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2009年7月 7日 (火)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その23)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、前回中断した●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]についての続きです。)


 それにそもそも社会の総資本が総商品資本(W’)として、われわれの前に前提されている場合、このW’には当然、貨幣あるいは貨幣資本は含まれていない。つまりわれわれが社会的な総再生産過程の考察の出発点として前提している単純再生産の出発表式には(もちろん拡大再生産の出発表式でも同じであるが)、貨幣や貨幣資本は現われていない。だから貨幣流通による媒介によってそれらの総商品資本(総生産物)の相互補填を考察するためには、どうしてもそれを媒介する貨幣を何処からか持ってくる必要がある。つまり個別の諸資本の循環や回転を考察する場合には、ただ流通過程に存在すると前提するだけで良かった貨幣を、社会的総再生産過程を考察する場合には、誰がその貨幣を最初に流通に投じるかという問題が新たな問題として生じてくるのである。そしてそれは結局、資本家しかいない。だから社会的な総資本のうち、一部の資本家はW’-G’ではなく、G-Wの過程から開始するしかないのである。つまり彼らはW’-G’・G-Wの過程を、後半部分から開始するわけである。すなわち彼らはW’-G’を目当てに、G-Wをまずやり、そのあとW’-G’をやって、彼が最初に流通に投じた貨幣Gを回収するのである。その貨幣をマルクスは「追加貨幣」と述べている。ところがどうしたことか、大谷氏はこのマルクスが論じている「追加貨幣」という範疇を無視している(あるいは見落としている)。そして彼らはそれを、ただ貨幣をその抽象的な機能で見た場合の規定性に過ぎない「流通手段」とし、その「流通手段」に、そうした社会的総資本の流通を媒介するために一部の資本家によって追加的に最初に流通に投じられる貨幣という意味を付加しているために、問題が混乱してくるのである。彼らはそうした社会的総商品資本の貨幣流通による媒介による補填関係の考察から生じる貨幣の新たな形態規定性と貨幣の抽象的な機能規定とを明確に区別できずに、それらを混同しているのである。これが大谷氏(そして同じ問題を論じている多くの学者たち)の“躓きの石”である。それは次のような大谷氏の説明に現われている。

 〈ここで注意が必要なのは、G_Wがつねに、同時に流通手段の前貸であるわけではない、ということである。資本家が自己の商品資本の一部である商品の販売W_Gによって入手した貨幣で商品を買う購買G_Wは、流通手段の前貸にはならない。この貨幣のなかに含まれる彼の収入すなわち剰余価値の支出であるg_wもそうはならない。また、労働者の労働力の変態W(A)_G_Wでは、労働力の販売が必ず先行するのであって、労働者が流通手段を前貸することはありえない。だから、G_Wが同時に流通手段の前貸となるのは、W_G_Wの第二の変態G_Wが第一の変態W_Gよりも前に行なわれ、あとからW_Gによって補われる場合だけなのである(S. 766.18–25, 795.18–21, 800.27–32, 801.25–28 und 809.37–810.5)(8)。〉(中133頁)

 これが「追加貨幣」の説明なら問題はない。しかしそれが「流通手段の前貸」として説明されていることが問題なのである。「追加貨幣」の概念が明確に掴まれているなら、それが〈資本家が自己の商品資本の一部である商品の販売W_Gによって入手した貨幣〉でないことは明らかであろう。なぜなら、それは資本家たちが彼らのすべての商品資本の補填を媒介させるために、彼らの商品資本とは別個に保持していて、「追加的」に流通に投じる貨幣なのだからである。それは《売れた商品の代金ではな》い(全集版515頁)。
 ところが大谷氏はそれを〈流通手段の前貸〉として定式化している。しかし流通手段というのは、貨幣の抽象的な機能の一つであり、貨幣を単純流通で捉えたときの一つの機能なのである。だからそうした抽象的なレベルでみるかぎりでは〈資本家が自己の商品資本の一部である商品の販売W_Gによって入手した貨幣で商品を買う購買G_W〉もやはりそれは流通手段としての貨幣の機能でもあることには違いはないのである。だから大谷氏が次のように述べていることも正しいとはいえない。

 〈このように、社会的総再生産過程では資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流とが複雑な仕方で絡み合っているので、両者を概念的に区別したうえで、その絡み合いを明晰に把握するには抽象力の弛みない緊張が必要である。マルクスは第8稿で、貨幣流通によって媒介された資本の運動と資本の運動との絡み合い、資本の運動と収入の運動との絡み合い、収入の運動と収入の運動との絡み合いを分析しているが、そのさいの一つの力点は、資本の前貸・還流と流通手段の前貸・還流とを明確に区別したうえで、両者が絡み合って現われる複雑な過程を明らかにするところに置かれていたのである(9)。〉(中133頁)

 重要なことは、〈社会的総再生産過程では資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流とが複雑な仕方で絡み合っているので、両者を概念的に区別したうえで、その絡み合いを明晰に把握する〉ことではない。必要なことは、「追加貨幣」の概念とその独自性を明確につかむことである。それさえできれば、その「追加貨幣」が具体的な資本の形態規定性としては「貨幣資本の前貸」として把握される場合もありうるし、単純な流通過程の一契機としては単なる「流通手段の前貸」である場合もありうるのである。同じ過程が抽象レベルの相違によってわれわれに違った様相と規定性を与えるのはありふれたことである。
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 これはついでに指摘しておくことだが、ここで大谷氏は〈マルクスは第8稿で、貨幣流通によって媒介された資本の運動と資本の運動との絡み合い、資本の運動と収入の運動との絡み合い、収入の運動と収入の運動との絡み合いを分析している〉と述べている。われわれはこうした表現を見て、「おや?」と思わざるをえない。というのは、大谷氏は以前、〈「第2部第2稿」の【第1稿に対する理論的な前進】〉の一つとして、〈[c 資本と資本との、資本と収入との、収入と収入との交換、という考え方の放棄]〉(上152頁)と題して次のように述べていたからである。

 〈第一稿の第三章の最初に置かれた二つの項目は、「1 資本と資本との交換、資本と収入との交換、および、不変資本の再生産」および「2 収入と資本。収入と収入。資本と資本。(それらのあいだの交換)」である(II/4.1, S. 301–344)。この表題からも読み取れるように、マルクスはここでは、社会的総再生産過程の運動の核心を、商品形態を取った資本および収入が持ち手を変える三つの「交換」に見ていた。こうした把握には、少なくとも、三つの難点がある。〉(上152-3頁)

 そして大谷氏は〈三つの難点〉なるものを示していたのであるが(そしてもちろん、それらに対して私は根拠がないことを指摘したのであるが)、ところがここでは、マルクス自身が第8稿の段階でも、〈資本の運動と資本の運動との絡み合い、資本の運動と収入の運動との絡み合い、収入の運動と収入の運動との絡み合いを分析している〉と述べている。一方は「交換」であり、他方は「運動」の「絡み合い」だから問題はないというのだろうか、しかし「運動」の「絡み合い」は「交換」し合うことによって生じるのだから、こんなことは言い訳にはならないだろう。明らかに大谷氏はここでは以前自身が述べたことと矛盾したことを言っているのである。

 (この項目は、次回に以降に、まだまだ続きます。)

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