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2009年7月 3日 (金)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その20)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

 (以下は、項目●【社会的生産の二つの部門の呼び方の変更】についての続きです。)

 このように大谷氏があげる理由は余り「合理的」なものとはいえない。では、マルクスは第2稿の想定を第8稿でどうして変更したのであろうか。残念ながら、私にはマルクス自身の文言にもとづいてその理由を説明することは出来ない。しかしもし勝手な類推が許されるなら、次のような理由が考えられるのではないかと思っている。
 もちろん、大谷氏も指摘しているように、マルクスの総再生産過程の考察は、スミス批判を通じて理論的には深められてきたということが、その理由の一つとしてあげられるように思う。しかしそれだけが理由とも思えない。もっと本質的な問題がそこにはあるように思えるのである。すなわち、人間の社会的な生産(社会的な物質代謝活動)は本源的には彼らの社会的生活の維持と再生産を目的にしている。つまり衣食住の基本的な諸手段を生産しその生活を維持することである。その意味では消費手段の生産こそ、社会的生産の目的なのである。しかし人間の社会的生産活動においては、そうした消費手段を生産するための諸手段をも生産する必要がある。そしてさらにそうした消費手段の生産のための生産手段を生産するためにも、やはり生産手段が必要であり、それらも常に再生産される必要があるのである。そして人間の生産活動の歴史的な発展が進めば進むほど、直接には個人的な消費には役立たないそうした生産諸手段の生産により多くの社会的労働を配分するようになってきた。しかしどんなに社会が発展しようと、個人的な消費手段の生産のための生産手段の生産や、さらにはそうした生産手段を生産するための生産手段の生産も、究極的には直接的な消費手段を、われわれが自然から入手し、われわれ自身の生活の再生産、すなわち社会的物質代謝を維持するために存在しているわけである。だからその意味では個人的な消費手段の生産部門こそ、社会的生産の基底的部分であり、なければならず、だから、マルクスは当初はそれを部門 I とし、生産手段生産部門を部門IIとしたのではなかったと思える。
 しかし翻って、資本主義的生産様式は、決して使用価値の生産を直接に目的にした生産ではない。利潤を唯一の推進動機とも規定的目的ともする生産様式なのである。だからこそ、資本主義的生産様式においてはすべてが逆立ちして現われてくる。先の本源的な関係においてもそうである。「生産のための生産」あるいは「蓄積のための蓄積」が資本主義的生産様式の標語となる。だからそこでは、生産手段の生産こそが第一義的なものとして現われてくるのである。だからマルクスは第8稿では、資本主義的生産様式における社会的総資本の再生産の考察としては、生産手段の生産部門こそ部門 I に、そして消費手段の生産部門を部門IIとすべきだと考えたのではないだろうか。私にはそのように思えるのである。
 
●【二重の叙述方法の放棄と貨幣運動の全面的な組み入れ】も受け入れられない

 これも大谷氏によれば、「第2稿第3章にたいする第8稿第3章の理論的前進」なのだそうだが、すでに何度も指摘しているが、こうした評価は大谷氏らの独断でしかないと言わざるをえない。ここでも大谷氏はエンゲルスの「序文」をそのまま踏襲して、次のように述べている。

 〈いまでは、社会的総再生産過程の分析を、「貨幣流通を捨象した叙述」と「媒介する貨幣流通を伴う叙述」との二段構えで行なうという以前の叙述方法で遂行できないことは、マルクスにとって明らかであった。第8稿の第3章では、マルクスは最初から貨幣の運動を組み入れて再生産過程の進行を観察している。〉(中131頁)

 しかし、こうした主張にはどれほどの根拠があるのだろうか。大谷氏は何の根拠も示さずに〈マルクスにとって明らかであった〉などと述べているが、もし本当にそうだとするなら、どうして第8稿のなかに、マルクス自身の文言として、そうした「二段構えの敍述方法」を「否定」し「放棄」するという一文が、あるいはそれをほのめかすようなものでもよいが、そうした一文がまったく見い出されないのであろうか。その理由を大谷氏らは説明すべきではないだろうか。あれだけ第1稿でも第2稿でも、「二段構えの敍述方法」の意義を強調してきたマルクスなのだから、もしマルクス自身にそれまでの敍述方法を放棄する意図があったなら、当然、それを何らかの形で述べたり、示唆したりする文言があって然るべきではないだろうか。それがまったくない事実をどのように大谷氏らは説明するのであろうか。
 すでに何度も指摘したが、〈第8稿の第3章では、マルクスは最初から貨幣の運動を組み入れて再生産過程の進行を観察している〉という事実自体は、何もそれを論証することにはならないのである。なぜなら、それはマルクスが第8稿では、最初から問題を限定して論じているからそうなっているだけのことだからである。しかもマルクスは問題を限定して論じる自身の意図を「先取り」という断り書きでちゃんと示していることはすでに指摘した通りである。

●[a 可変資本の貨幣形態での前貸および還流の重要性の強調]について

 さて、大谷氏は先の項目、【二重の叙述方法の放棄と貨幣運動の全面的な組み入れ】に関連して、特に〈ここでの、社会的総再生産過程における貨幣の運動ないし役割についての分析では、とくに次の諸点が重要である〉(中131-132頁)として、a~eの項目を立てて論じている。これはその最初の項目である。大谷氏は次のように論じている。

 〈マルクスは第8稿で、資本主義的生産では貨幣形態での可変資本の前貸とそれの貨幣形態での還流とが決定的な契機をなすこと、だからまた、社会的総資本の再生産過程の考察でも、この前貸および還流の分析が決定的に重要であることを強調した(S. 731.15–33)。だから生産手段、消費手段、労働力という商品の相互間の「素材的転換」を考察することで満足しているわけにはいかない。貨幣を媒介にしたこれらの転換が、可変資本の貨幣形態での前貸および還流とどのように絡み合っているのか、ということがつかまれなければならないのである。だから、総再生産過程の分析が商品資本の循環にもとづいて行なわれるとしても、そのさい貨幣資本の形態にある可変資本の循環が、総じて貨幣資本の循環が考慮に入れられなければならないということになる。貨幣資本の循環と商品資本の循環とは時間的にずれており、しかも不変資本の前貸および還流と可変資本の前貸および還流とは、これまた時間的にずれているのだから、これが――のちに拡大再生産のところで現われてくるように――事態を複雑にし、叙述に一連の難しさをもたらすことになる。〉(中132頁)

 〈マルクスは第8稿で、資本主義的生産では貨幣形態での可変資本の前貸とそれの貨幣形態での還流とが決定的な契機をなすこと、だからまた、社会的総資本の再生産過程の考察でも、この前貸および還流の分析が決定的に重要であることを強調した〉ということはまあよいとしよう。確かにマルクスは「第20節 単純再生産」「第3節 両部門間の転換  I (v+m)対IIc」(この部分は第8稿)のなかで次のように述べているからである。

 《しかし、この相互転換は貨幣流通によって成立するのであって、貨幣流通はそれを媒介するとともにそれの理解を困難にするのであるが、しかしそれは決定的に重要である。というのは、可変資本部分は絶えず繰り返し貨幣形態で現れなければならないからである。すなわち貨幣形態から労働力に転換される可変資本として現れなければならないからである。》(全集版490頁)

 しかしこのマルクスの文言を金科玉条にして、貨幣資本の還流の決定的意義なるものをあまりにも強調しすぎることは正しくないであろう。なぜなら、マルクスがここで強調しているのは、可変資本の場合は常に貨幣形態でそれが労働力に転換されなければならないからだとの理由によるからである。労賃は例えそれが後払いであろうが、先払いであろうが、常に現金で支払われる必要がある。だから可変資本は常に貨幣形態で資本家の手許に還流する必要がある。マルクスが指摘しているのはこの事実である。しかしこうした理由は事態の具体的な側面である。そして具体的には不変資本部分の場合には資本家たちは相互に信用を与え合うことによって、貨幣を媒介せずに商品資本を相互に補填し合うケースが多く、だから必ずしも貨幣形態で還流する必要はないのである。しかし注意が必要なのは、われわれが考察している社会的な総再生産過程では、そうした信用など具体的な諸契機は捨象されているのである。だから可変資本部分だけではなく、不変資本部分も剰余価値部分も、資本家たちはそれらすべての商品資本を一旦は貨幣資本に転換すると仮定されているのである。それゆえ、可変資本が常に貨幣形態で労働力に転換されなければならないということだけをことさら強調することは、われわれが考察している抽象レベルを考慮しないことであり、それ自体が誤りに転ずる可能性を持っているのである。
 だから大谷氏らが、可変資本部分が常に貨幣形態で還流する必要があるということを強調するあまり、〈だから生産手段、消費手段、労働力という商品の相互間の「素材的転換」を考察することで満足しているわけにはいかない〉などというのはおかしな議論なのである。一体、誰が満足しているのか分からないが、このように言うことは、大谷氏は少なくとも〈生産手段、消費手段、労働力という商品の相互間の「素材的転換」を考察する〉意義そのものは認めているのであろうか。それは必要な考察の一つの段階ではあるが、それだけに〈満足して〉留まっていてはダメだということなら、まったくそのとおりであり、誰も文句は言わないであろう。誰もそれに満足せよとか、そこに留まっておるべきだなどとは主張していないからである。しかしその前では大谷氏はその意義さえも認めず、「二段構えの敍述方法」をマルクスは放棄したと言ったのではなかったのか。それとも〈満足しているわけにはいかない〉というのは、それ自体を否定するための単なるレトリックなのであろうか。
 確かに〈資本主義的生産では貨幣形態での可変資本の前貸とそれの貨幣形態での還流とが決定的な契機をなす〉ことは認めよう。しかしだからといって、〈貨幣を媒介にしたこれらの転換(=商品相互の素材転換)が、可変資本の貨幣形態での前貸および還流とどのように絡み合っているのか、ということがつかまれなければならないのである〉というなら、それは行き過ぎであり、問題の一面化である。なぜなら、単に問題は〈可変資本の貨幣形態での前貸および還流とどのように絡み合っているのか〉ということだけが問題ではないし、それだけが解明されればよいという問題でもないからである。不変資本や剰余価値もそれぞれが貨幣流通に媒介されてどのように補填され合うのかも解明される必要があるからである。

  (以下、この項目も次回に続きます。)

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