態G-W-Gは何を意味するのであろうか。それは貨幣だけに注目し、その貨幣が持っている資本の形態規定性を捨象して、たんなる貨幣として見るなら、それは最初に流通に投じた資本家の手ともにすぐに還流するものとして現われるのである。だから問題は、貨幣を資本の形態規定性において見るか、たんなる貨幣としてより表面的・抽象的に見るかの相違なのである。確かに貨幣資本も単純な商品流通のレベルで見るなら、それは流通手段としてわれわれに観察されるわけである。だから彼らは2を流通手段、1を貨幣資本と区別したわけである。しかしそのことは、決して、貨幣の還流形態の相違によってあるものは流通手段になったり、別のものは貨幣資本になるわけではない。それは同じ貨幣をより抽象的なレベルで見るか、それともより具体的に資本の形態規定性を帯びたものとして見るかによる相違にすぎないわけである。それは例えば1の場合も最初に前貸される貨幣資本も抽象的なレベルで観察するなら、われわれにはたんなる貨幣として、流通手段として見えることからも明らかである。彼らは1では資本としての形態規定性というより具体な規定性で見て、2ではより抽象的に見ているだけなのである。そしてもしより具体的な規定性で見るなら、1も2も貨幣資本の循環過程としては同じものとして観察できるのであり、ただその循環のどの部分を見るかの相違でしかない、すなわち1の場合、二つの循環期間を連続して考えてみると、G1-W1…P1…W1'-G1'・G2-W2…P2…W2'-G2'となるのに対して、2の場合は、G2-W2・W1'-G1'であるから、これは[G2-W2]…P2…W2'-G2'とG1-W1…P1…[W1'-G1']という二つの循環期間を一部順序を逆にしていることになる。つまり第一の循環期間の最後のW1'-G1'が、第二の循環期間の最初のG2-W2のあとになされるということである。だから二つの循環の相違を見るなら、ここにこそその相違があるのである。そしてこうした循環過程をなぜ一部の資本家がとる必要があるのかについては、すでに述べた通りである。

 だから問題は次のようにいえるだろう。要するに、社会的総商品資本の流通を媒介する貨幣は、資本家が彼らの総商品資本とは別個に、追加的に流通に投じるしかないということである。だからその貨幣は、少なくともいま問題にしている総再生産過程の流通(その総商品資本の循環期間)においては、商品の実現形態として登場しえないということである(だからこそ、それは「追加」貨幣なのだ)。そしてその追加貨幣が、再生産に必要な生産手段や労働力を購入するために前貸されるなら、それは資本にとっては「貨幣資本の前貸」であるが、しかしそれは資本関係を捨象して単純流通として見るなら、やはりその追加貨幣もただ流通手段として機能するだけであり、あるいはまた資本家自身の個人的な消費手段の購入のために支出されるなら、それは彼にとっては単なる流通手段でしかないということでしかない(だから言いたければ「流通手段の前貸」と言ってもよいわけである)。それ以上の「困難」な問題は何もないのである。だから久留間健氏とそれに追随する人たちが考えるように、貨幣の還流形態の相違によって、一方は「貨幣資本の前貸」であり、他方は「流通手段の前貸」だなどという区別はありえないのである。同じ貨幣がある資本家にとっては貨幣資本であるものが、別の資本家にとっては単なる流通手段でしかない場合もあるわけだから。

 ただ総商品資本を価値と素材において補填し合う関係を貨幣流通による媒介を顧慮して考察する場合に登場するこうした貨幣(追加貨幣)には、確かに奇妙な性格があり、それを理解するには多少の「困難」が伴うことも事実である。それがどうしてそうなのかについてもう少し吟味してみよう。
 マルクスが第2部第3篇第20章「単純再生産」第5節「貨幣流通による諸変換の媒介」で取り扱っている「貨幣」というのは、確かに一見すると奇妙な性格を持っている。それが奇妙であるのは、この節の次の一文を見れば明らかである(しかしわれわれは全集版で示すことしか出来ないが)。

 《前述の転換(4)で、IIではなく I が買い手として現われ、したがって500ポンドの貨幣を同じ価値量の消費手段に支出するとすれば、その場合には転換(5)ではIIが同じ500ポンドで生産手段を買い、(6)では I がその500ポンドで消費手段を買い、(7)ではIIがその500ポンドで生産手段を買う。そこで、結局、500ポンドは、前の場合にIIに帰ったように、 I に帰ってくる。この場合には、剰余価値はその資本家的生産者自身が個人的消費に支出する貨幣によって貨幣化されるのであるが、この貨幣は、予想収入すなわちこれから売られる商品に含まれている剰余価値からの予想収入を表わしている。この剰余価値の貨幣化は、500ポンドの還流によって行なわれるのではない。なぜならば、 I は、商品 I vでの1000ポンドの他に、転換(4)の終わりに貨幣で500ポンドを流通に投じているが、この貨幣は追加されたもので、--われわれの知る限りでは--、売れた商品の代金ではなかったからである。この貨幣が I に還流しても、これによって I は自分の追加貨幣を回収しただけで、 I の剰余価値を貨幣化したのではない。 I の剰余価値の貨幣化は、この剰余価値が含まれている商品 I mの販売によってはじめて行なわれるのであり、この貨幣化が持続するのは、いつでも、ただ、この商品の販売によって得られた貨幣がまたあらためて消費手段に支出されていない間だけのことである。》(『資本論』第2部全集版515頁)

 この一文はそれまでの展開を理解しないとなかなか分かりにくいが、ここでマルクスが述べていることで奇妙に思えるのは、前半部分では《剰余価値はその資本家的生産者自身が個人的消費に支出する貨幣によって貨幣化される》と述べているのに、後半部分では《この貨幣が I に還流しても、これによって I は自分の追加貨幣を回収しただけで、 I の剰余価値を貨幣化したのではない》とまったく逆のことを述べているように見えることである。前者では《剰余価値が貨幣化される》と述べ、後者では《剰余価値を貨幣化したのではない》という。一体、マルクスは何を言いたいのであろうか。しかも後者の場合、明らかに資本家 I は彼の剰余価値をIIに販売して500ポンドを回収したのに、この500ポンドは I の剰余価値を貨幣化したのではない、というのである。どうしてこうしたことになるのか、それを考えてみよう。

  (以下、この項目はさらに次回に続きます。)

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