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2009年4月

2009年4月17日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その78)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 (以下は前回の【115】パラグラフの考察の続きである。)

《補足》

 このパラグラフの最初の考察において、このエンゲルスが「補遺」とした部分において、マルクスが〈5)部門IIでの蓄積〉〈b〉で提起した問題、すなわち部門IIにおいて蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのか、という問題を再び論じていることから、だからマルクスはこの第八稿の第21章該当部分では、最後までこの同じ課題を追究しているのだ、すなわちエンゲルスが「第一例」、「第二例」とした表式を使った一連の考察においても、マルクスは同じ問題を、すなわち部門IIにおける蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるかを追究しているのだと理解している人たちがいることを紹介した(伊藤武氏がその代表であるが、後にみるであろうが、実は、大谷禎之介氏も同様の立場に立っているのである)。
 しかしこうした主張をする人たちは、エンゲルスが「第一例」「第二例」とした部分で、マルクスが拡大再生産表式を年次を重ねて展開して計算しているところでは、実際は、蓄蔵貨幣(蓄積基金)の契機をまったく捨象して計算している事実を忘れている(あるいは、見落としている)のである。彼らがこうした誤りに陥るのは、現実に、部門IIでの蓄積の貨幣蓄蔵が如何になされるかについて徹底して考え抜いて解決していないからにほかならない。もしマルクスが表式を使って拡大再生産の補填関係を考察しているところで、蓄積基金の契機を入れて考察したとするなら、それはどのようになされるべきかについて、伊藤武氏らは、恐らく理解されていないのであろう。だからこうした誤った理解が生じていると思えるのである。

 そこで、実際に、マルクスが拡大再生産の表式を使って年次を重ねて計算しているB式(【62】パラグラフ)を使って、蓄蔵貨幣(蓄積基金)の契機を顧慮して考察してみることにしたい。それが実際には、如何に行なわれ、解決されるのかを示せば、伊藤武氏らの主張が、どれほど誤ったものであるかが了解できると思えるからである。われわれはまずB式を提示することから始めよう。

  B  拡大された規模での再生産のための出発表式

   I ) 4000c+1000v+1000m=6000                                            |                                  合計=9000
  II ) 1500c+ 750v+ 750m=3000

 問題はこの表式で蓄蔵貨幣(蓄積基金)の契機を入れて、蓄積のための剰余価値を表す商品資本の販売と蓄積のための現実資本への転換(あるいは個人的消費への転換)が如何になされるかである。それを考えてみよう。

 われわれはマルクスに倣って、剰余価値を貨幣化したものを将来の蓄積のために流通から引き上げて蓄蔵しつつある資本家たちをA群とし、それまでに蓄蔵された潜勢的貨幣資本が現実の蓄積に必要な額に達したので、いままさにそれらを投下しようとしている資本家たちをB群としよう。それらが部門 I と部門IIにそれぞれ存在すると仮定するのである。部門 I で蓄積の年齢階層がさまざまであるように、部門IIにおいてもそうであると仮定することはまったく合理的な想定である。だから二つの部門に、A( I )、B( I )、A(II)とB(II)の資本家群がそれぞれ存在すると仮定するわけである。そして上記のB式でマルクスが想定していたように、部門 I の剰余価値1000mのうち半分の500mが蓄積に回されると仮定しよう。

 さてここで、蓄積基金の契機を考慮に入れると、それは次のようなことになる。

 すなわち500m( I )の剰余価値を体現する商品資本(生産手段)を販売して、その貨幣を流通から引き上げて蓄蔵するのは、部門 I のA群の資本家たちである(彼らはただ一方的販売者として現われる)のに対して、同じ価値額の500の貨幣資本を(彼らはそれをそれまで蓄蔵してきたのであるが)現実の蓄積のために流通に投じるのは、部門 I のB群の資本家たちであるということである(彼らは一方的購買者として現われる)。
 まずA( I )は剰余価値500m(生産手段)のうち400mをB( I )に販売し、その貨幣400を蓄蔵する。彼は残りの100mを今度は部門IIのB群の資本家たちに販売し、やはりその貨幣を蓄蔵する。すなわち彼は彼の剰余価値を表す商品資本500mをすべて貨幣化して(一方的に販売して)、それを将来の蓄積のために蓄蔵したわけである。
 他方、B( I )は、それまで彼が蓄蔵してきた500の貨幣資本のうち400を投じて、A( I )から追加的生産手段400を購入する(彼はただ一方的に購買する)。彼は残りの100を使って、部門 I で追加労働力を購入する。だからその100は追加労働者の労賃として支払われる。そして I の追加労働者はその100で、A(II)の資本家から100m(II)の生活手段を購入する(追加労働者もただ一方的購買者である)。こうして、B( I )の資本家たちは、追加生産手段と追加労働力によって現実の蓄積を開始し、追加労働者は支払われた労賃で部門IIから追加生活手段を購入して、彼らの労働力を再生産する条件を得たわけである。

 次に部門IIに視点を移そう。われわれの想定では、部門 I で剰余価値の半分500mが蓄積されるのに対応して、部門IIでは、750mの剰余価値のうち150mが蓄積に回される必要がある(【65】、【66】参照)。しかしこの場合も、蓄積基金を考慮するなら、150m(II)の剰余価値を表す商品資本を一方的に販売して、その貨幣を蓄蔵するのは、A(II)群の資本家たちであり、実際に、それまで蓄蔵してきた潜勢的貨幣資本150を投じて(一方的に購買して)現実の蓄積を開始するのは、B(II)群の資本家たちである。
 まずA(II)は150mの商品資本(生活手段)のうち、100mをB( I )に雇用された追加労働者に一方的に販売して、その貨幣を蓄蔵する。さらに彼は残りの50mをB(II)に雇用された追加労働者にやはり一方的に販売して、その貨幣を蓄蔵する。こうして彼は150mの剰余価値を表す商品資本をすべて一方的に販売して、その貨幣150を流通から引き上げて、将来の蓄積のために蓄蔵するのである。
 これに対して、B(II)は、それまで蓄蔵してきた貨幣資本150のうち100を投じて、A( I )から生産手段をただ一方的に購入する。さらに彼は残りの貨幣50を投じて、追加労働力に転換する。B(II)に雇用された追加労働者は支払われた労賃50で持って、A(II)から生活手段をただ一方的に購入する。こうしてB(II)は追加生産手段と追加労働力によって現実の蓄積を開始し、またB(II)に追加的に雇用された労働者も彼らの労働力を再生産する条件を獲得したことになる。

 これまでの考察の過程を図示すると、次のようになる。

03_2

 こうして、B式で考察された拡大再生産のための商品資本の販売と現実資本への転換(および個人的消費のための転換)が蓄積基金を考慮しながら展開されたことになる。

 ごらんのとおり、部門 I と同様に、部門IIにおいても、蓄積のための蓄蔵貨幣の形成のために、貨幣源泉〉が部門IIのどこから湧き出るのかと探し回る必要などまったくないことが分かるのである。マルクスが当初から〈5)部門IIでの蓄積〉〈b〉で考えていた結論はこうしたものだったのである。ただ彼は、部門 I の場合と同じように、最初はそれを〈外観上の困難〉として提起し、その上で、それらの困難を解決するものと考えられるあらゆる方策を取り上げて、しかしそれらがすべて不可であることを示して、その困難がただ外観上のものに過ぎないことを論証した後に、では実際には、それは如何になされるのかを、つまり部門IIでの蓄積のための貨幣蓄蔵が、このパラグラフで考察されたようになされることを示すつもりだったのである。
 ところがマルクスにとって、最初の外観上の困難を〈一つの新しい問題〉として、すなわち蓄積ための〈貨幣源泉がIIのどこで湧き出るのか〉という問題として提起するやり方が、必ずしもうまくなされたわけでは無いとの思いがあった(実際、それはかなり強引なやり方であった)。だからマルクスはそうした思いもあって、その考察を途中で〈云々。云々。〉という形で中途半端な形で打ち切ってしまったと推測されるのである。しかしそのために、 一番肝心な問題、すなわち部門IIにおいて蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかという問題を論じる前に、その敍述を打ち切ってしまうことになってしまったのである。だからマルクスは草稿の最後に、すなわちこの【115】パラグラフにおいて、いわば補足的に、それをもう一度取り上げて、その実際の解決の方法を示す必要があったと思われるのである。

 だから草稿の最後に、部門IIにおける貨幣源泉の問題が論じられているからといって、その前の拡大再生産の表式を使った計算においても(すなわちわれわれが「拡大再生産の法則」が論じられているとしたところにおいても)、マルクスが同じ問題を追究しているのだ、などと解釈している伊藤武氏らの理解は、まったくマルクスの草稿を読み誤ったものでしかないといわざるをえないのである。】

2009年4月14日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その77)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 (以下は前回の【115】パラグラフの考察の続きである。)

 

 以上によって、蓄積に先行する貨幣蓄蔵のためのすべての要素が解明されたことになる。この考察を踏まえて、われわれは次に、マルクスの草稿に戻ってその解読を試みることにしよう。この場合も、われわれは各部分ごとに、箇条書きにして分けて論じることにする。

 1) I とIIとの関係のなかでの一時的な--拡大再生産に先行する--貨幣蓄蔵のための要素は,次のような場合に生じる。 I にとっては,m I の一部分がIIの追加不変資本のためにIIに一方的に売られる場合にのみ,生じる。〉
 ここでマルクスは、貨幣蓄蔵が可能なのは、I にとっては,m I の一部分がIIの追加不変資本のためにIIに一方的に売られる場合にのみ,生じる〉としている。確かにこれはこの限りではこのとおりなのであるが、マルクスは、どうして I がm I をただ一方的に販売するだけであるのか、どうしてそれが可能なのかについて、またそうして蓄蔵される貨幣がどういう蓄積のための貨幣蓄蔵なのかについても何も述べていない。しかしわれわれはすでに考察したものを前提に考えるなら、 I がm I をただ一方的に販売することが可能なのは、それは部門 I のA群の資本家だからであり、だから部門 I にはB群の資本家が存在することが前提されていることを知っている。またそうして蓄蔵される貨幣は I における追加可変資本のための貨幣蓄蔵であること、だから資本家B( I )たちは、それまで蓄蔵してきた蓄蔵貨幣を追加可変資本として前貸し、追加労働力に転換しようとしていることを知っているのである。
 さらにマルクスは〈m I の一部分がIIの追加不変資本のためにIIに一方的に売られる場合〉について述べている。だからこのケースはわれわれが先に考察した(1)と(2)のケースに該当するであろう。そしてこのm I を一方的に購入するのは、部門IIの資本家のうちこれから現実に蓄積を行なおうとこれまで蓄蔵してきた貨幣を追加不変資本に前貸しようとしているB群の資本家たちであることも分かるのである。

 2)IIにとっては,同じことが I の側で追加可変資本について行なわれる場合に生じる。〉
 IIにおいては、 I のB群の資本家達がそれまで蓄蔵してきた潜勢的貨幣資本を現実に追加可変資本として投下し、そのB( I )に雇用された追加労働者がIIのA群の資本家たちから、彼らの剰余価値のうち将来の蓄積に予定されている部分を購入することによって生じるわけである(ただし上記のケースと同じケースを想定している場合であるが)。資本家A(II)はその貨幣を蓄蔵する。こうしてIIにおいても貨幣蓄蔵が生じることになる。もちろん、IIはすでに見たように、それまで蓄蔵してきた貨幣を現実に追加不変資本に前貸しようとしている資本家B群も存在することは、先に--1)で--見たとおりである。

 3)同じくIIにとっては, I によって収入として支出される剰余価値の一部分がc(II)によって補填されず,したがってm(II)《部分》にまで及び,この部分がそれによってただちに貨幣化される場合に生じる。もし(v+m/x) I がcIIよりも大きければ,cIIはその単純再生産のためには,m(II)のうちから I が消費してしまったものを I からの商品によって補填する必要はない。〉
 これは上記で考察した(2)のケース〔I(v+m/x)>IIc〕を想定している。すなわち I の単純再生産部分の転換のためにはIIcが不足し、その分だけIImから追加不変資本として蓄積が必要となる場合である。つまりその蓄積が必要な分だけ、IIにおいて、剰余価値部分が貨幣化され、それが蓄蔵されるというわけである。もちろん、IIでは I の蓄積に対応した蓄積がそれ以外にも生じるのであって、その部分については、その前に考察したケースと基本的には同じであるために、マルクスは考察を省略しているのである。
 そして I の単純再生産の補填のためにも、IIで必要な蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるかについては、すでにわれわれが(2)で考察したとおりである。
 さて、マルクスは、この(2)のケースでは、cIIはその単純再生産のためには,m(II)のうちから I が消費してしまったものを I からの商品によって補填する必要はない〉と述べている。これはどういうことであろうか。まずIIcのすべてと、 I(v+m/x)の一部分(われわれの(2)の考察では I〔v+m/x-my〕)は、単に単純再生産の補填関係でしかない。マルクスが〈m(II)のうちから I が消費してしまったもの〉というのは、だからわれわれの先の考察ではmyに該当するわけである。それを部門IIでは、A群の資本家が将来の蓄積のために剰余価値m(II)の一部(my)を I に販売して、それを将来の蓄積のために蓄蔵すると仮定されているわけである。だからマルクスはそれを〈 I からの商品によって補填する必要はない〉としているのである(なぜなら彼らは一方的に販売する資本家達だから)。しかしそうしたことが可能なのは、他方で、B(II)の資本家達が、それまで蓄蔵してきた潜勢的可変資本(my)を現実に投下して、  I(v+m/x)の一部(my)を一方的に購入するからであって、それをマルクスは指摘するのを忘れているのである。

 4)間題になるのは,IIの資本家たちの交換--m(II)に関連しうるだけの交換--の内部でどの程度まで貨幣蓄蔵が行なわれうるか,ということである。すでに述べたように,IIの内部で直接的蓄積が行なわれるのは,m(II)の一部分が直接に可変資本に転化される( I でm I の一部分が直接に不変資本に転化されるのとまったく同様に)ということによってである。IIのさまざまな事業部門のなかでも,また同一の事業部門のさまざまの構成員(消費する構成員)についても,蓄積の年齢階層はさまざまであるが,必要な変更を加えれば, I の場合とまったく同様に説明される。一方のものはまだ退蔵の段階にあって,買うことなしに売り,他方のものは拡大再生産の時点(沸騰点)に達している(売ることなしに買う)。追加可変《貨幣》資本はまず第1に追加労働力に支払われる。しかしこの労働力は,貨幣蓄蔵をしつつある人々(労働者の消費にはいる追加消費手段の所有者)から生活手段を買う。彼らの貨幣蓄蔵の程度に応じて,貨幣は彼らの手から出発点に帰ってこないで,彼らが貨幣を退蔵するのである。〉
 ここでマルクスが考察しているのは、先に I の追加不変資本の蓄積の場合の貨幣蓄蔵と類似したケースとして取り上げた、IIにおける追加可変資本の蓄積の場合の貨幣蓄蔵のケースである。すなわち〈IIの資本家たちの交換……の内部〉〈m(II)に関連しうるだけの交換〉である。IIの内部で直接的蓄積が行なわれるのは,m(II)の一部分が直接に(追加)可変資本に転化されるということによってである。これは〈 I でm I の一部分が直接に(追加)不変資本に転化されるのとまったく同様〉である。違いは I の場合は資本家同士の交換であったのに対して、今回は資本家同士の補填関係の間に追加労働者が媒介者として入ってくる点である。IIのさまざまな事業部門のなかでも,また同一の事業部門のさまざまの構成員(消費する構成員)についても,蓄積の年齢階層はさまざまであるが,必要な変更を加えれば, I の場合とまったく同様に説明される〉。つまり〈一方のものはまだ退蔵の段階にあって,買うことなしに売り(すなわちA群の資本家に属し),他方のものは拡大再生産の時点(沸騰点)に達している(売ることなしに買う(すなわちB群の資本家に属する)(資本家B(II))の追加可変《貨幣》資本はまず第1に(IIで新たに雇用された)追加労働力に支払われる。しかしこの労働力は,(資本家A(II)、すなわち)貨幣蓄蔵をしつつある人々(労働者の消費にはいる追加消費手段の所有者)から生活手段を買う(だからIImの一部は必要生活手段として生産されていなければならないわけだ)。彼らの(すなわちA(II)の)貨幣蓄蔵の程度に応じて,貨幣は彼ら(A(II))の手から出発点(B(II))に帰ってこないで,彼ら(A(II)が貨幣を退蔵するのである。〉

 以上が、この最後のパラグラフの内容である。これで草稿は終わっている。われわれは全体的な総括は別途やることにして、ひとまずパラグラフごとの解読はこれで終えることにしよう。ただ、この最後のパラグラフに関連して、少し補足しておくべき問題がある。それを最後にやっておくことにする。

2009年4月10日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その76)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 (以下は前回の【115】パラグラフの考察の続きである。)

 

 次は二つ目の問題、すなわち部門IIおいて、現実の蓄積に先立つ貨幣蓄蔵は如何にしてなされるのか、という問題についてである。この問題については、われわれは一旦、マルクスの草稿を離れて問題をそのものとして考えてみることにしよう。
 マルクスはここでは I の追加不変資本については何も言及していないが、それはいうまでもなく、すでに考察ずみだからである(またここで問題なのは部門IIにおける蓄積のための貨幣蓄蔵だからでもある)。すなわちこの草稿の最初の当たり、われわれのパラグラフの番号でいえば【3】以降においてそれは取り扱われていた。そこでは I には、不変資本の蓄積のために、それに必要な額になるまで次々と剰余価値を実現した貨幣を蓄蔵するA群の資本家たちと、すでにこれまで蓄蔵した貨幣額が必要な額に達したために、現実に蓄積を行おうとしているB群の資本家たちとを前提することによって問題は解決されたのであった。すなわち一方で、A群の資本家たちは彼らの剰余価値を実現して入手した貨幣を流通から引き上げて蓄蔵するが、他方でB群の資本家たちはそれまで蓄蔵してきた貨幣を現実に流通に投下するわけである。A群の資本家達は一方的な販売者として現われ、B群の資本家たちはそれに対して一方的な購買者として現われる。だからA群の資本家達が販売する剰余価値額とB群の資本家達が現実に投下する貨幣資本額が量的に一致する必要があったわけである。つまりA群の資本家たちが蓄蔵する貨幣は、B群の資本家たちが追加不変資本に転換するために投資する貨幣であったのであった(もちろん直接一致する必要はないが)。この場合は、いずれも部門 I 内部における資本家同士の転換であり、部門 I にAとBの二種類の資本家群を想定して考察するだけで良かった。
 同じことは--つまり同じ部門(II)内での転換であるという点でいえば--、部門IIの追加可変資本の蓄積についてもある程度まで言いうる。違いは、部門IIの追加可変資本の蓄積の場合は、やはり部門II内部だけの転換ではあるが、しかし資本家同士の直接的な売買ではないということである。部門 I の追加不変資本の蓄積の場合には、資本家Aが販売するのは直接資本家Bに対する場合であれ、それ以外の資本家を媒介してであれ、いずれにしても、売買するのは資本家同士であった。しかし部門IIの追加可変資本の場合は、追加的に雇用された労働者を媒介しなければならない。ここでも剰余価値を実現して入手した貨幣を蓄蔵する資本家群A(II)が存在し、それまで蓄積してきた貨幣を追加可変資本として投下する資本家群B(II)が存在する。しかしA(II)が直接に販売するのはB(II)ではなく、B(II)が雇用した追加労働者に対してである。またB(II)は追加可変貨幣資本を直接A(II)に支払うのではなく、部門IIで新たに雇用した追加労働者に対してである。A(II)に貨幣を支払うのは、直接にはB(II)に雇用された追加労働者なのである。この点が、部門 I の追加不変資本の蓄積の場合と異なるが、しかしその転換がそれぞれの部門内部で行われるという点では共通している。そして同じ部門内にA群の資本家とB群の資本家を想定することによって問題を解決するという点でも同じである。

 問題は部門 I と部門IIとの転換が行われるケースである。これはいうまでもなく、 I(v+m)とIIcとの関係である。この場合は【109】で明らかにされたように、三つのケースが存在した。われわれはそれぞれについて検討していくことにしよう。

 (1) I(v+m/x)=IIcの場合(m/xは I の資本家の消費ファンドの価値額)

 これは I の単純再生産部分の転換がIIでの蓄積を引き起こさないケースである。この場合は I の追加可変資本とIIの追加不変資本とが互いに補填し合うのであった。だからこの場合は次のようになる。 I の追加可変資本を蓄積する資本家B( I )は、それまで蓄蔵してきた追加的可変貨幣資本を追加的労働力に転換して、現実の蓄積を行う。それに対して、IIの追加的不変資本を蓄積するために、剰余価値の一部を実現してその貨幣を蓄蔵しようとしている資本家A(II)は、 I の追加労働者に追加不変資本に予定されている剰余価値(消費手段)を販売して、その貨幣を蓄蔵するのである。他方、 I の剰余価値(生産手段)の一部を実現して追加可変資本の蓄積のためにこれから貨幣蓄蔵を行おうしている資本家A( I )は、彼の剰余価値のうち追加可変資本に予定されている剰余生産物(生産手段)を、IIのそれまで追加不変資本を蓄積するために、貨幣蓄蔵を行い、必要な額に達したので現実に蓄積を行おうとしている資本家B(II)に販売する。そしてA( I )はその貨幣を蓄蔵し、B(II)は追加不変資本としての現物(生産手段)を入手し、現実に拡大された規模での再生産を開始する。
 以上が一連の I 、IIのあいだに生じる事態である。こうして資本家A( I )は追加可変資本のための貨幣蓄蔵を行い、資本家B( I )は現実に追加可変資本を投じて、それを追加労働力に転換した。他方で、資本家A(II)は I の追加労働者に追加不変資本に予定されている剰余価値の一部(必要生活手段)を販売して、その貨幣を蓄蔵する。資本家B(II)はそれまで蓄蔵してきた潜勢的貨幣資本を投じてA( I )から、追加不変資本(生産手段)を購入して、現実の蓄積を開始する、等々である。もんろん、資本家B(II)は現実の蓄積を行なうためには、追加不変資本の蓄積に対応した追加可変資本の蓄積も行なわなければならないが、しかしそれについてはすでに先に考察したので、ここでは省略しよう。

 (2) I(v+m/x)>IIcの場合

 この場合は、 I の単純再生産の転換のためにIIにおいて蓄積が必要になる場合である。
この場合にも、もちろん I の追加可変資本の転換のために、IIの追加不変資本の蓄積が対応しなければならないが、これについてはすでに(1)で考察したのと同じ事態が生じるだけである。だからここでわれわれが改めて考察しなければならないのは、 I の単純再生産の転換が、IIの蓄積を引き起こす部分についてだけである。いま、IIcの不足分の価値額をmyとしよう。すると I(v+m/x-mv)については、すでに単純再生産の過程として考察ずみである。だから問題は I(my)の転換である。資本家 I は自分の個人的消費分である剰余価値(my)を目当てに、貨幣myを投じて、資本家A(II)から生活手段を購入する。資本家A(II)は、彼の剰余価値のうち追加不変資本として蓄積するために、これから剰余価値を実現してその貨幣を蓄蔵する資本家たちである。彼らは剰余価値のうちmy(II)を I の資本家に販売して、その貨幣を蓄蔵する。他方、IIには同時にすでに貨幣蓄蔵を終えて必要な額(my)に達したので、これから現実に追加不変資本としてそれを投じようとしている資本家B(II)が存在する。彼らは I の資本家からその剰余価値の一部my( I )(生産手段)を購入して、現実の蓄積を開始するのである。こうして I の資本家が最初に流通に投じたmyの貨幣は彼のもとに還流することになる(それは彼にとっては単純再生産の過程の一部である)。すなわち I は単純再生産部分の転換をすべて終え、彼が最初に流通に投じた貨幣は彼自身のもとに戻り、IIでは追加不変資本を蓄積するために貨幣蓄蔵行う資本家A(II)はmyなる貨幣を蓄蔵し、他方で必要な額に達したので現実の蓄積を行おうとしている資本家B(II)は、現実に蓄積に必要な不変資本(生産手段)myを入手し、拡大された規模での再生産を開始することができるようになっている。

 (3) I(v+m/x)<IIcの場合

 この場合は、 われわれの考察では三つのケースに分けられた(【109】パラグラフ参照)。しかしそのうち I の単純再生産部分の補填の後のIIcの余剰分が、 I の蓄積による追加可変資本を補填してもなお余るケースの場合(三つ目のケース)は、結局、IIでは単純再生産もできず、IIcの一部は過剰になり、両部門の均衡が維持できないケースであった。よってこのケースについては、ここでの考察は不要と考える。ここでは残りの二つのケースについて考えてみよう。

 まず最初は I の単純再生産を補填してなお余るIIcが、 I の追加可変資本の蓄積を、ちょうど補填する場合である。この場合は、 I で蓄積が行なわれても、IIではただ単純再生産が行なわれるだけであった。よって今、 I の追加可変資本のうちIIcの単純再生産で補填されうる価値額をmzとしよう。そうすると I(v+m/x+mz)がIIcの単純再生産によって補填されることになる。しかしそのうちの I(v+m/x)については、すでに単純再生産の考察において終わっている。だから問題なのは、 I(mz)の追加可変資本の蓄積が、IIcの残りの部分(余剰分)の単純再生産によって貨幣蓄蔵の契機を入れて如何に補填されるかである。
 まずIIはIIcの最後の一部mzの単純再生産による補填のために、IIは自ら所持している貨幣mzを投じて、 A( I )の剰余価値の一部(生産手段)を購入する。A( I )というのは、 I において追加可変資本の蓄積のために剰余価値を実現した貨幣の一部を蓄蔵する資本家たちである。彼らは剰余価値の一部 I(mz)をIIに販売して入手した貨幣mzを将来の蓄積のために蓄蔵する。他方、 I にはそれまで蓄蔵してきた貨幣が丁度必要な額に達したので、追加可変資本として現実に蓄積しようとしている資本家B( I )が存在する。彼らは彼らが蓄蔵してきた貨幣mzを追加可変貨幣資本として投じてそれを追加労働力に転換する。そしてその資本家B( I )に追加的に雇用された労働者たちは彼らに支払われた貨幣mzによって、IIから必要生活手段(IIcの最後の部分であるmz)を購入する。こうして、IIが最初に流通に投じた貨幣mzはIIの手許に還流し、彼は彼の不変資本部分すべてを現物で補填したことになる(ここでは捨象されている I とIIとの単純再生産による相互補填も含めてである)。A( I )は彼の剰余価値の一部(mz)を貨幣化してそれを蓄蔵し、B( I )は彼らが蓄蔵してきた追加可変貨幣資本を投じて追加労働力に転換して現実に拡大された規模での再生産を開始する。 I で新たに雇用された労働者は、IIから必要生活手段を購入して彼らの労働力を再生産することになる。しかし部門IIはただ単純再生産を行なったに過ぎない。

 もう一つのケースは、 I の単純再生産を補填しだけでは余るIIcの余剰分が、I の追加可変資本に対応して必要な、IIの追加不変資本分には不足する場合である。この場合は、この不足分だけIIはその剰余価値から追加不変資本として蓄積する必要がある(もちろん、それに対応して追加可変資本の蓄積も行なう必要が生じるが、しかしこれについてはすでに考察済みである)。しかしこのIIにおいて、不足分を剰余価値から追加不変資本として蓄積するケースは、基本的には、(1)で考察した場合と同じことであろう(すなわちその蓄積分だけの剰余価値を貨幣化する資本家群A(II)とそれまで蓄積してきた蓄蔵額がそれと同額に達して現実に蓄積を行なおうとしている資本家群B(II)を想定することによって問題は解決する)。よってこのケースはこれ以上の考察は不要であろう。

2009年4月 7日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その75)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 (以下は前回の【115】パラグラフの考察の続きである。)

 

 では、このパラグラフでは何が論じられているのか、具体的に見ていくことにしよう。このパラグラフでは、大きく分けて、二つの問題が論じられている。最初の問題は、IIにおける「本源的な貨幣源泉」である。すなわち「金生産部門」の問題である。マルクスは部門 I においても同様の問題、すなわち蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかを考察したときにも、金生産部門の問題を論じていた(【36】パラグラフ参照)。金生産部門こそ、その剰余価値の貨幣化という手続きを経ずに、蓄積のための貨幣蓄蔵が可能な部門だからである。つまり金生産部門では、貨幣蓄蔵を他の部門のように一方的販売を経て行なう必要がない部門なのである。だからマルクスは特にこの部門だけを別枠で論じる必要があると考えているのである。
 もう一つの問題は、金生産部門以外との交換で部門IIで、剰余価値の貨幣化にもとづいて、現実の蓄積に先立つ貨幣蓄蔵が如何になされるのか、という問題である。われわれはこの二つをとりあえず分けて論じることにしよう。
 ただ、全体として、ここでのマルクスの論述にはそのままでは素直に受け取れない部分もあるし、なかなか理解が困難な部分もある。そこでわれわれは、問題ごとに箇条書きにして論じることにする。最初は金生産の問題である。

 1)マルクスは金生産部門を部門 I と理解している。もちろん、金が貨幣としてではなく、それ以外のさまざまな原材料として利用されるなら、確かにそれは正しい。しかし金生産部門を貨幣の本源的源泉として理解するなら--そしてマルクスはここでは金生産をそのようなものとして扱っているように思えるのだが--、それはやはり正しいとはいえないように思えるのである。これまでにも多くの論者が指摘しているように、金生産部門は部門 I にも部門IIにも属さないものとして、いわば部門IIIに属するものとでもすべきだろうからである(部門IIの亜部門として理解する人もいる)。ただわれわれはマルクスが金生産部門を I に属するものとしているここでは、そうした前提のもとに以下の考察を行うことにしたい。
 2)マルクスはIIとっての本源的な貨幣源泉はIIcの一部が金生産の I(v+m)と交換されることだとし、〈ただし,金生産者が剰余価値を生産手段に転化させるかぎりでは,この(m+v) I はIIにはいらない〉という。すなわち金生産者が彼の剰余価値の蓄積分の一部を追加的な生産手段に転化するなら、その剰余生産物としての金は I に入り、IIは入らないわけである。だからIIには、蓄積分のうち追加可変資本部分だけが入るわけである。そうした場合、IIはただ一方的に I の資本家と労働者(追加分も含めて)にIIcの消費手段を販売するだけで、 I から何も購入する必要はない。IIは、その売り上げを将来の蓄積のために蓄蔵するわけである。こうしたことが可能なのは I(v+m)の現物形態が貨幣金そのものだからである。
 3)マルクスはすでに第2篇第17章「剰余価値の流通」において、金銀の生産部門の生産物は奢侈その他に利用されるもの以外は、すべて社会的に追加貨幣として流通に投じられること、だから金生産物も不変資本(c)+可変資本(v)+剰余価値(m)からなるが、そのすべてが販売なしに生産物(金)そのものによって補填され(単純再生産の場合)、よってすべてが販売なき購買として現われることを指摘していた。だからマルクスがここで〈他方,このような貨幣の蓄積(金生産者自身の側での)が最終的には拡大された規模での再生産に至るかぎりでは,金生産の剰余価値のうち収入として支出されない部分は追加可変資本としてIIにはいって,ここで新たな貨幣蓄蔵を促すか,あるはまた I から買うための新たな手段を直接に--直接に再び I に売ることなしに--与えるのである〉という場合、金生産物のうちそのmの一部が収入として支出されずに、生産物のまま蓄蔵されることを意味している。金生産者の場合は剰余価値部分の商品資本を実現して、その貨幣の一部を蓄蔵するのではなく、彼は剰余生産物の一部をそのまま蓄蔵するのである。そして彼がその蓄蔵した金で現実の蓄積をするために、一部を追加不変資本として、他の一部を追加可変資本として投じるとするなら、その追加可変資本として投下された金は、追加労働者を媒介して、IIに供給されるであろう。しかしこの金は社会的にみれば追加貨幣ではあるが、しかしIIにとってはIIの商品資本の不変部分IIcの実現であり(あるいはIImの一部の実現であり)、その限りでは決して追加的なものではないのである。しかしそれが社会的には追加貨幣であるということは、次のような意味を持っている。すなわちIIcの一部を実現した場合、IIはその補填のために I mから生産手段を購入する必要があるが、 I にとっては、それは購買なき販売であるこということ、だからそれは I の貨幣源泉になりうるのである。またIImの一部を金生産部門に販売するなら、その販売は購買なき販売であり、IIはそれを貨幣源泉として蓄蔵することができる。マルクスが〈ここで新たな貨幣蓄蔵を促すか,あるはまた I から買うための新たな手段を直接に--直接に再び I に売ることなしに--与えるのである〉と述べているのはこうした意味であろう。
 4)金生産者がcIIと交換する(v+m) I からは,IIのある種の生産部門が原料等々として,要するにその不変資本の諸要素として--あるいはむしろこれらの要素の再補填のために--必要とする《金》部分が差し引かれる〉とあるのは、IIcと交換される金生産部門の I(v+m)の一部は、IIの生産手段として購入されるということである。あるいはそういうものが貨幣としての金から差し引かれるということである。例えば、奢侈生産部門の原材料として金属材料としての金を購入する場合がそれである。そうした場合は、金生産物そのものは社会的にみても追加貨幣ではないわけである。

  (以下、このパラグラフの考察は次回に続く。)

2009年4月 4日 (土)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その74)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

【115】

 〈IIにとっての本源的な貨幣源泉は,cIIの一部分と交換される,金生産 I の(m+v) I である。ただし,金生産者が剰余価値を生産手段に転化させるかぎりでは,この(m+v) I はIIにはいらない。他方,このような貨幣の蓄積(金生産者自身の側での)が最終的には拡大された規模での再生産に至るかぎりでは,金生産の剰余価値のうち収入として支出されない部分は追加可変資本として I (1)にはいって,ここで新たな貨幣蓄蔵を促すか,あるはまた I から買うための新たな手段を直接に--直接に再び I に売ることなしに--与えるのである。金生産者がcIIと交換する(v+m) I からは,IIのある種の生産部門が原料等々として,要するにその不変資本の諸要素として--あるいはむしろこれらの要素の再補填のために--必要とする《金》部分が差し引かれる。(2)  I とIIとの関係のなかでの一時的な--拡大再生産に先行する--貨幣蓄蔵のための要素は,次のような場合に生じる。 I にとっては,m I の一部分がIIの追加不変資本のためにIIに一方的に売られる場合にのみ,生じる。IIにとっては,同じことが I の側で追加可変資本について行なわれる場合に生じる。同じくIIにとっては, I によって収入として支出される剰余価値の一部分がc(II)によって補填されず,したがってm(II)《部分》にまで及び,この部分がそれによってただちに貨幣化される場合に生じる。もし(v+m/x) I がcIIよりも大きければ,cIIはその単純再生産のためには,m(II)のうちから I が消費してしまったものを I からの商品によって補填する必要はない。間題になるのは,IIの資本家たちの交換--m(II)に関連しうるだけの交換--の内部でどの程度まで貨幣蓄蔵が行なわれうるか,ということである。すでに述べたように,IIの内部で直接的蓄積が行なわれるのは,m(II)の一部分が直接に可変資本に転化される( I でm I の一部分が直接に不変資本に転化されるのとまったく同様に)ということによってである。IIのさまざまな事業部門のなかでも,また同一の事業部門のさまざまの構[76]成員(消費する構成員)についても,蓄積の年齢階層はさまざまであるが,必要な変更を加えれば, I の場合とまったく同様に説明される。一方のものはまだ退蔵の段階にあって,買うことなしに売り,他方のものは拡大再生産の時点(沸騰点)に達している(売ることなしに買う)。追加可変《貨幣》資本はまず第1に追加労働力に支払われる。しかしこの労働力は,貨幣蓄蔵をしつつある人々(労働者の消費にはいる追加消費手段の所有者)から生活手段を買う。彼らの貨幣蓄蔵の程度に応じて,貨幣は彼らの手から出発点に帰ってこないで,彼らが貨幣を退蔵するのである。|

 (1)「1」--「II」の誤記であろう。
 (2)このパラグラフのこのあたりまでの左側にインクで(ジグザグの)縦線が引かれている。〉

 【このパラグラフに、エンゲルスは「補遺」と表題をつけている。このパラグラフでマルクスは一体何を意図したのであろうか。伊藤武氏などは、この最後のパラグラフにおいても、マルクスは〈5)部門IIでの蓄積(【40】パラグラフ参照)の〈b(【50】パラグラフ)で提起された、部門IIでの蓄積のための〈貨幣源泉がIIのどこで湧き出るのか?〉という問題を追究しているとの判断から、よってマルクスはこれまでの一連の表式を使った考察においても、5〉〈b〉で提起した課題を追究しているのだという解釈を行なっている(例えば『マルクスの再生産の論理』〔大阪経大論集・第53巻第5号〕では、〈マルクスの原草稿によって見るならば、マルクスは部門間転換による部門IIにおける剰余生産物の実現と蓄積基金の問題を解決するために「第一例」、「第二例」その他の表式を作成した〉〔311頁〕と述べている)。
 しかしわれわれがつぶさに検討してきたように、マルクスが【62】パラグラフで〈B 拡大された規模での再生産のための出発表式〉を提起し、年次を重ねて表式の計算を展開している(われわれが「拡大再生産の法則」と表題をつけた)ところでは、IIでの貨幣源泉などは何一つ問題として出されてこなかったのである。そればかりかマルクスはB式以降の表式を使った拡大再生産の展開では、蓄蔵基金の問題をすべて捨象して計算しているのである。本来なら、部門 I でも部門IIでも剰余価値の蓄積分を貨幣化した貨幣を直ちに追加不変資本や追加可変資本として前貸することは出来ないはずである。なぜなら、それらの売り上げ金は一旦は将来の蓄積のために蓄蔵しなければならないからである。しかしマルクスはそうした貨幣蓄蔵の契機をすべて捨象して、剰余価値の蓄積部分を販売した資本家はその販売した貨幣をすぐに追加不変資本と追加可変資本に前貸すると仮定して計算しているのである。もし蓄積基金の契機を入れて考察するなら、マルクスが行なっているような簡単な計算で済むはずはないのである。だからB式以降の考察においても、蓄積基金のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかが考察されているなどという伊藤武氏らの解釈には(どうやら大谷氏も同じような見地に立っているらしいが)、われわれは賛成しがたいのである。

 しかし、この最後のパラグラフでは、確かにマルクスは〈5〉〈b〉で提起した課題を追究しているように思えるのは、一体、どうしたことであろうか。これは果たして、どのように考えたらよいのであろうか?

 そこでわれわれがハタと思い付くのは、マルクスは〈b〉と項目をつけたところで提起した課題--すなわち部門IIでの蓄積のための貨幣源泉を捜すという課題--を、あれこれと考えられうるものを想定しながら、しかしそれらがすべて不可であることを示す途中で、結局、その考察そのものを〈云々。云々。〉という形で打ち切ってしまっていたことである(【61】パラグラフ参照)。その終わり方は中途半端な感は否めなかった。マルクスの意図としては、b〉では、部門IIにおいて蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかを明らかにするために、まずはそれを〈一つの新しい問題〉〈貨幣源泉がIIのどこで湧き出るのか?〉として、すなわち一つの外観上の困難として提起し、その困難を解決すると考えられうる方法をあれこれと想定しながら、しかしそれらがすべて不可であることを論証して、結局、そうした困難が単に外観上のものに過ぎないことを明らかにしたあと、最終的には部門IIにおいて本当は蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかを明らかにするつもりだったと推測されるのである。われわれは以前、それを次のように書いておいた。

 「こうしてマルクスが〈一つの新しい問題にぶつかる〉とした難題、すなわち蓄積のための〈貨幣源泉はIIのどこからわき出るのか?〉という問題は解決されている。それは部門 I における不変資本の蓄積の場合に考察したのと同じように、IIにおいても、現実に蓄積をする資本家群Bが存在する一方で、他方でこれから将来の蓄積のために必要な額に達するまで貨幣蓄蔵を繰り返す資本家群Aが存在することを前提することである。そうすれば、IIにおける140m( I )を購入する資本家は、ただ一方的に購入するだけで、 I にどんな商品も販売する必要がない存在として登場するであろう。このように、マルクスの考えていた謎解きは、これから現実に蓄積するために一方的販売を行う資本家群Bを前提すると同時に、ただ販売するだけで購買せずに、将来の蓄積のために売り上げを蓄蔵する資本家群Aを前提すれば、これ以外に新たな〈貨幣源泉〉といったものをIIで探し回る必要などはないということなのである。
 確かに I の不変資本の蓄積の場合とは異なり、今回の場合は、 I 、IIの追加労働者が媒介項として入ってくるが、彼らはただ資本家から支払われた賃金をすぐに生活手段の購入に支出する存在であり、その限りでは、ただ媒介するだけで、何ら新しい問題を持ち込むものではないことが分かる。もちろん、これはすべてが均衡していることを前提に考察しているからそうなのであって、現実の過程はこうした均衡が前提されているわけではない。だから労働者が介在することはそれだけ過程を複雑にし、過程の攪乱の可能性を一層増大させる契機であることは確かであろう。
 こうした結論を導き出すために、マルクスは〈貨幣源泉はIIのどこからわき出るのか?〉とその可能性をあれこれと探し回り、しかしそれらの考えられうる可能性はよく考えるならすべて不可であることを反証するという回りくどい方法をとっているのである。つまりもともと〈貨幣源泉などはIIのどこにもないし、その必要もないのだ〉というのが、マルクスがこうした謎めいた論証の結論として想定していたものなのである。
 なぜなら、 I でわれわれが想定したように、当然、IIにおいても、一方で現実に蓄積を行う資本家たちが存在するなら、他方で、そうした将来の現実に蓄積に備えて当面は貨幣蓄蔵を繰り返すだけの資本家たちも存在することは当然ではないか、それならそれ以外に〈貨幣源泉〉をIIで探し回る必要がないのは、 I でそうであったのと同じである。どうしてIIにおいてだけ蓄積のための〈貨幣源泉〉なるものを探し回る必要があるのであろうか。IIの資本家も資本家という点では I の資本家と異なることはないはずだからである、云々。これがマルクスが最終的にはこの謎のカラクリとして考えていたことであろう。」

 しかしすでに指摘したように、こうしたマルクスの困難の提起の仕方は必ずしも成功したものとは言えず、かなり強引なやり方にもとづくものであったように思う。恐らくマルクス自身にもそうした思いもあって、その敍述を途中で打ち切ってしまったと考えられるのである。
 しかしそのために、この〈b〉で本来敍述すべき肝心な問題が論じられずに終わってしまったわけである。すなわち部門IIにおいて蓄積のための貨幣蓄蔵は如何になされるのか、という問題である。だから、マルクスはこの草稿の最後に、この残された問題を、b〉で敍述を打ち切った部分に直接続ける形ではないが、しかし解決されずに残された課題、つまり〈b〉でもっとも論じなければならなかった問題を、ここで補足して論じていると考えることができるのである。
 その意味では、エンゲルスがこのパラグラフを「補遺」としたことは内容に合致していたといえるかも知れない。

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