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2009年4月17日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その78)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 (以下は前回の【115】パラグラフの考察の続きである。)

《補足》

 このパラグラフの最初の考察において、このエンゲルスが「補遺」とした部分において、マルクスが〈5)部門IIでの蓄積〉〈b〉で提起した問題、すなわち部門IIにおいて蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのか、という問題を再び論じていることから、だからマルクスはこの第八稿の第21章該当部分では、最後までこの同じ課題を追究しているのだ、すなわちエンゲルスが「第一例」、「第二例」とした表式を使った一連の考察においても、マルクスは同じ問題を、すなわち部門IIにおける蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるかを追究しているのだと理解している人たちがいることを紹介した(伊藤武氏がその代表であるが、後にみるであろうが、実は、大谷禎之介氏も同様の立場に立っているのである)。
 しかしこうした主張をする人たちは、エンゲルスが「第一例」「第二例」とした部分で、マルクスが拡大再生産表式を年次を重ねて展開して計算しているところでは、実際は、蓄蔵貨幣(蓄積基金)の契機をまったく捨象して計算している事実を忘れている(あるいは、見落としている)のである。彼らがこうした誤りに陥るのは、現実に、部門IIでの蓄積の貨幣蓄蔵が如何になされるかについて徹底して考え抜いて解決していないからにほかならない。もしマルクスが表式を使って拡大再生産の補填関係を考察しているところで、蓄積基金の契機を入れて考察したとするなら、それはどのようになされるべきかについて、伊藤武氏らは、恐らく理解されていないのであろう。だからこうした誤った理解が生じていると思えるのである。

 そこで、実際に、マルクスが拡大再生産の表式を使って年次を重ねて計算しているB式(【62】パラグラフ)を使って、蓄蔵貨幣(蓄積基金)の契機を顧慮して考察してみることにしたい。それが実際には、如何に行なわれ、解決されるのかを示せば、伊藤武氏らの主張が、どれほど誤ったものであるかが了解できると思えるからである。われわれはまずB式を提示することから始めよう。

  B  拡大された規模での再生産のための出発表式

   I ) 4000c+1000v+1000m=6000                                            |                                  合計=9000
  II ) 1500c+ 750v+ 750m=3000

 問題はこの表式で蓄蔵貨幣(蓄積基金)の契機を入れて、蓄積のための剰余価値を表す商品資本の販売と蓄積のための現実資本への転換(あるいは個人的消費への転換)が如何になされるかである。それを考えてみよう。

 われわれはマルクスに倣って、剰余価値を貨幣化したものを将来の蓄積のために流通から引き上げて蓄蔵しつつある資本家たちをA群とし、それまでに蓄蔵された潜勢的貨幣資本が現実の蓄積に必要な額に達したので、いままさにそれらを投下しようとしている資本家たちをB群としよう。それらが部門 I と部門IIにそれぞれ存在すると仮定するのである。部門 I で蓄積の年齢階層がさまざまであるように、部門IIにおいてもそうであると仮定することはまったく合理的な想定である。だから二つの部門に、A( I )、B( I )、A(II)とB(II)の資本家群がそれぞれ存在すると仮定するわけである。そして上記のB式でマルクスが想定していたように、部門 I の剰余価値1000mのうち半分の500mが蓄積に回されると仮定しよう。

 さてここで、蓄積基金の契機を考慮に入れると、それは次のようなことになる。

 すなわち500m( I )の剰余価値を体現する商品資本(生産手段)を販売して、その貨幣を流通から引き上げて蓄蔵するのは、部門 I のA群の資本家たちである(彼らはただ一方的販売者として現われる)のに対して、同じ価値額の500の貨幣資本を(彼らはそれをそれまで蓄蔵してきたのであるが)現実の蓄積のために流通に投じるのは、部門 I のB群の資本家たちであるということである(彼らは一方的購買者として現われる)。
 まずA( I )は剰余価値500m(生産手段)のうち400mをB( I )に販売し、その貨幣400を蓄蔵する。彼は残りの100mを今度は部門IIのB群の資本家たちに販売し、やはりその貨幣を蓄蔵する。すなわち彼は彼の剰余価値を表す商品資本500mをすべて貨幣化して(一方的に販売して)、それを将来の蓄積のために蓄蔵したわけである。
 他方、B( I )は、それまで彼が蓄蔵してきた500の貨幣資本のうち400を投じて、A( I )から追加的生産手段400を購入する(彼はただ一方的に購買する)。彼は残りの100を使って、部門 I で追加労働力を購入する。だからその100は追加労働者の労賃として支払われる。そして I の追加労働者はその100で、A(II)の資本家から100m(II)の生活手段を購入する(追加労働者もただ一方的購買者である)。こうして、B( I )の資本家たちは、追加生産手段と追加労働力によって現実の蓄積を開始し、追加労働者は支払われた労賃で部門IIから追加生活手段を購入して、彼らの労働力を再生産する条件を得たわけである。

 次に部門IIに視点を移そう。われわれの想定では、部門 I で剰余価値の半分500mが蓄積されるのに対応して、部門IIでは、750mの剰余価値のうち150mが蓄積に回される必要がある(【65】、【66】参照)。しかしこの場合も、蓄積基金を考慮するなら、150m(II)の剰余価値を表す商品資本を一方的に販売して、その貨幣を蓄蔵するのは、A(II)群の資本家たちであり、実際に、それまで蓄蔵してきた潜勢的貨幣資本150を投じて(一方的に購買して)現実の蓄積を開始するのは、B(II)群の資本家たちである。
 まずA(II)は150mの商品資本(生活手段)のうち、100mをB( I )に雇用された追加労働者に一方的に販売して、その貨幣を蓄蔵する。さらに彼は残りの50mをB(II)に雇用された追加労働者にやはり一方的に販売して、その貨幣を蓄蔵する。こうして彼は150mの剰余価値を表す商品資本をすべて一方的に販売して、その貨幣150を流通から引き上げて、将来の蓄積のために蓄蔵するのである。
 これに対して、B(II)は、それまで蓄蔵してきた貨幣資本150のうち100を投じて、A( I )から生産手段をただ一方的に購入する。さらに彼は残りの貨幣50を投じて、追加労働力に転換する。B(II)に雇用された追加労働者は支払われた労賃50で持って、A(II)から生活手段をただ一方的に購入する。こうしてB(II)は追加生産手段と追加労働力によって現実の蓄積を開始し、またB(II)に追加的に雇用された労働者も彼らの労働力を再生産する条件を獲得したことになる。

 これまでの考察の過程を図示すると、次のようになる。

03_2

 こうして、B式で考察された拡大再生産のための商品資本の販売と現実資本への転換(および個人的消費のための転換)が蓄積基金を考慮しながら展開されたことになる。

 ごらんのとおり、部門 I と同様に、部門IIにおいても、蓄積のための蓄蔵貨幣の形成のために、貨幣源泉〉が部門IIのどこから湧き出るのかと探し回る必要などまったくないことが分かるのである。マルクスが当初から〈5)部門IIでの蓄積〉〈b〉で考えていた結論はこうしたものだったのである。ただ彼は、部門 I の場合と同じように、最初はそれを〈外観上の困難〉として提起し、その上で、それらの困難を解決するものと考えられるあらゆる方策を取り上げて、しかしそれらがすべて不可であることを示して、その困難がただ外観上のものに過ぎないことを論証した後に、では実際には、それは如何になされるのかを、つまり部門IIでの蓄積のための貨幣蓄蔵が、このパラグラフで考察されたようになされることを示すつもりだったのである。
 ところがマルクスにとって、最初の外観上の困難を〈一つの新しい問題〉として、すなわち蓄積ための〈貨幣源泉がIIのどこで湧き出るのか〉という問題として提起するやり方が、必ずしもうまくなされたわけでは無いとの思いがあった(実際、それはかなり強引なやり方であった)。だからマルクスはそうした思いもあって、その考察を途中で〈云々。云々。〉という形で中途半端な形で打ち切ってしまったと推測されるのである。しかしそのために、 一番肝心な問題、すなわち部門IIにおいて蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかという問題を論じる前に、その敍述を打ち切ってしまうことになってしまったのである。だからマルクスは草稿の最後に、すなわちこの【115】パラグラフにおいて、いわば補足的に、それをもう一度取り上げて、その実際の解決の方法を示す必要があったと思われるのである。

 だから草稿の最後に、部門IIにおける貨幣源泉の問題が論じられているからといって、その前の拡大再生産の表式を使った計算においても(すなわちわれわれが「拡大再生産の法則」が論じられているとしたところにおいても)、マルクスが同じ問題を追究しているのだ、などと解釈している伊藤武氏らの理解は、まったくマルクスの草稿を読み誤ったものでしかないといわざるをえないのである。】

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コメント

 続きです
 [61]の考察で <その必要もない>を論証するために 2の資本家をお金を貯める側と使う側のABに分けて1と同じように考えておられますが 2は1と違って消費財なので 2部門内の交換では蓄積できません。つまり1では お金で貯めるか生産財で拡大するかと並列的に成立する話が 2では成り立たないのです。消費財が「蓄積」するときは売れ残り=過剰生産です。2は 自分の生産物=消費財を1に売ってその金を貯めるか さらにその売った金で1がつくった生産財を買って拡大するかする以外に 蓄積は不可能なのです。
 不破の説はデタラメ以上ではありませんが マルクスは 注意書きがない限り有機的構成を変化させてはいません。ここではまだ2と1の間の交換だけを問題にしている段階なので 1は500を蓄積するで止めているのです。もしこの段階でc:vを考えると 1の拡大分のvは100なので 2の必要貨幣量(たりない分)は 140(150)ではなく、140(150)-100=40(50)となります。この40(50)のお金が 毎年要るのです。
 蛇足ですが 蓄積は価値で見たときで 拡大は財・モノで見たときです。つまり貨幣で貯めたときは蓄積といえても拡大とはいえません。工場を大きくしたときは 拡大であり蓄積です。

 松崎です。終了されたと判断して疑問点を述べたいと思いますが 非常に長文で、プリントして再読し疑問点を見いだすことはとても短時間では無理で 一点ずつの展開となります。ご了承ください。
(1) 部門2での蓄積([50]~[61])について
 [50]で マルクスは 「したがって 2は140m1を現金で買わなければならないが しかもそのあとで自分の商品を1に売ることによって彼のもとにこの貨幣が還流するということなしにそうしなければならないのである。しかもこれは 毎年の新たな再生産のたびに……たえず繰り返される過程なのである。そのための貨幣源泉は2のどこでわき出るのか」と [51]~[61]の論点を提起しています。[61]の考察で そちらの理解・結論として <貨幣源泉などは2のどこにもないし その必要もないのだ>と述べられていますが この結論は 前半は正しいと思いますが 後半<その必要もないのだ>は マルクスはそんなことは言ってないし、間違っていると思います。
 2が毎年現金で買わねばならないとしたら、しかもそのお金が2に還流することがないとすれば 拡大再生産を続ける限り、毎年新しいお金が必要になり 2の資本家はそれをどこからかもってこなければなりません。しかし そちらが言われるように 2のどこにも貨幣源泉はありません。だからここでのマルクスの提起は <ではどう考えるべきか>です。読者に考えさせるために 疑問符で出しているのです。続く

 丁寧なご意見、ありがとうございます。
 ご指摘のあたりはなかなか難しいところで、私も自分の理解にそれほど自信があるわけではありませんが、答えうる限りでお答えしたいと思います。
 まず部門2においても、部門1と同様にA、Bの資本家群を想定することによって蓄積基金の問題は解決可能であるということについては、最後のパラグラフ(エンゲルスが「補遺」としたところで、私のパラグラフ・ナンバーでいうと【115】)の《補足》を参照して頂きたいと思います。
 次に部門1の蓄積分500を有機的構成比4:1で計算されて、部門2の不足分を出されていますが、少なくともそうした計算はマルクス自身はやっていないということだけを指摘しておきます。
 最後に、「拡大は財・モノで見た」場合で、「貨幣で貯めたときは蓄積といえ」るとのご指摘ですが、やはりこれもマルクスが(第8稿の段階で)述べていることと違うように思えます。マルクスは貨幣を貯めている段階は、「蓄積」とはいわずに「蓄蔵」と厳密に述べ、その段階の貨幣を「潜勢的可変資本」と述べているように理解しています。

 先の意見の最後の部分にある「潜勢的可変資本」は「潜勢的貨幣資本」の誤植です。

 本題に入る前に 蛇足で私が述べたのは「蓄積は価値で見たとき」であって「貨幣で見たとき」とは言っていません。貨幣は価値の現象形態ですから 貨幣で具体的にみたら退蔵されているとなるでしょう。
 本題に入って 本当に消費財で蓄積されると考えておられるのですか。もともと労賃Vは価値通り払われるとしているのですから 資本家2が自分の必要量を超えて消費財を買ったとしたら 一体誰が使うのですか。また他人の必要物を代わりに買うような奇特な資本家などいませんが。部門1の生産物・生産財は産業資本の循環内にとどまりますが 部門2の生産物・消費財は循環から出ていくのですよ。
 つまり 論の正誤ではなく論の前提そのものが間違っているのでは と思います。

 それでは私も蛇足から。確かに貴方は「蓄積は価値で見たときで」と述べておられますが、同時に「つまり貨幣で貯めたときは蓄積といえても拡大とはいえません」とも述べておられます。私は、その点を指摘したのですが。
 次に本題ですが、私は【115】の《補足》を参照して下さいと書きましたが、ご覧頂いたでしょうか。私はわざわざ図示までしていますが、私の図示したものがどうして「消費財で蓄積される」とことになっていると考えられたのでしょうか。そもそも「消費財で蓄積する」というのはどういう事態を述べているかよく分かりません。私の図をご覧頂ければ、部門2のB(つまり現実に蓄積する資本家群)は部門1のA(貨幣蓄蔵をする資本家群)から追加的生産手段を購入して蓄積することになっているのですが。

 蛇足について 逆の言い方すれば「貨幣で貯めたときも拡大になるのですか?」ですが 内容にかかわるたいした問題とは思っていませんので 一旦この論点は横に置いておきましょう。
 本題に入って 直近のコメントで「2のBは1のAから追加的生産手段を買う」と述べられていますが 「2での貨幣蓄積は2内部の交換で行う」と言われていた訳で これでは 2の資本家が蓄積した貨幣で拡大のために1から追加的生産手段を買うと 貨幣は1にわたるので 2での貨幣蓄積はなくなるのではないですか? だからマルクスは「貨幣の還流のない買いであって しかも毎年繰り返さねばならない」と述べているのだと思います。(まさかマルクスが明言していることを否定しておられるとは思わなかったので 2内部でどうやって蓄積=拡大するのだろかうと不思議だったのです。)
 第4節 補遺 は一つの段落で 内容的には 前半は「2のための本源的な貨幣源泉は 1の金生産者のV+Mである」 後半は「問題となるのは2相互間の交換でどの程度貨幣蓄蔵が行われうるか」です。そちらは後半から考えられたのだと思いますが 「補遺」という表題から言えることは ここは基本・一般的ではなく例外・部分的ということです。だから 例外・部分的の論理で基本・一般的の論理を否定されたら マルクスが何を明らかにしたのか分からなくなります。
 後半は 前半を根拠に2に流通必要量をこえて貨幣が貯っていたら、2内で交互に使うことによって2での貨幣蓄積が可能になる と展開しているのだと思います。だが金の生産はごくわずかです。何年もかけて貯めても 2が拡大のために一度1から追加生産手段を買うと 貨幣の還流はないので2には残っていません。だから本文では 基本・一般的には「貨幣源泉はない→こまった」とし 補遺で例外・部分的に展開しているのだと思います。

 私も別に「蛇足」に拘るわけではありませんが、貴方が言い出したことなので、最後に、もう一度だけ言及するのをお許しください。貴方は最初「蓄積は価値で見たときで 拡大は財・モノで見たときです。つまり貨幣で貯めたときは蓄積といえても拡大とはいえません」とおっしゃいました。だから私は「貨幣で貯めたときは蓄積といえ」るという部分を取り上げて、マルクスは第8稿では「貨幣で貯めた」段階では「蓄積」とは言わずに厳密に「蓄蔵」と述べている、と指摘したのでした。それに対して、貴方は「私が述べたのは『蓄積は価値で見たとき』であって『貨幣で見たとき』とは言っていません」と述べました。確かに貴方は「貨幣で見たとき」と言っていませんが、しかし私も別に貴方が「貨幣で見たとき」に蓄積と言っているとは言っていません。「貨幣で見たとき」というのは、貴方か勝手に私があたかもそう述べているかに言っているだけのことです。というのは私は「貨幣で貯めたときは蓄積といえ」るという貴方の言葉をそのまま引用して述べているだけなのですから。貴方はさらに「価値」と「貨幣」とを区別して、「貨幣は価値の現象形態ですから 貨幣で具体的にみたら退蔵されているとなるでしょう」ともおっしゃいました。しかしこれは奇妙な主張のように思われます。もし「価値」は内在的なものだとおっしゃるなら確かにそうです。しかし「蓄積は価値で見たとき」だとおっしゃるなら、「貨幣で貯めたとき」も、それを「価値で見た」なら、増大しているわけですから、貴方の主張を一貫させるなら、それを「蓄積」というべきではないでしょうか。つまり貴方の最初の主張は、その意味では論理的に一貫しているのです。「蛇足」が長くなったので、本題は別途論じることにします。

 次は本題です。貴方は私の「直近のコメント」だけを取り上げて、問題を論じていますが、本当に私の【115】の《補足》をお読み頂いたのでしょうか。まずそれをお読み頂いてから議論して頂けると、無駄な議論は必要がなくなり、ありがたいのですが。〈「2での貨幣蓄積は2内部の交換で行う」と言われていた〉と貴方はおっしゃいますが、それは誰によって、どこで「言われていた」のでしょうか。マルクスは次のように述べています。《140 m(II)は,m( I )の諸商品のうちそれと同じ価値額の一部分によって補填されることによってのみ,生産資本に転化することができる。……この補填はII の側での一方的な購買によってのみ行なわれることができる。というのは,まだこれから考察されるべき剰余生産物500m( I )はその全部が I の内部で蓄積に役立つことになっているのであり,したがって商品II と交換されることはできないからである。…… したがって,II は140m( I )を現金で買わなければならないが,しかもそのあとで自分の商品を I に売ることによって彼のもとにこの貨幣が還流するということなしにそうしなければならないのである。しかもこれは,毎年の新たな《再》生産のたびに……たえず繰り返される過程なのである。そのための貨幣源泉はII のどこでわき出るのか?》 (草稿60頁)。このマルクスの一文は厳密に読まないといけません。ここではマルクスは事実に即して述べながら、しかし巧妙に他の一部の事実を隠しながら、そこにあたかも外観上の困難があることを示そうとしているのだからです。マルクスは《この補填はII の側での一方的な購買によってのみ行なわれることができる。というのは,まだこれから考察されるべき剰余生産物500m( I )はその全部が I の内部で蓄積に役立つことになっているのであり,したがって商品II と交換されることはできないからである》と述べています。(続く)

(続き)これはまったく事実を事実どおりに述べているのですが、しかし、マルクスは巧妙に別の事実を隠しているのです。まずIIのこれから現実的な蓄積を行なう資本家は《一方的な購買によって》《補填》すると述べ、その理由として《剰余生産物500m( I )はその全部が I の内部で蓄積に役立つことになっているのであり,したがって商品II と交換されることはできないから》としています。これはこの限りではその通りです。というのは《剰余生産物500m( I )はその全部が I の内部で蓄積に役立つことになっている》というのは、《剰余生産物500m( I )》を実現した貨幣は、一部は追加不変資本として他の一部は追加可変資本として《その全部が I の内部で蓄積に役立つことになっている》のはその通りなのですから。そしてまた《したがって商品IIと交換されることはできない》のも事実です。しかしマルクスは部門 I の蓄積分500m( I )のうち、その一部が追加可変資本として投下され、 I で追加的に雇用された労働者がIIから140m(II)を一方的に購買する事実を実は隠しているのです。商品140m(II)を購買するのは、確かに部門 I の資本家ではないのですが、部門 I に新たに雇用された追加労働者がするのです。マルクスは、その事実を隠しているのですが、それが I の蓄積分500m( I )の内容を最初からまったく論じないマルクスの一つの工夫なのです。部門 I の蓄積部分と、部門IIの蓄積部分とは、確かに直接にはまったく交換されません。マルクスはこの事実にもとづいて、 I の追加労働者を媒介した部門 I と部門IIの補填関係をわざと論じずに、《一つの新しい問題》、すなわち《貨幣源泉はIIのどこでわき出るのか》という外観上の困難を提出しようとしているのです。しかしすでに本論で指摘しましたが、この外観上の困難の問題提起にはやはり無理があります。

 24日の続きで 「マルクスは巧妙に別の事実を隠しているのです」と言われていますが マルクスは詐欺師なのですか? もしそうならマルクスが書いたものを学習しても意味がないでしょう。素直に読めば理路整然と展開していると思うのですが。
 「1で追加的に雇用された労働者が2から140mを一方的に購買する事実を実は隠しているのです」と言われますが 私が16日に「1は500を蓄積するで止めているのです。もしこの段階でc:vを考えると」と言ったことに対し 「そうした計算はマルクス自身はやっていない」と述べられましたが 読み直せば分かるように 「もし」をいれて「マルクスは計算してないが 計算すれば」と私は言っているのですよ。計算は私がしたのです。
 問題は この蓄積の500をc:vにどう分けるかですが マルクスは有機的構成を不変として400対100に分けると思います。それを 360対140に分けるんだというあなたの主張が間違っていると指摘しているのです。そして400対100に分けたときは 1の労働者が2から買う分は100なのだから当然140-100=40を 資本家2は金を出して買うしかないのです。だから マルクスが500で止めて 買うべき貨幣はどこから出てくるのだと指摘した問題は 有機的構成を入れて計算しても同様に成立するのです。
 自分の勝手な思い込みでマルクスを詐欺師にしてしまったら 不破と一緒じゃないですか(言われていることは違いますが、態度は)。もっと素直にマルクスに向き合いましょうよ。
 蛇足も同じで 貨幣ですら価値で見るのかモノで見るのかの違いがあるのです。貯めた貨幣は 価値でみたら蓄積でモノでみたら退蔵ですと言ったのです。

 それは敍述上の工夫だと思います。私も「もっと素直にマルクスに向き合いましょうよ」と貴方に返したいと思います。というのは貴方もマルクス自身がやってもいない計算をやって、「勝手な思い込み」を展開していると私には思えるからです。
 蛇足について。では貴方は、マルクスが《資本家たちは蓄蔵貨幣、追加的な潜勢的貨幣資本を形成する》(草稿52頁)等々と述べている場合は、マルクスは貨幣をモノとしてみているとおっしゃるのでしょうか。そもそも貨幣を「モノとしてみる」とはどういうことなのでしょうか。

 前回(28日)の続きですが、私は24日の本題についてのコメントで、〈「2での貨幣蓄積は2内部の交換で行う」と言われていた〉と貴方はおっしゃいますが、それは誰によって、どこで「言われていた」のでしょうか、とお聞きしたのですが、それに対する回答は頂いておりません。よろしくお願いします。

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