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2009年7月 1日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その18)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡
――メガ第II
部門第11巻の刊行に寄せて――》
(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●【スミスのドグマについての最終的な総括】に関して

 大谷氏は「(3) 第2稿第3章にたいする第8稿第3章の理論的前進」(※)の最初の項目としてこの問題を取り上げている。ここではマルクスは労働の二重性からスミスのドグマを最終的に批判しただけでなく、スミスが区別していないさまざまな流通過程および生産過程がどのように絡み合っているかを明らかにして、そのドグマのたえず再生産される原因をも明らかにしたことが指摘されている。そしてさらに大谷氏は〈マルクスはこの第八稿で、スミスの分析の方法の根本的な欠陥を突いて、スミスの価値論を次のように総括的に批判している〉(中129頁)として次のマルクスの一文を紹介している。

 《A・スミスが問題にする商品は、はじめから商品資本……であり、つまり、資本主義的に生産された商品であり、資本主義的生産過程の結果である。だから、この過程が(したがってまたそれに含まれている価値増殖・価値形成過程が)前もって分析されなければならなかったであろう。この過程の前提そのものがまた商品流通なのだから、この過程の説明はまた、それからは独立な、それに先行する商品分析を必要とするのである。A・スミスが「深奥に」たまたま正しい点を射当てているかぎりでも、いつでも彼はただ、商品分析のついでに、すなわち商品資本の分析のついでに、価値生産を考慮するだけなのである。》(S. 726.27–38.)(中129-130頁)

 そしてこれについて〈これはまさに、マルクスのスミス価値論批判の理論的な到達点と言うべきものであった〉(中130頁)と評価されているのであるが、しかし引用されているマルクスの一文の内容は何か第8稿で初めて「到達」したようなものといえるのであろうか、との疑問を禁じえない。なぜなら、ここで言われていることは、スミスが問題にする商品は、はじめから商品資本、つまり資本主義的に生産された商品だから、資本主義的生産過程を前提するものであり、まずその分析が必要とされる。しかも資本主義的生産過程は、さらにそれに先行する商品分析を必要とするのであって、それが前提される。そうした考察がスミスミには欠けている。つまり抽象的な商品の分析や貨幣の分析が彼らには欠けているということに過ぎない。これは以前にも紹介したが、『経済学批判』の銀行学派に対する批判がそのまま当てはまる。それをもう一度紹介しておこう。

 《総じてこれらの著述家たちは、まずもって、単純な商品流通の内部で展開されるような、そして、過程をへる諸商品それ自体の関連から生じてくるような抽象的な姿で、貨幣を考察することをしない。だから彼らは、貨幣が商品との対立のなかでうけとる抽象的な諸形態規定性と、資本や収入〔revenue〕などのような、もっと具体的な諸関係をうちにかくしている貨幣の諸規定性とのあいだをたえずあちこちと動揺するのである。》(全集13巻161-162頁)

 だからこうしたスミス批判が、第8稿の段階でのマルクスの最終的な「到達点」だとされる大谷氏の評価には首をかしげざるをえないのである。そもそも『資本論』の構成を振り返れば、マルクスがここでスミスを批判して述べていることは、自身の『資本論』の構成をそのまま対置していると言ってもよいようなものである。だからそうしたものが『資本論』の草稿の最終段階でようやく到達したかに言われる大谷氏の主張には納得が行かないのである。

 さらに大谷氏は上記の評価に続けて、次のようにも述べている。

 〈のちに述べるように、マルクスは第8稿で、第2稿の第3章でもまだ残っていた、社会的総再生産過程をまずなによりも商品と商品との転換と見る、古典派の貨幣ベール観を最終的に脱ぎ捨てた。これは、スミス批判を理論的な実践によって完遂したことを意味していた。〉(中130頁)

 〈のちに述べる〉とされているのだから、その時に問題にすればよいのであるが、しかし〈社会的総再生産過程をまずなによりも商品と商品との転換と見る、古典派の貨幣ベール観を最終的に脱ぎ捨てた〉と言われるのであるが、しかし社会的総再生産過程を商品資本の循環過程(W’-G’-W…P…W’)としてみるマルクスの立場は、いわばそれを(W’-…W’)としてみることでもあり、それは〈商品と商品との転換〉として見ることでもあるのである。要するに大谷氏は貨幣流通による媒介を捨象した再生産過程の考察の意義を認めないから、そうした考察を〈古典派の貨幣ベール観〉だと揶揄しているに過ぎないのである。しかし、マルクスが果たして本当にそうした立場に、つまり貨幣流通による媒介を捨象した考察の意義を否定する立場に立ったのかどうかという点については、すでに述べてきたように根本的な疑問を持たざるをえないのである。

 さらにこれは大した問題ではないので、ついでに指摘するのであるが、大谷氏は〈マルクスは、スミスが区別していない労働そのものの二重の性格を、商品流通の表面に現われる単純な商品の分析によってつかみだした〉(中129頁)と言われるのであるが、〈商品流通の表面〉ではなく、ブルジョア社会の表面〉ではないのだろうか。なぜなら、マルクスは次のように述べているからである。

 《われわれは、最も単純な経済的関係・ブルジョア的富の基素(エレメント)・としてブルジョア社会の表面に現われるような商品から出発した。》(草稿集第4巻54頁)
 《この単純な流通はブルジョア社会の表面であって、それが出てくるところの、もっと深い所で行われる諸操作は、そこでは消え去っているのだが、このようなそれ自体として考察された単純な流通は、交換のいろいろな主体のあいだの相違を、ただ形態的で一時的な相違のほかには、なにも示していない。(全集29巻249頁)

 単純な商品流通そのものが資本主義的生産の「表面に現われている」ものではないのかと思うのである。

(※)ここで大谷氏は表題を「(3) 第2稿第3章にたいする第8稿第3章の理論的前進」としている。確かに大谷氏は、先に〈この第8稿の1ページの行頭には、「第2部第3章〔Ch. III,b. II〕」(S. 698.1)という見出しがあとから書き込まれている〉(中128頁)と指摘されていた。しかし他方で、大谷氏は〈彼(=マルクス--引用者)は、1872年の『資本論』第1巻第2版で、初版での7章編成を7篇編成に組み換えたが、この先例に合わせて、これ以降は第2部も、3章編成から3篇編成に変更した〉(中119頁)とも述べていたのである(だから私はその矛盾を指摘したのであったが)。つまり大谷氏の理解では、第8稿の段階では第2稿で「第3章」であったものは、「第3篇」でなければならないはずである。にも関わらず、この表題では、相変わらず「第8稿第3章」としているのはいかがなものであろうか。マルクスの草稿どおりにしたといわれるならそれまでであるが。

●【「実体的諸条件」の解明から社会的総再生産過程の考察への課題の転換】についても疑問

 これは「(3) 第2稿第3章にたいする第8稿第3章の理論的前進」の二つ目の項目であるが、ここで大谷氏は、それを次のように説明している。

 〈第8稿では、第3篇の課題について、さきに第2稿で獲得された「e  第3章の課題についての新たな視点」として述べた観点が、考察の全体を貫くようになった。ここにはもはや、第2稿までの、社会的再生産における「実体的素材変換」にかかわる「実体的諸条件」という文言はどこにも見ることができない。〉(中130頁)

 しかし大谷氏は第8稿が貨幣流通による媒介を顧慮した社会的総再生産過程(単純および拡大)の考察に、マルクス自身は限定して、それを「先取りして」論じている、ということが分かったなら、すなわち第8稿がそうした限定した性格のものであることが分かっているなら--そしてわれわれはすでに「利用すべき諸箇所」「ノートII」のところで、マルクスが《この第二の叙述が基礎に置かれなければならない》と書いたこと、そしてこの指示のあとに書かれたマルクスの諸草稿は、まさにそうした指示にもとづいた性格を持っていること、すなわちそれらすべてが部分的・断片的なものにすぎず、第8稿もその例に洩れないことを指摘した--、そこで〈社会的再生産における「実体的素材変換」にかかわる「実体的諸条件」という文言はどこにも見ることができない〉ことは何ら不思議でもなんでもないことに大谷氏は気付いたことであろう。というのはすでに問題の重点はそうした問題になかったからである。しかしそのことは「実体的素材変換」「実体的諸条件」がどうでもよいものであるということでは決してない。事実、マルクス自身も第8稿の《II 蓄積または拡大された規模での生産》でもそうした考察を行なっているからである。その一例を紹介してみよう。
 
 (残念ながら字数オーバーです。だから第8稿から引用とその考察、およびこの項目に関連したそれ以外の批判的検討は、次回に回します。)

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