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2009年7月 2日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その19)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


 (以下は、項目●【「実体的諸条件」の解明から社会的総再生産過程の考察への課題の転換】についても疑問の続きです。)


 マルクスは蓄積にはそれに先行する潜勢的可変資本である貨幣の蓄蔵が不可欠なことを指摘して、その蓄蔵貨幣が如何に形成されるかを論じているところで、次のように述べている(下線はマルクスによる強調)。

 《この剰余生産物を次々に売っていくことによって,資本家たちは蓄蔵貨幣,《追加的な》潜勢的貨幣資本を形成する。いまここで考察している場合には,この剰余価値ははじめから生産手段の生産手段というかたちで存在している。この剰余生産物は,B,B',B”,《等々》( I )の手のなかではじめて追加不変資本として機能する。しかしそれは,可能的には、それが売られる以前から,貨幣蓄蔵者A,A’,A”等々( I )の手のなかで追加不変資本である。これは, I の側での《再》生産の価値の大きさだけを見るならば,単純再生産の限界の内部でのことである。というのは,この可能的な追加不変資本(剰余生産物)を創造するのに追加資本が動かされたわけでもなく,また単純再生産の基礎の上で支出されたのよりも大きい剰余労働が支出されたわけでもないからである。違う点は,ここではただ,充用される剰余労働の形態だけであり,その特殊的な役立ち方の具体的な性質だけである。この剰余労働は,IIのために機能すべき,またそこでcII)となるべき生産手段の生産にではなくて,生産手段( I )の生産手段に支出されたのである。……
 したがって、単純再生産--《たんに》価値の大きさ《だけ》から見れば--の内部で、拡大された規模での再生産の、現実の資本蓄積の、物質的土台〔Substrat〕が生産されるということになる。それはまさにとりもなおさず(当面の場合には)、《直接に》生産手段の生産に支出された剰余労働 I 、すなわち可能的剰余不変資本の創造に支出された、労働者階級( I )の剰余労働である。だから、 I のA、A'、A"、等々の側での可能的な新追加貨幣資本の形成……は、生産手段( I )の追加的生産の単なる貨幣形態なのである。
 したがって、可能的追加貨幣資本の生産は、ここでは……、生産過程そのものの現象、すなわち生産資本の一定の形態の、あるいは実体的に言えば〔realiter〕それの諸要素の一定の形態の生産という現象のほかにはなにも表現していない。》
(大谷訳『経済志林』54-58頁)

 ここではマルクスは、蓄積の本質、その概念を解明しているのであるが、蓄積に必要な貨幣蓄蔵は剰余価値を実現して入手した貨幣を蓄蔵するのであるが、しかしその販売される剰余生産物そのものがすでに追加的な生産手段として生産されていなければならないこと、だから蓄積というのは剰余生産物を生産する労働者の充用される剰余労働の形態だけであり,その特殊的な役立ち方の具体的な性質だけ》が問題なのであり、だから蓄積というのは--そしてそれに必要な潜勢的貨幣資本の形成というのは--、生産過程そのものの一現象、すなわち生産資本の一定の形態の、あるいは実体的に言えば〔realiter〕それの諸要素の一定の形態の生産という現象のほかにはなにも表現していない》と述べている。つまりここでマルクスが問題にしているのは、資本の蓄積の一契機である蓄蔵貨幣の形成という問題の背後にあるまさに「実体的諸条件」そのものなのである。そしてこれが資本家Aから資本家Bに生産手段の生産手段として販売されるのであるから、それが「実体的素材変換」でもあることはいうまでもないであろう。だから第8稿では〈社会的再生産における「実体的素材変換」にかかわる「実体的諸条件」という文言はどこにも見ることができない〉などという大谷氏の主張は正しくないであろう。

 そしてだからまたエンゲルスの第3篇の表題の変更は〈適切なものであった〉とは必ずしも言えないであろう。やはりそれは問題を一面化し、マルクスの問題意識を十分理解したものとは言えなかったと評価すべきであろう。
 マルクスは第3篇の表題を、第2稿では、《流通過程および再生産過程の現実的(実在的)諸条件》としている。これは、まずは直接的な表象として捉えられる、現実の貨幣流通を媒介して行なわれている社会的な総再生産過程を前提し、そこから、その背後にあって、その基礎となっている実体的な諸条件を、まずは貨幣流通による媒介を捨象して掴み出し、そうした上で、今度は貨幣流通による媒介によって行なわれている現実の総再生産過程を、その抽出した本質的的諸関係から展開して説明することによって、その特殊歴史的な諸特徴を浮き立たせようという、マルクスの方法論的な意図を示す表題でもあるのである。エンゲルスが変更した表題はそうしたマルクスの方法論的な意図を理解しないものといわざるをえない。

 また大谷氏が第3篇の課題を次のようにいうのもエンゲルスを擁護するためであろうが、やや問題の一面化のような気がする。

 〈第8稿の第3篇の課題は、個別諸資本の諸変態相互間の、またそれらと一般的商品流通との絡み合いを論じることによって、社会的総商品資本の循環を、さまざまの個別資本の総計すなわち資本家階級の総資本である社会的資本の運動形態としても、また社会的資本によって生産される剰余価値または剰余生産物の運動形態としても、考察すること、そしてこの考察のなかで、年々の再生産のさまざまの要素の転換を分析して社会的再生産の諸条件を摘出する、というところにある。約言すれば、社会的総商品資本の流通過程としての社会的総再生産過程を分析することである。この点から見て、エンゲルスが彼の版の第3篇に与えた「社会的総資本の再生産と流通」というタイトルは、この第8稿の内容を表現するのに適切なものであったと言うことができる。〉(中130頁)

 マルクスは第2稿の表紙に書いたプランで、第3章(篇)の項目(1)の内容を《社会的に考察された可変資本、不変資本、および剰余価値》とし、それを《(A)単純な規模での再生産》《(B)拡大された規模での再生産、蓄積》とに分けている。大谷氏の視点には《社会的に考察された不変資本、可変資本、および剰余価値》という項目が抜け落ちている。大谷氏がここで言っていることは、ただ個別資本の運動をその総計としての社会的総資本の運動として捉えるという、あまりにも当たり前な単純化された課題意識でしかないといえる。つまりエンゲルスの表題はそうした問題意識をただ表すだけのものだということを、大谷氏は図らずもここで暴露しているとさえいえるのである。

●【社会的生産の二つの部門の呼び方の変更】について

 ここでは大谷氏は、第2稿までは、マルクスは消費手段生産部門を部門 I とし、生産手段生産部門を部門IIとしていたが、第8稿ではそれを逆転したこと、その理由については、日本ではいろいろな研究者からさまざまな見解が披露されているが、〈ここでは、この新しい順序が、もとの順序よりもはるかに合理的であることを述べるにとどめる〉(中131頁)として次のような理由を上げておられる。

 〈第一に、商品資本の循環では、商品資本の諸要素によって生産資本の諸要素を、すなわち生産手段の形態にある不変資本および労働力の形態にある可変資本を、補填することが問題である。生産資本がc + vで表わされ、商品資本の価値がc + v + mで表わされるのであれば、資本の構成諸部分の補填を論じるさいにも、まず生産手段生産部門の生産物による両部門のcの補填を論じ、次に、消費手段生産部門の生産物による労働力の再生産を通じての両部門のvの補填を論じるのが納得のいく順序である。
 第二に、第8稿での拡大再生産の表式を展開するさいに、生産の出発点で不変資本はすでに必要な生産手段の形態に転換されているのにたいして、可変資本は貨幣形態にあって、次第に前貸しされるものと想定されている。つまり、なによりもまず、両部門で不変資本が現物形態で補填されなければならないのである。この点から見ても、新たな順序はまったく事態相応的である。
 第三に、同じことを別の面から見ることになるが、拡大再生産の場合、両部門での蓄積の物質的基礎である追加生産手段が生産手段生産部門で生産されていなければならない。この点からも、生産手段生産部門を第 I 部門とすることは合理的なのである。〉
(中131頁)

 まず最初の理由であるが、生産資本がc+vで表され、商品資本の価値がc+v+mで表されるのだから、問題の考察もこの順序でなされるのが合理的というのであるが、これはさほど根拠のあるもののようには思えない。第2稿では、「 I )消費手段の生産」から「II)生産手段の生産」へと、この順序で考察されており、また可変資本、不変資本の順序で考察されているが、商品資本を表す表式はc+v+mで表されており、だからと言ってそこにどんな不合理もみられないからである。
 第二の理由も首をかしげざるをえない。確かに可変資本は生産過程と並行して前貸されるという想定は可能であるが、しかし不変資本(生産手段)だけが現物形態で補填されていればよいというようなものではない。やはり可変資本も現物形態で、すなわち労働力に転換されて生産過程に存在しないと、そもそも現実の生産あるいは拡大再生産は始まらないからである。もちろん、労賃後払いの場合は、現実に労働が支出されてから支払われるが、しかしそのことは生産の開始時点で、可変資本も労働力に転換されている必要があるということとまた別の問題であろう。確かに労働力は日毎に再生産される必要があり、だから可変資本は独特の循環形態をとるが(そのような想定は可能だが、常にそうした想定が必要というわけでもない。問題の簡単化のためにはそうした想定は不要であろう)、しかし常に生産過程には不変資本(生産手段)だけでなく、可変資本(労働力)も現物形態で存在しなければならない(そうでないと現実の生産が出来ない)という点では両者に何ら異なる点はないのである。だからこうしたことは部門逆転の理由にはならないのではないだろうか。
 この第三の理由も了解しがたい理由である。マルクスの拡大再生産の考察過程を考えるなら、蓄積の物質的基礎が追加的生産手段だけであるなどということは出来ないからである。マルクスは最初の問題を限定して考察しているケースを除いては、常に部門 I の蓄積と同時に部門IIにおける蓄積も行なわれるものと想定して考察し、計算しているからである。だからその限りでは、追加生活手段の生産も拡大再生産の物質的基礎と言いうるからである。だからこうした理由も納得しがたいのである。

 (以下、この項目は次回に続きます。)

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