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2009年1月

2009年1月30日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その59)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

【98】

 〈この同じドラモンド,その美しい魂が労働者階級向上のための資本家的な企図に夢中になっている彼は,同じ報告書のなかでなかんずくロウエル・エンド・ローレンス・ミルズの模範綿業工場についてわれわれに物語ってくれる。女工たちの賄いつき宿舎は,工場を所有している会社のものである。その女管理人たちはじっさい「会社お雇いの女執事」なのであって,会社が彼女たちに宿舎規則を授けている。女工が夜の10時よりもおそく宿舎に帰ることのないように,《会社の》専属警吏がおかれている。(410ぺ一ジ,xxx(1))。だが,ここにその逸品を引いておこう。--「特別の警吏が,これらの規則への違反を防ぐために地所を巡回する。〔」〕《規則から》例をとれば,女工は会社の所有地以外のどこかに宿をとってはならない(各戸が約10ドルの家賃を会社に納める)し,また夜の10時以降に出入りすることも許されない。そしていまわれわれは栄光に満たされた「合理的な消費者」を見ることになる。「しかしながら,最良の設備をもつ賄いつき女工宿舎の多くには常置のピアノがあるので,少なくとも10時間の絶え間ない織機労働のあとで実際の休息よりもむしろ単調さから逃れることを必要とする女工たちのあいだでは,音楽や唱歌や舞踊が彼らのかなりの注意を集めている。」(412ぺ一ジ。)しかし,どのようにして労働者を合理的な消費者に仕立てあげるかの大秘密は、これからである。ドラモンドはターナーズ・フォールズ(コネティカット・リヴァーにある)の刃物工場についてわれわれに物語ってくれる。この工場はいまシェフィールドでイギリス人と||68|競争しており,ドラモンド氏はとくにこの点に関心をもっているのである。--「会社の会計課長」のオウクマン氏は,アメリカの刃物(とくに食卓用の刃物類)が品質においてイギリスの刃物[53]にまさっているということをドラモンド氏に語ったのち,次のように続けた。「価格についてもわれわれはイギリスを打ち負かすつもりだ。われわれはすでに今日,品質ではイギリスに先んじている。それは人も認めている。しかし,われわれはもっと価格を下げなければならない。そしてそれは,われわれがもっと安い価格で鋼を手に入れ,われわれの労働をもっと安くした瞬間にできるのだ。われわれは労働をもっと安くしなければならない」!(同上,427ページ。)労賃の引き上げ長い労働時間,これこそ,労働者を「合理的な消費者」の栄位に引き上げて,文化と発明の増大とによって「ふんだんに彼らの手にはいるようになった物のための市場をつくりだす」ための,「合理的で健全な方法」の核心なのである!

 (1)ここに,片バーレンのついたアルファベットないし数字が2つあるが,判読できない。〉

 【さて、次に現物給付制度の実際の例として、同じドラモンドが紹介している、模範綿工場についての報告が引用紹介されている。ドラモンドは〈女工たちの賄い付き宿舎〉で雁字搦めに管理されている女工たちについて、栄光に満たされた「合理的な消費者」を見ることになる〉と持ち上げている。さらにドラモンドは刃物工場を取り上げ、競争に打ち勝つために、すでに品質では先んじているから、あとは価格を下げることだとして、そしてそれは「われわれの労働をもっと安くした瞬間にできるのだ。われわれは労働をもっと安くしなければならない」と本音を吐露している。それを受けてマルクスは〈労賃の引き下げと長い労働時間、これこそ労働者を「合理的な消費者」の栄位に引き上げて、文化と発明の増大とによって、「ふんだんに彼らの手にはいるようになった物のための市場をつくりだす」ための、「合理的で健全な方法」の核心なのである!〉と、ドラモンドの狙いが長時間労働と低賃金を労働者に押しつけることにあることを暴露している。
 なお大谷訳では〈労賃の引き上げと長い労働時間〉となっているが、この部分の原文は〈Herabsetzung des Arbeitslohns〉となっており、ここはやはり〈労賃の引き下げが正しいだろう。
 さて、以上でマルクスの横道は終わる。次は、【95】パラグラフの最後に直接繋げられる形で、蓄積を前提する場合の諸条件の一般的分析の続きが行われている。】

【99】

 〈 I がIIの《追加》不変資本を自分の剰余生産物のなかから供給しなければならないのと同様に,IIはこれと同じ意味で I のための追加可変資本を供給する。可変資本にかんするかぎりでは,IIは,自分の総生産の,したがってまたとくに自分の剰余生産物のより大きな部分を必要消費手段の形態で《再》生産することによって, I のために,また自分自身のために蓄積するのである。〉

 【前パラグラフの解読の最後でも指摘したが、ここからは【95】パラグラフに直接続くものであり、蓄積を前提する場合の諸条件についての一般的な考察に戻っている。
 ここでは I の追加可変資本について、それは直接的には I の追加労働力に転化するのであるが、そうするとその I の追加労働力に追加的な必要消費手段を供給するために、IIは追加不変資本として蓄積する必要があること、だからIIの剰余生産物はすでにそうしたものとして、すなわち必要消費手段として生産されていなければならないこと、IIはそういう意味では、自分自身のためだけでなく I のためにも蓄積することになること、そしてそのことは同時にIIの追加的可変資本そのものもIIの剰余価値が必要生活手段として生産されていなければならないことが指摘されている。
 もちろん、ここで〈IIは...... I のための追加可変資本を供給する〉というような言い方は、厳密にいえば問題がある。IIは I の追加労働者に消費手段を販売はしても、直接 I に追加可変資本の現物形態を売るわけではない。そもそも I の追加可変資本の現物形態というのは、 I の追加労働力がすなわちそれなのである。だからIIが I のために追加可変資本を供給するなどということは本来はありえないのである。しかしこれについては【95】パラグラフで次のように説明されていたことを思い出さなければならない。

 〈資本家 I は,奴隷所有者でもあればしなければならないように,自分が使用する追加労働力のためにIIから必要生活手段を在庫として買ったりためこんでおいたりはしない。IIと取引するのは,労働者自身である。しかしこのことは,資本家の立場から見れば追加労働力の消費手段は彼が《必[48]要な場合に》追加する労働力を生産し維持するための手段でしかなく,したがって彼の可変資本の現物形態でしかないということを,妨げるものではない。資本家自身がさしあたって行なった操作,ここでは I が行なったそれは,追加労働力を買うために必要な新たな貨幣資本を貯えたことだけである。彼がこの追加労働力を取り入れてしまえば,この貨幣はこの労働力にとっての商品IIの購買手段となるのであり,したがって,IIには労働力のための消費手段がみいだせるようになっていなければならないのである。〉

 つまりこの場合、 I の追加労働力は I の追加可変資本の転化形態であり、 だから I の追加労働力が消費する必要生活手段は、 I にとっては彼にとって必要な追加労働力を生産し維持するための手段でしかなく、したがってそれはは彼にとって可変資本の現物形態でしかないというのである。だから〈IIは...... I のための追加可変資本〔の現物形態〕を供給する〉といえるわけである。】

2009年1月27日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その58)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 

【96】

 〈ついでに。資本家殿(と彼の新聞)は,労働力が自分の貨幣を支出する仕方や,労働力がこの貨幣を実現する商品については,しばしば御不満であって,これを機会に彼は哲学を語り,文化を談じ,博愛を説くのであるが,たとえば「合衆国の外国貿易,1878年6月30日にいたる財政年度」についてのドラモンド氏(ワシントン駐在《イギリス》公使館書記官)の報告のなかで,彼は次のように言っている。--『ザ・ネイション』は最近1879年10月に興味ある一文を掲載したが,そこにはとりわけ次のように書かれている。
 「労働者は文化の点で発明の増大についていけないできている。いろいろな物がふんだんに彼らの手にはいるようになったが,彼らはその使い方を知らないし,したがつてまたそれら物のための市場をつくりださない。{資本家はだれでも,労働者に自分の商品を買わせたいと思っている。)(1)労働者が自分と同額のかせぎをする牧師や弁護士や医師と同じだけ多くの楽しみを望んではならないというような理由はなにもない。{じっさい,この種の弁護士や牧師や医師は,「多くの楽しみ」への「欲望」をもてば,これを実証するがままにさせておく(2)にちがいない!}ところが労働者はそれらを望もうとはしない。問題は相変らず,どのようにして労働者を消費者として合理的で健全な方法で向上さるべきか,ということであるが、これはけっして容易な間題ではない。というのは,労働者の野心はせいぜい自分の労働時間の短縮を望むだけであるし扇動家たちも,労働者の精神的道徳的能力の改善によって彼の状態を向上させることよりも,むしろ労働時間の短縮のほうに彼を扇動するからである。」(「駐在諸[50]国の商工業等にかんするイギリス大公使館書記官報告書』,ロンドン,。1879年,404ぺ一ジ。〔)〕(3)

 (1)この「)」は「}」の誤記である。
 (2)「実証するがままにさせておく」--原文は明らかにbewähren lassenとなっている。エンゲルス版ではgewähren lassenとされている。この両語では意味の違いがあるように思われる。マルクスの真意はエンゲルスの読みかたのとおりであったのかもしれないが,ここではbewährenとして読んでおく。
 (3)このパラグラフ以下,ドラモンドにかんする「ついでに」の部分の左側には,インクで(ジグザグ)の縦線が引かれている。〉

 【先のパラグラフでは、資本家 I が彼らの追加労働力を取り入れれば、追加可変貨幣資本として投じられた貨幣はこの労働力にとって商品IIの購買手段となるとの指摘があったが、ここではこれらの労働者の貨幣の支出する仕方や、彼らが購入する商品について、資本家どもは〈ご不満〉であり、これを機会に哲学を語り、文化を論じ、博愛を説く〉のだそうである。つまりその点で資本家どもはアレコレと介入して、そこからさらに労働者から詐取し、しかもそれを正当化する屁理屈やご託宣を並べるのだというわけである。まあそういうことが、以下でマルクスが暴露しようとしているものである。
 このようなマルクスの問題意識は、すでにわれわれが【55】パラグラフで部分的に論究されたことを覚えている。その祭、大谷氏は注記2)でちょうど今われわれが検討している部分をも参照するようにと指示をしていたのである。またマルクスは【57】パラグラフでは、ここで持ち前の「寛容さ」で、シェフレを引用してもよい〉と書きながら、しかし引用は省いていたが、しかしシェフレがどのようにマルクスを批判したかはすでにわれわれは知っている。いずれにしても、マルクスはこうしたこれまで『資本論』で前提してきた賃金が労働力の価値どおりに支払われるということが、現実の資本主義においては如何にさまざまな欺瞞や詐取にとりまかれて歪められたものになっているかについて、一度、キッチリ論じ暴露しておきたいとの気持ちが以前からあったと思えるのである。だから今回、蓄積の一つの条件の根拠を論じたついでに、それに関連して、こうした横道にそれる形で、その問題を論じようとしているわけである。
 しかしわれわれは同時に次のようなことも確認しなければならない。つまりこの数パラグラフで論じていることは、確かにわれわれがすでに検討した【55】パラグラフ以下で論していることと同じような問題をマルクスは論じているのであるが、しかしマルクス自身の問題意識はまったく異なるということである。すなわち【55】パラグラフでは、「IIにおける貨幣源泉がどこから湧き出るか」という問題意識から、名目上は正常な労賃を支払いながら、事実上は同じ労働者からその一部分を相応の等価なしにくすねて再び取り返す〉ということから、つまり部門IIの〈貨幣源泉〉の一つの可能性として取り上げたのであった。しかし今回は、部門 I の追加可変資本は部門IIの追加不変資本と転換されるのだが、しかしそれは直接的ではなく、部門 I の追加労働者の取引を介してであるというところから、そうした労働者を介在する過程で、如何に資本家たちは労働者から追加的に搾取しようとするかを暴露するという問題意識から取り上げているのである。その意味では、【50】パラグラフから始まっている項目b)で取り上げている〈一つの新しい問題〉、すなわち部門IIにおける蓄積のための〈貨幣源泉はIIのどこで湧き出るのか?〉という問題の追究は【61】パラグラフの最後の一文、すなわち〈云々、云々。〉という形で、つまり後の敍述を省略する形でではあるが、一つまず終わっているのである。
 なぜこうしたことをわざわざ確認する必要があるかというと、伊藤武氏のように、マルクスは第8草稿の最後まで(つまりエンゲルスが編集で「補遺」とした部分まで)、部門IIにおける貨幣源泉を捜し続けているのだというような馬鹿げた解釈をしている人もいるからである(そしてこうした解釈をしている学者は他にも結構あるようだからである)。

 さて、このパラグラフでは、ワシントン駐在のイギリス公使館書記官のドラモンドが『ザ・ネイション』に掲載した報告のなかから引用文が紹介されている。
 その内容は、労働者の消費が最低限のギリギリに制限され、牧師や弁護士や医師のような多くの楽しみを望まないのは、それは彼らの賃金が低いからではなく、彼らが文化の点で発明の増大についていけないからであり、彼らはいろいろな物の使い方を知らないからだ。だから労働者の精神的道徳的能力を高めて、労働者を消費者として合理的で健全な方法で向上させるべきだ。だがこれは容易ではない。というのは、労働者は、そして彼らの煽動家たちも、せいぜい労働者の労働時間の短縮を望み煽動するだけだからだ、というふざけた内容である。つまりドラモンドは労働者の長時間労働や低賃金については何も問題にせずに、むしろそれを容認し、あるいは容認するために、ただその労働者の精神的道徳的能力の改善を説教して問題をはぐらかしているだけなのである。そしてそれに対するマルクスの皮肉に満ちた批判は次のパラグラフでなされている。】

【97】

 〈長い労働時間は,「労働者の精神的道徳的能力の改善によって彼の状態を向上させ」て彼を「合理的な消費者」にするはずの「合理的で健全な方法」の秘密らしい。資本家の商品の「合理的な消費者」になるためには,労働者はなによりもまず--といっても扇動家!がそれを妨げるのだが--自分《自身》の労働力を「非合理的」に反健康的に自分自身の資本家に「消費〔」〕させることから始めなければならないのだ。資本家の言う「合理的な消費」がなんであるかがわかるのは,彼が直接に自分の労働者たちの消費取引に手を出すほどあつかましい場合,つまり現物支給制度の場合である。(労働者への住宅供給,したがって彼の資本家が家主(landlord)でもあるというのも,現物支給制度の多くの分野のなかの一つである。)〉

 【マルクスの批判はこうである。ドラモンドが〈「労働者の精神的道徳的能力の改善によって彼の状態を向上させ」て彼を「合理的な消費者」にするはずの「合理的で健全な方法」〉を云々する本当の理由、隠された〈秘密〉は、ただ労働者の長時間労働を容認し、労働時間の短縮を訴える労働者からその闘いの矛先をそらさせて、資本家の利害を擁護するためである。つまりドラモンドがいう労働者が「合理的な消費者」になるためには、まずは資本家の長時間の「非合理的」〈反健康的〉な搾取に甘んじること、つまりそうした資本家による労働力の思うままの「消費」を容認することだ、これがドラモンドが言いたいことだ、と暴露している。そしてさらに資本家の言う「合理的な消費」がどういうものであるかは、彼が直接に自分の労働者たちの消費取り引きに手を出すほどあつかましい場合、つまり「現物支給制度の場合」がもっともよくその正体を示しているとして、次のパラグラフに続いている。現代で言う「社宅」制度もそうした現物支給制度の一つだとの指摘もある。】

2009年1月22日 (木)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その57)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

【95】

 〈蓄積を前提すれば,v+m( I )はcIIよりも大きいのであって,単純再生産でのようにcIIに等しいのではないということは,自明である。というのは,1) I はその剰余価値の一部分をそれ自身の生産資本に合体させ,それを不変資本に転化させるのであり,したがって,同時に消費手段IIによって補填されることはできないからである。||67|(1)2) I は自分の剰余生産物から,IIのなかでの蓄積に必要な不変資本を供給しなければならないのであって,それはまったく,IIが1に, I の剰余生産物のうち I 自身が追加資本(不変資本)として取得する部分のために,必要追加可変資本を供給しなければならないのと同様だからである。言うまでもなく,現実の《追加》可変資本は追加労働力から成っている。たとえばいまの場合,資本家 I は,奴隷所有者でもあればしなければならないように,自分が使用する追加労働力のためにIIから必要生活手段を在庫として買ったりためこんでおいたりはしない。IIと取引するのは,労働者自身である。しかしこのことは,資本家の立場から見れば追加労働力の消費手段は彼が《必[48]要な場合に》追加する労働力を生産し維持するための手段でしかなく,したがって彼の可変資本の現物形態でしかないということを,妨げるものではない。資本家自身がさしあたって行なった操作,ここでは I が行なったそれは,追加労働力を買うために必要な新たな貨幣資本を貯えたことだけである。彼がこの追加労働力を取り入れてしまえば,この貨幣はこの労働力にとっての商品IIの購買手段となるのであり,したがって,IIには労働力のための消費手段がみいだせるようになっていなければならないのである。

 (1)ぺ一ジづけを誤ったのであろう。草稿66ぺ一ジは存在しない。〉

 【このパラグラフからは明らかにマルクスは、そもそも蓄積を前提する諸条件という、より一般的なものの考察に移っている。このパラグラフ全体は大きく分けると四つの部分からなっている。最初は蓄積を前提する条件について述べている部分、その次はその理由を述べている部分で、1)、2)と分けて論じている部分である。ここでは蓄積の前提条件の二つの理由が述べられている。そして四つ目は〈言うまでもなく、現実の……〉と始まっている部分から最後までの部分であるが、ここでは2)の理由に関連して、この場合は労働力が媒介するが、しかし資本間の対応関係としてはそういえるのだ、との説明がされているように思える。こうした見通しのもとに、より詳しく見ていくことにしよう。

 まずマルクスは蓄積を前提すれば、 I(v+m)はIIcより大きくなければならないと指摘する。これは蓄積の条件として I(v+m)>IIcとよく表されるものである。そしてその理由として、二つ上げているが、それは次のようなものである。  まずマルクスが1)として最初に上げている理由は、I はその剰余価値の一部分をそれ自身の生産資本に合体させ,それを不変資本に転化させるのであり,したがって,同時に消費手段IIによって補填されることはできないからである〉というものである。われわれがこれまで検討してきたa)式(【91】参照)を例に考えると、部門 I の剰余価値1000mのうち半分500mを蓄積に回すのだが、これは当然すべて現物としては生産手段からなっている。しかしそのうちの追加不変資本として蓄積される部分については、部門 I によって再び利用されるわけである。だからそれをIIに販売して、IIcの現物補填として利用することはできない、というのがまずその理由である。つまり少なくともIIcは I が蓄積する追加不変資本部分だけ単純再生産の条件である I (v+m)=IIcの場合のIIcより少なくなければならない、つまりa)式では I(v+m)は I( 1000v+1000m)だから2000c(II)よりそれだけ少くなければならないというわけである。今、具体的にa)式で考えてみると、500m( I )の蓄積が I の有機的構成の比率5:1どおりに行われると仮定すると、追加不変資本は416[2/3]=約416.67となり、その大きさだけIIcは小くなければならないということになる。だからIIcは2000-416[2/3]=1583[1/3]以下でなければならないことになるわけである。  次に2)として上げられている理由は〈 I は自分の剰余生産物から,IIのなかでの蓄積に必要な不変資本を供給しなければならないのであって,それはまったく,IIが1に, I の剰余生産物のうち I 自身が追加資本(不変資本)として取得する部分のために,必要追加可変資本を供給しなければならないのと同様だからである〉というものである。これはIIの蓄積に必要な追加不変資本というのは、 I の追加可変資本と一致する必要があるということである。つまりこれは I の追加可変資本がIIcに新たに不変資本として追加される部分と一致する必要があるということであり、その部分だけIIcはさらに小さくなければならないということである。われわれが具体的に検討しているa)式では、その追加可変資本の蓄積分は500-416[2/3]=83[1/3]である。つまりそれを先の1583[1/3]から差し引くと1500が残る。要するに I (1000v+500m)=1500c(II)の関係、一般式にすると、もし I の蓄積率を50%と仮定するなら、I(v+1/2m)=IIc関係を満たす値よりIIcは小さくなければならないということである。すなわち、I(v+1/2m)≧IIc。つまりIIcは I の蓄積において、単純再生産の部分を補填するに必要なIIcより大きな値にはなってはならないということでもある。これは結局は、次のことに帰着する。すなわち I の蓄積分500mを差し引いた資本家の消費分500m+可変資本1000mがIIcより大きな値になっている必要があるということである。例えば a)式で I の蓄積率が60%だと仮定すれば、1000m( I )のうち600mが蓄積されるが、残りの400m+1000v=1400よりもIIcは小さくなければならないということである。なぜなら、 I の蓄積分600mのうち500mは追加不変資本に、100mは追加可変資本に用いられるのだから、上記のマルクスの条件からすれば、IIcは2000から500と100を差し引いたものより小さなければならないことになり、それは1400以下ということだからである。  ついでに指摘しておくと、IIcの値だけでなく、 I の蓄積に応じてIIにおいても蓄積がなされる必要があるということは、IIの剰余価値の値そのものが、 I の蓄積に応じてIIにおいて蓄積が可能な値以上でなければならないということでもある。つまり I の蓄積は I における剰余価値の大きさに規定されている(剰余価値より大きな蓄積はできない)だけでなく、IIにおける蓄積の条件、すなわちIIの剰余価値の量にも規制されているということである。  さて、パラグラフの最後の四つ目の部分は、上の2)に直接関連して言及されたものである。それは部門 I の追加可変資本は部門IIの追加不変資本によって補填されねばならないということであった。しかしこうした補填関係は両部門の諸資本間の直接的な関係てはない。というのは、現実の《追加》可変資本は追加労働力から成っている〉からである。その限りでは資本家 I は資本家IIからは直接には何も購入しないわけである。すなわち〈資本家 I は,奴隷所有者でもあればしなければならないように,自分が使用する追加労働力のためにIIから必要生活手段を在庫として買ったりためこんでおいたりはしないのである。IIと取引するのは、 I に追加的に雇用された労働者である。しかし資本家の立場からみると、労働力も一つの特殊な生産手段に過ぎず、だから労働者が消費する生活手段は、その資本家の特殊な生産手段を維持するに必要な手段でしかない。それは機械を維持するのに潤滑油が必要なのと基本的には同じなのである。あるいは農業資本にとっては役畜は一つの生産手段であるが、役畜の維持に必要な飼料はその生産手段を維持するに必要な生産手段の一つに過ぎないのと同じなのである。だから労働者が手にする生活手段は資本家にとっては可変資本の一つの現物形態でしかないとマルクスは指摘している。  ただマルクスは資本家 I がさしあたり行ったのは、追加労働力を買い入れるあらたな貨幣資本を貯えたに過ぎないとも述べている。つまりそれを貨幣形態で保持しているわけである(これはこれまでの表式でも常にマルクスはそのように表示していた)。そして次のように述べている。彼がこの追加労働力を取り入れてしまえば,この貨幣はこの労働力にとっての商品IIの購買手段となるのであり,したがって,IIには労働力のための消費手段がみいだせるようになっていなければならないのである。つまり資本家 I は直接には追加労働力を購入するだけで、資本家IIと取引するわけではないが、しかし資本家 I が追加労働力を購入するためには、資本家IIにそれに必要な追加的な消費手段が見いだせるようになっていなければならない、つまり資本家IIがそれだけの追加不変資本の蓄積をするような条件になければならないというわけである。  このようにこのパラグラフでは、マルクスは蓄積を前提した場合の一般的な条件を分析している。こうした分析は、さらに【99】パラグラフ以降も続くが、その間に、マルクスは上記の労働力が資本家 I と資本家IIとの間に介在するという現実から、それに関連して少し横道にそれる。それが以下数パラグラフの内容である。】

2009年1月20日 (火)

いわゆる「注釈32問題」について--市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと(その3)

 

いわゆる「注釈32問題」について

-市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと

(その3)

 

 鍵括弧で括られた部分の解読

 そしてマルクスは鍵カッコをつけて、そのあと「ここで次のことを指摘しておかなければならない」と前書きして、以下、論じることになる。だからこの鍵カッコでは当然、資本主義社会における攪乱に関連した問題であると予測できる。しかしとりあえず、マルクスの文章にそって、その内容を次に見て行くことにしよう。

 この鍵カッコの部分の文章には、その間にさらにマルカッコを入れたりして、さまざまな挿入文がある。それらをすべてカットすると、次のような一文の続きが見える。

 《鉄道のようなそうした大規模な企業は一定分量の力を労働市場から引き上げるのであるが、この力は強壮な男が充用される農業などのような特定の部門からのみ出てきうる。潜在的な労働者の一部分または公然とした予備軍が吸収される。労働市場の、これまで雇用事情のよかった諸部分でさえ影響を受ける。それゆえ賃金の騰貴。だから今や、騰貴の最低限と可変資本の大量、つまり総賃金大量を、全労働者階級が受け取る。資本主義的生産様式における矛盾。商品の買い手としての労働者は市場にとって重要である。彼らの商品の売り手としては、それを最低限に制限する傾向。さらに次の矛盾。資本主義的生産がそのすべての力能を発揮する諸時期は過剰生産の時期であることが明らかとなる。なぜなら、生産の諸力能は、それによって剰余価値が生産されうるだけでなく実現もされうるかぎりにおいて充用されうることができるだけであるが、商品資本の実現(商品の販売)は、だからまた剰余価値の実現もまた、社会の消費欲求によってではなく、その大多数の成員がつねに貧乏でありまたつねに貧乏のままであらざるをえないような社会の消費欲求によって限界を画され制限されている等々だからである。けれども、ここでの話のいっさいが次の篇ではじめて問題になることである。》さらに次の矛盾」以下は、マルクスの筆跡の判読が難しいこともあり、nieと読むかnurと読むかによって、訳文が違ってくる。だからその判読そのものも大きな論争点になっている。エンゲルスはnieと判読し、市原氏も同じ理解である。しかし、ここではその論争そのものは取り上げずに、大谷氏の訳--nurと読む場合--を仮に挿入してみることにする)。

 このようにマルクス自身が入れた挿入文をすべてとりあえず捨象してみると、これは一連の文章であることが分かる。その後半部分だけをエンゲルスは切り離して注にしたのであるが、まず確認できるのはこうしたエンゲルスの措置は適切とは言えないということである。  この一連の文章で、マルクスが問題にしているのは、鉄道建設のような大規模な企業は労働力を労働市場から吸収し、労働市場を圧迫させて、賃金を全体として騰貴させるが、そのこと自体、資本主義的生産の矛盾であると述べているように思える。というのはこれは第三巻で明らかになるが、労賃の騰貴は絶対的な過剰生産を引き寄せるからであり、資本主義的生産の矛盾を極度に高めるからである。それは直接、資本の利潤率の突然の低下をもたらし、崩落を招く。  だからマルクスはこうしたことを頭に入れながら、資本主義的生産の矛盾の二つの契機を指摘している。この二つは相互に関連している。

 (1)まず最初は「商品の買い手としての労働者は市場にとって重要である。彼らの商品の売り手としては、それを最低限に制限する傾向」というものである。  この矛盾は、その直前で言っていることと当然関連している。つまりマルクスは鉄道などの大規模な投資が行われると労働力が生産に吸収され、「それゆえ賃金の騰貴。だから今や、騰貴の最低限と可変資本の大量、つまり総賃金大量を、全労働者階級が受け取る」と述べている。つまり全労働者階級は最大の賃金大量を受け取るのだが、まさにそのときこそが資本主義的生産様式の矛盾は暴露されるのだ、というのがマルクスが言いたいことなのである。総賃金大量を受け取った全労働者階級は、彼らに商品を売りつける資本にとっては重要だが、しかし資本にとっては労働者の賃金を最低限にとどめておくことは死活的な条件である。その最低限が騰貴するということは、すなわち資本がその生産の死活的な条件を失うことを意味するからである。(なおこれに関連して、マルクスはエンゲルスが注にした部分の直前で、「それゆえ賃金の騰貴。だから今や、騰貴の最低限と可変資本の大量、つまり総賃金大量を、全労働者階級が受け取る」と述べている。この部分の訳も大谷氏の訳とは若干の相違があるが、この市原氏の訳の方が分かりやすいような気がする。ここでマルクスが「騰貴の最低限」と述べている意味が今一つよく分からなかった。富塚氏は「最低限」は「最高限」の誤植ではないかと述べているが、しかしこれは「最低限」でいいと思う。「騰貴の最低限」というのは、「騰貴した最低限」の意味、つまり「最低限の騰貴」「最低限が騰貴してしまう」という意味と考えて良いと思う。つまり資本は賃金を常に最低限にする傾向があり、またそれが資本にとって死活的な条件なのだが、その最低限が騰貴してしまうわけである。マルクスの言いたいのはそういうことではないかと思う)。  (2)だからマルクスは、次の矛盾として、「資本主義的生産がそのすべての力能を発揮する諸時期は過剰生産の時期であることが明らかとなる」と続けていると考えられる。過剰生産とは、それ以上の拡張を行っても、利潤率がこれまでどおりかあるいはそれ以下しか得られないことを意味するからである。「可変資本の大量」が資本の利潤率を押し下げること、これこそ絶対的過剰生産以外の何ものでもない。

 「なぜなら、生産の諸力能は、それによって剰余価値が生産されうるだけでなく実現もされうるかぎりにおいて充用されうることができるだけであるが、商品資本の実現(商品の販売)は、だからまた剰余価値の実現もまた、社会の消費欲求によってではなく、その大多数の成員がつねに貧乏でありまたつねに貧乏のままであらざるをえないような社会の消費欲求によって限界を画され制限されている等々だからである。」

 この一文は明らかに過剰生産の時期であることの理由を述べていることは明らかである。しかしこれは絶対的過剰生産に資本が陥り、それが生産をストップさせてしまう理由として、マルクスは述べていると考えるべきであろう。すなわち次のように.……

 なぜなら、資本が生産を行うことが出来るのは、それによって剰余価値が生産されるだけでなく、それが実現できるかぎりにおいてだからである。だから剰余価値が生産されても、それが"正常な"利潤を得る価格で実現しないなら、生産はストップするし、だからこそそれは過剰生産の"過剰"なる意味なのである。そして商品資本の実現、つまり商品の販売は、社会の絶対的な消費欲求によって規定されているのではなくて、社会の大多数の成員が貧乏のままであらざるをえないような消費欲求によって規定されているのだから、剰余価値の実現はたちまち限界を露呈せざるを得ないのである。しかし資本主義的生産が個人的消費と如何に絡み合っているか、あるいは資本主義的生産の力能が剰余価値の生産とその実現とに如何に制約されているかということは第三篇(再生産過程の実体的諸条件の考察)で明らかになることである。    もう一つ自分自身で完全に了解したというわけではないが、一応の回答としておこう。

 結局、マルクスはかぎカッコで括った部分で何を書き留めておきたかったのか、なぜ、それをかぎカッコで括って書いておく必要があると思ったのかを考えてみるに、その直前で、マルクスは回転期間の長い資本の場合、再生産過程に攪乱が生じざるをえないことを考察してきた。特に労働力に対する強い需要が生じて、賃金の騰貴によって、可変資本部分が膨れ上がることを見てきたのである。それでマルクスはこの労働力を強力に引きつける回転期間の長い大規模な生産ということに関連して、第三部で論じる予定の絶対的過剰生産にこれは関連していることを想定して、かぎカッコでそれに関するメモ書きをしたと言えるだろう(またもう一つ考えられる理由としては、この問題が「恐慌」に関連するものだからといえるかも知れない。市原氏によれば、マルクスは第二部の諸草稿では「恐慌」に関連した部分をすべて鍵括弧で括っているとのことだからである)。  だからマルクスがかぎカッコで述べていることは、主に、鉄道建設のような大規規模な投資が行われると、労働力に対する需要が高まり、それが他の部門にも影響して、全体として労賃が騰貴し、可変資本部分が膨らんで、資本が行き詰まるという事態なのである。  だからマルクスにとっては、決して不破氏や富塚氏などがいうような「生産と消費の矛盾」といったことに主眼があるのではないことが分かる。マルクスにとってかぎカッコのなかで論じたかったのは、生産規模の大きなものは、全体として労賃を引き上げるという事実に関連して、絶対的過剰生産への示唆をここで与えることだったのである。そしてその意味では、久留間鮫造氏がエンゲルスが注釈にしたところでマルクスが問題にしているのは第3部第3篇第15章に関連すると考えたのは正しかったのである。ただ、久留間氏は、だからマルクスが《次の篇》と述べているのは、第3部を指すのだと考えたのだが、それは正しくなっかたわけである。というのは、すでに考察してきたことから分かるように、マルクスが《次の篇》と書いているのは、そうした絶対的過剰生産を論じるためにも必要不可欠な前提として、資本の蓄積が生産される剰余価値とどのように関連しているのか、また労働力や彼らの個人的消費が再生産過程において現実にどのように関連し合っているのかを考察する必要があるが、それらは《次の篇》、すなわち第2部第3篇で行なう予定だということだったからである。  われわれはこの部分が第II稿で書かれたことに留意する必要がある。つまりマルクスはすでに第3部の主要草稿を書き上げているのである。つまり第3部で絶対的過剰生産についてすでに論じた上で、それを踏まえて、この草稿を書いているということである。  そこでは資本は利潤率の傾向的低下を利潤量の絶対的拡大によって補おうとして蓄積衝動に駆り立てられ、他方で、諸資本の集中と集積が加速されることが論じられていた。つまり生産規模はますます大規模になっていくのである。そうした大規模な資本投資が、それだけ回転期間も長くなり、よって労働力に対する強い需要が生じること、そしてそれが労賃の一般的騰貴をもたらし、可変資本大量を招くこと、そうすれば利潤率の突然の低落、すなわち絶対的過剰生産に陥るわけである。  だからマルクスはそれについてかぎカッコで論じておく必要を感じたのであろう。またマルクスにとっては第三部で述べたそうした絶対的過剰生産は、まだ再生産過程を踏まえたものではなかったのだが、しかし、資本の生産が剰余価値の生産やその実現とに如何に制約し合っているか、また個人的消費とも深く内的に関連しているかは、まさに社会的な総再生産過程の考察を行う第2部第3篇の課題であることを指摘して、このメモ書きを終えていると考えるべきであろう。

いわゆる「注釈32問題」について--市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと(その2)

 

いわゆる「注釈32問題」について

-市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと

(その2)

(以下は、(その1)の「鍵括弧に括る前の部分でマルクスは何を論じているか」の続きである。)

 

 そしていよいよ問題の「第二に」である。われわれはここからは市原氏の訳した草稿にもとづいて考察するが、これまでの連続性を考えて、草稿では I 、IIとなっているものを、現行版と同じA、Bで考えることにする。

 まずマルクスは第二の区別は、第一の区別と関連しているとする。(ここには「労働者は……彼の手のなかで流通手段に転化した貨幣資本で支払い」というやや概念的にあいまいな表現がある--というのは、労働者の手のなかにあるのは「流通手段に転化した貨幣資本」ではなく、彼の労働力の価値が転化したものだから--がこれはまあ置いておこう)。まずマルクスはBの場合の考察を行っている。つまり回転期間が1年間と長い場合である。この場合は、AもBも労働者は貨幣を支出して、生活手段を購入するが、Bの場合はその一年間に彼が市場に投じた価値生産物の貨幣形態ではないことに注目している。それに対してAの場合は、それを供給するのだと。これ自体は第一の区別と基本的には変わらない。ただ問題は第一の区別では、貨幣形態に注目していたが、今回は生産物に注目している。  だからBの場合、そこで働く労働力のための生活手段や、Bで充用される労働手段(固定資本)や生産材料などが引き上げられ、その代わりに貨幣で等価が市場に投げ入れられる。しかしその一年間には、市場から引き上げた生産資本の実在的要素を補填するためのどんな生産物も市場に投げ込まない。

 これは、共産主義社会を考えるなら、社会は一年かそれ以上長期間にわたって生産手段も生活手段もその他のどんな有用効果も供給しないのに年間生産物のなかから労働や生産手段や生活手段を引き上げる事業部門(たとえは鉄道建設)に、どれだけの労働や生産手段や生活手段を振り向けることができるかを、前もって計算しなければならないということである。  ここで共産主義社会においては問題が如何に捉えられねばならないかという考察が突然挿入されるが、これはどうしてであろうか? それは問題が生産物であり、それに支出された労働ということだから、それ自体は資本主義的生産に固有の問題ではないからである。だからマルクスは、それがよりはっきり理解できるケースとして、共産主義社会でも、そうしたことは考慮に入れられなければならない問題であることとして、ここでは指摘しているのであろう。もちろん、このこと自体は別に共産主義社会だけではなく、あらゆる社会にも通ずる問題であることはいうまでもない(先資本主義時代において、しばしば專制国家によって行われた大規模土木工事などはそれに該当するであろう)。  さらに、共産主義社会との対比は、そうした問題が、資本主義社会では、絶えず大きな攪乱をもたらす要因になるということがより鮮明に理解できるからでもある。つまりこの共産主義との対比は、そのあとに考察される、こうした回転期間の長い資本投資が資本主義社会では常に社会的な攪乱要因になることを際立たせるためでもあるのであろう。

 そして以下は、その攪乱の内容が論じられている。

 (1)まず貨幣市場が圧迫される。第一の区別で確認されたように、回転期間が長いと、大きな前貸貨幣資本が必要になり、だからまず大きな貨幣資本への需要が高まり、貨幣市場が圧迫されるわけである。  (2)次は生産資本への圧迫である(マルクスはすぐに丸カッコに入れて、労働市場についても論じているが、これは別途考えるべきであろう)。社会の生産資本がつねに市場から引き上げられ、それと引換えに貨幣だけが市場に投げ込まれるから、支払能力ある需要が増大する。しかもそれ自身何の供給も作り出さない。  (3)労働市場でも相対的圧迫が生じる。大量の潜在的過剰人口が、すでに就業している部分さえも、新たな事業部門に引き寄せる。  (4)よって、生活諸手段の価格も生産材料の価格も騰貴する。(そのうえこのような時期には思惑が行われ資本の大移動が起こる。ボロ儲けする連中もでてきて、彼らの浪費がまた強力な消費需要となり市場に影響を及ぼす)。  (5)食料品の高騰は、農業生産への刺激になるが、即座の増産が不可能なために輸入が増え、それが過剰輸入に繋がる。  (6)製造業や鉱山業など生産が急速に増加されうる産業部門では、諸価格の騰貴が突然の拡張を引き起し、そのあと崩壊する。

 以上が、マルクスが鍵カッコで括る前までに述べていることである。つまり第二の区別として論じている内容は、基本的には第一の区別が貨幣資本(貨幣)の前貸量に回転期間の長短が及ぼす影響だったのに対して、第二の区別というのは、生産される生産物に注目し、回転期間が短いと、自分自身の生産物で生産を繰り返すことができるが、回転期間が長いと一定期間、社会から生産物をただ吸い上げるだけになり、それに見合う生産物も有用効果も何も与えないことになり、それは社会の再生産というもっと基礎的な自然法則にとっても重要な意味をもつこと、だから共産主義社会でも、社会はそうした部門へどれだけの労働や生産物を一方的に支出することが可能かを前もって計算しておく必要があるのだが、資本主義社会では、そうしたことは前もってするわけではないから、それは常に社会の攪乱要因になることが指摘されているのである。そしてその攪乱が回転期間の長いことによって、どのような要因のもとに生じるかをいくつかの観点から指摘している。

いわゆる「注釈32問題」について--市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと(その1)

 

いわゆる「注釈32問題」について

-市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと

(その1)

 市原健志氏は「『資本論』に関する若干の新事実について--草稿を調査して--」(『商学論纂』28-5・6/1987/3)という論考で、エンゲルスによって「注釈32」(これは『資本論』現行版の第2部「資本の流通過程」第17章「可変資本の回転」第3節「社会的に見た可変資本の回転」にある注釈である。全集版387頁参照)とされた部分(これはマルクスが鍵カッコで括っている最後の部分に該当する)のあたりの草稿を調査し、マルクスが鍵カッコで括った少し前のあたりから、エンゲルスの編集の手が多く加わっていることを指摘し、その部分の草稿を翻訳されている。その論考を検討して気付いた点を書いておくことにする。

 いうまでもなく、この注釈32の解釈については、故久留間鮫造氏と富塚良三氏との論争、またそれを引き継いだ形で、大谷禎之介氏と富塚氏との論争が長く行なわれてきた。その争点のうちの一部は草稿の調査が進むなかで、解決されたともいえるが、しかし、マルクスの草稿の筆跡の判読が困難なこともあって、エンゲルスが注釈とした部分の一字をnieと読むか、nurと読むべきかという論争として、新たな論点も生じ、今日においても依然として続いており(しかもこの論争に大村泉氏らいわゆる「仙台グループ」の一部も参戦して)、いまだ決着がついていないともいえる問題である。だからここで披露する私見も、とりあえずのものと理解願いたい。

 鍵括弧に括る前の部分でマルクスは何を論じているか

 われわれは、市原氏の翻訳にもとづいて、マルクスが鍵括弧で括る前の部分で、何を論じてきたのかを読み解くことから始めよう。こうした場合、私がいつもやっているように、マルクスの文章を自分なりに解釈したものを、平易に書き直すという形で、やって行きたい。

 マルクスのこの部分は現行版でもかなり長い一つのパラグラフになっている。このパラグラフは「第二に」という文言から始まっているように、マルクスは直前で「第一に」として、小さい三つのパラグラフの中で述べていることに対応している。

 ではその「第一に」として述べていることは、どういうことであろうか。

 マルクスは今回の部分でもそうだが、A、B(草稿では I 、II)なる二つの資本を例にあげて論じている。この二つの資本を例にあげて考察するのは、実は今回の問題のパラグラフが入っている「第16章 可変資本の回転」「第3節 社会的に見た可変資本の回転」だけではなくて、「第1節 剰余価値の年率」の途中から始まっているのである。マルクスがA、B二つの資本をどのように仮定しているかをマルクス自身の文章で(しかしわれわれは現行版しか検討できないので、現行版によってであるが)確認しておこう。それは以下の文章である。

 《500ポンドの可変資本が一年に10回転し、一年のうちに5000ポンドの剰余価値を生産し、したがってそれにとって剰余価値の年率は1000%であるとして、この資本を資本Aと呼ぶことにしよう。  もう一つの5000ポンドの可変資本Bは、まる一年間(すなわちここでは50週間)にわたって前貸しされ、したがって一年にただ一回だけ回転すると仮定しよう。さらに、一年の終わりには生産物がその完成と同じ日に代価を支払われ、したがって、生産物が転化した貨幣資本がその同じ日に還流するとしよう。そうすれば、この場合には流通期間はゼロであり、回転期間は労働期間に等しく、すなわち一年である。前の場合と同じに、労働過程には毎週100ポンドの可変資本があり、したがって50週間では5000ポンドの可変資本がそこにある。また、[363]剰余価値率は前と同じで100%、すなわち労働日の長さは同じでその半分が剰余労働から成っているとしよう。五週問をとって見れば、投下された可変資本は500ポンド、剰余価値率は100%、したがって五週間に生産される剰余価値量は500ポンドである。この場合に搾取される労働力の量も労働力の搾取度も、ここでの前提によれば、資本Aの場合と正確に同じである。  100ポンドの投下可変資本が毎週100ポンドの剰余価値を生み、したがって50週間では50×100=5000ポンドの投下資本が5000ポンドの剰余価値を生む。一年問に生産される剰余価値の量は前の場合と同じで5000ポンドであるが、剰余価値の年率はまったく違っている。それは、一年間に生産された剰余価値を前貸可変資本で割ったものに等しく、5000m/500vであるが、前に資本Aの場合にはそれは1000%だったのである。  資本Aの場合にも資本Bの場合にも、われわれは毎週1OOポンドの可変資本を支出してきた。価値増殖度または剰余価値率もやはり同じで100%である。可変資本の大きさも同じで、100ポンドである。同じ量の労働力が搾取され、搾取の大きさも程度もどちらの場合にも同じであり、労働日の長さは同じで、それが必要労働と剰余労働とに等分されている。一年間に充用される可変資本総額は同じ大きさで5000ポンドであり、同じ量の労働を動かして、同額の二つの資本によって動かされる労働力から同じ量の剰余価値5000ポンドを引き出す。それにもかかわらず、AとBとの剰余価値の年率には900%の差があるのである。(363-4頁)

 さて、マルクスは第三節の冒頭、しばらく問題を社会的な立場から見ることにしよう」と書いている。そしてマルクスは、まず、次の三つのことを確認している。

 (1)AでもBでも、そこで雇用される労働者数は同じであり、また彼らが年間に支出する労働量も同じであること、つまり社会的には、それだけの労働力はAとBによって差し押さえられており、したがって社会はそれを他のことに支出することはできない。  (2)AでもBでも労働者が年間に受け取る賃金の量は同じであり、だから彼らが社会から生活手段を引き上げる量も同じである。  (3)AでもBでも、労働者たちは毎週支払いを受け、だから彼らは毎週同じだけの生活手段を引き上げるのであり、そのかわりに毎週同じだけの貨幣等価を流通に投げ入れる。

 ここでマルクスが確認している三つの事実は、何を言いたいのであろうか。

 (1)AとBという二つの資本が労働力を購入し、そこから引き出す労働や、また彼らに支払う賃金も同じなのに、Aはそれを500ポンドという資本で行い、Bはその10倍の5000ポンドという資本で行う。彼らは社会の労働力を一定の部署に固定し、拘束する"権利"をそれによって得ているわけだが、しかしそのために必要な資本量は大きく異なるわけである。  (2)また彼らが雇用する労働者が消費する生活手段の量もまったく同じなのに、しかし社会的には、けっして同じではないこと、なぜなら、Aがもし生活手段を生産する資本なら、Aは一年間に彼が雇用する労働者が消費する生活手段を生み出し、それを消費させることができるのに、Bはたとえ同じ生活手段生産部門の資本であっても、自分の雇用する労働者が消費する生活手段を社会に与えることは少なくともその一年間の間にはできない。  (3)さらに彼らが雇用する労働者が流通に投じる貨幣量も同じなのに、しかし実際にはそれに使われる貨幣量は大きく違っている。つまりAは500ポンドなのにBは5000ポンドである。Aはその500ポンドを繰り返し使い、Bはたった一回しか使えないからである。

 こうした違いは、もちろんAとBとの資本の具体的な生産過程と生産物の諸条件から出てくるのだが(流通期間はゼロとする)、しかし両者は資本の運動や効率という点でも、また社会に与える影響という点でも大きく違っている。そうした違いが社会的にはどういう意味を持ってくるのか、それをマルクスは検討しようとしているかに思われる。

 さで、マルクスは以上の三つのことを確認したあと、「しかし、ここから区別がはじまる」として「第一に」と続けている。だからこの「第一に」「第二に」「第三に」とマルクスが考察しているのは、AとBとの社会的に見た「区別」であることが分かる。

 マルクスが「第一に」として考察しているのは、次の事実である。

 (1)AもBも労働者が受け取る貨幣は彼がすでに資本家に与えた価値に対する支払であるが、Aの場合は、労働者が受け取る貨幣は、少なくとも第二回目の回転以降は、自分自分が生産した価値の貨幣形態であるが、Bの場合はそうではなく、二年目からやっとそうなるに過ぎない。  (2)だからAの場合は、資本家は回転期間が短ければ短いほど、労働者を自身の生産物で働かせることができ、それだけ少ない費用で(可変資本額で)、大きな剰余価値量を引き出すことができる。  (3)だから生産規模が一定なら、回転期間の短さに比例して、前貸可変資本、よって流動資本一般の絶対量が小さくなり、剰余価値の年率(年間の総剰余価値量/前貸可変資本量)は大きくなる。だから与えられた前貸資本量では、再生産期間が短くなると、生産規模が大きくなり、剰余価値率が同じなら剰余価値の絶対量も大きくなる。例えば500ポンドの可変資本なら、年10回転するなら、生産規模は5000ポンドとなり、剰余価値率が100%なら5000ポンドの剰余価値量を得るのに、もし同じ可変資本量で年1回転なら、それがいずれも500ポンドに留まる。  (4)だからこれまでの考察で分かったことは、回転期間の相違に応じて、同じ生産的流動資本と労働とを同じ搾取度のもとで働かせても、必要な前貸貨幣資本はさまざまな大きさになるということである。つまり年間4000ポンドの流動不変資本と1000ポンドの可変資本を100%の剰余価値率で働かせる場合、一方が年10回転する回転期間でそれをやるなら、400ポンドの不変資本と100ポンドの可変資本、すなわち500ポンドの前貸貨幣資本でよいが、年1回転なら、結局、その10倍の5000ポンドの貨幣資本が必要である。

 結局、この「第一に」として述べていることは、年間の生産規模が同じでも、回転期間が長いと、前貸貨幣資本量が大きくなり、それが短いと小さくて済むという、貨幣資本の前貸量が回転期間の長短によって増減する事実を述べていると言える。以上は現行版によって考察したが、市原氏によると、この部分はエンゲルスの手は入っているが、論旨にはそれほど影響のない程度だとのことである。

2009年1月19日 (月)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その56)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

【93】

 〈いま, I ){すなわち資本家階級 I )}がmの1/2すなわち500を消費し,[46]他の半分を蓄積するとしよう。この場合には,1000v+500m=1500が1500(II)に転換される。IIではcは1430でしかないから,1500の額に仕上げるには285mのなかから70を追加しなければならない。こうして285m(II)から70が差し引かれて,215m(II)が残る。そこでわれわれは次のものを受け取る。

 b) I )5000c+500m消費ファンド1500)    II )1430c+70+285v+215m

 ここでは70m( I )〔すなわち70c(II)〕は直接にc(II)に合体されるので,これは,この追加不変資本を動かすための可変資本として70/5すなわち14を必要とする。したがってこの14がふたたび215m(II)から差し引かれて,201m(II)が残り,そこでこうなる。

 II )1500c+299v+201m(1)

 (1)表式展開はここで中断されているが,草稿69ぺ一ジでふたたびこの続きが展開されている。II 部門については,この第8稿に属するものとされている1枚の紙片に,関連する叙述が書かれているが,これは69ぺ一ジ第1パラグラフヘの最後の注に収めることにする。〉

 【ここからは、a)式をもとに、蓄積のための機能配列のための計算が行われている。まず以前のB式の場合と同じように、 I 部門の単純再生産の部分 I (v+1/2m)とIIcとの転換が考察されている。ただこの場合は、 I 部門の単純再生産の部分の転換のためにはIIcに不足が生じ、だからII部門での蓄積を促す例である。これはB式の二年目からのものがそういう条件であったのと同じである。  まず部門 I の蓄積率は50%と仮定される。すると部門 I の単純再生産の部分1000v+500mが1500(II)に転換されるとあるが、ここで〈1500(II)〉とは、1500の生活手段と考えてよいであろう。しかしIIcは1430しかないから、残りの70はIIの剰余価値285mから追加不変資本として蓄積に回される必要がある。だから285m(II)から70が引かれて215m(II)が残る。そこで得られるのがb)式である。  このb)式で、500m〉とあるのは、 I の蓄積分である。〈(消費ファンド1500)〉とあるのはすでに生活手段に転換されたものと考えるべきであろう。  次に〈ここでは70m( I )〔すなわち70c(II)〕は直接にc(II)に合体されるので〉とあるが、70m( I )〉というのは、 I の剰余価値500mの超過分であるが、現物形態は生産手段である。〈〔すなわち70c(II)〕〉とあるのは、IIの追加的な不変資本であり(現物形態としては生活手段)、〔 〕に入っているのは、すでに転換されてIIの追加的な生産手段になった状態を示すのであろう。そして70c(II)の追加不変資本を動かすためには、構成比1:5からその5分の1、14の追加可変資本が必要となり、それがIIで蓄積されるために、その残りの剰余価値215mから差し引かれて、201mが残るわけである。だからもう一度、この I の単純再生産部分の転換後の表式を書くと次のようになる。

b) I )5000c+500m消費ファンド1500)   II )1500c+299v+201m

 この表式そのものは、まだ蓄積のための機能配列になっていないことに注意する必要がある。というのは部門 I の蓄積分500mの計算が終わっていないからである。この500mも追加不変資本と追加可変資本に分けて配分され、追加可変資本の部分については、IIにおいて、それに対応した蓄積が追加的にされなければならないからである。それがすべて終わって始めて、われわれはa)式の蓄積のための拡大された規模での再生産を開始する機能配列の表式を得ることができるのである。しかし大谷氏の注記によれば、表式のこれ以降の展開はわれわれのパラグラフ番号でいうと、【103】に続くのだそうである。だから、われわれもここから直ちに【103】に飛んで、表式のこれ以降の展開を辿ることを優先するのではなく、マルクスの敍述どおりに、一旦、表式の展開を中断して、次のパラグラフの解読を続けることにしよう。そうすれば、どうしてマルクスは表式の展開をそのような離れた形でやっているのか、やることになったのかも分かるかも知れないからである。】

【94】

 〈(e(1)+[1/2]m)1対1500(II)の転換は単純な蓄積(2)の一過程であり,そのかぎりではもうかたづいている。とはいえ,ここでいくつかの独自性を述べておく必要がある。というのは,ここでは,(v+[1/2]m) I はc(II)によってではなく,cII ・プラス・mII の一部分によって補填されるのだからである。

 (1)「e」--明らかに「v」の誤記である。  (2)「単純な蓄積」--「単純再生産」の誤記であろう。〉

 【まず、確認しておかなければならないのは、ここで大谷氏は〈(e(1)+[1/2]m)1対1500(II)の転換〉の部分について、注記1で「e」のみを〈明らかに「v」の誤記である〉と訂正しているだけであるが、しかし〈(e(1)+[1/2]m)1〉「1」も、明らかに「 I 」の誤記であろう。あるいはこれはマルクス自身は「 I 」と正しく書いていたのを、大谷氏が「1」と見間違えた可能性があるようにも思える。しかし内容から考えれば、明らかにこれは「 I 」でなければならないであろう。  それだけを確認して、内容の検討に移ろう。ここからはマルクスの問題意識が徐々に変化しつつあることが分かる。つまり表式の展開よりも、もっと蓄積の諸条件そのものの考察、しかもその一般化された形での考察に移っているかに思えるからである(あるいは、ここらあたりに、マルクスが表式の展開を一時中断した理由もありそうである)。  つまりa)式の場合、部門 I の単純再生産の一過程である I(v+1/2m)の転換が、部門IIにおいて、蓄積をもたらすことを、いくつかの独自性〉として考察を開始しているのである。  ただこのパラグラフでは、 I(v+1/2m)がIIcによってではなく、IIc+IImの一部分によって補填されるということが指摘されているだけである。つまりこのパラグラフそのものは、先のパラグラフのa)式が何故、独自に考察される必要があるのかを示しているようである。  拡大再生産の表式の展開は、基本的にはB式で行なったが(さまざまな計算間違い等があったにしても)、それと類似した表式として改めてa)式を提示した理由は、要するに、部門 I の単純再生産部分の転換がB式では、IIの不変資本部分と相互転換を行なうことで済んだ(つまり I 〔v+[1/2]m〕=IIcの関係にあった)が、a)式の場合は、部門 I の単純再生産部分の転換のためにも、IIにおいて蓄積が必要なケース(つまり I 〔v+[1/2]m〕>IIcの関係にあるケース)として、マルクスは独自にその表式の展開を計算する意義を認めたということなのであろう。】

2009年1月12日 (月)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その55)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

【91】

 9000の年間生産物のいっさいが商品資本として資本家階級(ここではまだ産業資本家階級)の手にあり,可変資本と不変資本との一般的な平均比率が1:6(1)であるような形態をとっているものと仮定しよう。これまでの仮定に比べて,すでにv対cの比率が低下している。このような比率が前提するのは,1)資本主義的生産が,またそれに対応して社会的労働の生産諸力がすでに著しく発展しているということ,2)生産規模がそれ以前からすでに著しく拡大されているということ,3)労働者階級のなかに相対的過剰人口を生みだすような変化のすべてが発展しているということである。

 a) I )5000c+1000v+1000m
   II )1430c+ 285v+ 285m

 かりに次のようであったとすれば,

  I )5000c+1000v+1000m
 II ) 1500c+ 250v+ 250m

 この場合には,1000v+500m=1500が1500(v+m) I (2)と転換されるところである。

 (1)「1:6」--以下の表式ではじっさいには1:5になっている。
 (2)「1500(v+m) I 」--「1500cII 」の誤りであろう。〉


  【このパラグラフの前にエンゲルスは「2、第2例」(第21章「蓄積と拡大再生産」第3節「蓄積の表式的敍述」の)と表題を挿入しているように、ここからも蓄積のための新しい表式が提示されている。しかしエンゲルスが編集段階で採用しなかった部分も含めて全体の流れを考えてみると、これからの考察も、これまでと同様に、さまざまな諸条件にもとづく蓄積のための表式を考察している一環といえなくもない(少なくとも「第二例」などとはいえないことは確かであろう)。われわれはマルクスのこうした考察がひとまず終わった段階で、もう 一度マルクスがさまざまな諸条件を変えて蓄積のための表式を色々と取り上げて考察している過程で、一体何を模索しているのかを、全体を振り返って考えてみることにしよう(そうすればエンゲルスの編集の是非も明らかになるであろう)。しかし、とりあえずは、新しく提起された蓄積のための表式に取り組むことにする。

 まずここで注目すべきなのは、いわゆる拡大再生産の出発式と言われているものをマルクス自身はどのように理解しているかを示していることである。マルクスは、それは〈年間生産物のいっさいが商品資本として資本家階級(産業資本家階級)の手にある〉ものとして理解している。これは前年度一年間に生産された総生産物が商品資本としてまず資本家階級の手にあるものとして表示されているわけである。それが今年度の出発点にあるものである。すなわち商品資本の循環W'-G’-W…P…W'の最初のW'こそが、それなのである。だからこそわれわれはそれを「出発」式というわけである。そしてこれから産業資本家階級は彼らの手にある商品資本をその目的に応じて流通に投じて実現(Gに転化)し、その貨幣(資本)で今年度の拡大再生産を開始するに必要な生産手段や労働力を購入する(あるいは彼ら自身の個人的消費のための諸手段を購入する)わけであるが、そのための諸商品資本の転換が最初のわれわれの考察の対象になるわけである。その過程は商品資本の循環のW'-G’-Wの過程であり、ここで流通期間は通常ゼロと仮定されている。そしてその結果得られたものは、新たに拡大された規模での再生産を開始するに必要な機能配列にもとづいた総生産資本(+消費ファンド)を表す表式というわけである。

 次に注目すべきなのは、マルクスが可変資本と不変資本との一般的な比率を1:5と仮定し、それについて〈このような比率が前提するのは,1)資本主義的生産が,またそれに対応して社会的労働の生産諸力がすでに著しく発展しているということ,2)生産規模がそれ以前からすでに著しく拡大されているということ,3)労働者階級のなかに相対的過剰人口を生みだすような変化のすべてが発展しているということである〉と述べていることである。再生産表式そのものは現実の再生産過程から考えれば極めて抽象的なものではあるが、しかしそこで示される有機的構成の違い等は資本主義の一定の発展段階を表し得るとマルクスは捉えていることである。今回の表式を最初のB式と比較してマルクスが指摘していることについて、少し考えてみよう。まずB式をもう一度掲げておこう。

  I ) 4000c+1000v+1000m=6000              
                                合計=9000
(B式)
 II ) 1500c+ 750v+ 750m=300

 まずB式と今回提示されたa)式とを比べてみると、有機的構成はB式の1:3[1/7]( I =1:4、II=1:2)に対して、a)式は1:5と高度化している。つまり〈1)資本主義的生産が,またそれに対応して社会的労働の生産諸力がすでに著しく発展している〉ことが分かるのである。また資本総額は9000で変わらないが、 I 、II両部門の構成は、B式は6000:3000なのに対して、a)式は7000:2000と部門 I が部門IIに比べて大きくなっており、生産手段の生産部門の拡大がみられる。これは〈2)生産規模がそれ以前からすでに著しく拡大されているということ〉を示すものであろう。また全体の可変資本総額はB式は1750vなのに対してa)式は1285vと小さくなっている。資本総額が変わらないのに可変資本が小さくなっているということは〈3)労働者階級のなかに相対的過剰人口を生みだすような変化のすべてが発展しているということであ〉ろうと考えられる。

 ところでマルクスはa)式を提示したあと、かりに次のようであったとすれば〉として、別の表式を提示している。この新たに提示されたものは資本総額は9000と変わらないが、IIの有機的構成が6:1と高くなっている分、全体の構成も高くなっている。ただこの表式の場合、 I(v+1/2m)=IIcがなりたつことを確認しているように、基本的にはB式と形式上は似たものといえることができるかも知れない。その意味では、マルクスが改めて拡大再生産表式の展開を考えている問題意識に適合しなかったと推測するこができる。】

【92】

 〈もしも〔IIが)1428[4/7]c+285[5/7]v+285[5/7]mであるならば,II(1)でのv:cと同様に,〔IIでのv;cは〕正確に1:6(2)となるが,分数部分を避けるためにcは1430であるとする。したがって,xxxx(3)そうでなければつねにこの比率が堅持される。ついでに言えば, I におけるv:cの比率とII におけるそれとが異なりうるのは, I およびIIの内部で個々の事業部門におけるv:cの比率がさまざまでありうるのと同様である。このあとのことが, I とIIとのそれぞれについて平均比率が出てくることを妨げないのと同様に, I とIIとのそれぞれにとってのこの平均構成の相違は,全体を取ってみれば,これまた I およびIIをまとめたものについての,つまり社会的総資本についての平均比率が出てくることを妨げるものではない。たとえば,c I )が4200(4),cII)が1600であり, I でのv:cの比率が1:6,IIでのそれが1:4であれば、各100のvについてはc( I およびII)は500(5)である。というのは, I )が2400c+400vであり,II)が1600c+400vであり,したがって2400c+1600cすなわち4000cにたいして800vであり.全[45]体についてはv:c1:5だからである。(6)

 (1)「II」--「 I 」の誤記である。
 (2)「1:6」--「1:5」とあるべきところである。
 (3)原文ではここに2語あるが,はじめの語は下線に覆われてはっきり見えない。最後はselbesのようである。次の語は後半がtrittのように見えるが,結局読めなかった。2語とも消されているのかもしれない。
 (4)「4200」--一度書いた数字の上に重ね書きをしてこの数字にしている。しかし,すぐあとの叙述からみると,「2400」のつもりだったのではないかと思われる。
 (5)「500」--草稿では「5%」にしか見えないが,内容から考えてこのようにしておく。
 (6)このパラグラフは,前パラグラフの表式の右に書かれており、その左側には縦線が引かれている。この縦線は表式との区切りのためのものであろう。〉

 【このパラグラフは大谷氏が注記6)で書いているように、前パラグラフの表式a)の横に書かれたもので、表式a)を説明するもののようである。IIのv:cは正確にいうと、1:5になっていないが、分数部分を避けるために、そうしたのだ、ということ。だからII式では、今後の計算においては、近似値として1:5の比率が堅持される、ということ。 I とIIとのv:cの比率が異なり得るのは、 I やIIの内部で個々の事業部門で異なることと同じだ、ということ。だから I ・IIのそれぞれのv:cの比率はそれぞれの部門の平均比率だということ。さらに I とIIとの平均構成の相違は、全体をとれば社会的総資本についての平均比率も出てくるということ。そして、それ以下の部分は、上記の説明を一つの例で補足するものであるが、数字を正しく書き直すと、次のようになる。

 〈たとえば、c I )が2400、cII)が1600で、 I でのv:cが1:6、IIでのそれが1:4であれば、各100のvについてはc( I およびII)は500である。というのは、 I )が2400c+400vであり、II)が1600c+400vであり、したがって2400c+1600cすなわち4000cに対して800vであり、全体についてはv:c1:5だからである。〉

 ここで若干、分かりにくいのは〈各100のvについてはc( I およびII)は500である〉という部分であるが、これは社会的総資本の平均構成を述べていると考えるべきであろう。つまり社会的総資本の平均構成は、1:5だから、100のvに対しては(vの値は I もIIも同じだから「各100のv」という表現を取っていると考えられる)、 I のcとIIのcを合わせたものは、500になるという事実を述べているだけである。それ以外は特に分かりにくいところはないであろう。】

 

2009年1月 6日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その54)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 

【88】

 〈II は〔追加不変資本として〕 I (m)から100を買い(1),それに〔II(m)から〕20vを追加する。(2)そこでIIは1900c+380vとなる。(それゆえ,640mIIは620(3)mに縮小される。〔)〕

 (1)これは,さしあたり残っている265m( I )から買う,としなければならないが,そうすると I には165mしか残らないことになる。ところがすぐあとに見るように,マルクスは265mを I の蓄積分と考える。もしそうなら,この100は I から買うことができないはずである。
 (2)この120m(II)の蓄積の大きさはIIが任意に取ったことになっている。それではこの例ではIIの蓄積率が I のそれを決定しているのかというと,そうでもない。このあとで, I での蓄積によってIIでさらに蓄積をしなければならないことになっているのである。
 (3)IIは I から100の生産手段を買うだけで, I に100(m)の消費手段を売らない,というのでないかぎり,640m(II)から20vだけでなくて100cをも引き去らねばならず,そうすれば,「620m」ではなくて「520m」となるはずである。このあとも「620」にもとづいて計算が行なわれる。〉

 【このパラグラフは、大谷氏が注記で指摘するように、マルクスの混乱ぶりを示すだけのように思える。マルクスは部門IIの蓄積を恣意的に設定しているが、しかしこれまでのやり方を踏襲するなら、単純再生産の構成部分の転換を考察したあとは、部門 I の蓄積分の不変資本と可変資本との構成比を考えて、その蓄積のための配列を計算すべきであろう。だからこのパラグラフそのものが不要なものといわざるをえないのである。だからこのパラグラフは、これ以上の考察は省くことにする。】

【89】

 〈|65| I にはまだ265mがある。(1)これは212c+53v(2)に転化されなければならない。(後者の53はIIから買わなければならない。)IIは, I でまだ現物で在庫していた53c I (3)を充用するために,10[3/5]vをも追加しなければならない。したがって,まだ存在している620m(II)から63[3/5]が差し引かれて,556[2/5]が残る。(4)

 (1)前出の注に記したように,II が I から100mを買ったのだから,165mしか残っていないはずであるが,マルクスはその100mとは無関係に265mを I での蓄積ファンドとする。
 (2)c:vを4:1にしてしまっている。
 (3)「53c I 」--「53v I 」の誤記であろう。
 (4)ここではふたたび, I での蓄積額によってII の蓄積額を決めている。〉

 【本来なら、【87】パラグラフから、このパラグラフに直接繋げて考えるべきであろう。われわれはこれまでもやってきたように、マルクスの計算間違いや勘違い等はすべて正しいものに訂正して考えていくことにしたい。大谷氏が注記1)で指摘していることはこの際無視しよう。しかし注記2)で述べていることは無視できない。ここはやはり既存の有機的構成比である5:1に修正すべきであろう。そして上のパラグラフを正しく書き直すなら、次のようになる。

 〈 I にはまだ265mがある。これは220[5/6]c+44[1/6]vに転化されなければならない。(後者の44[1/6]はIIから買わなければならない。)IIは, I でまだ現物で在庫していた44[1/6]vI を充用するために,8[5/6]vをも追加しなければならない。したがって,まだ存在している640m(II)から53が差し引かれて,587が残る。〉

 われわれは【88】パラグラフを無視して考察を続けよう。そうすると265m I というのは部門 I の蓄積ファンドである。それを I の有機的構成比5:1に分割すると、220[5/6]mが追加不変資本に、44[1/6]mが追加可変資本に転化される必要がある。そのうち追加可変資本は部門IIcから補填される必要がある。だから部門IIでは44[1/6]が追加不変資本として蓄積される必要があるが、そのためには同時にIIの有機的構成比5:1にもとづいて、8[5/6]が追加可変資本として蓄積される必要がある。だからIIの蓄積分は44[1/6]c+8[5/6]v=53であり、これがIIの剰余価値640mから差し引かれ、IIの資本家の消費ファンドとしては587が残ることになる、というわけである。】

【90】

 〈したがって,いまや次のようになる。

  I )4135c+212827v+53(+消費ファンド1800)
 II )1953c  +370[3/5]v(1)(+556[2/5]消費ファンド)

 したがって,

  I )4347c+880v
 II )1953c+370[3/5]v

 が,再生産が行なわれれば,

  I )4347c+880v+1320m(2)
 II )1953c+370[3/5]v+656[1/3](3)

 をもたらす。(4)

 (1)以前の表式でも似たことがあったが,ここでは100cの追加不変資本にみあう20vの追加可変資本が忘れられている。それを含めれば「390[3/5]v」となる5ところである。続く次年度の表式もこの20vを抜かして構成されている。
 (2)「1320m」--最初の剰余衝値率を前提すれば,「1317」なにがしになるはずである。
 (3)「656[1/3]」--最初の剰余価値率を前提すれば,「634」になるはずである。
 (4)この下に「Wenn」という一語が書かれており,消されていない。その下に,青鉛筆によって横線が引かれており,前出の注に記した--エソゲルスのものと思われる--抹消線がこの横線まで引かれている。〉

 【このパラグラフも先の正しい数値にもとづいて訂正した表式にもとづき、正しく書き直しておこう(但し一部追加して記入した部分もある)。

 〈したがって,いまや次のようになる。

  I )4135c+220[5/6]c827v+44[1/6]v(+消費ファンド1800)
 II )1844[1/6]c  +368[5/6]v(+587消費ファンド)

 したがって,

  I )4355[5/6]c+871[1/6]v
 II )1844[1/6]c+368[5/6]v

 が,再生産が行なわれれば,

 I )4355[5/6]c+871[1/6]v+1304[289/2481]m=約6531
                                                         合計約9400
II )1844[1/6]c+368[5/6]v+655[19/27]   =約2869

をもたらす。〉

 詳しい計算過程の説明はもはや不要であろう。マルクスはこの結果を書いただけで、それについて何の考察も行っていない。それなら、そもそもこの剰余価値率が変化した拡大再生産の表式は何のために提示し、検討したのであろうか。マルクスはこの一連の計算で何を探ろうとしたのであろうか。
 まず分かったことは、剰余価値率が変化した場合でも、拡大再生産の表式の計算は可能だということである。最終的に得た表式においても、さらに次年度の蓄積のための配列を計算しようと思えば可能である。確かに数値が端数になるから計算としては複雑になるが、しかし表式そのものは拡大再生産の配列になっているからである。
 次に蓄積資本額は I 、II合わせて、 I 265m+II53m=318であるが、その結果、部門 I では約331、部門IIでは約69、合計約400の商品資本総額の増加が見られた。これはわずかな増加(約4.4%)といえるが、それは I 、IIの蓄積率が低いからである( I は21%余り、IIも8%余り、全体では17%弱)。つまり剰余価値率(搾取率)は高いが、蓄積率が全体に低く、労働者から搾取した剰余価値のほとんどを I 、IIの両資本家たちは彼らの消費に費やしてしまっていることをこの表式は表しているといえるであろう。こうした資本主義的生産というのはいまだ十分発展していない段階のものと考えられるかも知れない。

 さて,エンゲルスはこのパラグラフの最後まで抹消線を引いて、編集段階で不採用としたのであった。こうしたエンゲルスの措置は、この部分のマルクスを敍述を見る限り、やはりやむを得ない措置であったといえるかも知れない、と今の時点での判断を下しておこう。
 ただわれわれはエンゲルスが採用していない部分に少し拘泥することによって、マルクスが単純再生産の表式をベースに、それをどのように加工してさまざまな目的にあった表式を作ろうとしていたかをある程度は類推することができたのであった。それはこの間の分析の一つの成果では無かったかと思っている。】

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