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2009年7月 6日 (月)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その22)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]について

 これも先の「a」と同様、大谷氏が「第2稿第3章にたいする第8稿第3章の理論的前進」の一つとして上げた、【二重の叙述方法の放棄と貨幣運動の全面的な組み入れ】に関連して、特に〈ここでの、社会的総再生産過程における貨幣の運動ないし役割についての分析では、とくに次の諸点が重要である〉(中131-132頁)としている二つ目の項目である。ここで大谷氏が論じている問題は、これまでにも日本の多くのマルクス経済学者のなかでも議論され論争されてきた問題の一つである、“いわゆる資本の前貸か、流通手段の前貸か”という問題なのである。この問題については私も正直いろいろと頭を悩ませたが、最終的な結論は、大谷氏らが依拠している久留間健氏の諸説は受け入れられないというものであった。だからここでは大谷氏の主張を踏まえながら、久留間健氏の諸説をもとに論を展開している人たちの意見も参考にしながら、問題を少し詳細に、また私自身の思考過程も紹介しながら、検討して行きたいと考えている。よって、大谷氏の論文の分量(それは『経済』の上下2段組1頁強程度)に比べて、批判的検討がかなりの分量になってしまうが、その点はご容赦ねがいたい。

 まずわれわれは内容を詳細に吟味する手続きとして、大谷氏の論述に沿ってその内容を逐一検討することから開始しよう。まず大谷氏は次のように述べている。

 〈貨幣資本の循環における最初の段階であるG_Wは、それ自体としては一つの「流通行為」であるが、なによりもまず、価値増殖を目的として貨幣資本を生産資本の諸要素に転態する流通行為であり、のちのW’_G’ によって還流すべき資本の「前貸〔Vorschuß〕」である。この、生産過程への不変資本および可変資本の前貸が、「資本の前貸」の「範疇的規定」であって、 マルクスは、ケネーおよび重農学派が「前貸〔avance〕」をそのようなものとして規定したことをきわめて高く評価している(S. 717.21–26, 721.40–722.9, 796.41–797.11 und 789.33–36)。〉(中132頁)

 ここでは大谷氏は貨幣資本の循環のG-Wは、〈それ自体としては一つの「流通行為」である〉と述べている。これの意味するところを正確に理解しているのかどうかが問題なのである。以前にも指摘したが、そこらあたりが大谷氏にはあいまいな気がするからである。これは資本の流通過程を資本関係を捨象して見るなら、それは単純流通として現われてくるということなのである。つまりそれは単なる商品流通の過程だ、すなわち貨幣の商品への変態、貨幣による商品の購買、として現われるということだ。しかしその単純流通はより具体的な資本関係のもとでは貨幣資本の商品資本への転化であり、貨幣資本の「前貸」になるとマルクスは指摘している。なぜなら貨幣は、この場合、価値を増殖させて手許に還流してくることを期待して投ぜられるからである。これこそ「前貸〔Vorschuß〕」真の意味だ、とマルクスは次のように述べている。

 《資本家が労働力を買う貨幣は、彼にとっては価値増殖のために投じた貨幣、つまり貨幣資本である。それは、支出されたのではなく、前貸しされているのである。(これが「前貸」--重農学派の avance --の真の意味であって、資本家がこの貨幣そのものをどこからもってくるかには何の関係もないのである。資本家が生産過程の目的のために支払う価値は全て資本家にとっては前貸しされているのであって、この支払が前になされようと後からなされようとそれに変わりはないのである。その価値は生産過程そのものに前貸しされているのである。)》(第2部第19章全集版466頁)

 大谷氏が〈マルクスは、ケネーおよび重農学派が「前貸〔avance〕」をそのようなものとして規定したことをきわめて高く評価している〉と述べているのはこの一文を指すのであろう。いずれにせよ重要なのは過程を抽象的なレベルで見るか、より具体的なレベルで見ているかの相違であることをしっかり理解することである。続く大谷氏の一文をさらに検討しよう。

 〈ところが、この同じ流通行為G_W が、同時に、「資本の前貸」とは区別されるべきもう一つの「前貸〔Vorschuß〕」でもありうるところから、「難問〔perplexity〕」(II/4.1, 151.29)が生じる。もう一つの「前貸」とは、社会的総再生産を媒介する流通手段を資本家階級のうちのだれかが流通過程に前貸しなければならない、という意味での「前貸」、すなわち流通過程への流通手段の前貸である。〉(中132頁)

 まずわれわれはこの場合の「前貸」はマルクスが「真の意味」での「前貸」と述べていたものと異なることをまず踏まえておこう。というのは、この場合、貨幣を流通に投じる資本家はそれによって何も儲けないとマルクス自身も述べているからである。そしてこれはある意味では当然であって、というのは前にも述べたように、資本の流通過程を資本関係を捨象して考察するなら、単純流通として現われ、単純流通の過程としては同じ価値がその姿態を変態させるだけなのだから、そこには増殖などありえないからである。大谷氏は〈もう一つの「前貸」とは、社会的総再生産を媒介する流通手段を資本家階級のうちのだれかが流通過程に前貸しなければならない、という意味での「前貸」、すなわち流通過程への流通手段の前貸である〉という。しかしここで重要なのは、社会的総再生産を媒介する貨幣一般を「流通手段」という場合は、それを抽象的なレベルで見ているからそういえるのであって、具体的な形態規定性から捉えるなら「貨幣資本」でもありうるという視点が果たして大谷氏にあるかどうかである。マルクス自身はこうした〈社会的総再生産を媒介する〉するために資本家が投じる貨幣のことを「追加貨幣」と述べている(全集515頁)。確かにマルクスもそれを「流通手段の前貸」とも述べている場合もあるが(同517頁)、しかしその場合は部門 I の資本家が自身の個人的消費のために自分の収入を目当てに投じる貨幣だから、それを「流通手段の前貸」としているだけであることに気付く必要がある。だから〈社会的総再生産を媒介する〉貨幣だから「流通手段」だとするのは早計なのである。それはあくまでも〈社会的総再生産を媒介する〉貨幣を単純な商品流通のレベルでみるなら、それは「流通手段」になるのであり、もし〈社会的総再生産を媒介する〉貨幣であっても、具体的な資本関係のなかで見るならば、それは「貨幣資本」として現われる場合もあるし、収入を媒介する場合は「流通手段」として機能する場合もあるのである。例えば資本家 I が自身の不変資本の補填のために、生産手段の現物形態で存在している商品資本の実現を目当てに、まず最初に手持ちの貨幣を流通に投じるなら、その場合は、抽象的なレベルでは、単なる貨幣の手放し、つまり流通手段を流通に投じたのであるが、より具体的な資本の形態規定性から見れば、彼は貨幣資本を前貸したのである。そしてこの場合も彼が「追加貨幣」を投じる役割を果たした当事者であることには何ら変わりはない。だから大谷氏が続けて次のように述べているのは、マルクスが「追加貨幣」と述べているものの説明でなければならないのである。

 〈社会的総生産物すなわち総商品資本の諸転換あるいは相互補填を媒介する流通手段としての貨幣は、総商品資本の持手である個別資本家たちの手もとにあるほかはない、つまり、彼らは商品資本のほかに、準備貨幣資本または鋳貨準備の形態で貨幣をもっているのである。彼らのこの貨幣が再生産の諸要素の諸転換あるいは補填を媒介し始めるのは、彼らがこの貨幣で商品を買うこと、すなわちG_Wを行なうことによってである。このGによる購買が、彼による流通過程への流通手段の前貸である。けれども、彼らのこの購買すなわちG_Wは、じつは、彼らの商品資本の総変態すなわちW_G_Wのうちの第二の変態をなすG_Wなのであり、彼らはこれを、第一の変態W_Gに先行させて行なうのである。だから彼らは、そのあとに行なわれる第一の変態W_Gによって、前貸したのと同額の貨幣額を回収する。これが、彼が前貸した流通手段の彼のもとへの還流であり、彼はこれによって、ふたたび手もとに前貸したのと同額の準備貨幣資本または鋳貨準備を取り戻すことになる。〉(中132-3頁)

 つまり〈社会的総生産物すなわち総商品資本の諸転換あるいは相互補填〉を貨幣流通による媒介を考慮して考察する場合に一つの困難にわれわれは突き当たる。総商品資本の補填関係を商品資本の循環として考察するということは、W’-G’-W…P…W’の過程として考察することである。しかし社会の総資本が総商品資本としてわれわれの前に前提されている場合、それらがまずW’-G’の過程をとろうとしても不可能であること気付く。なぜなら、一つの個別資本のW’-G’(商品資本の貨幣資本への転化)は他の個別資本のG-W(貨幣資本の商品資本への転化)か、あるいは労働者や資本家の個人的消費のための単なるG-Wを前提するからである。だからすべての商品資本が同時にW’-G’の過程を行なうというわれわれの想定には、もともと無理があるのである。
 (以下、この項目は続きます。)

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