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2009年4月 4日 (土)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その74)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

【115】

 〈IIにとっての本源的な貨幣源泉は,cIIの一部分と交換される,金生産 I の(m+v) I である。ただし,金生産者が剰余価値を生産手段に転化させるかぎりでは,この(m+v) I はIIにはいらない。他方,このような貨幣の蓄積(金生産者自身の側での)が最終的には拡大された規模での再生産に至るかぎりでは,金生産の剰余価値のうち収入として支出されない部分は追加可変資本として I (1)にはいって,ここで新たな貨幣蓄蔵を促すか,あるはまた I から買うための新たな手段を直接に--直接に再び I に売ることなしに--与えるのである。金生産者がcIIと交換する(v+m) I からは,IIのある種の生産部門が原料等々として,要するにその不変資本の諸要素として--あるいはむしろこれらの要素の再補填のために--必要とする《金》部分が差し引かれる。(2)  I とIIとの関係のなかでの一時的な--拡大再生産に先行する--貨幣蓄蔵のための要素は,次のような場合に生じる。 I にとっては,m I の一部分がIIの追加不変資本のためにIIに一方的に売られる場合にのみ,生じる。IIにとっては,同じことが I の側で追加可変資本について行なわれる場合に生じる。同じくIIにとっては, I によって収入として支出される剰余価値の一部分がc(II)によって補填されず,したがってm(II)《部分》にまで及び,この部分がそれによってただちに貨幣化される場合に生じる。もし(v+m/x) I がcIIよりも大きければ,cIIはその単純再生産のためには,m(II)のうちから I が消費してしまったものを I からの商品によって補填する必要はない。間題になるのは,IIの資本家たちの交換--m(II)に関連しうるだけの交換--の内部でどの程度まで貨幣蓄蔵が行なわれうるか,ということである。すでに述べたように,IIの内部で直接的蓄積が行なわれるのは,m(II)の一部分が直接に可変資本に転化される( I でm I の一部分が直接に不変資本に転化されるのとまったく同様に)ということによってである。IIのさまざまな事業部門のなかでも,また同一の事業部門のさまざまの構[76]成員(消費する構成員)についても,蓄積の年齢階層はさまざまであるが,必要な変更を加えれば, I の場合とまったく同様に説明される。一方のものはまだ退蔵の段階にあって,買うことなしに売り,他方のものは拡大再生産の時点(沸騰点)に達している(売ることなしに買う)。追加可変《貨幣》資本はまず第1に追加労働力に支払われる。しかしこの労働力は,貨幣蓄蔵をしつつある人々(労働者の消費にはいる追加消費手段の所有者)から生活手段を買う。彼らの貨幣蓄蔵の程度に応じて,貨幣は彼らの手から出発点に帰ってこないで,彼らが貨幣を退蔵するのである。|

 (1)「1」--「II」の誤記であろう。
 (2)このパラグラフのこのあたりまでの左側にインクで(ジグザグの)縦線が引かれている。〉

 【このパラグラフに、エンゲルスは「補遺」と表題をつけている。このパラグラフでマルクスは一体何を意図したのであろうか。伊藤武氏などは、この最後のパラグラフにおいても、マルクスは〈5)部門IIでの蓄積(【40】パラグラフ参照)の〈b(【50】パラグラフ)で提起された、部門IIでの蓄積のための〈貨幣源泉がIIのどこで湧き出るのか?〉という問題を追究しているとの判断から、よってマルクスはこれまでの一連の表式を使った考察においても、5〉〈b〉で提起した課題を追究しているのだという解釈を行なっている(例えば『マルクスの再生産の論理』〔大阪経大論集・第53巻第5号〕では、〈マルクスの原草稿によって見るならば、マルクスは部門間転換による部門IIにおける剰余生産物の実現と蓄積基金の問題を解決するために「第一例」、「第二例」その他の表式を作成した〉〔311頁〕と述べている)。
 しかしわれわれがつぶさに検討してきたように、マルクスが【62】パラグラフで〈B 拡大された規模での再生産のための出発表式〉を提起し、年次を重ねて表式の計算を展開している(われわれが「拡大再生産の法則」と表題をつけた)ところでは、IIでの貨幣源泉などは何一つ問題として出されてこなかったのである。そればかりかマルクスはB式以降の表式を使った拡大再生産の展開では、蓄蔵基金の問題をすべて捨象して計算しているのである。本来なら、部門 I でも部門IIでも剰余価値の蓄積分を貨幣化した貨幣を直ちに追加不変資本や追加可変資本として前貸することは出来ないはずである。なぜなら、それらの売り上げ金は一旦は将来の蓄積のために蓄蔵しなければならないからである。しかしマルクスはそうした貨幣蓄蔵の契機をすべて捨象して、剰余価値の蓄積部分を販売した資本家はその販売した貨幣をすぐに追加不変資本と追加可変資本に前貸すると仮定して計算しているのである。もし蓄積基金の契機を入れて考察するなら、マルクスが行なっているような簡単な計算で済むはずはないのである。だからB式以降の考察においても、蓄積基金のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかが考察されているなどという伊藤武氏らの解釈には(どうやら大谷氏も同じような見地に立っているらしいが)、われわれは賛成しがたいのである。

 しかし、この最後のパラグラフでは、確かにマルクスは〈5〉〈b〉で提起した課題を追究しているように思えるのは、一体、どうしたことであろうか。これは果たして、どのように考えたらよいのであろうか?

 そこでわれわれがハタと思い付くのは、マルクスは〈b〉と項目をつけたところで提起した課題--すなわち部門IIでの蓄積のための貨幣源泉を捜すという課題--を、あれこれと考えられうるものを想定しながら、しかしそれらがすべて不可であることを示す途中で、結局、その考察そのものを〈云々。云々。〉という形で打ち切ってしまっていたことである(【61】パラグラフ参照)。その終わり方は中途半端な感は否めなかった。マルクスの意図としては、b〉では、部門IIにおいて蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかを明らかにするために、まずはそれを〈一つの新しい問題〉〈貨幣源泉がIIのどこで湧き出るのか?〉として、すなわち一つの外観上の困難として提起し、その困難を解決すると考えられうる方法をあれこれと想定しながら、しかしそれらがすべて不可であることを論証して、結局、そうした困難が単に外観上のものに過ぎないことを明らかにしたあと、最終的には部門IIにおいて本当は蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかを明らかにするつもりだったと推測されるのである。われわれは以前、それを次のように書いておいた。

 「こうしてマルクスが〈一つの新しい問題にぶつかる〉とした難題、すなわち蓄積のための〈貨幣源泉はIIのどこからわき出るのか?〉という問題は解決されている。それは部門 I における不変資本の蓄積の場合に考察したのと同じように、IIにおいても、現実に蓄積をする資本家群Bが存在する一方で、他方でこれから将来の蓄積のために必要な額に達するまで貨幣蓄蔵を繰り返す資本家群Aが存在することを前提することである。そうすれば、IIにおける140m( I )を購入する資本家は、ただ一方的に購入するだけで、 I にどんな商品も販売する必要がない存在として登場するであろう。このように、マルクスの考えていた謎解きは、これから現実に蓄積するために一方的販売を行う資本家群Bを前提すると同時に、ただ販売するだけで購買せずに、将来の蓄積のために売り上げを蓄蔵する資本家群Aを前提すれば、これ以外に新たな〈貨幣源泉〉といったものをIIで探し回る必要などはないということなのである。
 確かに I の不変資本の蓄積の場合とは異なり、今回の場合は、 I 、IIの追加労働者が媒介項として入ってくるが、彼らはただ資本家から支払われた賃金をすぐに生活手段の購入に支出する存在であり、その限りでは、ただ媒介するだけで、何ら新しい問題を持ち込むものではないことが分かる。もちろん、これはすべてが均衡していることを前提に考察しているからそうなのであって、現実の過程はこうした均衡が前提されているわけではない。だから労働者が介在することはそれだけ過程を複雑にし、過程の攪乱の可能性を一層増大させる契機であることは確かであろう。
 こうした結論を導き出すために、マルクスは〈貨幣源泉はIIのどこからわき出るのか?〉とその可能性をあれこれと探し回り、しかしそれらの考えられうる可能性はよく考えるならすべて不可であることを反証するという回りくどい方法をとっているのである。つまりもともと〈貨幣源泉などはIIのどこにもないし、その必要もないのだ〉というのが、マルクスがこうした謎めいた論証の結論として想定していたものなのである。
 なぜなら、 I でわれわれが想定したように、当然、IIにおいても、一方で現実に蓄積を行う資本家たちが存在するなら、他方で、そうした将来の現実に蓄積に備えて当面は貨幣蓄蔵を繰り返すだけの資本家たちも存在することは当然ではないか、それならそれ以外に〈貨幣源泉〉をIIで探し回る必要がないのは、 I でそうであったのと同じである。どうしてIIにおいてだけ蓄積のための〈貨幣源泉〉なるものを探し回る必要があるのであろうか。IIの資本家も資本家という点では I の資本家と異なることはないはずだからである、云々。これがマルクスが最終的にはこの謎のカラクリとして考えていたことであろう。」

 しかしすでに指摘したように、こうしたマルクスの困難の提起の仕方は必ずしも成功したものとは言えず、かなり強引なやり方にもとづくものであったように思う。恐らくマルクス自身にもそうした思いもあって、その敍述を途中で打ち切ってしまったと考えられるのである。
 しかしそのために、この〈b〉で本来敍述すべき肝心な問題が論じられずに終わってしまったわけである。すなわち部門IIにおいて蓄積のための貨幣蓄蔵は如何になされるのか、という問題である。だから、マルクスはこの草稿の最後に、この残された問題を、b〉で敍述を打ち切った部分に直接続ける形ではないが、しかし解決されずに残された課題、つまり〈b〉でもっとも論じなければならなかった問題を、ここで補足して論じていると考えることができるのである。
 その意味では、エンゲルスがこのパラグラフを「補遺」としたことは内容に合致していたといえるかも知れない。

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