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2009年3月 6日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その69)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

【111】

 〈1)単純な蓄積(1)では,たとえばわれわれがすでに見た,
     I )4000c+1000v+1000m
    II )2000c+500v+500m
の事例がそうであるように,(c+v)(2)( I )=c( I (3))であって,この場合には単純な再生産が行なわれる。このことは,資本主義的生産とは両立しないだけではない。{このことは,たとえば,10-11年の産業循環のなかである年の総生産がしばしば前年等々のそれよりも小さく,したがって前年等々に相応した単純再生産さえも行なわれない,ということを排除するものではない。}毎年人口の自然増がある場合には,単純再生産が行なわれうるのは,1500mの分け前にあずかっていっしょに消費する不生産的な僕婢が次々と増加していくかぎりでのことである。この場合には,逆に資本の蓄積は,つまり現実の資本主義的生産は不可能である。したがって,資本主義的蓄積という事実は,(v+m) I =2000cを排除するのであり,したがって後者は前者を排除するのである。とはいえ,資本主義的蓄積が行なわれる場合でも,以前の一連の生産期間に行なわれたいくつかの蓄積過程の進行の結果として,c(II)が(v+m)(II)(4)に等しい場合だけでなく,それよりも大きいという場合が徐々に起こってくるかもしれない。これはIIでの過剰生産であって,それはただ大きな崩落によって調整され,その結果として資本はIIから I に移ることになるであろう。--不変資本の一部分がII自身によって再生産されるものである場合,たえばジ[71]ヤガイモ栽培等々で種子のために再生産される場合にも,(v+m) I の計算にはなんの変わりもない。II)のこの部分が I (v+m)とII(c)とのあいだでの転換にかんして間題にならないのは,そのさいに I cが問題にならないのと同じことである。また,IIの生産物の一部分がふたたび生産手段として I にはいることができても,これもまた少しも事柄を変えるものではない。その場合には,直接に〔生産資本の〕諸要素として I にはいることができるものは, I とIIとの相互の価値の転換を考える場合には,IIから取り除いておかなければならないだけのことである。(5)

 (1)「単純な蓄積」--「単純再生産」とあるべきところであろう。
 (2)「(c+v)」--明らかに「(v+m)」の誤記である。このうちの「c」は,鉛筆で「m」と訂正されている、エンゲルスによるもの?
 (3)「 I 」--「II」の誤記。鉛筆で加筆してIIにしてある。
 (4)「(II)」--明らかに「( I )」の誤記である。
 (5)このパラグラフの左側にはインクで縦線が引かれている。〉

 【このパラグラフからは、さらに全体のまとめというか、補足のようなものとして、これまで検討してきた、再生産表式の展開が、現実の資本主義的生産を反映するという点での限界のようなものが指摘されているように思える。すこし全体を平易に書き直しておこう。

 単純な再生産では、われわれがすでに見た事例がそうであるように、 I(v+m)=IIcが成り立つ。しかしこのことは、現実の資本主義的生産を表していない。もっとも、現実の資本主義的生産において、10-11年の産業循環のある年の総生産がしばしば前年等のそれよりも小さく、したがって前年等々に相応した単純再生産さえも行われないということがあるのは事実であり、そうしたことを排除するものではないが、しかし資本主義的生産の一般的傾向として考えれば、単純再生産はそれを反映したものとはいえないのである。毎年の人口の自然増大がある場合を考えてみれば、もし単純再生産のもとで、それが可能なのは、ただ1500mの社会の剰余価値の分け前にあずかって一緒に消費する不生産的な僕婢だけがただ増加するというような不自然なことを想定するしかない。だから現実の資本主義的生産は、資本主義的な蓄積の過程としてしかないのであって、それは I(v+m)=IIcという関係とは相いれないのである。
 とはいえ、われわれが【85】パラグラフの注記4)に関連して考察したように、資本主義的蓄積が行われる過程で、以前の一連の生産期間に行われたいくつかの蓄積過程の進行の結果として、IIcが I(v+m)に等しいだけではなく、それよりも大きいという場合が徐々に起こってくるかもしれない。その場合はIIでの過剰生産であって、それはただ大きな崩落によって調整されるしかない。そうすれば資本はIIから I に移動することになるであろう。
 IIの不変資本の一部分がII自身によって再生産されるものである場合、例えばジャガイモ栽培等々の種子のためにジャガイモが再生産される場合にも、 I(v+m)の計算には何の変わりもない。IIのこの部分、つまりII自身によって再生産される不変資本(生産手段)IIcがただ I(v+m)と関連しないだけであり、それは IcがIIとどんな関係ももたないのと同じである。またIIの生産物の一部分がふたたび生産手段として I にはいることができても、これまた少しも事柄を変えるものではない。その場合には、直接に生産資本の諸要素として I にはいることができるものは、 I とIIとの相互の価値の転換を考える場合には、IIから取り除いておかなければならないだけのことである。

 このように書き直してみて、問題になるのは三つ目のパラグラフである。ここではどうやら第II部門、つまり生活手段の生産部門の生産物もその一部は、部門IIの生産手段に入りうる場合があり、さらには第 I 部門、つまり生産手段の生産部門にも生産手段としても入りうる場合があること、そして、そういう場合には I(v+m)とIIcとの関連でどのように考えたらよいのかということが論じられているようだが、しかしその内容を理解することはなかなか困難である。だからこの問題について少し考えてみよう。
 まず後者の問題であるが、これはIIの生産物が I の生産手段としてはいるというのだから、それは明らかに生産手段として生産されたのであり、それはもともと生産手段の生産部門に入るべきものであったろう。とするなら、それはもともとIIから取り除いておくべきものなのである。
 問題なのは、最初のケースである。今、ジャガイモの種芋を作る農業資本を考えてみよう(そういう資本があるかどうかは分からないが)。その農業資本は種芋を専門に生産し、他のジャガイモ農家にそれを生産手段として供給するわけである。しかし他方でその農業資本は生産したジャガイモの一部を個人的な消費に、つまり生活手段としても販売するとしよう。彼は種芋生産農業資本としては、明らかに生産手段の生産部門、すなわち第 I 部門に属する。しかし個人的な生活手段としてジャガイモを供給するかぎりでは、彼は第II部門に属する資本なのである。彼が種芋の生産に彼自身が生産した種芋を生産手段として利用する場合、それは石炭業者が彼の石炭の生産に彼自身の生産物である石炭を燃料として利用するのと基本的には同じ関係である(これは最初のケースにも類似している)。しかしもし彼が生活手段として販売するジャガイモの生産のために、彼自身が生産した種芋を利用するならどうであろうか。これこそ今、マルクスが問題にしているところではないだろうか。彼は生産手段の生産部門(第 I 部門)の資本として生産した種芋を、生活手段の生産部門(第II部門)の資本としての自分自身に供給し、それを生活手段としてのジャガイモの生産の生産手段として利用するわけである。ここには確かに第 I 部門と第II部門との関連はあるが、しかし資本としては同じ資本であり、第 I 部門と第II部門との交換が生ずるわけではない。これは基本的には種芋生産資本として彼自身の生産物である種芋を生産手段として利用するのと同じであり、彼自身の内部での利用でしかない。だからこの部分は I(v+m)とIIcとのあいだでの転換にはなんの関係もないことは明らかであろう。】

【112】

 〈したがって,資本主義的生産では,(v+m) I がc(II)に等しいことはありえないのであり,言い換えれば,相互の転換でこの両者が一致することはありえないのである。(1)

 (1)このパラグラフの左側にはインクで縦線が引かれている。〉

 【よって、現実の資本主義的生産においては、単純再生産というのはありえないのであり、 I(v+m)がIIcに一致するということはありえない。相互転換でこの両者が一致することはありえないのである。】

【113】

 〈これに反して, I (m/x)をm《( I )》のうち I が収入として支出する部分だとすれば,(v+m/x) I はc(II)に等しいことも,それより大きいこと[73]も,小さいこともありうる。しかし,(v+m/x) I はつねに(c+m)IIよりも小さくなければならない。しかも,II)(m)のうちの,どんな場合にも資本家階級IIが自分で食わなければならない部分だけ,より小さくなければならないのである。(1)

 (1)このパラグラフの左側にはインクで縦線が引かれており,その末尾はL字状に右に大きく曲げられている。〉

 【これに反して、 I(m/x)がmのうち I が収入として支出する部分だとすれば、つまり(1-m/x)が蓄積される場合は、 I(v+m/x)、すなわち I の単純再生産の部分は、IIcに等しい場合もあるし、それより大きいこともあるし、小さいこともありうる。しかし I(v+m/x)は常にII(c+m)より小さくなければならない。しかもIImのうち少なくとも資本家階級IIが消費に回す部分だけ差し引いた上で、それよりも小さくなければならないのである。それは例えば I(v+m/x)>IIcの場合を考えてみよう。この場合は、IIcの不足分はIImから差し引いて、追加的な不変資本として蓄積される必要があるが、IImがそれが可能なだけのものでなければならないことを意味している。言いえれば、IIcにIImを加えた量が I(v+m/x)を補填するに十分な量でなければならないということである。しかもIIの資本家階級が消費する分を除いてそうでなければならないということである。
 ついでにいえば、ここで I(v+m/x)は I の単純再生産の部分であり、 I はこの他に I(1-m/x)なる蓄積分がある。このうち何分の一かは追加可変資本に転換される。つまりIIc+IImはこうした I の追加可変資本の蓄積にも対応しうるだけの量でなければならないということである。おまけに上記の単純再生産の部分の転換に対応したIIの蓄積でも、後者の I の追加可変資本の蓄積に対応したIIの追加不変資本の蓄積においても、同時にそれぞれに対応したII自身の追加可変資本の蓄積も必要であり、それもやはりIImから差し引かれる必要があるわけだから、II(c+m)はそれらも含めて十分可能な量でなければならないことになるわけである。】

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コメント

 初めまして 松崎五郎といいます。
 詳細は小生のブログを見てもらえばわかりますが この段落は21章の それゆえ2巻全体の結論部分であります。
 「資本主義的蓄積が行なわれる場合でも,以前の一連の生産期間に行なわれたいくつかの蓄積過程の進行の結果として,c(II)が(v+m)(I)に等しい場合だけでなく,それよりも大きいという場合が徐々に起こってくるかもしれない。これはIIでの過剰生産であって,それはただ大きな崩落によって調整され,その結果として資本はIIから I に移ることになるであろう。」のところは 資本主義が過剰生産恐慌に陥ることを展開しているのだと思います。
 マルクスが一番言いたいことをさらっと読み飛ばしては この間の学習が無駄になるのではないでしょうか。

松崎五郎さん

私のブログをお読み頂きありがとうございます。しかも丁寧なコメントまで頂いて恐縮しております。
不勉強ながらお答え致します。

> 「資本主義的蓄積が行なわれる場合でも,以前の一連の生産期間に行なわれたいくつかの蓄積過程の進行の結果として,c(II)が(v+m)(I)に等しい場合だけでなく,それよりも大きいという場合が徐々に起こってくるかもしれない。これはIIでの過剰生産であって,それはただ大きな崩落によって調整され,その結果として資本はIIから I に移ることになるであろう。」のところは 資本主義が過剰生産恐慌に陥ることを展開しているのだと思います。

ここでマルクスが部門IIにおける過剰生産と恐慌について述べていることは、読めば分かります。しかしこの部分で、「資本主義が過剰生産に陥ることを展開している」とは必ずし言えないと思います。またここでは、それを「展開」するようなところでもないと思っています。
確かにこの部分はこれまで行なってきた再生産表式にもとづく拡大再生産の諸法則の考察を結論的に纏めたあと、現実の蓄積との関連を論じている部分であり、その限りで現実の蓄積においては、部門間の均衡が行なわれる必然性はなく、資本主義的生産においてはそれは一つの偶然事であり、その限りで恐慌の可能性についても言及しているのだと思います。しかしそのこと自体は、これまでにも論じてきたことでもあります(【15】パラグラフなど参照)。
だからこの部分だけを取り出して、「資本主義が過剰生産に陥ることを展開している」などと論じることには違和感が否めません。
過剰生産恐慌の「可能性の現実性への展開」については、やはり資本主義的生産のより具体的な運動形態が論じられる第3部を持つ必要があるように私には思えるのです。

 ご返事ありがとうございます。
 報告の途中で疑問もいくつかあったのですが 最後まで展開されてから(そちらの結論・主旨がはっきりしてから)書こうと思っていたのですが あまりにもあっさりとマルクスの結論部分に触れられていたので(期待も大きかっただけに) ついつい意見を書いてしまったというところです。だから疑問および議論は そちらの報告後にしたいと思います。ただ一点だけ言わせてもらえば(もちろん自分の反省でもありますが) マルクスの文章を読むときは 「何をマルクスは言おうとしているのか」をつかみとることが 第一の課題だと思います。特に 第8稿は「遺書」ででもあります。病弱故に文言上は理路整然としてないかもしれませんが 「これだけは絶対後世に伝えておきたい」というものが書かれているはずです。それを読み取れなかったら 「遺書」を読んだとは言えないのではないでしょうか。だから 第8稿を読んで「未完成だ」と言っている人は マルクスを冒涜しているとしか思われません。宇野しかり、不破しかりです。
 ともあれ 内容上の疑問・討論は そちらの報告終了後と思っています。
            松崎五郎

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