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2009年3月

2009年3月31日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その73)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 (以下は、前回に続き、【114】パラグラフの続きである。)

 

 1)注意しておきたいのは,蓄積についてのこの叙述では,不変資本の価値は,それが商品資本の価値のうちの,それの助力によって生産された部分であるかぎりでは,正確には示されていないということである。〉
 不変資本の価値は、商品資本の価値のうち不変資本の「助力」によって生産された部分であるかぎりでは、正確には示されていない。というのは、本来は流動不変資本だけでなく、固定資本の価値移転分も含むものと考えるべきだからである。

 2)新たに蓄積された不変資本の固定部分は,ただ徐々かつ周期的に,これらの固定的要素そのものの性質に応じてさまざまな仕方で,商品資本のなかにはいるだけである。〉
 新たに蓄積された不変資本の固定部分は、その分だけ社会の固定資本総額を増加させるが、それが年々、商品資本に価値移転する部分については、それらの固定的要素そのものの性質(固定資本の回転期間の相違)によってさまざまな割合となり、しかもそれらは少なくともその周期が一回転するまでは死滅せずに、ただ周期的に徐々に商品資本に価値移転されるだけなのである。

 3)それゆえ,原料,半製品,《等々》が商品生産にはいる場合には,商品資本のかなり大きい部分が流動《不変》成分と可変資本とから成っている。〉
 だから年々、固定資本から商品資本に価値が移転する部分は、固定資本総額に比べれば小さいことになる(本来の固定資本に追加される蓄積部分の追加不変資本に対する固定資本の占める割合も比較的少なく、しかもそのうち価値移転するのは、例えば10年で1回転なら、その十分の一になるから)。だから商品資本のかなり大きい部分が、原料、半製品、等々の流動不変資本と可変資本とからなっていることになる。

 4)〈(しかし,このような取扱い方ができるのは,流動成分の回転のためである。すなわち,流動部分がそれに交付された固定資本の価値部分といっしょに1年のうちに何回も回転して,供給される商品の総額が,年間の生産にはいる総資本の価値に等しくなる,ということが仮定されているのである。)〉
 (しかしこのような取り扱い方、つまり固定資本の価値移転分を小さいものとして取り扱うことができるのは、流動成分の回転のためである。つまり流動部分がそれに交付される固定資本の価値移転分と一緒に一年のうち何回も回転して、供給される商品の総額が、年間に生産される総商品資本の価値に等しくなるのだが、その場合、固定資本の回転期 間(例えば10年に1回転なら1年に固定資本の価値総額の十分の一が移転される)に比べて、流動部分の回転期間が短くて、一年のうちに何回も回転すればするほど、年間に生産される総商品資本において、固定資本の価値移転分は増加しないのに、流動不変資本部分がそれだけ大きくなるからである。つまり流動資本の回転期間が短いほど流動不変資本部分が大きくなり、それだけ固定成分の割合が小さくなることになるからである。)

 5)しかし,機械経営に補助材料だけが用いられて原料が用いられない場合には,労働要素=vが商品資本のなかでより大きく(商品資本の成分として)現われなければならない。〉
 しかし機械経営において、補助材料(例えば潤滑油など)だけが用いられて、原料、つまり流動不変資本部分が用いられないなら、その部分の構成比は補助材料だけになるが、不変資本の総額は固定資本の価値移転分と補助材料の移転分だけになり、極めて小さいことになる。だから商品資本の成分としては、可変資本部分がより大きなものとして現われることになる(これは例えば採取産業等〔鉱山や農漁業等〕にみられることである)。

 6)利潤率では--固定成分が周期的に生産物に交付する価値の多少にかかわりなく--剰余価値が総資本にたいして計算されるのにたいして,周期的に生産されるそれぞれの商品資本の価値については,不変資本の固定部分は,ただ,その消費によって平均的に価値を生産物そのものに交付するかぎりで,算入されるべきものである。〉
 利潤率の計算では、固定資本はその価値移転分の多少とはなんの関係もない。というのは、利潤率では固定資本の総額と流動不変資本の総額がつねに剰余価値に対して計算されるからである。しかし以上のように、年々生産される商品資本の価値については、不変資本の固定部分は、それが年々磨滅して生産物に価値移転するかぎりで算入されるべきものなのである。

 以上のようにマルクスの草稿は解読されるべきであろう。

 〔補論〕
 このパラグラフの考察の前半で明らかになったように、拡大再生産において固定資本の補填を考慮した表式を使った考察では、われわれは行き詰まってしまったのであるが、しかし、現実の拡大再生産においては、蓄積はそんなに大きな困難に突き当たらずに進行している。だから表式においても、固定資本の補填を考慮した拡大再生産の展開が可能であろうと考えることは十分根拠のあることである。実際、こうした表式を使った考察を行なっている先例もある。ただその場合、われわれが仮定したように、部門 I の蓄積率を任意に50%とすることはできないのである。固定資本の補填を考慮した拡大再生産の表式による展開が両部門の均衡を維持しながら進展するためには,表式に示される両部門の機能配置等の諸条件から蓄積率は一意的に決まってくるようである(その蓄積率の求め方は、村越信三郎著『圖解資本論』第二巻(下)--資本の流通過程の分析--(その二)』〔春秋社s.28.10.5〕307頁以下参照)。
 ただここで注意が必要なのは、部門 I の蓄積率というのは、何か両部門の均衡を維持する必要から決定され、それにもとづいて、その部門に所属する諸資本が蓄積を行なうわわけではない。部門 I の蓄積率というのは、部門 I に所属する諸資本が、それぞれの動機や思惑によって蓄積を行なった総結果(加重平均)でしかない。だからそれが先に述べたような、蓄積率になるどんな保証もない。表式に表される部門 I と部門IIの総商品資本の機能配置は、前年の蓄積の総結果であり、それは確かに一つの客観的事実として決まっている。だからそうした機能配置にもとづいて蓄積が両部門の均衡を維持しながら進展するためには、部門 I の蓄積率が一意的に客観的に決まってくるというのは重要な事実である。しかし現実の蓄積がそのように進むどんな保証も資本主義的生産にはないのである。現実の蓄積がそのように進むとすれば、それはまたったく偶然でしかない。現実の蓄積は、あるいはそれよりより大きな値で行なわれる場合もあれば、小さい場合もあるであろう。そしてその結果、両部門の補填は必ずしもうまく行かずある部分では過剰になり、ある部分では過少になるなど攪乱をもたらすであろう。そしてそれは各部門の蓄積率を変更させるように作用するかも知れないし、資本の移動を促して機能配置そのものを変更するように作用するかも知れないのである。現実資本の移動は多くの困難を伴いそれほど簡単ではないが、第二部では捨象されている利子生み資本を媒介すれば、資本は容易に一つの部門から他方の部門に移動するのであり、必要な諸部門に資本を再配分することが可能になるからである。
 だから両部門が均衡を維持しながら、再生産を進展するための蓄積率が一意的に決まってくるからといって、それによって何か均衡蓄積率といったものが存在し、それが一つの軌道を描くなどと考えることは間違っている。またこうした不均衡が直ちに恐慌の必然性を論証するかに考えるのも間違っていると思う。それは確かに恐慌の一つの可能性--より内容規定を加えられた拡大された可能性--を示すものではあるが、それがすぐに恐慌の必然性を示すものと考えるのは早計であろう、と考えるからである。】

2009年3月27日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その72)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 (以下は前回に続き【114】パラグラフの考察の続きである)

 蓄積部分においては確かに何も問題は生じない。しかし単純再生産の部分について、われわれはすでに考察済みとしたのであるが、それが問題なのである。もちろん、 I (3960Rc)とII(1440Rc)の流動不変資本については考察済みとしても問題はない。しかし I (404Dc)とII(201Dc)についてはそうではないのである。われわれは部門 I のこの場合の固定資本の補填について考えてみることにしよう。404Dcのうち400Dcはとりあえず前年の場合と同じと考えることができるから、問題は4Dcである。これは前年に蓄積された固定不変資本【40】の十分一が商品資本に価値移転した部分である。この固定資本部分の補填が如何になされるのか考えてみよう。もちろん、これは単純再生産部分であるから、われわれが単純再生産で考察した固定資本の補填の条件をもとに考察することが可能である。すなわちそれは固定資本の補填のための貨幣蓄蔵の過程にある資本家群(第二部)と今年度に新規に現物補填する資本家群(第一部)とを想定することによって可能であった。しかしここでハタとわれわれは行き詰まる。というのは、この4Dcを価値移転させた元の固定資本【40】というのは、前年新たに蓄積された固定資本なのである。だから例えその十分の一であろうが、今年度にそれが現物で補填されるというような条件は可能であろうか、という問題が生じるのである。確かに【40】という新規に蓄積された固定資本も年間その十分の一を生産物に価値移転すると言えるが、しかしその十分の一が死期を迎えて、現物補填が必要な状態になると仮定することは不可能なのである。もしそれが一年間で現物補填される必要があるなら、われわれの想定ではそれは固定資本とは言えないであろう。なぜなら、われわれの想定では資本は年一回転すると仮定されており、だから流動資本の回転も年一回転すると仮定されているのだから、それは流動資本と変わらないことになるからである。だから【40】の固定資本の周期は10年であり、それが死期を迎えるのは十年後なのである。【40】の固定資本の循環は、次のようになっている。それは毎年その十分の一だけ磨滅し、よって4Dcだけ商品資本に価値移転し、そしてそれが蓄蔵されて40に達する十年後にようやく死期を迎え、そして死滅した固定資本が一気に現物更新されるわけである。つまりこの【40】の新たに蓄積された固定資本については、確かにそれは単純再生産の部分ではあるが、われわれが単純再生産において想定した仮定が成立しないのである。それは次のような条件であった。

《固定不変資本の磨滅分(=価値移転分)》=《固定資本の死滅分(現物更新分)》

 つまり新たに蓄積された固定資本【40】については、この条件は成立しないのである。だからわれわれが単純再生産において固定資本の補填で想定した条件は、ここでは想定できないことになり、だからこの固定資本【40】の価値移転分4Dcの補填については、考察ずみとして済ますことはできないことになる。そして部門 I でそうであるなら、当然、部門IIの新規固定資本蓄積分【10】とその価値移転分1Dcについても同様であると考えなければならない。この新規蓄積分の固定資本の価値移転分については、当然、それは固定資本の磨滅分であるから、一方的に販売されるのであるが、しかしそれらは現物補填されることはない。それらが現物補填されるのは十年後だからである。だからこの一方的販売に対応する一方的購買者が存在しないことになる。しかも、仮に蓄積が繰り返されると仮定するなら、この新たに蓄積される固定資本部分は例え部門 I の蓄積率を50%と一定にしても、剰余価値そのものが増大するわけだから蓄積の規模そのものも増大し、よってまた追加不変資本に含まれる固定資本部分も増大するのであり、よってこうした不均衡は年々拡大することにならざるをえないであろう。
 そればかりか、われわれが単純再生産の場合における固定資本の補填の条件が想定可能と考えた、もともとの400Dc( I )と150Dc(II)についても、実は、必ずしもそうは言えないことに気付くのである。なぜなら、われわれが拡大再生産を表式として示す場合、それは不断に年々拡大している再生産を前提して、そのある年を出発点として前年の拡大再生産の成果である総商品資本を出発表式として提示しているのであって、だから出発表式として示されている商品資本総額そのものは、前年の蓄積の総結果と考えなければならないからである。そしてそのように考えるなら、400Dc( I )や150Dc(II)の固定資本の価値移転分についても、前年に新規に蓄積された固定資本から移転した部分も含まれると考えなければならないからである。だからもともと400Dc( I )と150Dc(II)についいても、単純再生産における固定資本の補填で考察した条件が無条件で前提できるわけではないことをわれわれは知るのである。

 かくして、われわれは行き詰まってしまったのである。

 そこで、われわれはマルクスが単純再生産における固定資本の補填を考察したときに、次のように書いていたことを思い出す。

 《不変な規模での再生産を考察するためには、全ての産業部門の生産性、したがってまた各部門の商品生産物の比例配分的価値関係を不変と仮定するべきだとしても、しかもなお、最後に述べた二つの場合、すなわちIIc(1)がIIc(2)よりも大きいかまたは小さい場合は、このような場合が無条件に現れうる拡大された規模での生産にとっては、やはり興味のあるものであろう。》(全集版574-5頁)

 マルクスは部門IIの固定資本の補填が如何になされるかを考察しているのであるが、ここで《IIc(1)》と書いているのは、固定資本がその死期を迎えて、全体を現物補填しようとしている部分とその価値額を意味し、《IIc(2)》というのは、これから蓄積基金を積み上げる資本家たちの貨幣蓄蔵の額を表している。つまり先にわれわれが見た《固定不変資本の磨滅分(=価値移転分)》=《固定資本の死滅分(現物更新分)》という条件なのである。
 ということは、マルクスはこの条件が成立せず、一方がより大きいかまたは小さい場合が、《拡大された規模での生産にとっては》《無条件に現われうる》と考えていることになる。マルクスは単純再生産の考察においては、この問題に関連して、再生産過程の攪乱や恐慌の可能性について論じている。 

 さて、拡大再生産における固定資本の補填についての考察は、これぐらいにして(この問題については、最後にもう一度取り上げる)、マルクスのテキストに戻ることにしよう。われわれはここでも、草稿をいくつかの部分に分けて、それぞれについて解読を試みることにする。

 (今回も字数オーバーになってしまったので、残りは次回に回すことにする。)

2009年3月19日 (木)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その71)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 (以下は、【114】パラグラフの考察の続きです。)

 上記の固定資本を考慮した社会の総資本の再検討を踏まえて、もう一度、単純再生産の場合の固定資本の補填について考えてみよう。
 われわれは単純再生産の表式における部門 I の不変資本4000のうちその十分の一の400が固定不変資本の価値の移転分であり、それが如何に貨幣流通に媒介されて補填されるのかを考察したのであった。そして400が一年間に価値移転するということは、部門 I の固定資本総額は4000であり、それが年々その十分一ずつ磨滅し、生産物に価値を移転することがわかったのである。だから部門 I では、そうした年々磨滅する400を他方で蓄蔵貨幣として堆積していく必要があったわけである。しかし貨幣蓄蔵を行なうためには、ただ販売してその売り上げ金を流通から引き上げて退蔵する必要がある。だからそれが可能であるためには、社会的にはそれに対応した一方的販売者が必要なのであるが、それがちょうど、それまで固定資本の更新のために償却費を積み立ててきた資本家たちがその更新のために流通に投じる貨幣額がちょうど400になると仮定されたのであった。つまり部門 I の4000の固定資本総額のうちその十分一が毎年毎年死期を迎え、新しい現物と取り替えられなければならないことをこのことは示しているのである。つまり部門 I の4000の固定資本は毎年毎年、その十分の一が死期を迎え、新しい現物に更新され、そして10年経つと、ちょうど一回転して、すべての固定資本の現物がリニューアルされることになるわけである。だからここには次のような等式が年間生産物を媒介して成り立っていることがわかる。

 《固定不変資本の磨滅分(=価値移転分)》=《固定資本の死滅分(現物更新分)》

 しかしこの等式が成り立つ必然性は何もないことにわれわれは気付く。なぜなら、4000の固定資本総額が毎年毎年その十分の一の400ずつが磨滅し、それだけを生産物に価値移転させるからといって、その固定資本総額の十分一が毎年毎年死滅し、現物補填される必要性は何もないからである。4000の固定資本総額が10年後に一遍に死滅すると考えてもその限りでは何も不都合はないからである。ただそれでは固定資本の補填の必要な貨幣蓄蔵の説明が不可能になるから、われわれは固定資本の十分一が毎年死滅し、現物更新される必要があると仮定しているだけなのである。どうして、こうした考察が必要なのかは、後に分かるであろう。

 さて、以上の単純再生産の場合の考察を参考に、ではそれが拡大再生産の場合はどうなるのかを次に見ることにしよう。拡大再生産では何が新たな問題として出てくるのであろうか。われわれは拡大再生産として【62】パラグラフで提起されたB式を考えてみよう。

    B    拡大された規模での再生産のための出発表式

     I )  4000c+1000v+1000m=6000        
                                     合計=9000
    II )  1500c+ 750v+ 750m=3000

 単純再生産の場合と同じ仮定にたつと、次の式がえられる。

  I )【3600】3600Rc+400Dc+1000v+1000m=6000
                           合計【4950】+9000=13950
 II )【1350】1350Rc+150Dc+ 750v+ 750m=3000

 ここで I の蓄積率を50%とし、旧来の有機的構成にもとづいて蓄積されると仮定すると、ここに一つの困難が生じる。つまりこれまでは不変資本4000cと可変資本1000vの割合4:1で、蓄積分の剰余価値(500m)を分割し、一方を追加不変資本、他方を追加可変資本に転換するとすれば良かったが、ここでは有機的構成の不変資本部分には固定的な不変資本も加える必要がある。そうすると部門 I は7600:1000=38:5となり、計算が面倒になる。よってわれわれは蓄積分の分割は従来通り、部門 I では4:1、部門IIでは2:1で行うことと仮定しよう。問題なのは細かい数値ではなく、何が新たな課題として生じてくるのかを見極めることだからである。そこで、1000m I の半分、500m I のうち400が追加不変資本に、100が追加可変資本に転化されるとする。しかし400の追加不変資本のうち十分一40が固定成分として蓄積されることになる。だから次のようになる。

  I )【3600】3600Rc+360Rmc+400Dc+40Dmc+1000v+100mv(+500消費)

 II )【1350】1350Rc+90Rmc+150Dc+10Dmc+750v+50mv(+600消費)

 さて、問題はこのような補填は貨幣流通を媒介してどのようになされるのかということである。 I(3600Rc+400Dc)とII(1350Rc+150Dc)については、すでに単純再生産で考察ずみである。もちろん、 I (400Dc)とII(150Dc)の固定資本部分の補填については、われわれが単純再生産における固定資本の補填で考察した場合に想定した諸条件が前提されると仮定することとする。だからここで問題なのは、 I 、II両部門の蓄積部分、すなわち I(360Rmc+40Dmc)とII(90Rmc+10Dc)の補填である。しかしこれ自体にはそれほどの困難はない。というのは、これについては、すでにわれわれは I にも、IIにも将来の蓄積のために貨幣蓄蔵の途中にある資本家群Aとすでに蓄蔵された貨幣が必要な額に達したので現実に蓄積を行おうとしている資本家群Bとを想定することによって解決できたからである(もちろん、こうした蓄蔵貨幣〔蓄積基金〕の契機を入れた拡大再生産の表式の展開はこれまで行なわれなかったが、それは後に検討する機会もあるであろう)。追加的な不変資本部分に、流動不変資本と固定不変資本の区別があったとしても、それらはいずれも新しく投下されるものであり、問題はそうした現物が市場に見いだされる条件が存在することである。しかしそれは部門 I の剰余価値の一部がそうしたものとして、すなわち固定的な不変資本として(例えば機械や道具のような労働手段の形態で)生産されている必要があるが、しかしそうしたことはそのように前提すれば、それで済むわけである。だからこうした転換そのものは、追加不変資本が流動資本と固定資本とに分割されても何も変わらないことが分かる。そしてそうした転換が行われて、拡大された規模での再生産を開始する資本構成に転換されたならば、それは次のようになるわけである。

  I )【4040】3960Rc+1100v=【4040】+5060=9100  
                              【6050】+7300=13350
 II )【2010】1440Rc+800v=【2010】+2240=4250             

 つまり固定資本は磨滅分が補填されてもとの【4000】( I )と【2000】(II)とに戻り、さらに新たな蓄積分として【40】( I )と【10】(II)とが加わって、それぞれ【4040】( I )と【2010】(II)になっている。そして流動不変資本と可変資本も蓄積分を加えてそれぞれ増加しており、現実の拡大された規模での再生産は、結局、固定資本は50増加、流動不変資本と可変資本は合わせて600増加、社会の総資本としては、全体として650増加した規模になっていることが分かる。この拡大された規模での再生産が行われれば、その年の末には次のようになっているはずである。

I )【3636】3960Rc+404Dc+1100v+1100m=【3636】+6564
                             【5445】+9805=15250
II)【1809】1440Rc+201Dc+800v+800m=【1809】+3241

 すなわち固定資本の十分の一が流動化して商品資本に価値を移転し、剰余価値率100%として計算してある。
 さて、ここで部門 I の剰余価値1100mの半分550mが蓄積されるとし、440が追加不変資本に、110が追加可変資本に転換されるとする。そして440の追加不変資本の十分の一44が固定不変資本に、残り396が流動不変資本として蓄積されることにする。すると次の表式が得られる。

 I )【3636】3960Rc+396Rmc+404Dc+44Dmc+1100v+110mv(+550)
               
II )【1809】1440Rc+107.1Rmc+201Dc+11.9Dcm+800v+59.5mv(+621.5)

 この転換を貨幣流通の媒介を経て如何に行うかは、すでに先に検討した場合と同じであろう。すなわち I(3960Rc+404Dc)とII(1440Rc+201Dc)については、単純再生産における固定資本の補填で考察したケースであり、 I(396Rmc+44Dmc+110mv)とII(107.1Rmc+11.9Dcm+59.5mv)については、蓄積における補填と同じである。云々。

 と、このように問題はスムーズに進むかに見える。しかしここにはわれわれが見落としている問題が潜んでいるのである。

 (このパラグラフの考察は、さらに次回に続く。)

2009年3月10日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その70)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

【114】

 〈注意しておきたいのは,蓄積についてのこの叙述では,不変資本の価値は,それが商品資本の価値のうちの,それの助力によって生産された部分であるかぎりでは,正確には示されていないということである。新たに蓄積された不変資本の固定部分は,ただ徐々かつ周期的に,これらの固定的要素そのものの性質に応じてさまざまな仕方で,商品資本のなかにはいるだけである。それゆえ,原料,半製品,《等々》が商品生産に||71|はいる場合には,商品資本のかなり大きい部分が流動《不変》成分と可変資本とから成っている。(しかし,このような取扱い方ができるのは,流動成分の回転のためである。すなわち,流動部分がそれに交付された固定資本の価値部分といっしょに1年のうちに何回も回転して,供給される商品の総額が,年間の生産にはいる総資本の価値に等しくなる,ということが仮定されているのである。)しかし,機械経営に補助材料だけが用いられて原料が用いられない場合には,労働要素=vが商品資本のなかでより大きく(商品資本の成分として)現われなければならない。利潤率では--固定[74]成分が周期的に生産物に交付する価値の多少にかかわりなく--剰余価値が総資本にたいして計算されるのにたいして,周期的に生産されるそれぞれの商品資本の価値については,不変資本の固定部分は,ただ,その消費によって平均的に価値を生産物そのものに交付するかぎりで,算入されるべきものである。〉

 【ここでは、マルクスはこれまでの拡大再生産の表式を使った敍述では、不変資本の価値は、その固定成分については捨象されており、だから正確には示されていなかったのだという。マルクスは単純再生産においては、固定資本の補填が如何になされるのかについて、表式を使ってかなり詳しい考察を行なっている。しかし拡大再生産の場合には、表式を使った考察を行なう代わりに、こうした簡単な示唆で終えているのである。もちろん、マルクス自身にそれを許す時間的余裕が無かった故であろう。その意味では、拡大再生産において、固定資本の補填が如何に行なわれるかを表式を使って考察するという課題は、今後に残された課題の一つということができるかも知れない。われわれは、このパラグラフを理解するためにも、最初に、簡単にそれを試みてみることにしよう。しかしそのためには、単純再生産における固定資本の補填が如何になされたかを少し振り返り、その上で、さらに拡大再生産における、固定資本の補填が如何になされるのかについて、考察する必要がある。そうすれば、拡大再生産においては、単純再生産とは異なり、何が固有の問題として出てくるのかがわかるであろう。

 まずマルクスが使っている単純再生産の表式を再録しておこう。

 A) 単純再生産の表式

   I ) 4000c+1000v+1000m=6000        
                                  合計=9000
  II ) 2000c+ 500v+ 500m=3000

 いまここで、 I 、IIとも不変資本のうちその十分の一が固定成分であり、固定資本の償却期間(回転期間)は十年と仮定しよう。そうすると上記の式は次のようになる。ただRcは流動不変資本、Dcは固定不変資本のことである。

   I ) 3600Rc+400Dc+1000v+1000m=6000
  II ) 1800Rc+200Dc+ 500v+ 500m=3000

 いま I にもIIにも、固定資本が前年度末に磨滅してしまい、今年度に新規補填する資本家群(第一部)と将来の補填のためにいまだ貨幣を積み立てている段階にある資本家群(第二部)とが存在すると仮定しよう。すると固定資本の補填が貨幣流通の媒介によって如何に行われるかを考えてみよう。

 まず第 I 部門の不変資本については、前年度末で固定資本が磨滅してしまった資本家群(第一部)というのは、同時に前年度末でその積み立てていた償却費用のための蓄蔵貨幣が丁度400ポンドになった資本家でもある。彼らは今年度の初めに、その400ポンドを投じて固定資本の更新をする。彼らは同じ第 I 部門の他の資本家群(第二部)から固定資本の現物形態を購入する。彼らは一方的購買者として登場する。他方で、彼らに固定資本の現物を販売した資本家(第二部)たちは、その売り上げ金400ポンドを、今度は彼ら自身の固定資本の将来の償却のために蓄蔵するわけである。だから彼らは一方的販売者として登場するわけである。こうして部門 I の固定資本の補填は行われる(もちろん、この場合、第一部の資本家群に固定資本の現物形態を販売するのは、第二部の資本家群でなければならない必然性は何もない。両資本家群の一方的購買額と一方的販売額が一致する必要性はあるが、しかし一方が他方に販売しなければならないわけではないからである。流動不変資本をもっぱら生産する資本家たちもやはり固定資本の更新をしなければならず、そのための償却費を積み立てなければならない。だから彼らの場合は彼らの生産物である流動不変資本〔原材料等〕を一方的に販売して、その売り上げ金を蓄蔵する必要があるわけである。彼らから原材料を一方的に購買する資本家たちは、第一部に固定不変資本〔労働手段〕を一方的に販売する資本家達であろう。つまりこの場合は固定不変資本〔労働手段〕をもっぱら生産する資本家たちを媒介して、両資本家群の一方的購買と一方的販売が価値額として一致することになるわけである。ただわれわれは簡単化のために、第一部の資本家群に固定資本の現物形態を販売するのは、第二部の資本家群であると仮定しているだけなのである)。。
 次に第II部門の不変資本については、同じように前年度末までに固定資本が磨滅してしまった資本家群(第一部)は、それまで蓄蔵した200ポンドを投じて、I mから固定的生産手段(労働手段)を購入する。彼らは一方的購買者として登場する。だからこの場合1000m( I )のうち200m( I )は固定的な生産手段(労働手段)として生産されているわけである。彼らはそれをIIの資本家(第一部)に販売して200ポンドの貨幣を入手する。彼らはその貨幣でIIの第二部の資本家から彼らの生活手段を購入する。このIIの第二部の資本家たちは、将来の固定資本の償却のために200Dcの生活手段を販売して、その貨幣を積み立てる資本家たちである。彼らは一方的販売者である。彼らが積み立てる貨幣は、丁度、同じ部門IIの第一部の資本家たちが流通に投じた蓄蔵貨幣と同額であることが分かる。つまりこの場合も、貨幣はそれを投じた同じ資本家の手許にではないが、同じ部門の資本家の手許に還流し、やはり同じように蓄蔵貨幣の形態として納まったのである。

 このように単純再生産では、蓄積に必要な蓄蔵貨幣の積み立ての場合と同じように、固定資本の償却費を積み立てる資本家群(第二部)と固定資本が磨滅し、丁度積み立て終わった蓄蔵貨幣を貨幣資本として前貸して固定資本の更新を行う資本家群(第一部)とを想定することによって問題は解決したのであった。

 次にわれわれは社会の総資本の概念をもう一度再検討し直さなければならない。というのは、これまでは固定資本を捨象してきたので、社会の総資本は、総商品資本で代表させることができた。すなわち単純再生産の出発式で示されている9000がその社会の総資本を表していたのである。しかし固定資本を考慮するとなると、商品資本総額では社会の総資本を代表させることはできない。なぜなら、商品資本総額というのは、前年度一年間に生産された総商品資本を示すのだが、社会の総資本は商品資本としては現われない現存する固定資本をも含むからである。社会の固定資本総額は、先の単純再生産の表式から考えてみるに、第 I 部門は4000、第II部門は2000である。というのは先に固定資本の回転期間は10年としたのだから、一年間に固定資本の十分の一が磨滅し、商品生産物にその価値を移転したと考えなければならないが、それが部門 I では400Dcであり、部門IIでは200Dcだから、それを10倍すれば、それぞれの部門の固定資本総額がでてくることになるからである。では社会の総資本は商品資本総額9000に固定資本総額6000( I 部門=4000+II部門=2000)を加えた合計15000がそうかというとそれほど簡単ではない。なぜなら、部門 I の固定資本総額は4000であるが、それは年々その十分一、すなわち400を商品生産物にその価値を移転する。ということは前年度に生産された商品資本総額6000のなかに、その移転分が含まれていることになる。だから9000の商品資本総額と同時に存在している固定資本総額は価値を移転した残りの資本総額であり、それは6000の固定資本総額の十分の一600を移転した残り5400である。だから社会の総資本額は9000+5400=14400でなければならない。だからわれわれは固定資本総額をも含めた表式をもう一度書いてみよう(【 】で囲んだものが固定資本額である)。

I )【3600】 3600Rc+400Dc+1000v+1000m=6000
                          合計【5400】+9000=14400
II)【1800】 1800Rc+200Dc+ 500v+ 500m=3000   

 ところで単純再生産としては年々同じ再生産を繰り返すことになるが、次の年の再生産を開始する総資本の構成はつぎのようになる。

I )【4000】 3600Rc+1000v=【4000】+4600=8600
                         合計【6000】+6900=12900
II)【2000】 1800Rc+ 500v=【2000】+2300=4300      

 つまり固定資本は前年の生産過程で磨滅した部分はリニューアルされてもとの資本額に戻っている。そして流動不変資本(原材料等)と可変資本(これは資本家が貨幣形態で保持し後に労働者に支払うと仮定してもよいが、少なくとも労働力への転化は終わっている必要がある)が準備されているわけである。これがこれから一年間の生産を開始する段階の総資本の構成である。その総資本額は12900と出発表式に表されていた社会の総資本額より1500少ないが、これはその分だけ資本家の消費に回されたからである。つまり生産的に社会で働いている資本総額というのは固定資本も含めると12900なのである。
 そして上記の出発の資本構成が、一年後に得る表式は、結局、その一つ前とまったく同じ表式になるわけである(剰余価値率100%)。つまり部門 I では、4000の固定資本の十分の一が流動化して商品資本に価値移転される(商品資本の不変資本部分になる)一方で、固定資本の額としてはそれだけ減額する(磨滅する)わけである。

 (このパラグラフの考察は次回に続く。)

2009年3月 6日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その69)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

【111】

 〈1)単純な蓄積(1)では,たとえばわれわれがすでに見た,
     I )4000c+1000v+1000m
    II )2000c+500v+500m
の事例がそうであるように,(c+v)(2)( I )=c( I (3))であって,この場合には単純な再生産が行なわれる。このことは,資本主義的生産とは両立しないだけではない。{このことは,たとえば,10-11年の産業循環のなかである年の総生産がしばしば前年等々のそれよりも小さく,したがって前年等々に相応した単純再生産さえも行なわれない,ということを排除するものではない。}毎年人口の自然増がある場合には,単純再生産が行なわれうるのは,1500mの分け前にあずかっていっしょに消費する不生産的な僕婢が次々と増加していくかぎりでのことである。この場合には,逆に資本の蓄積は,つまり現実の資本主義的生産は不可能である。したがって,資本主義的蓄積という事実は,(v+m) I =2000cを排除するのであり,したがって後者は前者を排除するのである。とはいえ,資本主義的蓄積が行なわれる場合でも,以前の一連の生産期間に行なわれたいくつかの蓄積過程の進行の結果として,c(II)が(v+m)(II)(4)に等しい場合だけでなく,それよりも大きいという場合が徐々に起こってくるかもしれない。これはIIでの過剰生産であって,それはただ大きな崩落によって調整され,その結果として資本はIIから I に移ることになるであろう。--不変資本の一部分がII自身によって再生産されるものである場合,たえばジ[71]ヤガイモ栽培等々で種子のために再生産される場合にも,(v+m) I の計算にはなんの変わりもない。II)のこの部分が I (v+m)とII(c)とのあいだでの転換にかんして間題にならないのは,そのさいに I cが問題にならないのと同じことである。また,IIの生産物の一部分がふたたび生産手段として I にはいることができても,これもまた少しも事柄を変えるものではない。その場合には,直接に〔生産資本の〕諸要素として I にはいることができるものは, I とIIとの相互の価値の転換を考える場合には,IIから取り除いておかなければならないだけのことである。(5)

 (1)「単純な蓄積」--「単純再生産」とあるべきところであろう。
 (2)「(c+v)」--明らかに「(v+m)」の誤記である。このうちの「c」は,鉛筆で「m」と訂正されている、エンゲルスによるもの?
 (3)「 I 」--「II」の誤記。鉛筆で加筆してIIにしてある。
 (4)「(II)」--明らかに「( I )」の誤記である。
 (5)このパラグラフの左側にはインクで縦線が引かれている。〉

 【このパラグラフからは、さらに全体のまとめというか、補足のようなものとして、これまで検討してきた、再生産表式の展開が、現実の資本主義的生産を反映するという点での限界のようなものが指摘されているように思える。すこし全体を平易に書き直しておこう。

 単純な再生産では、われわれがすでに見た事例がそうであるように、 I(v+m)=IIcが成り立つ。しかしこのことは、現実の資本主義的生産を表していない。もっとも、現実の資本主義的生産において、10-11年の産業循環のある年の総生産がしばしば前年等のそれよりも小さく、したがって前年等々に相応した単純再生産さえも行われないということがあるのは事実であり、そうしたことを排除するものではないが、しかし資本主義的生産の一般的傾向として考えれば、単純再生産はそれを反映したものとはいえないのである。毎年の人口の自然増大がある場合を考えてみれば、もし単純再生産のもとで、それが可能なのは、ただ1500mの社会の剰余価値の分け前にあずかって一緒に消費する不生産的な僕婢だけがただ増加するというような不自然なことを想定するしかない。だから現実の資本主義的生産は、資本主義的な蓄積の過程としてしかないのであって、それは I(v+m)=IIcという関係とは相いれないのである。
 とはいえ、われわれが【85】パラグラフの注記4)に関連して考察したように、資本主義的蓄積が行われる過程で、以前の一連の生産期間に行われたいくつかの蓄積過程の進行の結果として、IIcが I(v+m)に等しいだけではなく、それよりも大きいという場合が徐々に起こってくるかもしれない。その場合はIIでの過剰生産であって、それはただ大きな崩落によって調整されるしかない。そうすれば資本はIIから I に移動することになるであろう。
 IIの不変資本の一部分がII自身によって再生産されるものである場合、例えばジャガイモ栽培等々の種子のためにジャガイモが再生産される場合にも、 I(v+m)の計算には何の変わりもない。IIのこの部分、つまりII自身によって再生産される不変資本(生産手段)IIcがただ I(v+m)と関連しないだけであり、それは IcがIIとどんな関係ももたないのと同じである。またIIの生産物の一部分がふたたび生産手段として I にはいることができても、これまた少しも事柄を変えるものではない。その場合には、直接に生産資本の諸要素として I にはいることができるものは、 I とIIとの相互の価値の転換を考える場合には、IIから取り除いておかなければならないだけのことである。

 このように書き直してみて、問題になるのは三つ目のパラグラフである。ここではどうやら第II部門、つまり生活手段の生産部門の生産物もその一部は、部門IIの生産手段に入りうる場合があり、さらには第 I 部門、つまり生産手段の生産部門にも生産手段としても入りうる場合があること、そして、そういう場合には I(v+m)とIIcとの関連でどのように考えたらよいのかということが論じられているようだが、しかしその内容を理解することはなかなか困難である。だからこの問題について少し考えてみよう。
 まず後者の問題であるが、これはIIの生産物が I の生産手段としてはいるというのだから、それは明らかに生産手段として生産されたのであり、それはもともと生産手段の生産部門に入るべきものであったろう。とするなら、それはもともとIIから取り除いておくべきものなのである。
 問題なのは、最初のケースである。今、ジャガイモの種芋を作る農業資本を考えてみよう(そういう資本があるかどうかは分からないが)。その農業資本は種芋を専門に生産し、他のジャガイモ農家にそれを生産手段として供給するわけである。しかし他方でその農業資本は生産したジャガイモの一部を個人的な消費に、つまり生活手段としても販売するとしよう。彼は種芋生産農業資本としては、明らかに生産手段の生産部門、すなわち第 I 部門に属する。しかし個人的な生活手段としてジャガイモを供給するかぎりでは、彼は第II部門に属する資本なのである。彼が種芋の生産に彼自身が生産した種芋を生産手段として利用する場合、それは石炭業者が彼の石炭の生産に彼自身の生産物である石炭を燃料として利用するのと基本的には同じ関係である(これは最初のケースにも類似している)。しかしもし彼が生活手段として販売するジャガイモの生産のために、彼自身が生産した種芋を利用するならどうであろうか。これこそ今、マルクスが問題にしているところではないだろうか。彼は生産手段の生産部門(第 I 部門)の資本として生産した種芋を、生活手段の生産部門(第II部門)の資本としての自分自身に供給し、それを生活手段としてのジャガイモの生産の生産手段として利用するわけである。ここには確かに第 I 部門と第II部門との関連はあるが、しかし資本としては同じ資本であり、第 I 部門と第II部門との交換が生ずるわけではない。これは基本的には種芋生産資本として彼自身の生産物である種芋を生産手段として利用するのと同じであり、彼自身の内部での利用でしかない。だからこの部分は I(v+m)とIIcとのあいだでの転換にはなんの関係もないことは明らかであろう。】

【112】

 〈したがって,資本主義的生産では,(v+m) I がc(II)に等しいことはありえないのであり,言い換えれば,相互の転換でこの両者が一致することはありえないのである。(1)

 (1)このパラグラフの左側にはインクで縦線が引かれている。〉

 【よって、現実の資本主義的生産においては、単純再生産というのはありえないのであり、 I(v+m)がIIcに一致するということはありえない。相互転換でこの両者が一致することはありえないのである。】

【113】

 〈これに反して, I (m/x)をm《( I )》のうち I が収入として支出する部分だとすれば,(v+m/x) I はc(II)に等しいことも,それより大きいこと[73]も,小さいこともありうる。しかし,(v+m/x) I はつねに(c+m)IIよりも小さくなければならない。しかも,II)(m)のうちの,どんな場合にも資本家階級IIが自分で食わなければならない部分だけ,より小さくなければならないのである。(1)

 (1)このパラグラフの左側にはインクで縦線が引かれており,その末尾はL字状に右に大きく曲げられている。〉

 【これに反して、 I(m/x)がmのうち I が収入として支出する部分だとすれば、つまり(1-m/x)が蓄積される場合は、 I(v+m/x)、すなわち I の単純再生産の部分は、IIcに等しい場合もあるし、それより大きいこともあるし、小さいこともありうる。しかし I(v+m/x)は常にII(c+m)より小さくなければならない。しかもIImのうち少なくとも資本家階級IIが消費に回す部分だけ差し引いた上で、それよりも小さくなければならないのである。それは例えば I(v+m/x)>IIcの場合を考えてみよう。この場合は、IIcの不足分はIImから差し引いて、追加的な不変資本として蓄積される必要があるが、IImがそれが可能なだけのものでなければならないことを意味している。言いえれば、IIcにIImを加えた量が I(v+m/x)を補填するに十分な量でなければならないということである。しかもIIの資本家階級が消費する分を除いてそうでなければならないということである。
 ついでにいえば、ここで I(v+m/x)は I の単純再生産の部分であり、 I はこの他に I(1-m/x)なる蓄積分がある。このうち何分の一かは追加可変資本に転換される。つまりIIc+IImはこうした I の追加可変資本の蓄積にも対応しうるだけの量でなければならないということである。おまけに上記の単純再生産の部分の転換に対応したIIの蓄積でも、後者の I の追加可変資本の蓄積に対応したIIの追加不変資本の蓄積においても、同時にそれぞれに対応したII自身の追加可変資本の蓄積も必要であり、それもやはりIImから差し引かれる必要があるわけだから、II(c+m)はそれらも含めて十分可能な量でなければならないことになるわけである。】

2009年3月 3日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その68)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§


 

【110】

 〈他方,この転換によって, I の資本のうちただ追加貨幣資本を積み上げてきただけの部分は,すでにこの種の「蓄積」の部分を完了したのである。そこで上述の事例(このまえの2ぺ一ジ)は次のようになる。もし以前と同様に1/5(1)が貨幣(2)資本に転化され,4/5(3)が現実の蓄積に〔向けられる〕のであれば,したがって580(4)のうち1/5(5)が,つまり116(6)が貨幣蓄蔵に〔向けられ〕,464(7)が現実に蓄積されるのであれば,116(8)のうちすでに50(9)が貨幣化されているのであって,その残りは66(10)であり,これが貨幣化されなければならないのである。(11)

 (1)「1/5」--鉛筆によって「5」が「6」に訂正されている。このパラグラフでの同種の訂正はすべてエンゲルスによるものであろう。
 (2)「貨幣」--インクでつぶれているが,こう読んで誤りないであろう。
 (3)「4/5」--鉛筆によって「5/6」に訂正されている。
 (4)「580」--鉛筆によって「587」に訂正されている。
 (5)「1/5」--鉛筆によって「5」が「6」に訂正されている。
 (6)「116」--鉛筆によって「98」に訂正されている。
 (7)「464」--鉛筆によって「489」に訂正されている。
 (8)「116」--鉛筆によって「98」に訂正されている。
 (9)「50」--鉛筆によって「45」に訂正されている。
 (10)「66」--鉛筆によって「53」に訂正されている。
 (11)このパラグラフの左側にインクで縦線が引かれている。そして,鉛筆による修正のある「もし以前と同様に」以下の部分には,さらにその左側に鉛筆で縦線が引かれている。〉

 【このパラグラフは前パラグラフの三つのケースのうちの最後の3)のケースの説明に直接繋がっている。前パラグラフの3)の解読のところでも指摘したが、マルクスはこのケースが〈生じた〉のは、【105】パラグラフにおいてだと思っているのである。だからこのケースの説明の延長として【105】パラグラフに戻っているのである。
 マルクスが〈他方、この転換によって〉と述べているのは、前パラグラフの3)の説明にあるところの〈IIはこの転換によっては自分の不変資本をすっかりは再生産しないのであって、不足分のために I から買わなければならない〉と述べていた〈転換〉である。つまりIIcの転換は終わっていないが、 I の単純再生産の部分の転換はすでに終わっているわけである。マルクスはここで〈 I の資本のうちただ追加貨幣資本を積み上げるだけの部分〉と述べているが、しかし単純再生産の部分の可変資本そのものは決して「追加資本」ではない。ただ前年度の可変資本を補填するために(前年度に購入した労働力を再び購入するために)、それを貨幣形態で〈積み上げて〉保持しているというだけであろう。だから〈すでにこの種の「蓄積」の部分を完了したのである〉と述べているのは、いささか疑問である。ただマルクスは慎重に〈この種の「蓄積」〉というふうに、この種の〉と限定し、しかも「蓄積」に鍵括弧をつけている。つまりそれは本来の蓄積とは区別された〈この種の「蓄積」〉というニュアンスを含んだ表現になっており、これはあるいは、そうしたことを配慮した結果かも知れない。
 そこでマルクスは【105】パラグラフに帰って、(v+1/2m)I <cII のケースとして先にも紹介した次の表式に戻って検討している。われわもももう一度その表式を掲げておこう。

    I   5800c+1160v+1160m
     II )1800c+ 348v+ 348m

 マルクスが〈もし以前と同様に1/5が貨幣資本に転化され,4/5が現実の蓄積に〔向けられる〕のであれば,したがって580のうち1/5が,つまり116が貨幣蓄蔵に〔向けられ〕,464が現実に蓄積されるのであれば,116のうちすでに50が貨幣化されているのであって,その残りは66であり,これが貨幣化されなければならないのである〉と述べているのは、次のようなことである(ただしわれわれはエンゲルスが青色で訂正している数値は無視して、マルクスの間違った数値をもとに、マルクスが何を言いたいのかをだけ理解することにしよう)。上記の表式の I の蓄積分、つまり剰余価値1160mの1/2、580mが蓄積されるとマルクスは考えている。そのうち1/5すなわち116が追加可変資本に転換され、よって貨幣蓄蔵されるとマルクスは考えているのである。そして4/5の464が追加不変資本に、よって現実に蓄積されるとマルクスは考えている。もちろん、現実に蓄積されるのは単に追加不変資本だけではなく、追加可変資本もそうである。そうでないと現実の拡大された規模での再生産、すなわち蓄積は進まないからである。しかしマルクスは追加可変資本の場合は、貨幣形態を維持し、労働力を購入して、その労働が流動化し、価値を形成したあとに支払われるべきだと考えているのである。だから追加可変資本の場合は、とりあえずは貨幣形態のまま「蓄積」されると考えているのである。
 ところですでに紹介したが、前パラグラフで、マルクスは〈IIはこの転換によっては自分の不変資本をすっかりは再生産しないのであって、不足分のために I から買わなければならない〉と述べていた。つまりマルクスはIIcの転換のための不足分はすでに「買われている」と考えているのである。【105】パラグラフに戻ると、その不足分というのは60である。つまり I の追加可変資本116のうちすでに60は貨幣化されているというわけである。だから問題は残りの56の貨幣化であるというわけである。だからこのすでに貨幣化されている数値と残りの数値をマルクスは間違っているわけである。
 ついでに述べておくと、この残りの56の貨幣化は如何になされるかというと、それはIIの追加不変資本の蓄積によってなされるのである。だから【105】の表式に戻って考えると、それは348mIIから差し引かれるのであり、さらにIIは56の追加不変資本に対して、11[1/2]の追加可変資本が必要であり、それも残りの292mIIから差し引かれる必要があるわけである。
 結局、このパラグラフは、(v+1/2m)I <cII のケースとして【105】パラグラフを再検討し、IIcに60の余剰でたものがどのように処理されるかを再検討したものといえるだろう(それは I の蓄積による追加可変資本に対応したIIcとして処理され、 【105】のように、I の追加可変資本116がIIcの余剰分60より大きい場合は、その差額56はIIの追加不変資本の蓄積として処理されるわけである)。だからこのケースはわれわれが先のパラグラフで考察した可能な三つのケースのうち、二つ目のケースに当たるわけである。】

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