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2009年7月 4日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その21)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●[a 可変資本の貨幣形態での前貸および還流の重要性の強調]についての続きです。)


 さらに〈貨幣資本の循環と商品資本の循環とは時間的にずれており、しかも不変資本の前貸および還流と可変資本の前貸および還流とは、これまた時間的にずれているのだから、これが――のちに拡大再生産のところで現われてくるように――事態を複雑にし、叙述に一連の難しさをもたらすことになる〉というのは、まったくわれわれの理解を越えている。なぜ、総商品資本の循環として考察される社会的な総再生産過程の考察に貨幣資本の循環が入ってくるのか訳が分からないからである。
 まず大谷氏は〈貨幣資本の循環と商品資本の循環とは時間的にずれて〉いるとおっしゃる。もし大谷氏が個別諸資本の現実の循環や回転を問題にしているのなら確かにそうである。しかしわれわれが今問題にしているのは、社会的な総再生産過程である。とするなら、こうした過程の考察においては、マルクスは常に流通期間をゼロと仮定していることは大谷氏もご存知であろう。もし流通期間がゼロならば、貨幣資本の循環と商品資本の循環とに時間的ズレなど生じるはずがないではないか。
 また〈不変資本の前貸および還流と可変資本の前貸および還流とは、これまた時間的にずれている〉というに至ってはまったく混乱以外の何ものでもない。〈不変資本の前貸〉とか〈可変資本の前貸〉などと述べているのは、あるいは大谷氏は問題をただ貨幣資本の循環としてしか考えていないのではないかと疑わせるところがあるが、しかし、まあそれはおいておこう。問題を“善意に”解釈して、商品資本の循環のうちの流通過程、すなわちW'-G'-Wのうち、W'-G'を終えて、G-Wの過程を大谷氏は問題にしているのだとわれわれも考えることにしよう。そこで大谷氏は〈不変資本の前貸〉〈可変資本の前貸〉とは〈時間的にずれている〉とおっしゃる。大谷氏がそのように考えているのは、おそらく労賃の支払は後払いであり、例えばそれは一週間ごとに週末に支払われ、それに対して、不変資本、つまり生産手段(われわれは固定資本を捨象しよう、そうするとこれは労働対象である)については、生産を開始する期のはじめに資本家はそれを購入しなければならない。だから不変資本の前貸は期の最初になされるが、しかし可変資本の前貸はそれから一週間遅れてなされる、つまり時間的にずれると言いたいのであろう。
 しかしこんな捉え方は果たして正しいのであろうか。すでに以前にも指摘したが、大谷氏も生産を開始する期の最初に労働力も資本家によって購入されていなければ、生産がまったく進まず、労働対象が生産的に消費されるはずもないことは認めるであろう。《資本家が労働力を買うのは、それが生産過程に入る前で》(全集版490頁)なければないのである。ということは大谷氏は労働力は生産を開始する期のはじめに購入されるが、しかしその賃金の支払は一週間後だから、だから可変資本の前貸も一週間後になされるのだ、とどうやら考えているようなのである。しかしもしそれが正しいとするなら、一体、その賃金が支払われるまでの一週間、生産過程で働いている労働力とは一体なんであろうか? 大谷説だとまったく無規定な代物になる。それは生産資本ではない。なぜなら、可変貨幣資本はまだ前貸されておらず、よってそれはまだ現物形態に、すなわち労働力に転化していないはずだからである。こんなバカな話はないことは誰でも分かるであろう。例え労働者に対する賃金の支払が一週間後であろうが、一カ月後であろうが、しかし可変資本は生産を開始する期のはじめに前貸され(つまり労働力は購入され)、それは現物形態に(すなわち労働力に)転化されなければならない。そうでないと生産資本は必要な条件を満たさない。そして考えてみれば、例えば不変資本の前貸にしても、大谷氏の理屈だと、資本家が生産材料を信用で購入し、一週間後に支払う約束で購入したなら(そして資本の取り引きとしてはそうした信用取引は一般的ですらある)、不変資本の前貸も一週間後に行なわれることになる。とするなら、その一週間分の生産過程で生産的に消費される労働対象は一体何なのか、という疑問がまた生じることになる。それは大谷説では生産資本でないことになるからである。これではまったくチンプンカンプンではないだろうか。これを混乱といわずして何を混乱というのであろうか。

 それにしても、大谷氏は、先に検討した[b 商品資本の循環の独自性の明確化](中123頁)のところでは、第2稿では、マルクスにあっては、いまだ社会的総再生産過程を商品資本の循環として捉えるという視点が不十分であったかに述べていたのであった。ところが、第8稿では、いつのまにか、総再生産過程を商品資本の循環として捉える視点そのものを飛び越えて、もはや商品資本の循環として捉えることそのものがすでに不十分であって、今度は、それに〈貨幣資本の循環が考慮に入れられなければならない〉というのである。第2稿では〈商品資本の循環の独自性〉を十分明確化していない理由として、大谷氏は、〈マルクスが、ケネーの経済表の基礎を成しているのは生産資本の循環と商品資本の循環だ、と述べていた〉(中123頁)からだと指摘していた。ところがいまでは大谷氏は第8稿では、商品資本の循環だけでなく、貨幣資本の循環も考慮に入れる必要があるのであり、そうしたものにマルクスの視点は移っているかにおっしゃるのである。しかしこれは以前の指摘からするなら、むしろマルクスの視点の後退ではないのだろうか。
 大谷氏は、商品資本の循環に加えて〈貨幣資本の循環が考慮に入れられなければならない〉とおっしゃるのであるが、では、「生産資本の循環」はどうなのであろうか。どうして生産資本の循環は問題にはならないのであろうか。〈時間的にずれて〉いるというのなら、生産資本の循環だってそうではないのか。こうして大谷氏は自身が主張される第2稿の〈不完全〉状態へと後退し、ますます混沌のなかにはまり込んで行く。

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