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2009年3月31日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その73)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 (以下は、前回に続き、【114】パラグラフの続きである。)

 

 1)注意しておきたいのは,蓄積についてのこの叙述では,不変資本の価値は,それが商品資本の価値のうちの,それの助力によって生産された部分であるかぎりでは,正確には示されていないということである。〉
 不変資本の価値は、商品資本の価値のうち不変資本の「助力」によって生産された部分であるかぎりでは、正確には示されていない。というのは、本来は流動不変資本だけでなく、固定資本の価値移転分も含むものと考えるべきだからである。

 2)新たに蓄積された不変資本の固定部分は,ただ徐々かつ周期的に,これらの固定的要素そのものの性質に応じてさまざまな仕方で,商品資本のなかにはいるだけである。〉
 新たに蓄積された不変資本の固定部分は、その分だけ社会の固定資本総額を増加させるが、それが年々、商品資本に価値移転する部分については、それらの固定的要素そのものの性質(固定資本の回転期間の相違)によってさまざまな割合となり、しかもそれらは少なくともその周期が一回転するまでは死滅せずに、ただ周期的に徐々に商品資本に価値移転されるだけなのである。

 3)それゆえ,原料,半製品,《等々》が商品生産にはいる場合には,商品資本のかなり大きい部分が流動《不変》成分と可変資本とから成っている。〉
 だから年々、固定資本から商品資本に価値が移転する部分は、固定資本総額に比べれば小さいことになる(本来の固定資本に追加される蓄積部分の追加不変資本に対する固定資本の占める割合も比較的少なく、しかもそのうち価値移転するのは、例えば10年で1回転なら、その十分の一になるから)。だから商品資本のかなり大きい部分が、原料、半製品、等々の流動不変資本と可変資本とからなっていることになる。

 4)〈(しかし,このような取扱い方ができるのは,流動成分の回転のためである。すなわち,流動部分がそれに交付された固定資本の価値部分といっしょに1年のうちに何回も回転して,供給される商品の総額が,年間の生産にはいる総資本の価値に等しくなる,ということが仮定されているのである。)〉
 (しかしこのような取り扱い方、つまり固定資本の価値移転分を小さいものとして取り扱うことができるのは、流動成分の回転のためである。つまり流動部分がそれに交付される固定資本の価値移転分と一緒に一年のうち何回も回転して、供給される商品の総額が、年間に生産される総商品資本の価値に等しくなるのだが、その場合、固定資本の回転期 間(例えば10年に1回転なら1年に固定資本の価値総額の十分の一が移転される)に比べて、流動部分の回転期間が短くて、一年のうちに何回も回転すればするほど、年間に生産される総商品資本において、固定資本の価値移転分は増加しないのに、流動不変資本部分がそれだけ大きくなるからである。つまり流動資本の回転期間が短いほど流動不変資本部分が大きくなり、それだけ固定成分の割合が小さくなることになるからである。)

 5)しかし,機械経営に補助材料だけが用いられて原料が用いられない場合には,労働要素=vが商品資本のなかでより大きく(商品資本の成分として)現われなければならない。〉
 しかし機械経営において、補助材料(例えば潤滑油など)だけが用いられて、原料、つまり流動不変資本部分が用いられないなら、その部分の構成比は補助材料だけになるが、不変資本の総額は固定資本の価値移転分と補助材料の移転分だけになり、極めて小さいことになる。だから商品資本の成分としては、可変資本部分がより大きなものとして現われることになる(これは例えば採取産業等〔鉱山や農漁業等〕にみられることである)。

 6)利潤率では--固定成分が周期的に生産物に交付する価値の多少にかかわりなく--剰余価値が総資本にたいして計算されるのにたいして,周期的に生産されるそれぞれの商品資本の価値については,不変資本の固定部分は,ただ,その消費によって平均的に価値を生産物そのものに交付するかぎりで,算入されるべきものである。〉
 利潤率の計算では、固定資本はその価値移転分の多少とはなんの関係もない。というのは、利潤率では固定資本の総額と流動不変資本の総額がつねに剰余価値に対して計算されるからである。しかし以上のように、年々生産される商品資本の価値については、不変資本の固定部分は、それが年々磨滅して生産物に価値移転するかぎりで算入されるべきものなのである。

 以上のようにマルクスの草稿は解読されるべきであろう。

 〔補論〕
 このパラグラフの考察の前半で明らかになったように、拡大再生産において固定資本の補填を考慮した表式を使った考察では、われわれは行き詰まってしまったのであるが、しかし、現実の拡大再生産においては、蓄積はそんなに大きな困難に突き当たらずに進行している。だから表式においても、固定資本の補填を考慮した拡大再生産の展開が可能であろうと考えることは十分根拠のあることである。実際、こうした表式を使った考察を行なっている先例もある。ただその場合、われわれが仮定したように、部門 I の蓄積率を任意に50%とすることはできないのである。固定資本の補填を考慮した拡大再生産の表式による展開が両部門の均衡を維持しながら進展するためには,表式に示される両部門の機能配置等の諸条件から蓄積率は一意的に決まってくるようである(その蓄積率の求め方は、村越信三郎著『圖解資本論』第二巻(下)--資本の流通過程の分析--(その二)』〔春秋社s.28.10.5〕307頁以下参照)。
 ただここで注意が必要なのは、部門 I の蓄積率というのは、何か両部門の均衡を維持する必要から決定され、それにもとづいて、その部門に所属する諸資本が蓄積を行なうわわけではない。部門 I の蓄積率というのは、部門 I に所属する諸資本が、それぞれの動機や思惑によって蓄積を行なった総結果(加重平均)でしかない。だからそれが先に述べたような、蓄積率になるどんな保証もない。表式に表される部門 I と部門IIの総商品資本の機能配置は、前年の蓄積の総結果であり、それは確かに一つの客観的事実として決まっている。だからそうした機能配置にもとづいて蓄積が両部門の均衡を維持しながら進展するためには、部門 I の蓄積率が一意的に客観的に決まってくるというのは重要な事実である。しかし現実の蓄積がそのように進むどんな保証も資本主義的生産にはないのである。現実の蓄積がそのように進むとすれば、それはまたったく偶然でしかない。現実の蓄積は、あるいはそれよりより大きな値で行なわれる場合もあれば、小さい場合もあるであろう。そしてその結果、両部門の補填は必ずしもうまく行かずある部分では過剰になり、ある部分では過少になるなど攪乱をもたらすであろう。そしてそれは各部門の蓄積率を変更させるように作用するかも知れないし、資本の移動を促して機能配置そのものを変更するように作用するかも知れないのである。現実資本の移動は多くの困難を伴いそれほど簡単ではないが、第二部では捨象されている利子生み資本を媒介すれば、資本は容易に一つの部門から他方の部門に移動するのであり、必要な諸部門に資本を再配分することが可能になるからである。
 だから両部門が均衡を維持しながら、再生産を進展するための蓄積率が一意的に決まってくるからといって、それによって何か均衡蓄積率といったものが存在し、それが一つの軌道を描くなどと考えることは間違っている。またこうした不均衡が直ちに恐慌の必然性を論証するかに考えるのも間違っていると思う。それは確かに恐慌の一つの可能性--より内容規定を加えられた拡大された可能性--を示すものではあるが、それがすぐに恐慌の必然性を示すものと考えるのは早計であろう、と考えるからである。】

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